日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月26日 この二人の世界は

ルカによる福音書 15章11節〜32節 佐藤 菊男 先生

 ロシアの医者で短編小説家のチェーホフは静かに心の想う聖書の言葉として ペトロが、一人の女性からイエスと一緒であったこと指摘され、そのことを否んで「イエスを知らない」といった箇所を指して、「この話に勝るものはない」と紹介している。 涙を流すでもなく、焚き火のあかりがゆらゆら照らすだけの人生の最後が、凡てを知らないと言う、自分もやがてそうなる時が来ると想うと恐ろしい。 弟の、兄の世界とを行き来しているのが私たちであろう。 日常の生活と日曜日の過ごし方の本当の姿勢を考えたい。 競争の論理が支配している6日間は、静かにしているよりも、飛びはね、走り、歩き、転がり、滑るだけの喧噪と動き回ることの方が、より生き甲斐を感じる。 そして静かにじっとすることが自分の生活の中に意味を持たなくなり、苦痛にさえ感じるようになる。 そのような現代の生活を評して、リュティ牧師は「家庭がそれぞれ赴くままにバラバラで…」と語っている。 この聖書の物語から、路上の賑やかさと教会の静かさとのどちらが良いと言うのではない。 私たちは2つの世界を行き来するしかない。そして神はそのどちらにも働いておられることを知らされる。 我に返った弟は、「もう自分は息子と呼ばれる資格がない。雇い人の一人に…」と父のところに帰ってきた時、 父は弟を「急いで」迎えた。その急ぐ父の姿は、神が人間のために「敏速に行動する」意味を表す言葉が使われている。

12月19日 開通 おめでとう!

マタイによる福音書 1章18節〜25節 阪井牧師

 蓄えられたエネルギーが大きく蓄積されると爆発力が増す。メシア到来の期待はその実例のようである。 マタイ福音書に見るイエス・キリストの系図にもその意図を読み取ることができるように思う。 だが些か奇妙な表現がそこにある。アブラハムから始まる系図に父ヨセフの名前はあるもののイエスの母となるマリアの夫と説明があり、イエスに直接関係がない。系図が意味をなさない。 そしてこのマリアについての叙述は殆ど無く、ルカ福音書のように天の使いからの告知もマリアの応答もない。 むしろ殆ど関係のないヨセフにマリアを妻に迎え入れ、生まれる子どもに名前をイエスとするように聖霊が夢に現れて告げている。自分の意志ではなく神の意志が示される。ユダヤでは子どもの名前を付けるのは父の務めを引き受けるのである。 ルカ福音書ではマリアが受胎告知を受けた時、「思い巡らした」とある。自分の一切を捨てることを意味している告知であった。マタイの場面でヨセフがそれを引き受けるために「思い巡らして」いたところに聖霊が告げている。 世の常識や人生の経験では引き受けられないことを求められる信仰の出来事を示している。生きることが苦しい、存在そのものが否定されるこの世の現実の真っ只中にクリスマスの出来事が起きていることを受け止めたい。 人間の一番暗く、深い魂の悩みの中でなお父としての務めを負うことが求められたヨセフは、正しく神の力・聖霊の働きを必要としていたのである。

12月12日 来るべき方は?

マタイによる福音書 11章2節〜10節 阪井牧師

 全くの無秩序というのでもなく、常識的というのでもない。 けれども真理に鋭い意識と感覚を持つ存在は、秩序の責任を負う人にとって真に扱い難い。 変な扱いをすると一針や二針ならまだしも、命取りにさえなる。 ヘロデにとってヨハネはそのような存在であったと想われる(マタイ14章3節〜、ルカ3章19節)。 いわば存在の根拠を問うからである。牢獄に繋がれている情況ではあるが、あの鋭く世を問うヨハネが主イエス(キリストとの用語を用いている)に使いを通して尋ねた。「来るべき方は、あなたでしょうか。…」と。 主イエスにバプテスマを施す時、「わたしこそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに…」と言ったヨハネが尋ねている。なぜ? 見聞きしている主イエスと自分の中に描き期待しているキリストとの間に違和感があるのではないか、と考える。 待つことの不安がそこにあるのではないか。対する主イエスの答えはそれを受け止めておられる。 「目の見えない人が見え、足の不自由な人は歩き、…人は清くなり、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされて…。わたしにつまずかない人は幸いである。」との返事を持たせている。 ヨハネは主イエスを見失っていたのではないか。主イエスによって選ばれた弟子たちでさえ、主イエスを正しく受け取ることができていなかった。「つまずかない人は幸い」をどう読むか。私たちには山上の説教にある幸いを想起させられる。祝福の言葉であることを。私以外の所に行かなくて…、と。

12月5日 荒野で叫ぶ者の声

ルカによる福音書 3章1節〜14節 阪井牧師

 正面からぶつかる相手がいないことは、過ごしやすい。その分だけ自分の成長は困難となろう。 ユダヤ人の頑なさは、神さえ認めるほど有名(出エジプト記33章5節)である。 困難に耐えることが出来る民でもあると言えるかも知れない。エジプト王が国外退去を求めるほどしつこい民でもある。 そのように頑固な彼らを導いたモーセは、律法を受け、それを守ることによって民の命を保たせるのである。 信じると揺るがない筈であるのに、イスラエルは神の前から離れる歩みを繰り返しては正された記録が旧約聖書でもあると言える。正す務めを託された人が預言者である。悔い改めを求めるバプテスマのヨハネはこの旧約の最後の預言者である。 誰が見てもそれと分かる判別できる姿(マタイ3章4節〜参照)をしていた。 「神の言葉がヨハネに降った(ルカ3章2節)」とあることは重要である。 自分でそこに行き着いたのでもなく、閃いたのでもないことを意味している。神がこのヨハネを通してこの世に関わりを持つことを示している。教えではなく、頑なになっている民の心と生活に神が関わり始めたのである。その時代背景がここにある。 感情や予断を入り込ませないルカ福音書のまことに冷静な記述を通して学ぶ意味は深い。 「罪の赦しを得させるために悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた」意味内容をしっかりと受け止めたい。宮殿や都ではなく、荒野で受けた神の言葉を聞く私たちは、今どこで聞こうとしているか。真実を曲げることなく受け止めるために。

11月28日 目を覚ませ!

ヨハネの黙示録 3章1節〜6節 阪井牧師

 今、第2のお笑いブーム。しかし、面白くないと苦言を呈する人がいる。 礼儀も基本もできていないだけでなく、自分を磨きお客さんに笑ってもらう芸も磨いていないからだと。 適当に相手になってもらい、自分も楽しんでいるだけなら、やがて消えると言うのである。 このサルディスの教会に宛てた手紙は、現代の私たちの教会にも向けられていることを想う。 その内容は、先の評論に似た一面の厳しさがあり、問われている。「あなたの行いを知っている!」に続いて、「生きているのは名ばかりで、実は死んでいる」をどう読むべきでしょう。 自分の信仰の在り方、主イエスとの関わりを問い直し、礼拝を自分の生活においてどう位置付けているかが問われているのです。歴史の中でサルディスの教会はどんな位置にあったか。 交易の盛んな港から内陸に少し入って、渓谷や自然の絶壁に囲まれた高台にある要害都市であった。町の支配者も民衆も外的から襲われても墜ちることはない、と確信していた。 しかし、墜ちた。岩の裂け目に手と足を入れて敵兵が登って襲撃したからである。 この町の教会に語られている言葉を受け止めたい。「生きているのは名ばかり」は名が生きている、と言うことでもある。 神の救いの名簿に名がある。神のいのちに生きている。この事実が失われていないか。適当に処されるだけの存在ではないことを指して、「目を覚ませ」と呼びかけられている。他者の存在を揺るがすほどの生き方を求められている。

11月21日 あなたへの福音

マルコによる福音書  1章14節〜15節 澤野 寛 先生

 「ヨハネが捕らえられた後」とは、旧約の預言者の時代が終わって、 新しく主イエスの時代が始まったことを意味している。「主イエスはガリラヤへ行き、 神の福音を宣べ伝えられた(14節)」には、いわば同じ意味合いの言葉、 「宣べ」と「伝え」を重ねた表現をしている。 これには、マルコ福音書を書き記した記者が特別の意図をもっていたであろう。 それは読者に印象強くするためを想う。「宣べる」はイエスの生涯だけでなく、 また写真や伝記のようなものでもなく、 自分にとって特別に大切なものとして語る時に使う言葉である。 ちょうど国王がその民に向かって、国の重要な事柄を布告したり、 宣告する時に使う言葉であった。 福音書の中にこの「宣べる」という語が61回使われていることからも、 特別な内容を語る時に使われていることが分かる。 主イエスが語られた「時は満ち、神の国は近づいた。 悔い改めて福音を信じなさい」ということがどんなに大切な言葉であるかを 何とかして読者に伝えようとしているのであろう。 ハイデルベルグ信仰問答の第1条に「あなたにとって、 生きる時も死ぬ時も唯一の慰めは何か?」とある。 その答えは「私の救い主キリストのものになることです。」となっている。 人生の目的は神を知ることであり、栄光をあがめ、神に栄光を帰することである。 教会だけがこのことを宣べ伝える使命を持っており、使命を託されている。 託された福音に生かされ歩みましょう。   (文責 阪井)

11月14日 わたしたちの信仰

マルコによる福音書 14章32節〜42節 佐藤 菊男 先生

 ヒトラーから逃れスイスに亡命したH・ヘッセは、 忘れがたい故郷を意識した作品「峠」の中で「…細いしっかりした道に風が吹いている。 樹木もなく苔と石のみで、干し草も薪も得られない…ほほえまない、歌わない、…孤独である。 しかし、苦にしない。人として成長し、円熟することを望んでいる…」と。 相当の年齢であってなお希望をもっている。一方、信仰者としてゲッセマネの園を経験した私は、 どこにいるのか。どこに自分を見いだすのか。ゲッセマネの園で、 主イエスと共に自分を見ることによって「峠」以上の自分を見ることを願っている。 37節で主イエスはペトロに語った。「シモン、眠っているのか…」。主イエスが祈っている間、 座っているよう求められたのに、どうしてそれほど眠かったのか。イエスの祈りの言葉は聞こえない、 姿は見えない。主がしている祈りはさびしい、一人だけである。人はみんな格好良く見せようとする、あるいは祈ることさえ忘れる私たちの祈りと違う。神の行為としての祈りであることを示された。自分を捧げる祈り、神の高さから人の低きに下る祈りである。「座っている」ことの出来ない責任を取らせたり、問責することはしない。神が一切の責任を取られることを語っている。争いつつ栄えていき、滅びていくこの世に対し、私たちは目を覚まして座っていることを求められている。神が祈っていてくださるのだから。 祈られていることを喜び受け止めたい。   (文責 阪井)

11月7日 隠されている宝

箴言 8章1節〜36節 阪井牧師

 かつてはキリスト教(教会)が社会のリーダーシップを果たした。しかし今はどうか、との批判的な問いを受ける。 改めて聖書の語るメッセージに驚かざるを得ない。15〜16世紀に個人の尊厳が社会的に現れた。 創世記は人間の存在の尊さが神にあることをすでに示している。神の秩序を外れる時、人は自分の苦しみ悩みが、否、いのちが失われると告げている。箴言はダイナミックな生き方を呼びかけ、語りかけている。 経済、地位、名誉、などに振り回されている人たちよ!神の知恵、神の深いみこころに教えを受けよと。 広い町の四つ角、町の入り口、門の傍ら、高いところから大胆に語りかける。 自分の持つ個性、特性を大事にするのはよい。 しかし、その素材だけを眺めて今日を生きる小ささに陥ることがないように。ここではあなたの素材を問うよりも、あなたを用いてこの世に主なる神が何を行われようとしているか、神があなたに何を求めておられるか、神の求めの声、知恵の言葉を聞くことが大事であることを諭している。 ルカ5章1節〜11節は、主イエスが漁師ペトロを弟子にする話がある。ペトロは一晩中苦労しても漁がなかったのに、イエスから網を入れるよう命じられた。 「お言葉ですから…」と従う。すると網が破れそうになるほどのおびただしい魚がかかった、とある。 自分の経験や常識は受け付けない。「しかし、お言葉ですから…」ここに神の業が行われる。私たちが隠されている宝を主に差し出す時、恵みを受けと知る。

10月31日 明けの明星

ヨハネの黙示録 2章18節〜29節 阪井牧師

 時間や歴史によって真理が変わることはない。過去2000年前、否それ以前であってもかつて真実であったものは今日においても真実である。 それは理屈ではない。信仰が合理では片づかないように、心や生活の中に染み込んでいくことによって示されている。 「倫理は信仰によって保たれる」ことを「神の秩序」と聖書は語る(創世記1章)。 信仰の混乱を不品行やだらしなさを「姦淫」の語で示す。神との正しい関係を失う民に向かって戒める言葉となっている。 姦淫の罪は死を持って償うのが旧約の時代であった。 主イエスの死は神との関係を失った全ての人に与えられた裁きであり、救いであり、神の限りない愛であった。 教会で行い結婚の真実は、この神との正しい関係において保たれるべきとの願いを表している。 ティアティラの教会の人々に向けられた手紙は今日の私たちの世界に極めて近い境遇であったことを想う時、この箇所から与えられるメッセージが励ましと力になる。 最初の頃に勝っている信仰の行い(愛、信仰、奉仕、忍耐)が評された後、「しかし」言うべきことがある「わたしは、あなた方に別の重荷を負わせない。ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ…明けの明星を与える…」と。 どのように歴史や時代が移り変わっても主なる神が語り約束された真実は変わらないところに私たちの希望と生きる力がある。 今をしっかり生きるように求められる。主イエス・キリスト(明けの明星)が来られるのですから。

10月24日 命を得よ

箴言 7章1節〜27節 阪井牧師

 湯気が立つ鍋を囲む季節となった。しかし、家路に向かうのでなく夜の薄明かりに向かって歩く人がいる。 そのような人を窓から見て、戒めを与える内容がここにある。 目(瞳)はヘブライ語で「小さい人」の意味を持つという。 また瞳を通して光を感じ像を造るところを網膜というが、像を映さない点がそこにある。これを盲点という。 この点を補うものを知恵の言葉として考えることができる。何気ない日常の生活に神との関係をしっかり組み込むのである。 人は神との関係の中に生きることを創世記2章に「神の息を吹き入れられて生きるものとなった」と読むことができる。 ところが蛇が誘惑したのは、その人を自分だけで生きる、つまり神のようになることでした。 神がそのような誘惑者(蛇)を創ったことを批判するのは、自己正当化である。神のいのちに生きるべき本筋を曲げることになる。 本筋を外れることを創世記の記事は「死ぬ」と警告している。人間が人としての限界を生きること、神の創造の限界に生きることが語られていると受け取る時、こころからの謙遜、神の前に生きること(創造の秩序)の喜びを味わうことを学ぶ。 誘惑は実に巧みである。しかし、その行き着くところは生きる喜びではなく、死の世界であることを知恵の言葉は教える。 男女の性の事柄を自分が楽しむ快楽に陥ることから生じる結果は死に隣り合っていると知る。 神の栄光に仕えるための恵みの性が、命を失うことのないようにと願う。命を得た生き方を!

10月17日 キリストの命を受けよ

ヨハネの黙示録 2章12節〜17節 阪井牧師<

 収穫の時は日本に限らず「祭り」の時でもある。 イスラエルの民が約束の地「カナン」で闘ったのは先住民よりも、その人たちが信じる豊穣の神「バアル」であった。 同様にパレスチナを出たキリスト教が、アジアの諸所で厳しい闘いを強いられたのも神々を信じる信仰との出会いと迫害であった。 人間との武力の争いではない。ペルガモンという町は異常とも不思議とも想える。 エーゲ海の港から少し内陸に外れた、明るい高台に築かれた町には立派な大理石で造られたゼウスの神殿、さらにバッカス(酒の神)に捧げる劇場と神殿、病を癒す神の使い蛇を象徴するアスクレピオスの神殿、最大の学問都市アレキサンドリアに次ぐ図書館があったらしい。 そのようなペルガモンの町に主の言葉を聞き、祈りを続ける群れキリスト者がいたことそれ自体は奇跡に近い。 かつて教会の交わりにいたアンティパスなる人は、その信仰の故に殺された。 そこから証人という言葉に殉教という意味が含まれるに至った、という。それらの一切を主は知っている、と。 しかもその証人としての歩みは、主が開いた門へ続くことを約束している。 それのみならず、砂漠に尽きることのない食糧(マナ)に養われて約束の地に導かれたイスラエルのように、異教の地で心から主をより頼む者に対して主が恵み(み子イエス)をもって共に歩んで下さる、と。 「あなたはどこにいるのか?」と尋ねられたみ子イエス・キリストの命をどこまでも守り続ける歩みをしたい。

10月10日 高ぶりの急所

箴言 6章1節〜35節 阪井牧師

 信仰生活、教会生活とは生活の一部分を指したものではない。 時間やゆとりがあるから教会へ行くのでは、いつまで経ってもその好機はない。 むしろ自分の時間、自分を回復するため、この世の生活を中断してでも神様との関係に自分を立て直すことが礼拝となる。 重病に陥った先輩牧師は自分で聖書を読むこともできない、読んでもらっても聞き取る力もない時があった経験から、聖書の言葉を自分の中にどれ程蓄えているかが重大な事だった、と聞かされた。 不意の災いに遭遇した時、希望や立ち直りの言葉が話してである自分には「蓄えの宝」があるのかを思った。 11節の「貧しさ」や「乏しさ」は神の言葉に対するもので,物の豊かさでは補うことができない事を語っている。 いのちの言葉は繰り返し繰り返し聞くことを通して蓄えられていくことを想う。 親が子に聞かせる教えは、やがてその子が親になった時、自覚をしないままでわが子に同じ教えをしているものである。 イスラエルの人たちはこの生活を繰り返して知恵を蓄え教育の手法としたであろうと考える。 旨く事が運んでいる時は自分を制することは意外と難しい。 また上の物には謙虚になりうるが、下の物、家族子どもにはどうか。ここに急所がある。 主イエスは神の子であるのに、私のために人となられた。十字架にかかられた。ここに急所を逃れるツボがある。 私の努力が神の前に功を奏するのではない。信仰の原点にいつも立ち帰る生活を大切にしたい。

10月3日 知られたる者

ヨハネの黙示録 2章8節〜11節 阪井牧師

 「藪医者にこの痛さが分かるか!」と叫んでも叱られることなく、代わって母は泣きながら謝ってくれた。 その母親を、わたしのことを本当に徹底して聞いてくれた人と紹介する骨形成不全症を病む人(安積さん)がいた。 この母に聞いてもらったことが生きる力となり、誰かのためにとの発想が与えられたという。 聞いてもらうことは自分を知ってもらうことに通じる。徹底して聞くには並み大抵のエネルギー、力ではない。 自分の考えや主張を抑えるためである。相手が兄弟や子どもであればなおさらである。 いま、自分の一切を聞き知っていて下さる方が「最初の者にして、最後の者で、一度死んだが、また生きた方」つまり神の子主イエス・キリストであるなら、どうか。自分の事を知られることは一時的には恥であり、辛いことである。 だが覆い隠す必要がなく片意地を張らなくて済むではないか。 スミルナの教会に宛てて出された手紙には信仰ゆえに苦難や貧しさという厳しい状況を歩む信仰者のことを想像させる。 しかし、「本当は豊か」である、との言葉は何を指しているのか。 物や世間的な貧しさと心の豊かさを語っているのではない。私たちひとり一人がキリストのモノとしての豊かさを語っている。 死を勝利して、甦られた方に私たちの命が委ねられている。主イエス・キリスト徹底して知られていることの豊かさである。 今の様々な厳しさの中に生活をしていることに負けてはならない。主に知られている者として歩むのです。

9月26日 道は主の前に

箴言 5章1節〜23節 阪井牧師

 自分が誰であるかを知りたい!どんな時にこの欲求が起こるか。 自分の存在に確信が持てなくなる時でしょう。中国残留の方々、日系〜世の方々がその生涯持ち続ける願いは厳しい現実である。親が子に対する責任の一つは、その子が自分の存在を受け入れ、自分を自ら生きるようにすることと考える。 日々の生活の中で培われていく大切な事柄であろう。「わが子よ!」との呼びかけには、自らを生きようとする時に存在の意味を見失ったり、生きることの喜びを失うことのないようにとの祈りを伴う願いが働き、次の世代に対する責任を果たすよう語りかけ、励ましているように想う。 日々の生活にどのようなやっかい、押し潰される程脅威と苦難の問題に出くわし呻いても、自分の存在は揺らぐことのない人は足を踏ん張って向き合うことができる。 聖書はその存在を揺るがす誘惑があると語る。若者に、さらに家庭人に。 男女の正しい関係が保てない(倫理の崩れる)時がその誘惑の一つである。 人格の関係が損なわれている時、人間の関係回復には神の前に出る以外にないことを語る。 神に向かって生きるように生まれている人間ひとり一人である。 法律によって人権が保たれるのではない。神の栄光に仕えるために生まれたところにかけがえのない人の尊厳がある。 イエス・キリストの十字架は失われた関係(揺らぐ存在)を神の前に「神の子」として生きることを求めて示して下さった道である。神に愛される価値ある存在として生きようと願う。

9月19日 祈りの平地

ルカによる福音書 6章12節〜19節 佐藤菊男先生

私たちの行動の規範を探ってみたい。 イエスを見失うと誰を見、誰について行き、誰について知ろうとするか。自分が分からなくなり、あいまいになる。 弟子たちを呼び寄せたイエスは、山を下って平地に立った。群衆は教えを聞くだけでなく、癒しと霊のきよめ、内から出る主イエスの力を知って触れようとする人がそこに集まっている。 興味深くその人々を見る。内から出る力や汚れた霊が清められる等の欲求が薄れて、誰に触れ、ついて行くのかあいまいになってきている。 だがみんなの者が癒されたとある。癒しを強調して伝道したブルームハルト父子の言葉に、「病む人が癒されるにはイエスの教えに集中するしかない」とある。 救いや癒しに取り残された人が今、たくさんいるのではないかを想う。 多くの人が待っているのに山にこもっていられない。しかし、祈るため夜を徹する必要があった。 「飼う者のない羊のよう」「倒れたままの様」を知って、憐れみの主は、自らがその人たちと同じになる他はなかった。 その人たちのために、イエスがなさった選んだものは祈りであった。現代の医学は祈りでなく、他のモノではなかったか。 イエスは逃げたかのように祈られた。祈るより他に役立つモノがあると思う人がいる。群衆が何を求めようと、必要は夜を徹した祈りであった。 神が私たちのために祈っている。一般には私たちが神に祈り、願いをたてるが、神が祈っている。 イエスの祈りによって私たちは救われる。(文責 阪井)

9月12日 どこから落ちた?

ヨハネの黙示録 2章1節〜7節 阪井牧師

神の国の裁きが語られる譬え(マタイ25章37節〜)がある。周囲の人は勿論、自分でさえも気付かない日常の小さいことでも主は天使を通して知っておられる信仰がここにある。 主イエスは「99匹と1匹の羊」の譬えを用いて、小さい者を一人でも軽んじてはならないことを戒め、小さい者を天の父は見ておられると語る。 個人のことだけでなく、教会に対しても見ておられ、守り支えて下さっていると主の愛を語る。 この手紙が教会宛ではなく、教会の天使に向けられた所以である。 第1の教会はエフェソである。陸と海の交通にとって要所大きい港町である。さらにローマ帝国にとっても総督を置き、皇帝裁判の行われる地であった。さらにアルテミス神殿があり、皇帝礼拝の拠点でもあった。キリスト教との迫害が行われたその時代、教会は、信仰者はどれ程苦しい闘いをしたことかを「あなたの行いと労苦と忍耐とを知っています」の言葉が示している。 苦渋余りある教会のことを、主が知っていて下さることがどれほど教会の人々に生きる力と希望になったことであろう。 知られているが被害者の意識でなく、知っていて下さる方が自らその荷を負い歩こうとされる、と言う。 ただ懸命であっても道から踏み外してしまうのがわたしたちである。神の命の道から外れたとしても、天使が、つまり主がとりなし、呼び戻して下さる信仰を保つよう勧める。 自分の生活がキリストの名のぼやけた状態に陥っていないかを問われ、励まされる。

9月5日 知恵の光と命の道

箴言 4章1節〜27節 阪井牧師

 「父の諭し」と小見出しがある。知恵が人としての生活に以下に大切で、欠くことができないモノかを示す。 「父がその子に教える」姿は古くからの教育の姿である。イスラエルは神を父と呼ぶ信仰を与えられた。 その神に導かれてエジプトを出、約束の地を目指して神と共に旅した先祖をまた父とする。 この信仰が神の民として生き残る術(すべ)であった。内村鑑三はこれを「後世への最大遺物」と書いた。 しかし、世間はこれを避ける。政治と宗教には触れない、語らないことを処世の知恵とする。 神の前に生きる知恵はどこで教えるかを想う。家庭、親子に託されていたことを聖書に学ぶ。 時代が違うと回避してはならないであろう。「わたしの言葉はお前の心を保ち、命を得よ」「わが子よ、聞け、わたしの言うことを受け入れよ。そうすれば、命の年月は増す」と。 自分が求めること、自分に都合の良いことなら学ぶことに苦痛は少ない。 しかし、栄光の冠を得るために、人は日々努力を積み重ね、誘惑に耐える。 厳しさに耐え乗り越えてこそ人が身に付けることが出来、与えられるものである。 信仰の先達が歩いた道、教会生活の道はどうかを考える。20節以下には身体の部分・器官の働きが語られる。 知恵の言葉は身体全体で受け止める事柄である。神より自分、神より世のことに心や思いが働く中での信仰の闘いは、その人の全存在・総力で当たることを想う。神への道、信仰の自由と命の道への情熱を燃やし続けたい。

※従来は口語訳聖書を使用していましたが、2004年9月の礼拝より新共同訳聖書に切り替えました。

8月29日 生きている者

ヨハネの黙示録 1章17節〜18節 阪井牧師

 現実に身を委ねるか、あるべきものを見つめてしのぎを削るか、悩ましい。 大げさではなく、日常の中に多々ある。黙示録に「証し」の言葉が良く登場する。 自分の存在をかけた言葉である。そんな状況から出た言葉とは知らず耳に残しているものがある。 使い慣れた「聖日」から「主日」に切り替えた聖書の典拠もここにある。 聖は清いの他に「ほかのものと違う」の用法がある。必ずしも日曜日ではなくても聖日という。 しかし、主の日は「主イエスが死から甦られた喜びを意識した日曜日」を指している。 黙示録にはそういう使い方がされている(1章10節)。 迫害が始まった時代、当局から、民衆からの目を意識しながら、なお主イエスの甦りを喜び「主の日」を大切にしたのである。 単なる週末の一日とは違うことを私たちも意識したい。人間の計画や思いを遙かに超えたところに主のご意志があることがある。しれは信仰によって受け取るしかない。自分を賭ける事を求められる。 ある伝道者は、「神の計画に従うために自分の計画を立てないことだ」といい、「繰り返し思いがけない体験をする」とも言う。自分が打ち倒され、立ち上がる力も失せるような時、主は「右の手をわたしの上において」言葉をくださることを「証し」している。 「恐れるな。私は最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府(よみ)の鍵を持っている。…」との言葉に支えられて立ち上がった。わたしたちも…。

8月22日 同じように行ってする

箴言 3章1節〜35節 阪井牧師

 神の祝福は自分の生活、いのちに関わる事柄とする信仰が聖書にある。 「神が顔を向ける」や「神は姿を隠される」は一大事を示している。 象徴的表現をそれ独自に解釈することの危険は黙示録の場合と同様である。 数字は祝福を表すその一つである。 神が働かれるのは人々の生活の場であることをそこから学ぶ。 信仰はこころの事柄とするなら、地に足のつかない生活となる。箴言はその生活の知恵を語る。戒めとは神の言葉として受ける時、「心に留めるなら、これはあなたの日=いのちを長くする」となる。 日々の生活に神の言葉がその人の心に生きて働いているなら、神の民としての歩みが豊かに、健やかにされて行くだけではない。 その家族から始まり周辺、近隣、友人、…と影響を与えることになることを学ぶ。 「心を尽くして主を信頼せよ、すべての道で主を認めよ!」は人間の知恵や知識力がもっと有効と思える時にさえ、神を求め、求めて歩もうとするなら、その道が主によって整えられていくことを「悟れ」と教えている。 失敗があろうとも苦しみを伴おうとも、それは無駄ではない。 父がその子を訓練するのと同じ意味を持つものと知る者になりたい。主イエスの『善いサマリア人のたとえ』で「あなたも行って同じようにしなさい」とある記事を想起する。私たちの教会が主から命じられつ使命を果たそうとすることは、ひとり一人が主の言葉に支えられて、主と共に歩むことにある。いのちの証し人にされよう!

8月15日 神の言は実現する

ヨハネの黙示録 1章1節〜20節 阪井牧師

 1945.8.15は心にしっかりと覚えるべき「敗戦記念日」である。 怪しい、おかしいと想いながらも自分の思いや主張をすることもできないまま引きずられるようにして時の流れに身を任せる時代の終わりを経験した日である。 そこから現在の平和憲法が生まれた。2度と戦争をしない、力で問題解決をしないとの堅い誓いがあった。 近年のスポーツ観戦での激しい排日感情の現実から考えた。戦時下の歴史認識が介在していると。 「終戦記念日」との表現にはその事実が覆われているように思う。 かつて文学や芸術に検閲があった。その基準は何であったかが今日教えられない。 よりよいものが絶対化される時、罪が始まったのではないか。 ローマ皇帝(ドミトリアヌス)の絶対化がキリスト教の迫害へと至る(A.D.81〜96)中で、まことの絶対者に仕える信仰表現として黙示録は書かれた。 信仰に生きる人々に慰めと励ましを与えるために。 これを読みまた聞いた人々は喜び受け取ったメッセージがある。信仰の証しは当時の教会の人々にとって殉教を意味した。 その信仰がここから受け取った喜びを、今日の私たちも信仰をもって受け取るために通して読むことをしたい。イエス・キリストによって神の言葉は示された。私たちはこの生ける言葉に生かされる者である。神の言葉は実現する、との信仰をいただいて。人ではなく、神が自ら新しく支配される世界が始まることを信じて。 初め(アルファ)であり、終わり(オメガ)である方に従って生きよう。

8月8日 もはや黙しているな

エゼキエル書 24章25節〜27節/マタイによる福音書 5章9節
  松本昌子先生

 

8月1日 命の道に帰り着く

箴言 2章1節〜25節 阪井牧師

「主を畏れることは知恵の初め」の命題に基づいた箴言の中心が、生活の言葉として伝え聞かされ、 後生に受け継がれてきた。イスラエルの歴史と文化の背景の一つである。 「おそれ」とは隠していたものが明るみに出る時に心に生じる。 神が人を創られた創世記に2種類の「おそれ」がある。 (1)人との関係から離れる事に通じる場合、は今日でも同じ。 (2)神との関係は信仰の事柄である。最近の家庭事情で父親不在なる言葉がある。 (2)の関係を考え易い。どんな理由があろうとも「ダメなものはダメ!」との主張が薄れたことを言う。 神の絶対が通じなくなった。神を畏れるのはそれに加えてダメを犯した者に自らが責任を引き受けるからである。 贖(あがな)いであり、救いである。この知恵を銀や宝を探すように尋ね求めよという。 そこから得るものは主を畏れる悟りと命に帰り着く道である。この知恵は人間の裁量の中にはない。 神の言葉の中にある。信仰はこの言葉を受け入れることである。 受け入れるとは、自分の生きる心の生活の中心部分に座を明け渡し、指図を受けることである。 ある人は「ねじ伏せられることだ」と表現した。主イエスの種まきの譬えから、 種=神の言葉は受け入れられる事を求めているとあるように。しかし、これは屈辱の何ものでもない。 けれどもそこにだけ命に帰り着く道があることを箴言は語利、伝えている。 悪の道、陥りやすい誘惑から救い出すのはその結果であると。

7月25日 キリストのあわれみ

ユダの手紙 7章1節〜25節 佐藤菊男先生

「生まれる」の表現方法は受け身(受動態)、信仰の在り方である。 自分の存在、家族の一員、教会の一員の理由を問うよりも、 そのもつ意味を大切にする発想を持ち方がと有意義であろう。 聖書・教会の論理と考える。対して人を中心にして人を大切・人道的という。 ところが人のいのちが損なわれていく。横浜の産婦人科医院での事件はその一端であろう。 ユダの手紙は1〜2世紀の教会の危機を背景にしている。 人が神の領域に入ることへの警告の示唆と受け取った。 世の言い分は説得力を持ち、教会で幅を効かせ始めた。「信仰のために戦う」の言葉の背景である。 その宛先の教会の姿勢は「父なる神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人」に凝縮される。 信仰者は立派な生活をする人よりも、神に愛されて今日を生きていることを知る者である。 強く逞しいよりも、イエス・キリストに従い、誘惑に陥ることから守られ、遣わされる人のことである。 自力よりも神の恵みの中にあることを感謝し、 求められることに共に仕え応えたいとの願いをもつ人の集まりである。 そこに伝道がある。世に語り伝えるためには互いが気を配り、支え合い、励まし合う。 自らの限界を知りながら主の霊が働いて下さる祈りと願いを伴う時、 み心を知る者とされることを想う。神は一人も滅びることがないように忍耐しておられる(2ペテロ3章9節)。新しい旅立ちをする私たちを待っていて下さる主のあわれみを想い、 主イエスに従う群・教会となりたい。

7月18日 天を仰いで

マルコによる福音書 7章31節〜37節 佐藤菊男先生

 日本の思想を大事にした作家芥川は、 キリスト教を評して「洋服屋のように慇懃に神について教える」と書いている。 自分は違った。関係の本をじっくり読む機会があった。 教会に行けばキリスト教が分かると思ったことは今も間違っていないと思う。 聖書の時代、人々は神聖な人に出会うと病が治ると信じていた。聖書にイエスの癒しの記事がある。 イエスは汚れた霊にまで神の子として知られることを求められない。 当時の繁栄の町に関心がなく「通り抜けた」とのマルコの記事に信仰の特徴を見る。  ガリラヤは最初の弟子を召されたちである。 その弟子たちにすら「まことの神、栄光の主」と知る者が少なかったのである。 しかし、そのような弟子たちに対して、同じような扱いをされたイエスの愛を知る箇所でもある。 病むものが連れてこられた時、イエスは彼を群衆から離して一対一の関係に置かれた。 どのような待ち方をしたか?待たず、問わず、どこかへ行ってしまうのではないかを想う。 神の言葉や決定を待たず、迷信に向かうのか?それとも華やかで立派な業を期待するのか? 「天を仰いで溜息をついた」とある言葉は全能者、救い主の姿かと思う。この一人の人のために、 罪からの解放のために、神が溜息をついたのである。この私のために神が溜息をつかれる時、 信仰に生かされることを知る。何をして良いか分からなくなる姿のなかに、 私の救いがある。それで良いとされるのである。(文責 阪井)

7月11日 親の喜びとは

ヨハネの第3の手紙 1節〜15節 阪井牧師

 伝道所は教会設立に至るまで母教会に所属するものとする、 とバプテスト同盟は約束事をもっている。今回の第47回総会では、 この伝道所が今までのように総会代員を送ることが困難になる傾向を含んだ基本方針が協議され、 従来のように伝道所の意見を直接、 総会に届けることができない恐れがあると危惧する修正案が出されました。 初代教会ではまだ十分な組織化がない状況でしたから、 いくつかの教会をまとめてお世話をする人(執事)がいました。 この手紙はその執事が教会に宛てたもので、教会の人たちに「子どもたち」と呼んでいる。 「あなた」が「真理を歩いている」ことに喜びを表して次のように表現している。 「あなたの魂がいつも恵まれていること」であることに学びを与えられる。 健康や生活の安定を問うのではない。 神の言葉を聞き、神に支えられて、魂の平安を得ていることを喜んでいる。 身体の健康も大事であるが、 それにも増して「魂の健康」を祈る親であることができたらどんなであろう。 経済的に恵まれ、身体の健康が保たれ、 社会的に人々の信頼を得る地位に付くことを祈る親が多い中で、 世の親が心を遣うところと違う視点を私たちがもっていることを知らされる。 イエス・キリストによって生かされ、生きるように祈る親でありたい。 キリストに従うと告白をして、世の子ども、 肉の子となる誘惑が絶えず襲い来るなかを歩む子どもに向けた言葉が 「真理=イエス・キリストのうちを歩むこと」である素晴らしさを示したい。

7月4日 主を畏れよ!

箴言 1章20節〜33節 阪井牧師

 「知恵は呼ばわざるか。聡明(さとり)は声を出さざるか…(文語訳聖書)」の言葉を想起させられる20,21節の言葉である。 知恵そのものが人となって語りかけている、というよりも叫び訴える擬人法の表現である。 静かな教室のようなところでなく、人混みや雑踏、往来の激しいところに出て語る姿に学びを与えられる。 その前を人々が通り過ぎていく。気づかないのではなく、聞かない。 世を渡る腕は長けているが、神を畏れることを選ばないことを語る。 主は正義と公正と公平をもって世を生きるように求めておられる。 そこに自分の地位保全、主義主張が入り込んで真実を曲げることを示唆する。 政治、経済、事業、教育…の世界がおかしくなるのは神が語るのを止め、顔をそむけることにある、と知恵はいう。 人が生きることをその人に任せられる。神の手による支えも、助けもない。 神の沈黙がこれほど恐ろしいことだと想像できるだろうか。 荒野や砂漠は人が神に向かい合い、人がどう自分を生きるか、の選択を迫るところになることを知らされる。 自分のもてる能力、どんな努力も太刀打ちできない状況(圧倒的な力を持って迫る災害)にあう時、笑いあざけるとは。 神に向かい合うのは今、神の時を大切にする知恵を示す。悟りを得よ、と。 神は求めてくる者を助け、生きる事へと促してくださるために、ひとり子を差し出して下さった。 このひとり子を知り、従うことが生きる力となり、誘惑に打ち勝つ唯一の道となっている。

6月27日 輝いて生きよう、土に帰るまで

創世記 2章7節・3章19節/コリント人への第二の手紙 4章7節〜15節
  松本昌子先生

 コリントはアテネより栄えた港町、貿易産業文化の中心地であった。 そこにパウロの第2回(外国)伝道旅行で開拓された教会があった。 この教会はパウロを生涯悩ませた。問題が絶えない涙の教会とさえ言われた。 その問題の中には「自分の魂と聖霊が恍惚感で一体となってこそ救いがある」とする異端(グノーシス主義)に巻き込まれていた。  これはイエスの十字架と復活が無効になる信仰である。また当時ディアスポラ(散在のユダヤ人をさす語)の人々のために、それぞれの地方を巡回する伝道者がいた。 その人たちはパウロの使徒性を否定するのであった。 パウロはイエスに選ばれた弟子ではないと。そこでパウロは言葉を尽くして使徒性の弁明をし、十字架と復活の福音に生きる信仰を語った。 これがコリントの手紙の中心内容である。土で造られた死すべき人間(創世記参照)であるが、並はずれた力の福音をもっている。 神がイエスを復活させられ、そのイエスによって私たちが生きていることを示す言葉は「土の器に宝をもつ」である。 イエスが十字架の死を通って復活(新生)した、そのイエスの死を身に負うているのである。イエスの死は否定的なものではない。 我が一人子を失って悼み、苦悩を父なる神は身に負われた。 そして十字架の死から復活させられた死を私たちは身に負う土の器である。 死と永遠の命とが一つとなって(これを無分別という)いる信仰に生きる器はこの宝を証しするのである。   (文責阪井)

6月20日 神をもつ とは?

ヨハネ第二の手紙 1節〜13節 阪井牧師

 烽火(のろし)や音で意思伝達をした歴史がある。今それらが芸術として人間生活に潤いを与える。 病み、傷ついた心を癒し、慰める手立てとなって。 閉じた心を開かせ、心和らげ、人の間に生きる力を持たせる。 その道具や機械は発達し、広く早く正確に伝える進歩をみる。 それに伴う弊害を生じている。「過ぎる」とか「越える」ことが起こっている。 信仰や教会生活にも起こりうることを想う。信仰は人がどのように生き、生活するかの事柄と深く関わる。 従って信仰は一緒に生活をする中で、その真実が伝えられていくのであろう。 「真理のうちを歩く」は止まっていない状態を示す。神の事柄に優先して人の知恵で議論納得しようとする時、「過ぎる」や「越える」ことが起こる。 本来のもの真理から離れていると思いながら、引き込まれていく。元来人はそんなに強くない。 孤独の中にあっても、人の都合によらず、イエス・キリストを知る者として声をかけられ、祈りに覚えられていることを知ることは、揺らぐ心に強く働き、重い意味を持つことを知り経験する。 知ることよりも伝達することに重きをおく現代は顔を合わせ、直接声を聞くことが少ない。 心の空洞化が起きている。この時代に向かって私たちの教会が与えられている使命・戒めは、「互いに愛し合う」こと、「心に覚え合う」ことである。 薄れ、眠りかける信仰が、互いに目覚めさせられる神(の戒め)をもっていることを証ししたい。キリストがそこに働いて下さるとの信仰に立とう。

6月13日 主を畏れることは

箴言 1章1節〜19節 阪井牧師

 エルサレムからエマオに旅する弟子2人。イエス復活の日。彼等の会話に加わった一人が話題のその人イエスとは知らず、聖書の話を解き明かしを受け、「心が燃えた」とその時を説明している(ルカ24章13節)。 その聖書とはモーセ(律法)、預言者(歴史と預言)、そして詩編(諸書)とある。 諸書の中にこの箴言がある。箴言は単なる生活の知恵ではない。神に向かって生きる在り方、その中心が讃美と知恵だと語る。知恵には人の知恵と神の知恵とがある。 聖書(詩編、ヨブ、エレミヤ)には「人の知恵では神の知恵を測りすることはできない」と語り、神はその知恵を持って世界を創造された事を証しする(詩編、箴言、イザヤ、ヨブ)。 この神の前で自分の知恵を増そうとすることより、人の限界を受け止めて神を畏れることが神のいのちを生きること、神を神とすることになると語る。 世渡りの旨さを知恵と考える現代、神の知恵に従おうとするなら常識外れに見えよう。ソロモンはその最先端に位置する。 長寿、富み、権勢や安定を求めず、民の声を正しく聞く知恵を求めて(列王記上3章)いる。 主なる神はこれを喜び、願いを叶えるだけでなく、富と栄光を約された。わたしの掟とわたしの道を歩むなら長寿をも、と。 世の常識・道理に立つ時、世の知恵にかなう。しかし、私たちは神の言葉に生きるので、愚かに見えよう。現実は厳しく冷酷であっても神を主として歩もう。「みゆるしあらずば…」の讃美を口ずさみつつ。

6月6日 神の安息

出エジプト記 5章13節〜21節 佐藤菊男先生

 シナイ山の出来事が民衆の心に刻みつけられた。神との契約の中心に十戒があり、その第4が「安息日を覚えて、これを聖とせよ」である。「主は六日のうちに天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである(出エジプト記20章11節)」とその根拠が示されている。神は働くだけでなく、休む方であることを改めて知る。神が造られたすべてのものを見られたところ、それは、はなはだ良かったので喜びをもって顧みられた、とある。これは神の休息に私たちを与らせることを示したものと受け取れる。  神の休みは「疲れた時深く息をする」の意味で、「今休まなければ続かない」ものである。 私たちの場合は仕事がないから休むことを考えるが、神の休みはすっかり疲れ果てて、しかも私たち人間に与らせるために休みにつかれる。 かといって、人間はそのことによって、人生の重みが軽くなることはない。以前にも増して、ますます重くなる一方の場合もある。 そのような私たちに向かって、神は「休め」「休もう」と大きい声で語りかけて下さっている。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう(マタイ11章28節)」との御言葉を聞くのである。神は疲れ果てて、働きたくない。休みを取られる。その安息に与らせて貰う事によって、私たちの働きに繋がる安息がある。(文責 阪井)

5月30日 神への確信

ヨハネ第一の手紙 5章13節〜21節 阪井牧師

 慣れは熟練という、まるで曲芸のような不思議な能力を生み出す。しかし、もう一つの面がある。 近すぎれ事柄の真実が見えなくなることである。 焦点が合わなくなり「見えない」の結論をだし、さらに「存在しない=ない」ことにさえしうることである。 日々神の恵みや真実に生かされ、教会で礼拝を通して「いのちの言葉」を受け、世に遣わされている。ここに慣れが起こっていないかを想う。 日常生活の諸事に懸命に向き合いながら「神中心」のはずが「わたし中心」になる。しかも、教会の中でさえ。ヨハネの手紙が宛てられた教会の現実であったらしい。 活動は止めていないし、礼拝は続けているのに「世の光」として光らない輝かないのは何故か? 14節の言葉は核心を告げている。 「神のみこころに適って願うなら」と。神のみこころよりも自分の懸命さが大切になっているとしたら、それに気付かないとしたら「光らない」「輝かない」。 この世の熱心さとかわらないから。闇は光を放さないで吸収するだけ。 イエス・キリストに出会った者は萎びて、捨てるしかない、と自分でも思う「わたしを価値ある者」として下さったことに気付かされている。 水をやり、根本を耕し、新しい芽を出し、実を結ぶことを期待してくださる。 ここに信頼を置く時、光を発する者とされる。 この光は例え逆境の中でも笑顔さえもらす。周囲への生きる力と希望になる。力みは要らない。主イエスに包まれて、そこに自らの憩いを喜ぶのです。 主と共にある平安を喜ぼう。

5月23日 知ることの重み

詩篇 150篇1節〜6節 阪井牧師

 情報(IT)化の時代、情報(知ること)の操作がその世界を支配する。だがその渦中にいる人は、人の繋がりに飢えと渇きを覚えて「癒し」「ヒーリング」を求める。音楽香り・ミニ菜園・鉢植え等は単なる流行だけではないと考える。疲れ切った身体を横たえて視るTV番組は、ストーリー性のないお笑い、普段「くだらない」と断じているものとなる。他者を想うエネルギーがお笑いに込めらていることを知る。詩篇にも作者の精神作業があることを意識して最後の150篇を味わいたい。信仰は神讃美に始まり、神讃美に終わると言われる。私たちの信仰生活もかくありたい。ただ、口で主をほめたたえるのではなく、心からの信仰告白にしたい。「その大能のはたらきのゆえに主をほめたたえよ」の言葉には、イスラエルの人々が歩んできた歴史を視る。神のみ手の働き、民を用いて世界に向けてみ心を行われた計画、ご自身を示すみ業を語っている。神の痛み、恐るべきみ業、罪のあがない、…を心に覚える神讃美である。「息のあるものすべてに…」は、恵みに生かされている喜びをあらわすため、生活の中のあるあらゆる楽器を用いよ、と語る。楽しい時だけではない。主イエス・キリストとの出会いの場所に、自分が関わり続けることに於いて、神の愛と憐れみの真実を知るものとなる。クレネ人シモンは十字架をイエスに代わって負った。そして主に負われる者となった。敵なしとなるとはこのことであろう。主を知る力を証ししたい。

5月16日 あなたは足りている

申命記 3章23節〜29節 佐藤菊男先生

 吉村昭著「仮釈放」(新潮文庫))は15年7ヶ月の刑に服して娑婆に帰ってくる人の話である。 どんな社会かを見、身寄るべき弟はどう受け取るかを考える。 今は保護司だけがその人の命綱で、後一ヶ月で50歳になる人には、社会が目に見えない組織の網を張っており、自分が見られている思いを持って怯えつつ生きている。 この人は、元高校の先生であった。釣りに家をよく空けた。 丁度帰ったその時、妻の不倫関係の現場を見た。妻を殺すことになる。相手の男は姿を眩ます。 刑を受けた者、1度やった人は再び犯罪者になるとの見方がある。行いが立派で周囲の勧めによって再婚する。 その妻が亡き人のため位牌を作り、朝夕線香を炊いて拝む。自分が求めない妻の行為に、2階から突き落とすことになった。 もう2度としないと思うのに、何かをする思いが働く。 「怯えつつ生きる」ということを考えた。親・兄弟・子どものことを気にするおびえの人間に聖書は何と言うか。 おびえている者に「あなたには足りて充分だ」という。 生活に困っている、私たちの現実に対して、怯えつつ生きている私たちに語られている。 信仰は神讃美に始まり、神讃美に終わる、と。モーセにしても、私たちと同様に自分なりの欲求がある。 しかし、神は「足りている」と言う。神が拒まれるのに、人は求める。 モーセの求めと私たちの怯えつつ生きる生き方を重ねる時、「あなたには足りて充分である」と語られている言葉を聞くのである。   (文責 阪井)

5月9日 狭いが広い道 ん?

ヨハネの第一の手紙 5章1節〜12節 阪井牧師

 人間の知恵や知識が教会の信仰を装って働き、教会の中を大きく混乱させる状況が手紙の背景にある。 食事の工夫を凝らしながら食べているうち、本来の味そのものが分からなくなったり、ご馳走を食べているのに栄養失調に陥るのに似ている。 そこで信仰の基本が改めて語られることになる。1節の「イエスのキリストであることを信じる…」は信仰告白の中心である。 この告白について、パウロは第1コリント12章3節のところに「…聖霊によらなければ、だれも『イエスは主(救い主=キリスト)である』と言うことができない」と語る。 学問や経験、あるいは宗教的な積み重ね(修練)のような人の努力結果から信仰に至るのではないことを示す。 同時にどんな人も聖霊の助けを受けて、信仰が与えられることを示している。信仰は自分の意のままにならない。 そこに細い道の厳しさがあり、無限に開かれた広い道がある。教会の出発点がペンテコステである重要さを知る。 信仰生活には聖霊の働きが大切である。誰に向かっても語られている言葉をどう聞くか。 「聞く耳のある者は、聞け」には、言葉が託されていることを意識させる。教会生活の長短ではない。 人の内的な事柄を意識するなら、イエスに躓かざるを得ない。 神の子が、人としてイエスが地上に生きられたところに神の深い憐れみがある。 儚い存在である私たちが、神の子の命をもって心を注いで下さった、と受け取ることが起こる。聖霊の導きを感謝して応えたい。

5月2日 新しい歌を!

詩篇 149篇1節〜9節 阪井牧師

 子どもの遊びはその時代を映すことがある。それにしては最近、子どもが屋外で遊ぶ姿を見ない。 この詩篇「…踊りをもって主のみ名をほめたたえさせ、鼓とと琴とをもって主をほめ歌わせよ(3節)」にも、その時代の子どもの遊びを想像する。 子どもの遊びを、主イエスが用いておられる話し(マタイ11章16節〜19節)を想起する。喜びを喜びとして自由に表現する。 神の救いにあずかった喜びを大胆に表現する事を示している記事である。この詩篇から学ぶ。 知識として知り得たことのままにしないで、その生活を通して表現する事、イスラエルは主によって召し出され、神の民の使命を持つ。 大げさ、異様かも知れないが、神の民の喜びを踊って表せ、太鼓や琴を奏でて主なる神をほめたたえよ、とすすめる。 私たちは冷静すぎるのか?サムエル記下6章にはダビデ王が主の「契約の箱」の前を跳ね、踊ったことを記す。 イスラエルの人々には主の救いの確かさがある。今の私たちはどうか。 主イエスにおいて起こった十字架とその死からの甦り、罪の許しと死に勝つ出来事よりも、私たちの理性の方が大きくなっているのかも知れない。 主が闘って勝利して下さったことの喜びが、私の生活にどう関わっているかを表現してみたい。 自由で解放された者に委ねられている。遠慮しないで大胆に喜びを表現しよう。 自信をもって生活の中に表そう。明るさ、力強さ、自由さ、そして大胆さが主イエスへの感謝と繋がる魅力となることを願い歌おう。

4月25日 愛は恐れを越える

ヨハネの第一の手紙 4章7節〜21節 阪井牧師

 「ちょっと待て!神は愛なり」の看板が絶壁の崖っぷちに立った。 それからは、死を選ぶ人の数が半減した。生きる道を選んだろうとの証言を聞いた記憶がある。 聖書の言葉と知ってかどうかは分からない。しかし、その言葉には深い問いかけがあるように思う。 その生命はあなたのものか? 人の存在は、人間の意志によらない。どう生きるかには責任がある。 命そのものは、神に愛されてこそ与えられ、生かされている。生きるとは、この神の愛にどう応えることか。 愛という言葉から先ず考えるのは、愛するから愛される、と。しかし、聖書はその順番が逆である。 信仰に生きるのはこの発想の転換である。愛されるから愛する者となる。互いに愛し合う、そこに神の愛がある。 神が共におられることの証しである。どんなに説明を受けても知識にはなっても生き方、発想の転換にはならない。 信仰たる所以はそこにある。理屈ではなく、神の霊が働いてこそ起こる神の業としての信仰が始まる。 ルカ19章の徴税人ザアカイの話を想起したい。 人からも神からも遠いと思われるその人の所に、主イエスが突然「今晩あなたの所に泊まる」と主イエスが関係を作り、<救いがきた>と語っている。 なぜ主はそこに泊まるのか、理由はない。愛は人が負うべき荷を、別の人が自ら共に負うことである。 素直になれない人がいる。自分の力が妨げとなっている。聖霊が働くのはそういう人に強く働く。 パウロはそういう人であった。愛される人であれ!

4月18日 今の時代の宗教

マルコによる福音書 9章14節〜29節 佐藤 菊男 先生

 カンサスシティーの神学校から帰国する飛行機の中でイヤホーンを通して聴いた歌が「別れの一本杉」、涙が出た。 自分の身体に染み付いたものがあるのを知った。川島みゆきに「語りかける時代」の歌がある。 今の時代は語りかけることが少なくなった。この年になってどうでも良いと思う。聞いて生きることの方が多いと思う。 こういう時、信仰の維持はどうなのか。聖書は人々がイエスに出会って驚いた(15節)ことを記す。 イエスを知り、出会うことで驚かねば誰とも出会わないのではないか。感動がないのはイエスを見つけていないから。 今の時代の宗教はイエスを見つけることでこの時代を超えていくことができる。 教会に来ても何もしてもらえない、のはイエスと一緒にいても出会いがないから。 「信仰がない」ことを神は耐え我慢をして「いつまで」と語る。 連れてこないで何か楽なこと、いいことを求める調子良さにあっても、イエス自身が代わって戦っている。 けがれた霊を排除する決意がなされている。私たちはそこまでしなくて良い。 時を逃さずイエスを見つけ、応えることを示される。弟子たちは「ひそかに」イエスに尋ねた。 人前では聞けなかった。「祈り」の必要を語られた。元来祈りは断食と一緒であったが断食が抜け落ちた。 祈りと断食はキリストのものである。神が私のために、教会のために祈ることを、断食されることを忘れてはならない。 覚えておきたい。 (文責 阪井)

4月11日 神に生かされる

ルカによる福音書 24章1節〜12節 阪井牧師

(イースター記念礼拝)
 イエスが十字架につかれた時、弟子たちの姿がない。 身に危険が及ぶのを避けたか激しいショック(衝撃)に打ちのめされて、自分たちの生きる力を削がれていたのかも知れない。 だが女性たちは最後を見届けており、翌朝(復活の朝)香油をもって墓の石戸(扉)のことを心配しながら主イエスが納められている墓を訪ねた。 主イエスの身体が無い。全く途方に暮れていた時、「どうして生きた方を死人の中にたずねるのか」と問われて、生前に約束されたとおり甦られた、と聞いた。 ことの仔細を弟子たちに告げたところ、ペテロは墓に走った。なぜ? 全く意気消沈していた男が墓に向かって走ったのである。どうしても『墓が空である』を確かめ、見届けるためである。 しかし、聖書はこのペテロが信じた、と告げていない。不思議に思った、とある。甦ったと確信できていない。 復活の信仰は事実から生まれるものではない。人間の側の自由にはならない。 甦られた主イエスにお会いすることによってのみ、その信仰がその人自身のものになる。 ペテロは信じる者になって、生涯を主の甦りを語り伝えることに全力を注いだ。 墓に向かって走り、墓が空であることを認めても信じる者になり得なかったこと、事の仔細を告げた女性の言葉を信じられなかったことを深いところに記憶したと思う。 まことに生きる者は他の者を生かす力をもつ。ペテロはその力を与えられ死を越えて生きることを知った。 神に生きる者とされている。私たちも、と願う。

4月4日 リストラを生きる

詩篇 148篇1節〜14節 阪井牧師

 今の社会現象をある崩壊と見る時、再建を意図したリストラ(re-structure)の語を使ってきた。 しかし、企業や組織は非生産的なものを排除する合理化に利用している。 人の関係において自分を見ると、自分より優れた人は幾らでもいる。 その優れものだけが大事にしようとする社会もリストラを必要とすることを想う。 なぜなら、神の前でもし私たちにその方法を当てはめられるなら、誰が生き残れるだろうかを考えるから。 改めて神に「生かされる」自分の意味を想う。聖書が「人は神によって創られた」との意味は深い。 人の存在価値と意味は神に根拠がある。人は生きる使命があるし、その意味を生きなければならない。 この詩篇は「すべて創られたものは、創られたその方の意志に従い、今を生きるべき」を歌っている。 神の創造の秩序に従う時、社会の秩序も真の意味でリストラされるでしょう。 生きる使命を負うすべてのものが果たすべき究極の務めは「主をほめたたえる」ことである。 創造記で神は人間を最後に創られ、使命を与えられた。 6節「主はこれらをとこしえに堅く定め、越えることのできないその境を定められた」の言葉は創造の秩序を求められている、と解しうる。 合理や利便が境を越えて存在を脅かすのが現代の実情だとしたら、神の求める一人の存在の尊さを越えさせてはならない。 神のみ心に従うことこそが真の正しいリストラになる。主イエスが歩まれる十字架の道を私たちも従い歩みたい。

3月28日 創造者なる神

創世記 1章1節 石野 文昭 神学生

 世界の創造が神の業であると聖書は語っている。 宇宙がどのくらいかを想像することも実感を得ることも難しい。 地球をピンポン球にたとえるなら、太陽は50メートル先のバスケットボールである。 地球は1年をかけてこの太陽の周りを一周している。この太陽を中心にした太陽系は銀河系の一部にすぎない。 このような銀河系の外にも同じような銀河系の塊があるとしたら、もはやその世界を想像すら出来ない。 一方、今度はその逆の小さい世界である分子や原子の世界はどうか。細胞膜を想像するには、普通の紙の3枚分がランドマークの高さにたとえられる。 その細胞膜を、今日の科学技術で実験研究によってピンと張ったきれいな膜に造り上げることは難しい。 これら一切の事柄が「神の創造の業」であると表現しているのはイスラエルの信仰である。  創世記が記述されたのは比較的新しい時代である。その時イスラエルの信仰によって神の創造の言葉を意図的に用いている。 「はじめに」は時間の始まりを意味し、「創造した」は何もないところから造る、無からの創造を意味する。 かつて青年時代、この自然界を動かすエネルギーのようなものを神と考えた。 しかし、やがて理論ではなく信仰をもって聖書を受け入れるようになった。 この信仰で神の愛の大きさが聖書に語られていると受け取れるようになった。 それはイエスにおいて、死を親が引き受ける神の愛である、と。(文責 阪井)

3月21日 にせものと本物

ヨハネの第一の手紙 4章1節〜6節 阪井牧師

 「あなたはメシア、キリストです」は信仰告白の最初のもの。 イエスの問いに応えた弟子たちの「主告白」でした。 主イエスはそれに対して「あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である…」と言われた。問われることによって告白がされたとも言い換えられる。 正しくこの告白をし続けることに教会の存在がかかっている。 歴史の中で教会が混乱や分裂を乗り越える時、必ずここに立ち帰った。 自分のイメージ、自分の期待に主を取り込んだりすることが混乱となった。 その最初が弟子たちでもある。「サタンよ、去れ…」は神の計画と人間の思いとの違いを示す主イエスの主告白をした弟子たちへの言葉であったことを心に留めたい。 主イエスと自分から肩を並べたり、一緒にいるとの自負に対しての問い「あなたはわたしのことを誰というか?」に向き合うことが求められる。  知識、話術、働き、人付き合い、…感動を与えることに心引かれる時、そこに危機がある。 イエスがキリストであることの重要さを失う。神の子とされている事実が歪むのは故意ではない。 世の考えや常識に倣うことが本物を「にせもの」にしてしまう。信仰が迷信となることは避けたい。 しかし、説明して納得できるとすることは信仰ではなくなる。見えるモノには信じることが不要であるように。神が働き、その神に信頼するように召されているさいわいを喜びたい。

3月14日 包み癒されて知る

詩篇 147篇1節〜20節 阪井牧師

 時代の流れと政局の変化が人々の生活を全く壊した。 由緒ある神の都がイスラエルの信じる神を知らない人々(バビロン)によって征服されただけでなく、神の民が異教の地に捕らえ移されることが起こった。 バビロン捕囚である。「お前達の神はどこにいるのか?」の言葉は生きた心地がしない苦痛を捕囚の民に与えた。 その民がそこから解放され、郷里帰還の喜びは言葉に出来なかったろう。 だがそこでは、誰もが自分の生活に懸命であったと想う。そのような時に「主をたたえよ」とこの詩が謳われている。 最近の私たちの生活は豊かさによって、心が貧しくなっていないか。人は豊かさによって心におごり。 自分の能力と努力の結果だとする見方となる。そうできない人を蔑み軽くみる。 自分が人一倍働いた自負を振りかざしたくなる。人は打ち砕かれ、苦しんでこそ慰めや癒しのもつ大きい意味を知る。 経験によってその結果を得る。神の前に謙虚になる機会である。 自分の意志とは異なる状況が生活の中に入り込む経験は、神の働きと自分の成長に必要なものとして神が与えて下さった、とイスラエルの人たちが受け取った。 信仰の人はここに立つことが出来る。たとえ人の目に遠い方にしか見えなくても、主がいて下さり、放蕩息子が父の元に立ち帰るのを待っていたように喜び迎えて、権威と地位を与えて下さった。 主はどれ程憐れみ深く、私たちを包んでいて下さる方かを知って勧める。「主をほめたたえよ」と。

3月7日 平安−知られたる者

ヨハネの第一の手紙 3章13節〜24節 阪井牧師

 「自己家畜化現象」と生理人類学の見地から現代の世相を評する人がある。 野生動物は進化の中で得た子育てをする。一般的には子育てが下手で性的には活発である。 これが人間に兆候として現れていると見る。 世の正義を見守る者の間で不正があり、国民の生活を重んじる人たちが国民を踏み台にして自分を太らせる世相を想う。 他人事なら笑える。信仰の人である私たちはどうかを聖書は問う。 「…兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきた」の言葉は、主イエスがいのちを捨てて友とよび、互いに愛し合うよう求められた背景を想う。 いのちはここにある。相手を思うことより、自分のことにしか思いが働かなくなっていないか。 苦労することなく手にしたものの重みが分からなくなるのは人の常。 神の子・主イエスの命の恵みが、この私のためにいのちをかけてとりなしたとは受け取れなくて、単なる装飾の類アクセサリー程度になりかねない。 人が他者の言葉を素直に聞く思いになるのは、不安や前に向かう力を喪失している時であろう。謙虚にならざるを得ない。 人の親切が身に染みるのは裸の弱い自分になった時であろう。厳しさ寂しさに耐えようとする強がりを現代の現象に見る。 主イエスの十字架の前でも強がっている姿を想像してみる。 重荷を負って苦労している者に十字架を負って近づき、その小さい者に手を差し出して下さる主イエスの中に私たちの魂の平安がある。 それに気付く時、信仰に再び生き始めるのです。

2月29日 そこが栄光の場

詩篇 146篇1節〜10節 阪井牧師

 茶室に「にじり口」がある。 どんな身分の人であっても、お茶の席に臨む時は身をかがめて入るしかないことを示す一つの作法を建築に取り入れたものである。 日常の生活に取り入れようとしたその心を、 強いられた姿勢からではなく、自らの願いとして今日味わう者でありたい。 詩篇146篇は、バビロン解放後の時代を背景(7節)にしていると見る。 自由の身になってもなお多くの課題があった。 その中で心は「わが魂よ、主をほめたたえよ」と神に向かっている。 しかもそれは瞬間の、一時的な声をだす者ではなく、「生けるかぎり、ながらえる間」生涯のこと、 つまり生き方にしよう、と呼びかけるのです。自らの意志で主に心を向け、主をほめたたえるのです。 周囲の人と同じようにとの願いに勝る思いがその人の中に起こるのでなければ拷問にも等しくなります。 内なる求めを促すのです。 当事者にとっては耐えることが大きい中で、天地の創造者がその生活に深く関わって下さる確信によって乗り越えることが出来ると勧める。 事柄から離れ、避難した所で主なる神をたたえるのではない。 主がそのところに来られる確信を持つことが大事である。 出エジプトの民は、何よりも大切なことは、「主が共におられる」事であった。 荒野の旅をする奴隷の民が神の幕屋を建造する事の意味はこれをみんなで「知る」ところにある。 神に心を注ぐことが、生活を真に大切にしていることを証しする。栄光の場は私たちの生活の中にある。

2月22日 すでに神の子

ヨハネの第一の手紙 3章1節〜12節 阪井牧師

 何気ない生活の日常性の中に見方を変えると思わない発見をすることがある。 幼子やお年寄りの「お世話」に心を注ぐことは相手にとってとても大切です。豊かな生き方に繋がる。 その手のかかる「お世話」に何か意味があるはず。創世記には神が人を造り、その息によって生きる者となった。 人は神との関係に生きることを信仰によって語る。一方その話に続いて相応しい助け手を与えられる話がある。 その時人は父と母を離れるとある。これは手を掛ける時の限界の時、人が神の前に自立する時であろう。 これに逆らうと人として生きることに支障を見ているように思う。 社会的・精神的に自立できない人(フリーターとかパラサイトにも見る)や精神的重荷から鬱を病む人が最近増えていると聞くのは関係あるように思える。 「わたしたちは神の子である」の言葉を信仰によって確認したい。主イエス・キリストを通して現実を見直すのである。 「信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである(ヘブル人への手紙11章1節)」の言葉を実感したい。信仰の証しがここから始まる。神の言葉を自分の思いや人間の理性で触れたり見たりするところで神の言葉を生きるのである。マリアは「お言葉通り…」と応えた。ザカリアは「どうしてそんなことが…」と理性ある言葉で応じた。辛さ、苦しさ、悲しみの現実の中で信仰に歩む姿は、詩23篇「たとい死の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。…」の言葉を示すことになろう。

2月15日 まことの恐れ

創世記 28章10節〜22節 松本昌子先生

 聖書から生きる糧・力を読み取るには、それなりの勉強がいる。 さらにもう一つ必要なことはイマジネーションを働かせることである。 ヤコブの旅立のいきさつ27章、生い立ちは25〜26章にある。12章以下はアブラハム、イサク、ヤコブの族長物語である。 族長物語を理解するためのキーワードは「神の約束」である。 アブラハムは25年後に子どもを与えられ、イサクが掘れば井戸を掘り当てる。 ゲラルの王アビメレクは共同生活を申し出る程になる。神の約束にはリアリティーがある。 もう一つは「祝福を与えている」ことである。 卑怯な手段で祝福を奪い取り、父を失望させ、兄を殺意を持つほどに憤らせたヤコブは、兄から逃れるために親元を離れる旅に出た。 子どもから大人への通過儀礼として旅は重要なものである。 醜さ、卑怯さに苛むボンボン育ちのヤコブの不安と恐怖と自己嫌悪の心理を思う。 15才くらいのヤコブ、裕福な家に育った者が荒野で一人夜を過ごす思いである。 そこに主が共におられること、恐怖にある時、間違いだらけの人間を肯定して共におられる方として神を知ることが語られている。 この神が愛し、赦し、救いを与えてくださること、主が共におられることを具体的に示しているのが主イエスの十字架と復活である。 この出来事において主のみ業が全く完成されている。主の恵みにあずかりましょう。(文責 阪井)

2月8日 叫びに耳かす方

詩篇 145篇1節〜21節 阪井牧師

 詩篇全体(150篇)で最も説明を必要としない、と言われる程明快な信仰の告白を見る。 同時に記憶しやすい構造、ヘブル語のアルファベット順になる単語で始まる各節である。 何故かアルファベット22の14番目(英語ではNに当たる)が欠けている。 聖書を一般の人が手に出来なかった当時、教育的効果や関心と注意を促すためを想像した。 神をほめたたえ、恵みを感謝するこの詩から、米国バプテスト海外伝道発展に大きい影響を与えたアドニラム・ジャドソン(Adoniram Judson)を想起する。ビルマ伝道の開拓者となりビルマ語訳聖書の翻訳をも完成(1835-1837)した。 その背後に米国バプテスト教会が特別の合い言葉を持って支援をした。「ジャドソンを救え」と。 その支援はジャドソンだけでなく米国のバプテスト教会の大きい発展を来たらすことにもなった。 教会が自分の視野で精一杯の伝道はそれなりの成果をもたらす。しかし、この詩篇は自分の生活に拘らない。 神に目を向け、神のみわざに思いをし、恵みを数える。生活をする中でひたすら神の御名をほめたたえる。 そこから生きる力と喜びを得ていく。わたしたちが自分を見つめるところから溢れる力、生きる喜びと希望に繋がることは難しい。 心を注ぎ生活を続けていても自分の中から力と希望が溢れるには至らない。 しかし、他者のため自分を捧げ、神に仕え、御名を心からほめたたえる生き方の中からその恵みを受け取ることが起こる。 まことの声・叫びを聞き取って下さる方に仕えようと願う。

2月1日 とどまる力

ヨハネの第一の手紙 2章12節〜29節 阪井牧師

 「その人が其処に居る」ことの意味の大きさに気づく。自己正当化に聞こえるかも知れない。 手がかかり、周囲の気遣いを必要とすることがあっても、そのことが人を生かし、生きる意味を与えることが起こる。 自分にはそのことが分からないのが子どもである。その子によって母親とされ、父親とされる。 親が子どもを育てるように、子どもによって親とされる。 「古い掟」であるけれども「新しい掟」とは、そのように受け取れることであろう。 面倒で、煩わしく時間を費やそうとも、其処に居る人に関わろうとすることによって自分が変えられ育てられることが起こる。 人としての豊かさを味わうことが起こる。自分の主張に生きようとする人は多い。 誰も受け取ることがなかったら年齢に関係なく精神を、心を病む。神との繋がりを受け取る時、人は新しい命に生きる者となる。 神に肯定されて生きる者となる。たとえ自分が人に手を貸す場面が無くても、存在が他を支える。 その家庭が周囲が神の祝福を受ける。力ある者や強い者が弱く幼い者によって生かされる。 「神のいのちに仕える」不思議がそこに現れる。強さが自己正当化に走る時、手に負えない現実を人間の世界に多く見る。 神の名をさえ用いる愚を見る。イエス・キリストの十字架は他人事ではない。 自分のために十字架を負って神の栄光に仕えられた方を仰いで他者のために生きるところの神への道が備えられていよう。 神の命にとどまり続けよう。主から力を受けて。

1月25日 生きて働く主

詩篇 144編1節〜15節 阪井牧師

 思いを込めた短い川柳には耳を奪われる。困難窮地を笑いにする力であろう。 歌にもその特徴を見ることが出来よう。詩篇も歌の一つである。違いは神を讃え、神への祈り、神を自分の軸としている特徴である。 従って苦しい時悲しく辛い時また淋しい不安な時、詩篇は励ましや慰めや力を与える。 144篇は歌う。「主は私にとってこのような方」と言い表す(2節)。同じような表現を他の箇所(ヨブ7章17節、詩篇8編4節、ヘブル2章6節)に見る。神への驚きや畏れが真実自分のものになるのはどんな時か、を思う。 それは人生の上り坂でも下り坂でも、また頂点の時でもない。 人生の谷間に身を置いて、天を仰ぐことができる時に初めて神の素晴らしさ、愛の深さ、恵みの豊かさに気付くようになると言う。 別の見方では、人生の行き詰まりやたち止まらざるを得ない状況にぶつかるまで腹の底に届かないのではないか。 其処に立った詩人は、神はいかに自分の守り支え、心の拠り所である方かを歌っている。 しかも自分だけでなく、もっと広い視野に立ち、神の宇宙世界を支配する中に私が置かれ、神の深い配慮の中に居ると感謝して神を讃える。 確かに生活の現実には必ずしも真実でない人がいる。苦しめられることがある。 そこで自分を保ち、神に仕え神のみ心に応えることは容易でない。 弱小汚点だらけの自分のため神の最大のもの、み子を差し出して私を生かし、立たせ、神のいのちに生きる喜びを伝える者とされた。 神に向かって生きるよう求められる。

1月18日 今日聞く御言葉

ヨハネによる福音書 13章1節〜11節 佐藤菊男先生

 「仏教ブーム」と題する対談(河合・中沢)が年末にあり、刺激を受けた。 河合は「気がついてみたら仏教を土台にして精神分析学をしていた。また日本人は何の宗教家を問うとはぐらかす態度をとる。外国人から見ると問題になる」と。 中沢は「プロテスタントのクリスチャンホームにいて、それで安心をえられなかった。またキリスト教の神は問い詰めてきた。仏教の神は、こちらが何をしても絶対的に安心感を与えてくれる」とも語っていた。 そして今仏教ブームは去った、と。それに代わる仏教のようなものは何かを意識して神の言葉を聞こう。 ヨハネによる福音書13章は夕食の場面、珍しい記事である。 他のところでは隠したのに、ここでは自分が何者かを示し、正体を明かす。夕食についてより、イエスの態度に注目させる。 罪を清め、悔い改めのために働く。 足の洗い方や順番ではなく(早い人遅れた人など興味に応えてくれえたら聖書は面白くなるのにと思う)、神の業行動が語られる。 神が我々にもたらす関係は私たちの手足だけ、身体はきれい、「あなたがたはきれいなのだ」と、神から来て、神に帰る主イエスの言葉、神のへりくだりの言葉に慰められる。 神は私どもが聞く、聞かないにかからわず、語っておられる。 「すでに身体を洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ」と。 無責任に放置されるのではなく、神ご自身が働いて下さることを意味している言葉を聞き取ろう。(文責 阪井)

1月11日 まことの光が輝く

ヨハネの第一の手紙 2章1節〜11節 阪井牧師

 人は神との関係の中に生きるよう創造されていると聖書の信仰は語る。 そこに立つ時に、人との関係も正しく保つことが出来ると語る。この関係が保てないことを「罪」と呼ぶ。 エデンの園、ノアの洪水、バベルの塔の話は、関係の崩れを象徴的に語っている。 歪みや崩れの回復には命につながる言葉が必要である。罪の赦しや開放につながる言葉が福音、救いである。 新約聖書に見る主イエスと対立したパリサイ人や律法学者たちはでたらめを生きていたのではない。 むしろその当時の社会では、より真剣に生きていた人であったろう。律法と伝統に真剣に生きていた。 パウロはまさにそのような人であった。彼はダマスコに向かってキリスト教徒の迫害に息を弾ませていた(使徒行伝9章)。 その途上で主からの声を聞いた。崩れや破れの関係を立て直し、回復するには神の赦し、神の痛みの声であった。 これを正しく受け止めるには、人が躓き倒れる限界に立つしかないように思う。立法は手段であって目的ではない。 ところがそれを目的とする生き方に真剣なために、主イエスとの対立は厳しいものとなった。 律法にではなく、主イエスに従えとは、神の赦しと痛みを示す言葉である。これが神の愛である。 み子イエスこそが私たちの光である。すでにこの光を私たちは受けている。自分では神の栄光を輝かすことはできない。 主イエスの光を受けることによってのみ輝く光となる。この光を携え歩む者となりたい。

1月4日 泣きながら後を追う

詩篇 143篇1節〜12節 阪井牧師

 ある意味で正月は世間の時間が止まる時。だが、個人ではどうか。意外に自分の時間がない。 忙しさの中でこそ自分の時間が作られることを想う。礼拝は自分回復の時。それは忙しさの中から作り出していくもの。 従って信仰は生活の中に築かれていくものである。神との関係、イエス・キリストとの出会いはそこにある。 詩篇の作者は生活の中で主に訴え、求めている。どんな人も神の義による裁きの前には罪人となる。 アブラハムは神の声に応えようと努力することがその意に反した。義人と呼ばれたヨブは、自分の身に負う苦しみに悩み、 神を疑い、躓き、倒れ、友人から孤立し、惨めそのものの中で、神にしがみ続けた。 幼い子どもが親にその意を訴えて地面に転がりながら叫ぶ姿を想う。 距離を保たれるとその足下に走り寄って、また泣き訴え続けるヨブと同様、ダビデも王位継承の課題で自分の子と争い、 子が命を失った時、自分が死んだ方が良かったと泣き、悼んだ。これらの神を求める姿を想起させる詩篇の言葉である。 信仰は日々の生活の中で与えられる。神に従うには、具体的な事柄を取り組み続ける中で成長させられていく。 預言者エレミヤが託された言葉を伝える苦悩、闘いの中で、その使命を果たしていった。 呻き、泣きわめきながらも神に求め、使命に取り組むのが私たちの新しい一年でありたい。 主が共に歩んで下さる確信に立つのである。孤独であっても孤立ではない。主と共に歩みましょう。


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口語訳聖書: (c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955
新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
       (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988


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