日本バプテスト同盟 |
戸塚キリスト教会 |
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12月28日 日雇い労働者の譬え マタイによる福音書 20章1節〜16節 石野 文昭神学生 イエスの譬えの中では難しい箇所といわれる。 この話は、すぐ前にある「富める青年」とのイエスの会話に関係を持っている。 イエスの前から去って行った青年は多くの資産を持っていたからだと説明がある。 この場面に居合わせた弟子たちは戸惑いを覚えた。 すべてを投げ打ってイエスに従ったことを意識して尋ねている。 「何がいただけるでしょうか」と。 その弟子たちにイエスは「わたしに従ってきたあなたがたは永遠の生命を受け継ぐ」に続き、 今日の箇所と同じ言葉「先の者が後に、後の者が先に」を語られている。 この譬えでは、労働の時間はバラバラでも、終わりの時には同じ賃金が払われている。しかも後に来た人から払った。 一日中働いたと人は、僅かに働いた人より多くの報酬を当然期待した。期待は外れた。 雇い主はその人に「友よ、」と声をかけている。ヨハネ15章13節にあるイエスの言葉を想う。 新しい戒め「互いに愛し合う」ために自分の命をかける友である。すべてを捨てた者が多くを得るのではない神の国の譬えである。 いつから、どのくらい、の量ではない。神(ぶどう園の主人)は終わり直前の者(労働者)にも与えたい方を示す。 「最後の者にもあなたと同様に払ってやりたい」の言葉から、主なる神はみ子を信じる者すべての者に救いを与えたい、 との意を受けることが出来る。異邦人は捧げ物によってのみ受け入れられるというのでは、救いに与ることは難しい。 主の憐れみに与っているを想う。(文責 阪井) 12月21日 言は肉となって… ヨハネによる福音書 1章1節〜5節・14節 松本 昌子先生 キリストやキリスト教のことを全く知らない人に説明をしてきた。 その内容はユダヤの過ぎ越しの祭りの日の金曜日にイエスという人が十字架に掛けられたこと以外には明確な記録がない。 その人が救い主と信じる宗教がキリスト教である、と。 人間の理性と言葉で持っては説明付かない復活のイエスに出会った弟子たちが、その名を語り始めた。 その最も詳しい説明は聖書である。聖書はイエスの死後30〜50年の間に書かれ、最古はマルコ福音書イエス伝承がそこにはない。 宣教から書き始めている。一番遅れて書かれたのがこのヨハネ福音書。 天の創造から地上の事柄におよび、言葉が創造し、言葉に命があり、神は愛であり、光である。その光が人となった。 神の最も内奥にあった究極の思い(ツールナイゼン)が命をもった光、肉体、人間となって世に来た、と告げる。 言葉=ロコス=イエス=インマヌエルとなる。闇に輝く光である、と。 甦ったイエスに本当に出会い自らが変わったのは弟子たちである。このイエスに会いにきたのは貧しい人であった。 これが現実である。馬小屋の背後に何があったか。この現実が誕生物語である。 伝承が事実になった時、このような物語となっている。CSルイスは「神話が事実となった」という。 神が人を愛し、人を救う事実である。原爆を受けた私たちは60万人の人が一瞬に消えた(戦争)経験の証言をする者となるべきを思う。(文責 阪井) 12月14日 しゃべる者が黙る時 ルカによる福音書 1章5節〜25節 阪井牧師 代理母と子のニュースから、その子は誰を親とするのだろう、と気になった。 祭司ザカリヤと妻エリサベツとの間には子どもがいなかった。 既に共に年を老いて祈りの望みも諦めていたとの印象を受ける記事である。 彼らが神の前に正しい人であったのに、なぜ神の祝福としての子どもを授かることができないのか説明はない。 祭司の務めがアビヤの組に回ってきた。くじ(神のみこころと受け取った)がザカリヤに当たった。 祭司でも一生聖所に入って香(祈りの執り成しを意味する)を焚く機会のない者もあるという。 機会に恵まれたザカリアがその務めの中で、主のみ使いの言葉を聞いた。「あなたの祈りが聞き入れられた」と。 「どうしてそんなことか…」とザカリヤは応えた。 最も神に近くその働きをして、多くの人々の祈りを取りなす者が、自分に向かって主からみこころを示された。 彼は信じることができなかった。御使は「…この喜ばしい知らせ(福音と同じ意味の言葉)を、時が来れば成就するわたしの言葉を信じなかったから、あなたは口が利けなくなり、話すことができなくなる」と言われた。 言葉を失う記事、創世記11章に「バベルの塔」の話がある。人間の限界を知るけれども、そこには神のご計画が働いている。 ザカリヤとエリサベツ夫婦は祈っていたが、自分の計画にはありえないと決め込んだ。 神の御心を妨げるほどに。強いられた沈黙は、神への思いと自分を顧みる時を備えられたのではないか。神の深さに感謝する。 12月7日 あなたがたの中に ヨハネによる福音書 1章19節〜28節 阪井牧師 ヨルダン川のほとり(荒野の地方)でのことである。罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを施すヨハネの運動に、多くの人々が関心を寄せ集まった。 当然のこと、都エルサレムの宗教的、政治的指導者たちの耳に入った。放置できない意味を持つことを示すのが「ユダヤ人たちが、エルサレムから祭司たちやレビ人たちをヨハネのもとにつかわし」たの表現に見ることができる。 「あなたはどなた?」は本来もっと厳しい詰問の言葉を想起する。許認可の権を意識し、その道の専門家の問いである。 そして聖書は「ヨハネはあかしを立てた」と法廷用語を使う。それに応答するヨハネのことを「告白した」と表現する。 信仰を表す言葉が法廷用語であることに関心を持つのは正しいと思う。「何者か」との問いに対し、ヨハネの応え(告白)が「わたしはキリストではない」とあるのもおかしい。 バプテスマがキリストと関わることを示している。あくまでも自分(ヨハネ)は『主の道をまっすぐにせよ荒野で呼ばわる者の声』にすぎないとしながら、尋ねる者たちが持っていると考える既得権と遥かにかけ離れたところに、しかしあなた方の中にすでにキリストがおられることを告げている。 不信仰と暗闇、矛盾と歪みの満ちた醜い歴史の中にキリストが立たれる。そこから喜びと生きる希望、新しい力と救いに出会うことができる。 これが主の道である、と。荒野でも声は聞こえる。非力でも世界に向けて主の道を叫び続ける「声」であり続けたい。 11月30日 どこへ行くの? ヨハネの第一の手紙 2章1節〜11節 阪井牧師 他人の領域にも立ち入らないよう心をつかう現代人。神の領域などとても、と思うが果たしてどうか。 自分は自立しており、神と関わっていないと思っている人が多い。親がその子のためにおれ、謝ることが難しいのもそのせいだろうか。 聖書にある「わたしはよい羊飼い…、羊のために命を捨てる…(ヨハネ10章11節〜)」の言葉は次のように語っている。 羊飼いである方(主イエス)は、迷い離れた羊(わたしたち)のために、そのいのちを賭けて連れ帰る、と。 羊という家畜は自分の飼い主・羊飼いの声を聞き分け、道に迷っていることに気付くが、自分から羊飼いのところに帰ることができない家畜でもある。 そこで自分の身を投げ打って探し、連れ帰ることが起こる。その羊が自分は自立していると思い、集中し頑張ってさらに遠くへ向かっているとしたらどうだろう。 聖書が罪とあらわしているのは、この状態を指している。 神に命を与えられ、今日を生かされているわたしたちが、神との関係を失う方向にひたすら進んで、自分には価値ある事かも知れない。 でも、それが自分のいのちに生きることから離れていくことになるなら、放置できない。主は「あなたはどこへ行くのか?」と声をかける。 羊飼いとの関係を失った羊は、やがて護るものなく、力あるものが支配する世界に佇み、どこへ向かうべきかが分からなくなって、行き詰まることを経験するかも知れない。これは立ち帰る機会でもある。どこへ?の声を頼りにしたい。 11月23日 わたしは呼ばわる 詩篇 142編1節〜7節 阪井牧師 生活豊かで不安のないところでは自分を顧みることが難しい。行き詰まりや佇まざるを得ない時、初めて思いがそこに及ぶ。 苦しいことや辛いことが自分に必要であり、意味を持つものであったとの思いを起こさせる詩篇である。「わが霊の、わがうちに消え失せようとする」 厳しさの中で、自分は助けを求めようにも頼りになる者がいない。かつはて自分のすぐ横にあった息つくところ,避け所が今はない。 しかし、その時声を出して主に呼ばわり、願い求める。主の前に一切を注ぎ出して呼ばわるのだとある。 神と出会うことのない人には、空しい言葉や嘆きでしかない愚かしさが、実は人を生かし、力を与え、立ち上がらせることを学ぶ。 この豊かな時代に、敢えて砂漠を選んでキャンプをする若者がいる。人間が一人で持てる物は限られている。 そこで何が本当に必要で大切かを身をもって知る機会とするためらしい。 詩篇119編143節には「悩みと苦しみがある。しかし、あなたの戒めはわたしの喜びです」とある。 孤独の中で知ること、見ること、学ぶこと、そこには淋しいものと共に主のみ手への思いを強くする機会となる、との確信がある。 損失と悲しみしか受け取れない人もあろうが、何一つ頼るもののない孤独や苦しみにあって、主がわたしの避け所、この世のどんなところにも勝って心安んじるところ、主こそがわたしの受ける分(財産)、寄り頼むべき方(一匹の羊を捜し出す牧者・主イエス)だと歌う詩人の信仰を学びたい。 11月16日 わたしが入りかけると ヨハネによる福音書 5章1節〜9節 佐藤菊男先生 病人が身体を寄せ合っていた。池の水が動く時最初(一番)の者が癒されるのを待っている。 迷信でも幸せになりたくて大勢と競っている。何もかも一番でなければの競争をし、勝ちが回ってこないと諦める人生は他人事ではない。 38年間ほどの愚かさはないとは思うが、神は見て、知っておられることを私たちに語っている。「なおりたいか」のイエスの言葉は重要である。 私には恵みの時は来ないと思う人に問いかける言葉である。私たちの罪を私たちに負わせない方、罪の重荷も感じさせない方の言葉である。 イエス自身が負って下さる罪についての語りかけである。病人は「一番の人は出て行き、私の為になってくれる人のいない」と応えている。 冷たい現実これが世の中である。取り残されている現実の人にイエスは出会っている。そこでイエスはその人を一番にするのか?そうしない。 そうすれば取り残される人がまた出ることになろう。谷川俊太郎は「赤い河」の西部劇にある葬りの祈りの言葉が印象深いとあった。 「この世に何も持ち込まず、何も持ち出すことはできない」に思索の原点をもつという。神が語りかける時、何を持って行こうとしているか。 一番になることではなく、イエスが罪の重荷を担って下さるということであろう。私たちの西部劇がここにある。神と人間の扱い、出会いの物語である。 日常の出来事を持って行きたい。「なおりたいか」の問いかけに、何とこたえるか。(文責 阪井) 11月10日 いのちの言(ことば) ヨハネの第一の手紙 1章1節〜10節 阪井牧師 生活の便利さをもたらすのを文明と表現し、それはやがて廃れる。 目先にしか関心がないからである、と。 いつまでも残り、また残さねばならないものを文化と区別している人がいる。その文化を「はじらい」と読みたい、と言った人があると聞いた。 今日の私たちの生活はどちらに関心を注いでいるのかを自問する。 初代の教会にも二代目三代目になると信仰の関心が目先のことになってくる。 この手紙はそのような教会の状況を意識させる。創世記3章に「食べるに良く、目には美しく…」と信仰が揺るがされていく表現があるのを想起する。 信仰者にとって最も大事なことは、「いのちの言、永遠のいのち」であると語る。 しかも、これはわたしたちが考え出したり、到達して得られる悟りのようなものではない。 この歴史の中に生れ、歩み、出会い、教え、癒し、救いとなられた方がひとり一人の魂に語りかけて、応答を求められたことを告げている。 ここに私共の生きるいのちの源がある、と。私たちの生活の中で言葉が死にかかっている。 いな、すでに生きていないかも知れない。人を活かす言葉でなくなっている。 人を活かす言葉は私たちの手の中にないなら、受けるしかない。 命の創造主である父と十字架への道を歩まれた子との交わりに加えられ、招き入れられるところに与えられる。 いのちの息を吹き入れていただくのである。祈りの群の中にこのいのちが生まれることを私たちは知っている。証人とされるいのちを生きよう。 11月2日 我が口の門守 詩篇 141篇1節〜10節 阪井牧師 「夕の祈り」と題し、最も煩瑣に用いられたであろうと141篇を紹介する人がいる。 祈りは香り(煙)と共に神に届くと考えられていた当時、祈りを神殿で捧げることが出来ない状況にあって、 なお神に届くことを求める祈りを止めない。 「み前に立ち上る薫香のように」「夕べの供え物のように」受けて下さいと訴える。 礼拝には時間と気遣いと費用をかける。 愛する者や心にかかる者に、自分の身を粉にしても仕えることを喜びとするように神に向かおうとする。 その祈りは自分の幸いを只求めるのではない。悪に対する意識、誘惑に対する鋭い感性を祈り求める。 その第一は口。言葉を発する唇が神の支配の下に置かれることである。 神をほめたたえる同じ口で人を傷つけ躓かせもする。 この口、唇が主に支配されることの求めは絶えることがない。祈りは何時までも有効なのではない。 絶えざる祈りが大切。気を抜くと神から距離を取る自分となる。これが油断。祈りを断つことは神の祝福(=油)を離れる。 祈りを欠くことから始まる。本当の祈りは不信の中でなされる呻きである。 最も近くにいた弟子達が嵐と波にもまれて「先生、私たちがおぼれても…」と主イエスに詰め寄った。 信頼している者が発する言葉か、と思う。 本気で主の御言葉に生きようとする者が迫る祈りは不信(疑い)の中で発せられる。 何と言われ、叱られようとも、主に向かってご支配を、祈り求め続ける者でいようではありませんか。主がそこにおられるのですから。 10月26日 忍耐を貫く神 ペテロの第二の手紙 3章8節〜18節 阪井牧師 胃腸外科の医師は言う。癒しの対象は「いのち」にあると考えるに至った、と。 「いのちの癒しのない医療は実りなく、神から与えられた自然治癒力の本質はいのちである」と。 医療経験の中で受けた信仰の鍛錬を語る。振り返って、私共は自分を評価し、浮かれ、時に沈む。 やがて「神から受けたいのち」に生きることの重さを意識から失っていないかと考えさせられる。 周囲の目まぐるしさ、騒がしさが、生きる力や希望を失わせるなら、立ち止まり「いのち」を回復しなければならない。 目を閉じ、耳を塞ぎ、頭を下げて避けていた諸事・困難さの中にこそ「神からの宝」があったのではないか、と互いに問いを受けてみよう。 初代キリスト教会の信仰の核は、主イエス・キリストの十字架と復活である。 もう一つは主の再臨・終わりの時・終末信仰である。 ペテロ第二の手紙3章はそれを扱い、教会の人々を励まし、力を与えている。 手元近くだけを見て動揺する人々に、神のみこころと人の時とは全く違うこと、ましてや人の時に神のみ業を閉じこめることは誤りであることを語る。 神の時を待ち、備えることが信仰の人の姿である、と。 外の事に自分を適応させようと強いるならバランスを失う。 距離をおき、神の時に備える生き方があると知る者は動じない。 神は忍耐し約束を貫く方との信頼の土台に立って揺るがない姿が現れる。 神の真実と愛と力がその人のうちに働く。苦難の中にある人にこそ神の恵みが現れることを語る。力みはない。 10月19日 迷いの地点で ヨハネによる福音書 6章15節〜21節 佐藤菊男先生 「イエスは山に退かれた」のは何のため、なぜ一人なのか。 イエスは誰か、私たちにとって何なのか?王にされる人か、王となる人か、もともと王なのか、王なるキリストと関係をもつことはどういう事か…。 人は自分が王となりたがり、なりそこなっているのではないか。弟子達の夕方の船出をどう思う。 人生の船出に似て最後の頑張りのよう。来ることになっている主イエスがまだ、つまりやがて来るのだ。人生の最後の頑張りでもよい。 イエスが来るのですから。昼日中だけでなく、良い時だけでない船出もあってよい。 ガリラヤ湖の4,50丁の沖合とは目的地の半分も進んでいない地点であり、状況はよくない。 ここは私たちの心を傲慢にするところであり、又謙虚にするところでもある。 やればできる、出てみたが行き詰まる不思議なところである。 藤沢周平は「蝉しぐれ」に人生を問う内容を書いている。その人生の中に主イエスが近づいてきたのである。 茨木のり子は詩に「よりかからず」に「出来合いの思想・宗教・学問に寄りかかりたくない…よりかかるとすればイスの背もたれだけ」という。 私たちは神の言葉にだけより掛かりたい。誰がなんと言おうと聖書を読み、礼拝を一緒にする意味を大切にしたい。4,50丁の場所は迷うところ、神と出会う場所でもある。 「おそれるな」の言葉を聞きたい。 (文責 阪井) 10月12日 耳を傾けて! 詩篇 140篇1節〜13節 阪井牧師 不本意なことに気付いてみたら逃れられない苦境に自分が置かれている。 このことは意図的に謀られたであろう、と想わせる言葉が続く(5、6節)。 絶え間ない挑発と、心休まる時のない苦しさからの救出を求める切なる祈りと訴えの言葉がある。 その中の3節の厳しい苦悩の言葉がパウロによってローマ3章10節以下に引用されている。 6節の言葉はイスラエルの人たちに大きい慰めを与え、厳しい状況を耐えさせ、将来に向かっての希望を与えるものであったのではないかを想う。 彼らの神に向かう真剣さは周囲の人々・国々からは、異常にさえ見えたであろう。 それ故に嘲(あざけ)られ、その信仰を弄(もてあそ)ばれることもあったろう。 その状況から「あなたはわが神です。主よ、わが願いの声に耳を傾けて下さい」と篤く求めている。 この願い、求めを私たちも倣いたい。信仰の歩みを真剣にしようとする私たちも同様の経験をすることがあるかも知れない。 真面目に誠実に歩もうとする自分の浮かばれないのを横目に、「神など……」と言わんばかりで我が物顔に世渡りする人がいる。 つらく当たる人の中に置かれていることがある。神のみ手の働きを早くと願う。 しかし神は一人の魂も滅ぶことがないよう求められる。愛の翼に帰りきて抱かれることを喜ばれる。 ここに心安らぐ平安がある。乱暴も謀略も恐れることはなくなる。 神は耳を傾けてくださるとの信頼と恵みに生きる者とされたい。 10月5日 送られた手紙 ペテロの第二の手紙 3章1節〜7節 阪井牧師 敵を愛し、迫害する者のために祈る「愛」と「命のある言葉」はキリスト教の特徴であろう。 この命の言葉=主イエス・キリストとの出会いがその人の生き方を変える。力んだり巧みさで生き方を変えるのではない。 自分が受けたまま、聖書に書いてある通りを伝えて起こる不思議である。何ものにも代え難い自分を死に、喜んで神に生きる者となる決断をする。 誰かから強いられるわけでは毛頭ない。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある(ローマ10章8節)」神の言葉がその人の中で働くと説明する。 その人自身が思いついたり到達したところにあるものでもない。聞くこと以外にはない。 聞いて変えられた人は「聖霊の宮(1コリント6章19節)」となり、キリストの手紙、墨によらず生ける神の霊によって書かれたもの、 石の板でなく人の心の板に書かれたものとなる。証しはその務めに仕え、さらに人の生き方を変えることになる。 これが「宣教の愚かさであり、神の知恵(1コリント1章21節)」に他ならない。 神の言葉と人の出会いに些かでも人間が手を入れるなら信仰が歪む。エマオへの旅で二人の弟子が主イエスと共に歩きながらイエスと分からなかった例を想う。 知ることは神との関係を失わせる例をエデンの園の話にみる。自分を中心にして神の計画をさえその領域に抱え込み、救いをたぐり寄せる愚かさに陥る。 再臨の時は神の忍耐の時として受け止めて出会いの出来事を伝える使命を担い続ける手紙となりたい。 9月28日 本当に幸福な人 マタイによる福音書 5章1節〜10節 松本昌子先生 多くの色々な人が聞いた山上の説教である。 イエスの近くに群がった人は貧しく、病んで、人として扱われなかった人、また罪人と呼ばれた人たちである。 彼らはその説教を胸の震える思いで、理解し心に染み入り、明日からの生活に希望を与えられた。 本当の幸福とはどんなものか?本当に幸福な人とはどんな人か?を想う。それらに客観的条件はない。 この世でマイナスの価値(不幸)の人がなぜ幸いであるというのか。 今日の私たちは、富・学歴・社会的に満たされることに慣れて、本当の幸福を感知する能力を失っている。 イエスの説いた民衆への伝道に翻訳が種々ある。それが躓きになっている場合もある。 「心の貧しい」は「心根の貧しい」という意味になってしまう。言葉の意味を翻訳したい。 東北の気仙沼の方言で訳された聖書「気仙語訳聖書」は「心の貧しいもの」を「頼りなく、望みなく、心細い人」とし、 「天国」を「神様の懐に抱かれる」と翻訳している。神に頼るしかなく、 神の恵みが一番よく分かる人は神様に全身で抱かれる、抱いてもらえる人のことである、と。 心の奥深い人格的感情は私たちに理解しがたい。本当の幸福はなぞである。 悲しむこと、貧しいことがなぜ私だけなのかを問うが神からの答えは得られない。 本当の幸福は辛い悲しい犠牲を伴うものである。 神からの憐れみ、愛、赦し、支えられることなしに生きていけない事実を忘れ、 自分の力だけで生きていける錯覚に陥っていないだろうか。 (文責 阪井) 9月21日 人の心を知る神 詩篇 139篇1節〜24節 阪井牧師 「主を恐れることは知識のはじめである」箴言1章7節の言葉である。 知り得たことをいかに使うか、神との関わりの中に置かれる事の大切さを語っている。 妻が怖い夫、母が怖い子ども、その共通することは「知られている」ことであろう。 神に知られていることが「こわい」のは、神は罰したり責任を追及できる方だからである。 しかもこの方の前から身を隠すことはできない。たとい人には隠し通せても神の目には全てが見られ、知られている。 詩篇はこれを恵みと告白し詠っている。私という存在の全て、生き生活する一切を神は知り抜いておられる、と。 考えてみると不思議である。この大きい広い宇宙の中で、いか小さく取るに足りない存在の私に目を向けて下さるのか。 むしろ勝手気まま、我が儘を通し、手こずらせ迷惑な存在の私のために、大切な宝であるひとり子を手放し犠牲にしてまで追いかけられるのか。 どうしてか分からない。これが神様である。知られているとは愛されていることで、ほめたたえる他ないのだ、と告白している(14節)。 最も暗いところ(死の世界=陰府)にまで主イエス・キリストの十字架によって、主は支配されている。 主がともに居られるところだと受け取るのは信仰の事柄である。現実の様々な安定を求めるのも信仰のあり方であろう。 しかし、私共の存在一切が主のみ手にある、受け止められている、知られている、愛されている魂の平安こそ信仰の奥義であろう。 主と共に歩もう。主を仰ぎ見続けよう。 9月14日 真理の道 ペテロの第二の手紙 2章1節〜22節 阪井牧師 聖書に似つかわしくない「贋」という言葉がでている。 初めから贋と分かるものは警戒も心配も必要ない。本物と極めて近いのに違う代物が問題である。 今でこそ悪名高いドイツのナチ総統アドルフ・ヒットラーと知られる人を、かつて演説の瞬間のこととして、 ある夫人(L.リーフェンシュタールさん)は「決して忘れられない黙示録的光景だった」と回顧している。 多くの人のいのちを奪う指令を出したその人を、 その時はまさしく世界の人々を救い出す「救い主・メシヤの登場」と受け取ったと語っている。 どうすれば本物と贋物とを見分けることが出来るか。 宝石を鑑定する本職は(1)自分を磨いて修行する(2)出来るだけ多くの経験を持つ(3)本物だけを繰り返し見る、のどれを選択するか。 (4)である。贋物は怪しい魅力をもって近づく。初代の教会にはそのように魅力を持つ教師が巡回していたらしい。 見かけは自由で楽しそうであっても主イエス・キリストを結果として罪を代わって負って下さった方としない、 否定することになる教えがあったことを意味する。我が儘や放縦は自分を失った贋の生き方である。 神から離れ罪の世界に落ちていく例をノアの洪水物語(創世記6章〜)、ソドムとゴモラの町の滅び(創世記13章)、 バラムの祈り(民数記25章)に見る。周囲の流れに負けず、抗し得るのは信仰の内実であろう。 世との闘いは、真理の道に拘り続ける事による以外はない。 自分に余る力は神に捉えられ続けて発揮する意外にないであろう。 9月7日 柱のずれはないか 詩篇 138篇1節〜8節 阪井牧師 技術の進歩には驚く。今までは決してしないものと考えていた傾斜地に住宅やマンションが次々と建てられていく。 無謀ではなく、地上の高さより遥かに深い支えを地中に打ち込むのである。 また揺れを旨く吸収させる工法のため高層建築が可能となった。 つまり支点が一つだけでなく分散させる方法を取る。 これらはまさに現代の特徴と思う。 互いが力を巧く出し合い調和して全体を安定させるのが時代の特徴と思う。 政治が国を振り回している中で、信仰に立ち神を仰いで生きる道を選んだのがイスラエルの歴史だと聖書は示す。 滅びと捕囚による脱力感と絶望感は深かった。神礼拝の秩序をさえ失った。そこに新しい事態が起こった。 バビロニアに代わってペルシャが支配者となり捕囚の民を解放した。この出来事を旧約の預言の成就・神の語られた約束が今貫かれたと受け取った。 これがなければ2度とエルサレムの地に立つことは出来なかった。喜びと驚きは並みのものではない。 有名な言葉「麗しきかな、良きおとずれを伝える者の足は(イザヤ他)」はその声である。 神はなんと大きな事をなるのでしょう、と歌っている。悲惨や気の毒だからの哀れさに神が働かれたのではない。 約束を貫かれたのだ、と。自分たちの望みを叶えるのではない。神は語り、約束されたその事実に忠実な方、真実な方である。 ここにイスラエルの立つところがある。柱はその上に多様に立っている。信仰生活に最も大切なのは柱がぶれないことである。 8月31日 新しい始まり ペテロの第二の手紙 1章12節〜21節 阪井牧師 余り格差が大きすぎると関心を失うか、無理に自分の手の届くところに引き寄せようと代わるのもで欲求を満たそうとする人間の業がある。 神をさえ仕えさせる発想は自分を中心にすることから起こる。 直接誰かに迷惑を掛けたり、悪事を働くわけではないが、神を神とすることから外れるこのあり方を、聖書は「罪」と表現する。 裁きと責任追及が当たり前。しかし、神を神として示し語りかける働きが神の「愛」であり、「救い」である。 あり得ない現実を繰り返し体験したのが神の民イスラエルである。彼らが特に優れていたのではない。 また、救いと命を神に向かって喜び応え続けるから「神の民」にされたのでもない。 実に愚かしく呆れる程、神の愛から落ちていった。求めが熱心すぎるとの説明ができよう。 決して適当に生きたのではないことだけは確かである。極みは神の名によって神の子イエスを十字架にかけて殺した。 主イエスはそこに神の栄光を顕わされた。全ての人の罪を死に、イエスに生きる人の罪を負った。 この事実を神の恵み・憐れみと信仰告白できるのは自分の中からの発露ではない。神の力・霊が働き、今の私の出来事となる。 そして死からの甦りに共にあずかるところに「新しい命の出発」がある。暗闇に光が上るように、今の私の生活に力と喜びが溢れる。 キリストの言葉が私のうちに生きて働く味わいを得るには、急がずゆっくり戴く中に栄養を受け、満腹を得ることが起こる。 新しい教会の出発をしよう! 8月24日 すべての用意ができました マタイによる福音書 22章1節〜4節 佐藤菊男先生 「すべての用意ができました」の言葉に集中したい。とても良い響きの言葉である。 普通なら用意の不備、ボンヤリを責められようが、天国の王は、「すべての用意ができている。さあ」と招いている話である。 王から招かれても、畑や商売など自分のしたいことをするその人はどんな人か。 この世では身の縮まる思いで招きを受ける筈なのに、素知らぬ顔で自分のしたいことをする。これが神に対する人間の姿である。 神が人に呼びかける時、その準備を問わない。王の側で用意をすべてを整え、人間の側に何も要求しない招きである。 言うだけで準備のないことを責めないし、やり残しを後ですることもない。人間の世界では成り立たない。 用意のできた者のみを受け入れ、できない者を責めるのは神の愛ではない。イエスの前では愛も勇気、誠実、献身も一切を問わない。 しかし、この神の愛で世界が変わっていく。ヒットラーから逃れスイスに亡命したヘルマン・ヘッセはその亡命の苦しさの中で語っている。 (1)人生の意味を愛されることよりも愛することが全てだと思うに至ったこと (2)善をなすこと、調子よいことや図々しさから遠ざかることは易しい。心臓が衰えて、いつ止まるかも知れずとも微笑むことができる人は老いていない、と。 私どもに、気に掛かることやどんなことがあってもイエスの元に行こう。すべての用意は調っているのですから、と語っていてくださる。(文責 阪井) 8月17日 平和を実現する マタイによる福音書 5章13節〜16節 松本先生 戦後58年目の2003年は例年にも増して平和を脅かされ、核の危機を覚えさせられている。 日本の過去をしっかり伝えてこなかった責任を再確認する広島秋葉市長の平和宣言は重い。 テロへの報復を正義として戦争を平和とすることに対立する。報復ではなく和解を訴える。 聖書にある「平和をつくりだす」とは何をすることか。軍事費該当の税金不払いを貫いた人が居る。 僅か数秒で数万人の人が命を失い、58年後の今も苦しむ人がいる。 その事実を知っている世界唯一の被爆体験の国民、神の民として何をするか。 地の塩・世の光である私たちは日常のレベルで祈り発信し行動をしていきたい。 この世のリーダーではないが塩の特性(水に溶けて浸透し、力を発揮する)を友人関係の中であらわし、世の光として時に旗を揚げなければならない。 戦争が悪であること、核の使用は絶対に許さないとの主張は語らざるを得ない。 劣化ウラン弾で苦しむ人がアフガニスタンにイラクにいる。本当に辛い思いをした人はそのことを語らない。 58年前の体験を持つ自分には、その時の体験を語る勇気はない。正気で語ることは出来ない。 しかし、どんなにささやかであろうとも、自分の子どもには語っておかねばならない。 そのための信仰、勇気、愛、力を与えられるよう祈り続けたい。 (文責 阪井) 8月10日 主の山に登ろう ミカ書 4章1節〜4節 阪井牧師 ニューヨークは今話題の都市、世界の関心を集める。 国連本部・世界の代表者が集まって平和を求める会議を行う施設があり、そのロビーの壁面に3節後半の言葉が掲げられているとか。 「槍を鋤に、刀を鎌に」とは武具を生活の用具とした神の支配する世界を示す。この8月は58年前の記憶すべき歴史の事件があった。 今の日本の歩みが、かつての道を辿る危険を覚えて、子どもにも家族にも語らなかった心の傷として残る経験を、今改めて語る決断をした人がいる。 思い出すだけでも苦痛、それを越える所に「平和をつくり出す(マタイ5章9節)」ことができるのかと想う。 自分の限界を超えるには、神に向かい祈るほかない。預言者ミカは南ユダのガザ周辺の農村出身である。 イザヤがエルサレムの上流社会に近い人であったのと対照的な同時代人である。しかし、時の世情や政治に関係ないのではない。 アッシリアのサルゴン軍対エジプトとガザ同盟軍の戦場(BC724)近くにあり、ガテが占拠された争い(BC713)があった。 世界の動乱国の行く末を見たであろうか。神から離れ、反逆の姿を繁栄の後ろに見たであろうか。それは余りに現在の私たちに近い。 社会の腐敗や不正義、貧富の差は神の裁きと支配によって撤去されると語って、祈ることを求める。 互いが争いを止め、主の山に巡礼(礼拝)をすることが、生活の不安や脅威から解放される時となり、神の支配・平和の世界が実現する。 果樹園の木の下で憩う人々の平和が豊かさとなる。 8月3日 約束の実がなる 詩篇 137篇1節〜9節 阪井牧師 川辺や海辺は生活の潤いを与える所、風情を味わう所とイメージする。 ところがこの詩137篇の「バビロン川のほとり」の言葉はそのイメージを裏切る。 かつてエルサレムでは人々の上にあった人々が、今や他国で捕囚の民としてが強いて働かされ、 屈辱を味わい故郷を偲びながら涙を流す居場所、神の民の自分を回復する場、神に心を向ける唯一の慰めの場であった。 その心を嘲り、戯れの場とする支配者の側にある人々の横暴が歌になっている。 神をたたえる為の琴を奏で、「シオンの歌を一つ歌え」」=この惨めなお前達を守り祝福するという神をわれらの前でほめたたえよ)との要求を突きつけられた。 川は魂の喘ぎを満たすはず(詩篇42篇参照)なのに、「お前の神はどこにいるのか」と嘲られる場所となっている。 痛ましく立つ瀬のない苦難の現実のただ中に身を置きながら、「シオンはわが最高の喜び、あなたこそ神です」と臆せず告白をしている歌でもある。 自分の現実から神を見る人の中で、全くその逆の見方をする人が居ることを学ぶ。 神から見捨てられたとさえ思える所で、神と自分との関係を深める機会、自らが神の恵み、神のみ手の中に置かれていることを知る機会とするのである。 エジプトでの苦難を通して選びの神を知り、バビロンの捕囚を通して神の愛が届かない所はないとイスラエルの民は知った。 どのような苦悩の中にも、神が居て下さることを知る信仰を生きたい。神の約束は必ず成就するとの信仰を歩みたい。 7月27日 愛を加えなさい ペテロの第二の手紙 1章1節〜11節 阪井牧師 見えざる公同の教会は地上の具体的な教会に現れる。従って各個別の教会は他から干渉や制限を受けず、また互いの主体性を侵さない。 これがバプテストの特徴・個別教会主義である。 この手紙の宛先は「私たちの神と救い主イエス・キリストとの義によって、私たちと同じ尊い信仰を授かった人々(公同の教会)へ」とある。 信仰は授かるもの、人の努力結果ではない。神ご自身が働いて、語りかけ・約束された神の言葉が私の「いのちのことば」に成ることが起こる。 私どもの「生きるいのち」は神の計画、神のご意志であり、そのみ心に私共の心を向けて生きる時、生きる意味と喜び・満たされた生活を味わう。 この信仰は具体的な生活の中に実現されていく。情報の一つにしないことを2節の「知る」は示す。 生活が神と直接関わるかどうか、主イエスが共に歩んで下さる事実に立つかどうかにかかる。自分をそこに集中させるのが愛である。 神の愛に応えることになる。新しいいのちに生きる。他の人に限界と見える中に、くずおれず、逃げ出さないだけでなく、前に向かって歩む。 もう一つのいのちに生きることが始まる。生かされて生きていく。自分では気づかなくても、周囲が気づき、生きる励ましを受けることになる。 「時がきたら信仰を」は神の時を拒むことに通じる。神の恵みが十分に育つようあらゆる良いものを迎え入れるには祈ること、それは世の肩書きは不要。 事実を目撃した者はどんな時にもその信仰を貫く力を持つであろう。 7月20日 わたしたちは水を汲む ヨハネによる福音書 2章1節〜11節 佐藤菊男先生 ブドウ酒の終わる時、祝会は終わる。イエスはそれを望まれない。イエスの求めは生活の現場のよう。 神の祝福・喜びのある所に人間の満足がある。イエスの教会にブドウ酒を切らさないため、水をカメ一杯に汲むよう僕に命じた。 聖書の言葉をどう聞くか。一緒に祝い楽しみたい。辛い水汲みはしたくない。では誰が水を汲むか。 イエスに命じられた僕はどんな思いでその作業をしたかは知り得ない。 私たちがどうして水を汲まねばならないかが分からなくなると、汲もうとしない。イエスが求めた事を誰が受けるのか。 どうして水を汲むかが分からなく、喜べなくても水を汲まねば、と聖書に書いてある。 どうして自分が水を汲まねば…、の思いがある。汲まねば生活の中から、イエスのいわれた言葉が消えてしまう。 宴会を終わらさないために生活の中に聖書の言葉をしっかりと汲むことの必要を想う。 頭が大きくなって岩場から出られなくなったサンショウウオ(井伏鱒二)から苦しみへの答えのない世界と、 教会から楽しいことやいいことだけを求める姿が重なる。聖書から本当の慰めが得られるのか。 誰がしなくても私たちは聖書の言葉に拘り続けたい。喜び、忍耐して水をくみ続けたい。主が命じられたから。 それが生きること、愛すること、許すことになる。主が水をブドウ酒に変え、喜びの祝宴が続く。 生活がどんなに変わっても、誰の目にもとまらなくても水を汲む。 主イエスがそれをブドウ酒に変えられるから。 (文責 阪井) 7月13日 数えてみよ主の恵み 詩篇 136篇1節〜26節 阪井牧師 この詩篇は礼拝の時、祭司の言葉に対し、神殿に詣でた会衆が口をそろえて応答した応唱歌と想像する。 バビロン捕囚の頃イスラエルは神殿を破壊され、礼拝が出来なくなっていた。 約50年後、そのバビロン解放を受けてイスラエルに神殿修築工事が成される様子をエズラ記に見る。 3章11節には主の宮の基礎を据えた時、祭司たちは礼服をつけラッパをとり…レビ人はシンバルをとり、…主を讃美した」の記事に起源を見る。 彼らは互いに歌い合って主をほめ、かつ感謝して「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに耐えることがない」と歌った。 『いつくしみ』は契約の関係を保つことに由来する言葉だと言う。神の契約が堅実に保たれているとの告白が歌われている。 この神を26回繰り返し、表現を変えて大騒ぎをして歌う様を想像する。自ら求めて信仰を得ると思う人がいる。 しかし、聖書はすでに神の約束がある。その事実を信頼することが信仰という(ヘブル11章1節参照)。 人間の努力が約束から外れる道を取ることになる。はみ出す者を引き戻すには苦しみ、 痛み又は厳しい現実を示す方だとイスラエルはその歴史を受け取っている。 契約を破る者を関係廃棄しない神の愛が徹底していることを示している。 どん底にもみ手が伸ばされていると。顧みると主が働いてくださっていた。 信仰の人は証しする。数えてみよ、主の恵み!マリアの讃歌は「この卑しい女をさえ…」と歌っている。 私たちも大胆に、主のみ心に従う時、わたしは変えられる。 7月6日 信仰に堅く立て ペテロの第一の手紙 5章6節〜14節 阪井牧師 「若者は幻をみる」の言葉がある(使徒行伝2章17節、ヨエル記2章28節)。逞しさを見る。 自分を成人扱いして出来ない言い訳より、ましかも知れない。 聖書の言葉に「自らを低くする」や「身を慎む」とあるのは「目を覚ましていなさい」につながっている。 またすぐ前の4章節には「心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい」とある。「誘惑に陥らぬよう、 目を覚まして祈って……(マルコ14章38節)」とあるゲッセマネでの主イエスの言葉を想起するかも知れない。 誘惑との闘いが「信仰に堅く立つ」ことではないかを思う。何が何でも曲がらないかたくなさではない。 檄を飛ばして奮起を促すのとは違う。 主イエスがバプテスマを受けられた時「これはわたしの愛する子、わたしに適う者である」と声があり、 メシアとして立たれる神の子に「もし、神の子なら…」と誘惑があった。確かにそう考えられる。周囲も賛同する。 自分の出番に見える。ここが悪魔の本質発揮の場所である。信仰に堅く立つとは信仰に踏み留まることである。 教会を離れない、しなやかであり、しぶといのです。マタイ11章28節や第二コリント6章9節の言葉はその奥義を示している。 他を制したり、他に誇るためではなく耐える力やしなやかさを身に付けるためには、み言葉を内に宿すことであり、 主が共に荷を負って下さることに委ねること、教会に留まることが大事である。 荷物を積み過ぎて風波をかぶる船か、それとも荷を投げ捨てて身軽に波間を主イエスと漂う者となるか。 主に委ねてよいのです。 6月29日 主をほめたたえよ 詩篇 135篇1節〜21節 阪井牧師 つらい時、悲しい時、たえられない時など、つい問いたくなる。 「なぜ、自分なのか?」と。自分では納得できない事態を引き受けなければならないからである。 その逆で幸運と思える時、喜びの時、嬉しい時はどうして「なぜ、自分なのか?」と問わないのか?自分に十分納得できるからか、 と考えるとちょっとむず痒い。パウロは手紙(第一コリント15章10節)に「わたしが今日あることを神に感謝し、主をほめたたえなさい」と語る。 この詩篇の中心テーマである。それは礼拝で讃美し、共に唱えよ!というのではない。 イスラエルに所属する者全てに向けた言葉、それは主イエス・キリストにある者すべてに向けた言葉となっていると受け取る。 その人がどのような道をそれまで歩んできたとしても、主はご自分のためにその人を選び、ご自分の所有(宝)とされた(4節)とある。 人の目には受け入れがたいヤコブがイスラエル(神闘う)との名を与え、 み手を休めることなく造り替えて生涯の終わりの時(創世記49章)には他を祝福する新しい人・新しい人間に変えられたのである。 祝福を受けたイスラエルがどのような歩みをしたかは旧約聖書の語る所である。神の民と呼ぶに相応しい民であったか?そうではない。 しかし神の祝福を地上のすべての人々のために祝福を行き渡らす務め(使命)を与えた。 わたしたちはどうか?その一人子の命に代えてまでも「わたしの所有(宝)」として用いようとされている。 説明はつかない。どうして?主をたたえるしかない。 6月22日 恵みの草を食む羊 ペテロの第一の手紙 5章1節〜5節 阪井牧師 今緑が美しい。そのみどりの野の羊になり、自分が草を食べている姿を想像してみる。 野の傍らに水場もある。羊はそれぞれ自分の生活に余念がない。牧者に導かれているのは同じでも、その生活スタイルは様々。 家庭や職場、社会的立場にもよる。ペテロの手紙でも同様である。奴隷たち(2章)、妻(3章)と夫、教会の全ての人(4章)と様々。 この5章は長老たちに声を掛ける。ペテロ自身は使徒である。だが敢えて自分を長老の一人と名乗る。 伝道をし教え教会を治め維持する働きをする人々である。 教会が「キリストの身体」というのは、その様々が身体を構成する部分であることを示す。 その部分が信じているだけで、キリストの血が通わなければ成長もなければ、生きることもできない。 キリストの身体としての機能が滞る。教会が真に生きている姿は楽しんだり、何かの仕事をするのでもない。 その中心は礼拝をすることである。重心がズレるなら身体の健康を壊し、その回復に苦労するのと似る。 時間・労力・費用も大変である。歩んできた教会の経過とキリストのみ心を少しでもよく知る人が長老に負う教会の決断である。 そしてキリストの身体である各機能が意味を持ち、全体が生きて働くためにどんなことが求められるか。キリストの証人になること(1節)である。 使徒行伝1章8節の約束と命令を想起する。「…聖霊が下る時、力を受けて地の果てまで私の証人となる」と。 キリストのものとなったと言われるまでになりたい。 6月15日 主に従う ヨハネによる福音書 21章15節〜19節 佐藤菊男先生 興味ある、面白い話をするつもりはない。説教はそういうもの。 この箇所は有名で聞き慣れた話であろう。イエスはペテロに問いかけた。それを私たちへの問いかけとして、どうして、何を言いたいと読むか。 「あなたはわたしを愛するか」と日常生活で問われ苦しむことがあるか。 3回目の言葉「愛するか」は前2回と異なる語である。なぜ変わったか。イエスの意図はなにか。 年を経て「愛する」の基本的なことがどうでもよくなっていないかを想う。 イエスに教えられ学んだ通りの愛(神がわたしを愛した)は心を痛め悲しむものではなかったはず。 3度目の言葉は興味深い。ペテロの悲しみを助けている。人間的なものの愛の言葉である。 チェホフの「ベロニカ」の引用から、一人の女性の愛の告白を聞いた人が、 そこに苦しんでいる人間を見ていることを紹介し、これが本当の愛の言葉の聞き方ではないか想う。 ペテロは信仰が何がなにか分からなくなり、失いつつあったその時、イエスは問いかけた。 それに応える言葉はなくてよい。「わたしに従ってきなさい」はペテロを救っている。ペテロを励ましているのではない。 イエスがペテロについて来ることを語っているとしたら、わたしたちにも聖書のメッセージは、イエスが同じ言葉をもって語りかけている。 わたしはあなたについて歩いている、と。 イエスについてこられると困りますか? (文責 阪井) 6月8日 あなたの祝福 詩篇 134篇1節〜3節 阪井牧師 田舎の夜空は驚くほど星が輝いて見える。 ところが聖書では、夜は神の支配から離れ、恵から遠いことを表している。 創世記は暗闇の中に神の言葉(秩序)が世界の初めと記している。 人生だれもが経験する困難、悲しみ、不安、悩みの時を象徴して表現することもある。 特に自分だけと思うときは暗い闇を想う。詩篇134篇はその暗い時(夜)、主の家に立つことを勧める。 神を礼拝すること、神に仕えることを示す。毎週礼拝をする私たちはどうだろうか? 本当に祈りは聞かれると確信をもって神に迫る祈りをしているか?「苦しい時の神頼み」を笑ってはいられない。 会堂司ヤイロの話(マタイ9章18節〜、マルコ5章22節〜、ルカ8章41節〜)を想起しよう。 自分の娘12才が危篤状態にある時、傍にいてやるべき父親が、娘を離れイエスの所に助けを求めて来ている。 愚かしく見えるか、それとも…。まだ何か自分でするべき事はないかを探し、結果自分を失うことを想う。 神が全ての解決者であると知りながら、なお主の家に立たず、他のものにすがり立とうとしないか?人々は嘲り遠ざかるかも知れない。 しかし、私たちは主の家、神の言葉に立ち貫くことができる信仰を与えられている。 時として世の栄光の座を退くことも決断する必要があるかも知れない。 神に忠実であろうとすることと、人の人気を得ることとは両立できない時がある。 主イエスの言葉「天に宝をたくわえなさい。神と富とに兼ね仕えることはできない(マタイ6章24節)」を想う。 主の祝福を歩みたい。 6月1日 黙って聞く方 ペテロの第一の手紙 4章12節〜19節 阪井牧師 生活の仕方や弁明が通じるなどの猶予はない。キリスト教を捨てねば自分の身の安全が保てない。 初期の異邦人教会では信じるが故に耐える、今日ではあり得ない厳しい状況であった。 ペテロはそのような教会の実情を知って手紙を送っている。 萎びた植木に水を掛けると、元気さを取り戻し生き返るように、彼の言葉は教会の人々に力を与えた。 僕たる者、妻たる者、夫たる者よに続いて「愛する者たちよ」との呼び掛けは、苦しむ教会全体への言葉であろう。 温かく自分を包み込む愛を考える時、キリストの苦しみに与る愛は通じない。 キリストと共に生活する、どんな時にもキリストと一緒にいることを語る愛がここにある。 どのような行き詰まりにも慌てることはない。この一緒は自分の都合ではない。 自分のためであり、キリストのためでもある生活をする人々に向けた言葉である。 世の人々は見えない方を主として自分を掛ける生活に恐れを覚え、迫害の厳しさとなって立ち向かったであろう。 生活が信仰の闘いとなるのは必然である。闘わないですむ生活は果たしてキリストために生きることに繋がっているかを問われる。 殉教者はキリストと自分の命を切り離して考えられなかったのである。 キリストから受けた福音を伝えることはキリストのために苦しむことの一つである。 苦難の僕の姿のキリストに忍耐を見る。この方に従うのである。黙して聞いて下さる方と一緒に忍耐を貫き歩きたい。 他の生き方を変える力を信じて。 5月25日 和合の麗しさ 詩篇 133篇1節〜3節 阪井牧師 使い回しは節約や環境対策よりも大きい意味を見ることができる。神の祝福と豊かさに通じる。 他者の使った物を喜び用いるには信頼が要る。お互いの関係がその背景にある。 主イエスの言葉(ルカ6章20節)「あなたがた貧しい人たちはさいわいだ。神の国はあなたがたのものである」を想起する。 家族、職場、地域また国際間で見るのは、わざわざ遠い所と親しくして近い所に関係を取り持ってもらう様である。 インマヌエル「神われらと共にいます」と神が自ら出会い、共に生きた方をもって私どもに望まれる豊かさ、神の賜物を想う。 パウロは第二コリント5章16節以下に「和解」の言葉で語っている。この詩篇の「和合」の言葉に通じる。 麗しく、楽しいのは神の祝福があることを鋭く歌っている。「油注ぎ」は神の選びと使命を担う者への祝福の祈りを伴う。 特定の小数者に留まらない。和合の根源を意味する。家庭・地域・社会・世界に広がっていく時、そこに麗しさと楽しさがある。 教会はその出発点になるところ。互いの意見立場の異なる者がキリストの故に和合できる。 肉親兄弟、血を分けた者を越える証しを喜び楽しむことができる。 かつて敵であり、背を向けた私のために自ら執り成しとなったかた主イエス・キリストによって敵する者のために祈ることが始められている。 痛み、苦しみ、恥を忍ぶことを通して、私どもに和解の道を歩ませて下さった。これは神の真実を受ける所から始まる。 主の霊の導きを祈り求め神の秩序に生きよう。 5月18日 本当に、主は復活して ルカによる福音書 24章13節〜35節 松本先生 キリスト教とは何かを、学生に説明する「イエスというユダヤ人がいた。 この人がキリスト・メシヤと信じるのがキリスト教」と。この人の甦りがなかったら偉大な預言者の一人であろう。 十字架と復活による罪の贖(あがな)い、永遠の救いが中心的聖書全体メッセージである。 個々の聖書箇所だけ見ていると全体が分からなくなる。受難物語を通してイエスは祈りに祈って自分の死後、福音を伝える人を選んだ。 その一人ユダは銀貨30枚で主を売り、ペテロは知らないと否んだ。死の時は誰も側にいない。癒された人も買収されて主を離れた。 この人たちが特別ではない。主イエスを理解できなかった。人は人を理解できない、この限界そのことが罪である。 イエスの最も厳しいことは神に捨てられ裁かれることである。復活の話は伝わらない。信じる者がなかった。 十字架は彼らに挫折であり、どうにもならないことであった。エマオの旅でも聖書全体の説明を受けたが分からなかった。 食事の時初めてイエスが見えた。肉体の目ではなく霊の目で見えた。エルサレムで弟子たちに会い「本当に、主は甦った!」と確認した。 復活は不可能が可能になることを示す。復活は力、生きる力である。イエスの十字架と復活は自分が永遠のいのちに生きるため 、神の愛が示されたのである。神の愛を、全ての人が永遠のいのちに生きるためであり、 み子イエスにおいて甦ってくださったことの中に受け取ることができるのである。 5月11日 心の思いと主のみ旨 詩篇 132篇1節〜18節 阪井牧師 今日もダビデの名が特別の位置を保っている。メーカー名、大統領別荘、国旗などに見る。 今の私たちが想像するのさえ難しいほどイスラエルの人々には特別の意味を持ったと想う。 イエス・キリストの系図(マタイ1章)の時代区分になっている。神がダビデを愛し、 又ダビデは畏れを持って神に信頼し従ったかを想起し、将来への望みを詩にしたのが132篇である。 2代目の王となったダビデはエルサレムを首都とした。そこに神殿を建て、心からの礼拝をすることを願ったからである。 主が共に居られ、神との関わりの中にイスラエルが居ることの「しるし」、それが「主の箱」である。関わりを失うことは神の民であることを失う。 かつてその箱がペリシテ人に奪われた背景をここに見る。ダビデの遷都は、神が自らすむところとされたからと受け止める。 教会のあり方を思う。主の恵みはいつも人の求めに先行しているとある。 生活(15節)、信仰(16節)、政治(17節)にも主が共に居られるゆえに祝福がある、と。 そのダビデに神殿建設が許されなかったことをこころに止めておきたい。砂漠の旅がそうであったように人の思いのままではなかった。 主が導かれたのである。実力、好機、勢いも主のみこころには従うのである。パウロの伝道旅行も然りである。 誰が見ても今、と見えるのを立ち止まって待つことは難しい。主のみ旨を待つのは本当に苦しい。自分との闘いである。 み言葉に生きる信仰者には主の霊が働かれるのを待つことができる。 5月4日 思慮深い人の精算 ペテロの第一の手紙 4章7節〜11節 阪井牧師 歪みに気付かない時、その指摘を素直に受け止めるための方法は?年長者や上司からでは?その逆では?敵する者からでは?信仰の仲間からでは? などと想像させられるペテロの手紙である。 かつては主イエスにそれを指摘されたペテロが、今はイエス・キリストに生きようとする教会の人々に向かって勧めをする。 初めのある世界は終わりがある。承知しているその生活を本気にしているか。 主が御支配されている、主と共にある生活か。 救い主としてこられた主イエスと共に歩む者は、自分のことだけでなく、すべての人に神のご支配に入ることを求める。 自分の計算や心づもりの世界ではない。見通しの立たない程、不安と恐怖を感じることはない。 神の支配をしっかり受け止める者には不安も恐れもない。神には勿論人に対しても謙遜となる。 祈ることができる。真実な祈りは祈りによって養われる、という。方法や言葉ではない。 神のみ旨に従うためのもの、自分を貫き通すことではないことは承知の上である。 恵みの管理人である。かつての闇の子が、今は光の子なのだから。自分の見通しではない。 神のご計画にあずかる者である。(1)腰をふらつかせないで神の愛・主イエスキリストに生きること、(2)状況を見抜いて今何をしているかを知る者であること、 (3)主から受けた宝を活かし抜いて生きること。これらの結果は神が負って下さる。ルカ16章の不正な家令の譬えは今日の私たちへのすすめである。 4月27日 乳離れする幼な子 詩篇 131篇1節〜3節 阪井牧師 人が生まれ持っている神の祝福によって今を生きている。 その祝福の用い方によっては神との関係を失うことが生じる。 自分への確かさや自信という頑張りがその結果を生み出すことを創世記3章の物語から考えさせられる。 「苛立ち」もその類に入るのかも知れない。弟子たちが自分の配慮で気遣った事が、主イエスの妨げになっていることを知る。 幼な子を制する(ルカ)場面、異教の女の取りすがりをを追い払う(マタイ)場面などからも力む事が驕りや高ぶりを、非力を知ると不安と恐れに陥る。 神に委ね信頼するとは、まず神が働かれることを受け止め、自分はそれに仕える者に徹するのである。結果は第二。神のみ旨がどうかが第一。 これは信仰者に与えられている恵みであり、また魅力でもある。神が働かれる場はそこだから。 「わたしは驕らない(1節)」はこのあり方を告白している。 「乳離れしたみどりご(2節)」とは、かつては自分のことで精一杯で、他者への心配りなど全くできなかった。 やがてそれが他者のために生きようとする姿になるのを想起する。しなやかさがそこにはある。 私たちの生活には山、川、谷と大きな起伏がある。 それらに苛まれながらも、幼子が親を信頼して自分の行きたいところ、したいことに挑戦をするように、 神に希望を託するなら心は至って平安であることを示している。 神が私の心を支配してくださっているなら、よけいな心配は要らない。 わたしを用いて主の働きがなされることを祈り歩みたい。 4月20日 揺るぎない希望 マタイによる福音書 25章1節〜13節 阪井牧師 契約の破綻は死をもって償うのが責任の負い方である。 神との契約を果たせない人に代わって主イエスが十字架につかれた。 その死を克服して甦られたと受け取る信仰が教会の出発である。 十字架の前に逃げ隠れしていたあの弟子たちがその中にいることは驚きである。 心の中に思い起こすこと、誰かの働きや証しに想起すること、教えや考えでもなく、語られ約束されたことの真実と受け取る。 この信仰に自分を生きるのが私たちである。この主が再び来られるとの確信が教会の力である。 小さな非力な教会が世界に向かって力強く働き、希望の力となった。 結婚の婚宴に向けて備える女の人たちの譬えはいくつかのことを考えさせる。 (1)婚宴は必ずある。しかしその時が自分で予測できない。(2)先に地上の生活を終えた方々を通して終わりの時を意識し、 生きることの真実に心を向けること。(3)人を生まれさせ、終わらせる方を信じて生きる信仰を与えられている。 主のみ手の中に喜んで生きる。譬えに出てくる女性は見かけは変わらないが、 油の用意ができているかいないかに決定的な差が出ていることに気付くとき、内面が分からないことに気を許していることはないかを想う。 最後に信仰は神と私の関係、食事や衣装のようにその個性が生かされる信仰のあり方も認められるように思う。 それぞれがキリストに出会い、キリストによって生き、キリストを喜ぶ生活、それにあずかる希望をしっかり持って歩みたい。 4月13日 真理の御言葉 ヨハネによる福音書 17章9節〜19節 阪井牧師 自分一人の道を只ひたすら歩くのはつらい。 でも、一緒に歩く人が自分を誤解したままでいられるよりも耐えやすいかも知れない。 受難週の主イエスの歩みの苦しみは誤解の弟子たちと一緒であった。 第2イザヤ(40〜55章)のメシアは人々の考えていた姿ではない。「苦難の僕」の姿であった。 主イエスの姿を語っていると見ることができる。主告白のすぐあとサタンと言われたペテロ(マタイ13章)、 叫びつきまとうカナンの女を追い払おうとし(マタイ15章)、幼子の祝福を求める人の前に立ちはだかる(マタイ19章)弟子の様子は懸命であるだけに悲しい。 この弟子たちを世に遣わされる主イエスの思いはどうであったろう。これを支えておられるのが主イエスの祈り(ヨハネ17章)である。 神学校の寮生に礼拝参加を呼びかけたのはこの教会の事実を知ってもらうため、この地を宣教の地としている教会に理解をもって、 集まる教会の私たちを知って欲しいからである。 外に見えるところだけでなく、教会の土台となっているところを見、正しく土台に乗っているか教会を担う全ての者は確かめ、 生きて動いている教会を支えるのには、何が必要でどんなことが起こっているかを自分がその場所に立って見るのである。 神様から示していただくことである。 強制されることは苦痛であるが、喜びに満ちることがある。 主イエスの言葉「仕えられるためではなく、仕えるため」、しかも自分の命を与えるため、との言葉の奥義を知るところにある。 神の恵みを受けよう。 4月6日 集めたパンくず ヨハネによる福音書 6章1節〜15節 阪井牧師 十字架の死に向かって歩まれた主イエスの受難の時(今年は3/7〜受難節に入る)を覚えてメッセージを受け取りたい。 主イエスが「不思議なしるし」を行われた時、そこに居合わせた人々は、心にある思いが刺激を受けて顕わにされていく。 パンの奇跡も私どものこころに問いかけるものがあろう。 ヨハネ福音書の6章は5つのパンと2匹の魚を5千人の人が食べ、なお12のかごにパン屑が一杯になる奇跡の話から始まり、最後は弟子ユダの裏切りを予告をもって終わっている。 しかも場所がテベリア湖(=ガリラヤ湖の別名)だとある。 ヨハネ福音書にだけ使われているテベリアの名称は、最後の21章にも出ている。 それは政治的意味を持つ名前である。ローマ皇帝ティベリウスの名を付けた政治都市テベリアがガリラヤ湖畔に建設された。 その名で湖を呼ぶのは皇帝の権威を認めていることを意味する。 イエスが十字架に死んだ後、復活された姿を弟子たちにお示しになった場所が「テベリアの海べ」だとしている。 名を轟かす皇帝の勢いに弟子たちが飲み込まれていた事を思わせる。 その場所に「いのちの光」であるイエスが姿を顕されたことに特別の意味を思う。 自らを「いのちのパン」と宣言し、主人の食卓から落ちるパン屑をさえ受け取ろうとしたカナン(異邦人)の女(マタイ15章21節以下)をほめたイエスが、弟子たちにパン屑を集めさせたのである。 なお他者を生かす力がそこにあるを思う。私が今あるのはそのパン屑にありついたからを思う。 3月30日 混沌と衝突 ルカによる福音書 11章14節〜28節 阪井牧師 イースター(復活祭)前、日曜日を除く40日間を受難節と呼んでいる。 教会名を新しく生まれる「新生」との言葉をつける。 主イエスの死からの甦りとイエスをキリスト(救い主)と信じる者が、 この世界にあって神の世界に生きる者の新しい生き方をする信仰の表明である。 祈りと聖書の学びから得た結果だと思う。主イエスは祈って父なる神のみ心を歩まれた。 ルカ11章はそのような主イエスの祈りの姿に惹かれて弟子たちは「私たちにも祈ることを教えてください」と訴えた。 それに応えて「主の祈り」が示されたことを心にとめたい。 私たちの教会の中でも互いに祈るその祈りに影響され合うことを味わいたい。 祈りを命じられるのではない。自らの求めが切実である時、祈りは真実となる。 祈りたい祈りを共にする時、影響を受けまた与える。 主イエスが悪霊を追い出した。物言えなかった人が話し始めた。 あまりにもはっきりした不思議な「しるし」に群衆は戸惑った。 自分を委ねてよいか?同じようにする人の中でイエスだけが真の救いをもたらす方なのか?確かさか手がかりが欲しい。 悪霊の頭(かしら)にも思える。その想いに応えた主の言葉を受け止めたい。 外からの圧力には屈しないが、内部からの分裂は破滅に至る。 私たちの教会(群れ)も人それぞれの夢を一つにしたい。 乱れと命の彷徨うこの世界に、永遠の命と救いを伝える教会としての成長がそこにかかっている。 神の言葉を生活の力にするところにその全てがあろう。 3月23日 見出す いのち マタイによる福音書 16章21節〜27節 阪井牧師 打ち明け話にはつい身を乗り出す。聖書に主イエスが弟子たちへ打ち明け話をする記事(マタイ16章21節)がある。 その直前には弟子たちの「主告白」があり、イエスは自分がキリストであることをだれにも言わないよう戒めている。 聞く者の誤解を恐れている。この主告白が教会の大事な信仰告白の原型、神の国、救いの鍵である。 この告白をした弟子たちへの打ち明けをペテロがたしなめた。「必ず〜すべき」と受難と十字架と復活を語られたからである。 その途端イエスは「サタンよ、引き下がれ。」と言われた。この「サタンよ」は、 イエスがバプテスマを受けられた後荒野で悪魔に試みられた時に語られたのと同じ言葉であることを想う。 信仰告白をしたペテロに向けた言葉であることを心に留めたい。個人でも教会でもその信仰を吟味する必要を思うからである。 どんなに言葉で的を得ていても内容を誤ることがある。告白をより真実なものとするために打ち明けられたのである。 人の良さ、誠実さをもって常識に引き戻そうとする時、それが前を向いている顔を横に向け、 天上への目を地上に落とす事へ促すことになる。人が最も弱くなる時サタンは働き、神への意志を捨てさせ、 道を脇へ譲らせる。情けや温かさがサタンへの道となる。自分の一切を捨てることこそが十字架を負うことであり、 そこに自分の命を見出すのだと語られた。 「わたしについてきたいと思うなら……」の言葉を私たちの生活の中に取り入れる群れとなりたい。 3月16日 死と復活の予告 マルコによる福音書 10章32節〜34節 松本先生 マルコ福音書記者は生前のペテロから聞いたか、若き少年時代の頃の伝承を耳にした話かも知れない。 イエスの死後30年して書いた。イエス・キリストを書き、彼を取り巻く人間の真実を描く文書である。 死と復活の予告の後、過越祭の巡礼でエルサレムに向かう一団、その先頭に立つイエスの姿を想像する。 その顔や態度は弟子たちを恐れさせたろう。多くの人が集まり、春先の誰もが浮き浮きする時、3度まで自分の死、しかも十字架の死を語った。 心に刺さらない訳がない。でも人の心は春を楽しむ。イエスと弟子たちの思いはかけ離れていた。 人の思いを思い量ることはとても難しい。 3年間生活を共にした弟子なのに、語られる先生の非業の言葉を神の栄光と受け、 その栄誉恵みにあやかりたいと願い出た。抜け駆けを不快とする誤解と鈍感が人間の現実であることを示す。 実際に十字架の時、その左右にいたのは強盗であった。イエスはその弟子を叱らず、弟子であることの意味を諭した。 仕えられるためではなく,仕えるために来た、と。弟子は仕えるため、とパウロは語る(1コリント4章1節)。 肩書きではなく、キリストに仕える者と見られたい。死と復活の予告に続いて互いに仕え合うようイエスは求めた。 その人の身代金として自分を差し出された、と。復活の時でもなお理解できなかった弟子の姿は人間の現実である。 祈りつつ読む聖書が聖霊により神の真理を示し教えることを受けとめる生き方をし、受難節を偲びたい。(文責阪井) 3月9日 神に生きよ−新しい道 ペテロの第一の手紙 4章1節〜6節 阪井牧師 「人に見せばや 我はただ うしろにさえし キリストを」が印象深い。 今まで見たことのない生き方に思えた。<建前>を使い分け<本音>で生きる世界の者に対する鋭い提言である。 今や建前は要らない。本音が自由を生きる姿と見える。「肉における残りの生涯を神の御旨によって」など堅苦しく愚かにさえ思えよう。 聖書は「肉において苦しまれたキリストと同じ覚悟で心の武装をして」生きることを求める。 近くに生活する人は「驚き怪しむ」に違いない、とある。 キリストを信じ従う者には当然であっても、他の人には不可解に見える。 そうでなければ生き方は変わっていないことになる。覚悟=悟りを開く、 真理を知るの意。キリストが歩んだその道、十字架への道は本来わたしの歩むべき道、 それを引き受けて歩み十字架を通り抜けられたたと気付き、そこにわたしも立つことが覚悟である。 あちこちを配慮して自分を失うことがない。「驚き怪しむ」は外国人を意味した。全く違う人が見える。 違いに驚き、興味を持って迎える場合(1)と排斥してしまう場合(2)がそこに起こる。 神の覚悟は人の世界に自ら仕える者として働かれる(エレミヤ30章17節)ことの約束成就がイエス・キリストである。 このキリストを小さくしてはいけない。大きくすることが信仰者に求められている。 揺るぎなく神に生きること、それは讃美(=大きくするの意)することが新しい道である。 キリストの恵みをそのままに生きる事、形を変えることではない。 3月2日 新たなる力を得よ 詩篇 130篇1節〜8節 阪井牧師 かつて私たちの精神文化を12才と評された。罪の意識がなく、恥の文化のため。 精神的に独立した個人の尊厳意識よりも周囲との調和を大切にする自分が重要な文化であろう。 生活を営む自然環境も一つの要因と考える。聖書の世界・イスラエルの人は極めて厳しい環境に生きた。 人間は容易に消え失せる存在だから基準にならない。当然「いのち」は自分の手の中にはない。 もっと大きい世界、与え、取り去る方を畏れる生き方となる。人との比較の中に「いのち」はない。 「いのちの息を吹き入れて人は生きた者となった(創2:7)」と信仰を表す。「息が合う」関係を「愛」と表現すると、 「神の愛に生きる」は神と息が合い、人がよく生きている姿である。関係を損なうなら呼吸困難となる。 罪の姿である。もはや自力で体勢を回復できない〈死に体(相撲用語)〉ある。 罪の姿を認める自己認識は、赦しを恵みと受け取れる。謙遜さの根拠となる。 生かされる誇りと自信と喜びの根拠となる。不自由さのない日常から真実の自分、 「深い淵」にいる自分を見ることは難しい。 「…やみが淵のおもてにあり、神の霊が…覆っていた(創1:1」とある言葉は神との関係を失った状態を想像させる。 詩人は「叫んで主に助けを求める」と憚らない。罪の意識は人がそこから立ち上がることへの足がかりとなる。 パウロは主イエスと出会い、赦しに生きる者となった。力を得、福音のためになんでもする人に変えられた。 神の愛に新たな力を得て生き、生かされよう。 2月23日 さいわいを生きる ペテロの第一の手紙 3章8節〜16節 阪井牧師 「構えた…」と生活スタイルを形容することがある。生活上のことや趣味程度のことなら聞き流せる。 生き方・信仰の姿勢を「斜めに構えて…」となると考えざるを得ない。 なぜなら「構えるとは自分を保つために予め取る姿勢のこと」だとしたら、斜めは神の言葉に対して取捨選択することを意味する。 強がり粋がる背景には自分を保ちたい強い自己主張を見る。神の言葉にさえ自分の判断が優先することになる。 自分の懸命さに応えるかどうかと神を相手にしての判断である。 ペテロは厳しい歴史状況の中で判断を迫られる時、旧約聖書に目を向けたのがこの詩篇からの引用(34篇)である。 この詩篇が特別のものとして響くのはペテロの信仰に立つからである。 これが聖書の持つ力である。信仰を持って読む聖書は生きた「いのちのことば」として語りかけてくる。 いくら手近にあっても構えて聞くなら、真実は聞こえ難い。 分かり易い、楽しい、受け入れやすいなどの篩い(編み目)にかけることになっていないかを問われる。 「悪をもって悪に報いず、…かえって、祝福をもって報いなさい」は神のさいわいを生きる者への勧めである。 自分の弱さを本当に知る者は卑屈になることなくまた強がることもなく神に、神の言葉に信頼して祝福を、さいわいを造り出して生きる者とされている。 神に頼るしかない自分を認めるところに、神を畏れる生き方が始まり、新しい世界がそこに開けていくことを約束している。 さいわいを共に生きる者となりましょう。 2月16日 悩みに勝つ 詩篇 129章1節〜8節 阪井牧師 「血気盛ん」と若者を形容する。力溢れて困難をモノともせず輝く姿を想像する。 聖書は「あなたの若い時を楽しめ、……その全てのことのために神はあなたをさばかれることを知れ(伝道11:9)」とある。 人間の歴史に神が働き、見ておられることを示す。 親が子を育て教育するように、イスラエルは神が自分たちを導き守ってくださるとの確信をもち、 自分たちの歩んだ歴史の中に神は働いてくださったと受け取る。 それは「主は正しくいらせられ」るからだ、と言う。 その現実はイスラエルの「若い時」つまりバビロン捕囚と解放(BC587頃-538)や出エジプト(BC1280頃)と約束の地への旅のことを意識した受けとめ方である。 神が働いて下さったからこそ民の消滅を免れた、と。 今日の私たちの信仰生活にも同様なことを考える。神に愛され、神に選ばれ、 神から遣わされることの故に他の人が知ることのない苦悩、辛さを経験することがある。 でも「主が正しくおられる」から決してそのままで終わることはない、と誇りと確信を持って良い、 と。生活の様々なところで葛藤・悩み・苦痛があっても主はそこで働いて下さると信頼してよい。 「あなた方は、この世では悩みがある」と語り、続いて語られた主イエスの言葉は大きい支えである。 「しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。 十字架の死に至るまで父なる神に信頼し従順であられたように私たちも主イエス・キリストの言葉に信頼して生涯を歩むのである。 2月9日 心の中に主を ペテロの第一の手紙 3章8節〜22節 阪井牧師 最初の主告白をしたのは12弟子である(マタイ16章、マルコ8章、ルカ9章)。 その告白に対して主イエス「あなたは幸いである」と言われた。この告白は「わたしを誰と言うか?」の問いに答えたものである。 しかもこの告白に続いて受難と復活を話されたことは重要な意味を持つと想う。 人の世界に神が働きかけられた事実に人はどう答えるかを意味する。人が信じるとか受け入れるかの事柄ではない。 神が働いてこそ人が受け入れることであって納得や理解の領域に入れられることではない。 主イエスと人が出会うことによって「神のいのちを生きる」ことが出来るかどうかがかかっている。 今日の私たちが生きる喜びやエネルギーは知識や富や地位ではなく、その人の心の中、腹の底から湧き上がる何物かではないか。 義務感や責任感からでは長続きしない。これらも人に感動を与える。しかし聖書は「生かされ、生きる者」として信仰者を見る。 自分の力やその人の人柄ではない。神の力に与る者、キリストによって新たに生まれた者、 朽ちず汚れずしぼむことの無い資産を受け継ぐ者(3章9節)だという。人はそれぞれの生活あり方をするが、 キリストに向かって生きることにおいては一つである。互いにその人の立つ処に立てる。キリストが私たちの処(十字架)に立たれた。 そして甦られた。この主イエスに出会った者は自分の弱さを強さとして受け取り他者に仕えることが出来る不思議を味わう。 恵に生かされた喜びがそこに湧く。主が働いて下さっている。 2月2日 大きな望み 詩篇 128篇1節〜6節 阪井牧師 凄まじい生活の変化は思わぬ状況を生みだしている。 テレビの場合は50年で白黒・カラー、箱形から壁型へ、家族団らん用から個人用へと。 食事は自宅で外国食さえ食べられる。それで人間はどうなったか。 家族の孤立化、若者の栄養失調である。外形が立派であるのに反比例して心は痩せ細ってきた。 誰がどう立て直すのか。聖書からその使命を受け取る。 他の誰かに手を貸したり、力を貸してではなく、力弱く貧しい私たちがこの世界を 、社会を立て直すのである。大それていると思うかも知れない。 しかしここには主を畏れ(心のあり方)、主の道を歩む者(生活行動)は祝福にあずかるとの内容である。国が滅んで自分たちの生活ギリギリの中で、 なお侵入者による強奪や戦利品として持ち去られる立場を経験した者には土地に播き、 育てたものをそっくり自分が取り入れることができたら、 どんなに嬉しく心満たされることかを神に感謝している。 労働・学び・生活が生かされ、生きている喜びでなくなっているのは、見失っていることにある。 それが主を畏れること、主の道を歩むことだと詩編から気付かされる。 さらに主に祝福された者は、共にいる家族・同労の友・地域の隣人・同時代に生きている人々に目が広げられていく。 自己犠牲によって自分のいのちを差し出して神のいのちを生きるように十字架は働き、 社会や世界を変える力として私たちを用いるのです。この生き方が与えられている信仰の真実である。 1月26日 祈りの妨げ ペテロの第一の手紙 3章1節〜7節 阪井牧師 主イエスがバプテスマを受け、水から上がると、「わたしの愛する子、わたしの心にかなう者」と天から声があった(マタイ3章16節)。 主イエスのバプテスマは (1)ヨハネの正しさを証しし、(2)神のみ心を行う者として立ち上がる「時のしるし」であった。 神の子として働くイエスへの最大の妨害が(悪魔)サタンによる誘惑だと福音書(マタイ4章1節〜、マルコ1章12節〜、ルカ4章1節〜)は語る。 サタンは主イエスが父なる神のみ業に仕える方であることを他の誰よりもよく知っている。 飛躍を恐れるが、私たちの心を一番よく知る者がサタンとして誘惑の力を発揮すると受け取れる。 最も親しい者が外から、もう一人の自分が内から攻める。夫や妻、家族、親友、……そして自分を想う。 意図的に働きかけてくるなら対応もできる。誠心誠意を尽くしての配慮がサタンの誘惑であるとしたらどう対応できよう。 主の霊が働いてくださるとの信頼(信仰)に立つ以外にこれを克服できない。 自分の力量に余る。妻が夫に仕えるのは、主が自分の足を洗ってくださったその恵みを共有することに通じる。 夫が妻を尊ぶのは、神が働いて家庭を作るように恵みをもって導いてくださった故にここに自分がいると受け取る。 その時、神はそこに働らかれる。互いが持つ能力、様々の所有、歩んだ過去をそのまま受けとめるのが愛である。 神がわたしを受けとめてくださった愛には理屈はない。恵みである。ここに立てるのが祈りの結実であろう。 祈りが導かれますように! 1月19日 祈りがかなえられた人 ルカによる福音書 2章22節〜39節 松本先生 ルカ福音書は、成就した出来事を次のような順序で書き記している。 ヨハネ誕生の予告、イエスの受胎告知、マリアのエリサベツ訪問、マリアの讃歌、バプテスマのヨハネの誕生、 ザカリアの讃歌、イエスの誕生そして最後にイエスを神殿に捧げる記事となっている。 当時のユダヤの世界では子どもの生まれない事は、エリサベツにどんな辛いことであったか。 やがて高齢にしてエリサベツにヨハネが誕生する。 一方12才程のマリアがまだ夫でないヨセフの元で身ごもり、子どもを生まなければならなかった気持ちや覚悟はどんなであったろうか。 しかし、このマリヤがいてこそイエスは生まれた。 出産の後男子を産むと30日、女の子の時は40日後に宮清めをする。 マリアとヨセフはイエスを主に捧げるため神殿に連れて行った。その時彼らは二人の老人に会った。 一人はアンナという女預言者、もう一人はシメオンである。 シメオンは神のみ告げを受けてイエス(主のつかわす救い主)を待ち望んでいた。 シメオンは宮にはいった。両親もその子を連れて入って来た。 シメオンは幼子を抱き、讃歌をもって神をたたえ、神の国に召されていった。 私たちは目で確認できるイエスに会っていない。 しかし、神から来たキリストなるイエスの誕生というこの大いなる恵みを受けるかどうかは私たち個々人の信仰のあり方によるのである。 (文責 阪井) 1月12日 問い− 何? と どこ? 詩篇 127篇1節〜5節 阪井牧師 説教代の「何?」は「何をしようとしているのか」を、「どこ?」は「どこに立っているのか」を問うものであった。 つまり問いの焦点がズレるなら会話はおかしいものになる。 詩篇は神との関係に焦点を当てている。 従ってどんなに真剣に何をしているかを答えようとしても噛み合わせは良くならない。 ソロモンの知恵を意識した神讃美である。ソロモンが王に即位した時の逸話がある。 神を礼拝した時、神から「何事でも願うがよい」との声があった。 彼は「神の民を正しく裁くため、正しく聞き分ける知恵」を求めた(列王記3章7節以下)。 この世を上手く切り抜けて、自己目的に到達するものではない。 人としての日常生活に必要な知恵として神の知恵に立つことを歌っている。 今まで見え、経験してきた世界が空しく見えてくる神の知恵に立つ世界がそこには開けている。 家庭(家)や職場(町)や社会(国)で自分の命を削るようにして生活する(勤労)ことが空しくないか? そのようにさせる自分の精神的な基盤が神の支配にあるのかが問いとなる。 ノアの物語を想起してみよう。 神の声に従う生活(造船)に対して、雨が降ってその意味を知るまで、人の目や声は愚かしくまた冷ややかであった。 本当になくてならぬものは、神の御心に徹底して従うところに備えられ、与えられる。 また御自身が出会ってくださる。さらに神の栄光を共に喜ぶ者とされる。 酷な言葉や愚かしく思われ、卑しめられるとも、ひたすら神を第一とする歩みをしたい。 1月5日 残された足跡 ペテロの第一の手紙 2章18節〜25節 阪井牧師 伝言ゲームは最初の言葉とずいぶん違ったものが最後に届くことを楽しむ。 特に自分のよく知らない世界の内容である時、その違いが著しくなる。 間違いなく聞き取り、納得できるよう努力して伝えたのに、全く思いがけない内容に伝わるのが面白い。 だが聖書に示される真実、福音の喜びを真剣にまたつじつまが合うよう努力したのに曲がって伝わるとしたら笑えない。 まして伝言の最後のところに伝わった言葉にわいている場合ではない。 この聖書の箇所を間違ってはならない。 力ある者や権力者に服従を勧めているのではない。 「心からのおそれ」は手向かって痛い目にあわないためでもない。 イエスをキリスト・私の救い主と告白したのは、私はキリストに属する者、自分という人間存在が神さまのものであるとの生き方をすることである。 他の何ものをも恐れることのない自由を得た。つまり神を本当に畏れるものは神以外の何ものをも恐れることはない。 神を畏れるとは、神のみ前に立ち続けるということである。 主イエス・キリストはそのように歩まれた。 キリストに属する者となった私たちはこの方の歩みに従うよう召されている。 私たちに力や知識があるからではない。 神に召されているから、私たちはキリストの足跡にその足跡を一歩、またその次の一歩と重ねて歩むことができるのである。 み霊をもって支え、導いておられる。 イザヤ書53章5節の言葉は主イエスの足跡の一つであることを心に留め、その足跡に自分の足を置く者とされたい。 ホームページへ戻る口語訳聖書: (c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955 (C)日本バプテスト同盟 戸塚キリスト教会 2001-2010 |