日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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3月25日 十字架への道

ヨハネによる福音書 12章12節〜19節 阪井牧師

 年度替わりの一週間前が受難週である。エルサレム入城から主イエスは神の栄光に仕える受難の歩みをされだ。大勢の群衆が「ナツメヤシ=口語訳は棕櫚」の枝を持って迎えた。棕櫚の主日の根拠となった。叫び続けた言葉「ホサナ=万歳」「主の名によって来られる方に祝福があるように、イスラエルの王に」は奇妙だ。ここに、この福音書の意図を見る。巡礼者を迎える祭司の言葉を群衆が叫ぶ奇妙さ。主イエスの意図と違う「イスラエルの王」への声だ。ほかの福音書と逆で、それから「ろばの子に乗っ」ている。王の真実の姿をゼカリヤ9:9から示された。凱旋の軍馬に、黙々と荷を負う子ロバ(苦難の僕)が真のメシアの姿である、と。同時に「わたしの時がきた」ことを示している。十字架に向かう時として人々の前に姿を現わされた。その時に居合わせても、弟子たちには、イエスが栄光を受けられるまで分からなかった。「十字架への道」は、人々の歓声や期待に応答するものではない。人々のそれらは、必ず「神の子を死に至らせる」ことを想う。「イスラエルの王」は確かに来られるが、「お前の王」としてこられる。だから「恐れるな」と言葉をかけておられる。イエスご自身が、信じる者のメシアとして「一切の重荷」を引き受け、神との関係を保ち続けることへと執り成しをしてくださる約束の言葉である。受難週の最初の日になるこの「棕櫚の主日」に主イエスが入城される時、あなたは、どう喜び迎えるのかを問われる。群衆の一人なのか?

3月18日 奮闘の中の眠り

ヨナ書 1章1節〜16節 阪井牧師

 物語としては記憶に残る運びだ。何しろ、人間が海に投げ込まれ、大きな魚に飲み込まれ、吐き出される話である。物語には、語りたい真実が含まれている。容器(物語)だけを楽しむのは惜しい。真実(中身)への接点が失われるのは惜しい。聖書は、神と人との関係を扱っているのだ。歴史と状況を含みながら、真実を示す手段なのだ。預言者ヨナ(鳩の意味)が神の求めに背き逃げた。派遣先の情況が告げられることを受け取らないとの判断をしたのだろう。「聞く耳」を持たない所(相手)に無理な要求伝達だと判断したのだ。実に理性的なヨナと言える。だが、預言者本来の姿ではない。遣わされる使命に応えるのが鳩(ヨナ)=預言者だ。派遣の結果責任は鳩(ヨナ)にはない。物語の真意を想う。鳩(ヨナ)は遣わされる務めを持つ。能力、性格、努力がその理由ではない。相手の情況や反応を考慮した派遣責任は求められない。最大責任は務めを果たすことだけだ。神の意図は、容れ物ではなく、その中にある真実を伝えることだ。ヨナはその務めを逃れて反対方向に旅に出た。一時的には自分の有効判断に見えるが、海のシケがその旅を妨げるだけでなく、同船者の命も危険にさらす。波に翻弄される舟の底で眠っているヨナの姿は、しらばくれる自分(教会)の姿を想う。召された理由は、神の言葉を盛る器としての使命(=務め)を負うことだ。主イエスの受難は、全ての責任を自ら担うためであることを感謝したい。

3月11日 主は見ておられる

マルコによる福音書 12章38節〜44節 阪井牧師

 今日は、震災後7年を経た日だ。今なお、原発再稼働の動きは進む。事故に懲りないのは便利生活か経済故か。本当の必要は何か。「主イエスは見ておられた」との言葉が気になる。権力者、地位優位の側だけでなく、非力、貧しさ、低き小さき者をも見ておられる。「見抜かれている」であろう。律法学者たちは「人の目」に動く。警告はイエスを取り巻く人々に、教会の人々にも向けられる。指導を受ける人への責任を問う記事はイエスの受難週のことだ。羊飼いと羊の関係を示す言葉(ヨハネ10:14、16)に想いをする。道に迷い、誘惑されることが起こるのは、羊飼いの声から他に心を向けるからだ。時間、能力、経済力があることもあろう。貧しく、力ない、地位なき「やもめ」の礼拝を見ているイエスがそこにいる。その様子を群れの中から弟子たちを呼び寄せて語られた。そのまま、この教会と重なる。生活の中に共におられ、数字の世界に、質を見ている。神の価値付けを意識する。思い切りの良さ、生活の犠牲でもない。このイエス・キリストにある事実を神がご自身の責任で引き受けられることへの信仰的応答を「見ておられた」。人は悲壮や、狂信への批判の目で見ることもある。しかし、イエスはこの「やもめ」が感謝と喜び、祈りによる礼拝の在り方を見ておられたのだ。そして、「はっきり言っておく」は、重要で厳粛な言葉かけであり、大勢ではなく、主の召しに応えようとする信仰の決断に生きる人への温かさを受ける。

3月4日 キリストの代価、自由

オバデヤ書 1章1節〜21節 阪井牧師

 旧約で分量の最小で目立つ書だ。<主の僕>・<主に仕える者>の意味以外は不明。アモス書の最後に「エドム」に関する記述ゆえに、この場所を占めていると説明がある。エドムはイサクの双子である兄エサウの子孫、イスラエルはその弟ヤコブの子孫である。イスラエルとエドムは祖先が同じ同族なのだ。でも、両者の仲は最悪。考えられる理由は、過去の歴史に関係する、と。長子の権の搾取(創世記25章)、神の祝福を軽んじた(創世記36章)などに加えて、イスラエルが(攻撃侵入)被災の時、エドムは冷酷な対応をした。異教の民に協力した…など。神の目には、人の届かない場所にまで確かに映っている、と知る。人のこころの中まで見られる方だから傲慢な心が、神拒絶への道の入り口になっている、と。神の裁きは、神への罪(背き)への判断基準にある。人間の限界に苦闘したのはパウロであった(ローマ7:24)。そしてまた、宗教改革者のルターであった。ルターの解決がパウロの言葉(ローマ1:16〜17)であったことは深い。神の裁きは「神を神とする生き方」を求めることだ。言葉を変えると、自己研鑽と努力に人の目は惹きつけられる。それが救いにあずかることの条件ではない。どこまでも人は神に創られ(命を与えられ)、生かされている。イスラエルもキリスト者も神の前に裁きを受けることから逃れることはできない。イエス・キリストの十字架による贖いにこそ、全ての人の本質があり、自由の根拠がある。神の子の<いのち>を真実に受ける者として生きよう。

2月26日 木を見て、森を見ず

マルコによる福音書 12章35節〜40節 阪井牧師

 まもなく終わる2018年のスポーツ祭典(オリンピック)は盛り上がった。主イエスを都に迎え入れるエルサレムの過越祭も興奮し賑わっていたと想う。神殿境内が賑わう一つの群の中心に主イエスがいる。イエスへの試みも問いも今やない。今度は、イエスから問いを出した。その問いが<森>であった。人はそれを<木>として受け取って、「ダビデの子ホサナ=キリスト」と歓声を上げた。ローマに支配されているイスラエルが、政治的に解放されることを熱く願ったのだ。解放は創造主なる神に向かうものだ。神の民として生きる使命への解放である。律法学者は、律法の真の意味を教え・伝える務めがあり、誤った求めや願いに対処すべきである。その精力が安息日の行動範囲や清いと汚れの解釈などに歪曲し、神との関係から遠ざける働きに陥っているのだ。教会の私たちにも問われているようだ。教会の真実は、聖書を通して神に向かって生きることを、世に向かって正しく伝えることだ。世と人とに和らいでいることで、その真実はどうなっているのか、との問いである。「長い衣を着て歩き回る」のは、その容姿が認められても、内容は別であることを想う。動きやすく便利であることと、本来の務め、キリストの福音、み業を伝えることとは違うものなっているとしたら残念である。「広場での挨拶」は社交になり、<神の言葉に仕える>真実が失なわれる。十字架の死を主イエスがその本意なのだ。苦難の僕の歌イザヤ53章2,3節を想う。

2月18日 篩いに掛け植え付ける

アモス書 9章1節〜15節 阪井牧師

 本来、旧約聖書の「その日」とは、神の裁き・審判の時をさす。預言者アモスは神の側から語っていた。しかし今、神から離れて神の行為を見ている。そして、ここでの「その日」とは、惠みと祝福の与えられる時を意味する。つまり、神の裁きは、希望に向かうものとして語られる。「祭壇の傍ら」は、神が民を顧みる聖なる所、赦しと慰め、執り成しの場所の筈が、滅びと消滅を行う方として、主がそこに立っている。神の家から裁きが始まることを想う(Tペトロ4:17)。神は一人も滅びることの無いことを願う方である。神の耳、目、手の及ばないと、仮に人が思っても皆、神の裁きの座に立つのだ。神から関係を断ったつもりでも、神の働き、み手の業は行われている。秩序が失われて見えても、その現実をもって裁きは進むことを見ている。どこに逃れても神の支配が及ぶのだ。認めなければ、存在しないとする愚かさを警告している。イスラエルは神の民、裁きの対象で無いと考えることは間違い。他の民も神の導きにあるのだ。神の民の意味することは、真の救いが神にこそある、と世界に示すためだった。イスラエルは、神によってこそ、この世に生きる者で、関係なければならない民なのだ。裁きや災いがない、と想っているところにも裁きが徹底してこそ、残された者への希望、惠みが与えられるのだ。裁き(篩い)を経て、惠みと希望(植え付け)が歩み始める「その日」となる。神にあって生き歩んだ民となろう。

2月11日 聖書が示す愛

マルコによる福音書 12章28節〜34節 阪井牧師

 受難節(2/14〜3/31)が始まる。その間から<復活の喜び>の日曜日を除くと40日となる。この数字の根拠は何か。幾つかの説を見る。@ノアの箱舟物語で40日の降雨。A出エジプトの旅物語の流浪40年。Bイエスの荒れ野の誘惑の記事。いずれも、厳しい現実に向かい合う数字が共通する。教会によっては、自己訓練の期間、バプテスマ準備期間、さらに喜びの行事を控える機関とした。さらに、この聖書個所は、イエスの受難物語の部分に位置付けられている。また、34節の説明から<イエスとの論争>の締めくくりでもある。ファリサイ派の人たち、サドカイ派の人たちとの論争に続き、ここは、律法学者との質疑である。今までの経過を直接見、聞きして、改めて主イエスに尋ねている。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」は意外である。律法の専門家が専門外のイエスに尋ねている。613もある掟の数々の説明や解釈とは違う掟への問いに、主イエスは、第一は申命記6:4〜5からの言葉、そして第二はレビ記19:18の言葉から答えられた。第一があって第二があることを意識する。掟の全てに対応できない現実を知る者の問いに答えておられる。その時、「聞けイスラエル」から始まるイエスの言葉、「思いをつくし」の追加に注意したい。自分の行為が全てではない。み言葉を聞くことの重要さを想う。神にあって今生かされている喜びへの招きを覚える。信仰は、聞き、受け止め、その言葉に生きるにあることを想う。

2月4日 聞くことの飢えと渇き

アモス書 8章1節〜14節 阪井牧師

 「一籠の夏の果物」と「終わり=神の裁きを意味する」は語呂合わせになっている。その真意の結果は、「神殿の歌い女が泣きわめき、しかばねはおびただしく至る所に…」との主の言葉で始まり、結びは、「声を出すな」である。神のみ業に対し、人は口を差し挟むな、は深い。「もはや、見過ごしにできない」のは、神の我慢の限界を意識させる。この幻は南ユダの一農夫アモスに示されたもので、彼には関係ないと思える。主なる神の裁きが<王の聖所>や<街なか>の政治と経済に力ある者から起きることが示めされるためか。彼らの、神への背反に対する裁きが起きていることを示す。彼らの権限や能力発揮が庶民の生活を追い詰めている図式を見る。それは、現代日本の大企業の談合や見返りを求めて正義を歪める商いに対し、派遣の働き人、ネットカフェに寝泊まりの生活を続ける社会状況に当てはまる。北イスラエルは経済的に繁栄し、市場は賑やかで活気満ちているようでも、神の目には、不正や悪に満ちて弱い者や貧しい人にただ厳しい現実は確認されている。裁きは神の目によるものだ。神が創られた世界の秩序に混乱が起きことに誰も免れない。すると、神のいのちの言葉が語られていても、聞くことが出来ない。これが「主の日」だ。人が人と生きられない社会「=気を失う」が神の民の社会であろうか。神を神とするところにこそ「人が喜び生きる」世界がある。人間性や人柄でなく、神の言葉に与ることだ。

1月28日 生きている者の神

マルコによる福音書 12章18節〜27節 阪井牧師

 <問いかけ>の返事に大きい関心をもつ場面をファリサイ派の人たちにん続いて(13〜14)、この個所はサドカイ派の人たちが問いかけをする。そこには、心からの求めはない。復活を否定しているサドカイ派の人たちの<問いかけ>も、自分を変えるためではない。自分たちの現状を保つ正当化であり、主イエスを陥れて社会的優位を手に入れるためであろう。方や、主イエスは十字架への直前の時である。自分の命を懸けておられる時なのだ。旧約聖書(申命記25:5〜6)を引用して、「もし…」を問うた。問う者の心の内を知る主イエスは、叱ることなく真正面から応えられた。「聖書も神の力も知らない」から「思い違い」をしているのではないか、と。羊が羊飼いから「迷い出て離れる」場合の言葉と同じだとある。わざわざ離れるのでなく、自分の思いに熱中していて飼い主を見失う、あの言葉なのだ。迷い出ていることは分かっても、自分からは群れに帰れない羊を想う。知識として聖書を知っても、その言葉に生きていないことの指摘と受け取れる。自分の力量で聖書の理解をする限り、聖書を知らないのと同じである。神の(霊の)導きを受けなければ分からないのが聖書である(参照使徒言行録8:26以下を参照)。聖書の「府はアブラハム、イサク、ヤコブの神である」とは、今も働いて、関わり続けておられることを示している意味を持つのだ。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」恵みを確かにしたい。

1月21日 神との繋がりに生きる

アモス書 7章1節〜17節 阪井牧師

 ユダヤの中心エルサレムより北のガリラヤ地方でイエスの福音宣教が始まり、主告白はさらに北方のフィリポカイサリアへの旅先であった。「バルヨナ・シモン」は<シモン・ペトロ>とイエスから呼ばれるのはその時から。そして聖霊降臨のすぐ後、エルサレムの群衆の前でペトロは、「この方こそ救い主」と声を張り上げた(ペトロの説教)。そこに旧約聖書(ヨエル3:1)を引用をした。「〜若者は幻を見、老人は夢を見る。〜」と。それは幻覚や自己の願いではなく、神の意志が示される霊的な事柄である。示されたアモスは特別な人とでも、力ある分けでも無い。神の働きかけがその人に起きたのだ。第一の幻は<いなご>による牧草被害の裁きである。家畜の餌が欠乏、そのため飼う者の生活が行き詰まる。第二の幻は<焼き尽くす火>による神の裁きである。神は世界を創造し、終わらせることのできる方であることを示している。第三の幻の裁きは<下げ振り>が真ん中に下ろされるのだ。<下げ振り>はアモスである。神がその糸の端を握っている。ベテルの祭司アマツヤは北の王に報告し、権限を行使してアモスへの言葉は当然だ。秩序を維持する側の務めである。しかし、アモスは実に冷静な反応をしている。南の農夫似すぎない人が、北の祭司に向かって「今、主の言葉を聞け」には驚く。神に根拠を持つ<生き方、歩き方>は挑戦的な脅しにも動じていない。信仰者の場合も同じで、本人の実力では無い。主に繋がる自覚信仰に動じない根拠があることを想う。

1月14日 立つべき一点

ヨハネによる福音書 1章29節〜34節 阪井牧師

 降誕節後第3主日となるこの日、ヨハネが証人として登場する記事を学ぶ。その詳細はヨハネ福音書1章に「神から遣わされ」、「光について証し」する人で、「彼は光ではなく」「すべての人が信じるようになるため」とある。その当時、人々の関心<メシア待望>が高まっていた中で、ヨハネは<悔い改めのバプテスマ>運動をしていた。神の国の民になるこの<しるし>をユダヤ人以外だけならまだしも、既にその約束を受けているユダヤ人にも迫るものだった。政治と宗教の主導者たちは、これを看過できず、ヨハネに「あなたは誰?」を問わせた。「メシアでもエリヤでもなく、あの預言者でもない」との返事に対して、改めて「それなら、なぜバプテスマを授けるのか」を問うた。これはヨルダン川の向こう側ベタニアでのこと。その翌日、ヨハネはイエスが来られるのを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊、わたしの後から来られる、わたしにまさる、わたしより先におられた」と言ったのはこの方のことである、と。「この方こそ神の子である」と証ししている。証しをする人として神に遣わされたヨハネはその務めに徹する。自分の主張や能力或いは経験からの証人の務めでは無い。人の世の評価や情況の好機ゆえの証しでは無い。どのような時にも、主から遣わされた者としの務めに就いている。私どもの場合も同様であろう。能力や経験が主に遣わされる理由では無い。主の霊がともに働いて用いられることにある。栄光を喜び、用いられたい。

1月7日 扉は開かれている

詩編 19章2節〜15節 阪井牧師

 「世の光」としてイエス・キリストの誕生を喜び祝ったクリスマスでした。その方を探してマタイ福音書は東方からの博士たちが、ルカ福音書は野宿している羊飼いたちは捜し出し礼拝した。これは旧約イザヤ8にある言葉の実現だとの説明「暗闇に…大きな光」の表現を意識する。救いから外れ、遙かに遠くにいるはずの人々のほうが、<確実に救いに与れると自負する>ユダヤの人々より早く、救い主(キリスト)に出会ったことを物語っている。詩編19は、「神の栄光」がすでに示されていることを歌う。<神=主の栄光とは何か>を考える。出エジプト記33:19に、モーセが「どうか、あなたの栄光をお示し下さい」と訴え、対して「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」。さらに「あなたはわたしの顔を見ることはできない。〜わたしの顔を見て、なお生きていることはできない」との記事がある。これは、主の栄光を人が求め、探し出すのではなく、すでに示されていることを意味する。自然の天体、律法(恵み・憐れみ)を通してすでに示されているのだ、と。イエスの誕生はそのことを受け取る恵みの時である。思想、知識、能力の事柄ではなく、神に「いのち」を与えられ、「生かされている」事実を受け取ることから自分の「人としての歩み」が始まる。前に進むことができる。方向さえ間違わなければである。


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新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
       (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988


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