日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月25日 さあベツレヘムへ

ルカによる福音書 2章15節〜20節 阪井牧師

 教会がクリスマスを祝うのが奇異に見える若者が出始めている。ルカ福音書を通してクリスマスの出来事に改めて心を向けたい。この福音書は時間や歴史に関心が強い特徴を持つ。 ローマ皇帝の勅令と救い主誕生が同じ時代であったこと、地上の最高の権力者の命によって住民登録があった。人々はそれぞれの故郷(戸籍地)へ旅をした。登録は権威の下で保護とそれへの従順を意味したであろう。 マリヤとヨセフがユダの地へ旅したのは、ユダ族(ダビデの家系)に属していたからだとある。新しい歴史の流れ、政治改革の分岐をここに見る。その中に神の時が始まる。7節、10節、16節を読み較べと、同じ事柄の描写を人が見るのと主の使いが語るのとが違う。 人の時の流れに、神の時が入り込んでいるのを意識させられる。神が人の歴史の中に身を置く、とはどういう事かを示している。飼い葉桶の中にしか居場所がない。宿屋には泊まる場所がなく、人としての扱いに不適切な所に神が人としている。 これは昼間でも暗い場所、また羊飼いの生活の場、夜野宿しながら羊の番をしている所に通じる。人の意識外にある場所である。世界を変える「すべての人の救い」の出来事がこの人たちに真っ先に伝えられた。この意味を考えたい。 彼らは主の使いが語ったことを確かめるために「さあ、ベツレヘムへ」と立ち上がった。そしてその事実を人々に伝えた。クリスマスはこの出来事に、あなたは…?、を自らに問い直す機会となりましょう。

12月18日 主からの告知

マタイによる福音書 1章18節〜25節 阪井牧師

 「リラクゼーション」の造語主であると共にヒーリング(癒し)起業家である女性が、とても歯切れ良くインタビューに答えていた。自分にはお金に興味がないこと、事業資金を5年で10億円貯めた。この先10年で100億円貯めて充実した内容の事業にしたい、と。 目的や使命を持つ人の魅力を見た思いがした。外面で人を判断したい私たちの弱点を示された感じでもあった。人の心に関心を持つことが事業として成り立っている現実に、教会の社会への働き分野が十分にある。「イエス・キリストの誕生の次第はこうであった」で始まる記事にしては説明が十分ではない。誕生記事の殆どは、ルカ福音書であり、マリヤが中心である。 マタイ福音書はヨセフに焦点を合わせている。この直前には系図がある。アブラハム、ダビデは系図の表舞台の人。そこにヨセフが登場し、誕生の経緯を「聖霊による」と天使が夢で知らされる。ユダヤの生活規範は律法である。 これに抵触する現実をヨセフはどう聞いたか、を述べている。経験や伝統または世の習いに反することを聞いたヨセフは、マリヤを妻として迎え入れたのである。理性や倫理では片が付かない現実を受け入れるには信仰しかない。 信仰は自分の信じる力を指してはいない。神の力を受ける以外には受け入れられない現実を受け取ったことを示している、これが信仰である。表面にはない信仰の闘いを示される。「インマヌエル」の言葉を、先ず受け止めることから始まる物語である。

12月11日 主の前をゆく人

ルカによる福音書 7章24節〜35節 阪井牧師

 塗装で白をより際立たせるために黒を混ぜた。その分量は経験者の感であった。白と正反対の黒混入が白を引き立てる不思議な働きである。バプテスマのヨハネの記事はそれに似ている。 イエスご自身が、主の日が来る前に預言者エリヤを遣わす(マラキ書3章23節)を引用して、最も偉大な者ヨハネを語った。ヨハネは神の正しさを民衆、徴税人(罪人)に語り伝えた。 しかし、神の近くにいるはずのファリサイ派の人びと、神の民の生活規範である律法を解き明かす専門家たちは、自らを悔い改め、罪の赦しを受け入れず、主イエス(神のみ心)を拒んだ。その姿を譬えで話された。 笛を吹いても踊らず、悲しみにも乗らない、と。子どもの遊びと片づけられない。彼らは時間を忘れ、熱中してその中にとけ込む。一方、神に近いはずの人たちは、中に入ることをしないばかりか、悪例に取り憑かれていると批判する。 神の正しさに気づいて主イエスに従う者を、イエスは招き、共に食事をした。それを見て、彼らは主イエスを大食漢、大酒飲みと罵ると指摘された。ヨハネは外からその人びとを批判するのでなく、自らがその責めを引き受ける。 祭司の家の出であるヨハネは、荒野でエリヤと同じ姿・毛衣を着て革の帯を締めて神の前に立った。真理を知る知恵を持つヨハネは、私どもの地上の歴史に神の真理の言葉をもたらす方として主イエスを指し示したのである。 真理の言葉そのものとして主イエスを示す指先をしっかり見ようではありませんか。

12月4日 主の恵みを告げる

ルカによる福音書 4章16節〜21節 阪井牧師

 ヨハネからバプテスマを受けた主イエスは、荒野の誘惑を経験された。どこまでも神の言葉に従う主イエスの決意をそこから学べる。 その後に、主イエスはどのように宣教の業を始められたかを示す。その1は故郷のガリラヤから、その2は安息日に会堂(シナゴーグ)で、その3は聖書(イザヤ書)を読み、最後のその4は聖書から語られた、ということだった。 故郷の人々はその評判を知り、尊敬をもって迎えている。しかし、「預言者は、故郷では歓迎されないものだ(24節)」が気になる。 会堂は神の民の信仰生活の場、地域のコミュニティーの場である。教育は家庭が責任を持ち、神の民として責任を託された者が集まったであろう。 律法と預言の聖書の言葉を読み、解き証しを聞き、詩編を歌い、祈りをしたであろう。私たちの礼拝の原型をみる。聖書はイザヤ書であった。 人々がその箇所から何を語り、どんな糧を得ることができるかの思いを働かせて集中する中で、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にした時、実現した」であった。 「話し始められた」のだからもっと続きがあったかも知れない。この福音書はそれ以上を記録しない。その言葉で十分であったことを示している。 それだけで人々は満たされたのだろうか、と想う。聖書の言葉は、主イエスにあって成就することを学ぶ。どんなに貴重な自分の経験も知識も不要である。 アドベントの期間がその準備であることを心に引き受けたい。主よお語りください、と備えたい。

11月27日 主のみ腕を待つ

イザヤ書 51章4節〜11節 阪井牧師

 時には2つの見方「流れ」と「出来事」がある。人物の逸話もそれに当てはめて見ることができよう。 アウグスティヌスの開いた聖書箇所はローマの信徒への手紙13章12節であった。近所の子どもが遊びながら歌っていた「取りて読め、取りて読め」が、神が内心に語りかける言葉に聞こえた、という。 聖書を読むのも同じように考えられる。「偶然」か「御心」とするか。イザヤ書51章4節に「わたしの裁きをすべての人の光として輝かす」は、私たちに問いかける。 主イエスの誕生を待つアドベントに入った。この聖書から「すべての人の光」である主イエスのことが語られていると受け取ることができる。しかし、誕生の喜びであると同時に、そのことが「神の裁き」であるとはどういうことか。 イザヤの言葉は、厳しい現実の中にある神の民イスラエルに向けて語られている。その言葉を現代の私たちへの言葉として聞くことができよう。主イエスの誕生の出来事が「神の裁き」、だれもそこから漏れることがない。 「わたしの腕」は神の働きを示す言葉である。約束の言葉は、人間の約束と違う。天が破れ、地が裂けるようなことが起ころうとも、約束は時代を貫き通して続くのである、と。 困難で苦しくあろうとも、また将来が見通せなく、忍耐が辛くてもかつての出エジプトの出来事は主への信頼に立ったからである。 主のみ腕を期待する。「待て!」の言葉を、あの主イエス・キリストを示される言葉として聞き取る待降節を共に過ごしたい。

11月20日 称賛がうむものは?

箴言 27章1節〜27節 阪井牧師

 なぜこれが「聖書」、「いのちのことば」なのか、と考える。親から家庭で教えられてきた常識と変わらない生活訓と同じに思える。 身近で親しみは覚えるが、信仰の事柄よりも生活臭の強いものに感じる。生活姿勢の矯正や心の励ましを受けるに相応しい。 2節には「自分の努力や苦労を自らが評価しないで異邦人にほめてもらえ」とあるところに注目したい。 異邦人とはイスラエルにとって創造主を知らない民のこと、彼らは神の恵みの外にあると見なされた。 その人たちから称賛されるとは、全く人間的関係の中で評価されることである。神とどう関わっているかが秤の基準になっていない。 自分たちの価値基準とは異なる人たちから「ほめられる」のは容易ではない。元来、聖書の言葉は創造主なる神との関わりの中で読まれるべきである。 生活訓ではない。神の働きの中に今日のわたしがある。私の一日は神の言葉に支えられてある。 それは私の善し悪し、都合不都合ではなく、つまり自分の可能不可能ではない。神の言葉として聞き従うことが求められていることを意味する。従うのである。 証しの真実はここにある。その人の人徳人柄に帰着するのでなく、神の栄光に仕える信仰の事柄である。神は私たちを用いてご自身の栄光を顕し、受けてくださる。 証しの生活とされるのである。たどたどしくても、不安定に見えても神が歩ませてくださる。 神に委ねる時、神は異邦人からも「ほめさせ」てくださる約束がここに聞こえる。

11月13日 捧げられる初穂

ヨハネの黙示録 14章1節〜5節 阪井牧師

 ヨハネの見せられた幻は、地上に投げ出されたサタン(竜)が政治権力(ローマ皇帝)を用いて教会を迫害する場面を語った。 その直後のここでは、子羊がシオンの山に立っているのと側には額に子羊と子羊の父の名が刻印されている14万4千人の者がいる幻を見ている。 シオンはかつて神殿が立っていた場所である。 そこに子羊、つまり主イエスが立ち、新しい神の民が一緒にいるのである。 暴力的な獣に苦しめられたが子羊と共にある教会はそれを耐えた。闘いを貫いた勝利の記事と読むことが出来る。 現代の教会にも闘いがあろう。人の知恵による厳しい現実だけではない。 サタンの知恵が働いていると思えるものがある。 もう十分頑張ったからとか、やむを得ないとの「ささやき」が信仰を揺るがす。 しかし、主が共におられることにより、神の支配が私たちの思いや願いを突き抜けて行われることを歌っている幻を受け止めたい。 自分を喜ばせ,楽しむ歌とは違う。主イエス誕生前に、バプテスマのヨハネ誕生の物語(ルカ1章)は不思議であり、 神のみ業に自分の立ち位置を定める時、新しい歌が始まる。 人の願いに拘る時歌えない。自分から離れて信仰に立つ者に味わうことの出来る喜びの歌、美しい歌となる。 この人たち(神の新しい民=教会)は神と子羊に捧げられた「初穂である」。 主イエスは「自分の十字架を負って、わたしに従いなさい」の言葉を語ってくださったことを心に留めた歩みを続けましょう。 主が共におられるから。

11月6日 もがき始める時

箴言 26章1節〜28節 阪井牧師

 「愛」の反対語は、関わりを持たない意の「無関係」だという。憎しみは関わりをもつ愛の変形であるため、反対語にならない、と。 ルカ福音書(10章25節以下)はそれを説明しているように思う。律法の専門家がイエスに向かって「わたしの隣人はだれか」を問う話がある。 自分を中心に生きるところから、相手を中心に自分を生きる「命を得る」譬えが示されている。誰かに強いられたり、命じられての関係作りはつらい。 必要とされているところに、自らを差し出して働きかける関係作りに命が得られるのです。それを知って行わない者は愚か者である。 この箴言にある愚か者とは、専門の情報や知識を多く持ちながら旨く使うことができない者のことであろう。 また、自分には何とかその場を乗り越えることができると思い、すぐ傍らに手を伸ばしさえすれば届く救いの機会を逸するのに通じる。 自分を中心におく生活であるために、分別を誤ることになる。状況とタイミングが狂っていくのである。 神はそれでも手を伸ばし、その手を掴むことを待ち続けおられる。自分がその神の手によって助けを受けなければならないことを認めるのが信仰である。 それまでは自らが苦しみもがくしかない。しかし、このもがきが救いへの機会でもあることを知る賢者になることを勧めている。 神は、私たちが本気になってもがき、神の助けの手をしっかりと掴むことを願い見守っておられることを知るものでありたい。いまの苦しみも恵みである、と。

10月30日 数字で表される人

ヨハネの黙示録 13章11節〜18節 阪井牧師

 タイトロープを訳すと綱渡りとなる。足を踏み外すと命を損なう。 けだるい、変化の乏しい社会に緊張を求めて、きわどいロープの上を歩きたい人が最近多くなっている。 憲法論議もその一つと考えられる。魅力がそこにある。温室よりも道端や石地に咲く草花が人の心を引くように。 僅かな土と水や光で懸命に生きようとする姿は、人を慰めまた癒す。黙示録の時代にキリスト教信仰を生きることは、容易ではなかった。ヨハネが黙示録を書いたのは、神から見せられた幻をそのような人々に示すためである。 空想や夢でなく、厳しい現実に向かって生きるよう語りかける。2つの獣が現れる13章は、外から(政治的)と内から(偽預言者)の象徴である。地に落ちたサタンが政治を通して働く獣、偶像を造り息を吹き込み喋らせる獣とが登場している。まるで神のみ業である。現代の科学や文明は人の心を捉え、引き回し、滅びに至らせようとしているかのように受け取れる。 目の前に示される力ある業は魅力的である。宗教と名乗らないまでも竜から力を与えられ、刻印を押して神から人の心を引き離させる。それがなければ生きられないと思わさせる。 刻印とは獣の名、数字666で表すことが出来る、と。人が数値化されて管理される社会はそれを想起させる。 ローマ帝国やその文化の世界を見て、これを支配するものが獣と見極めていること、この獣に従う者は獣の心に変えられると見極めた。他者のために働くべきが己の益に走るように。

10月23日 隠す神、窮める王

箴言 25章1節〜28節 阪井牧師

 ソロモンと並んでユダの王ヒゼキヤの名前がある。ソロモン王は父ダビデに続く名君として、約40年間統一国家イスラエルを統治した(B.C.961〜922)。その後、王国は北と南に分裂し、200年後のB.C.722年に北イスラエル王国は亡んだ。その頃、南王国はヒゼキヤが統治していたのである。 神の知恵を何よりも必要と神に申し出た知恵の王ソロモンも、初期には知恵の王に相応しく謙虚であったが、後半はどんな生活をしたか。 父ダビデの力を受けて神殿を建設した。続いて勢いに乗じた王宮(宮殿) までも建設して、栄華を示した。さらに、その宮殿には多くの外国女性を妻、そばめ(側女)として置き、イスラエル本来の信仰とは違う生活習慣を持ち込むことを許した(列王記上11章1節〜)。 神の前に正しくあることが出来なくなり、主が怒られたことが記されている。ヒゼキヤは改めて、主のみ心にかなう、ソロモンの知恵を整理編纂し直し、北イスラエルの厳しい現実を見据えた作業が25章の内容となっているであろう。 鍵の言葉は「ことを隠すのは、神の誉れ」「ことを極めるのは王の誉れ」である。 この時代の預言者はイザヤであった。有名な「苦難の僕(イザヤ書52章13節〜53章12節)」の詩の影響を想像する。 全く想像を絶する姿で神の御子が現れたら私たちはどうだろう。出会いを本当に喜ぶか。それとも…、と。 顕されたのに受け取らない。誉れは本質、真実と換言できると言う人がある。イエス・キリストにその誉れを見ているか、を想う。

10月16日 忍耐と信仰

ヨハネの黙示録 13章1節〜10節 阪井牧師

 悔し紛れに人をののしる言葉は、相手を人として存在を認めない、ただ力だけで人の心を持たない意味の表現をすることがある。 「鬼」「畜生」など。聖書では「竜」また「サタン」である。神との関係を作ろうとする存在(教会)に向かって戦いを挑もうとする。 海から上がってきたのは「獣」であった。竜はその獣に、自分の力と王座と大きな権威を与えた。獣はダニエル書にその源を見る。 バビロニア、メディア、ペルシャ、そしてギリシャを獣として表した。今、ここには一つの獣がそれらを総合したものとして表されている。 竜自らが働かない。間接的に自分の意志を貫くのは悪の構造そのものである。人間のどんな知恵もこれに太刀打ちできない。 主イエスと共に福音に仕える弟子たちが、全く逆に走ったとき、「サタンが中に入った」とある。 サタンにとって使い物にならないのは愚直な者である。多くの文学作品はそれを描いている「〜のバカ」である。 時代に取り残されまいと懸命に知恵を働かせながら、何か深みに陥るキリストの名を冠する組織があるように思う。 数を根拠に世の論理が幅を効かせる時、少数派のキリスト教はすぐ消える。ところが、聖書は神の約束が実現することを語っている一時の苦しさは去る神の秩序がその時にも進められていると。 神は、その時、その方法を選んでみ心を行われる。信仰者は神に信頼し、忍耐をする必要があることを学ぶ。そこには神の慰めと癒しの希望がある。

10月9日 立って、見よ!

箴言 24章1節〜34節 阪井牧師

 「知恵の王」とソロモンが称えられる理由を列王記上3章の記事に見る。父ダビデの後継者として王位に就く礼拝をした夜、主の使いが夢枕に立った「何事でも願え。叶える」と。ソロモンの答えは「…主が私を王に立てた。しかし、どう振る舞うべきかを知らない。…あなたの民を正しく裁き、善と悪と判断できるよう、聞き分ける心をください。…」であった。 一つの国の最高責任者の願いは、私たちに遠すぎるだろうか?では、近くを考えてみよう。もし、主から「あなたが家庭の責任者として、欲しいものを何でも求めなさい」であったら、どうだろう。何を願っても良い。何を願うだろうか? あまりに突然だから、だれかと相談して決める?ということは、欲しいものは相談者になろう。 改めて、ソロモンの願いが並はずれていたことを知る。私たちは、結果の今が心の中で大きくなり過ぎ、その過程に心が行き届かない。 そうすると、知恵や教訓は日常の生活の中に示されていることに気付かない。主イエスのたとえの放蕩息子の話を想起する「立って、父のところに帰ろう…」と出かける。私た。ちに必要な言葉である。現実の嘆きの場所から立ち上がる言葉である。 決して徒労でも、無意味ではない。帰るべきところ、神が喜び迎えてくださる素晴らしさが信仰者にはある。 まだ、姿が十分に確認できなくても、自ら迎えに出るため、立って見ている方、待っている方がいる。立って帰れる幸いを知る知恵を用いたい。

10月2日 目覚めて祈ろう

ヨハネの黙示録 12章7節〜18節 阪井牧師

 神に仕える天使は、天(神の法廷)で2つの役目を負っていた。1つは罪を露わにする検察の務め(告発)をするもの。もう1つはその弁護をするものであった。 天で戦いがあり、弁護する務めのもの(天使)が、告発をするものに勝利した、と聖書は語る。告発するものは天上から追い出されて、地上に落ちた。 それがサタンと言われている。地に落ちたサタンは、人を神から引き離すために力の限りを尽くして暴れる。 誘惑をする、人を堕落させる、道から迷い出させるのである。神に仕える務めを負う天使が人を神に対立させる働きをするのである。 人格的な働きともいえる。教会の中での自戒を思う。イスラエルの人々は、すべての国民の祝福の源になる使命を負って神の民とされ、その歩みを保つために律法を与えられた。 ところが、この律法が裁きのために用いられ、人々の罪を暴くことになった。神のための手段であったものが、そのことに心を用い過ぎて目的に化した、と言えよう。 手段が目的になることが人の陥るところである。しかし、もはや戦いの結果は明らかである。それは子羊の血(主イエスの十字架)と主の贖いの救いを喜ぶ証しを貫いたことにあると。 当時の教会はその信仰を圧迫され追いつめられているかのようであるが、神の備えは鷲の翼によって荒野に逃れることができる、と。荒野は神との出会いの場所、信仰が養われた場所であった。そこで祈る時、神は力を発揮されることを確信している。私たちの場所でもある。

9月25日 わたしに委ねよ

箴言 23章1節〜35節 阪井牧師

 「…勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハネ16章33節)」は、主イエスが弟子たちの受難の予告をされた結びの言葉である。 直前の15章には、キリストと共に生きる者は、世にありながら世に縛られない生き方をする、と話された。 それは、世を憎むことでも、世を離れることでもない。福音書の結びに、イエスの命令がある。「全世界に出て行って、すべての人に福音を宣べ伝えよ」と。福音とはイエス・キリストの事柄である。 それは(1)神が人となった、(2)神がすべての人の罪を負い、呪いの十字架に死〈罪が裁かれ〉んだ、そして(3)死から甦った〈死を勝利〉ことである。 この事実を受け入れる者は、神のいのち〈永遠のいのち〉を生きる者になる。これは人の能力、努力、訓練などによって手に入れられる者ではない。 もちろん、名誉も地位も世のいかなるものにもよらない。従って、イエス・キリストに従って生きる者は、この世にありながら、この世の、者ではない生き方となる。 しかし、それらによってこそ、この世を生きようとする者には、驚異(脅威)と見えるであろう。食事はもっともこの世に深い関わりを持つ。 それだけに、食事は誘惑となる。プロはどこから打ち込まれても対応できる人であろう。キリストに生きる私たちは、信仰のプロである。 もちろん自分の実力ではない。主イエス・キリストによる達人とされている。世に住み、世に向かって福音を伝えるプロとして、主と共に歩みましょう。

9月19日 産みの苦しみ

ヨハネの黙示録 12章1節〜18節 阪井牧師

 “時”は確実に刻まれていく。身の置き所によって持つ意味は異なってくる。 待ち遠しいのや身を刻むようなものと色々である。人の計画や思いに対して、人を超えた神の計画に基づくものがあることを意識させられる。 しかも黙示録12章には異様な装いをした「身重の女」が登場する。太陽を身にまとい、月を足の下にし、頭には12の星の冠を被った、との説明に思い当たる表現(創世記37章)がある。 ヤコブが高齢になって与えられた子、ヨセフが見た夢物語である。出エジプトの物語からその夢の実現を読み取ることができる。 女はイスラエルの民、キリストの教会と読み解くなら、まさに産みの苦しみはイスラエル民族の歴史、この黙示録の時代の教会である。 いままさに子を産まんとする女の前に立ちはだかり、生まれる子の命を狙うのは竜(サタン)であるが、これもまた奇妙な格好をしている。 7つの頭は賢さを、十の角は力を、そして冠は権力、地位を示している。到底独りの力で立ち向かえる相手(ローマ)ではない。 一瞬の気を散らす程度なら別である。窮屈になって初めて自分の位置が変だと気付いた(60年以前の実態)時はすでに遅かった反省がある。 詩篇2編、言行録13章は新しい王(甦りの主)即位に関するものである。その引用がここにある。 神の支配をこの世の秤で測る誤りをユダヤの人たちがしたことを示している。現代の竜を想わされる。勝利が神のところにあることを受け取る信仰の歩みをしたい。

9月11日 唇に品位が

箴言 22章1節〜29節 阪井牧師

 趣味・興味やアクセサリーで坂を上り、重荷を担ぐことがある。仕方なしに取り組む人には結構負担である。 しかし、それが人としての成長に、また神の前に意味を持つ。主イエスのタラントンの譬えからも想う。人の目には平等ではない。 だが、神は「力に応じて」財産を託された、とある。ここに神の平等がある。隣近所を見回して同じが平等ではない。 神から託されたものに対して、自分の力に応じて応えることにある。人の目に現れている違いは、私たちの努力や鍛錬にかかる事柄ではなく、神の側に根拠がある。 神のご計画、御心を私たちは測ることができない。神ご自身が、一人一人に対して目的と意味を持たせておられると受け取る。 そうすると、お互いに比較によって自分を評することは、神の御心ではない。聖書を通して、神は私たちにいのちを与え、そのいのちを生きるよう求められる。 創世記は「神がいのちの息を吹き入れた」と書いている。そのことを信仰をもって受け入れる時、人は「主を畏れ、身を低くする(4節)」と箴言の知恵は語っている。 相応しい力が差に見えるのは富だけではない。境遇・生活もである。納得しがたいが、相手を受け止める奥義でもあることを想う。そこに品位が備わるように想う。 敬虔とか徳が品位を醸し出すのではない。神の恵みに今あることを大事にする生き方にある。それが人の心の深みに触れるのである。 イエス・キリストとの関わりが今、わたしの生きる誇りとなることを祈る。

9月4日 時が来た

ヨハネの黙示録 11章15節〜19節 阪井牧師

 黙示録には妙な生き物(獣)がよく登場する。同じ漢字をケダモノとも読む。 人間を襲い、馴れることがない生き物を想う。 その生き物は、神の言葉とイエス・キリストを証しする者を襲い暴れる、という。 キリスト教徒を迫害する者を譬えていると推察できよう。旧約の世界でも、 このようにしてユダヤ人を苦しめた記録がある。ダニエル書8章にある。 アッシリア(アンティオコス4世−エピファネス)が、エルサレムの神殿に異教の偶像神を運び込んで礼拝をさせる。 偶像を決して拝まないユダヤ人と知ってのことである。黙示録に登場の「生き物」も同じようである。 皇帝(ドミティアヌス・ローマ皇帝)を神として礼拝させようと強いていた。 政権への協力を訴える表面と、キリスト教迫害による民意の惹きつけの裏面とを利用してのことであった。 しかし、神の時(裁きの時)があることを語っている。 ヨハネはひょっとするとパトモス島に幽閉または投獄状態であったかもしれない。 その囚われ人が、世界の支配者を相手に、神の支配が完全に行われる時(裁き)が来ると語った。 歴史はそのようになった。人の知恵と権力で栄えて見えても、神の裁きの時があるのだと教えられる。 私たちの現在生きている世界は、互いに憎み争い、矛盾と悪が蔓延る所となっていないが。 聖書の信仰は、語っている。世界は創造に始まり、裁きに終わると。その時を誰も知らない。 この世の秤でなく、イエス、キリストをその支店とする信仰の歩みを続けたい。 時は来る、と。

8月28日 お言葉ですから

箴言 21章1節〜31節 阪井牧師

 人間の体の80%は水分で構成されている、という。 緊急時に水の確保が「生命線」の一つに数えられていることを認めさせる。 また、聖書的表現で「命の水」を「御言葉の泉から汲む」ということがある。 水は、高いところから低いところに流れる。その水の流れは、利用の仕方で生活に益することも、害することもある。 蓄えて流れる力をエネルギーとする。間違ってその水量を多くすると、生活を破壊し、命を損なう。  絶え間なく流れ続ける水は、植物を育て、動物の命を保つ働きを担う。 1節「主のみ手にあって王の心は水路のよう」は、 主の「いのちの水」を低いところに流していく道であることを意味している。 王とは、地上の最高の権力を持つ存在であるが、 神のみ手に仕えることによってその務め(使命)を果すことが正しくできる。 神は正義と公平を行われる方である。王の職務に就く者に、油が注がれた(メシアまたはキリストの意味)。 権力を持った人間は、神の道から逸脱することがある。イスラエルの歴史はその記録である。 国が滅び民の心が乱れる。生活の場が、互いの先を争う修羅場となる。 人間の道は、一時的に栄えて見えるが、大水に流される時がある。 神を離れては、人は命を喜び生きることができない。 キリストによってすでに水を与えられた私たちは、少量でも周囲に希望と力を与える者となれる。 流れ続けるために上流からの水を受け取ることが要る。 主よ!お言葉ですから、のペトロに倣いたい。

8月21日 新しい知恵の始まり

マタイによる福音書 8章23節〜27節 阪井牧師

 戸惑いという言葉を想う。この記事のメッセージは何か。ガリラヤ湖を生活の場とした漁師4人を含む弟子たちが、湖上で舟の危機に大工イエスに助けを求めた、 つまり、専門の技術経験と知識の限界を門外漢に委ねると考えるなら混乱する。 18節から続く話とまとめる時、ここには弟子になるとは、信仰生活とはのテーマに気づく。「人の子は枕するところのない…」と語られた方が、今風波に揺られて沈没するかのような舟で眠っている。 「主イエスが乗った舟に弟子は従った」のに、自分の技量で海(かつての生活の場)で舟を操ろうとしている、とすると考えさせられることがある。 主イエスに従うことによって、海の「激しい嵐」に遭っていることが大きいポイントとなる。水上の揺れを地上の揺れと置き換えると、地震である。立っている根拠が揺らぐ。確かな支え一切がない。 先週の地震で経験したのは、揺れ落ちる物を少なくするために押さえていた。これが長く続いたらどうか。 不安と恐れが分かる。自分たちの持てるどんな物も支えにならない現実を想う。主イエスはこのことを教えられたのではないか。 全ての人の心の奥に恐怖があることを知る。見えるもの、体に触れる物に拘ると振り回される。主イエスと共にあることが小さくなる。「信仰の薄い…」が、「信仰の小さい…」と同じ意味をなすことを知る。訓練の問題ではない。助けを求めて良い。主によって平安(凪)が与えられる。眠っている主に気付くことが大事である。

8月14日 神からでる命の息

ヨハネの黙示録 11章1節〜14節 阪井牧師

 風邪の流行には細菌対策がある。社会風潮にはどんな対策があるか。戦後60年があちこちで取り上げられ、平和への願いが語られている。今、その体験を語る人が少なくなってきた。 JB8月号の貴重な体験記に「…引き下げられた徴兵検査を上級生と受けたが丙種だった。…それは私には少なからず、焦燥感と劣等感を与えた…」とある。今日の私たちが想像できるものとは相当乖離しているように考える。 表面は違っても、目先の事に走り、乗り遅れには敏感でいる、それでいて世界や地球には目が向かない私たちの現象はどうだろうか、と。 黙示録のヨハネは圧倒的権力と政治力で教会迫害を受ける中で、信仰を持ちこたえるために与えられたメッセージを語っている。 それが「杖のような物差し」の言葉に受け取れる。乗り遅れの「焦りと落ち込み」は自分を失わせる。 神に召し出された使命はどうなるのか。今日の教会にもある問である。 自分が自分でなくなるような時、それを支えるのが「杖=神の言葉」である。 モーセはそれをもって出エジプトの大偉業をなしたとある。自分の力には当然限界がある。そのままでは自分でなくなる。 自分が命を失ってはならない。神は憐れみを与え、立ち上がる力をそこに注いでおられた。「あなたと共に…」と。 世の力に圧倒されて息を失いかけるような時であっても、神は「命の息=み子主イエス・キリスト」を与え、支えておられることを想起させる。主の前に支配する力を持つものはない。思い煩いを委ねよう。

8月7日 癒しと和解と平和の源

ルカによる福音書 23章32節〜49節 松本昌子先生

 6日は広島の原爆の日だった。太平洋戦争の終結から60年になる。はじめに黙祷をささげたい。 国連の調査によれば20世紀中の戦争による犠牲者は有史以来から19世紀までの戦死者の推定数を数倍も上回るという。 有史以来人類は報復の論理でもって戦争をし続けてきた。ユダヤ教の時代でも同様であり、敵は敵、味方は味方とはっきり別れているからこそ、平和が保たれていると考えられていた。 怒りに任せて報復をしすぎてはならないという意味で「目には目を、歯には歯を」という言葉があった。正しい報復をすることが秩序を守ることであった。 それを考えると、その時代にイエスが「あなたの敵をも隣人と同じように愛せよ」と語ったことを驚きをもって受け入れる。イエスは言葉だけでなく十字架として身をもって示されたのである。  かつてベルギーの植民地であったルワンダでは少数民族のツチ族が支配していたが、94年から多数派のフツ族によるツチ族の大量虐殺がおこり人口840万人のうち80万人が殺されたという。その中でツチ族ある女性の話を聞いた。家族を皆殺しにされたその女性は希望を失ったが、多くの孤児を自分の子どものように育てた。ところが家族を殺した憎いフツ族にも孤児がいた。 その孤児も同じように育てている。憎しみや悲しみが癒されたのは、イエスが十字架にかかったことに源がある。癒しや和解と平和の源を知る者として、私たちも隣の人にこのことを伝えて行きたいと願う。(文責 石黒)

7月31日 世界を変える人

箴言 20章1節〜30節 阪井牧師

 歴史の中に現れ、世界を変えた人々は、初めから世界に名を残すことを願っていたわけではない。 むしろ神の言葉、聖書にどこまでもこだわり、そこに自分の生活をかけたに違いないであろう。 イスラエルは神の民として旅を続けた。羊を飼って生活をしている時には、荒野が生活の中心場所であった。 貧しくまた、不安定でもあった。 やがて、カナンの地に入って定住をするようになると、彼らは家を建て、土地を耕し、作物の収穫を得て、生活が安定するようになった。生活が変わっていった。 さらに土地の人々と触れ、その地の文化が彼らの生活に浸透していった。ぶどうを栽培し、ぶどう酒を造り、みんなで飲み楽しむようになった。 しかし、同時に「強い酒に騒ぐ」ようになった。日常の生活から神の言葉、神のいのちに生きることが隅に追いやられることが起きたことを指している。 神から与えられた使命に遣わされながら、その使命を生活の片隅に置いてしまったのでは、その存在理由が失われる。イスラエルの国は南北に分裂し、やがて両国とも地上から消えてしまった。神の言葉に徹して生きることを忘れたと言えようか。 私たちの使命はなにか。神によって造られた存在である私たちは、神のみ名をほめたたえ、神の栄光に仕えることである。同じように教会はみ言葉を宣べ伝えることにその存在理由がある。み言葉にこだわることこそが私たちの存在理由、伝道することが教会の存在理由である。世界を変える力はそこから。

7月24日 聞こえているか!

ヨハネの黙示録 10章1節〜11節 阪井牧師

 事柄の全体を委ねるための単純表現が象徴となる。それは誤解を生み、やむを得ない。 十字架が呪いのしるし、同時に救いのしるし、と言う具合。 ステンドグラスは聖書の物語を字が読めない人々に知らせる手段であった。時間の経過は逆転を生む。 字を読まなくて済む手段に。黙示録の表現もその危険を負っている。 当時の時代を背景にして読むべきを、現代から読もうとする時である。パトモス島という場所で書いたヨハネは、存在そのものが不確かであった。そこで幻を示され、み旨を聞かされている。  10章には、手に開いた巻物を持ち、陸と海を踏まえた方が登場している。 神の言葉を記した巻物(神の言葉)と世界を支配する方が、このヨハネに使命を与えている。世は認めず、力も金も地位も、さらに名誉もない私たちにこの記事は励ましと希望を与える。自分の生活に精一杯の現実で、どんなにもがいても私たちの教会は何をすることができようか、と考える者に向かって、「キリストによって立て」と。 喘ぎ、やっとの生活をするその所が、神のみ業の現れる所となる、と言われたらどうだろうか。たとえ、使い物にならないと世の人に見なされても、神の言葉が伴い、神の栄光が伴っていると知ったらどうであろうか。 土の器は、素焼きであってもその時と場所を得る時、気品や価値をさえ持ち、心引かれる存在となる。神の栄光はすでにあなた方の所に…と言われている。キリストに拘り、主の支配の輝きに委ねる者でありたい。

7月17日 ある叫び

マルコによる福音書 10章46節〜52節 佐藤菊男 協力牧師

 「わたしを憐れんでください」と私たちは主に向かって言えるか。 記事の中の人の叫ぶ声に対して、人々が黙らせようとした。すると、その人は一層激しく叫んだ、とある。 何をして欲しいというのか。多くの人混みに気後れをする様子もない。 今でなければ叫ぶ時がないかのようでさえある。今でなくてもと思うなら叫ぶことはしない。 別の時があるとするからである。わけが分かり、余裕ができた時に声をかける、とする人は、 イエスに何と言って良いかが分からなくなる。バルテマイはこの時とばかりに叫んだ。 黙らせようとする人はあっても支援する人はいない。自分で訴えている。 主に向かって求め、叫ぶとはどういう事かを教えている。 「叫び」を描いたエドモント・ムンクは、死の恐怖と不安のテーマを何年も描いた。 精神的自己治療と言われた。両耳を塞いで叫ぶ人の目や耳は鮮明でなく、口だけ大きくみえる。 キリスト教の人たちは神に向かって両耳を塞いで叫ぶか。口元はどうなっているか。 「イエスが立ち止まった」のは声が届いたのか。大きく激しい叫びだったからか。叫びの形ではない。 イエスが止まる、神が人間の前に立つということが重要である。どのように叫ぶかでも、叫びの真剣さでもない。 叫ばずにはおれない人の叫びに、イエスが立ち止まったことが重大である。 主イエスが立ち止まられることに気が付くことが大切である。 (文責 阪井)

7月10日 人の心と神のみ旨

箴言 19章1節〜29節 阪井牧師

 1〜3節の意味をまとめると次のようになろう。 「道理から外れたことを主張したり、結果を急いで出そうとしても、神への思いや神の知恵が乏しい自分勝手な日々の生活の歩みというものは、やがて破綻が来て行き詰まり、前にも後にも動けなくなるものである。ところがその時自分の歩みに課題や問題があることに思いを配らないで神に対して不満を言いふらしたり、不運を嘆く者がある。一方、社会的に十分な報いを得られなくても、神のみ心を求めて歩む人の、なんと平安で心豊かなことであろうか。」 歩みに焦点があることを想う。生涯の終わりの時、神から「あなたは何をして来ましたか?」と尋ねられたなら、どう答えますか?  世に認められるように、また他者より少しでも楽になるよう、また豊かさを求めてきた、と答えますか? つまり、それはどこに向かっていたのでしょうか? パウロはフィリピ3章で「キリストのゆえに、主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、それらの一切を損と思うように…」と語っている。出かけようとして何度も忘れ物を思い出して取りに帰る愚かしく、空しい姿を想起する。 神に委ね、神が知っていてくださることに一切を託して、神以外の誰からも何も報いを求めようとしない歩みがあることを学ぶ。今の自分の歩みに、主がみこころを進められると確信をもつことを祈り求めたい。それは祈りからくる。 み言葉の学びからくる。わたしを神は用いてくださるとの確信に歩みたいと願う。

7月3日 命の道に至るため

ヨハネの黙示録 9章1節〜21節 阪井牧師

 「…この中に、ひょいと躓いた人がいる、躓いただけで済んだ、怪我はしなかった、これに懲りて欲しい…。この人は…随分苦しんだ筈だから…」。 その人の新しい生き方へと促す心に残る言葉である。聖書の言葉「彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた(口語訳ローマ1章28節)」に通じるものを受ける。 神の裁きのありようとその恐ろしさを想う。したいようにさせてくれる。これほど心楽しいことはない。 しかし、そのことが裁きであるとは。だが、聖書には、その続きがある。 だから神は、その人に対してそこに働きかけ、神自らが傷つき、痛みを引き受け、慰めと癒しを与えると。 しかも、そのためには「いのち」が犠牲として必要であることを語っている。 現代社会に向けても同じ事が起こっているように想う。現代人は、自分達のしたいようにする。 また、それが可能な時代である。けれども、できることが神の裁きでもあるとしたら考えなくてはならない。 豊かさを「なすに任せた」ことではないかを問う必要がある。 黙示録はローマの圧政を受けるキリスト教徒への慰めを意図しながら、神が支配をしておられる世界であることを示している。 厳しさに耐え、戒めを受ける民となることを求めている。 試みの中にあっても、神の許しなくては人を苦しめることはできない、と。 神に希望を持つ者でありたい。神のみ手の働き、神の愛を信じる命の道を歩みたい。

6月26日 知恵の源から汲む

箴言 18章1節〜24節 阪井牧師

 時代的傾向かそれとも個別の特殊なのか、あるいは両方か。 最近、再び中学生や高校生の関与した事件が報道されるが、大人の大きい事件、例えば湾岸、コソボ、アフガン、パレスチナ、 そしてイラク等の戦争紛争ですぐ片隅へ追いやられて忘れられたかのよう。 世界がどうも穏やかでない。こんな時代にも当てはまる言葉を箴言にみる。 「離反するものは自分の欲望のみ追求する者、 その事はどんなに巧みにやってもすぐ知れる(1節)」は以前の口語訳で「人と交わりをしない者は口実を捜し、 すべてのよい考えに激しく反対する」とある。「口実を捜す」が現代の特徴であろう。女性専用車両があるように、 障害者のため「優先ボックス」を設けよとの投書にそれを思った。共にの発想がどうして区割りとなるのか、 まるで動物の輸送機関を想う。口実は便利屋親切が結果として歪んでいく。プラスのはずがマイナスに。 愚かな者の姿を呈するのはそこに神さまが意識されているかどうか。 聖書は知恵の言葉(箴言)はこのことを示している。人は自分を満足させて傲慢に陥る存在である。 いかに尊く清く聖であろうとしても、 人の力だけでは辿り着くことの出来ない「知恵の泉」から言葉を汲み出すことが必要である。 パウロは「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い(1コリント1章25節)と言った。 人々が軽くみているそのような人を用い、 弱く低い者、無きに等しい者がいのちの救いに仕える神の道具になる。恵みを喜びたい。

6月19日 信仰の薄い者

マタイによる福音書 6章25節〜34節 佐藤菊男 協力牧師

 山上の説教ほど美しい説教はない。 「野の花を見なさい。空の鳥を見なさい…」の言葉を聞いていらつく人はいますか? 「思い煩う(心配する)な、一日の苦労は、その日一日だけで十分である」と言われているのに、尚思い悩み、気をもむ自分に気付く。 「ヨーロッパの季節」の中で「…夏の寒さ、心の中にしみる…それは悲しみの感覚に似ている…」の言葉から19年を過ごした盛岡を想い起こす。 自分の人生と一緒になって豊かさ貧しさ想う。イエスに聞く、出会う、新しいものを与えられる。これが信仰というものである。 「信仰の薄い者」とは誰のことか。大きい、小さい、厚いではなくて神への信頼がない、とは誰のことか。 信仰がなくても野の花や空の鳥に関心はある。そこに神の業がある。語りかけて関わりを放棄されない。イエスの業は信仰の無いことを終わらせる。 イエスによって信仰のない苦しみは終わり、呼び寄せ、神の業へ心を向けさせる。詩篇8篇5節に「あなたがみ心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。」との言葉がある。 神の働きかけ、語りかけは、自分の無力や弱さの感情に溺れていられなくする。 神が語りかけてきてくれる時、自分の思っているそれ以上の存在になる。感謝しながら従っていきたいと願う。(文責 阪井)

6月12日 沈黙と祈り

ヨハネの黙示録 8章1節〜13節 阪井牧師

 壁に「天使とラッパ?」の額が掛けられていた。この黙示録からその題名が付けられたに違いない。 それにしても「こんな所から絵が描けるのか?」の印象を強くした記憶がある。この第7の封印が解かれた時、以前と違った。雷のような声も叫び声もない。 嵐の前の静けさがある。「…天は半時間ほど沈黙に包まれた」とある不気味な静けさをどう受け取るか。 「ある人たちは遅いと考えているようですが、主は約束に実現を遅らせておられるのではありません。 そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにとあなたがたのために忍耐しておられるのです(二ペトロ3章9節)との言葉を引いて説明する人がある。 神の忍耐、神の時は私たちの都合とは全く違う。悔い改めの時を与えるために時間を設けている、と。 しかし、神の時には限りがあることをノアの洪水の物語から知らされる。神の命令に従うノアを見て、他の人たちは嘲笑ったのではないか。 洪水の時にはもはや船の入り口は神によって閉じられていた。ラッパを持った7人の天使とは別に神に届ける香炉と香を持った天使が祭壇の横に立っている。 礼拝の祈りを取り次ぐ働きを想う。特別の備えを必要としない方を私たちは知っている。 主イエスの血潮、十字架によって罪を負って下さったその方の名によって祈ることをしっかり受け止めたい。 あの時隔ての幕が破れた。私たちの力が要ると思う驕りを捨て、主イエスの父を、私たちの父と呼ぶことのできる恵みを喜びたい。

6月5日 多くを語らぬ方

箴言 17章1節〜28節 阪井牧師

 心の純粋さを保ち、ひたむきに尽くそうとする人の生き方に感動し、心を揺るがされる。声援を送りたくなる。 エネルギーの消耗が外に向かって爆発するよりもじっと内に耐えることの方が大きいことを知っているから。 不用意な慰めや励ましは、耐える者に一層の苦痛を与えることがある。ヨブ記はそれを語る。 ヨブの余りの厳しい現実を共に耐える妻には苦しくて「神を呪って死ぬ」ことを勧めるが、ヨブは「…幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」と。 神にある確信を示す。箴言は外側の豊かさに対して内なる豊かさを見ている。しかも、単なる処世術ではない。 神にあること、神との関わりがその豊かさを支えていると教える。神に犠牲よく捧げ家に肉が満ちながら争うより、乾いた一片のパンで平安な方がよいと(1節)。 パウロも兄弟を躓かせるより肉を食べない方を選ぶ(一コリント8章13節)という。神のみ心を求め、従うことの自由を生きる姿がある。 イザヤ書53章の「苦難の僕の姿」は主イエスを予型していると受け取る。屠り場に引かれる子羊は十字架に歩む主イエスと重なる。 裁きの場でピラトが不思議がるほど不利をも引き受けた。すべての者の救いとなるために、父なる神のみ心を行われた。 私のためであったと知る時、自力の弱さをよく知る私たちは、他の人が口数を多くする中で、じっと耐える力をこのお方から得たい。 神の恵み、神のみ手を自分の立つ拠り所にして自信を持つ者にされたのです。

5月29日 涙ぬぐわれて

ヨハネの黙示録 7章1節〜17節 阪井牧師

 健康で外に向かうエネルギーが内にある間は気にならない。だが避けられない厳しさの前にある者は「裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ…(ヨブ記1章20節)」 の言葉はどのように聞こえるか。今までとは違う響きを受ける、との声を聞いた。死を見つめる者は見方が違う。 ヨハネは自らの死を見つめ、信仰の仲間たちの死を見つめて手紙を書いている。神の支配が及んでいると。風を止め時を計っている。 神の僕、神に仕えている者ひとり一人の額にその「しるし」である刻印を主の使いが押し終わるのを待っている幻をヨハネは見せられている。 バプテスマは「神に属するもの」のしるしである。 二コリント1章21節22節「…キリストに固く結び付け、わたしたちに油を注いでくださったのは、神です。 神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に“霊”を与えて下さいました」とパウロは語りました。 現代の激しい嵐を受けながら砂漠を旅するわたしたち、血なまぐさい人の罪の現実の中で、神の子羊の慰めを受けることができること、主と共にある静かな時を得る恵みをしっかり心の中に留め置きたい。 生活の中で不安や淋しさに襲われ、捉えられる時に立ちすくむ思いをすることがある。 しかし、主の僕たちと共に死を越えて、主と共に生きる希望の礼拝がここにあることを喜びたい。 主を礼拝し、十字架の恵みを受けさせて下さいと祈りをしたい。主のみ使いが涙をぬぐってくれるまで。

5月22日 心を治める者

箴言 16章1節〜33節 阪井牧師

 同じ努力の人であっても神の前に歩む人は違う。結果責任は全てが自分にあるとしない。 神の計画、神のみ心がなされ、歴史が作られるとする。人はこの神に仕えることに徹底しているところが努力に見えている。 現実には、地上で最も権力ある地位に立ちながらも神を畏れる者であることを、ここに知恵として語っている。 民らが王の裁きの正しさを、公正さを認めるのは、王が神を畏れる者であることにかかる。 人の本姓は、神を離れると自ずと野生化する。私たちの歴史の歩み約60年前に遡るだけでそれを確認できる。 この善良な日本人がかくも無謀な行為、人を人としなかった。 その記憶から“歴史の正しい認識”を近隣国から求められ、“内政干渉”と抗弁して政争の道具にさえなっている。 人間の最も愚かしいのは「高ぶり」であることを聖書は知恵の言葉として示す(18節)。 人の努力とその積み重ねの実りが驕(おご)りと躓(つまづ)きになると。確かにその兆候がある。 人から強いられると息苦しさを感じる。ところが自らがチャレンジする時はむしろ成果が見られる時、喜びを感じる。 神を畏れることにその源があることを知恵から学ぶ。自分で自分を変えようとするが、とても難しいのに、主を畏れて大胆に生かされて歩む者には造り替えられることが苦痛ではなく感謝でさえある。神の恵みと愛(主イエス)に応えるべく自ら選び取った者は、苦痛すらも喜びにしていく力を得る。 主のみ旨の成就する場所は、主に委ねた場所である。

5月15日 真の訓練とは?

マルコによる福音書 14章32節〜42節 佐藤菊男 協力牧師

 イエスの「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」との言葉から何を思われますか? 穏やかに見えるが世は激しく変わっていく中で考えさせられる。自分の境遇はどうなるのか。 定年で家に共に居るようになる。それが不幸の始まりという。どこへ行けばよい、行ける場所はあるか、困ったものである。 村上龍は「私たちは家族ということを知っている。しかし、今が最後だ…」と。 H.ヘッセは政治、経済、科学そして宗教について書いた。80歳になっても「なぜキリストにならう道が開かれないのか」の問いを抱え、若い時と違う作品を書いている。 イエスは「祈っているから…」と言う。しかし、私たちは何もしないで座っていてよいのか、イエスが働いておられるのだから自分のことは自分で…と頑張ろうとする。 激しく変わろうとする世に対して私たちは何をすればよいのか。「さあ、行こう」と言われる時、すぐ立ち上がれるように今はじっと座っていてよいのだ、と。 イエスが声を掛けられる時にこそ立ち上がることができるように、イエスは神の行動としての祈りをしておられる。 私たちの人生、どんなに重ねても届くことのない祈りをイエスがして下さっているのだ。 「座っていなさい」と言われても動いてしまう私たちである。 動かなくて座りっぱなしでも、イエスは叱られるような方ではないのです。 世は争い、栄え、滅びていく中で、私たちはイエスの祈りの中に備えられていくのです。(文責 阪井)

5月8日 祈りと讃美を

ヤコブの手紙 5章13節〜18節 阪井牧師

 「起き出でて祈りをするこそつとむべき、ひと日の業の始めなりけれ」の奥野昌綱の詩から今年度の標語説明をした。 私たちには祈ることの出来る特権があり、共に祈る友がいる。何よりもみ霊の執り成しと主イエスの祈りに支えられていることが恵みである。 信仰の基本であり、中心に祈りがあることは知るところです。今年度改めてこの祈りと讃美に心を用いることにした。 この教会の交わりに初めて触れた人が雰囲気からの印象を「祈りの教会」と感じられたい。 当然、教会に集まるのは人ですから経験や知識、社会的な諸条件がある。 でも、この教会の一人一人が無くては成らない人として活き活き集まりをしていることを証しとしたい。 主イエスがわたしのキリスト(救い主)であることの喜びが歌、讃美となっていく群であり、集まりでありたい。 ヤコブの手紙には生活と信仰の結びつきが乏しい事への警告と教会への勧めが内容となっている。 神に信頼するから祈れない。祈りすら出来なくなる時がある。共に祈る教会の人兄弟がいる。 もはや自分の力では神の前に自分を差し出せなくとも、共に祈る人によって主の霊の働きを求めることが出来る、と告げる。 子が自立しても親は見守り続ける。主なる神はそれ以上の関心と覚悟を持って心を注がれる方である。 祈る者だけでなく、神の栄光を現わす場と時にされることを知らされる。もっとも良き時、もっとも良い方法を備えて下さる。 神の国がここに現れることを共に喜ぼう。

5月1日 言葉にならない事

ヨハネの黙示録 6章12節〜17節 阪井牧師

 無意識の中にも順番や秩序がある、と考える。自分の存在もその秩序が支配していると考えている。 しかし、それが狂って見えるなら、人は「なぜ?」の問いを発する。神への問いとなる。 ヨブ記もその問いを抱えて、「正しく生きる者が苦難を受ける意味はなにか」、「信仰に生きる者にとって神は何をされているのか、されていないのか」、 「この厳しさをどのように受け止めるべきかを知りたい」、とする。ヨハネの黙示録もこの秩序の乱れを問題にしている。 「太陽が暗くなる…」のは主イエスが十字架で息を引き取る時の描写(マタイ27章45節)にもあった。 自然の異常現象であったかもしれないが、神の支配秩序が崩れた表象でもあるのではないかを想う。 この箇所には神の創造のわざである「天が消え」た。 不動の象徴である「山や島が動く」さま、時代を超えて揺るぎなくあるべきものが崩れ去るとき、一体何が起きているのかを問いたくなる。 大阪の列車事故に遭った人たちの言葉はそれを示しているように思える。 主イエスがエルサレムの神殿境内で見たものもそうではなかったか。 「父の祈りの家」が「強盗の巣になって…」と言われている。 神の秩序に仕え、正しく礼拝しているつもりで、商売をし、両替をし、通行の便利さに神殿の境内を使っていた人々がいた。 この人々を厳しく追い払う主イエスの歩みは、十字架に通じていた。 神の忍耐の中に今日、私が居ることを覚えたい。 主イエスの恵みを受け止める信仰を歩みたいと願う。

4月24日 分かれ道に立って

箴言 15章1節〜33節 阪井牧師

 塩の働きは私たちのよく知るところ。防腐、味付け、脱水…など。 それ自身が持つ力とそれを知っていかによく用いるかが知恵である。 塩の海(死海)を生活圏に持つイスラエルの人々には特別であったろう。聖書に度々登場し、印象強いものがある。 「ロトの妻は後ろを振り向いたので、塩の柱になった(創世記19章25節)」「あなたがたは地の塩である(マタイ5章13節)」「塩で味付けされた快い言葉で語りなさい(コロサイ4章6節)」など。箴言もこれに似ている。 用い方によって支え、励まし、知恵、そして訓戒などになる。しかし、聖書は主イエスを証しする、神に向かって生きる力を与えるもの。十字架の言葉は神の力である。 世の忙しさに生きる力が失われそうな時、主イエス・キリストと共に歩く力がそこにある。 現代生活のリズムから遅れること、迷い出ることを恐れるな。主に信頼する生き方が私たちの最も重要なところである。 それが祈りとなる。自分の言いたいことだけを語る祈りは空しい。向き合って語り合うのである。 この語らいに主イエスが執り成し手として立ち会って下さる。ここに私たちの祈りの本質がある。 ひたすら結果を求めて、それが祈りの目的手段となる時、本質が失われる。 主イエス・キリストの名によって祈る「祈り」が分かれ道となる。 人に、世に、企業に、地域に影響を与えるのではない。神が用いて結果を作られることに委ねる信仰を歩みたい。 神の権威に従い、主と共にあることを喜び歩む祈りが、一切を豊かにするのです。

4月17日 ここも教えの場所

ヨハネによる福音書 8章1節〜11節 佐藤菊男先生

 この頃何を一番思い起こすか。若くして教会へ行ったこと。 今、104才で健在の先生の下でバイブルクラスに通い、信仰を持ち、牧師になり、何をしてきたかを考える。 その先生の政治的手腕才能を評価する声があるが、礼拝では文化や政治の話はなかった。 死刑囚を信仰に導き、その経過と反応を熱く語ったのを記憶する。聖書のたとえや奇跡の話を、NHKの「心の時代」でも同じように語った。 50年以上同じ教会で教師を続けることは凄いと思う。若い頃この先生から受けた薫陶が教会の学びとして深く残っている。 イエスは座って教えた、とある。内容が記されていないのが不思議である。 教えを聞いていた律法学者やファリサイ人たちはイエスを試そうとした。 しかし、イエスは身を屈めて何かを書いておられた。このポーズは何を示すのか。じっとしている人の中身が問題である。 私たちは一般に罪ある人を捜す。主イエスは罪のない人を探している。「罪のない人は…」。 そして暫くして、引き出された女の人に「あの人たちはどこに?」と尋ねられた。 そして一人残った女の人に、「わたしもあなたを罪に定めない。…もう罪を犯してはならない」と語る。 世の中傷や干渉ではない。世界の創造者である神がそう言われるのである。罪ある人を徹底して追求したい人間に対して、神は追求をしない方であることを知らされる。 イエスが「罰しない…」と語られた負い目を自らのものとされたのであった。(文責 阪井)

4月10日 想像する力

ヨハネの黙示録 6章1節〜11節 阪井牧師

 フィクションでありながら読み、聞き、観る者の心を動かし、深い感動を与えることがある。 信仰の世界にあっても不思議はない。黙示録の記事は読む者に深い慰めだけでなく、力強い励ましと困難の中に耐えていく力を与えるものであったに違いない。 そこにある恵みの言葉を、今日の私たちにも恵みとなるよう受け止めたい。 この言葉は礼拝を通して書き送られ、礼拝の中で読まれたものであることを確認する。 それは、封印を解く者がユダ族から出た、ダビデのひこばえで、屠られた子羊と言われる方、主イエスを通して読まれることを示す。 主イエスを介さないで、礼拝から外れたところで読まれる時、巻物の真実は失われることを示している。 この手紙が書かれた時代は今日の状況と似たところを想う。何が本当に正しいのか。いま世界はどうなっていくのか。 自分はどのようにあるべきか。金融政策から来る生活不安、行政不信、社会保障の曖昧さなどに加えて、人心の不安定が人間関係を壊している。自然秩序までが怪しい。 キリスト教信仰に生きようとする者の希望が揺らいで見える中に、封印が解かれ語られていることは何か。 神の居られない闇のような世界であっても、神の裁きの霊は臨んでおられる。 やがてそこに新しい神支配の新しい時代が始まることを示している。 人はその労苦に理由を知りたくなる。神の計画がそこに行われていることを知らされる。神がその時を計っておられる、と。 用いられている信頼を保ちたい。

4月3日 主がお入り用です

ヨハネによる福音書 4章39節〜42節 阪井牧師

一切の恐れは自分の存在が無くなることに由来する。 最も大きく、誰もが引き受けなければならない死がそれである。 主イエスは死を乗り越え、復活して私たちに出会って下さる。 ここに私たちの今日を生きる力がある。これが信仰の証しである。 主イエスに出会った一人のサマリア人女性の話がある。 男尊女卑の世界で、ユダヤ人から蔑視された時代のサマリア人女性が、 人目を避けるかのような時間帯に水を汲みに来たその井戸辺でのこと。 近いほど溝が深いユダヤ人とサマリア人の現実を身に負った驚きの出会い。 ユダからガリラヤへ帰る道、人が避けるサマリアを主イエスは通り休息を取ったために起こった。 真実な出会いが不自由さの中にあるとも言えよう。 当然強制される筈の関係なのに、意志を求められた女性は、世界がひっくり返るほど驚いた。 教会の有り様を示している、と受け取る。力、地位、評価をもって教会は自分を世に示すのではない。 相手に力と奉仕を求めるところに出会いをする。 心を閉ざし、敵愾心に固まった人が、主イエスと出会う中で自ら心開き、求めの姿に変えられている。 人を多く集めることに伝道の秘訣があるのではない。ひとり一人が主イエスに出会う機会を提供するのである。 合理と有効性の世界に、不合理と無駄を甘んじる教会を想う。 この女性は自らの非に臆せず、町の人々に出会いを語った。主に用いられることに通じる。 私たちを主が入り用とされる光栄に仕えたい。

3月27日 主のいのちを生きる

マルコによる福音書 16章1節〜8節 阪井牧師

 イースターの時は教会の存在の根拠やその使命を問う機会である。 私たちの教会は、同時にすでに地上の生活を終えて主のもとに帰った方々を覚え記念し、 さらに私たち自身を問い、励ましと力を受ける機会にする。教会の誕生の記念はペンテコステであるが、 聖霊の力を受けた弟子たちは、主イエスの復活の証人として語ったのである。 教会の誕生の根拠はこの復活の出来事(死からの甦り)にすべてがかかっている。 これは人間の理解や説明できることではない。マルコ福音書の16章は本来8節までであったと言われる。 イエス・キリストの生涯の記録である福音書の最後に当たる箇所、3人の婦人たちが墓に来て、 この出来事に最初に接した記事は「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。 そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」とある。 受け入れがたい事実がそこに語られている。人間の考えられる事柄ではない。 これをどのようにか説明しても納得しうるものではないからこそ震え上がったに違いない。 神が人間の世界に働きかけたことは、私たちの理性によって受け止められる筈がない。 まことに恐ろしいとしか説明できない。神の働きがないければ受け入れられることではない。 受胎告知のマリア、このマリアを受け入れるヨセフの心情を、聖書は「聖霊によって」としている。 信仰は辿り着くのでなく、与えられるのだと言う根拠を知らされる。 ここに主のいのちがあることを知る。

3月20日 深き淵より

詩編 130篇1節〜8節 佐藤菊男先生

 詩編は祈祷書(das Gebetbuch)とも言う。 本来旧約聖書の中に含まれている書がどんな意味で祈祷書なのか。詩編の他に「祈りの学校」はない。 (1)祈りとは何か(2)何を祈るべきか(3)私個人の祈りが教会の祈りにどのように高められるか、を学ぶ。 祈りの学校は全体を1つの光として、キリストと関係づけることによってダビデの祈りがキリストの祈りとなり私たちの祈りとなる。 ルターは、詩編を祈る人は悲惨と試練の中にあっても健全であり、幸いなる者と言っている。 神が語るままに聞き、神が人となり、人から神への道、キリストが道そのものであることを示している。 栄光の主を仰ぐのはどういうところからか。「深い淵から」と言う。主の名を呼ぶ私たちはどこにいるのか。 どこからであるかを知っているだろうか。深い淵とはどんな状況、どんな現場であるのか。 それは素直に祈れない時があり、祈りにならない状況があろう。 しかし、神の言葉は深く染み込んで、その人の深みに浸透していくのである。主にはいつくしみがある。 豊かな贖いは主のもとにある。主はやさしく暖かい祈りを祈ってくださっている。 キリストの祈りは私たちのために祈り、とりなしとなってて下さっている。 私たちの祈りが聞かれている幸いを喜びたい。      (文責 阪井)

3月13日 泣くな、見よ!

ヨハネの黙示録 5章1節〜14節 阪井牧師

 小さなことにも神のみこころが働いていると受け取ることのできる人は、 人としての成長を神に託していると言えるし、困難は今の意味を確認する機会、真実に触れる機会となろう。 黙示録の表現は理解に困難なハードルをもつ。ローマの支配が物理的だけでなく精神の世界に及ぼうとしている。 皇帝を神として礼拝させられることは神の民の存在に関わる。 その現実の中で礼拝し、そこから生まれた手紙、礼拝で読まれる手紙であった。 礼拝を離れたところで扱われるなら真実は歪められる。玉座に座っておられる方の右の手に巻物(=聖書)があり、 どのような人間の力や知恵でも、またどんな経験を持つ者でも、宗教的に長けた人でも、その封印を開くことは出来なくて泣いた。 分かりやすく納得のいく説明が、どんなにできたとしても神の福音から離れていることがあると知らされる。 その時「泣くな、見よ!」の声が届いた。 ダビデのひこばえ(刈られた根株から出る芽)若枝、ユダ族の獅子だけがその封印を開くことができるとある。 主イエス・キリストである。この方の霊を受けた人は聖書を通して示される真実を受け取ることができる。 これが信仰の奥義である。誰にでもできることではないが、しかし、誰にも神は霊をもって臨んでいて下さるのである。 たとえ弱く低く貧しく見えていても、自分で生きているはずが実は生かされているように、霊の力は人間の説明の領域を越えて働いている。 真に自分に泣く者は共に主を讃美しよう。

3月6日 主の鍛錬は尊い

箴言 13章1節〜25節 阪井牧師

 誰もが成長を願う。課題はどこに向かっているかである。 比較がその目標を作るなら不幸である。神に向かうべく創られている、と創世記は告白する。 イスラエルの歴史と信仰の告白がそこにある。出エジプトの物語は今日の私たちに示唆深い。 本能的な食(金やもの)を中心にするか、それとも魂(神の語りかけ)の事柄とするかが現代的な課題に思える。 「諭し」はこの判断の根拠にする知恵を示している。40年の放浪生活は意味があった。 長年のエジプト生活はその生活の深みに染み込んでいるものがあるはず。 それを拭い去るために必要な期間であったと受け取ることができよう。 あるいは真の神の民にはその準備(鍛錬)が必要であったと見る。 人は意に反してその環境や状況に打ち負かされる。 神の知恵がその人の中に働くには、命の息が吹き入れられなければならない。 力が尽きてしまう限界の極みに、神が働いて下さると信頼をする知恵が諭しから得ることができる。 主イエスの誕生、人の世界に来て下さった事実に信頼する知恵を持ちたい。 主の鍛錬は私たちにとって優しくい心地の良いものではない。 砂漠や荒れ野を40年さ迷い、鍛えられて約束の地に入っていったイスラエル(神の民)の歩みは意味深い。 「わたしは道であり、真理であり、命である」と語られた主イエスの言葉が私たちの生きる力や希望となるまでに、主イエスを信頼し、 その言葉に自らを委ねる私たちの鍛錬とは、今何なのでしょうか。

2月27日 開かれた門

ヨハネの黙示録 4章1節〜11節 阪井牧師

 主の霊を受けるとはどういうことか。超人的になることか。心地よい恍惚の境地に入ることか。全く変化がないのか。 これは霊に満たされて書かれた手紙である。主イエスの死に力を失った弟子たちは、霊を受けて人々に語った。 それに接した人々は驚きまた戸惑い、ある者は酔っていると嘲った。 ファリサイ派の議員のニコデモは、主イエスから「新たに生まれる」ことは「水と霊による」ことだと示された。 創世記の人が創られる時、「いのちの息を鼻に吹き入れた」と。息は霊と同じ言葉である。霊を受けるとは、神の前を生きることであろう。 現象をして考える時真実を誤る。霊は神の語りかけでもある。雷鳴や閃光または目から鱗と表現してそれを受けている。 同じ言葉や状況でも全く違って聞こえ、受け取り方が違う。周囲に同意を求めることの出来る類と違う。 「門が開かれている」のは招きを受けているしるしである。霊を受けて、主と共に生きる者は、内側にあって主がまぶしく輝いておられることを証しする。 幼い子どもが自分の親の大きさ、すばらしさ、優しさ、豊かさを誇らしげに語るのを想起する。 人々が避け、嫌う困難さや厳しさを十字架の重みにして受け取る力がそこに現れる。 それらに取り囲まれながら、聖書を読み聖書の言葉で慰めを得、耐えていく力や励ましを受けていく。 周りの人は「それほどまでに」と思う。神の言葉を聞き従うこと、主イエスと共に歩むことは、決して安易ではない。主の助けが要る。

2月20日 愛と忍耐のために

ヨハネの黙示録 2章1節〜7節 佐藤菊男先生

 辻邦生のエッセイ「生きて愛するために」の中に、 自分がフランスに住みながら森と草原のロシアを、 そしてロシア正教会を訪ねてみたかった書いている。 荘厳なミサ、信徒が堂内を埋め尽くし、 熱心な信者が多くいたのを知って良かったとトルストイやツルゲーネフも書いていると。 また自分が高1の時、学校の先生に紹介されて初めて行った教会はロシア正教会であった。 その時の経験からも、人数は少ないが確かに熱心な人がいた。 40年を経た歩みの後でも、教会に集まっていた人々の熱心は忘れられない。 教会には何が要るのだろうか。この手紙を通して宛先のエフェソの教会は何を読み、 何を汲んだであろうか。迫害のさ中、 様々の困難な状況にある教会に向けて間違いを正す内容を私たちはどう読むべきだろうか。 (1)小さい光をやっとともしていることを励まし、力を与えようというのでなく、 行いと労苦と忍耐を知っている方が来ること。その方は主イエスであると。 (2)教会の人は、自分だけを正しく、他の人は間違っているとする偏屈な人に見る。 だが神こそが裁く方である。(3)自分でさえ自分のことを知らないのに、 自分のことを知っておられる方がいる。信仰と希望と愛を神は知っておられる方である。 信仰はその方から与えられるものである。たとえ気まぐれで小さく貧しい者であっても、 神が良しとして下さることを示している。 悔い改めに主ご自身が代わって下さることを示していると。 (文責 阪井)

2月13日 いのちへの道

箴言 12章1節〜28節 阪井牧師

 庭のナンテンが赤い実をつける時である。秋の彩りを美しくしていた銀杏(イチョウ)は今や枯れ木に見える。 これらの見えない地下の根っこは特徴的であることを経験的に知った。 南天は一定の深さで広く根を広げ、銀杏は地中深くその木の高さと同じ位長い。 箴言の「諭し」は日常生活の根っこに当たると想わされた。地上の知恵や知識は見える部分である。 見えない部分を傷つけたり、ないがしろにすると想わぬ被害にさらされることになる。 ではその根っこは何か?「神に従う」に辿り着くように思う。どんな人も故意に神に逆らうのではない。 神に向かっているつもりで逆らうことになっている。ファリサイや律法学者の人たちがそうであった。 あのパウロの告白(使途9章、フィリピ3章参照)がそのことを示している。積み重ねてきた人生経験や世の知恵は大切である。 積み上げるほどに捨てがたい。しかし、「神に従う」の「根っこ」はそれから解放されることである。 主イエスをキリスト(私の救い主)とする。それは神を畏れること、神に委ねること、み心を受けることに通じる。 神がこの世の最も低いところに下られた。十字架への道、最低の惨めさに甘んじることが父なる神のみ心として受け止められたのが主イエス・キリストである。 この十字架の前に立ってなお自分の貴重な体験や世の知恵(地上の姿)にこだわるだろうか。便利さ生活の安定、科学や医療の技術は地上の事柄であろう。 いのちは神に向かっている。その道がイエスである。

2月6日 食卓に迎えたい

ヨハネの黙示録 3章14節〜22節 阪井牧師

 宛先ラオディキアの教会は、パトモス島のヨハネから送られた手紙の7番目に当たる。 1章17節の記事にその始まりがあり、一つの伝道圏を示すかのようになっている。 エーゲ海の小アジア側の港町であるエフェソから上側半円のかたちになっているそれぞれの宛先で直径約150km東に位置する所にこのラオディキアがある。 商業と貿易に大いに栄えたその地方で最も豊かな町であったと伝えられる。金融の発達、ラオディキアの織物は「黒い織物」と呼ばれ、また医学校や医薬とくに目薬の生産で有名な町であった。 そこにキリストの群れがあった。その人たちに向けた手紙の内容は町の特徴をよく示している。 豊かで不自由を知らないその人たちに「あなたがたは惨め、哀れ、貧しい、目の見えない、裸だ」と言う。 「冷たくも熱くもない、むしろ冷たいが熱いかどちらかであって欲しい」とはどういうことか。 由緒あるユダヤ人の血筋、ファリサイ派の律法学者、生まれながらのローマ市民権所持者のパウロがローマ7章24節に「自分はなんと惨めな人間だろう…」と告白している。 神の前に立つ自分の真実の姿をそのように現したのである。なんとか神の愛に応えたいと願うのに、そうならない自分を認めるのである。 私たちも同様である。自分で何とかなると思いこんでいるが事実は違う。キリストがとの外に立って戸を叩いて開けることを求めてくださっている。 開く呼び掛けに応えたい。食卓に着いて戴きたい。主イエスが祝福をしてくださる食事をしたい。

1月30日 眼差しと口の知恵

箴言 10章1節〜32節 阪井牧師

 知恵を重んじ、神を畏れることを学ぶ箴言のテーマがある。 神を畏れない者は、その人生がなんたるかを知らない愚かなる者であり、生きることの喜びを知らず、日々の生活に希望を見いだせない。 そこで神との関わりにおいて生活の知恵を学び、生きる力と糧を得たい。 32節の中に16回口、唇、舌など言葉に関する語がある。言葉の大事さを想う。神との関わりで口や舌に拘る旧約の物語がある。 モーセが神に召される場面がそれである。本来奴隷の身分ながら、王宮という最高の環境に生活をし、40歳になって正義を目指した。 社会全体や組織を変えることよりも、目前の苦しみ痛むヘブルの同胞に役立とうとしたに過ぎない。 精一杯の努力はマイナスに働き、荒野に身を置くこと40年。そのモーセに神が声を掛けて召し出した。 生活の安定を理由に断るのではない。己を知る者となってか自分の口、舌が重いと言う。神は乗り越える一切を与えてエジプトに向かわせた。 納得の説明がない。信仰に生きるとはこういうことかと想う。神に愛されるとも言えよう。神が必要とされたのである。 自分の人生経験によって得た知恵を持ち出すと神に抵抗対立することになる。 最後の晩餐でのペトロの言葉がしかり、祭司長カヤファの官邸庭での言葉がそうである。その時イエスはすでに祈りをされていた(ルカ22章)。「立ち直ったら…」と語られていた。強い拒絶のペトロへのまなざしがある。主イエスと共にある生活を喜び営みたい。

1月23日 沈黙するな!

ヨハネの黙示録 3章7節〜13節 阪井牧師

 七つの教会に送られた手紙の6番目がこのフィラデルフィアにある教会への手紙である。 これを除いた他の6つの手紙にはその教会が直面している現実を認めながら、「なお言うべきことがある」と警告や勧告が告げられている。 なぜこのフィラデルフィアにある教会への手紙にはそれがないのか。 その根拠と想われる言葉は8節の中の「…あなたは力が弱かったが、私の言葉を守り、私の名を知らないと言わなかった…」  と考えた。それは攻撃を迎え撃ったと言うのでもなく、主イエスの言葉に留まり続けたことにあろう。 そこにある「守る」とは、自分の拠り所として主イエスの言葉に必死になってしがみついたことを意味している。 この方に依ってしか私の生きる力はないことを示したのでしょう。これが教会の持っている真実だったといえましょう。その時代の人々に向かって闘っている教会の姿です。 世が持っている富み、力、豊かさではなく、キリストに愛され、キリストに足を洗われた者として、兄弟の足を洗い、仕えることを私の生きる喜びであり、望みであるその弱さが受け止められているのでしょう。 主イエス・キリストによって示された神の愛は、世の人々が求める力や不思 議さやめざましい事柄の中ではないことを私たちは知っている。むしろ究極の弱さの しるしとなる十字架、貧しさを通してまことの強さと豊かさを示し、他者を生かす福音の奥義を受けたのです。弱さは主イエスと共にあって強さに変えられている。

1月16日 分別の道を進むため

箴言 9章1節〜18節 阪井牧師

 13歳で成人の祝いをする正統的ユダヤ教徒と称する人たちがいる。 神の民の自覚と責任を喜ぶ儀式である(バルミツバ)。 成人や大人は忍耐と受容の力を持つことが特徴。自分の主張を抑え、自分を捨てるとも言える。自分に拘らない姿をアブラハムの旅立ちに見る。 魂の自由、生きる喜びを求めることは生活の不自由を引き受ける力がつくことでもある。神との出会いに備えることでもある。荒野はまさにそのようなところ。 易しくはないが惨めでもない。その道を選ぶことは身内には愚かしい決断に違いない。 旧約の物語に登場するモーセは40歳まで王宮に暮らし、そこを出て神の民ヘブル人として生きる道を選んだ。 王から命を狙われ、国外逃亡をして荒野の生活、羊飼いとなった。自分の主張、他者からの理解を得られる道があっても、神の御心を第一とする選びをした時、経験する魂の喜びは豊かな環境や境遇の中にはない生きる充実感がある。 そこでの厳しさや貧しさは魂を損なうことにはならない。「自分を死ぬことが出来ないで信仰の喜びは生まれてこない」という人がいる。大事なことは、自分に厳しくあるかどうかではない。神の知恵を求め、神を愛し、神を畏れることを第一にすることを示唆している。 心の鍵を主に託し、主イエスに主人となって戴くことである。エマオでパンを割いた方がイエスと分かった弟子たちは、自分を主人に託したことを示している。神に責任を持っていただく生き方を選び歩みたい。

1月9日 主が私のうちに

コリント信徒への手紙 2章15節〜21節 阪井牧師

 贋ものは本物として扱われることを求める。神の民としてイスラエルは選びを受けた。本物は選びの心を知る。そしてその心に応える。 果たしてイスラエルは?選びのしるし律法を持っていることが大切か、それとも行うことか。いうまでもない。狭間で苦しんだパウロは行動に出た。 キリストの群・教会を迫害して、信仰者を追いつめようとした。契約の神に向って姿勢を直そうとした。 神に向かって本物を生きようとしたパウロが真剣であっただけに周囲は先のように大変な迷惑をこうむった。 人は神の前に正しく生きようとする時(神の前に義とされることを求めること)、かえって正しくない生き方をする、とパウロは懐述した(ローマ7章24節)。 神の民(本物)になろうとすることが、神のみ心を離れていくことになる。「わたしはなんという惨めな人間なのだろう。誰がこの死のからだからわたしを救ってくれるだろうか」の呻きは深い。 神の民の「しるし」として与えられた「律法」を行おうとすることによって、ますます罪の自覚が生じるだけ(ローマ3章20節)であるとの結論にいたるのは、 それだけ真剣に生きていたことを示しています。自らを磨くことはどんなに大切であっても神の民の本物は神に依る、主イエスに依るほかはない。 「主イエスに繋がること」と「主イエスが私のうちに生きる」ことの違いを受け止めておきたい。 日常で一人の人を愛するとは自力では限界がある。主イエスの十字架が私の死となるところに新しい命がいきるのです。

1月2日 イエスの中に生きる

ヨハネによる福音書 16章25節〜33節 阪井牧師

 年末年始のけじめが無くなってきた感がある。365日のある一日に過ぎない。 戯れ言歌「元旦や……めでたくもあり、めでたくも…」言葉そのままである。 改まる年とは一年の一切を清算して新しく歩み出すことを意味した。 このけじめは人生の生と死にも通じているのではないかを考える。人間の最大関心事であった人の生涯が問題意識から遠のいていく。 若者は言う。否、大人が平気で口に出す言葉となってきているのが「子どもをつくる」「子どもをおろす」はその傾向を示しているように思う。 そんな社会で「福祉」とか「ボランティア」が注目されていることに違和感を感じている。 けじめが失われているかのような社会に向かって教会は、今年どのように歩むのかを考えざるを得ない。 主イエスは、新しい召しに答えて歩もうとする弟子たちを前に、自分の死を意識した言葉、自分の存在を賭けて語っておられるこの箇所の言葉を、 新年の歩みをする私たちは精一杯の聞き耳を立てて聞きたい。 それは「私の名によって求めること」で、祈りの結びになっている言葉の聖書的根拠の1つである。もはや取り次ぎや執り成しを経なくても、 ダイレクトに祈ることができる。主イエスの名、主イエスの存在を賭けた「祈りの道」が設けられた。 私たちは自分を賭けて祈っているかを問われよう。主イエスの中にわたしが、そ存在を賭けて生きているかをこの箇所から問われ、励ましを与えられたい。 主イエスから離れない生き方を求めて。


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口語訳聖書: (c)日本聖書協会 Japan Bible Society, Tokyo 1954,1955
新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
       (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988


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