日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月31日 ただ主に仕えよ

マタイによる福音書 4章1節〜14節 阪井牧師

 能力のありすぎることが理由に採用から外すされることがある。何のための採用試験かと考えることがある。能力のない人との共同作業が困難との理由に驚く。しかし主イエスにもそのことが言える。 神の子が人になった(クリスマス)のである。そのイエスが、ヨハネから悔い改めのバプテスマを受けた。全ての人が罪の悔い改めを表すものであった。 これは、(1)ヨハネの正しさを保証することであり、(2)全ての人と同じ位置に立たれたと受取ることができる。ここから「神の国宣教」の業に入る。その祭、全ての人が試される根源的誘惑に立ち向ったのが「荒野の誘惑」である。 徹底して人の歩みを自らのものとされた。罪と汚れの誘惑を受けることが、全ての人の救いに繋がる。荒野は人の存在を脅かすところ。神の前に出る処でもある。そして神の意に逆らう悪魔との対決の場所でもある。試みの厳しさは40の数字にみることができる。 旧約の物語(モーセ、エリヤ)に、また新約聖書(使途言行録12章8節)は「主の御心に向き合うとき」と言う。第一は食の誘惑。人間の急所。イエスは神の口から出る言葉が人を生かすと応じた。信仰は生活の余裕ではない。 第二は宗教的環境と手法。悪魔の用いる最高の誘惑に対し、「主を試みるな!」と応じ、第三は世の関心事の経済、権力、世評である。 「ただ主に仕えよ」が決定的な力であることを示された。試練や困難が主の御心に仕えることでもあることを想う。霊に導かれて語りかけを聞くことが求められる。

12月24日 新しい座標軸

イザヤ書 49章7節〜13節/ルカによる福音書 2章21節〜40節 阪井牧師

 これでもか!と言わんばかりの装飾が、住宅地から繁華街へと逆流をしているように思える。発行ダイオードに負うところが大きいのか。 一方教会は、ローソクを変わりなく使い続けている。知らない中に、あの輝かしい街中の光景こそがクリスマスと思うことが起こる。 学校は楽しいところ、家庭は寂しさを味わうところ、社会は人間の存在を脅かすところ、となりかねない。従来の判断基準では間に合わない現実が目の前にある。 イザヤ書の49章は、そのようなブレを正す。神が選び、恵みを持って臨まれる、と。その状況はどんなに厳しくても、神がみ業を行われる。バビロン捕囚が解かれ、喜び歌い踊る時が約束されている。ルカ福音書には、その成就を見る人が現われた。 シメオンなる老人は、ユダヤの律法に従い神殿に詣でたイエスと出会い、神の民の誉れを見た、と感謝した。何処に向かい、どう歩いて良いか分からない人に、新しい軸がこの方にあることを示している。 歪んだり傾いている軸を正されるのは、ユダヤ人だけではない。もう一人の老いてなお神に、昼も夜も仕える女性アンナは、その出会いによって神を讃美し、待ち望んでいた人々に、この方こそそのひとであると語り出した。 人の口、生活の習い、それらの一切を支えていたものが、今や、主イエス・キリストの到来によって新しくなった、と。 揺れやブレを正すのは、すべてこの方主イエスにあることを知る。闇を照らす光の出来事、クリスマスを祝いましょう。

12月17日 み手にある未来

マタイによる福音書 3章13節〜17節 阪井牧師

 自粛、自己責任、もったいない、使い捨て、などの言葉が去来している。 使い捨ては芸人世界にもその傾向をみる。かつては、前座、二つめ、そして真打ちが高座にあがった。 今その秩序が不明。主イエスはメシヤ・真打ちとして登場し、他の一切は高座から下がる。彼らの勤めは、真打ち登場までの時間の間を繋ぐのであった。だが、主イエスは思いがけないものである。真打ちが前座を引き立てる。 前座ヨハネは戸惑って「私こそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに…」と訴えている。人々に悔い改めを説くと同時に、自分の悔い改めを自覚している、と見る。 これに、主イエスは「今は止めないで欲しい。正しいことをすべで行うのは、我々に相応しいことです」と応えている。常識の正しさと異なる、神の正しさを想う。 ヨハネの正しさに、主イエスが加わることによって、神の正しさとされる。主の道備えが真実になるには、主が来られるからである。主がヨハネからバプテスマを受けることがそれである。 私どもの信仰の正しさは、主が私に関わってくださることにあるようだ。私どもの誠実さ。生き方や人生は、主イエスが関わり、保証となることによって神の前によしとされる。力みでも強がりでもなく、不安やおそれを越える事ができる。 神の道具になることは、自分の正しさを神の前に差し出すことであり、自らのものを撤去して、メシアと仰ぐイエスをバプテスマして道備えの務め果たす者とされることになる。

12月10日 聖霊による方

イザヤ書 61章1節〜4節 阪井牧師

 生活の暦には二つがある。イエス・キリストを中心に前(紀元前=B.C.)と後(紀元後=A.D.)に分ける西暦と天皇即位交代で分ける元号とがある。 どちらを使っていますか?主イエスより約700年位前、イザヤという預言者が活躍し、イスラエルは神の民として如何にあるべきかを語り、示した。 その働きにあやかって記録したとの理解でイザヤ書を3区分する。イザヤ本人のものを第1イザヤ(1節〜39節)、第2イザヤ(40節〜55節)はバビロンからの帰還者、そして帰還後を第3イザヤである。 この間約300年間である。新約聖書にも引用されている。主イエスが会堂で読んだのはイザヤ書のこの箇所(61章1節以下)であった(ルカ4章6節)ことが分かる。 喜び帰還したが、神殿や都が心から喜べる状態ではない。人の臭みが染み込み、根を張っている。信仰が萎え、暗闇状態にある人々に、慰めと励ましを語る人(第3イザヤ)の紹介と証しである。 「主に油を注がれた者=キリスト」であり、神の霊が私を捉えている、と。メシアの使命は、(1)貧しい人々に良い知らせ(福音)を伝える (2)生きる希望を見いだせず、世のものに心悩ませる人に自由と解放を告知 (3)躓き悔い泣く者に喜びの香油と讃美を与える、でした。 また「主が恵みを与える」の約束は、一切の負債を主が精算してくださ時がくる、です。今、このような方が聖霊によって来られる。この方によって、私どもが新たに使命を受ける。主の霊を受けて、私ども自身が油注がれた者(キリスト)となって遣わされるのです。その時を待つのです。

12月3日 こんな石ころから?

マタイによる福音書 3章1節〜12節 阪井牧師

 祭司ザカリアの子ヨハネが、荒れ野で「悔い改めのバプテスマ」を宣べ伝えたのはローマ皇帝ティベリウスの治世第15年(ルカ3章1節)とある。 A.D. 27,8年頃になる。さらに主イエスがヨハネからバプテスマを受けて、宣教を始められたのが30才くらい(ルカ3章23節)であった記事と合致する。 ヨハネは荒れ野を舞台にしている。そこは、人が神と向き合うところ、自分の生きることを問う場所でもある。誘惑は、神に向かう心を、そこから引き離す力の働きである。 荒れ野はその悪魔の活躍の場でもある。主イエスの荒れ野の誘惑は、私どもの誘惑をその身に受けられたことを示す。その後、「悔い改めよ。天の国は近づいた(マタイ4章17節)」との宣教が始まっている。これは、ヨハネの荒れ野で宣べ伝えた言葉と全く同じ。 しかし、ヨハネはイザヤの預言を成就する者で、荒れ野で叫ぶ声、主の道備えの務めを果たす者である。「彼は光ではなく、光について証しをするために来た(ヨハネ1章8節)」とも語られている。 このヨハネが語った言葉が「神はこんな石ころからでも、アブラハムを造り出すことがおできになる」とはどういうことなのか。それは地位、知識、経済力、人間の持てるあらゆる能力の否定である。 それは、神を否定する誘惑にもなる。となると、私どもにどういうことになるか。神が働いて私どもを宣教の使命に立たせてくださることにならないか。石ころであってよいことを感謝して生きたい。降誕直前に受けるメッセージに感謝しよう。

11月26日 ためらいの心

雅歌 1章1節〜7節 阪井牧師

 心浮かれ、落ち着きを失う心境を表現する雅歌の学びをする。若い男女の恋歌が教会の礼拝に聖書として用いられることの奇異に驚く。 古きユダヤの恋歌が神と民の関係を表すとした寛容さはどうだろうか。そこで、歌に冠をつけた。「ソロモンの歌」と。法はモーセ、詩編はダビデ、知恵文学はソロモンと受け取る人もある。 今、私たちは神と私たちの関係を表すと読もうと思う。キリストとキリストの花嫁(教会)とも読める。人は「神のかたち」に似せていのちを生きる者とされたが、心と身体を使い分ける生き方を手に入れて、生活の知恵を用いる。 心なくても身体はそのように見せうるところに、罪の根源がある。社会秩序の混乱をその分離用法にあると見ることができる。子どもは大人のその知恵を身につけて、社会へ進出する。如何に旨く駆使するかにその将来がかかる、かのように思って。 神に創られた人としてのバランスに挑戦する。神を愛する事柄が人の手の中に自由になるかのよう。罪がここにある。イエス・キリストの出来事が、そのことに深く関わっていることを知る者は、感謝から相手を敬う深さの違いとなってくる。 「あの方」は次には「あなた」となり、ブドウ酒に勝る香りを放つ方と言う。視覚、聴覚に勝る深い感情表現に味覚を用いるユダヤの生活がこの歌にある。 この交わりにある者は、酒にない深い慰め、癒し、そして生きる希望を与えられることを知っている。真実な愛から反れる「ためらいの心」を封じたい。

11月19日 親父の決断

マタイによる福音書 2章13節〜23節 阪井牧師

 為政者にとって運命的課題は、民の心を引きつけ、思うに任せて動かすことであろう。 しかし、人の心は思うに任せないのが世の常でもある。そのことをご存じであるはずの主イエスは「敵を愛せよ」、「迫害する者のために祈れ」(山上の説教)との言葉を残されている。 私たちには受け容れがたい求めである。どういう事か。神が働いてくださらなければ、との言葉を挟みたい。知恵を働かせて、こう処理する人もいる。 気に入ったものや都合の良い言葉は聞く。しかし、不都合や難しいことは見ず、聞かずに処していく。従いきれないで苦しむ教会の人はその意味で鈍や愚となる。 さて、聖書の言葉の「神はこの世の知恵を愚かにされた(Tコリント1章20節)」をどう読みますか。「キリストを知ることによって、益と思われていたものを損と思うようになった(フィリピ3章4節)はどうか。神が人の世界に働かれるとき、人間のなにものも邪魔でしかなかった。 系図然り、ヨセフの正しさ然りであった。ヘロデは幼子の命を殺める力に走った。神の言葉に従うことは、いのちを保つことだった、とマタイは語る。 ヨセフが親父として決断したのは、神の言葉に徹底して従うことであったのは、世の知恵に逆らう行為であった。国外に避難逃亡、その後はユダの地から離れ、「何の良いものが出ようか」と評される北の小村ナザレで生活をすることであった。 教会の決断がこのヨセフに似て主の語られる言葉に何処までも従う親父の決断をしていきたいと願う。

11月12日 聞くに早く、話すに遅く

ヤコブの手紙 1章19節〜21節 佐々木敏郎先生

 「なくてななくせ」笠晋太郎の、幼稚園児の話は現代的上昇志向を示唆する。弱者病者や老齢者には希望が持てず、疲れて心を病む人の自殺が増加している。 モノが多くても、人の命は支えきれないことを見る。人生が生きるに価値があるか、否かの判断が哲学(カミュ)である、との言葉や聖書(アモス)は、主の言葉を聞くことの飢饉を預言したことを想う。 戦後、胃袋の時代から、よじ登り、しがみついて経済成長をした。そして生きる意味を発見する心の時代と言われている現代は、教育問題が主流になってきた。 かつて小学校の学級崩壊は、いま3歳児に問題が現われている。聞く力がない。自分の価値を、「愛される」ということによって身につけることができないために起きている。 人間の関係の基本である「信頼」は、本当に愛されることの経験から生まれるとすると、督促、禁止の命令からは育たない。 人の価値が見失われる傾向にある現代の子育てが問われている。これが現代の教育問題である。 「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し あなたの身代わりとして人を与え 国々をあなたの魂の代わりとする(イザヤ43章4節)」との聖書の言葉は重い。 人は全て、神からの使命を受けており、存在と意味を持つことを告げている。自己主張(語る)の強い時代を風刺したエンデの「モモ」は、風変わりだが人の話を聞く特徴の少女の話である。人間にとって大切なことは聞くことに早く、話すことに遅くあることだと言える。(文責阪井)

11月5日 心に留めよ

コヘレトの言葉 12章1節〜14節 阪井牧師

 広大な自然の中に一人立つとき、人は神に向かい合う。神の創造の業に対する驚きと感動そして生きる力を得る言葉(詩編8章4節)を信仰の表現として読める。 親が我が子の一切を引き受ける関係を、神の中に見ている。メンツや体裁を取り払って、素の自分になるとき、心に空しさはない。神に自分を託して、神に生きる姿が眩しい。 人として生きる意味と価値をそこに持つからである。ただし、聖書はそれが若い日であることの重要さを示している。確かに聖書の神と出会って、明治期の日本の精神史に名を残している人物がいる。 内村鑑三や新渡戸稲造は札幌農学校で大きい影響を受けている。おそらく10代であったろう。現代という状況の中で、後ろ向き(過去)に座ってその状況を乗り切ろうとする愚か者はいないと思いたい。 それが「若い日」の持つ意味である。年を重ねて自分の経験と知識が重くなると、選びや決断はそれに基づかざるを得なくなる。 まさかそれが後ろ向きの生き方とは思いも依らない。しかし、聖書は「自分の生きることに喜びがない」と言うことが起きると見ている。 高齢者と生活を身近にすることから知る。身体の動かないことより、それを引き受ける心の葛藤が大きい、と。外観で思うに任せない不自由さもある。 それ以上に生きることの喜びを持てない悲しさを想う。教会の伝道の使命は、組織の拡張でもなければ多人数を求めるのでもない。人が生きる喜びを知るために遣わされることであろう。次週を覚えて。

10月29日 恵まれる とは?

マタイによる福音書 1章18節〜25節 阪井牧師

 系図の意味するものは、その歴史と血の繋がりによって自分の確認をすることの筈が、イエスの系図はその繋がりがないことを示すことになっている。 神の救いは、ダビデの家系からメシア到来する(サムエル記下7章12節13節)との期待に対して何が起こったかを語る。 つまり、人間の世界に神が立ち入る(クリスマス)ことがどのようになされたか。神が時を選び、期待に応えられた事実は、人に躓きであった。マルコによる福音書6章に、イエスが故郷で教えを話されたが、人々は教えには驚きながら、イエスに躓いたことを記している。 そこにはイエスを「マリアの子」と人々が呼んでいる。もし、父親が死んでいても「ヨセフの子」と呼ぶべき社会のことを想うと異常であったことを考えさせられる。ヨセフはその不条理を一身に受けようとする記事は、何を示されるか。 自分の依って立つ歴史や伝統または積み重ねた人生が意味を持たないことを示している。人のがんばり一切が不要である。マタイの福音書の記事は、神が人の世界に立ち入るということを躓きとして語る。 どうヨセフは対処したか。正しさを選ぼうとした。それは、神の恵みを退ける、み心の行われることを妨げることになる。たとえ、世の常識や人の優しさ、憐れみ深さであってもである。そこに夢が問題になっている。旧約のヨセフ物語もそうでした。 「主が共におられた」そのことが窮地を耐え抜く力であった。これがイザヤの預言成就(7章14節)、「民を罪から救う」の意味の名がイエスであると。恵みを正視したい。

10月22日 後にあなたは得る

コヘレトの言葉 11章1節〜10節 阪井牧師

 キリスト教の重要な徳目に「寛容」たは「赦し」があります。徳目とは、道徳の一つですから、人としての内面のきまりでもあります。すると「寛容」または「赦し」は信仰の事柄になりますか? この教会に関係する学校の一つ、関東学院には建学の精神を象徴する言葉、「人になれ、奉仕せよ」があります。道徳として理解するのも一つですが、象徴の源である聖書を無視すると本質を外れるおそれがあります。主イエスの言葉も同様です。「良いサマリヤ人の譬(ルカ10章30節〜)」は、“他人に親切”と解することもできますが、本来は「永遠の命を得る」の問いから始まっている話です。 「隣人になる」ところに、その「永遠の命」があることを示しています。しかも、主イエスが私の隣人になってくださるとのメッセージを読み取ることが鍵(ポイント)です。赦しは、主イエスの命がかけられたものです。それが抜け落ちると道徳や倫理となり、キリスト教信仰から離れてしまいます。 主イエスの十字架の真実を受取る者こそが、赦すことを意味あらしめるのです。問題を曖昧にするのとは全く違うことを意識すべきです。今、私がここにいるのは、自分で負うべきものを、主イエスに担われているとするところに私の信仰があります。 その故に私たちの使命は、この恵みの事実を語り、また伝えることを負っているのです。その結果は、主に託して良いことを喜び、特別伝道集会の案内を心込めて励みましょう。「パンを水に流すか」のようではあっても!

10月15日 5人目の女性

マタイによる福音書 1章12節〜17節 阪井牧師

 系図の持つ意味は自分を歴史的に確認すると同時に、強い自意識に通じる。 ユダヤの人たちは、神に召し出された神の民(イスラエル)という選民意識と誇りによって厳しい現実を耐えていた。 メシア誕生の福音紹介に系図から書き始めたマタイ福音書の編集者の想いをアブラハムの名に見、続くダビデの名は主イエスにメシア到来の期待を裏付けている。 しかし、「バビロンへ移住」の言葉は、神との関係消失の惨めさを見る。その惨めさを乗り越える望み、絶望からの脱出は、ヤコブとヨセフの名である。 創世記に登場する二人は、精神的意味を持つ歴史・出エジプトの物語につながる名である。 別名イスラエルの名を持つヤコブはヨセフの父、「神が共にいた」ヨセフは出エジプトへの準備を担った。 あのヤコブとヨセフの名が主イエス誕生場面に登場している。限りない困難さを乗り越えるには「主が共におられる」必要がある。 メシア待望の人々に応える系図である。その系図の最後が「マリアの夫ヨセフ」である。このマリアが主イエスの母である。主イエスはこの系図に直接つながっていない。 5人目の女性マリアは、前の4人の女性のように血のつながりもない。徹底して主イエス誕生に仕える女性である。 夫ヨセフは主の御心に従い、支えられて主イエスの母マリアを妻として迎える。主が働いてくださらなければ成り立たないイエス誕生の系図となっている。 主が働かれることの大きさは私たちの信仰生活にも言える。伝道集会のために仕えよう。

10月8日 地を耕そう

コヘレトの言葉 10章1節〜20節 阪井牧師

 身に沁みる知恵の言葉を実感できる生活表現である。何が信仰の事柄かと思う。 講演を聞いて教養の足しにしたり、演芸を鑑賞して自分解放をするのと変わらないように思える。 なぜ聖書かの問いを前に、信仰生活の勧めを得たい。 内容的には9章13節以下に関係して続く。知恵によって町は壊滅を免れるが、語った者のことは貧しいため人々の心に残らない。 しかし、武器や権力を振りかざす者を越えて、賢者が静かに語る知恵は、必ず人々の心に沁みるように受け止められる、と。 だが、積み重ねてきた努力の美しさ清さも、一度の失敗はそれらを台無しにすることを知るべき、気をつけるべきである。 その例がこの章である。香油の精製に紛れるハエ、心の揺れ、軽い口、尻軽、…は無価値となるだけでなく、害にさえなる。 神の知恵に立つ者は、愚直であるとの評を受けることもある。しかし、神の知恵は確かにその人と共にあって、働かれる。 トルストイの童話「イワンのバカ」から、神に信頼をおく者に、信仰の喜びと神の平和が託されると学ぶ。 黙々と地を耕す行為は効率的にはよくない。人の知恵が表になるとき、愚かしい行為である。 しかし、神の知恵に一切を委ねて「地を耕す」ことが、私たち自身の持ち味ではないかと思う。 小さい、弱い、小賢しいけれども、主イエスと共に歩む信仰の僕でありたい。 耕された地に落ちた「種」は30倍、60倍、100倍の実りとなる譬えを想起する。信仰の恵みに預かる「地の耕し」を続けよう。

10月1日 断絶を介して連続

マタイによる福音書 1章1節〜11節 阪井牧師

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなた方は行って、すべての民を私の弟子にしなさい」は、この福音書の最後の言葉である。 イエスのメシア性、福音の世界宣教が内容である。この意図を最初の系図に見る。生きる力を失った者を再び立ち上がらせ、共にいるとの約束を通して希望となる方を語る。 世はそれを認めず、十字架につけた。しかし、甦られた。世はなぜ認めなかったのか。伝統と自分たちの信仰に抱くメシアとかけ離れていたことを想う。神への誠実や熱心さが、神を拒むことになったことを知る。 系図はイスラエルの成長、衰退、暗黒の3つの区分からなり、ダビデはその中心に位置している。系図でメシア(キリスト)の到来を信仰告白として語る。男性中心社会であるのに、しかもメシアの系図に女性が登場する。それらの女性はみな異邦人である。 タマルは夫を亡くし、義父との間に子をもうけた。ラハブはエリコの遊女でモアブの人。ルツは敬虔な女性ではあるがモアブの人。 そしてウリアの妻(バトシェバ)は、ヘト人でダビデの臣下の妻である。混じり気のない正統的血筋だけでなく、積み重なねられた罪の中にある家計から生まれたイエスであるからこそ、すべての人の罪を贖うことができる方、メシアとして受け取ろうとしている。人の思いが一旦断たれる。 しかし、そこから新しい世界、神がみ手を働かせ、自らが痛むことを通して全ての人の救いへの道が開かれ、私たちの救いがある。

9月24日 行き先のない旅

コヘレトの言葉 9章1節〜18節 阪井牧師

 「あなたは、私にとって大切な人です」という声を届けること、共に支え合う地域づくりをすることが自殺予防につながる…。 自分の人生体験に基づいた「声」に耳を傾ける人は多いと思う。そのとき、「声をかける人」と「かけられる人」との関係も重要だと思う。 繋がりのないところでは、どんな声かけも空しい。「生きている」人の「死」の空しさもそこにある。しかも、どんな生活かは関係なく 間違いなく誰にも死の時がくる。これは空しい。だから、生きている「今」を楽しめ、とコヘレトは勧める。現代の私たちに通じる勧めのようである。 明日が見えない今を楽しむしかない、と。ここには神の秩序がない。神を見失っている世界である。 港を出るには出たが、行き先がないとしたら、船の人たちはどうすればよいのか。確かに自由に見える。縛りがない世界である。 旅の楽しさは、帰るところがあるから味わえる。何処え行くのかがわからない旅は漂流である。難破した状態と同じ。 毎日が忙しく、自分を見失いがちの人には羨ましくある。そのような生活は長くは続けられない。私たちには、主イエスが伴っておられることを喜びたい。 一見、出たとこ勝負に見えるかもしれないが、神を信頼し、主イエスに拘る歩みが私たちにはあることを。 神のご計画の中に今自分があると信じることが赦されている。そこにある限界は、神の前に意味を持っている、との信仰に生かされている。疲れても倒れない。主の手が私を支え続けておられるから。

9月17日 流れを遮る者

マタイによる福音書 1章1節〜6節 阪井牧師

 「神の言になる」書かれた言葉の聖書は、成立の理由がある。それは想像と異なるかも知れない。 新約聖書の構造は、福音書(「イエス・キリストの生涯の記録」)、使徒言行録(「弟子達の伝道の記録」)」、 手紙(パウロやその他の人達が書き送ったもの)と預言の27書である。 その福音書は大まかに見て、主イエスの死後50年近くなってまとめられている。 これはイスラエルがローマによって滅ばされて20年を経過した頃である。 教会の中で生き生きとした信仰が揺らぐ頃でもあった。 ユダヤの伝統的文化や思想に影響を与えるものが流入してきたからでもある。 懸命に防御する人の群れもあれば、染まることを厭わない人たちもいた。教会の中には混乱が生じた。 教会の特色が当然のこと、福音書執筆背景にある。 マタイ福音書はユダヤ人を意識したと思われる表現が諸処に見られる。 律法とか旧約聖書引用である。系図はその典型と見てよい。 自分の出所を尋ねる人は自分を知りたい人、また出所に自信を持つ人である。 そのような前提の元で系図を見る時、見えないものが見え始める。 アブラハムの子(子孫)は神の契約を受けたことの誇り(マタイ3章9節参照)を物語っている。 ダビデの子はイスラエルの歴史で最も国力が大きかった時代の王を意識する。 この家系からメシアが出るとの期待を人々は持っていた。信仰に近いものあった。 その中にイエス・キリスト(メシア)が誕生したと書いている。 そこからメッセージを聞き取るのである。

9月10日 待て!神の時と方法を

コヘレトの言葉 8章1節〜17節 阪井牧師

 川中島の合戦で戦死した山本勘助は武田信玄の軍師として名を残している。 組織と組織の競い合いに、率いるリーダー(軍師)が居る。コヘレトの時代にイスラエルを導く王は、民衆の信頼を厚くされていない様子をここに読み取ることが出来る。でも影響は受けざるを得ない。その対処に知恵を示している。 (1)世間の風向きを察知せよ、(2)権力を持つ者に従順であれ、(3)そこに心地よさがあるとせよ、と。 時を心得る者は知恵のある者であると語っている。してみると、主イエスが十字架に死んで2ヶ月程の経過後、神殿境内で「私たちは十字架と復活の証人である」と主張を続けた弟子達は賢者ではない。 まして、神殿管理者から「あの名によって語るな」と命じられた後に、「神に従わないで、あなた方に従うことが神の前に正しい事かどうかを考えてください(使徒言行録4章17節〜)」と言い返したのは、異常とも言える愚かしい事である。 口先の抵抗は大した障害ではない。神が支配しておられることを生活によって示す時、それは大きい。 人の計る時は、神の時と異なる。自分の時で押し進めるなら、十字架へと促す事に繋がる。 神の時は、十字架と復活の出来事を通して知るしかない。ただ、その十字架は神の裁きであると同時に、深い憐れみの「しるし」でもある。慌てず、意気消沈することもなく、また自分の限界を弁えつつ「神の時と方法を待つ」知恵を学びたい。 倦むことも諦めることもなく、神を信頼する僕として伝道集会に備えたい。

9月3日 神を礼拝せよ

ヨハネの黙示録 22章1節〜21節 阪井牧師

 晩婚化・少子化の複合原因の一つは、植栽の室内栽培や小動物の飼育があろう。外出からの帰宅を迎えて、癒しと自己回復の働きをすると考えられる。 小動物や鉢植えの世話が誰かと一緒に生活をすることに代わる、とはどうだろう。また、飼い主に全く信頼する犬は、ひっくり返ってその腹を見せる仕草をする。 実に愛らしく嬉しい。この黙示録からの問いをそこに考えた。あなたは何を光とし、何に信頼を託すか、と。 22章で、ヨハネは天使に「新しいエルサレム」の幻を見せられた。「水晶のように輝くいのちの水の川」と川の両岸に年に12回、毎月実をみのらせる「いのちの木」を見た。これは世界創造の物語に繋がる。神から「食べるな。いのちを失う」と戒められていたその実を食べたアダムとエバは、園から追われた、あの記事である。 人の経験に基づく判断によって「食べた」ことが裁きを受けることになった。現代の特徴は自己責任であり、自分が承認して信じる。い のちの水は、礼拝を意識し、いのちの木は、そこで語られる言葉の中心である主イエス・キリストの出来事を想う。これを自分に納得して信じるのか、それとも神の恵みの出来事として受けるか。すでに神がもたらしてくださった光を無視して、他に光を求めるか。 天使に向かって礼拝をするヨハネは「神を礼拝せよ」と語り、自分を礼拝することを遮った。困難な状況であるほど神ならぬものに腹を見せたくなる。互いに神を礼拝する群れの教会となりたい。

8月27日 平和の実現のために − 私の責任

マタイによる福音書 5章9節/使徒言行録 5章27節〜32節 松本昌子先生

 毎年この時季に戦争を思う話をしている。以前の説教で、家族にも話したことのない自分自身の体験を話したことがある。 昭和19年夏、父親がごく親しい人に「本土すべてが焦土と化す前に天皇は終結の英断を」と口にしたところ、密告されて治安維持法下思想犯として終戦まで投獄されてしまった。たったそれだけのことで罪人とされてしまうのが戦争という異常な状態である。 その後は他人から石を投げつけられるような視線を感じた生活であった。この経験が信仰を持つ私の人生の原点となっている。戦争について語らなければならないという思いをもってこの経験を語ったものである。 平和というものは美しく鑑賞するものであるかのようにとらえがちだが、手を汚し汗を流し命をかけて獲得しなければならないものであり、"Make a peace"と言うように創りあげるものである。 井上ひさし原作の『父と暮せば』という戯曲・映画を見た。原爆で生き残った23歳の娘のもとに父の幽霊があらわれる。娘が独り生き残ったことを悔い「うちはしあわせになってはいけんのじゃ」と思っているのに対し、父の幽霊が「おまえは生かされている。見たこと思うことを語るように。」と言うシーンがあった。 平和を実現する責任を与えられているキリスト者として、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」との言葉を胸に、それぞれ与えられた場所において、戦争のない時代を創る努めを果たさなければならないと思う。(文責 石黒)

8月20日 神は知る−その道

コヘレトの言葉 7章15節〜29節 阪井牧師

 現実の世界には納得のいかないことが多々ある。しかし拘る必要はない。ほどほどにして生活をするのがよい。 コヘレトの知恵は諭すように語る。詩編73編にも、現実の不条理が扱われている。ヨブ記は、このような現実に対して、一体何が行われ、どのように生きていけばよいかを繰り返し問うのである。時代や状況は異なる現代にも似た事柄がある。 コヘレト流の見方(15節)は、「すぎることなく命を全うすることが大事」との主張である。周囲と旨く付き合い、穏やかで人当たりの良い関係は現代的な私たちの課題でもある。 パウロはローマの手紙(3章)に、詩編14編などを引用して言う。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。…彼らは平和の道を知らない。彼らの目には神への畏れがない」と。 では何を恐れるか。人生経験とその知恵が恐れを教えることになる。避けられない現実を耐え、踏みとどまらせる拠り所は、命を生きる力とならない。 そこに示されている方が道となった。合理で説明できない出来事が語られる。ルカ7章11節以下のナインのやもめの物語は、嘆きの母に主イエスが自ら出会い、慰めと希望になられたことを示している。泣く者に憐れみを覚え、その扉を叩いて開けられるのを待っていて下さる方が私たちの救いの道、生きる希望である。主イエスを迎え入れる力を与えられたい。

8月13日 神の国の実現

ヨハネの黙示録 21章9節〜27節 阪井牧師

  エルサレム(時に「シオン」とも呼ぶ)は、ユダヤの人々には単なる都ではない。創世記22章の「モリヤの山」、つまりアブラハムが神を畏れて、ひとり子イサクを燔祭(焼き尽くす捧げもの)に差し出した物語の場所でもある。 「主の山に備えあり」で知られている。ユダヤの人たちには、自分たちの存在がかかっている神の都でもあった。日本人にとっての東京や京都とは違う。文化や歴史の都というだけではない。 だから、その都がローマによって完全に支配(A.D.70年)されたとき、人々には深い絶望であった。このローマの迫害の苦しさが続く教会の人々には何が生きる希望となるであろうか。 その25〜30年後の記事がこの黙示録である。天使は「新しいエルサレム」をヨハネに見せている。これが神の裁きである。 神との関係が怪しく思われてきた人々に、希望を与えるものとなっている。目に見える神殿は今や必要はない。なぜなら全能の神・主と小羊(キリスト)が神殿であるから、と。人が知恵と力を注いで築いた所に神を求めるのではない。 主イエスが犠牲の捧げものとなられたところに目を注ぐのである。そして死に至るまで忠実に信仰を全うした者(小羊の花嫁)が、新しいエルサレムとなっていることを知らされる。 現実には大ローマ帝国(大淫婦バビロン)の着飾った権勢の姿に比較して、教会は虚弱で小さい影のような存在にすぎないかも知れないが、そこは「新しいエルサレム」であって、神の栄光に輝いているのである。ヨハネは神の国の実現を見せられている。私たちの教会もその恵みに輝きたい。

8月6日 人を磨くもの

コヘレトの言葉 7章1節〜14節 阪井牧師

 生活の中で言い慣わされてきた言葉を、詩の形に表現した知恵がここにある。「名声が香油にまさる」と「死ぬ日は生まれる日にまさる」とはどう関係するのか。名声は人々の与える評価、その基準は何か。地位や富・財産よりも、その人となり、生き方と考えた。 かつて極めて高価であった香油は(マタイ26章13節、マルコ14章3節他)、主イエスの死と繋がる。人の与えるものより主イエスの死を心に覚える香油がまさる。主イエスの死が誕生にまさる、とは常識外れである。 誕生の喜びが遙かに良いに決まっている。だがコヘレトは違う。主の購(あがな)いこそが全ての人の救いに決定的なのだ。 誕生を正面に受け取れなかった人にも救いが事実である、とする受け取り方は行き過ぎか。  人生は順境に越したことはない。だが、逆境は神のみ業に心を向ける機会となる。人の磨きがそこに起こる。主イエスとの出会いはどんな時であったかを想起すると良い。 自分で世に輝けるとの自負が砕かれる時、主イエスが出会って下さったではないか。パウロの回心記事はその典型である。戸惑いや困難、悲しさや辛さを、神が御手を働かせておられ、磨きの時と受け取れるのは聖霊の助け無しにはあり得ない。 神の研磨が私に及んでいると受け取れる信仰を持ちたい。宣教研修所(神学校の前身)の後援会長の死を今朝聞いた。また今年、広島の原爆記念日に想う事がある。広島(8/6)と長崎(8/9)の両方で被爆した「二重被爆」の人がいると。神の前に謙虚になりたい。

7月30日 約束の民として

ヨハネの黙示録 21章1節〜8節 阪井牧師

 厳しい現実にありながらも、なお将来への希望となる展開が21章の場面にある。 逃げ出さないし放棄もしないで。そこにとどまり続ける。これは圧倒的な力にねじ伏せられている状況にあっても先が見えているからだと考えてよい。 ローマ皇帝の力に個人、家族は勿論のこと、部族や一国で抵抗できない。自分の主張を貫こうとするなら、向こう見ずか、変人である。 ヨハネは人が神に代わって支配する世界が終わり、神の栄光の現れる世界を語る。悪が働く海(その舞台)がない。 美しくて人を魅惑し、苦しめ、生きることをやめさせる世界が滅ぼされた新しい世界が語られている。 花婿に向けて喜びが内から溢れている着飾った花嫁は教会の姿である。神の言葉による生きる喜びがその人を黙らせない。 かつて預言者エレミヤは、人々に受け入れられないため、神の言葉を語るまいとして苦しんだ(20章7節〜9節)。 神の事柄を、人間の力や知恵で何とかしようとするなら、人間が潰れるか壊れる。 私たちの教会がこの世界に向けて働きかけることができるのは、人間が処理できそうであるが、そうではないと想う。 人の集まりではあっても、キリストを頭(かしら) とする教会である。私たちはキリストによって神の民とされている。様々な苦楽がある人生で、神が共にいてくださる事実をもっと喜びたい。約束の民として大胆に歩みたい。 一人一人を主が選び、遣わすために召しておられる(使徒言行録16章31節参照)のですから。

7月23日 満ちた心とは!

コヘレトの言葉 6章1節〜12節 阪井牧師

 「わたしは何と惨めな人間なのか。…」と人一倍良い境遇に居りながら嘆いたのはパウロである。 ヘブライ語とギリシャ語のバイリンガル、律法学者としてのエリート、ベニヤミン族の純粋家系、生まれながらのローマ市民権を持つ人である。 死を意識しての言葉(ローマ7章24節)と繋がっている。義人ヨブは境遇の苦しみを「生まれなければ…」と嘆いた。 私たちの現実にも生きることがつらい、と苦しみもがき、忍耐ぎりぎりで同じ心境の人もいるかも知れない。救いはないのか。 イスラエルと共に荒野や砂漠を旅して「約束の地」に入らなかったレカブ人を想う(エレミヤ書35章)。 家を建てず、ぶどう園・畑・種を持たない厳しさで純粋を重んじる信仰生活でも、旧約の信仰主流から消えたなぜ?主なる神の約束を信じ受け取らなかったと考える。 パウロは主イエス・キリストに出会い、今までの所有が意味を持たないと知った。神の御心を受取った。 むしろ目に見える形やモノが妨げであると語る(フィリピ3章)。神に招かれているのに、自分で頑張り続ける人がいる。 見えるモノ、触れ得るモノが邪魔をするのか。やがてパウロはマイナスをプラスに受取った。次のように語る伝道者・使徒となった。 「キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」と。

7月16日 恵みの支配

ヨハネの黙示録 20章1節〜15節 阪井牧師

 絶対的に優位にあるものが、その力を振り回す時、関わりを避け、目を合わさないように物陰に隠れて難の通過を願うしかない。 パウロがまだサウロと呼ばれていた頃熱心なユダヤ教徒・律法学者・教会の迫害者であった。社会制度がそれを支えていた。 キリスト教とはその手から逃れて国外に出るも、サウロは撲滅を目指して特別許可書を持って追った。 言行録9章、フィリピ3章、ガラテヤ1章にその自分を書いている。主イエスの十字架の場面も同様である。 圧倒的な群衆の声の力を背景に、ローマ政府を代表する総督ピラトは刑を認めた。弟子たちは難を恐れて四散した。 そこに人間の力を超える力が働いた「天から…」である。サウロは「なぜ、わたしを迫害するか」と問われ、迫害者から宣教者・使徒に変えられた。 主イエスは十字架の死から甦られた。神が勝利されたのである。黙示録20章の記事は、この神の勝利を語っている。世のどんな力も及ばない神の業が行われる、と。 蛇は誘惑の象徴として聖書の最初にある創世記に、そして最後の黙示録に登場していることは考えさせられる。 神の創られた生き物のうちで最も賢い、とは誰か?その力に打ち勝つには人間に限界がある。キリストと共にある者が勝利をする。支配をする。 この世はこの恵みに支配されていることを喜びたい。何もしないのではない。神の言葉に自分をかけて生きる者を用いられる。 そして周囲を変える者とされるのである。喜び用いられたいと願う。

7月9日 信仰の秘訣

コヘレトの言葉 5章1節〜19節 阪井牧師

  聖書のkey wordの一つが「契約」である。簡単に言えば「約束」と解してよい。契約社会は破約を意識して保証を求める。土地を持たない遊牧の民イスラエルは、特別にこれを重んじた。 イスラエル=神の民は、神との契約によって成り立つ民であるから契約に自分の存在をかけた。律法はその象徴である。聖餐式に際して主イエスの言葉を読む。 「…わたしの契約の血である…」は破約の保証が十字架であることを示す。生活の知恵は保証を求めるが、アブラハムは神の言葉そのものを保証とした。「信仰の父」の所以である。 神の言葉に従うことは、人間の聖を捨てることで神の聖に生きることである。信仰に立つ者の非常識は、神との関係に(契約)に拘るから起こる。このコヘレトの記者は実に冷めている。 人と神との関係が天と地の距離ほどと見るために神の前に出る礼拝や宮詣が楽しみや生活慣習であることに強い警告を発する。神の語りかけ(言葉)はじっくり聞くが、その言葉を自分の都合に合わせて受け取る危惧を見ているのであろう。 聖書が人の言葉のままであるのに似ている。神の言葉になるのは自分の存在に関わるものとして受け取るからである。今日の生活を支え、魂を養う「いのちの言葉」として取り組む人を用いて神はご自身の御業を進められるのであろう。 その人の語る言葉はどんなにつたなくても良い。この世の地位は低くても良い。神の言葉に立ち続けるあり方(信仰の秘訣)が重要である。宝を盛る器でありたい。

7月2日 神の時と人の時

ヨハネの黙示録 19章11節〜21節 阪井牧師

 個を重んじる傾向の行き過ぎのような、自己制御(セルフコントロール)が効かない異様社会に、今私たちは生活している。僅かな隙間を狙って全体を侵すのが悪魔(サタン)である。 神の子をさえ餌食にしようとした(マタイ4章1節〜)。主イエスが「悪魔から誘惑を受けるため」はなぜか。神の子を落とせばの試みか。否、それよりも誘惑に陥る人の救いが語られていると受け取る。 誰も「よく生きる」ことを願いながらも躓くのが私たちである。その歴史の中で、全ての人の誘惑をご自身に引き受けられた。これが十字架である。自分の命を奪う兵士のために祈られ、痛みを受け、血を流された。 聖書の中に現れている獣、血を求める権力者にも救いがある。罪を裁き、神によって生命与えられた者の救いである。描写は凄惨であるが、神の救いの業がいかに激しいものであるかをここに見る。 神からかけ離れた人間世界に陥っているところにも救いがある。主イエスの執り成しの祈りは私たちのためである。今、この時、との思いがどんなに強くても神の時があることを受け取る。 私たちの信仰の力がそこに発揮される。誰でも夏は暑い。冬は寒い。信仰の人も同じであるが、全てを知っておられて、人の時とは全く異なるもう一つの現実の時がそこに進められていると受け取るのである。神の勝利の時である。主イエスの勝利の時は十字架の死に終わらなかった。 死を超える神の栄光の時であった。罪を赦す神の時はすでに始まっていることを学び取りたい。

6月25日 煩わしさを超え

コヘレトの言葉 4章1節〜17節 阪井牧師

 日常の生活を暫し離れて、自分を回復する時を持つことは慌ただしくしている人ほど重要であろう。 どこに向かっているか。自分は何者かを確認して再び日常に戻る。これを退修(リトリート)という。 今日、この機会が持てるのは特別に恵まれていると考えてよい。他者を想うことは遅れをとると考えるほど心は荒れ果て、法規制スレスレの言い訳や自分中心の時代である。 そのような大人を見る子どもは人間性豊かに成長をするだろうか。最近の事件報道はその結果とも想う。 加害者であってもその心は傷や重荷を負った優しさを持っているようである。力ある者が勝利し正しいとする競争社会は神から遠く離れている。 弱い者、悲しむ者、痛みを抱える者に涙を見せない者をほめる現実をコヘレトの記者は嘆いている。 人間が壊れている現代に通じる。神はこの世を愛された、とヨハネによる福音書(3章16節)やコリント信徒への手紙一(4章9節〜10節)は伝えている。 教会はこの愛を自ら受け取り、世に伝えるのである。信じる者の群れであって、単なる人の集まりではない。 主イエスの名がそこにあるということは主イエスがおられることを意味している。 この方に一切を委ねる信仰は祈りに鍛えられる。他者のために祈る、取りなしの祈り、が私たちを育ててくれる。母が手のかかる子を育てて逞しくされるように。 教会の逞しさは、どれほど他者のために祈るかにかかる。消耗するのに力を付ける不思議を体験したい。信仰の豊かさを互いに語り合える教会でありたい。

6月18日 天の声と地の声

ヨハネ黙示録 19章5節〜10節 阪井牧師

 雲間を縫うようにして太陽光線が地上に差し込んでくる時、神々しさを覚え感動をする。 黙示録の記された頃の教会は息苦しく、黒雲が空全体に覆い被さっているような状態であったと想像する。 信仰の語らいも小声で、遠慮がちに讃美をしたであろう。 そんな教会へ送られたのが黙示録である。ローマ帝国の支配勢力による影響が生活の中に深く入り込んでいる時、神の裁きによる滅びを内容としている。 空元気の類に見えるであろう。しかし、これが教会の信仰をはかる(聖書)正典に含まれているだけでなく、その時の教会に、また後の教会にも大きい信仰の支えや励ましになった。 さらに人を新しく生かし、社会や国に影響を与える歴史を築いたのである。この書はそのことを目指したのではない。 結果である。我慢強いだの、激しく闘う等の見方捉え方はある。キリスト信仰は神を喜び、神を礼拝するところにその中心がある。 和やかに、お互いを労り、共に歩めることが目的にするなら、主イエスの十字架は意味を持たない。 処世術の問題になってしまう。歴史の中で主イエスに従う信仰ゆえに「いのち」をかけた。 自分の十字架を負って従った。なぜそんなことが出来たのか。 神を神とし、この方に自分が生かされているとの信仰を持ったからである。玉座からの声は「神を讃美せよ」であった。 生きる人生の土台は世の人と同調することではない。殉教者の信仰はその周囲を悔い改めへと促したのは苦しみの中で神を讃美したことであった。

6月11日 何事にも時がある

コヘレトの言葉 3章1節〜22節 阪井牧師

 「すべてのわざには時がある」との言葉に続いて「神のなされることは皆その時にかなって美しい。…(11節)」とある。印象深い言葉であり、様々なエピソード(逸話)がある。 生涯を終わる時にこの言葉を意識した人の話は心に残る。平家物語(1200年代)にも似た言葉があるが「生者必滅 会者定離 は浮き世のならいにて候」は無常とか諦観を想わせる。 聖書は神の働きと意味とを見ている。ミヒャエル・エンデの『モモ』の「時間の話」に、不思議であるが、きわめて日常的な秘密がある。それは時間だとある。 僅かな時間でも永遠の長さに、またほんの一瞬に受け取れるから、と。その理由を「時間とは、生きると言うことそのものだからです。人の命は心を住みかとしているからです…」と。 一方聖書は、私たちの手にあると思える時が神の支配の下にあると語る。 人は神に向かって生きる意味を問うことができるよう創造られているが、神を問うことは許されていない。「見えない」ということは「時の制限を受けない」ことである。 制限を受ける者がそれを敢えて見ようとすると躓き倒れる。主イエスに躓く理由はそこにある。神に向かって生きる意味を問う私たちは礼拝から答えを得る。 神から力を得させなくするのは礼拝を奪うことである人が人であることを失わせる結果を生む。 昼行灯と言われようとも神を神とする礼拝は、人として生きる力を与える。 主イエスが十字架への道を歩まれたところにその秘密がある。神の時を生きる者になろう。

6月4日 何が聞こえる?

ヨハネの黙示録 18章21節〜19章4節 阪井牧師

 黙示録のテーマは「待つこと」だと言う人がある。刻み計算できる時でなく、神の時を待つ。 これは私たちに「時との闘い」となる。神に自分を託しきるのは容易ではない。 そのために人は神の時まで信じて耐える力を祈り求める。祈りによって耐える者に変えられる。 自力では変えられない自分を変え、さらに自分の相手までをも変える力が働く。神の霊(息)が働いたと聖書にある。 祈りは神の言葉に立ち続けた結果である。神に示された幻が現実となるには時間を要して約2百年後に事実が起こった。 目的に向かう途中に様々な結果が現れる。しかし、あくまで結果であって目的ではない。 人は神のいのちに生きることが目指すところであるが、世の目や声は結果を目的のように受け取る。 イエス・キリストが目指して歩まれたのは、人々の目を引きつける事や興味関心を起こすことではなかった。 父なる神のみ心に従う十字架であったことを心に留めたい。この方が歴史の中に立ち生きられた。ここに神の言葉を聞き取るのである。結果に心を奪われるなら信仰は窒息する。 教会の生き残りが目的ではない結果である。神の言葉が語られ、聞くことが人の思いに動かされてはならない。 主イエスがキリストと告白をしたペトロに「サタン、引き下がれ」と語られたイエスの言葉は心にしみる。 「まず、神の国と神の義を求める」ことが大事である。世に遣わされる使命を揺るがしてはならない。どこまでも結果はついてくるものである。

5月28日 快楽と知恵と労苦

コヘレトの言葉 2章1節〜26節 阪井牧師

 天の父は〜であるから「あなたがたは敵を愛し自分を迫害する者のために祈れ。」との主イエスの言葉(マタイ5章44節) は自然な感情になじまない。 むしろ腹立たしくさえある。そこで改めて「〜であるから」を考える。 善い者にも悪い者にものどちら、に自分がいるかを。この書は人生を快楽、知恵、で窮めようとしたとある。苦しみを紛らわしても消えない。金や地位を運用して思いの全てを実現したが、そこには人生の意味や充実の究極の答えはないと分かった。 世間の評判、社会の地位名声、富に人としての生きる価値を見いだせない、と。主イエスが自分の受難と死と復活の予告に続いて人々に話された言葉を想う「…自分のいのちを救いたいと思う者は、それを。失うが、私のために命を失う者は、それを救うのである。 人はたとえ全世界を手に入れても自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては何の得があろうか(ルカ9章24節)」は謎かけのようである。 いのちを得ようと思う者は失い、失う者は得るには深い真理があるように思う。寿命を削るようにする苦労から自分のものを得るものは空しいが、他の生き方の中にいのち、救いを得るいのちがあることを示している。 知恵や労苦によっても人の死は同じである、としたらどう生きるか。外典シラの書14章12節〜17節にも同じ問いを見る。 平凡な人生であるが、その日が神の望まれた日として生きる信仰を語る。この章の結びには「人生の意味は神の手から来る」とある。かく、生きたいと願う。

5月21日 裁き−外見と内実

ヨハネの黙示録 18章1節〜20節 阪井牧師

 同じ姿勢を続けることから起こるエコノミー症候群という病気がある。血行が悪くなって本来の機能が果たせない状態だと聞く。肉体の異常は自覚できることが多い。そこで心や魂にそれに似た感覚麻痺の症状は考えられないかを考えた。加えて、自覚症状がなかったらどうだろう。自覚症状がないからといって健康だとはいえないことがある。 ここの記事は、いま現在大いに繁栄しているローマ帝国(大バビロンと表現)が滅亡すると言う。これは世の論理を神の論理で捉えなおした表現である。キリスト教が迫害されており、どんなに結束をしても相手にならない。だが、神はその滅びを示していると語る。今、賢く生きるのはローマの権勢に寄り添うことと思える時、それとの関わりを離れ去れ、と。 地位を得たり、生活が順調であったり、勢いに乗じていると思える時、人は神の論理と世の論理を使い分ける。信仰も大事、人との関係も大事、と言う具合である。神や信仰をないがしろにするつもりはない。むしろ自由にさえ見えるのに、聖書は厳しい。先ず、神の言葉を第一にすることを求める。アブラハムの召命(創世記12章) を想起させられる。 神の言葉に立ち続ける旅に徹した。隠遁や逃避ではない。むしろ出て行くのであったことを想う。何を携えるかが重要となる。神に声かけられた自分を示すことは、世に染まることではない。他者に生きる力を神が示す道具として用いられてこそ本望であろう。神の言葉が第一になるように。

5月14日 究極の価値

コヘレトの言葉 1章1節〜18節 阪井牧師

 人生の経験深さは人を慎重にさせる。決断を遅らせる傾向も見る。とりわけ厳しい現実を歩んだ者には、自分の歩みは何かとまどう。 イスラエルの歴史は、国が滅び、神殿が異教者によって蹂躙され、神の民の指導者は捕囚の民になった。このような状況の下で神を問う。 迷える羊状態が神の民であるこの現実をどう受け止めるかを悩んだ。そして行き着いたところがこの「知恵」である。かつての信仰の秩序―箴言はその象徴―が怪しく見えてくる。 この両者の間に、神の問いかけで知恵の限界を自覚するヨブ記がある。義人がなぜ苦悩するかを問う知恵のさらに否定的な見方がコヘレトの言葉である。この言葉は多くの人の心を捉える。 「苦労して生きることの意味は何か」の問いに通じる。人生の意味を知りたい。どう生きていくか。手に触れ、目に映り、感覚に得られることが生き甲斐とした。人生の価値はそれらによるのか。人生をかける程の働きもそれを凌ぐ人が現れたらどうなのか。 自分のいのち、生きる価値はそんなものではないはず。現代の私たちの生き方に通じていないか。社会や世間はより価値のある方へ動き、顔を向ける。そのような現実に生活する私たちは、どう生きるのか、への示唆を受け取る。 周囲の目が注がれなくても、神の目は注がれ、見ておられる。ここに私たちの生きる意味と生き方があることを確信したい。そこに揺るぎなくしっかりと立ち続けたい。主を信じる者は、だれも失望することがない、のだから。

5月7日 川の流れの前で

ヨハネの黙示録 17章1節〜18節 阪井牧師

 流れる水場に「いのち」が営まれる。この水を支配するものは土地と人を支配するのは歴史が語る。 ローマの繁栄期を背景にした黙示録は、水の支配者を「大淫婦」と呼び、神の裁きを見ている。 キリスト教の現実は迫害の厳しさを続けて受けているにも拘わらず、支配者に媚びやへつらいをする周辺の王たちまでもが主の裁きを受けると語る。 願望なのかといぶかる。しかし、語るヨハネは、神のみ心を示された事実を語る。そのためにローマの名を用いられず、黙示の表現となっている。 生活に基づく知恵は自分の有利を求めて動く。個人に限ったことではない。周辺国も同様である。 真実ではないと知りながら、身を任せる生き方を問うのに、心をふらつかせ、決断を鈍らせる様を淫婦の表現を借りてここに示している。 時の勢いに乗じてキリスト教に厳しく迫るその現実は、主イエス・キリストを向こうに回していることを知らされる。 かつて教会やキリストを信じる者を迫害するためパウロがダマスコに向かう途上で聞いた言葉を想起する。 「なぜ、わたし=主イエスを迫害するのか?(使徒言行録9章)」と問われた。 昔いまし、今いまし、のち来たり給うを畏れ、その方を求め慕うことが薄れると、今いないと思い上がるのが人の愚かさである。 水源を神に求める知恵を持ちたい。全く水がないと見えるところにもサフランが花を咲かせるように、神は私たちへの使命を託しておられる。 子羊と共に生きる者の操(みさお)を堅く守り続けよう。

4月30日 母からの諭し

箴言 31章1節〜31節 阪井牧師

 サムエルによって油注がれた(メシアまたはキリスト)サウルは、主から使命を受けた。 出エジプトをするイスラエルの歩みを妨害したことへの裁きであった。 その戦いに勝利したサウルは、滅ぼすべき牛や羊の中で最上のもの、初子でない肥えた動物や子羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず戦利品として持ち帰った。 主への供え物にするためであった、と責められたサウルはサムエルに答えている。 「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。主のみ声に従うことではないか」と叱責し、 主の裁きを告げたサムエルの記事(サムエル記上10〜15章)は、王たる者の務めを示している。 箴言最終章の記事は「王たる者への母からの諭し」である。レムエルとは神に属する者の意味を持ち、神の子とされた人たちへの諭しであり、現代人への諭しの言葉となろう。 性のと飲食(酒)の問題は人生を狂わせ、判断を誤らせることへの警告である。イエスをキリスト(救い主)とする神の子たちには特別の使命がある。神の前に生きること、神の栄光に仕えることである。 取り柄があって神の子とされたのではなく、神に召し出され、罪赦されて生きる喜びを言葉と行為で生活の中に現す働きを求められている。 人に認められ評価されることが重要になるとサウルの轍を踏む。食べ、飲み、見聞きが自由に出来、どんなに良くても第一になってはならない。わが命は自分のためだけではない。神の子として大きい務めがあることを知る。

4月23日 ぶちまけたもの

ヨハネの黙示録 16章1節〜21節 阪井牧師

 7つの封印が解かれ、次に天使のラッパ、続いて激しい神の怒りの鉢が「ぶちまけ」られた、 とある。神の裁きは我慢に我慢を重ねて忍耐の限界が爆発する激しさを想う。 もはや元に戻す気持ちのない勢いを感じる。 ところが、神の怒りの極みの結果が、その独り子イエス・キリストを十字架に付けたことを想うと、 神の怒りの「ぶちまけ」をどう受け止めるべきか。 私どもが本当に愛する子を叱るには、再びその子を立ち上がらせるエネルギーを自らが引き受ける。 自分の気晴らしや感情のはけ口にはしない。大きい消耗を覚悟して子どもの前に立って叱る。 そうでなく、お金とモノでその場を凌ぎ自己消耗を避ける子育ては、自己追求人間を仕立てることになりかねない。 自分に益するかどうかを判断基準にする現代人は、その結果かもしれない。 神の怒りとなる「ぶちまけ」の勢いは一人も滅ぶことがないようにとの熱情ではないか。 神に向かって生きることを求め、その生き方に障害となるモノを除去してくださる憐れみの強さがそこにある。 非力で世界に何の影響力を持たない、そんなわたし共の何を見ておられ、 どんなことを神は求めておられるというのか。 それはどんな経験をするかが大事なのではなく、そのただ中でわたし共が神を見上げているか。 口先での信仰に終始して人頼みになっていないかを問われている。 喜び楽しみの時にはもちろんのこと、苦しみ災いの時にも神に向かって生きる信仰に、 神は御手を働かされることを知る。

4月16日 キリストの復活

ヨハネによる福音書 20章1節〜18節 阪井牧師

 日曜日を礼拝の日としたのは人の生活を都合した結果ではない。 主イエスが復活をされた喜びの日であるからと共に確認させられる。 礼拝をし主にある交わりをあえて安息日土曜日ではない日にする困難さを想う。 しかし、それを超える喜びを信仰によって表そうとするヨハネの教会背景がある。 人間の万策尽きる時である「死」を勝利された主の復活の出来事がその信仰の根拠となっている。 出来事は人間の理性を超えている。神の働きはそこにある。 出エジプトの民は前に海、後ろに追撃のエジプト軍に挟まれる限界状況に立った。 主によって指導者に立てられたモーセは祈った。神がそこに働かれた。 海が裂けて乾いた地が現れ、そこを渡った。どうもがいても人間による可能性が尽きた。 そこに神が働かれた。主イエスの体を納めた墓に向かって泣く人に後ろから声をかけた人がいた。 「なぜ泣いているのか」。振り向いて見たその人がイエスだと分からなかったのはどうしてか。 その方を慕った人生の挫折を泣いていたのに、声の主が分からなかったのはどういうことか。 心を注ぎ探していたその人がいるのは求めていた後ろからの声であった。 自分の経験や記憶とは全く違うところに主がおられたことは、示唆深い。 判別できなかったその人から名を呼ばれて、気付いた。甦りの主イエスとの出会いがそこに起きている。 ひとりの人として主の前に立つのは呼びかけの声を聞く時である。 行き詰まりの中にも声が聞こえる信仰を歩みましょう。

4月9日 十字架への道

マタイによる福音書 21章1節〜11節 阪井牧師

 主イエスの一行がエルサレムに入るその日を棕櫚の主日(日曜日)と呼んでいる。 多くの人々が歓迎した。上着を木の枝(棕櫚=ナツメヤシの葉)を道に敷き、叫んでいる。 「ダビデの子にホサナ」と。神の民を強く意識する伝統的最大の祭り「過越しの時期」でした。 ダビデはイスラエルの最大の名君・支配者・王である。ホサナは我が救い、助けて下さい、の意味である。 神の民が異教の民に支配されている現状から解放されたい、との強い願いがその叫びに込められている。 熱心な叫びをどう見るか。今日の私たちの状況に似ているように思う。弱い貧しい者が苦しむ。 生活格差が大きく広がっている。どこにこの解放を求めるか。 エルサレムで主イエスを迎えた人びとの熱心は想像できる。 しかも、エルサレム入城の主イエスの姿は、救い主到来を告げる旧約ゼカリアの預言(9章9節)を想起させるものでした。 しかし、その王は軍馬でなくロバに乗っておられた。その週の金曜日は「十字架に付けよ」と叫ぶ人々の声になった。 意に沿わない怒りの声でしょう。声の熱心や人々の数が真理とは限らないことを学びます。 主をお乗せしたロバの子にでもなりたいと宣教への召しを語る方は、自らを「ちいろば」と称している。 主イエスは王であっても、僕(奴隷)の姿で十字架に歩み、父なる神に徹底して仕えられた。 ここにわたしたちの真の解放がある。主イエスの十字架への道が私どもの救いの極みである。 この方に目を注ぎ続けた今週を歩みましょう。

4月2日 仕えるためには

マルコによる福音書 10章32節〜45節 阪井牧師

 受難の予告が3回語られた。1回目(マルコ8章31節)は弟子たちの「メシア告白」に続いて。 2回目(マルコ9章31節)は「山上の変貌」記事の後。そして3回目(10章32節〜)がエルサレムに上る途上である。 主イエスが彼らの先頭に立って歩まれる姿は弟子たちには異様だったのだろうか。 「驚きそして恐れた」との説明がある。予告には主の深い配慮があったのではないかを想う。 行きがかりから十字架の刑に付かれたのではない。 主イエスご自身が父なる神のみ心に従い、栄光に仕えられるために進まれたであろう。 弟子たちに受け止めることが出来ないことを承知の上で、備えに予告があるように思える。 十字架でなければならない意味は神の栄光に仕えることである。 弟子たちもこの栄光に仕えることのために語り聞かされていたのであろう。 受難の予告後の弟子たちの記事から、私どもの栄光は何かを問われる。 神の栄光をさえ人間の手に届くかのように変質させるのであろうか。 主イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているのか分かっていない」と言われている。 神に仕えるのには人の能力や力量にかかっているのではない。キリストに倣うことである。 主イエスに仕えられてこそ、他者に仕えることができる。神に仕える者とされることを知らされる。主イエスがバプテスマを受けられた時、天から「私のこころに適う者」と言われたのを想起する。慰められ、癒された者こそがそれを携えて他者に向かう者とされるのであろう。 受難節は意味深い時である。

3月26日 祈る主イエス

ルカによる福音書 9章28節〜35節 阪井牧師

 寺社はもともと高い場所にあったらしい。その由来が○○山△△寺などの呼称となる。 お寺の入り口を山門というのもその名残と聞く。静かに祈る場所が山であったと考えられる。 聖書でも、山は神のみ心が示されるところ、神にみ心を求めるところであった。 従って、祈りは自分を磨き修行するのではなく、神の語る言葉を聞き、自分の訴え願いを差し出す対話の場である。 主イエスは祈りにおいて「この杯をわたしから取り除いてください。 しかし、私の願いではなく、み心のままに…」と汗を流して祈られた(ゲッセマネの祈り)。 その真剣さをみる。その間、弟子たちは眠り込んでいた。長い祈りであり、真剣な祈りであったことを示している。 祈りの熱心さは、それほど神のみ心に応えることの難しさ、自分の意と神のみ心への一致のための闘いであった。 「主イエスの祈り」言葉はかんたんであるが手の平を返すようにはいかない。 自分を否定するだけでなく、神のみ心に従うための真剣な姿がこの「山上の変貌」の記事である。 神との関係に集中するのである。エリヤとモーセとは預言者と律法を代表する象徴である。 主イエス・キリストにおいてその完成が示されている。 神のみ心を伝える預言者、神との関係が第一の律法が、主イエスで一つになる。 この主イエスに私たちの祈りは繋がり、神の声を聞くことが出来るのである。 神ならぬものから解放され、荒野の中にも主がおられることを受け取る受難節を過ごしたい。

3月19日 主のご受難と私

マタイによる福音書 6章16節〜21節 阪井牧師

 重い荷物を私に代わって担ぎ、喘いでいるその人のすぐ側で、自分はどうしたものか。 自分で頼んだ覚えはない。その人の勝手、とうそぶくこともできる。 しかし、命をかけてその荷を担いでいたと知るとそれもできない。その人が神のひとり子主イエスである。 受難節はこのこと、私のために呪いの木と言われる十字架への道を歩まれた主イエスを想う時である。 それは私が永遠のいのちにあずかるためである、とパウロは言う(ローマ6章23節)。 断食は古来自分の罪を悔やむ行為であった。ユダヤの人は主イエスの時代にも行っていた。 神の前に行う行為を人に見られることも意識した。本意を変える。聖書への関わりも同じ事が言える。 自分の興味や理解におもねる時、神の愛を知ることより、人の道を尋ねることになる。 「神を愛する」とは、私が神に向かって生きることになる。 ほかのもの(富)に心を向ける時、本質が異なり、私のいのちが失われる。 富そのものが悪や罪ではない。神に向かう心がそこに向けられるところに主イエスの批判がある。 どう用いるか、何のためのものか、誰のためにか、の問いを自分に向ければ自分の在り方となる。 その問いは大それたことではない。日常の生活で選択をする時、その判断の基準が何かを自らに問うことに通じる。 何のために自分は生きるかに通じる。主イエスの受難の出来事を想起しながら、神の愛に応えるためにこの期間を過ごしたい。 神の霊の助けを求めて歩みを続けよう。

3月12日 主の譬えの意味

ルカによる福音書 8章4節〜10節 阪井牧師

 受難節はイースター前の40日間をさす。この数の根拠の一つが、新約聖書にある。 ヨハネからバプテスマを受けたすぐ後に、主イエスが荒野で悪魔に試みられる記事である。 40日間、昼も夜も断食をした後の誘惑が福音書(マタイ4章1節〜)にある。 主の御心に適う主イエスが、全ての人の罪をご自身に引き受けるため苦しみを負われたことを心に覚えるのがこの期間である。 自分との戦いの「克己期間」とする人もある。 外から強いられるのではなく、主イエスとの関係の中で受け止めたい。 大事なことを話される主イエスが「聞く耳のあるものは聞きなさい」と話し始める記事を想起する。 主が話されたこの種まきの譬話はどうだろうか。その意味を尋ねた弟子たちに対する言葉は意外である。 「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人には譬を用いて話す」でした。 譬の4つ特徴から考えたい。 (1)話は明解でも、神の事柄は明瞭ではない。(2)強制ではなく自らがその意味を受け取る。 (3)上からの働きで意味が見えるようになる。(4)反駁できない。 人の警戒心を取り除いていて急所に迫っている。 ルカ福音書は他の福音書と見方を違えてイザヤ書の引用をしている。 悔い改めの機会を主が与えておられる、との確信があろう。分かることが大切である。 しかし、分からなくても神のご計画と信じて主に従う者に祝福を語る。 主ご自身がもどかしさに耐えていて下さる。 主に委ね、成長させて下さいと共に祈りたく願う。

3月5日 み言葉からの喜び

箴言 30章1節〜33節 阪井牧師

 「影響を受ける」のは、自分の欠けを知り、それを補う価値を認めるところに起こる。 日々の生活に自分らしさの欠けを意識する者は生活を変えられる。だが、自分が満たされているなら殆ど影響を受けない。10節は反対側からの言葉と受け取れる。 中傷とは悪口、祝福の反対、呪いとも言える。言われる当人に根拠がなければ、発したところに返っていく。少しでもあれば全体を揺るがす。蟻の一穴を想う。 家の壁に7,8節の言葉を書いて貼ってあるのを見た人は感動したと言う。 地方の教会へ応援に出かけ、持てるもの、積み上げ経験したものを共有したいと喜んで出かけた側が大きい感動を与えられた。 そこにはこの言葉に立ち、真剣な祈りを支えとする迫力を示されたことにあろう。改めて思う。出かけることの大切さである。時間・費用・心使いは重い。 しかし、神のみ言葉を支えとして生きる人との出会いは自分の生活の隙間を埋めるに良い。 父のみ心を求め、徹底して従われた主イエスを通して、人びとは「権威ある者のようだ」と驚いた。人や社会が保証をしたのではない。神の真実を知らされている。 人びとの言う「価値観の相違」に、自分の信仰が組み入れられていないかを想う。 ヨハネ14章6節や10章1節、11節の言葉を味わいたい。神に向かって生きることが全ての基準であることを願う。それは祈り求めることの中に示される。 呪いの木である十字架を通して「本当にこの人は神の子」の告白を生み出す神の力を生きよう。

2月26日 進退窮まる時

ヨハネの黙示録 15章1節〜8節 阪井牧師

 自分の存在が危機に面した時、自分を諦める人と存在確保にどこまでももがく人とを想像する。 流れに身を任すのはどちらであろうか。頑固なのはどちらを意識した時のことだろうか。 聖書の記事から示される神の民イスラエルはどちらに属するのか。 彼らの歴史事実から学ぶべきことを示唆される。何か。「神の裁き」である。 黙示録の筆者ヨハネは幻で「神の怒りの激しさ」を見た。 裁きであるのに、それが驚きであるとはどういうことか。 一切の終わりである裁きは、「神のいのち」に生きることを求めている。 怒るほどに「いのち」を愛している。これに驚き、心を揺り動かされ、目を覚まされるのである。 神の怒りは愛の裏返しとも言えよう。子どもを叱り、懲らしめることが出来ない親がいる。 愛がほどほどになっていないかを思う。真剣に怒ると疲れる。そこでほどほどになる。 優しいの言葉が真実を覆う。その見方からすると神の怒りは異常である。 自らが痛み、傷つき、倒れもする。そして苦しみにうめく。小羊の歌は主イエス・キリストその人の歌である。 出エジプトの物語で、エジプトから導き出された民は紅海を前に行き詰まった。 振り返って来し方を見るとエジプトの軍隊が奴隷引き戻しに迫り来ている。 この進退窮まる時、指導者モーセは祈り、神のみ心を求め迫った。信仰に生きる人の姿勢を見る。 足下は大混乱でも上をみて、祈る静けさを持つ。そこに新しい道が開かれていく。 神のみ手に委ねる歩みをしたい。

2月19日 神の選び

コリント信徒への手紙 一 1章26節〜31節 帆苅 猛 先生

 ユダヤ人は自分たちのことを神によって選ばれた民と語ります。大学の授業で選民について感想を求めた。 「なぜ自分たちは神に選ばれた者と言えるのか。傲慢だ」と。イスラエルの民は決して立派でなく、罪を繰り返す民である。 その民を神は忍耐強く見守られた。彼らの責任はこれに応えることである(コリント一 1章26節以下)。日本も神の国と強調した(大和民族)時代があった。 優秀であり強さだけを認めた。しかし、聖書は弱さを認めている。コリントの教会はパウロが(A.D.50〜51)第1・第2の伝道旅行から生まれた教会である。 分派争いなど信仰に対する違いから様々な問題が起こった。教会の発展の中で色々な階層の人など統制がとれなかった。 パウロはその教会に宛てた手紙に「イエス・キリストの十字架を思い起こすように」と諭している。弱点の中に神の恵みがある。原点に立ち戻れ、と。 キリストによって選ばれ、キリストの身体として建てられている教会に相応しく立っているかを問うている。 子育て支援のプログラムを進めているマーサ先生(カナダからの講演者)は「誰も完璧な人はいない」を中核として、互いに助け合い協力し合うことを話していた。 しかし、助け合い協力し合うだけでは解決できない人間の弱さがある。この弱さの中にイエス・キリストは入ってくださる。 パウロ自身も「私は弱い時にこそ強い」と言った。弱さの中にこそ神が強く働いてくださり、恵みをもって臨んでくださると語っている。(文責 阪井忍)

2月12日 権威の回復

箴言 29章1節〜27節 阪井牧師

 内容を次の3つにまとめ(1)支配する者とその業(1〜14節) (2)人育てへの関心(15〜21節) (3)生活の知恵と神への信頼(22〜27節)とした。 これら人が活きることのへの障害は頑固、かたくなさである(1節)とある。 頑固やかたくなさは一つの姿勢を保つことに拘ることからくる。 柔らかな対応ができる自由が必要である。しなやかさはどこからくるか。 自分の人生経験や知恵の拘りから解放されるところにある。 イスラエルは神から「折り紙付き」の頑固さをもっていた(出エジプト32章9節)。 神は滅ぼし尽くすと意を決めたのにモーセの取りなしで翻された。 聖書に記されたその歴史は神に従い、応えることに何度も失敗した。 ここに知恵の言葉が働いている。 「主を畏れることは諭しと知恵、名誉に先立つのは謙遜(15章33節)」と。 軟弱と謙遜は違う。 自分の意志は崩れると立ち上がることが困難であるが、 絶対的根拠(基準)を足場に持つと一時的な圧力や患難に譲ることがあっても機会を得て再び元に発揮できる「しなやかさ」を発揮する。 開かれすぎるとその根拠をもたないために、外の力に対応する足場、踏ん張りができなくなる。 今日の自由はそれに近い。 拠り所を求めて人は自分の経験と情報と知識を駆使して、神からより遠くへ身を寄せているように見える。 力ずくで振り回すものではなくその人に備えられている人としての権威を回復したい。 人の知恵を超えて働く神の知恵を受け止めることが勧められている。神に委ねる人生を歩みたい。

2月5日 主は避け所

ヨハネの黙示録 14章14節〜20節 阪井牧師

 最近の世情から「不安」という怪物が人々の心をかき乱しているような感触を持つ。 イラク、イラン、イスラエル、紅海、そしてイスラム諸社会…と。 明るさを期待したい冬季オリンピックに遅れて出かけた選手が「結果よければ…」との言葉を残した。 途中の障害を今は気にしない潔さが爽やかであった。 聖書の記事は、厳しい現実の中で信仰を貫き「キリストに結ばれて」歩む人の死を見据え、 「労苦が解かれ、報われる幸い」を語る。人生がむなしいものではない、と。 この信仰を持つ人と持たない人の生き方の違いは大きい。 人生の後半に身体と魂とのバランスを崩して苦しむ人に知ってもらいたい。 「人の子が金の冠をかぶり」はダニエル書7章13節に由来する権威・威光・王権をもって来られる神の裁きの記事である。 鎌の借り入れは天使の声によった。人の願う時との違いに戸惑う。 目前の事柄になぜ神の裁きが行われないか。現代にも通じる。 穀物の刈り入れとぶどうの借り入れが行われる。ぶどうは神の民を象徴する。 その刈り入れによる絞り汁(=血)が広い世界に及んでいる。 血は主イエスご自身でもあり、殉教者のことでもあると考えるなら、神の救いが行き渡ることを意味している。 主イエスが十字架上で息を引き取る最後の記事(ヨハネ19章34節)を想起する。 その記事は脇腹から流れ出る血が罪を清め、水が新しい命を与えるとの示唆を受けることができよう。 どのような時にも主に信頼する者は、主が避け所となろう。

1月29日 主を尋ね求めよ

箴言 28章1節〜28節 阪井牧師

 教会で人の接しうる中で最も権威あるものが聖書である。聖書への接し方がその人の在り方を決める。 本来、人の言葉は時代と環境に拘束される。それを超えてすべての人への神の語りかけ、神の言葉となるのが聖書である。 人の生き方を変えるメッセージを聞くのが聖書への正しい接し方である。自分の状況から適する言葉を聞くのは知恵や知識の事柄になる。 人が知恵や議論を尽くした結論でも神の語りかけに並ぶことはできない。中世の教会は人に偏りすぎた。人の側からでる道筋や道理は神に尋ね聞いて歩む道筋や道理を乱すことを示した。 人は良くも悪くにも変わる。繰り返し神に立ち返る必要がある。この28章は神に立ち返る勧めをしている。日常の事柄、人との関係を用いて語る。指導者が何度も入れ替わる組織、国は立ちゆかない。 根本となるべき神の秩序が見いだせなくなる。故国の滅びをイスラエルは神の裁きと受け取った。大きい犠牲を払ったが立ち返るべきところを確認した。 ルカ福音書の15章にある失われた息子の譬話を想起する。父が蓄積し、分け与えられた財産を全て使い尽くした息子は「本心に立ち返り」父のところに向かった。 遠くに息子を認めて父は走り寄って喜び迎え祝った。父のところにある秩序の中に自分の生きる喜びと意味をみる。 聖書の論理、神の秩序を求めることを示すのが教会の使命である。その使命に仕えるとき私たちは、教会は活き、平安を歩むものとなる。充実した歩みをしたい。

1月22日 主に結ばれて

ヨハネの黙示録 14章6節〜13節 阪井牧師

 迷いに決着を付けさせることを譬えて「引導を渡す」という。由来は身体の死を霊が引き受けるよう導きをつける仏教用語である。 牧師は人の生涯の最後のところで神の言葉を取り次ぐ務めを負い、礼拝をする。主を讃美し、残された者の慰めと励ましを祈る。黙示録の筆者も同じ務めを負ったろう。 人それぞれの生涯を歩み、キリストに生きる信仰のゆえに命を失う信仰者・宣教者(殉教者)の地上最後の現場で牧師の務めを果たした。その状況を身に引き受けながら、今なお自分の人生の終わりを意識する人びとに向けて「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである」との言葉が真実なものとなることを伝えている。 「結ばれる」は「主と共に」よりも「主の中で」の意味に受け取る。神の呼びかけに応え、神の言葉に養われ、神のみ態として示された主イエス・キリストに生きる者には平安と安らぎがある。 それは人の評価とは全く異なる。主の霊がそのことを証ししている(13節)。パウロは「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。 キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです(フィリピ3章8・9節)」と言った。 人間の側から見るときは絶望的であったにしても、神の側から見るとき、そこに希望を見いだし、平安を得る。キリスト信仰に生きるとは「主に結ばれ(キリストの中に自分を見いだし)」てある自分を歩むことである。 すでにキリストの中にある者とされている事実を生きよう。

1月15日 私は知らなかった

ヨハネによる福音書 1章35節〜51節 阪井牧師

 口から出た言葉が本人の意志とは関係なく別の状況に対応することが日常生活で起こる。 「言葉の独り歩き」である。「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ…」とイエスを見て言ったヨハネの言葉から想った。 その後「私の後から来られる…と言ったのはこの方のことである。わたしはこの方を知らなかった。」に対して逆を言いたいのが私たちである。 どういうことなのか。これにはすぐ前(26節)にある「あなた方の中には、あなた方の知らない方がおられる…」と関係あると考えた。 最も神に近い祭司やレビ人たちやファリサイ派の人すら知らない、と。これは神から召されたと自負するユダヤ人にも当てはまり、また教会の私たちにも該当しそう。 自分で知っていると思っているのは誤りではないか。人のどのような努力でも知ることはできない。言葉として語り伝えられ、聞かされてきているが、知っているのではない。 その人が見、直接出会う時に知るのだと強調されていることを想う。しかも、ここには17回?も繰り返してでている単語が「見る」がある。 肉の人は見ても見ず、聞いても聞かない民である(イザヤ書43章8節を参照)ことを知らされる。 主が働かれるとき、事実が私の真実となる瞬間がある。そのとき人は「見えた!」との叫びをあげる。 イエスが盲人の目を開いた記事(ヨハネ9章1節〜)の最後にファリサイ派の人びとに「見えると言うところに罪が…」と話されたことを想起する。 主イエスの目に見られて見える世界を往きたいと願う。

1月8日 午前0時に近い男

ヨハネによる福音書 1章29節〜34節 阪井牧師

 日が変わる直前の、緊迫した状況に立っている人を意味して題を付けた。バプテスマのヨハネである。 元来、遊牧民は「水きよめ」を行っていた。ユダヤ人はイスラエル(神の民)であるからその必要はないと考えた。 自らを汚すことが神を汚すと考えて、汚れに対して敏感な民である。その人たちに、ヨハネは悔い改めのバプテスマ(水きよめ)を求めた。 当時のユダヤ人には特別の意味を持ったはずである。旧約の言葉に生きるユダヤ人は、ヨハネをメシアまたは預言者(申命記18章15節)と考えていた。 多くの人が辺境の地、ベタニヤに近いヨルダン川でバプテスマを受けた。都エルサレムで神に仕える特別な人たち(祭司・レビ人たち)は、複雑な状況で遣い(いつもは敵対関係のファリサイ人)を出して確認した。問い「あなたはどなた?」への答えが「ヨハネの証し」である。 自分ではなく、イエスをだれと言うか、となっていることに心を留める必要がある。自分を語るのは証しではない。 「目があっても見えず、耳があっても聞こえぬ民(イザヤ書43章8節)」であっても、そのイスラエルを用いて諸民族に神を証しさせる方は、懐が深い。 私たちにも証しを求められる。主イエスをキリストと証しするには余りに頼りないに。 私たちにもかかわらず、あえて証人として立てられる。ヨハネその人がどうこうではない。来られる方を指し示す使命を負うこと、従うことによって一切を失うことでもあった。 この人が神の前にもっとも尊い、と主は語られた。あなたは?

1月1日 父の家のイエス

ルカによる福音書 2章41節〜52節 阪井牧師

 教会暦の一年はアドベント(待降節)から始まる。ユダヤはニサン(アビブ)の月から始まり、神の前に出る過越祭(出エジプトの記念)を祝う。 生活の規範(決まり事)を記した申命記16章にその起源を見る。先祖の歩いた歴史を記憶に残し、意味を後生に引き継ぐ。 神の約束の地は、異教の民が生活をし、彼らなりの信仰を生きている地である。神の使命を担うイスラエルの民が歴史に生き残り、使命を果たすためであり、新しいユダヤの慣習を積み重ねることであったろう。 12歳の少年イエスとその両親とがエルサレムに上るのは信仰的意味をもった慣習であったことをルカは語る。 今日でも伝統的ユダヤ人たちは13歳になった男子を祝う特別の祭り(バル・ミツバ)をする。先祖の伝統を継ぎ、神の民の責任を担う者となったことを喜び祝う。 この祭りに備えた準備もあったとも考えられる。ところが一緒の旅仲間の中にいなかった。一日分の帰路を進んで気付いた。 3日をかけてエルサレムの神殿境内でラビ(学者)たちといるのを見つけた。復活の記事を想起する日数であり、主の使いの「なぜ、生きた方を死人の中で探すのか」の言葉を思う。 また、イエスの「『わたしが父の家にいる』ことをご存知なかったのか」は、受難週の宮きよめの記事を想起する。 この記事を通して主イエスが横の(人間)関係と縦の(神との)関係の座標軸の中心に位置しておられることを知らされる。 神の創造のみ業に共に生き、仕える信仰の歩みをしましょう。


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