日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月29日 キリストを着た者

ガラテヤ人への手紙 4章1節〜7節 阪井牧師

 生活の枝葉末節にあったものが幹を枯らし、その根にまで影響することがある。 日本人の信仰をその土壌が沼であるために全ての根が腐っている、 と遠藤周作は「沈黙」の作品について自ら表していた。 聖書の「この世の霊力」とある言葉がそれを想起させる。 笑って済ましていた事が真顔になる時とはどんなことか。 プラス状態の生活では問題にならない。しかし家族や肉親がマイナス状態、 しかも酷いと判断できるようになると穏やかではいられない。 生活の知恵や生きてきた知識を振り回したくなる。 これを聖書がキリストを知る=キリストに知られる以前と比して、 「縛られている者であった」と見た。 そして今キリストに生きる者は誇りと気概を持つように勧める。 かつては叱られ、叩かれて神の子としての確信に歩けない者を支えてきた律法があった。痛さや辛さから解放されるとは、 しっかり自立(成人)した者になり何物をも頼りにしないことだろうか。 神を父として真の子になって生きることだ。 み霊によって歩くことである。それが「アバ、父よ」と呼ぶ生き方に徹することである。 たとえ世が見放し誰も自分を認めなくとも、さらに祈りの形が取れなくとも「おとうさん!」と呼びながら神と共に生きる姿を示している。 神を畏れるとはこの生き方である。一切を手放して、神只ひとりの方を畏れしかも「父よ、お父さん!」と呼び続ける子として生きる。 ここに信仰の歩みがある。神に知られた者として歩みたい。

12月22日 不思議な光

イザヤ書 52章13節〜53章12節 阪井牧師

 「主のみ使いが現れ、栄光が野宿していた羊飼いたちをめぐり照らした」とあるのは、 神の光がそれを信じた彼らの周りだけを明るくしたということになる。 自分たちのために救い主が来られたと受け取れない人々にはクリスマスの光はなかったことになる。 今多くの人がクリスマスを祝う。キリストのおられないクリスマスになることを気遣う。 キリスト教への抵抗よりも厳しいことだと受け取る。救い主が来られた告げられても、 馬小屋に生まれるということも意味を持たない。 羊飼いたちは天使に告げ知らされたことに従ってベツレヘムの馬小屋に行った。 自分たちに語られた通りであったので、神を「崇め」「讃美」しながら帰って行った。 「崇める」は褒め称える「ハレルヤ」の意味と思い上がった人間の「愚かしい」の意味がある。 羊飼いたちは心から謙って神を称えたことを示している。「讃美」は怒りを「なだめる」の意味がある。神を讃美するのには神をなだめることを示す。神の怒りを受けて当然であるのに、 罪赦され、救われ、恵みを受けさせる(イザヤ53章5節)ために神は御子を贈って下さった。 この神に感謝するのがクリスマスである。徹底して自分を相対化し否定する場所が馬小屋であり、 十字架の上であることが語られている。 汚れに満ちた飼い葉桶はどうやら自分自身と思うようになった、と語る人(成井透氏)がいる。 ここにイエスがキリストとしてお生まれになったのだと受け取っている。 不思議な光が差し込む時がクリスマスである。

12月15日 心一つ声を合わせて

ローマ人への手紙 15章4節〜13節 阪井牧師

 余りに重大な出エジプトという事業に召されたことへの恐れから、 「口が重い」と神の召しを拒んだのはあのモーセでした(出エジプト4章10節)。 口重(くちおも)にはもう一つの意味がある。人の心にズシリと響く言葉のことでパウロはその言葉を持つ人である。  聖書のメッセージとして私たちにもその任を委ねられていることを受け取りたい。 ローマ書15章13節までが本文の締めくくりにあたる。終わりの言葉は祈りである。 つまり祈りで終わらねば終わることができない手紙だといえよう。 祈りによってその口から出て行く言葉があるのです。自分の分(ぶん)は知れている。 でも自分を越える方について、自分を越える方に押し出されて語るとしたら祈らざるを得ない。 パウロの姿勢はそこにあった。自分がその方に捉えられ、そこから出る喜びと希望によって生かされ生きる人とされ、 ことある毎に自分の死を負って語り、訪ね、宣べ伝えたと思う。自分の思いを語りきるのではない。 自分を語らせる方に仕えて言葉が口を出るなら、その言葉は重口になる。 教会が人間の交わりに終わらない秘訣がそこにある。 キリストのいさおしに仕える時、教会は一致を与えられ集まる人々の心が一つになる。 声を合わせて神の恵みの喜びを歌う教会となる。私たちが力を注いで教会を一つにするのではない。 キリストにある神の恵みを中心にした交わり、主の霊を受けた人々が集められる。近いほど受け入れ難い。 これを乗り越える力をいただきましょう。

12月8日 良きおとずれを

イザヤ書 40章1節〜11節 阪井牧師

 誇りと自信に満ちた人がその根拠とするものを失うことは、もはや生きている力を失うに等しい。 イザヤ書の舞台はそれに近い。 この世の勢力に完敗して一切を失った神の民が、他国に強制移住させられ(バビロン捕囚)50年を経過した時である。 やがて解放、帰還、神殿修築、エルサレム城壁改修と多くの傷害を越えて一大事業がなされるその直前のこと。 時代転換の過渡期である。産みの苦しみがそこにある。 希望が持てず、忍耐力の限界に近いその時に語りかけているのがイザヤ書40章である。 「慰めよ!わが民を慰めよ」と呼びかける。この箇所を主イエスはガリラヤのナザレの会堂で読んでいる(ルカ4章18節)。 ヘンデルのメサイヤの歌い出しはこの箇所である。 人は世のものに目奪われ、人の声に耳捉えられるのが常である。 他人事ではなく私たち自身がそうである。 しかし、目の前の現実を越え、信仰によって立つ世界の見方があるとのメッセージをここから受け取る。 良い知らせ=福音がある、と告げる。必至に頑張って新しい時代の転換をもたらす必要はない。 もう起こっている神の出来事に耳を傾け、耳を澄ますことから福音は始まると言う。 最も恐ろしいのは神の沈黙であった。 虚無と荒野の世界に生き、罪の重さに呻く人々に今神の新しい現実が伝えられる。 福音は人間が変わったことを中心にするのではない。それに伴う苦闘、悟りの経過が重要ではない。 主の労苦の酬いが語られている。み腕に抱かれる羊でいたい。

12月1日 おいでになる王

マタイによる福音書 21章1節〜9節 阪井牧師

 二人の弟子が主イエスに命じられとおり、ろばと子ろばとを引いてきた。 イエスはそれにお乗りになった(マタイ21章7節)とある記事から問いを持つ。 ろばか、それとも子ろばにか。 この記事の前に旧約ゼカリアの引用「ろばに乗って、子ろばに乗って」がある。これも確たるものではない。 「チイロバ」の語源はこの記事にある。せめて主イエスをお乗せできたら、との願いとなって。 「あなたの王、柔和なおかた」とあるのは預言を成就するため、と説明してあるのが気になる。 群衆が叫んでいるその声はどういうことか。 「ダビデの子に、ホサナ。主の御名によってきたる者に、祝福あれ。……」には主の名つまり神への期待であろう。 だがその週のうちに「十字架につけよ」とも叫んでいる。 神の約束は成就しているのに、人は違う受け取り方をした。 しかも神の名において熱心にである。 アドベント(待降節)が始まった。クリスマス、主イエスが来られるのを待つ時となった。 これをどう過ごすか?歴史を繰り返すことへの戒めや問いにも受け取れる。 聖書のメッセージは生きる希望と喜びを伝える。王の迎え方によって自分を解放するより、搾取される者となる。 イスラエルの歴史にサムエルに王を願った記事(サムエル記上8章)を想起する。 主イエスが来られたのは搾取からの解放であった。 自分自身からも解放される者になるには、主イエスを王として迎えることにかかっている。 そこには自分を主に委ねる平和(平安)がある。アドベントは大事です。

11月24日 夢みる者

詩篇 126篇1節〜6節 阪井牧師

 知識や学びを積み重ねることから、人は神を畏れなくなり、神から離れて行く。 これを鋭く見抜いた聖句がある。 旧約「主を恐れることは知識のはじめである(箴言1章7節)」があり、 新約パウロの手紙「この世は自分の知恵によって神を認めるに至らなかった(1コリント1章21節)」との言葉が思い浮かぶ。 イスラエルの人々が自ら体験した出来事は、人の手を離れて神が計画を持って働いておられることを確信した。 あのバビロン解放の事件を通してそう受け取った。捕囚の民は当初、帰郷を熱望したであろう。 けれども異境の地に滞在50年という時間は、神の約束も心から遠のいたと想う。 だが世界は動き、バビロニア帝国はペルシャに滅ばされた。そして故郷への帰還が目の前に現れた。 全く以外な出来事である。喜びはしゃぐ気持ちを想像する。「夢見る者」のようだとの感歎に続いて「口に笑い」、「舌は喜びの声」で満ちている(1節)。 寝ても起きても見る夢がある。しかしやがては消えて行く。 『寝ても見ゆ、寝でも見えけりおおかたは、うつせみの世ぞ夢にはありける』の句が示す。 だが神に与えられる夢がある。神の秩序がある。 人の目には荒れ果てて秩序が失せて見えていても、神が働かれるなら約束(召された努め)は続いている。 偶然や運命ではない。神の意志が働いていると受け取る信仰が問われる。 余りに人の思いをかけ離れた出来事に驚き、そして感謝し、神を喜ぶイスラエルは夢を見た。 この夢を私たちにも見させて戴こうではないか。

11月17日 神の賜物

ヨハネによる福音書 4章1節〜26節 大島良雄 先生

 メッセージのテーマはイエスが神の賜物(ヨハネ3章16節)であること。 「イエスは旅の疲れを覚えて(6節)」は人間であることの強調がある(ヨハネ1章18節)。 見えない神を人に分からせるためにイエスは人として生まれ、その行いと言葉の中に人は神を見ることができる。 7節以下のイエスとサマリアの女との会話にはイスラエル民族の歴史(エズラ記参照)を知る必要がある。 男と女、ユダヤ人とサマリア人の社会的風習(壁)の歴史が取り去られている。 しかもこの話でイエスが水を飲んだ記事はない。 水の渇きを忘れて女の心の渇きを癒そうとするイエスは、心の中から湧き上がる水の話をし、女は肉体的な水の話にこだわる。 聖書を読み解く鍵は必ずどこかにある。 その一つが歴史である。民族の分裂(B.C.931年)、北イイスラエルの滅亡(B.C.722年)、 サマリアに持ち込まれた侵入部族の信仰を背景に16節以下「女の夫」の話があり、信仰の話に導かれている。 それが21節の「信じなさい…」との呼びかけで話される。信じるとは自分との関わりで受け取る事への促しである。 土地や民族・国家を越えて神を礼拝する時が(聖書を読んでいる)今来ている。 「霊」は物質肉体的でなく精神的霊的な形でイエスを信じること、「まこと」は客観的学問的ではなくイエスを知ることが救いとなり、 イエスが真理とする、自分のものとすることである。 他を愛することの中に満ちるイエスの言葉を実践することが話された。 イエスと出会った女は水を置いて町に走ったのである。 (文責 阪井)

11月10日 旅人に告ぐ!

ペテロの第一の手紙 2章11節〜17節 阪井牧師

 本来的には別の場所を目的とし、今の場所を安住の地としない。 一時的な生活の場所とするのを寄留と称し旅人とも呼ぶ。 キリスト者が旅人と呼び、寄留者と言うのは、キリストに捉えられた者が神の国に国籍を持ち、地上の生活は究極的な安住の地としないためである。 しかし、この手紙はすぐ先に僕たる者(18節)、妻たる者(3章1節)、夫たる者(3章7節と続けているところから、実際の生活に関する事柄を扱っている。 国や政治の事柄が話されているが、現実離れした抽象問題ではない。生活を支え、また支配や秩序の中で、人が共に生きていく大事な事を語っている。 神によって命与えられ、今を生きている者はすべて神の真理と愛の中にいる。 イエス・キリストと共に歩むのはこの神の愛の中におることであり、キリストの愛に支配され、主イエスとの出合いの結果であるとも言えよう。 だから聖書の言葉が生活の指針となり、生きる力であり慰めとなる。 これは全ての人に当てはまる筈なのに、現実はかけ離れている。誰もが政治の世界に、本当の権威を持つ者、尊敬に値する者がいるかと問う。 でも聖書は「主のゆえに」と勧める。 この世界に生き、主の霊に支えられ、主によって世の秩序の中で仕え、福音に基づいて仕えて生きる時、新しい世界の創造に携わることが起きることを歴史の中に見る。 主イエスの十字架への歩みはその象徴である。人を、家庭を、世界を変える力はこの仕えることにある。旅人よ、主の十字架を負って歩もう!

11月3日 信頼は強い力

詩篇 125篇1節〜5節 阪井牧師

 口から出た言葉は本人の意思を離れて働く。本人も戸惑い驚く。 誤解の始まりである。人は自分の経験で聞き取りイメージするしかない。 人間の不確かさと不思議さでもある。激しく熱心に教会を迫害したあのパウロは、 キリスト教徒を追って息を弾ませるそのただ中(ダマスコ途上)で声を聞いた(使徒行伝9,16,22章)。 「なぜわたしを迫害するのか」と。自分の力と努力に因って立つユダヤ教の熱心さが問われた。 「あなたはどなたですか?」の問いに「あなたが迫害しているイエスだ」と聞いたパウロは、 迫害をする者から宣べ伝える使徒(宣教者)になった。 イエス・キリストの出来事に出会ったと説明するしかない。 理性で捉え尽くせない驚きと衝撃を覚える。 パウロは今まで努力して得たもの一切を投げ打って今語らざるを得ない、 命がけの宣教に生きる喜びを見い出した。自分が捉えたのでなく、 主が選び召して下さったからだ(ガラテヤ1:13)と言う。 良い・ためになる話と信仰との違いはこの主イエス・キリストの出来事にかかっている。 人生には苦しみ・重荷・悩みがある。信仰者であっても変わらない。 主イエス・キリストは十字架に死に、甦って生きて私と共に働いてくださる世に勝利された方である。 この方と共に歩む者は罪の支配から解放され、死の恐れを越えて生きる者となる。 勝手の思い込みや頭にイメージしたり心に描いてではない。主イエスの出来事の事実は変わらない。 ここに生きる根拠を持つ時、人は強く生きる者とされる。弱いからこそ強いのである。

10月27日 尊い生きた石

ペテロの第一の手紙 2章1節〜10節 阪井牧師

 長閑(のどか)に過ごせることは幸いで、平穏そのものである。 そんな時は誰かに指摘されるまで重要な課題に気付くことなく過ごすことになる。 もし信仰生活にそのようなことが起こると大変である。 信仰の命を損なうことになりかねない。「イエス・キリストを死人の中から甦らせ、それにより生きる望みを与えられた(1章3節)」のは 主の言葉、変わることのない生けるみ言葉を伝えられ、聞き受け取ったことにある。 しかし、日常の生活で周りの人々と(それが家族であっても)折り合いよく(広い道を)歩むうちに、 信仰の本質が失われ命を損なうことが起きる、と指摘している。 そのためにあらゆる悪意、偽り、偽善、そねみ、悪口を捨てることを求める。 これらは故意に相手を痛めるつもりはない。むしろ自分を大切に守ることから起こってくる。 神の言に生きる者はすでに主によって生きている。主が守り用いられる生ける石であり、祭司とされている。 ところが世の人はつまらない、役に立たない存在にしか見えない。 捨てられた石であっても、主が用いられることによって霊の家を築き上げるのに無くてはならない基礎石となるのである。 主が恵み深い(3節)方であることを知る者とは、主と共に歩むことの喜びを知る者である。 イエスが私のくびきは負いやすい、と言われたのは本当に自分らしく喜び生きることを指す。 楽になることではない。人生の荷物を主が共に負ってくださる。証し人は生きた石としてこれを語るのです。

10月20日 信じて義とされる

ローマ人への手紙 3章21節〜26節 松本先生

 1517年の10月31日にウィッテンベルグ(大学の構内にある)城教会の掲示板に95の項目の質問を張り出した。 これはその大学で教鞭をとっているマルチン・ルターによる単純な質問又は協議のテーマであった。 かつてコンスタンチヌス大帝がペテロを記念して建てた礼拝堂ローマ・サンピエトロ寺院の大改修の費用を生み出すために 免罪符(贖宥符とも言う)を発行したことに対する疑問などであった。 そこにはかつて自ら厳しい修行をした救いに対する問いがあった。 教会への対立や反抗を考えてはいなかったが、瞬く間に大学、ドイツ国内、そしてヨーロッパに広がり、宗教改革となり、 万人祭司・聖書翻訳そして信仰による義との結果が生まれた。 信仰の本質からいつの間にかズレてしまった教会が原点に返ることをルターは訴えた。 イエス・キリストは十字架により私たちの罪の贖いとなった。神はその神の子を甦らせた。 このことを信じることが救いである、と。親が子を想う思いから神がその子を犠牲にする愛と義(法廷の言葉)が同時に成立することを学ぶ。 犯した罪は死に値する。この罪を義(よし)とするのである。しかし、罪は清算しなければならない。十字架の死で贖われる。 これを信じるのがキリスト教の中心である、と宗教改革は示した。義を貫き通した神の愛が私たちの救いであるところに ルターは「信仰による義」を見た。聖書に示された信仰に立ち返るために誰もが読める翻訳はそのようにして生まれた。(文責 阪井)

10月13日 助けは主のみ名

詩篇124篇1節〜8節 阪井牧師

 詩人になったつもりで次に続く言葉を入れてみてください。 (1)主がもし私の味方でなかったなら、……… (2)主がもしあの時私に目を注いでいて下さらなかったら、……… (3)もし主があの人との出会いを通して私に出会って下さらなかったら、………  この……にはどんな言葉が入りましたか。厳しい時や状況を考えたのではないでしょうか。 124篇には過去の事実は示されませんが、今日の私たちの生活にも当てはまる言葉があります。 だから1節の「今、…は言え」の言葉についてある人は『興奮に満ちた爆発的叫び』と解説しました。 神の救い、神がみ側に居て下さることがどれ程興奮する喜びであったかを語っています。 自分の今を喜び感謝している思いを特別表現方法(過去の事実に反する仮定!)で強調しているのです。 第1コリント15章14節、17節、19節でパウロがこの表現「もしキリストがよみがえらなかったら……」を使ったのは強い肯定を意味したものだと分かります。 私どもがその人生における重大事を決める時、天地を創造された主なる神が私の傍らに居て下さった、との告白ができるとしたら、 実に大きい喜びを伴ったものになる筈です。「主のみ名」は主が共に居て下さっていることを意味している言葉でもあります。 「われらの助けは天地を造られた主のみ名にある(8節)」の言葉が私どもの喜びと興奮の爆発的叫びになりますように、と祈ります。

10月6日 主の言葉は残る

ペテロの第一の手紙1章22節〜25節 阪井牧師

 神の民(特別に選ばれた民)が他の民に支配され、苦しめられる事が何故起きる?  暫くの我慢はするけれども、自分の全生涯を通じ耐え続けることは無理。 神の民の契約は破棄された、と考えてもおかしくない。今までの生涯が意味を失う。 絶望であり、生きる力が失せる。その時預言者イザヤは神の声を伝えた。 「夜は過ぎ、朝が近い」と。不本意な状況に自分の身を置いて居ても、神のみ業は確実に進められている。 自分一人の力ではどうにもならず、泣き寝入りしかないと思うところに神のみ手が働き、 あなたを用いて神は計画を進めておられる、と言う。その背景の言葉がここにある。外の世界だけでない。 教会関係の中にも不条理が起こりうる。人間性や倫理的課題では片づかない。 正面から立ち向かった主イエス・キリストの歩みを想う。十字架の死を勝利された甦りを想う。 信じる者は新しいいのちに生きる者とされる。 これが教会であり、私たちはこの教会につながれている。 主イエス・キリストのいのちが私たちの中にあって、 私たちはキリストの体とされた者である。「真理に従って」きよい者されたことがキリストを信じる者の決定的な特徴である。 それは外からの求めではない。内なる必然である。自分のために生きる者から神のみ心に生きようとすることが始まる。 互いに愛し合うことが神に愛された者の具体的な生き方として現れる。これを持続させるのは神の言葉である。 言葉自身が生きて働く。私たちはその道具である。

9月29日 人のその子を抱くように

コリント人への第一の手紙16章21節〜24節 佐藤和久牧師(厚木バプテスト教会)

 挨拶をすることは素晴らしいことだと体験した。言葉はほとんど通じなくても気持ちは通じる、と。 また先日の告別式でその方の愛唱聖句(ある種の挨拶)から、その生き方・人柄を知らされた。 アクラとプリスカは主イエスを迎えると共に迫害者や苦しむ人々のために家庭を解放している。 パウロはその「家の教会」から挨拶を送った(のちこれが「平和のくちづけ」と称されるようになった)。 パウロは「互いに、きよい接吻をもって挨拶を交わしなさい」と奨めている。 どうして小さな教会から大きい教会になるに従ってこの美しい習慣が消えていったのでしょう。 大切な交わりが失われていったのだと思う。学校の宿題として初めて教会に行ったのですが、 生徒は「教会に入ってから出るまで、だれ一人として言葉をかけてくれなかったので嫌だった」、との感想が記憶に残っている。 パウロの挨拶の言葉に、マラナ・タ(われらの主よ、きたりませ)はクリスチャンの合い言葉であった。 異教徒には分からない互いを確認し合う言葉であった。キリストの望みと愛がそこに含まれていると思う。 主を愛さないのは自分、その罪にも拘わらず、「人その子を抱くように愛してくださった」ことを心の深いところで気付き、 真実のマラナ・タの挨拶をすることを勧めている。 パウロはこのように神の愛を受け取ってコリントの教会の人々に挨拶を送っているように思う。(文責 阪井)

9月22日 目を注ぎ待つ

詩篇 123篇1節〜4節 阪井牧師

 詩は礼拝の中でか、礼拝へ向かう道すがらでかは定かでない。 主に目を注いで、主が憐れんで下さるのを待つ、と歌う。 その人(詩人)に起きている状況も不明であるが、直面する苦悩を持つ。 それは「思い煩いのない者の嘲りと、高ぶる者の侮りが魂に満ち溢れている(4節)」と訴える言葉にある。 目をあげ、主人の手に目を注ぐ自分は主人に仕える僕(奴隷)になぞらえている。 苦悩に耐え、克服するために主が憐れんでくださるのを待っている。 主に目を注ぐ者として、私たちは自分の信仰をそれほどに表すことが出来るか。 得られるものや貰えるものに目を注ぎ集中する。出所や本来の所有者は二の次になる。 与える方に関心を持ち続けるのは簡単ではない。アブラハムは自分の尊厳を捨て、神の「祝福」にこだわった。 だが主はご計画を譲られなかった。自分の願いや思い入れに合致する現実を待つのも一つ。主に目を注ぐのはそれとは違う。 主イエスの言葉に従ってガリラヤの湖上を歩いたペテロの話(マタイ14:22以下)がある。 波や風に恐れをなして水に沈みかけたのはなぜか? 結果である目の前(常識)のことに心を使えば、関心をもっていた主の言葉への信頼が薄れる。 自分の主張や願い訴えよりも、主の言葉(神が共におられる事)への信頼が課題であることをここから学ぶ。 主に目を注ぎ、憐れんでくださる事を待つ信仰から、神の奇跡が起こる。 非力や欠けや不足のある者を用いられる主の恵みを共に味わいたい。

9月15日 イエス、弟子の足を洗う

ヨハネによる福音書 13章1節〜11節 松本先生

 ユダヤでは前日の夕から一日が始まる。 受難週の最後の日は最後の晩餐・ゲッセマネの祈り・裁判・十字架・そして午後3時息を引き取るイエスの死は、安息日の前日であった。 キリスト教は週の初め・復活の日から始まり、受難物語は礼拝で読まれた。 最後の食事の時、イエスは弟子たちの足を洗われた。弟子たちはどうしたか。 人間の現実を表している。裏切りのユダは思いを入れ、その時を待っていた。 ペテロは言葉と行動とがバラバラで直情的である。人間の弱さ、醜さをこれらに見る。 召使い・奴隷のする洗足をする主イエスの様子を事細かに説明している。 人間の一切を受け入れ赦されることの象徴的行為がイエスによって示された。 罪人の私たちへの関わり、関係を見る。人の謙遜は自尊心や誇りの裏替えしに持っている。 だがどうにもならないのが死と罪の問題である。 自分で自分の始末ができない現実に神が関わろうとされた。 神との関係は取り繕うきれい事ではない。 つらい、恥ずかしい、最も深いところにあり、人前に出せないそのところで神が救ってくださる。 これが洗足の象徴的行為である。10節で言われたイエスの言葉は裏切りがあることの説明である。 「すでに洗った」はバプテスマの象徴であり、「足を洗う」は聖餐式の象徴である。 14節の言葉はイエスを模範とした人間相互の倫理ではない。 愛の示し、最後の最後まで「愛し通された」姿である。 ヨハネの手紙はこの主イエスの愛をより細かく語っている。(文責 阪井)

9月8日 朽ちないモノ

ペテロの第一の手紙 1章13節〜21節 阪井牧師

 知識や言葉をより多く持つとことと、生活体験を証ししてある事実を示すこととの間は自ずと異なったものになる。 「主イエス・キリストによって今日ある」とはどういうことかをペテロの手紙は語る。 体験の中心的な言葉の一つが「選ばれる」である。
 これはキリスト教信仰を歩む人に共通する事柄であろう。旧約聖書にあるアブラハムの話を想起する(創世記12章1節以下)。 なぜ彼なのかの理由や納得説明はない。彼が祝福され、地のすべての人が祝福される、と約束が続く。 他の人も居たのに主はアブラム(のちアブラハムとなる)に語られたのである。 知識に長けるとか力があるでもなく人間が出来ている等の理想的人間像も関係ないことになる。 神が声をかけられる理由は人間の側に必要でないことを想う。 神から声かけられる必然性は私たちと違いがないと言えよう。 大切なのは声をかけられた者がどうするかにある。確証もないまま神の言葉を事実として受け取り、自分をそれに託した。 これが信仰である。神が働かれている。教会につながる私たちは「選ばれた」。 「召し出してくださった(15節)」ことに自分を生きる者となった。自分の理想を生きるのではない。 聞く言葉に生きる者とされたのである。他の人には終わりの死(十字架)から始まる「永遠のいのち」に生きる者となった。 私たちが主イエス・キリストに従って生きるのは、朽ちることのない言葉(朽ちないモノ)によるとの信仰にある。 主の霊が働いてくださっている。

9月1日 恵みの時

詩篇 122篇1節〜9節 阪井牧師

 離れた地方や国外に生活しているユダヤ人にとって、都エルサレムを訪れることは最高の喜び・願いでした。 その旅行に声掛けられることはこの上なく嬉しい(1節)。 今、エルサレムの城壁内にいる自分に感動している。(2節) 自分たちの生活には困難や辛さがある。 だがそれを乗越える力は、先や将来が見通せることにかかっている。 子供に比べ、老人には今が重要。今がどこに続くのかを気にする。 自分の思いに任せなくなった身体を、懸命に働かせ生きることが喜びに繋がるよう願う。 主のみ名に感謝することが戒め・掟であるとイスラエルの人々は喜び歌うこと(4節)に学びを得る。 これによって神を畏れ、愛し、礼拝することが保たれたように、教会は信仰を保たせ、生活に希望を与え、喜び生きる力を与えるところとなるよう求められる。互いに声を掛け合い、共に神の前に出る大切さを想う。 神をたたえる所は飾りや力を求めない。 主の霊がそこに留まっていることが全てである。 その人々が目に悲惨な生活たとい病床の現実、貧しさという逆境のただ中にあっても主の栄光が歌われ祈られるところがエルサレムつまりエル(神)シャローム(平和)である。 神を愛するところに生きている人々がその生活において、 神の祝福を受けるよう祈る(6節以下)姿は私たちの願いである。 神の豊かさをしっかりと受け止めエルサレムのために祈ると共に、 そこに集まる私たち自身のエルサレムを大事にしていきたい。

8月25日 生ける望み

ペテロの第一の手紙 1章1節〜12節 阪井牧師

 人間が手を加えて出来たモノを文化とする時、信仰は人間のモノ、つまり文化を拒否する。 人間が立ち入ることそれ自体を拒否するため、 どんなに文化的価値をそこに認めても信仰的理由から文化破壊したあの出来事(アフガンの石仏像爆破)を想起する。 流れの中で出された評価は「あの」時と「いま」は違う。 1,2世紀の頃の歴史に起きたキリスト教への評価は抵抗と迫害であった。 安定を得ていた人たちは不安と恐れを抱き、撲滅を願った。ヘロデ王、ピラト、ファリサイ派の人たち、サドカイ派の人たちは抵抗をした。 手紙の宛先とされる人々はユダヤの地を離れて生活を異郷に置いて信仰に生きた。 離散の民である。地上に生活する信仰者を寄留の民とするのはその名残である。 信仰のため多くを失って生きる姿から想う。私たちは求めるために信仰を歩み、その熱心は与えることを疎んじていないか。 与え続けても涸れない井戸、かと言って汲み出さなくても溢れることはない井戸は教会の姿でもある。 混ざり物があれば、その水は旨くない。良い水脈に届いていることが大切。 水に渇き、旅に疲れている人をこの水で潤してあげる教会となりたい。 与え続ける(み言葉を伝える)業を通して、さらに先へ進みゆく希望を持つことがそこに起こる。 共に与えられて、いのちに生きる喜びの生活を呼びかけられている。 親は体力気力を衰えさせながらも、子どものために、 与え失い続けてなおそこに生きる喜びと力を受けている。

8月18日 平和を実現する

マタイによる福音書 5章9節 松本先生

 57年間(1945年の敗戦後)戦争のない状態を続けているのは、 先進国では日本だけと言える。それだけ戦争経験者が少なくなってきた。 有事法制に賛成した議員は戦争を知らない人たちであることを憂う。 自分の戦争は12才の時、今と違ってものを考えた。どうしても伝えねばとの思いが強い。 「戦争の仕掛けには大義名分がいる」。 強い側の「正義」と「利益」は、弱い貧しい人たち、女・子ども・老人・病人を犠牲にする。 歴史文書に残る反戦思想は、紀元前5世紀に書かれたアイスフィロスの「アレステレア」であろう。 アテネの市民を教育するための芝居(現在のミュージカル)に反戦の歌がある。 トロイ戦争を背景にしている。勝利の側も敗北の側も大変である。 勝利したギリシャの暴虐を神が裁き、メネラウス(ゼウスの弟)も船団と共に滅びてしまう。 待つ家族には骨と灰だけであり、親は子を弔い悲しむ歌である。 作家五木寛之は母のことを語る。心の中にくすぶり続けていた57年間を想う。 平和はつくり出すものである。文語聖書は「平和ならしむる者」とある。 芸術家が作品完成する、大工が家を建てる、農家が作物を収穫するには忍耐、労力、時間、金をかける。 平和も黙っていたら後退する。声を出すべき、語るべき時がある。 今こそあの時代はイヤだと声を上げねばならない。 世界の人口を「100人の村のたとえ」から、今の私たちのこと、世界のことをもっとよく知ることになろう。 平和はつくり出さねばならない。(文責 阪井)

8月11日 我山に目をあぐ

詩篇 121篇1節〜8節 阪井牧師

 登山で山を見上げるのは、目指す頂上を期待してのことである。 聖書の「山」は神殿に詣でるエルサレムを望み見ての表現となっている。 まだ頂上にたどり着けないあの苦しい山ではない。 そこで神を礼拝できる喜びと感動とが共なっている表現であることを想う。 ここに至るまでの様々な困難や不安があるけれども、神を礼拝し賛美することができる喜びはそれを越える。 山を見やりながら「わが助けはどこから・・・」と口ずさむ歌には「天地を造られた神から」とある。 元来イスラエルの神はその民族の神であった。 しかし、天地を造られた神とはすべての者の神、世界の神、私たちの生きるをも死ぬるをも支配されている方である。 私たちの立っている足をしっかり支えて下さっていることを示している。 大国に挟まれ苦境にあっても、不安や驚きの只中に在っても動じることなく、 主に信頼する信仰に立ち続ける姿勢が「山を見る」ことの中に確信となっている。 自分の信じる力がそれを可能にするのではない。 気負いはなくひたすら、主を信頼するのである。 懐に抱かれる自然ではないその旅の中で自分の生活を捧げて歩む姿をここに見る。 自然と闘いながら神が働き、生かされて生きる喜びが賛美となる。 先ず慣れた自分を中心とする生活を出て、初めて主が与えて下さる約束の地に至ることを彼らはその歴史から学んでいる。 荒野を旅した者こそが知る恵みをこの賛美から学びたい。 驚くな!おののくな!との励ましを得たい。

8月4日 人は何者?

詩篇 8篇1節〜9節・ヨハネの第一の手紙 4節〜9節 松本先生

 

7月28日 祈りには力がある

ヤコブの手紙 5章12節〜20節 阪井牧師

 新しい戒め「互いに愛し合いなさい」を主イエスは与えた。 条件は「わたしがあなたがたを愛したように」である。 しかも最後の晩餐の時、食事の主人であるイエスが弟子たちの足を洗ったすぐ後のこと。 洗足は本来奴隷の仕事であった。 つまり主イエスが求められた「愛」は感情や嗜好の類ではない。 その人の生き方、生涯をそこに集約し、意思決断したものだと知る。 教会はその言葉を聞き、キリストの福音によって立つ。 その教会の人々に向かって「誓うな!」と語る事情は不明。 だが想像は出来る。 自分の正しさを主張強調するための誓いだと。人間は不真実である。 それを主の真実で保証しようとする誓いが教会に入ってきたことを想う。 そこで、私たちの真実が主イエス・キリストのきのうも、今日も、また永遠に変わらない方を証しするように求められていると受け取る。 「しかり」の時は「しかり」と答え、「否」の時は「否」の真実の言葉を語ることを求めている。 それには祈りの裏付けが要る。 見えない方に向き合う言葉、その方に信頼し自分の一切を差し出す。 そしてそこから聞く語りかけに自分を委ねる時、 他者を励まし、慰め立ち上がらせることが起こる。 主が共にいてくださるからである。 祈り訴えることを求めて下さる幸いを感謝しよう。 呻き嘆きの中から主の働きを受けて立ち上がって行く。 めげずに希望をいただいて進む。 神の基準に自分を合わせていくことが祈り。 祈りはみこころがなるよう求めるにその人を変える力を持っている。

7月21日 義認の信仰

ローマ人への手紙 4章1節〜25節 阪井牧師

 義認は正しいと認めるだけでなく、「よし」として受容することでもある。 しかし、その主語が問題である。 正しくない者を「よし」「かまわない」とするためにはその責任を負う者が主語となっている。 本人に代わって責任を引き受けるのが贖い(あがない)である。 キリスト教信仰のツボの一つである。そこでは本人の努力が条件にならない。 神の意志が働いた、と受け取る。しかも自分のいのちに結びついたものとした。 これが教会の伝える福音の中心である。 あのパウロは神に近づくために精一杯の努力をした。 そして得た結論が、わたしにとって益であったそれら一切を、キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、「損」と思うに至った(ピリピ3章)のである。 神に近づいているつもりが、逆らい敵対し、より遠ざかっていると知らされ、 その自分に代わって償う方と出会った。 自ら十字架につき、その死から甦られた。 それこそが主イエスをキリストと信じるすべての者に永遠のいのちを約束して下さった約束のしるしであった。 この信仰をあのアブラハムが証ししている。 神のことばで示された約束を信じて受け取った。自分をかけた。 どんなにその約束内容が、自分たちの目に現実からかけ離れていても信じ従った。 自分の経験や知識がかえって邪魔になった。 疑い迷いのトマスに向かって語られたイエスの言葉を想起する。 「あなたは見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」と。 信仰は約束を受け取る事である。

7月14日 主は答えられる

詩篇 120篇1節〜7節 阪井牧師

 見方・考え方を少し変えるだけで聖書の言葉の味わいに変化があることを知る。 つらさ・苦しさはイヤなことに違いない。 でも生きるために必要な逞しさや知恵を得るチャンスでもある。 不自由さはそれに代わるものを生み出し、ストレスが生きる希望を伝えるように。 詩篇の作者は神に向けて苦しみや厳しさをただ嘆くのではなく、歌を捧げる。 破壊力ある矢・鉄をも溶かす熱に悩まされるほどの中で神に叫んでいる。 二度と立ち上がることの出来ないようなダメージを受けてなお、主に呼ばわる。 それはこれまでの信仰生活の中で、どんな深い悩みであれ、複雑な問題であれ、 その中で主に呼ばわり、主がその祈りで答えてくださったとの神の確実な救いの事実を出エジプトの歴史を見る信仰、主から信仰の基盤ともいえるものに支えられているからだと言えよう。 「主に呼ばわると、主は答えられる」と。 私たちの礼拝もそのようでありたい。 一週間の生活を主のみことばによって歩む。 そこで真実自分の悩みの時、主に呼ばわり祈るのです。 神は答えてくださったとの喜びと感謝とを持ち寄り集まりたい。 その時礼拝での祈りが真実となるのです。 そこに霊の交わりが生まれる教会の姿が現れるのです。 み言葉の前に自分自身が真実に生きていくからこそ「主が答えてくださった」と言いうる所が与えられる。 破れや躓きは恐れることはない。 主が答えて下さる、との信仰を見失わないようにと祈る。 最大の魂の闘いがそこにある。

7月7日 主の恵みとあわれみ

ヤコブの手紙 5章1節〜11節 阪井牧師

 1〜6節は富や、富むために陥ることへの戒め、7〜11節は忍耐、信仰者にとって耐えることはどういうこと、何のためかを語っている。 1節「富んでいる人よ、自分の身に及んでくる災いに思いをして泣き叫べ!」は現代の私たちにも語りかける。 富さえあれば、と幸せ追求をする現代人に厳しい問題提起である。 旧約聖書のイザヤはバビロンに向かって自分の平安と安心があると思っているが「滅びの日が近い事を知って泣き叫べ(13:6)」。 富は朽ち果て、一切が消えてしまう時がくると言う。心を磨り減らして疲れ、神とのつながりを失う。 やがては神の前に輝いているべき命が曇り、神を見失い、富と命が消えることになる。 主イエスは山上の説教6章で「地上に宝を積んではならない(19節)」 「富のあるところに心がある(21章)」「だれも2人の主人に仕えることはできない(24章)」と語られている。 自分回復を願いながら目先と瞬間の喜びを選ぶ私たちである。 だからこそ神は御子(主イエス)を豊かで尽きることのない富として示して下さった。 朽ちず虫に侵されず盗まれることのない宝のあるところに導き招いておられることを感謝したい。 箴言30章7〜9節の知恵の言葉を深く味わいたい。 「2つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないで下さい。 むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけて下さい。貧しくもなく、 金持ちにもせずわたしのために定められたパンでわたしを養って下さい。・・・」

6月30日 失われた羊

詩篇 119篇161節〜176節 阪井牧師

 遊牧民にとって羊は時に家族以上であった。 命をつなぐ大切な財産である。 聖書によるとイスラエルの人々は自分たち、神の民を羊になぞらえた。 そして神がそれを導く羊飼い・牧者と見た。 神礼拝になくてはならない犠牲の捧げ物でもあった。 主イエスは神の子羊として十字架についたと聖書は告げる。 そのイエスの語った譬えに迷い出た羊(失われた羊)がある。 イザヤ53:6では「われわれは羊のように迷って、各々自分の道に向かって行った」と反省を語る。 羊が飼い主の元を出るように神の民が神から離れたのである。 教会にもそのことは警告に聞こえる。 正しいと確信して選び取る道が飼い主を離れることであった。 しかし、飼い主の声を知り、呼びかけられる関係の中にあることを知っている。 救いはそれを知ることではない。 自分が迷いの中にあるゆえに呼びかけに応ずることにある。 またいつでも迷い出る者であることを自覚して飼い主の声に導かれることにある。 119:176に「探し出してください」との言葉は強い信頼がその言葉の後ろにある。 主イエスは「わたしはよい羊飼いである。 よい羊飼いは、羊のために命を捨てる(ヨハネ10:11)」と語っておられる。 飼い主の言葉を聞くことが命に関わる時、それは制約や縛りではなくなる。 本当の自由を知るためには不自由さが要ることに気づいた、と語った人がいる。 思い違いをして道から外れることがないようにしたい。 所詮迷いやすい羊のわれわれである。

6月23日 わたしの父は農夫

ヨハネによる福音書 15章1節〜11節 阪井牧師

 遊牧の民イスラエルが神から与えられた約束の地は『嗣業』と言った。 単なる財産を継ぐことではなかった。 現在パレスチナ自治政府側とイスラエル側が血を流して争う背景には政治だけではなく、 信仰の問題を含んでいると考えられる。 1984年までこの地上からイスラエルが国家として存在しなくなって長い。 傀儡政権の時代からでも悠に2000年を越える。 B.C.587年に南イスラエルはバビロニアに滅ぼされた歴史の事実に神の裁きを見、 同時に神の憐れみを見た。裁きは捨てるのではない。 悔い改めによる再起を神は見ておられる、と受けたのである。 信仰の恵みである。 農夫はブドウ畑を管理し、ブドウの成長を楽しみ手入れを心注いでする。 「わたしの農夫」と主イエスが語る父はこの憐れみと恵みの神である。 その農夫がまことのぶどうの木を手入れされる。 その枝は幹(主イエス)につながっているもので幹から必要な養分を受ける。 だが、良い実を結ばせるためには剪定をしなければならない。 単なる命令や裁きに聞こえるとしたら苦痛に違いない。 自分の力で幹につながっていると思うなら仕方ない。 幹に「支えられ」「守られ」「生かされている」ことを自覚的に感謝できる者はさいわいである。 「わたしの愛のうちにおる」のは自分ひとりの力で獲得するものではない。 赦しと恵みがそこにある。 これを喜ぶことが出来る時、このことが同時に農夫の喜びでもある、という。 弟子であるのは弟子にされることに依っていることを改めて知る。

6月16日 朝早く呼ばわれ

詩篇 119篇145節〜160節 阪井牧師

 現代の人々は「生きることの真実を求め訴えて」いる。 それが赤提灯やカラオケに流されている事を教会の責任として問う友人がいる。 この詩篇にも同じ求めがある。 しかし自分の満たされること、自分の救いが先にあって神に求めるのではない。 順序が違う。 神が命じ求められることに応える力を持つため、私の今日生きることの真実を与えてください、と求め訴えている。 自分の思いに先立って神は慈しみと愛と正しさを与えて下さるとの信頼がそこにある。 「夜警の交替する前」は夜明け前であろう。 それほど強く神への期待と求めを表していることを想う。 危険や苦しみ、あるいは悩みを自分一人で負いきれないので代わって負って欲しいと願いをし、訴えている。 これは主が与えて下さった約束・神が語って下さった言葉は真実であり、神は私どもの近くにおられるとの確信がより強い祈り熱心な祈りとなっている。 ゲッセマネの園で祈られた主イエスは父なる神を信頼された姿を示された。 その祈りに弟子たちは学んだ。 かつては捨てて姿を隠した弟子たちが祈りの人として教会に使わされた。 使徒行伝は、その記録に詳しい。 夜を徹して祈る教会、捕らえられたペテロを思って祈りつづけて神のみ業がなると祈った教会、 新しい幻を与えられて示された所に出ていく使徒たちは神のみこころがなるように祈る姿を主イエスから教えられたであろう。 夜が明けるよほど前に祈られた主イエスの姿に私たちも学びたい。 呼ばわる者になりたい。

6月9日 あなたは何者か?

ヘブル人への手紙 4章11節〜17節 阪井牧師

 「言葉に気をつけるように!」の注意だろうか。何も教会に限ったことではない。 世間で、人が集まるところでは心得るべき戒めである。 なぜ聖書は特別に取り上げて書いているのだろうか。 聖書の意図は、神の前に生きる人すべての人に向けての勧めである。 人の持つ愚かさは神の前に正されなければならないのである。 創世記の3章に神からの戒めを破る話がある。戒めを破ると命を失う、と話されていた。 一人ではなく、神から与えられた人を通して戒めを破ることが起こった。 つまり教会の中においても命を失うことが起こることを示している。 世間の人が犯すのは仕方がないにしても、教会の中で起きる。神に近くあろうとするところにである。 主にある兄弟の交わりの中でその兄弟を裁くことがある。 これは人が神の領域に入り込むこと、人の限界を越える誤りを犯す事だとの戒めが語られている。 神の楽園で神の戒めを犯した人に向かって、神は「あなたはどこにいるのか」と問いかけられた。 主イエスとの交わりにいる人に向かって「あなたは何者か」と問われている。 兄弟と共に主から受けた使命の大きさ、困難さ、自分たちの非力に嘆いて乱れ、対立することや自己正当化のために他を責める事があってはならない。 誰でもが陥る所に立つな、と。主がおられる、主が語られるのに、その前に立ち塞がってはならない。 むしろ自分の非力故に主に祈り助けを求めるべきである。主が僕として用いられることに仕える者になろう。

6月2日 目が期待するもの

詩篇 119編129節〜144節 阪井牧師

 形・色・声が快く好ましい事を指して「美しい」という。主観的には「快い」の言葉となる。 神による世界の創造を「美しい」と表現しているところから、人は絶えず求めているものと考えてよい。 思いや心は感じるもの、目が見るのとは違うことを示している。 主イエスがきたのは「見える者が見えなくなり、見えない者が見えるようになる」ためであり、 さらに「見えると言い張るところに罪がある」との不思議な言葉がある。 生まれつき目の不自由であった者が見えるようになったことよりも、 何の権威がそれを起こさせたかに人の関心がある。 聖書によると、神は特権を持つ者や地位、誇りを持つ人を退けられる。 神が用いられる時、それらがすっかり剥げ落ちた状態に見えることをモーセの例でも知らされる。 見えるものは神の、みこころに逆らい対立するしかない。 キリストと出会う以前、パウロは迫害に息をはずませた。 だが彼の持つすべて益であったものを、キリストの故に損と思うようになったと語っている。 自分の立つところさえ見失って初めて、神はそれを用いられる。 自分がいくらかの功をなし得ると思える時、神はそれを喜び用いられない。 人の目には最も良いと見える時でさえ、神の前によしとされない。 人の目の願うところがいかに神のみこころから遠くにあるかを知らされる。 弱さと小さいところに神は強く働かれる。 周囲の目が気になる時、祈り信仰の恵みを求める術を生かし用いたい。

5月26日 語らざるを得ず

使徒行伝 4章1節〜22節 阪井牧師

 始末に負えない人、それは自分の持つ秩序の中に入ろうとしない人である。 邪魔で仕方ない。 そこで叩きの潰すか、取り込んでしまうのかを試みる。 世の知恵であろう。 ユダヤ教の世界で語り出した主イエスの弟子たち(イエスの死後使徒と呼ばれている)は目障りな存在となったろう。 町の裏通りでそっと暮らすならよい。 時たま彼らが都エルサレムに来るのは大目に見ることにした。 だが神殿境内で目立つ動きをするのは大胆すぎる。 イエスを死に判決した議会に召し出した。 「何の権威、だれの名で?」と威嚇した。 ペテロは聖霊に満たされて語った。 「取調べを受ける業の事。それは十字架に死んで、甦らされた方、あのナザレ人イエス・キリストの名による。 この人による以外に救いはない」と。 自分の信念や主張を強調しているのではないことを読みとりたい。裏切りと誘惑に弱く、 脆いのが人間を根拠にしたものであることを体死刑判決を下したその議会・あの権威ある人々の前で「私たちを救いうる名は、 これを別にしては、天下のだれにも与えられていない」と毅然と語った。 議会によって立つ根拠と全く違うところに立っている。 イエスと共に生きているもの、つまりイエスによって生かされているものを認めざるを得ない結果がそこに生じた。 聖霊は私たちを敢えて用いるために力を与える。 自分の事実を喜び語るように、と。

5月19日 もっと近く

ヤコブによる福音書 4章1節〜10節 阪井牧師

 絶えずほめ称え続けている口は、呪いや汚れを同時に語ることはできない。 ほめ称えるためにはその源になる言葉を聞く上からの知恵が要る。 神に近づく、つまり自分を離れることでもある。「自分を抜け出る」の家出とも言えよう。 繰り返しになるが、それは神に求めることである。 これを「求めなければ与えられない信仰の鉄則」と言う人がいる。 求めても与えられないのは、本当に求めていないからだとも言う。 神は求めている者を辱める方ではない、との確信に立つなら、神はご計画をこの自分にも進めておられる、としてその時を待つのである。 信頼して待つことが神のみこころであると受け取ることは、その時間が長ければその分だけ神の前に整えられ清められる時となる。 自分の主張や心の訴え、求めが整理される。神の名のためとは言葉に出ても自分の思いを貫くことに力が入っていることになっていないか、 神のみ名があがめられると同時に自分の名があがめられようとの思いはないか、を自己検証する時となる。 神は最も良い時を備えてくださる、その時を待つのである。忍耐強く求めていくことが大切である。 神にもっと近づこうではありませんか。 自分の限界を心底から認めるに至るまでもがいたパウロは、神の恵み・福音の真実は自分を磨く事ではなく、 信仰による義(ローマ1章17節)を受け取った。生きる喜びが与えられたのです。 真の「へりくだり」が生きる喜びとなり、より神に近づけられることになるのです。

5月12日 心に留めた主の母

ルカによる福音書 2章41節〜52節 阪井牧師

 聖書のユーモアのように思える記事である。 ユダヤの伝統習慣による少年12才の神殿参りの場面である。 神の民として信仰の自立を促し、家族で祝いをする。 特に男子にはエルサレムでの神礼拝が聖書に約束として記されている。 出エジプト記23章14節や申命記16章16節にある。 ガリラヤという地方から家族や近所の知人たちと旅をする雰囲気は、 多分お祭り騒ぎではなかったろうか。 その帰りに子ども(イエス)がいない。 と気づいた親の驚きと慌てふためきは言うまでもない。 都からの帰路にある雑踏の中に子どもを捜して、都にまできてしまった。 3日の後との数字がある。 探し当てた親が子どもへ心配苦言をした。 子は口答えをした。 「・・・わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」と 中心におられるはずの方が、雰囲気に自分を託しているうちに、 見失った話しだとすると笑ってはいられない。 教会の集会に、自分たちの家族や夫婦の間に、また自分の生活の中にとの問いかけを受ける。 どこかに残してきてはいないか、と。 聖書の中に主イエスが語られた最初の言葉が先の口答えであるのもおかしい。 そして見つけだしたところが神殿の境内で、 しかも教師たち(ラビ)に話を聞き、尋ねていたのである。 母の日にイエスの母の記事を選んだ。 この時のことを「母マリアはみな心に留めていた」と記事を結んでいる。 親としてこの言葉「心に留める」を味わい、励ましの力と受け取りたい。

5月5日 足をとどめて

詩篇 119篇97節〜112節 阪井牧師

 「乳と蜜の流れる地」と旅先を聞いて、さしずめ果てしない理想郷をイメージしてもおかしくあるまい。 穀倉地帯のエジプトに住むユダヤ人たちはどんな思いでそれを受け取ったであろうか。 今日とは逆に難儀で命がけの決心をしたのであろうか。 約束の地「乳と蜜の流れる地」への行程が近道ではなく、荒れ野に導かれた(出エジプト記13章17節)説明がある。 神の約束の地よりも、少々の不満はあってもそのまま現地(エジプト)に留まり続ける方が生活は良かったとも思える。 だが彼らは旅立った。そしてシナイ山で神の民となる契約を与えられた。 主は昼は雲の柱、夜は火の柱をもってその民を導いた、とある(13章21節)。 詩篇119編の97節は「おきてを愛する」と言い、101節でみ言葉に心を注ぐため「足をとどめ」る。 105節では「足のともしび、道の光」との信頼を謳う。 あなたは自分の人生の道を急いでいないか、との問いが聞こえてくる。 自分の生命、魂、自分自身は自分の手の中にあるとする時、それ程確かなことはないように思える。 それ程、実は危険でもあるように思う。 砂漠や荒野に、また争いの厳しさにあっても、なお生きる力と生き続ける希望が持ち続けられるのか。 主のおきて、あなたのみ言葉にこそそれがある、とあの出エジプトの歴史的経験から確信を語っているのを聞いて大いに励ましを受ける。 方向と目的が神のみ手にある、との信仰をいただいていることを喜びたい。その足をとどめて、み言葉に聞くことができるのですから。

4月28日 種が実となる

ヤコブの手紙 3章13節〜18節 阪井牧師

 穏やかで優しい人に出会うと心は安らぎ自分を回復する。 それを求めながら自分ではそうあることが容易でない。 息苦しさをさえ覚える。 主イエスの歩みや足跡を見る時、主は自ら傷つき弱く貧しい人に神のいのちにあずかって生きることを求められた。 「主イエス・キリストは富んでおられたのに、あなた方のために貧しくなられた。 それはあなた方が彼の貧しさによって富む者となるためである(第2コリント8章9節)」の言葉から、 外に柔和であるためには内なる世界に激しい闘いがあることを知る。 ゲッセマネの園の祈りを想起すると良い。 十字架の上での祈り(ルカ23章34節など)を聞くとよい。 主イエスが息を引き取る様を見てローマ兵は「まことに、この人は神の子であった(マタイ27章54節)」と告白をした。 主イエスの柔和は圧迫され、 なすすべもなく沈黙をしてしまうのと違う。 押しのけ、凌駕するだけの力があっても事実を敢えてそのまま受け取るのである。 父なる神のみ心を行なわれるからである。 神から与えられ贈られた知恵を持つ私たちは、 日常の生活においてこの柔和な優しさを証することをヤコブ書は語る。 柔和はその人自身のものではない。 主のみ心に従う徹底さに裏打ちされているものである。 主イエスの十字架に至るまでのあの柔和さに私たちが平安を与えられ、 そこに留まるとき、真の力が現れてくる。 主に徹底して従う時、 人の生き方を変えるほどの穏やかで優しい愛に輝く人に私たちが変えられていく。 主の種が私たちの実りとされる。

4月21日 いのちの種まこう

コリント人への第1の手紙 3章1節〜9節 阪井牧師

 先人が残した生活の知恵の言葉に「好きこそ物の上手なれ」がある。 これは本人が口にしたものではなく、ひたすら打ち込んでいる姿をみて他の人が評価表現したものであろう。 本人はそれどころではない。 一息ついて振り返ると、以前の自分との差を見て驚くだけだろう。 打ち込み方の手法や道具に価値を見るなら表現も異なろう。 ギリシャ最大の繁栄地コリントの信徒に宛てた手紙は、 彼らの集会の生みの親であるパウロが書いた。 自分の姿を気にし、 自分を誇ろうとする教会の中に現れている姿勢に対して鋭く急所を見抜いて正そうとする親心を見る。 信仰の導き手・指導者パウロやアポロを語ることから陥る誤りを指摘して教会の本質、 信仰の本筋を示すのである。 キリストの十字架以外に語るに足るべきものはない。 教会の一切は十字架の言=主イエス・キリストにかかっている。 世の人にとって躓きや滅びのしるしが神の霊を受けるなら、 霊はその人に働いて救いの力となる。 救いはある瞬間ひらめく悟りの類ではない。 求め慕い続ける中に主の霊が働くのである。 主に向かって打ち込む(生きる)だけである。 確かに「今」の自分は「かつて」を経過している。 「かつて」が意味を持つのは「今」による。 神の働きに与える物「今」は、その成長をもって神に仕える者となる。 神の恵みの中に懸命に生きていることによって成長する。 それを「神の同労働」としていただくのである。 いのちの種をそのようにしてまき続けられる幸いを喜び味わいたい。

4月14日 救いを慕う

詩篇 119篇81節〜96節 阪井牧師

 知りたい。その思いが募って知らないものをも知ったつもりになるか。 知っていてもなお知りたいとの思いを持ち続けるか。 創世記の3章には神と同じように知ろうとした人間の罪が語られている。 神の領域に人間が入り込もうとしたところに人間の犯す誤りがある。 命を失う誤りは「罪」である。 手を伸ばして届くものは人間の思いのままにして良いわけではない。 周囲を見廻すことなく自ら決断するべきことだと詩篇は詠う。 神ご自身の支配が私を覆って生きる力となって私に臨んでくださいの祈りになっている。 手を出したら届くところに欲しいものがある。 けれどもそれを自制する力は「神の言葉」だと語る。 使い道のない皮袋(85節)のような自分が、なお希望を持つのは神の約束の言葉、 それこそが救いである。(94節)、と。 苦悩や絶望の中にも前に向かって生きる力は神の定め、戒めである。 固定化し、閉じ込めると人は窒息する。 神の言葉が生きる力・神の息吹を受けることになるとの信仰告白を学ぶ。 苦悩や息詰まりは神への思いを強くするためにあると受け取るなら、人は強くされる。 髪から離れようとするなら神の戒めは人をさいなむ。 しかし神に生き、世の自分とに闘いを続ける者には、 神の言葉が生きる希望となることをこの詩篇から知らされる。 主イエス・キリストは律法の完成・成就であると語られた(マタイ15章17節)。 私たちはこの方の名によってのみ救いが与えられる。 との告白を続けるのです。救いを求めるのです。

4月7日 舌は火?

ヤコブの手紙 3章1節〜12節 阪井牧師

 信仰を行為において証しすることがテーマになっているヤコブの手紙は、 3章でその内容を“舌”に焦点を当てている。 「イエスは主である」との告白と「日々の生活の中心を主にする」こととに違和感がないか。 互いが別のことであるとするなら「舌が二枚ある」のに似ている。 私どもの実生活には、自分で負うことのできないこと、 息が詰まり、苦しくつらいことに向かわざるを得ないことがある。 自分に明らかな責任や過失しくじりがあるなら、まだしもである。 自分のあずかり知らない荷を負う責任はやりきれない。 若き時は周囲の責任と訴え暴れもする。 だが、どこへも持って行けないことを認識できる大人にはどうだろう。 この世に向き合う教会の最も大きなテーマは、世に馴染むより、 復活の主を証しすることにある。 主イエスは全ての終わりである死の墓を破って新しいいのちの世界を示してくださった。 墓を破ることのできる希望が私どもに与えられている。 どんな行き詰まりにもくじけない。 それは主に希望を託す信仰である。 たとえ自分は終わりかけていても、主が共におられる教会につながる者は、 神がみ心を行われる希望を持ち続ける。 世は諦めを求め、説得さえ始める。 或いは嘲笑する。だが信仰の舌はくじけない。 沈黙という方法を知っている。 神をほめたたえ続けることがその姿勢を保たせる。 それにはキリストの言葉を豊かに宿らせることにある(コロサイ3章16節)ことを聖書から学ぶ。

3月31日 恐れるな!行け!

マタイによる福音書 28章1節〜10節 阪井牧師

 「わたしにつまずかない者は、さいわいである(マタイ11章6節)」の言葉は、 ヨハネが獄中から弟子を介して尋ねた主イエスの返事に含まれていた。 最後の晩餐の場面において、主イエスが弟子たちに語られた「今夜あなたがたは皆わたしにつまずくであろう(マタイ26章31節)」 の言葉にも「つまずく」がある。立っている土台が揺れることを意味する言葉である。 自分が命をかけて生きてきた人から、その「かけたもの」を取り去られたらどうかを想像するとよい。 どう生きたらよいのかが分からなくなる。それが死である。 主イエスが語られた言葉には、そのことが先取りされている。 私たちにとって終わりである死に対して、主イエスは終わりではないことを語られたのである。 それが神の子が十字架に殺されることである。誰がそれを正面から受け取れるであろうか。 しかし、十字架があってこそ、復活がある。すべての人が真の命を生きるために、主イエスはその道を敢えて選ばれた。 死を克服するために、いや、すべての人に永遠の命を生かすために十字架への道を歩まれた。 誰も、あの十二弟子たちでさえも理解できなかった。つまずいたのである。つまずかなければならなかったのである。 真実に主をわたしの救い主として生きるために必要であった。 復活の出来事を受け止めるものに与えられる使命がある。伝えるのである。 「恐れるな!わたしが先にあなたが行くべき所で出会う。」「行け!」と語られたことを喜ぶのです。イースターおめでとう!

3月24日 この人はだれ?

マタイによる福音書 21章1節〜11節 阪井牧師

 星に導かれて東から「ユダヤ人の王」を尋ねて旅をしてきた博士たちは、エルサレムに来た。 しかしその方はベツレヘムにある宿屋の家畜小屋・飼い葉桶の中におられた。 この方はその後どうなったのか?30数年後、 ユダヤの過越の祭りの時にナザレのイエスを中心にした小さな集団がエルサレムにやって来た。 多くのユダヤ人が歴史と伝統を強く意識しながら、 エルサレムの神殿に詣でる時でもある。 誰も乗ったことのないロバに身を委ねてその人はやってきた。 歓呼の声をもって歓迎したのは『シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。 見よ、あなたの王はあなたの所に来る。 彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。 すなわち、ろばの子である子馬に乗る(ゼカリア9章9節)』を知る故である。 イエスが十字架についたとき、顔に血を滴らせながら「いばらの冠」をかぶる王の姿であった。 歓呼の声は日曜日、十字架は金曜日であった。 異邦の汚れを清め、預言の実現で自分を満たしてくれる方として期待した。 新たなる目的、神のまことの支配が行われるために来られたのに、自分の思いの方が強かった。 王を迎えるのは自分をその支配に委ねることである。 「この人はだれ?」は全くの思い外れを意味する。 受難週を過ごす時、主イエスの受難を見つめる必要がある。 自分を委ね切れているかどうか、 の自己吟味は次のイースター・死を勝利された事実がより大きい喜びになるかどうかにつながるであろう。

3月17日 普通の人の罪

ルカによる福音書 23章13節〜25節 松本先生

 イエスが十字架につかれたこと、病を癒し悪霊を追い出す記事は不思議である。 罪の赦し(心を苦しめる原因から開放する神の赦し)を宣言する。 人々が集まった時、弟子たちは気づかなくても殺意を察知し、 群衆から離れて弟子に自分の取り去られた後の訓練をした。 エルサレムの歓迎にも表面と異なる水面下の流れを読みとっている。 神冒とくで死刑の判決を大祭司の前で受けた。 さらに総督のまえでもう一つの裁きを受けた。 「ユダヤ人の王」が罪状書きになっていた。 ピラドは罪を認められないため、特赦を提案したが群集は十字架を求めた。 歓迎した者、癒された者もいたかもしれない群衆の声がピラドに勝った。 彼らは極悪人ではなく普通の人であった。 ローマ人もユダヤ人も日本人もそういう(長いものに巻かれ、圧力に屈する)罪を持っている。 ローマ3章24節にはそれが「無償で、神の恵みによって義とされる。」とある。 これが救いである。 イエスは弱い者と共におられるだけではない。 死が終わりにならないことを示してくださった。 頭では分かっていても死は全てを打ちのめす。 最愛の家族が取り去られ、すべてが終わって何をしてよいか分からなくなる心の傷を癒すのは富、権力、名誉ではない。 主と共に生きる希望、支え生かす力を与えられるのが復活信仰である。 イエス・キリストの事実(神がひとり子を私たちへの愛の故に犠牲となり罪を赦してくださったこと)を受け止めることができるよう信仰の祈りをしよう。

3月10日 神を畏れる知恵

詩篇 119篇65節〜80節 阪井牧師

 「失われたもの」を見出す喜びの譬えを主イエスは話した(ルカ15章)。神との関係のことである。 失われた状態にあることをどのようにして知るのか。あるべき基準が必要となる。 私たちの生活環境は今日その基準が分からなくなっている。妙なものを基準に持ち込まれたくない。 過去の経験を活かしたい。ユダヤ人たちは自分が正しいとするものが真実正しいかどうかを吟味する基準に神との契約のしるし・律法であった。  契約にはいのちがかかっている。シナイ山で神の民の契約をした。 それがなければ荒野の旅で消滅していた民族であったとの認識が、律法に特別の思いを持たせている。 だから厳しい現実に向き合う時は、神との正しい関係に立ち返る大切な神からの憐れみとして喜びに感謝する(72節)。 責任転嫁や自己正当化するよりも、神との正しい関係に自分を正そうとするその信仰はただごとではない。 相手を問う時、自己正当化がその背景にある。砂漠の生活はその思いを持つことさえ愚かしい。 知恵の王と呼ばれるソロモンが王位についた時、長命・富・敵の命を求めず、聞き分ける心を神に求めた(列王記上3章3節〜14節)逸話がある。 ソロモンは神から賢い、英明な心が与えられ、加えてその他のものも与えられた、とある。この話は夢であった(3章24節)。 この詩篇者は、神を畏れること、あなたの証しを知るもの、こころを全くしてあなたの定めを守れること、を求めている。 わたしたちは神に何を求めるのでしょうか?

3月3日 信仰は見えるか?

ヤコブの手紙 2章14節〜26節 阪井牧師

 手のかかることを比喩して「赤ちゃんのよう」と言う。 赤ちゃんは全てを委ねて、ただ泣くだけなのに、そこが活気に満ち生き生きとし、 親・大人・周囲に向けて生きることへ促す働きをするから不思議である。 一方自分を保とうとする手のかかる人がいる家庭は暗く、重い空気の漂う雰囲気を感じさせる。 自分を保とうとすることが重いのであろう。 ヤコブのこの箇所には、泣いて訴えるしかない私共が主に向かって泣くことにより神の家族として教会に集められ、 交わりに加えられた者が成長させられ、与えられた使命に生きるよう促されることを響かせている。 神のみ業に人が何かをなして信仰というのではない。 主イエス・キリストにおいて神がなして下さった一切を受ける罪からの解放=赦しに生きる信仰とは何かを語っている。 行為と信仰の問題にしてはならない。むろんのこと攻撃や非難のための問いではない。 信仰の真実の不思議が証しされている。 委ねるしかない全く手のかかる私共に神の手が働く時、私共の成長のみならず、 そこにいる人々が神に向かって生きる信仰に目覚め、人の業・姿から目を聖書に向け、 神の言葉に立ち返らせることが起こる。 自分を保とうとすること、つまり自分の力を発揮して、 他者を力づけたり生きる希望に至らせることができると思うことが神の働きを困難にさせるのである。 何かをすることが自分のために過ぎないからを想う。 息切れのない神の愛に生かされ生きよう。ここに信仰の奥義がある。

2月24日 歌となる言葉

詩篇 119篇49節〜64節 阪井牧師

 神がこの世界に働きかけられたのは言葉であった。ヨハネ福音書は「初めに言があった。 ……この言は初めに神と共にあった。……この言に命があった(ヨハネ1章1節〜)」 と記している。さて、人間は自分の知恵という誘いの言葉によって神との関係を見失った。 そのため人間は人のいのちを扱うことによる重荷を負うことになった。 自分で正しいとすることが、神の前でよしとされるとは限らない。 神の言として失われた関係を造りだしてくださる方である、み子を十字架にかけたのは、神のみ名において、主イエスが神の名を汚したと断罪してのことである。 自分の信じる確信に立っている思いが強かった。 神の言を聞いたことがない者のことではない。かつてあった関係を失うのは、語られる言葉を聞かなくなったことにある。 この危険は今日の私たちにもある。54節に「あなたの定めはわが旅の家で、わたしの歌となりました」とある。 定めは神の言、旅の家は地上の生活・日常の生活である。 したがってこの詩は、主からいただく言・めぐみとまこととに満ちたいのちの言(主イエス)が神をたたえる歌になる。 主をほめたたえ、讃美することのできることは、神の祝福にほかならない、と喜び歌うのである。 あなたの言葉に生きる者として、主よ手放さないでください、と祈り歌う信仰をここに学ぶ。 祝福を受ける時讃美するのではない。讃美することのできることが祝福であることを改めて味わいましょう。主に従うことが讃美であるとは。

2月17日 キリストを模範として生きる

ピリピ人への手紙 2章1節〜11節 松本先生

 「喜び」の語が何度も出てくる書である。ローマ大火(70年)の前年に処刑されたパウロが、 死を覚悟した囚われの身で書いた手紙である。 1章27節の「福音にふさわしい生活」が中心テーマである。 2章5節に「キリスト・イエスにあっていただいているのと同じ思い」を教会の中で活かすようにと説明している。 6〜8節はキリストの賛歌である。至高の神が人となり、十字架に至るまで神に従順であった。神はこれを高く挙げられた。 父なる神は自分と同じ本質を地に投げ捨てた、下降の神である。 この神をほめる=賛美する。美をほめる。完全なかたちを美しい(美)という。 高いところの方が、低きに自分を投げ捨てる。誰にも助けられず、理解されない世界一低き位置に身を置かれる。 破れ果てた美しさ、そこに救いがある。これが美しさである。 13才で発病して70才になるハンセン病の方に泥田に咲く蓮の花のような美しさを見て、 神の美しさ・救いは汚れや破れのまま受け入れ許してもらうことにあると思えた。 本当に苦しんだ人は他の人のそれを受け止める美がある。 漢字の善・義・美には羊の字がついている。義は社会的責任の意(イエス・キリストの犠牲を皆で負う)、 善はいけにえを供える台を表す(程よく担っている)、 美はいけにえの羊が大きいことを示す(自分がない・己を捨てる=イエスの姿)を見ることができる。 われわれも己を捨てて、主イエス・キリストに倣おうとパウロは勧めている。

2月10日 豊かな者の貧しさ

ヤコブの手紙 1章1節〜13節 阪井牧師

 「キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、 神に生きるため」であり、「あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、 キリスト・イエスにあって神に生きている者である」から、「罪から解放され、義の僕となった」とパウロは語った(ローマ6章)。 僕(しもべ)とは奴隷を意味する言葉である。主人がおり、 自分の内なる思いとは関係なく主人の意志に従うことを引き受ける者である。 神に生きる義の僕は、神の意志に従うべく遣わされる。 イエスをキリスト、わたしの主であると告白する者は、キリストと共に生きる。 ここに世のものと異なる豊かさがある。 自分の感情や心情に駆られる時にも、自分に正直であるよりも主イエスの意志を生きようとする豊かさである。 それは自分だけではなく、主イエスが耐えられない自分を引き受けて下さるとの確信を持つことによる。 ヤコブの手紙の日常的な勧めの言葉は、苦しく厳しい時に、ここに立ち返るようにと聞こえる。 主イエス・キリストを仰ぎ、主イエス・キリストの名において祈ることができるのがこの私たちである。 貧しくてどうしようもないからこそ、神は私を選び、世にはない豊かな者として扱い用いられることを知らされる。 (世への影響力・知名度・社会的地位など)外側を見るのが人の常。 土の器を愛し用いる方に集められた、キリストをかしらとする教会は世の人の陥る誤りに信仰を委ねてはならない。 神の豊かさに生きるのである。

2月3日 あかしを語ろう

詩篇 119篇33節〜48節 阪井牧師

 12弟子の一人トマスの言葉があったから、私たちは心に残る主イエスの言葉に出会える。 「わたしの指を……、わたしの手を……、決して信じない」、「あなたはわたしを見たので信じたのか。 見ないで信ずる者は、さいわいである(ヨハネ20章)」。 「どこへおいでになるのか分かりません」、「わたしは道であり、真理であり、命である(ヨハネ14章)」。 詩篇119編の33節以下の段落を「道」と題することができよう。 定めの、戒めの、あなたの、掟の、悟の道、最後には「あなたの義(40節)」と言い換えている。 パウロは、悩み苦しんで「神の義は福音の中に啓示されている」「信仰による義人は生きる」に辿り着いた。 自分のあれやこれやの身の振る舞いに関係なく、主イエスを信じ従うことの中にだけ、神の正しさ(救い)にあずかれる、と言っている(ローマ1章)。 神の恵みである。 この恵みこそがあかしの力である。信仰は言葉で表しきれないことがある。 芸術はそれを助けている。 言葉で味わえない何ものかを示す。 こころがそれに同調する時、人は慰めや生きる力をそこから得ることが起こる。 「神が働いておられる」との体験を語る音楽の専門家たち(唐津東流氏・小沢征爾氏)がいる。 言葉が不十分でも良い。 わたしたちが、恵みに喜び生きていることそのことが「あかし」である。 主イエスを待ち望んでいた旧約の人々が、律法を求め叫ぶのはこの恵みを求めてである。恵みを知るわたしたちは自信と誇りをもって生きる証し人なのである。 感謝して生きよう。

1月27日 たましいを救う

ヤコブ 1章19節〜27節 阪井牧師

 「居場所がない」という。若者に限らない。立派な大人、 しかも地位ある人が使っている。職場や家庭にも自分の居場所がなくなってきたとこを証言する。 終身雇用を期待していたが、今はその保証がない。妻は社会的自立を始めた。 夫からも自立してきた。子どもは環境を備えられ、それなりの学校生活をする。 ところがこの家庭に隙間風が吹いている。生きる事への喜びが見出せず、不安が心を揺るがす。 その隙を狙うのがサタン(悪の誘惑)である。「自分を確認したい」思いが周辺に迷惑を及ぼす行為となる。 年輩者も互いに必要とし合う世界を自ら築かねばならない時代となった。 つまり他者によって自分が受け止められない。こころに隙間風が吹く時代に、聖書は私たちに語る。 聖書の言葉は人生訓の類ではない。人と人との言葉ではなく、神から人に語りかけられる「神の言葉」である。 たましいの救いに関わる言葉をここから聞こう。「聞くに早く」は、速度でなく、応答関係・人格関係の言葉として受け取る。 それは自分に都合良いものだけを受けるのではない。自分の中にある一切をひとまず外に出す。 すると思いがけなく神の言葉が取り入れられる。それを租借し、相手に受け取りやすく配慮する。 それが「語るに遅く」である。「神の言葉それ自身が語る」ことに仕えるのである。 その言葉は思いがけず、わたし共の遥か彼方にまで働く。他者に生きる力を与える出来事が起こる。 たましいを救い、新しい生き方を連鎖的に生み出すのです。

1月20日 目を開いて

詩篇 119篇17節〜32節 阪井牧師

 道のりの起伏だけが厳しいのではない。予測しない分かれ道を選ぶことも厳しい。 前進する気力を奪われること、逆に力付けられ励まされることもある。 心のなかに生じるこれらの課題を聖書は根源的な表現として「この世にあっては寄留者」という。 本来的永住の地でないところに生活する人を指している。神のみ元こそが本来的に住まう場所であることを示す。 「私たちの国籍は天にある(ピリピ3章20節)」との言葉がある。 地上にあって、この世にあって旅人・寄留者であることを言いうるのは、信仰から出た言葉であろう。 この人生の旅路に必要な道しるべ・ガードレールが掟、定め、戒め主のみことばであることを詩篇は歌っている。 ここにこそいのちの道がある。いのちに生きることができるみことばを守らせて下さいと訴えた。 主が与えて下さった掟によるみわざを見ることができるように目の覆いを取り払って下さい、との訴え表現もある(18節)。 ものが見えるには暗闇に光が差し込んでこそ見えるようになる。しかし、たとえ光が差し込んでいても見えないことがある。 目を開いていない時である。自分が目を開いていないそのことに気付かない場合がある。 自分は見ているのに見えない。それを主イエスは私たちに自らが傷つきながら示してくださった。 「目を開きなさい」との声を聞き取り、それに従う信仰の歩みをするために互いに祈り合う必要がある。 聖書のことばを聞き続ける必要がある。「み言葉を下さい」と求めようではありませんか。

1月13日 認められた喜び

ヤコブの手紙 1章12節〜18節 阪井牧師

 同じ言葉(πειρα=ペイラ)が試練と誘惑とに訳されるのに不可解さを覚える。 試練とは信仰を練り鍛え、成長させるため、神がみ心に適う信仰者とするために与えられたものと受け取る。 艱難・苦悩・悲惨など存在を揺るがす様々なものがある。 その際重要なのは信仰である。最後の晩餐の席で、主イエスの「あなたがたはふるいにかけられる時がくる」の言葉に、 ペテロは自分の意気込みを語った。 私たちもそう願いながら立ち続けられない程の衝撃を受けるときがある。 ペテロの言葉に続いて主イエスは「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った」と言われた。 私たちへの言葉でもある。信じ、自分をその言葉に委ねる時、立ち上がる力を与えられる。 信仰は自分の力だけでは保ち続けられないことを知る。 自分の力を振り回すなら、あのユダが歩いた道を辿らざるを得ない。 しかし、主イエスはそのような愚かしい者のために祈り、支えるとの言葉を与えて下さった。 この支えと祈りを受け入れる時、人は真に自分を生きる者になる。 どこまでも力み、自分で頑張ることが求められているのではない。 主イエスの恵みに自分を委ねたらよい。厳しい現実に対し、乗り越え忍耐する力はそこに与えられるのである。 「試練を耐え忍ぶ人はさいわいである」の意味は恵みの言葉である。 自分に拘る人は、神の霊・主イエスの恵みを拒む誘惑に陥る人となる。 既に私たちは恵みの言葉を聞いている、さいわいな人である。

1月6日 み言葉にしたがって

詩篇 119篇1節〜16節 阪井牧師

 イスラエルの民は神と民との契約に立ち、全ての民の祝福の基(もとい)としての使命を受けた。 だが現実は厳しい体験を繰り返す中で、いかに神の民であり続ける事ができるかを示すのが119編のテーマとなっている。 176節の構造は8節を1つの固まりとして、22のブロックから出来ている。22はヘブル語のアルファベットの数で、 そのアルファベットを使った言葉を文頭に置いた修辞法は暗唱を助ける。 神の民としての契約を支えるのが十戒を中心とする律法(トーラー)である。 旧約聖書の前5つの書をモーセ5書またはトーラーと呼ぶ。 神との関係・神から受けた召し(使命)にあずかる民は、 どのように歴史を歩むかの神の知恵がそこに記録されている。 国が滅び、神の民の共同体が外国の力に分断された時、 律法は形を変え文書化され固定化されて人々の生活に影響した。 法を守ることが先になった。 礼拝という神との関係は形を重んじることに傾き、形の先行が礼拝を成り立たせることとした。 礼拝を整え、礼拝に与る者が神の民の保証であるとした。 律法主義はそのようにして生まれた。 神の民としていのちを喜び生きる(神の約束)ことを伝える民が縛られ、窒息させられることになる。 主イエスは本来の姿を回復するために十字架の道を歩まれた。 この方が道となられた。み言葉である。 ここに私たちのいのちがある。この道を愛し、自分のものとする決意が語られている。 信仰に生きるのである。 命令や束縛でなくなる歩みがここにある。

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