日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月30日 忍耐は生まれる

ヤコブの手紙 1章1節〜11節 阪井牧師

  ギリシャ語を日常の言葉として使っているユダヤ人キリスト者(クリスチャン)が書いたと言われる。 イスラエルの地から離れ、キリスト教信仰を保とうとするために困難を余儀なくされているユダヤ人を受取人(読み人)に見立てている。 いかに信仰を具体的な生活の中で実現していくかをテーマにしている。 信仰は結果として行為(倫理や道徳)に現れる。 しかし、人はその逆を見る。行為が信仰に等しいと。 旧約の時代も主イエスの時代にも同じである。 救いがそれにかかっていると見る。 律法学者やパリサイ人たちは真剣にまた熱心に律法を守った。 適当にしていたなら主イエスとぶつかることはなかったであろう。 行為が救いと結びつくとき信仰は目に計られる。 裁きが生まれる。 信仰は聖書に示されるい。 聖書は信仰を持って書かれている。 したがって信仰を持って聖書を読む時、 生きる力、希望、夢、幻、いのちを受け取る。 神は人生を生かし、生きるものとした。 そして人は神の呼びかけに応えて生きる時、 まことに人となり生きる者となる。 神にあって人は生きる。 そこに必要な者一切は神によって与えられる。 それを人は逆を発想する。 一切を持てば神に向かって生きる、と。 その熱心とその真剣さが神から人を離す。 どんな人に主イエスの言葉が真実を持って受け取れたか。 罪人、病人、弱く軽んじられた人であった。 自分が神に生きることを求められている存在と信じるからであった。 信仰に立つ歩みを、人にではなく神に向かってしたい。

12月23日 今日、あなたのところへ行く

ルカによる福音書 19章1節〜10節 阪井牧師

 主イエスがメシアとして来られた。 喜び記念するクリスマスを共にに祝いたい。 聖書の「ザアカイの物語」はルカ福音書にしかない。 物語の置かれている個所はエルサレムでの十字架に向けて旅される途中、 しかも歴史的に良く知られた(ヨシュア6章)エリコの町の話である。 群衆に取巻かれてイエスが町にきた。ザアカイは彼を見たくても適わない。 金持ちだが背が低かった、とある。 税金を集める責任者(徴税人の頭)はローマ帝国の権力と経済力を持つ。 だが福音の前に貧しい人であった。 「物がないのが貧しいのではない。欲しいと思うことが貧しいのだ」と言う人がいる。 ルカ6章20節「あなたがたの貧しい人はさいわいだ。神の国はあなたがたのものである」との言葉が想起される。 イエスの前にやってきて永遠の生命を求めた話は「富める青年」とマタイが説明し、ルカは、役人と説明する。 イエスがザアカイを「アブラハムの子」と言った。 れっきとしたユダヤ人、神の民であることを示している。 木に登ってイエスを見ようとした。この下を通りかかったイエスは見上げて語りかけた。 少しでも高みに登って、主を見ようとする彼に「きょう、あなたのところに行く。下りてきなさい」 の言葉は今日の私共に語りかけられたものではないか。 メシアは私共の足よりも下に立っておられる。 救い=永遠の生命を高みに探すのではない。 足よりもさらに低いところから「おりてきなさい」の声を聞くことにかかっている。 恐れないで従おう!

12月16日 マリアの賛歌

ルカによる福音書 1章39節〜56節 松本先生

 主イエスの母マリアは降誕の時、イエス12才の宮詣(ルカ)に登場し、 カナの婚礼(ヨハネ)の場面と群衆に囲まれている所にイエスの兄弟たちと(マタイ・マルコ・ルカ)そして十字架の場面くらいである。 ルカ福音書はイエス誕生の物語の前に先触れヨハネの誕生物語を書いた。 両者に共通しているのは告知がある。 自分に起こっていることを理解できるのは、同じ告知を受けた人であるとの思いから、 大急ぎでエリサベに会いにいく。祝福された人であることを彼女から聞かされる。 「主の母となる選びを受けた人」「主の言葉が成就すると信じた人」は、 「何と幸いなことでしょう」と。 マリア自身が力を与えられ、主の栄光を称えるこの歌がマリア賛歌(マグニフィカート)である。 「なきに等しい者をこころにかけてくださった」主をたたえ、あがめる、とマリアは歌う。 不可能を可能にする神を畏れる素朴な少女の歌は過激(革命的)である。 いま高く、富んで満ち足りている者を引き下ろし、貧しく飢えている者を主は高くされると、 ローマの権力にへつらい生きる弱く惨めな国(イスラエル)に若い者は希望が持てない。 しかし、主はマリアの胎を通して、その民にあわれみをかけられた、と。 貧しく、くだらない、取るに足りないと思っている人にも(マリアを選べれたように) 神の選びが私たちに行われる。 そう受け取ることができるなら、最も悲しいこの年ではあるが、 主をほめたたえるクリスマスが迎えられることに感謝ができる。

12月9日 心でささやく声

ルカによる福音書 1章46節〜56節 阪井牧師

 かつて「丁稚」という鍛え方があった。汗と涙の物語を連想する。 だがそこには人を練り上げる意味もあった。他者を想う心は生活体験を通して身につくと願ったのだ。 身の置き方、処し方が表面に現れるのは結果である。 演劇の脇役を「いぶし銀」と評することがある。 主役の実力はもちろんであるが、真に主役たらしめるのは「いぶし銀」の存在だと聞く。 主役登場に最も効果的な状況を造り、徹底して仕える。 主イエスの登場に仕える人物がバプテスマのヨハネである。 ユダヤの世界では年長者が重んじられる。長老はその象徴であろう。 ヨハネはイエスを「…わたしはその方の靴のひもを解く値打ちもない…」と語っている。 靴をひもを解くのは身分の低い人の努め。奴隷のすることであった当時の話としては異常である。 イエスはこのヨハネを「…女の産んだ者の中で最も大きい人物…」と語っている(ルカ7章28節)。 荒野で神の言葉がヨハネによって働き始める。人の生きることを拒む荒野のままであってはならない。 神の恵みが始まっていることを語る。 聞いた人々(民衆・取税人・兵卒たち)は「何をすればよりのか」と尋ねた。 自分中心・役得・権威の利用から自由になることだとヨハネは言う。 「良い実を結ぶ」祝福がそこにある。私たちの実力や特別の言葉、業が問題になるのではない。 神のみ業が私たちの日常の生活を用いて始められる。「いぶし銀」の私たちになりたい。

12月2日 荒野に主の道を

イザヤ書 40章1節〜11節 阪井牧師

家庭を犠牲にしてでも、会社に尽くしてきた人(熟練者)たちが終身雇用から弾き出された。 窓際ではない。窓の外に吊るされたゴンドラに乗って窓越しに会社にしがみついている様をたとえてゴンドラ族という。 中の後輩たちは気付きながら手が出せない。 我が身にいつ降りかかるか分からないからである。 日本は生活水準世界のトップである。 「♪明日がある、♪あしたがある」は少々空々しくても、藁をも掴む思いで聞いてしまう。 預言者は主から「語れ!」と言われた。 しかもねんごろに。心を開こうとしないところで、誠意を尽くして心に染み入るまで語れ、と求める。 今、私共が生活する世界は、乾燥と飢餓によって人が生きるのを妨げる荒れ野・砂漠のようである。 聞くことによって事が始まる。「慰めよ」はそのこと、主の業、みこころが行われていることを知らせるのである。 草・野の花はすばらしい。主の息がその上を吹くと、それも枯れ・しぼむ。しかし、神の言葉は変わらない、と。 特別の能力を持った人に求められているのではない。神の言葉を受けている人がその使命を追っているのである。 困難や失望の時は避けられないのが私共の現実である。その時9節「あなたがたの神を見よ」の言葉は重い。 目に見える現実だけではなく、もう一つの現実・神の約束を見るのである。 イスラエルの民が荒野を超えたように、私どもも神の愛に支えられてみ言葉を頼りに前に進むのである。 荒野は人いかに生きるかに立ち向かわせる。

11月25日 感謝の歌

詩篇 118編1節〜29節 阪井牧師

 穏やかで平和な生活の一方、見えないところで、不穏な方向が舵取りされているのを危惧する。 世界に存在感を示そうとする最近の日本の言い分である。 本来的在り方が揺れ動いている危険を想う。 比較の中に自分の存在感を確保することが世界平和にはならないことを知っているのに、敢えてそこに身を置こうとするに見える。 外敵に取り囲まれたエルサレムは、人的力でなくて神信頼にこそ自分たちの存在保証があることを経験した。 そこから「主が味方される。だから人を恐れることはない(6節)」との確信は、 動揺と不安にどんなにか苦しめられ、それをくぐり抜けて来たからであろう。 神はこの世の者と違う。契約を履行され、約束を成就される方である信頼に立つことを得た。 「人は変わる。しかし、神の言葉は変わらない(イザヤ40章7-8節)」と語られた通りである。 パウロはこの言葉を持って宣教に励んだ。神の子をさえ与えて下さる方が味方(ローマ8章31節)だと知ったパウロは強くなった。 攻撃を甘んじて受け、忍耐した。 ステパノはキリストの言葉(死に臨んで祈られた)を自分の支えの言葉(使徒行伝7章59節)とした。 自分を殺害しようとする者のために祈った。パウロはそれを聞いて回心した。ルターはここに立った。 人を救いに導く力がそこに与えられている。否、神がそれを用いられた。 「主はわが力、わが歌であって、救いとなられた(14節)」と喜び歌うのである。 感謝の歌を持っている私たちである。感謝の歌を歌おうではありませんか。

11月18日 収穫感謝

創世記 8章20節〜22節 松本先生

 ギル・ガメシュの叙事詩にメソポタミアの大洪水の話、インドやエジプトにも洪水現象があった。 地質層にはその地にいなかった動物や流木の化石が見つかっている。 イスラエルはそれらの洪水伝承と異なる神話を残した。 創造主の信仰から人間の暴虐に対し、神は創造を後悔し滅ぼす話である。 150間の雨、150日後に水が引く洪水の大きさである。 トルコのアララテ山にノアの箱舟が漂着し、鳩が運んできたオリブの葉から水が引いて渇いた地があると知る。 人の悪の故に地を滅ぼすことをしない、と神が誓う話である。 現代は収穫を経験できない。若者は生活の不安を持ち、勤労と生活の保証がないことを知っている。 アメリカのサンクスギビングデイ(感謝祭)は1620年の清教徒の歴史に起源を持ち、 ユダヤでは出エジプトの40年間の流浪を意識した収穫感謝の「仮庵の祭」が勤労感謝である。 世界人口を100人の村に縮小した話がある。神は地球のすべての人の生活を保障しているが、不平等と不均衡を人間が作り出している。 神は肉体だけでなく、ひとり子を与え、神のかたちを伴う尊厳を持って生きる人間存在を保証して下さっている。 愛をもって赦しと憐れみを与え、本当の意味のあなたらしく生きるように求めて下さっている。 ここに勤労の感謝がある。 100人中80人が標準以下の居住環境、50人は栄養失調、一人は瀕死の状態、 一人はいま、生まれようとしている世界の中に自分がいる。他人に無関心でいられない。

11月11日 祈り合える喜び

ヘブル人への手紙 13章18節〜25節 阪井牧師

 礼拝の説教を神の言として聞く。人が語っている言葉なのに神の言となって、 人を生かし、生きる力を与えることが起こるからである。 人を悔い改めに導き、新しい生き方を始めさせる。 人の関係や自分の求めがそれをもたらすのではない。 聞いた言葉がその人の中で働くからだと説明する。 聖書が働くとか信仰が与えられる、とも言う。
 超えられない垣根や溝があったとしても、乗り越えさせる力が働くとしか言えない現実を経験する。 主イエスに共に歩いていただく(=祈る)ことにかかっている。 全く他者から強いられないで自分が変わる。 生活の仕方や習慣でなく、一人の人間が根本から違う生き方を生き始める、 しかも自分に自然にである。 18節の「私たち(=指導者たち)のために祈ってほしい」との言葉は、 教会の中に神の言が働くことの求めである。 同時に祈る側と祈られる側との間に信頼関係が造られていく。 祈りに支えられて主に仕えることができるよう祈って欲しい、と求める。 祈りの支えがなければ、自分の意志や思いでしかない。 うまくいけば驕り高ぶる。 さもなければ力不足に萎縮するのが現実の私たちである。 主が共に歩き、私共を用いてくださるとの確信に立つなら、 自分が変えられることに苦痛はなく、むしろ喜びがあり、主の栄光・主のみ心と受けとめ、 かつ大胆にそれを語ることができる。 どんなに小さく、力弱くても喜び生きる姿がこの世を変える力とされる信仰を私たちは歩む。 用いていただこう。

11月4日 主をほめたたえよ

詩篇 117編1節〜2節 阪井牧師

 「み名をあがめさせ給え」で始まる主の祈りに、 「我らに罪を犯すものを我らがゆるすごとく、我らの罪を…」の言葉は、 山上の説教(マタイ6章12節)主イエスの言葉が元である。 「罪」は負債(口語訳)または負い目(新共同訳)と訳されている。 いわゆる借りである。 借りを作りたくない。借りたら何をしてでも返そうとする。 不法を犯してでも返すことに必死となる。自分で返せない借り(罪)に気付いて苦しんだのがパウロである。 その道の者(キリスト教徒)を迫害したのは、借りを返そうとしたもがきであった。 パウロは甦りの主イエスに、迫害に息をはずませて出かけたダマスコ途上で会い、代わって返してくださったことを知った。 神からいただいた「いつくしみ」に救いを得た。 返せないのに、返さなくて良いと知った時の喜びは、天にも昇るほどであったに違いない。 主イエスの十字架は代わって支払われたものである。 罪の支払う報酬は死である(ローマ6章23節)、の通り。 パウロはローマ15章11に、この詩篇117を引用し「すべての民よ、主をほめたたえよ」と書いた。 自分の持てる一切を差し出してこの事実を伝える者となった。 信仰は世の知恵・知能指数や年齢でなく、神の知恵である。 祭司長も律法学者もできなかったことを、幼な子が歌った。 「ホサナ、ホサナ、ダビデの子」と。 主をほめたたえることが、人の生かされている本質であることを学ぶ。 自分に起こったことを喜び、ほめたたえることが教会の伝道となる。 心から受け取りなおして大胆に!

10月28日 信仰によって義とされる

ローマ人への手紙 4章1節〜8節 松本先生

 1517年10月31日ウイッテンベルグ大学の神学教師であったM.ルターは 学内の城教会の門の壁(それは掲示板でもある)に、95ヶ条の提題を貼った。 いろいろな掲示がある中にラテン語の神学的課題を示した。 通信網の未発達な時代なのに僅か10日間でヨーロッパ各地にそれが伝わった。 聖人の余得を買い取り、死んだ者の罪の贖いを得る免罪符への疑問は人々の心に不審を与えていた。 背景にアルブレヒト司教がマインツの司教座を買った税金対策があった。 ルターには教皇否定も改革の野心があったわけではない。 平安を得たい、真剣な魂の呻きから聖書の言葉(3節)に真髄を見出した。 聖書の信仰に行いを追加している当時のカトリックへの問いになった。 自分中心にしか考えられない人間の自然性は、神との関係から落ちている罪人である。 罪の報酬(責任)は死、その死ぬべき者が死ななくて良いために、誰かが代わって死ぬ(贖罪)。 主イエスの十字架であった。神の子が十字架の死から甦ることにおいて自分に意味を持つ・ 救いの出来事であることを確信した。 不義を義として下さる方・キリストを信じることが救いである。 この信仰の表明が、ルターの『我、ここに立つ』の言葉として記憶されている。 人に生きる力を与えるのが信仰・聖書の信仰の真髄である。 私たちはこの信仰をいただいている。 行いによる義ではなく、行いはなくても義とする方を信じる信仰が義と認められる(5節)のである。

10月21日 生涯の終わり

ヘブル人への手紙 13章7節〜17節 阪井牧師

 クリスチャンになって変わったことは?と尋ねられたある人は次の二つを挙げた。 (1)教会の礼拝に行くのが楽しい。 もう一つ(2)は聖書の読み方が変わった、と。 この(2)は私たちにも覚えがある。 それまでは他のと同じ一冊の書物で、気が向いた時読めばよかった。 しかし、義務としてではなく自分と関係のある事として言葉や人物のことが気になって読んでいる。 11章に名前が出ているだけで15人の信仰に生きた人が紹介されている。 この人たちが立派であったというのではなく、神の言葉に仕えることを生涯として生きた人たちである。 今もこのような生き方をしている指導者たちがいる。 この生き方、信仰に倣うよう勧めている。 その根拠は、変わることなく今も生きて私共に先んじて歩いて下さっているイエス・キリストである。 この方にに従うことが信仰に生きる人の生涯である。 過去に真実であっても、今役に立たないものは多い。 しかし、主イエスは思い出の中だけでなく、今も生きて私に語りかけ、将来に向かって、永遠のいのちに生きるよう、求め導いて下さっている。 これを語るのが証しである。 過去を語るだけでなく現在を語る証し人でありたい。 「あすのことを思いわずらうな。…先ず神の国と神の義を求めなさい(マタイ6章)」との言葉を想起する。 目先にちらつくものに心動かされず動じることなく,主イエスと共に歩ける恵みを喜んだらよい。 讃美をたえず捧げるのです。 無くてならぬものは多くはない。 それに賭けるのです。

10月14日 呼び声に応えよ

詩篇 116編1節〜19節 阪井牧師

 農業者は「土に始まって土に終わる」と言うらしい。 私共の信仰はどう表現できるのだろうか。 過越の食事後に用いられたこの詩は最後の晩餐の時にも用いられたろうか。 「わたしは〜しよう。〜する。」との意思表明が特徴である(詩篇116編1,2,7,10,13,14,17,18節)。 これらの言葉の背景には人生の危機がある。 重い厳しい闘いであったろう。 死に直面したり、身に覚えのない責任追求を受ける中で主を信じ抜く姿を見る。 知識や情報からでなく、実際生活の中での経験を信仰の糧にしているこの姿勢は私共に大切なメッセージを送る。 信仰の輝きがあるとするなら、この闘いを乗り越えたところに神様はご自身の栄光を現されるように思う。 信仰者といえども不安や恐怖は他の人と同じである。 ただそれが自分一人でなく「神が共におられる」ことが耐える力となっている。 この幸いが信仰告白になっている。 神との関係が壊れ、無くなることは旧約の人々に自分の存在が失われることと等しかった。 だが15節は死をさえそのみ前に貴い。 主に委ねることのゆえを示している。 委ねることを知らない人は恐れと不安に苛まれる。 主の名を呼ぶことができる確信を持つことと不都合や困難・病気から免れる事とは別である。 信仰者の強さは神の語りかけに応える術を持っていること、つまり神からの語りかけに「父よ!」と呼べることである。 迷子が呼びかけに応えるように。 喜びよりも重苦しいと思える応えは、本当の神の声を聞いていないのではないか?応えよう。

10月7日 主は助け主

ヘブル人への手紙 13章1節〜6節 阪井牧師

 前半と後半に分けて内容を見る。 兄弟愛を続けること、それも教会の中だけでなく外に向かっても思いやり深く輪を広げていくことの勧めが前半、そして後半は結婚生活が清く保たれることと欲に支配されないようにとの勧告である。 なにもキリスト教に限ったことではない、との見方がある。 自分で決めつけてしまって現実とのズレが生じる時私たちは躓く。 他人に対してよりも自分にである。 こだわりがその例となる。 聖書はそれから脱するために「兄弟愛を続けなさい。互いに愛し合いなさい」と説く。 承知しているがどうにもならない時がある。 相手を責め、自分を苛むこだわりから解放されるのが自由である。 主イエスがすぐ側に立っていて下さることにより、神の家族、主イエスをキリスト(救い主)と信じる信仰によって迎え入れらる。 自分の力で「兄弟であり続ける」のではない。 すでに兄弟とされている。 これを続けるよう求める。 神の家族の出発の責任は神が執られる。 私共を引き受けて下さるとの確信はこころを平安にし、次の課題に挑戦する力と希望を持つ。 無理や苦心からではない。 内から湧くエネルギーが駆り立て、神の恵みを他者に向けたくなる。 主イエス・キリストに根ざした愛は苦しい時にも挫折しない。 主が私を支えているとの確信を主は用いられる。 アブラハムが主に用いられたように。 旅人をもてなす事の中に神の祝福があり、信仰を喜ばれ用いられた。 私たちの助け主に信頼し豊かにされたい。

9月30日 世に勝ち、平和に生きる

ヨハネによる福音書 16章31節〜33節 天野邦彦牧師 (日本バプテスト横浜教会)

 これは横浜教会の2001年の年間主題である。 世界の平和のために皆で祈り合おう。 ローマ書1章は罪には4つの事柄があることを示す。 それは(1)不信・(2)不義・(3)不道徳・そして(4)非情(愛がない)である。 イエス・キリストは十字架の復活で、その罪に勝ち、平和をもたらした。 平和に生きるとは死への勝利である。 今世界には大きな問題で大変なことになっている。 又身近な生活においても平和に生きることの出来ない人々がいる。 ホームレスの人々がそうであり、たとえ家族があっても独立し平和を生きることの出来ない人々も多くいる。 日本バプテスト同盟はアメリカ大統領と小泉総理に手紙を書いた。 「神からのよい知恵と平和が与えられますように、平和的方法で解決されることを祈る……」と。 個人的ではあるが私には4人の息子があり、彼らをはアメリカに置いてきた。 この息子たちにも徴兵があるかも知れない。 他人事ではなく平和を願う。 キリストの平和とは聖霊のたまものである。 その賜物とは(1)信仰の告白、(2)福音を宣べ伝えること、(3)罪に勝ち平和に生きること、そして(4)御言葉の賜物である。 人は3つの重荷(自分の、隣人の、神の重荷)を持っているけれど、人はその重荷を覚えていないものである。 この3つの重荷にクリスチャンの課題として取り組むことが必要である。 その中に福音がある。

9月23日 祈れるさいわい

詩篇 115編1節〜18節 阪井牧師

  歌いながらエルサレムに入ってきた弟子たちの姿はそこにない。 十字架の上でイエスがなじらる。 「今降りてみよ。そうすれば信じよう…神に頼っているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。 自分は神の子だと言っていたのだから…。」動けない、力の出せない相手に強がる言いぐさのよう。 最も情けない処刑のされ方である。 この指導者に生涯を賭けたが・正しく理解できない弟子たちが居合わせなくてよかった。 見捨て・身を隠したが立ち直りを祈られていた(ルカ22章34節)。 そこに居れば呪いの木の上でなお、自分を嘲り殺そうとしている人たちのために執り成す祈りが聞けた。 この祈りに連なることができるか。 エルサレム崩壊で叩きのめされ、捕因の憂き目に沈む人々にのしかかるあざ笑いの言葉「…お前たちが信じる神は何をしてくれた?どこにいる?」は唯一立ち上がりの根拠を挫く。 『神共におられる』しるしがどんなにか欲しかったであろう。 その時「主に信頼せよ!(9節)」「主をほめたたえよ!(18節)」が姿勢立て直しの根拠であることを示す。 主イエス・キリストに目を向けている限り大きな波も強い風も恐れるものではない。 だが目を離すと知識と経験は力のない自分を認め萎縮と不安で自分をさいなむ。 主に召し出されるペテロの記事(ルカ5章1節以下)を想起する。 「お言葉ですから・・・」と。 「信じられないわたしですが、信じます」との確信は祈るところから始まる。 このさいわいを私たちは持っているのです。 祈りましょう。

9月16日 サウロの回心

使徒行伝 9章1節〜9節 松本先生

 ディアスポラ(離散のユダヤ人)でギリシャ名がパウロ、タルソ生まれのペニヤミン族のユダヤ人でありながらローマの市民権を持つサウロはギリシャの哲学を修め、ガマリエルに師事した律法学者で熱心な実践家、文化において二重の国籍を持つ。 今日でも見出せないほど凄い人材であった。 30年間の伝道で世界宣教の礎を築いた人である。 ジハド(聖戦)は手に負えない。 息をはずませて迫害したのは律法の熱心さ(ピリピ3章6節)・神の名による執念である。 生前のイエスに個人的に交わったフシはない。 ナザレのイエスがメシア、十字架に死んで復活したとの新しい信仰教団を迫害していた。 ところがイエスの「なぜ、わたしを迫害する」声を聞いた。 落雷を受けるほどの衝撃であったろう。 迫害者が世界に向かって伝道する人へと神に召された。 絶対性と神秘性は神のみ手の業である。 宣教者の苦しみを引き受けながらキリストの恵みを伝える者にされている。 福音の喜びに比してどんな艱難もものの数ではない。 迫害者の熱心と伝道者のそれとは同じ熱心でも質が違う。 「誰もキリストの恵みからわたしを引き離すことはできない(ローマ8章)」という。 迫害するあのサウロのために主はアナニヤを用い、遣わされる。 青天の霹靂である。 同じようなことが私たちにも起こる。 自分の信仰を主張するだけではなく、自己検証しながら他と共に生きる和らぎが必要である。

9月9日 礼拝を喜ぼう

ヘブル人への手紙 12章25節〜29節 阪井牧師

 心の中が本当に渇水・飢餓状態になるのはどんな時か。 生活の疲れを回復しようにも、互いに声を掛け合ったくらいでは埋めることの出来ない心の空虚感に苛まれる時ではないか。 そんな時には生きる喜びを見出せない。 だが聖書(このヘブル12章)は証言している。 「神に喜ばれるように仕えること」が心の潤いと生きる力を受けることであると。 逆を考える。 空を満たすには外から何かを注ぎ込むことではないか。 福音の逆説とでも説明できるかも知れない。 神の栄光として着かれた主イエスの十字架はまさしくそれである。 十字架への道は「低きに上る」歩みであると表現する人がいる。 貧しく、力弱い者がどんなに頑張ってみたところで偉大なる世界の創造者の神を喜ばすことなっどできる筈がない。 だからこそ神を礼拝するのである。 最も小さき者を神はみ心に留めて下さった。 小さき者が最も偉大なる神をほめたたえることのできる理由である。 神に造られ、主イエスによって永遠のいのちに生きる者・神の子とされたことを単純に喜ぶのである。 苦しければ苦しいと訴えて神を礼拝する。 嬉しい時には神に嬉しいことを感謝して礼拝する。 それが空しくなっていた空虚な心を満たすことになる。 自分もそこで何が起こったか説明できない。 しかし、確かなことは、この小さい私が喜んで生きていること、周りの人がそれに力を与えられ、共に歩むことに連なるのを見る。 空しい?ならば一緒に礼拝しましょう。 声を掛け合って。

9月2日 信仰の驚き

詩篇 114編1節〜8節 阪井牧師

 わが主・わが神・主イエスの言葉にこころをこめて讃美をする時、自然に生きる価値があることに気付くことができる。 美しくなくてもいい、そろわないところがあってもいい、神の子どもらしくのびのびと活き活きと歌う信仰の極意を語る人がいる。 この詩篇はユダヤの歴史において最も大切にされてきた「過越の祭」で歌ったものである。 歴史を正しく見ることによって、現在を乗り越えさせる力・将来への希望を与えられることを示している。 「エジプトを出る」ことによって神の民となった。 ニコデモに「新しく生まれなければ神の国を見ることができない(ヨハネ3章3節)」と主イエスは話された。 エジプトを離れる・古い自分に死ぬ、そこには信仰のけじめをみる。 感情・心のつながり・生活の習慣を手放すことは苦しい闘いである。 主イエスに向かってペテロは「あなたこそ生ける神の子・キリストです」と告白しながら、主イエスから受難の予告を聞いて、それをたしなめた。 すると主イエスから「サタンよ、さがれ。あなたは神のことを思わないで、人のことをおもっている」と厳しい叱責を受けたことからその難しさを知る。 十字架を通らなければ復活はない。 新しく生まれなければ神の子になることができない。 自分(人)の力では不可能なことであっても、神には出来ないことはない。 信仰に歩む恵みは神が聖霊によって働いてくださるからである。 自分でさえ驚く生き方がそこから始まる。 主に信頼する生活は驚きの生活となる。

8月26日 心のリハビリ

ヘブル人への手紙 12章12節〜24節 阪井牧師

 自分を支えて立っているのがやっと。 前に向かって歩むべきを知ってはいても足を前に出せない。 喘ぎながら「もう、勘弁して欲しい!」が本音の中で、なお声がかけられる。 「手を伸ばしなさい。足をまっすぐにしなさい。」と。 リハビリを受けなけばならない人たちの本音は、じっとしていたい、身を丸めて息を潜めていたい。 このまま座っていさせて欲しいのだ。 聞き方によっては酷な要求である。 だが、この手紙は信仰の確信を持って語る。 それがあなたのいのちに至る道、あなたの周りにいる人たちを救いに導くことにつながるのだ、と言う。 不思議な福音の力が証しされている。 この世の論理で説明つかない。 自分の非力さを嘆いて周囲の力を頼りにするよりも聖書の言葉に自分を託してみてはどうか。 手が伸び、足には踏ん張る力が宿るようになる、と言われていることに。 その時神の恵みから漏れることの無いようにと警告がされている。 「苦い根に気をつけること」。 根から芽が出、若枝が生える(イザヤ11章)記事は主イエスが預言の成就として世に生まれることを見た。 だが苦い根は申命記29章16以下に出る記事を想起させる。 自分の小さな我儘・これくらい少々が命取りになる。 エソウは悔い改めの機会を得なかった。 主が私を通して働かれるとの信仰に立つのである。 教会がこの地域に足して働くのは、主の働かれる機会を差し出すことである。 こころが主の恵みによって力を得、発揮するようにと願う。 主の交わりに与ろう。

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