日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月30日 約束による相続人

ガラテヤの信徒への手紙 4章1節〜7節 阪井牧師

 神を必要としない社会を「成人した社会」と呼ぶ人がいた。社会が成り立つには要となる基準(はかり)がある。その「はかり」を「世を支配する諸霊に奴隷として仕える」と聖書は語る。 それぞれが正しいと主張すると、周囲がその力に押される。本来の自分の姿が失われる。ここに自由の課題がある。神の元に与えられた「律法」はどうか。戒めだけではないことを、前章では「キリストのもとへ導く養育係」と説明する。 それは自立ができるまでは保護と導きをする働きを示す。律法は単純に拒否や否定すべきではない。ただ、律法のもとでは誰一人罪から自由にはなれない。自らが罪の奴隷であることを自覚するだけである。 この律法から解き放すために主イエスが人になられた。神の子が罪を自覚させる世界・律法の世界に生まれ、すべての人を神の子とする恵みをもたらされた。神の恵みを受け継ぐ相続人の一人にされた。 それには、主イエスが私のキリスト(=救い主・メシア)であることを告白することが求められる。人のわざとしてでなく、信仰による。その信仰は神の霊が働くことにあずかる。信仰が「与えられる」と説明されるのはそのことである。 主イエスが、命の創造者である神を「アバ、父よ」と呼ばれたように、神の子とされた私たちも、そう呼ぶ(祈る)。資格を考える時、恵みは質を変える。神のなさることは、人の世界では全く理解できない。気持ちが悪いとも言える。 しかし、この事実に立つのが教会の使命である。感謝して受けよう。

12月23日 その名はインマヌエル

ルカによる福音書 1章26節〜38節 阪井牧師

 400人くらいの住民で65才以上が6割を越える(北海道離島)への派遣医師が見つからず、医局の教授自らが単身赴任をしている話があった。 ガリラヤのナザレはおおよそそれくらいの人数と想像する。互いのことを知り合って生活をしている。 ヨセフの「許嫁のおとめ」はマリアだと誰もが知るところである。結婚の前提より、すでに契約をした法律用語の関係という。 「おとめ」も一人の女性としての法律用語である。たとえ年齢が12〜3才でも、女の子とは違う意味を持つ。 天使から告知を受けた時に受けた衝撃は、ザカリアがヨハネの誕生予告を受けた不安や恐怖を越えている用語が用いられている。 マリアは戸惑い、考え込んだ、とルカ福音書は説明する。生きる希望を取り去る告知であったろう。ましてや直接天使からの告知である。 男から女に直接言葉をかけることが異常であった社会慣習の時である。「主があなたと共におられる」の言葉が、マリアを支えたと想う。 創世記28章に、ヤコブは親の元を離れて旅の途中、岩の陰に野宿している時に聞いた言葉でもある。普通ではあり得ない状況の中に主が共におられることがヤコブを支えたことを見るように、マリアに起こった。 『あなたが、何処にいても、どんな時にも、「主が共にいる=インマヌエル」』の言葉がマリアを支えている。み子イエスの誕生はこの出来事である。 私のクリスマスはその喜びである。神と共に歩みを新たにする恵みの時となっていることを感謝しよう。

12月16日 誰に対して?

ヨハネによる福音書 1章19節〜34節 阪井牧師

 「証しをするために…(ヨハネ1章7節)」の聖書の言葉をどう読むか。主イエスは何気ない言葉を発しておられるが、聞き方によっては自分の存在を揺るがされる。 メシアの先駆者として遣わされたヨハネの誕生の次第は、ルカ1章5節以下にある。聖霊に満たされた人で、イスラエルの人々を神である主のもとに立ち帰らせる使命を帯びていた。 その働きは「都」ではなく、「荒野」で叫ぶ声であった。群衆が集まった。当局筋から尋ねらるほど、社会に風波を立たせる存在となっていた。 だが、「わたしはその方の履物のひもを解く資格もない」と応えている。主イエスを見た時「見よ、神の子羊…」と指し示しながら、それに続いて「わたしはこの方を知らなかった」と聖書にある。 一体これはどういうことか? この「知る」は、知識や情報を手に入れることではない。自分の存在に関わる人になっていない意味ではないか。事実、血縁の関係があり、自分の使命に関わりながらも「知らない」生き方を語っているなら、他人事ではない。 その筋から「あなたはどなた?」と尋ねられたら、自分を語りたくなる。聖書の記事は、私たちに存在を問うている、と思う。指し示す方と自分との関係はどうか。 クリスマスを祝う備えの時(アドベント)に、この方が子羊として血を流すのだ。なぜ、そうされた?誰が、そうしたのか。神の子・主イエスである。否、誰に向かって。誰に対してであったか。このわたしのために創造主である神が…と改めて思う。生きる力を受ける。

12月9日 暗闇に大いなる光

イザヤ書 9章1節〜6節 阪井牧師

 苦し紛れに「ああ、神さま仏さま…」と叫ぶ。思いが叶わないと「神も仏も…」と世を呪わんばかりになる。それは正しい。自分の思いのままにならない神はいない。 創世記の天地創造の記事は「闇が地の上を覆っていた」とある。正しくこの闇が、神のいない世界である。 しかし、神が「光あれ」と言われて闇は退けられた。ここに神の秩序が示されていると受け取ることができる。 見た目には事実世界が成り立っている。けれども、そこに神との関係がなければ闇である。 経験や見識から成立して見える世界でも、人間の知恵は神の秩序を排除する。それによって「いのち」が危険にさらされることになる。 1節の「闇の中を歩む民」とは、ユダの王アハズによる決断でアッシリアの力を頼りとする政治手腕から得た平安のことでもあった。歴史はその結果を示している。 アッシリアの圧力を受け、確かに北イスラエル(エフライム)の力を払拭できたが、関係をよく保つためには重荷を担うことになった。 貧しく、弱い人々にはただただ苦しいだけである。その人々に、「ひかり」が差す。「みどり子」が到来することを確信している預言者イザヤは、人々に語った。 「その名は…」と。驚くべき指導者(口語では霊妙なる議士)は、聞く耳を持つ方の意とか。 カウンセラーの意味を示している。私たちが神に語り、神から聞く世界となった。人間中心の世界の暗闇に全ての人を照らす「まことの光」を見、光に信頼する歩みを続けたい。

12月2日 そうっと示したい

マタイによる福音書 6章25節〜34節 阪井牧師

 ガリラヤ湖畔の丘陵地に山上の垂訓教会がある。諸外国からの観光客を迎えても周辺に住居もなく、教会から湖畔に向けての斜面は人手の入った様子もない。3月末の訪問時に聞いた案内「あと一ヶ月もすると、この緑でも、全面が茶色に変わる」は奇異だった。 死海方面からの強烈な熱風が原因と受け止められなかった。一面の緑に、紫や黄色と赤が点在する景色の見事な美しさ、「空の鳥、野の花を見よ!」が容易に想起できた。詩的表現ではない。生活に苦労しない人の言葉と勘違いしそうだが、主イエスは「枕するところもない(8章20節)」との言葉から厳しさを歩まれたと想う。 だから、行き詰まった人や生きる希望を失いかけている人が集まり、慰めと力と希望を受けたであろう。まだ自分で何とかなると思う人は、真剣になれない。 「一日の苦労は、その日だけで充分」は、あなたは生きる価値を持ち、神の前に尊いものとして保たれているから「思い悩むな」と語られた。辛い嫌なことを放り出さないで、今日一日その身に引き受け、誠実に歩みなさい。 「わたしが共にいる」をそこに聞く思いがする。親にすっかりまかせて、伸びやかに生きる子どもをイメージする。神と富に兼ね仕えることができない私たちは、何処に集中して生きているか。地の上か、神か。 子どもが大人のようになっている姿を取るより、伸びやかな姿で生きたい。そこに、平和と喜びが表れよう。自分を失っていない証しをそうっと示したい。

11月25日 辱めから栄光へ

イザヤ書 8章9節〜22節 阪井牧師

 目先のことに懸命であるが、結果としてマイナスに努力していることがある。川柳に「よくやった、状況が変わった、なぜやった」は笑えるが、自分の生き方となると笑えない。 ユダの王アハズは政治的に名君といわれる。だが、神の前には正しくないとの評価を受ける君主であった。イスラエルの民を考え、国家の平安を守るその根拠が間違った王であった。 政治的知恵、外向的手腕を発揮しているのだが、神から離れることに努力をしたのである。もちろん、自ら求めてではない。目先を精一杯配慮する結果、神との関係を後回しにしただけであろう。 イザヤは「主に信頼し、いのちの泉を受けよ」と告げた。証人は息子シュアル・ヤシュブ(残りの者は帰るの意)である。しかし、王アハブは耳を貸さない。イザヤは第2子に与えられた名マヘル・シャラル・ハシュバズ(分捕り物は早く、略奪は速やかに来るの意)でみ心を示した。 イザヤは目先が見えないのではない。神に信頼することが他の何よりも重要であることを、日常の生活を用いて語り続けた。世間の口目は厳しい。しかし、神が世界を造られた。その恵みにあることを信じるなら、本来恐るべき方はこの方である。 自分の予測や正体不明に恐れを覚えて、対応に心を注ぐうちに、神から離れることになる。世間の辱めは辛い。だが、神の栄光に用いられることに較べるものではない。 もとより、私どもは世間が認める存在ではない。だが、この存在そのものが神の奇跡「しるし」である。神が働かれるのだから。

11月18日 目がかたる?

マタイによる福音書 6章19節〜24節 阪井牧師

 主イエスの出来事がエルサレムであった。そこからエマオに旅する弟子二人の物語がある(ルカ24章)。 一人の人が彼らの会話に加わった。夜エマオの泊まる家で共に食卓を囲んで、その人がパンを取り、祝福してさき、彼らに渡しておられる時、目が開けて、その人がイエスであることが分かった。すると、み姿が見えなくなった、とある。 この場面は最後の晩餐の場面に似ている。『パンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに言われた「これは、あなたがたのために与える私のからだである。…」ルカ22章18節』。 目は脳の視神経に直結している。眼球に異常が無くても脳に繋がらないことがある。見ていても見えない。 主に向かい合っているのに、その方がだれかを認めることができない。だが、神に感謝したパンを渡された彼らは、向かい合っている方がイエスであると認めることができた。 すると、その姿が見えなくなった、との記事は深い。「体のともしびは目である」の体と祝福されたパンを重ねると、主イエスの存在が託されたことになる。ご自身を託しておられる。すると目に見える主イエスは必要でなくなる。 自分の目で確かめられることによって、主はご自身を託されるのではない。主のみ心が託される時、「道々主がお語りになった時、お互いの心が燃えた…」との会話になっていたのではないかを想う。 主イエスを託された者の目も自分の脳に繋がる目も同じ目である。だが、見えるものが違う。神の命を携えているかいないかの。

11月11日 栄枯盛衰を見る

イザヤ書 8章1節〜8節 阪井牧師

 政治手腕の優れた南ユダの王アハズに、人よりも神に信頼することを預言者イザヤは勧めた。 生活経験に裏打ちされた人間の知恵を頼る事が、神を離れ、裁きを受けることになると聞かされた。 だが、アハズは目前の危機に王として自分の知恵・政治手腕を発揮する。 その進言に際して、イザヤは息子シュアル・ヤシュブ(神に信頼する者は残る)を連れた。王は聞く耳を持たない。 そこで再び神の意志として第2子を与えられた時、その名前をマヘル・シャラル・ハシュ・バズと付けた。 「分捕り、早い、略奪、すみやか」の意味である。日常の生活を通して、神の御心を示し続けることになる。 何処の親が自分の子どもに神の裁きを名とするかを想う。 周囲の目や口に耐え続ける生活は、神に信頼する証しとならざるを得ない。 ルカ福音書の祭司ザカリヤとエリサベツ夫妻の物語、つまり神の救いメシア到来の預言者、 バプテスマのヨハネの誕生の物語を想起する。イザヤが生活の中でする証しは、悲惨と敗北、 家族離散と神の民の破れ、異教徒に蹂躙されることを示すことである。 滅ぼされる意味を持つ名前をもって毎日を暮らす預言者家族の苦労を想う。 しかし、エルサレムの地下には(神の)命の水が流れており、目に見えなくても泉の水となる現実がある、 と告げる。目先の不安解消に人の力を求める信仰の崩れを警告する。 助けや援助を求めたその相手が、激しい敵となって攻撃をしてくる現実にも神の恵みは離れない。 たとえ傷を受けても。主に信頼しよう。 主イエスの前にいる人たちは皆祈った。ただ、その祈りは本質から離れていないかの問いがここにある。 「かたち」は同じでも、神に向いていない場合がある。人影のない所でこそ祈りの自由が生きる。 神に委ねる時がそこにある。すべてを知る方、目に見えない方に向き合うには、暗い方がよい。 人間との距離が一定に保たれてよい。その祈りの基本がここにある「主の祈り」である。 新しく造りかえられる人は「主の祈り」を祈る。 祈る人になるところに証しがある。土の器に主の宝が盛られるのである。

11月4日 祈るときには

マタイによる福音書 6章5節〜15節 阪井牧師

 忙しくて食事をする時間がない、と言ってもそのままではない。空腹のため、 また体力を維持するためにも口に何かを入れる。さて、魂の場合は空腹感があるだろうか。 痛みや支障、不都合があれば対応する。ところが、体も自覚症状がない場合は危ない。 普段の注意を怠ると生命の危機と向き合うことが起こる。 また、異常を覚えて診察を受けると、医者の問診がある。 もしその時、言葉で説明ができないとどうか。海外旅行の急所でもある。 言葉が通じないゆえの危機である。「バベルの塔の物語」は関係を失った姿を暗示する。 神の創造の業は言葉から始まった。神の言葉が私たちの存在の根拠だ、と信仰によって語る(創世記1節27節)。 神のかたちとは、神に向かい合う存在(これが人格)のこと、神の語りかけに応える関係に創られていることを示す。 ここに祈りの本質がある。語りかけを無視したり、一方的に喋るなら本質を逸脱する。

10月28日 世の知恵、不信

イザヤ書 7章18節〜25節 阪井牧師

 矢折れ、力尽きた状態なら、藁をもつかむ思いで助けを求め受ける。 限界まで自分の経験や知識を使い尽くすのが、上に立つ者の本懐であろう。 南ユダの王アハズの心意気を想う。預言者イザヤの言葉「神をのみを頼め、神のしるしを求めよ」をアハズが拒んだ理由はそこにあると考える。 精一杯力を尽くし、自分の才能と経験を拠り所に歩む姿勢は今日の私たちとて同じである。 目前のエフライム・シリア同盟に対して,アハズは、その先の北方勢力アッシリアを心頼みにし、 南の強大なエジプトを意識していた。味方の時は心強い。だが、敵方になると逆に強さが脅威となる。 頼りにし、味方にしたい強大国が襲いかかってくる。 安定よりもむしろ、決定的な苦痛と滅びをもたらすことになる、とイザヤは語る。 そして、豊かで富んだ農耕と牧畜の生活から追いやられて、僅かな牛と羊で生活を支える遊牧生活、 約束の地に定着前のかつての生活に戻ると。 知恵や経験による新しい試みが、神を信頼することから遠ざけるなら、神の裁きを引き受けることになる。 今日の開拓の技術や文明の力が便利さだけでなく、人の生活を追い詰めるのに似ている。 近年、アマゾンの流域が大豆畑に変わり、アジアに向け食料として大量に供給しているらしい。 しかし、一方で森林が失われて地球温暖化の一因になっているかも知れない。 この一年間で東京都の6、7倍の面積の森林が失われているらしい。 開発の指導と技術は日本からと聞く。神の知恵を歩みたい。

10月21日 信仰の営み

マタイによる福音書 6章1節〜4節 阪井牧師

 ここは一つのまとまり(マタイ6章1節〜18節)施し、祈り、断食の最初の部分にあたる。 生活と信仰が一つであった時代、普通の社会生活は「神の掟にかなう」律法を生きることであった。 これら律法の規範以上の事柄は特別であり、信仰熱心と見た。主イエスはそのことを否定しない。 信仰の本質から外れ歪むことが起こっていないかを語る。人の目や他者を意識することの中で起こる。 神から受けた恵みの喜び、神の強い愛に応える生活が変質することである。 行為そのものの欠けや補いを問わない。回復すべきポイントに言及しない。 神に向かっているつもりでも、その視野に人影がちらつくことから本来の意図を外れていく。 マルタとマリアの話(ルカ10章38節〜)を想起する。主イエスをもてなす思いが変質している。 また、湖上を歩いて来られた主イエスに近づくため、その声に従いペトロが湖上を歩るきだしたが、 強風が気になると歩けなくなった記事もある(マタイ14章22節〜)。 よく気がつく、気配りができることと、主イエスを信じ神を信頼することとは別であることを思わされる。 「施す」ことが神に向かうことの中から、つまり信仰の営みからのものかどうかが鍵となる。 「神の命に生きる人に仕えること」が本質である。よそ見をすると的を外す(罪)ことになる。 施される人にも気付かれない姿は、主イエスにあって神が私たちに向かっておられるのと重なる。 神が向き合っていてくださる恵みを受け取りたい。 私どもの信仰の営みは主に支えられている。

10月14日 聞け!主の約束

イザヤ書 7章1節〜17節 阪井牧師

 〈雄弁は銀・沈黙は金〉との言葉がある。〈負けるが勝ち〉の慣用語もある。そこには見えない相当のエネルギーが要る。判断の基準に知恵、ある意味では信仰が関係してくる。見えないことの究極は人間を越える神である。教会はこの信仰を土台にして立つ。 見えるものを気にかける時、本来の姿を失い歪む。神の言葉が語られ、聞かれる事によって世に向かって働く。主が共におられる〈約束〉を受けている。ところが徹底できないのが私たちである。気が利く、如才ない人に惹かれる。第一が不十分だと思うが故に、せめてその補いにと心を煩わし、落ち着けない。 マルタ・マリアの記事を想起する(ルカ10章38節〜)。主イエスの「無くてならぬものは多くはない。一つだけ…」は深い。若者より年輩者、人の上に立つ人に、責任を多く負う人ほどその傾向が強い。アラムとイスラエルの連合は、北の脅威を意識して南ユダに同盟参入を誘った。 だが、ユダは断った。連合が圧力を加えてきた時、イザヤは遣わされて預言をしている。「落ち着け、静かにせよ、恐れるな」と。 「危機の中で真に信頼し、心を置くべきはどこか。見える人間の知恵が造り上げたところには平安はない。神に信頼して、神のしるしを求めよ」と。 王アハズは「主を試さない」と断った。いかにも信仰的だが、荒野の主イエスとは逆で、神と距離を置く姿勢である。そこで与えられたのが「インマヌエル」の約束である。どこまでも憐れみ深い恵みがそこにある。新約はそこから始まる。

10月7日 頭でなくからだで

マタイによる福音書 5章38節〜48節 阪井牧師

 預言者ナタンの話から「主は生きておられる!」と憤ったのは、あの名君ダビデである(サムエル記下12章)。自分がその話題の人物とは想わなかった。知らされたダビデの驚きは大きい。主イエス時代の律法学者やファリサイ派の人たちが一般の人たちより遙かに熱心に律法に向かい合っていた。 だから、主イエスから「彼らに勝る義を生きよ」と聞いた人たちは戸惑った。自分たちよりも彼らの義が勝っていると想っていたから。具体的な例を聞いた。「腹を立てるな」「姦淫するな」「離縁するな」「誓うな」そして今、「復讐するな」を聞いている。 律法を行う義が社会規範の根拠とする所に、「しかし」と主イエスは語る。人間の相互関係の根拠をさらに深い所に目を向ける。当然と認められる権利をさえ用いない。徹底して相手の意志を受け容れる。「右の頬に左も」「下着に上着も」「1ミリオンに2ミリオンも」「借りようとする者に与える」と。 ここには、自分にもそれが必要であることを承知の上で、そして相手の求める以上のものを、しかも惜しむ心ではなく進んで差し出すのです。主イエスの姿、十字架を担い歩み続ける姿と重なる。「敵を愛する」のは、頭で整理が付くことではない。 理屈にならないことを話されている。私がここにいるのは、この理屈を越えた主イエスによる愛の恵みにあることを覚える時、恵みに応えたいとの思いが湧く。生きる力と希望を持つ。主が完全であることに連なる者とされていく約束をここに受け取ることができる。

9月30日 呼ばれています

イザヤ書 6章1節〜13節 阪井牧師

 物語は、その時の設定から始まるのが常。イザヤの召命の話も同じく「ウジヤ王の死んだ年」とある。 生活の歩みという歴史の事実がそこにある。召命とは、神からの語りかけに、人が応えることである。つまり、人の歴史に神が働いておられることを示すことにもなる。なぜ、そこ?その時? ウジヤ王は南王国の繁栄と安定の時代の統治者で、52年もの長き政権を治めた。 国内はもとより、国外にもその評判が伝わっていたらしい。王の死んだ年、イザヤは天を仰いだ。主に仕えるものの讃美で神殿の入り口の敷居が揺れ、中は煙が満ちていた。 神の臨在に、イザヤは自分の罪を告白した。ガリラヤの湖で主イエスに出会ったペトロは、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」を想起する。 自分の経験や知識また力量で召し出されるのではない。神の聖によって清い者とされ、召し出されている。 「その時」まで神の声(召し出し)が聞こえなかったことを想う。罪赦されて「呼び声」が聞こえたということは、耳だけで受けるのでなく、心の中に神の声が届いてくること、それに応えることができる者とされていると言えよう。 神のみ心を携え、告げ知らせる者にされている。これは、告げ知らせることの責任を、遣わし託された方(主)が負うことでもある。 イザヤは応えた「私がここにいます。私を遣わしてください」と。格好よすぎる、と想うのは人の力量で考えるから。使命は「人の受け」に関係ない。あなたも呼ばれています。

9月23日 然りと否で

マタイによる福音書 5章33節〜37節 阪井牧師

 人の温もりや息吹が感じられない言葉は空しく響く。定款や約款はその極みである。 しかし、聖書の世界は、その約束(契約や誓約)が関係や秩序を維持するために必要なものであった。「神はご自分に似せて人を創られた」とある。 一対一の関係を示すものと受け取ることができる。神がイスラエルを神の民とする約束は、民を責任者に認めることである。どのように責任を果たすか。 人としての存在を賭けることに通じる。「ごめん!」謝って片が付かない。一生担い続ける、人生に関わる。自分の側から回復できない。 相手に全てを委ねるしかない。主イエスの「誓うな!」は、ここにある。神との関係が背景にある私たちは、神の支配にある。 人の手でそこを汚すことが「誓う」ことに伴うことを知る。神との破れの償いは、自らの力の外にある。 神が自ら傷み傷をうけ、独り子の十字架の「みわざ」による回復を受ける。自らの受けるべきを代わっていただいた身、新しい契約・誓いの民との自覚は信仰に基づく。 誓いの具体的な現れが礼拝である。礼拝が中心である教会に、自分はどうなっているかの問いにあたる主イエスの「誓うな」を正しく受け止めたい。 神のものとされた私共が、神になることを禁じている。穏やか、柔軟は真実を歪める。 神との契約(約束または誓約)が、その人の世間評価に陥ることを禁じる。だから、破るものは姦淫にあたる。主イエスの真実や神への誠実さが礼拝の純粋さにある。 主の「然り」と「否」に生きる者でありたい。

9月16日 光の失せた世界

イザヤ書 5章25節〜30節 阪井牧師

 この夏を「暑さとの闘い」であった、との声に接した。病床にあって空調が受け付けない人の声であった。 窓からの風で暑さと息苦しさにあえいで耐える闘い、それは生きることへの真剣さでもある。 また81才過ぎの夫人が戦争体験を語り始めた。真剣に聞く人が訪ねて来、耳を傾けることに理由があった。 神の民と言われるイスラエルの人にこの神の審きの記事をどう受け取り、後生に何を託したろうか。 単なる自然現象と受け取れもする。しかし、イザヤはこれを神の審きと語った。神との関係において目前の事柄を見ている。 現代の生活には、目や耳を覆いたいことが起きている。先ず自分のことを愛せないで他の人を愛せるはずはない、との論理である。 もし、この論理を貫くなら、主イエスの歩まれた足跡はどうなるのか。 十字架の出来事は救いではなく、正しく呪いの事件で終わる。イザヤの預言は、地震や嵐(台風) が避けられない圧倒的な自然の恐ろしさを語ることではない。 恵みとして与えられた神の召しが、自分を喜ばし満足するだけのものにした、と神の怒りであった。 その背後には神の深い憐れみがあるように想う。怒りが、自分の鬱憤晴らしであるならそれでもよい。神の怒りは民への愛である。 エネルギーと自己犠牲がともなうから。私たちの希望や光はこの神の深い憐れみに根拠を置くことが許されている。 人の目には光がない闇であろうとも、希望の約束と使命に応えることに命の鍵があることを学び取りたい。

9月9日 主に知られている

マタイによる福音書 5章27節〜32節 阪井牧師

 いぶかしく思える言葉でもあるが、主イエスの先の話(マタイ5章17節〜)を想起したい。 「あなたがたの義」は、律法と預言者の完成者主イエスと関係がある。さもないと律法学者やファリサイの人たちにまさる義は歪む。 西洋歴史に、極端な禁欲生活をした人たち(カタリ派やアルビジョワ派)に似る。 人間の中にある罪や汚れを払拭することを熱心に求めると、自分の存在を失うことを喜ぶか、神を離れることになる。 異常でも周囲が同じなら違和感なく同調できるのが若者の柔軟さ。彼らから頑固に見える年配者は時間を要するが、吟味する知恵を働かせ、自己責任の確認だとしたら重要なことである。 ユダヤの世界では、モーセの律法に根拠をおいた義の秩序を求めた。主イエスが「あなたがは〜聞いている。しかし」との話は、それとはかけ離れた基準を示されたから、驚きまた戸惑うのである。見えるもの、触るもの、頭で理解できると考えた基準ではない。 そこに根拠をおく義ではなかった。主イエスの「姦淫」とは、神の前に人を損なう基準の見方である。人の時の中での判断を越える。 時の中で判断をすると、「罪を犯す右の目」に対して左の目が問題になる。人の命が危うい時に、目の右や左は重要ではなくなる。 本来誰一人として神の前に義であることはできない。だからこそ、主イエスがおられることに救いがある。その義は十字架に続く。 裁きの厳しさは購いを伴う恵み深いものである。主は知っておられる。救いを求める人のことを。

9月2日 みよ、主のみ業を!

イザヤ書 5章8節〜24節 阪井牧師

 山上の説教「幸いなるかな!」と対照的な言葉「災いなるかな!」がここに繰り返される。 神の国の人々と地上の人々との対比でもある。利権を侵す者、酒に酔う者、神を軽んじる者の姿の真ん中で(16節)、 正義の故に神が高くされ、恵みの言葉の故に、崇められる、とある。人間の汚れの中に聖なる方が自らを示されることを想う。 預言者イザヤもユダヤの人々と同じ位置にあることを自覚し、神の憐れみを願いながら託された使命の言葉を語る。放置し関わらない方法の神の裁きではなく、徹底して関わる神の裁きこそが憐れみであり、愛の姿でありましょう。 人間の汚れや罪がどれほど頑固で清めることに困難であるかを知っておられる。他人事なら容易に認められるが、自分のこととは認めたくない。 TV番組は他人事としてみている限り、人の痛みも娯楽となる。容赦のない神の裁きも同様である。自分のことにならない限り受容できる。が、自分の生活が満たされているのはどこから来ているかを問われると困る。 そこには主の前に共に喜ぶことがない。感覚が求める快楽は自分を喜ばすことに集中する。やがて自分らしさを失い神から遠のく。現代の私たちの姿でもある。 ある人は言った「愛は感覚や感情だけではない。意志するものだ」と。神の言葉で生きようとする私たちは、主のみ業の中にあり続ける者でありたい。主イエスおいて示されている神の愛を侮ってはならない。 主のみ業(主イエス)を仰ぎ見つつ歩みを続けたい。

8月26日 仲直りへの道

マタイによる福音書 5章21節〜26節 阪井牧師

 手段が目的化することがある。目的が失われたり、歪められたりする。 直前(20節)にある「あなたがたの義が律法学者やファリサイの人々の義にまさっていなければ…」 との主イエスの言葉から意識させられる。義つまり神の前に正しいことを誰もが求める。 彼らの熱心な求めは、律法への取り組みにある。人々は尊敬し学んだ。 だが主イエスは、それに「まさるべき」ことを告げる。どういうことか。 律法は、手段であるとするなら理解できる。目的を見失い、外れているなら、 本来の目的に拘ることが「まさる」ことになるはずである。円滑さや利便さが人間存在を損なわせるのに該当する。 現代の課題は、人の「いのち」の軽薄化である。 自己主張や自分本位または「お金」に代表するモノが重くなる傾向にある。 律法の中身は(1)神を愛する、と(2)隣人を愛するである。(1)を失うと(2)の根拠は何処に求めるか。 自分かモノになる。その世界で成人した人にとっては、義とはどういうものになるか?容易に想像できる。 人が人として生きることを求める手段が、人を苦しめ、生きることの妨げや障害になっていないかを問う。 怒る者、バカという者、愚か者という者には同じ魔性を持っている。 主イエスは「おバカさん」として十字架に向かい、この世を生きられた。 私のためであった。私はその方の義によって生きている。 だから、自分の力量を越えさせるその方に従う道を選びたい。 平和への道(仲直りの道)は主イエスが既に切り開いておられるのだから。

8月19日 歌おう、愛する者のために

イザヤ書 5章1節〜7節 阪井牧師

 そこに至るまでの労苦が収穫の喜びを深くする。 本当の喜びを味わい知るのは農作業者と思う。だから収穫は祝いと喜びの祭りになる。 その時、カナン信仰は豊穣の神への感謝となり、イスラエルは捧げものを携え、創造の神を礼拝し、 感謝と喜び祝う。賑わいと宴の中で預言者イザヤは「愛する者のために、ぶどう畑の歌」を歌った。 その場に相応しいと賑わいの中で誰もが期待した。「ぶどう畑」には2つの意味をみる。 (1)愛される花嫁、と(2)イスラエルの民(エルサレムまたはユダの人々)である。愛する者とはだれか。 (1)なら花婿、(2)では神となる。愛する者は肥沃な丘をよく手入れして、 よい実を結ぶはずの「よいブドウの木」を植えた。1年や2年で切り上げるつもりはない準備が整っている。 強い期待と篤い想いがそこに見える。ルカによる福音書13章6節〜9節を想起する。 実りを結ばない木を「切り倒せ」と畑の主人が命令を出した時、 暫時機会を求めて取りなす園丁の譬えを主イエスがされたあの話である。 イザヤの歌は急展開する。実りは確かに付けたが、それは「酸っぱいぶどう」で、 熱心な期待に反するものであった。 そのことは、(1)神の心を傷める(2)外からの障害を招く(3)異邦の民が力を持つ(4)いのちと豊穣の手段を失うことになる。改めて「愛する者」の「こころ」を受け止め直したい。 すでに、呻くような執り成しの祈りが十字架を通して与えられている。 知らないふりをして自力による生活を考えてはならない。

8月12日 大きい、小さい

マタイによる福音書 5章17節〜20節 阪井牧師

 突然、日常生活の指針「ものさし」を問われたら、その答えはどうだろうか? 1946年11/3発布、その翌年5/3施行の昭和憲法(現日本国憲法)が日本人一般の「ものさし」であろう。 それまでの明治憲法(大日本帝国憲法)は天皇が中心であった。 天皇のために臣民(天皇の民)は財産や命をさえ差し出す権利と義務があった。 比較して昭和憲法が理想過ぎる「ものさし」と見る人が居ても不思議はない。 現実との齟齬を解消しようとする意見も頷ける。文化や言葉、状況からの判断や主張に思える。 その根拠を知らない人が多い。明治維新、敗戦後の昭和維新の弱点に思える。 主イエス時代のユダヤ人、特に律法学者・ファリサイ人たちも同じように見える。 指針を「律法」としながら、信仰が支配者や権威の地位にある人に都合よく解釈される。 神の民の尊厳(今日の基本的人権)が主イエスに示されると、 徹底して混乱者として抹殺をするため言葉の律法を強いて迫害(十字架処分)した。 そうする彼らは神の前には「小さい」と言われる。 一方、あなた方(主イエスを律法の完成者として受け取る者)は、自分の力量で律法を全うするのではなく、 この主イエスに与る者とされ、神の前に「大きい」と言われる。 あなた方の義が律法学者やファリサイの人たち(その道の専門家)以上であることが求められる。 私たちの力量での求めであろうか。慰めであり、生きる喜びのメッセージを聞き取りたい。 主イエスと共にある人たちであることに、その恵みがある、と。

8月5日 汚れを洗う主

イザヤ書 4章2節〜6節 阪井牧師

 終わりがある始めは楽しめる。旅も同じだろう。聖書は私たちの生活を「寄留」という。 帰るべきは父の居られるところ。だから父が「顔を隠す」や「顔を背ける」ことは自分の存在を失う恐れである。 〈審き〉は恐れよりも戒めに近い。慕う親に叱られる子の心を想う。「その日」はそのような審きの時を意識する。 先日の参院選も、1945年の敗戦も同様である。ただ、現実が目の前にある。イザヤの預言は違う。 繁栄を楽しむ現実に「その日」を語っている。束の間の平和に緩み、神から離れる心を戒める。 徹底した滅びや壊滅に見えても、神は「残りの者」を備えて歪みを正し、神の秩序による麗しさと栄光を与える、と。 神の霊がその残りの者に働く時、その人は変えられる。人格において変革を経験することを意味する。父なる神は罪を審くが、神の民を消し去ることは求められない。主イエス・キリストの十字架は「審き」であり、神の愛の「しるし」である。 父の愛の審きは悲しく辛い。だが、捨てるのでなく、心をかける思いがそこにある。目に涙しながら子を叱る親を想起する。 十字架の出来事を通じて、信仰生活は「獲得」よりも「身を軽くする」ことに真実があることを学ぶ。 汚れを洗い清める父の「いのち」を歩みたい。ヨハネ15章の「ブドウの枝のたとえ」は実を結ぶために農夫が剪定をする。 主イエスの復活の実を結ぶことが、私たちの全てである。枝振りや見栄えは二の次であろう。洗われた「いのち」を喜び生きる者でありたい。

7月29日 呟きから宣言へ

マタイによる福音書 5章13節〜16節 阪井牧師

 譬えの「99匹と1匹の羊」や「新しいブドウ酒は新しい革袋に」と同じように、この「地の塩、世の光」もよく知られ、また使われるのはさいわいである。 ただ、これらの言葉が主イエスの話、聖書の中にあることから離れると些か困りものである。 本来の意図から外れてやがては全く異なるもの、あるいは反対の意味を示すことにもなる。 この言葉「地の塩・世の光」は、(1)主イエスが語る言葉で、自らが地の塩となり、世の光となられた。 (2)「あなたがたは」とは誰でも一般ではない。この話をすぐ近くで聞いた弟子たちであり、主イエスから召されて、福音宣教に使わされる使命を与えられる使徒である。 (3)地や世は、主イエスが十字架にかからなくてはならなかった所、主イエスが自身のいのちをかけておられるこの私たちの現実である。 すると、塩は効率や効能が重要ではなく、人が本来もっている神からの「いのち」を生きることを示すものである。 つまり、「主イエス・キリストのいのち」を生きることである。光も同様である。全ての人を照らす「まことのひかり」に生きることである。この信仰から離れると、人の努力や人徳が問題になる。 主イエスに用いられ、委ね生きる者は塩であり、光である。自ずとその有り様は変わってくる。 命令に従うと言うよりも、自分がそのように変わる不思議を呈する。呟きではなく、自らの宣言となる。 ぶどうの木と枝の譬えを想起する。召されている豊かさに生きる時、実を結ぶのである。

7月22日 主の目、砕かれた人

イザヤ書 3章1節〜4章1節 阪井牧師

 経済大国(アジアの先進国)となった日本の行く末に世界が注目している、と聞く。 20代後半の預言者初期イザヤは、繁栄を恣にしているエルサレムとユダに向かう。神の裁きを語った。 聞きたくない預言内容を誰が本気で聞くだろう。繁栄に酔いしれる人々に向かう預言者の姿を想う。 自分の都合やタイミングには関係なく語る預言者の使命に厳しさがある。神の都エルサレムの確信と選びの民ユダの誇りの中に人々がいる。 繁栄の享受で自信と誇りに満ちているが、エルサレムはよろめき、ユダは倒れた(未来完了形の表現)、と。 今日の私たちの生活と重ねてみたい。彼らの舌と行いが主に敵対し、栄光のまなざしに逆らった(8節)からだとある。 肉の目に見える繁栄は神のそれと違う。それを神の代わりにする誤りは神の秩序を乱し、社会を混乱させることになる。若者が支配者となる。潔く人目に鮮やかである。しかし、配慮や平等が失われ、指導者は名誉も誇りも失う。 神のみ心を行わず自らを飾り立てていたに過ぎないことを神は知っておられる。み心を行うために立てられた者が特権を振り回して、神を喜ばさないで自分を、人間を喜ばしている。 目の前にいる人に受け入れられ、喜ばれるために地位や権力、立場を用いるならば神は神で居られない社会である。神は私どものを召し出されたのは飾りや誇りのためではない。生かされ、神を畏れる中で、主イエスに従う道具、器に徹するためである。打ち砕かれた心を求められている。

7月15日 客が店員に

マタイによる福音書 5章11節〜12節 阪井牧師

 近くなると距離を感ずる、のは数学の近似値ではない。人間の関係を意識する。 地上最初の兄弟カインとアベルは、神の前に出てその関係が最悪となった。自分より神に近い弟(相手)の存在を兄が消した。 主イエスの十字架の出来事もそれに似ている。ユダヤの信仰熱心な人たちが、神の子(主イエス)を十字架につけた。 遠くの異国に生活する私共は、直接関係がないとき、そんなに問題ではなかった。 「主は私の救い主」との信仰告白をして生きるようになったら……?、が今朝の聖句からの問いである。 ここに「わたしのため、あなた方は…」は2人称である。この前は「…の人たちは」の3人称であった。弟子たちは、主イエスから直接声をかけらた。私への声かけでもある。 自分の限界を認め、「この方に拠らなければ…」と主に委ねる歩みは真剣で飾りの信仰ではない。主を十字架に付けた人たちも真剣であった。向き合った関係が怪しくなると真実らしく装うことになる。周囲への思いが大きくなる。 評論の弊に陥る。周囲に波風が立たないことを意識する時、主イエスとの関係が怪しい。家庭に職場にまた、私のいるところに「主がともにいる」ことに喜びがある、と語っている。 天は死後の世界ではない。主が支配しておられるところが天(神の国)である。 かつてはお客であった私たちが、今福音を扱う店員として人々の前に立たされている。その立ち居振る舞いが福音の故であることにもっともっと誇りを持ちたい。

7月8日 神の息を生きる

イザヤ書 2章6節〜22節 阪井牧師

 「驕れる平家は久しからず」の言葉を聞いた覚えがある。 イスラエルの繁栄の頂点はダビデからソロモンの時代であった。いつまでも人々の心に残り続けるほどであった。 主イエスが「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどに…(マタイ6章29節)」と群衆に語られた。 王国分裂後、あの時に匹敵する国力を北も南も持った時代に、イザヤが神の審きをヤコブの家(イスラエル12部族の総称)に対して語る。 「その繁栄が占いや呪術、他国の力を頼みとすることにある。神の手による人が低くされている。主の日が来るとき、その一切が覆される。何処へ逃げられようか。主の恐るべき御顔と威光の輝きを避けることはできない」と。 神の民は、神と民との契約に基づいたものである。その民が自分の手の届く故の、契約を軽んじることによる繁栄は、主の日には失せる。人は神の前に立つことはできないことを語る。 繁栄のただ中で、若輩のイザヤが語る言葉は人々にどのように聞こえたか。想像が容易にできる。 今日の私たちの状況も然りである。まず、私たち自身の信仰への問いとしたい。生活の豊かさや、他の人との比較に勝る自分や、苦しさに耐える力、他者への配慮の思いが信仰の求めるところになっていないかを問いたい。 主イエス・キリストによって、私を受け容れて下さった神の愛に喜び、その心に従い生きることが信仰の核心であったことを想起したい。霊の賜、生けることばが私の生きる力であることに変わりはない信仰を歩みたい。

7月1日 どうして?

マタイによる福音書 5章10節 阪井牧師

 呼称には拘らなくてもいい。信仰の故の名前なら、存在にかけても容易に譲るわけにはいかない。 楽しみや飾りのように信仰を扱う人を「腐っても鯛」にあやかって「腐った鯛ほど始末に困るものはない」と表現した人がいる、 と聞く。主イエスを私の救い主と信じて生涯を歩む決断をした、あの真剣さを想起させる言葉である。 十字架の出来事が、私の生きる価値を決めている。 ここに鯛の価値がある。だが、先の言葉は妙な臭いを発し、腐りかけてい無いかを問うている。 今年結成50年を記念するバプテスト同盟も、またこの教会も、そして私たち自身もこの問いの前に姿勢を正したい。 その基本姿勢は何処に求めるか。言わずもがな、聖書にある。 「義のために迫害される人たちは、さいわいである」が、どうして<ものさし>か。 「天の国はその人たちのもの」は(1)と(8)で囲っている。天の国は神の支配するところ=わたしである。 私たちは、主イエスの十字架により価値あるものとされた。神との関係にこそ義がある。 主イエスが私たちをそのように見ておられる。 人の手の温かさや、円満さを求めて自分の居心地の良さが気になるなら、その信仰に妙な臭みが出てくる。 キリスト者を迫害している時パウロは主イエスと出会った。 同様に私たちが主イエス・キリストに生きるとき、周りの人たちが主イエスに出会うと知る。 「どうして」か主イエスが私たちを価値あらしめている。 証しは共に歩んでおられることを示すことにある。 一筋の光が世の秩序となるための使命を帯びている教会にしっかり連なりたい。 罪の破れの一切が克服される「平和の実現」を見る歩みを続けるのです。

6月24日 混沌へ秩序

イザヤ書 2章1節〜5節 阪井牧師

 「わたしは道である」と主イエスが語られたその道は尊い聖を意識する。 私どもの日常感覚は「修行を積んで極める」もので聖とは関わらない。 むしろ、道ばたなどは誰もが通行する場所で汚れの印象を強くする。 イザヤの時代はカナン(パレスチナ)がメソポタミア(文明)とエジプト(文明)とを結ぶ通路として、 軍事上また経済上の重要な意味を持っていた(今日でも同じ意味の重要さを持つと言える)。 メソポタミアを支配するアッシリアは、南の方向に力行使の圧力となった。 戦意を喪失させるに十分な技術と威力を行軍によって示した。 南のエルサレム・ユダの支配者たちはその対応に揺れた。 指導者たちは小諸国同盟よる抵抗の道(混沌)の誘いに心が動いた。 イザヤはもう一つの道(神への信仰)を語る。 神の民である道を、文明の大道から離れた小高い山にエルサレム(神の神殿)に見ている。 人や馬の力に怯える人々に向かって、神の教えやみ言葉に聞く秩序を語る。 20代後半のイザヤの言葉が人々の耳にはどのように聞こえたか、想像に難しくない。 貧弱で、辺境の地にあって保たれる道に見えたであろう。世相から些か離れて見える現代の教会と似ている。 イザヤはそこに全世界の人々が主を礼拝に集まる姿を描いている。 教会は人々の求め、神の教えと言葉が語られ証しがなされている所でなければならない。 人を集めることが目的ではない。一筋の光が世の秩序となるための使命を帯びている教会にしっかり連なりたい。

6月17日 平和を造り出す

マタイによる福音書 5章9節 阪井牧師

 目先を切り替えさせるには、関心事を差し出す手がある。 イラク、拉致、年金、そして選挙、と今私たちは引き回されている気がする。 次々に現れる諸問題に落ち着いて取り組みができない。これが平和の一つだと想わせる手立てになる。 小さな歪みに過ぎないと自己処理することに任せる。「平和を実現する」はその類ではない。 世界を変えるものである。では、小者の私たちはこの言葉をどのように聞けばよいのか。 力や地位また知恵があるはずのない私たちには「笑う」しかない。気が遠くなる程の課題である。 だが、この発想には信仰による聞き方になっていない。 アブラハムとサラは、神の約束を信じて従うが、その実現を見ようとして知恵・地位・力を駆使したが、 神から否まれた。 その限界を認めざるを得ない状況の中で約束が成就している。 平和もそれと似ていると思う。人・もの・権力の類に拠らない。 主イエス・キリストにのみ根拠があることをローマ5章「…信仰によって義とされたのだから、私たちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、…」から知る。 「平和を実現する」のは主イエス・キリストにある。エルサレム入城に対する人々の思いは誤解の上にあった。 平和の主は十字架への歩みとなった。 私たちはこの方の十字架に身を支えられて生きることの中に、約束の言葉の真実を示すよう語られている。

6月10日 灰汁と滓

イザヤ書 1章21節〜31節 阪井牧師

 大きい町都会は人々の関心を集めるところでもある。預言者イザヤはその地の出身といわれる。 豊かな知識と優れた思想をもち、高貴な地位あるイザヤが20歳代後半に預言者として召された。 国政は尚力があり、人々も繁栄を楽しんでいるときに、神の審きを語る。 自信に満ち誇りの中にあって、神の輝きに酔いしれている町や国の滅びを語られてる。 誰が聞く耳持つであろう。むしろ語る者の口を塞ぎたくなる。 また、語る者も自己保存から見ると任を受けたくないであろう。 しかし、イザヤは神から託された召しに応えて、失われた正義と公平、狂っている「ものさし」と愛で自分の安定を求めている姿を暴いた。 主イエスの歩まれた姿もそうであった。また現代の世相もそれを想わせられる。 教会はこの実態を正しく看取るために、神の語りかけを聞く使命があろう。 確かに私たちはちょっとした風邪にさえふらつく存在である。 しかし、万軍の主が約束されることに希望を置く者である。 神自らが働いてくださる、との信仰にあずかっている。 いま、神の時の中にあって、み業による「新しいいのち」に生かされることを知っている者である。 くじけない力を受けている。主に委ねて、神の時を待つ者でいたい。 審き主である方は「わたしは手を翻して…」と、失ったものを回復させてくださると25節の言葉を受け取ろう。 灰汁や滓の不純物が取り除かれて、 本当の「ものさし」を働かす方の御手が、あの主イエスにあることを喜ぼう。 

6月3日 神を見る

マタイによる福音書 5章8節 阪井牧師

 聖霊が働かれると、聖書にある言葉が「いのちのことば」、「神の言葉」として人の思いを越えることがある。 「心の清い人々は、さいわいである」の主イエスの言葉にも、私たちの希望や生きる力を与えるはずである。教訓や標語ではない。 神との関係で「清い」が使われていることを確認しておきたい。 ヤコブの手紙(4章7節〜)に「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい…主の前にへりくだりなさい。 そうすれば、主があなた方を高くしてくださいます」とある。 清いとはこのことであろう。どちらでも良い状態でいられるのは、心の定まらない姿である。神に委ねる用意と自分で処理する用意ができている姿である。 神の近くにいながら、自分で処するのは律法学者やファリサイ人たちである。主イエスと対立する原因はそこにある。 ペトロが「先生、足を洗わないでください」と言ったとき、主イエスは「足を洗わなければ、私はあなたと何のかかわりもなくなる」の言葉に通じる。 主イエスの助けがなければ神の前に出ることができないような私たちのために、主イエスが語られた言葉には、恵みと憐れみとが深く働いている。 わたしたちが迷うことなく、神のいのちに歩むことを求めて下さる主が、十字架につかれた。 それは、その死を勝利して甦られた主イエスを信じることによって「神の目の前」に出るためである。 神と出会うことが赦された人は、幸いである。神は私たちのすべてを見ておられる。

5月27日 主が語られる

イザヤ書 1章1節〜20節 阪井牧師

 いつもと違う姿勢が原因して、肩や腰に凝りや痛みが生じる時がある。 力が入りすぎてもそのような症状が起きることがある。 「無い袖を振る」ことも無理な注文であるが、持っているものを削ぎ落とすのも結構難しい。 北(イスラエル)王国では、エリヤ、エレミヤ、アモス、ホセアが活躍をし、南(ユダ)王国ではイザヤ、ミカが預言活動をした。 ここにはそのイザヤの預言の説明に「見た幻」とあることを意識したい。活動の原点、出発点である。 自分の理想や思いまたは主張が活動の根拠ではない。今日の教会や私たち自身にも言える事だと思う。 社会や組織のリーダーを目指すのではない。与えられた神からの使命に従うためである。 相手の受けや当方の都合は、そこに入り込めない。目新しいものでもなく、関心を引くともかぎらない。 それを求めようとすると思わないところに力が入り肩や腰に凝り痛みが生じる。 努力や訓練も必要ではあろうが、神の示されることに徹底して従うことが務め、これが預言者である。 肉親や近しい者からは本人以上に苦しいかも知れない。感情や人情と相反する務めとなることもある。 力を入れると託されたことから外れる恐れがある。全ての責任は主が受けておられると信じるからこそ大胆に「主が語られる」と宣言できる。 「天よ聞け、地よ耳を傾けよ」と語るイザヤは、計算から28才頃と想われ、神の裁きが再起の期待と憐れみであることを語る。 それはどんな多くの捧げもの(犠牲)よりも主が喜ばれると告げている。

5月20日 関わりを問う方

マタイによる福音書 5章7節 阪井牧師

 「キリスト教による人間疎外」と大胆な発言をしたキリスト教信仰を持つ精神科医の言葉である。 信仰に熱心であろうとすることから生じる問題の指摘と想う。人が喜び歩む生活に対して、喜びを失わせることへの警告でもあろう。 この構図は主イエスに立ち向かう事になったファリサイ派の人たちや律法学者たちの関係に似ている。主イエスは「時が満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたが、 その人たちは、律法に徹底して従うことによってこそ神のご支配が実現すると期待した。熱心に、正しくあろうとすることが、かえって主イエスの福音から遠い所に立つ者にならざるを得なかった。 それは、主イエスを信じて受け容れる者全てに与えられる福音が、厳しい制限の中に置かれることになる。 「憐れみ深い者は、さいわい」である、との言葉が同様にならないよう注意する必要がある。 主イエスの言葉は、迫り求めるものではなく、語りかけであり、約束でもあると受け取る時、喜びの響きになる。 主イエスに従う信仰に生きる者が変えられて、できない者ができる者にされるよう招かれている。 パウロの回心の記事(使徒言行録9章など)は喜びの証言である。迫害を受ける者と共に主イエスが居られた。 「憐れみ深い」ことからほど遠い私たちに、主が伴われておられるから幸いな者となると受け取りたい。 主の憐れみをしっかり受け取る事が教会の私たちへの求めであろう。人との関係を新しくする力を得たい。

5月13日 大いなるもの − 愛

雅歌 8章1節〜14節 阪井牧師

 自分の日常体験・生活を語ることによって、一般化や客観化して話されるよりも聞く者に大きい力が働らく時がある。 6節の「わたしを刻みつけてください。あなたの心に印章として、あなたの腕に、印章として」がそれに当たる。 実印の効力は、本人よりも確かとなる。その印章による保証がなければ、入学や就職または何かを借りることもできないのが現実である。 旧約の中にも似た例がある。(1)エジプトに奴隷として売られたヨセフが、その国の王ファラオの夢を解き明かしをした。 王は感動して王の実権を託す時、印章のついた指輪を自分の指からはずして奴隷のヨセフの指に入れる記事(創世記41章)である。 (2)イエス・キリストの系図の中に「ユダはタマルによってペレツとゼラを…(マタイ1章3節)」の元になる記事(創世記38章)のところにある話。 ユダが息子の嫁であったタマルを通して後継ぎを得る。その証明にユダの首にかけていた印章が用いられた。この印章となることを求める歌が6節である。 自分の都合良い時、側にいたい、と言うのではない。自分にとって不都合でも一緒にいることを願う願いは祈りである。愛の純粋さは何が起きても保たれる。理屈なしである。 神の愛は独り子を犠牲にしてまでも私どもに注がれている。パウロは「知らないのですが、あなたがたの体は、神から戴いた聖霊が宿っている神殿であり、もはや自分自身のものではないのです。代価を払って買い取られたのです。神の栄光を現しなさい」と勧めている。

5月6日 望みはないか

マタイによる福音書 5章6 阪井牧師

 本当の飢えや渇きを知る人は少なくなり、他人の捨てたものを口にする等考えられない。 屈辱であり、自分の尊厳が保てなくなる。自分を失い捨てるに等しい。 しかし、それほど義を強烈に求める者は幸いだと聖書(イエス)は語る。義とは何か。 元来、神の本質であり、やがて神との関係を示す言葉となった。「義」を「神との正しい関係」との翻訳(柳生訳)もある。 ローマ3章22節の言葉を想起する。 「今や神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」。 父なる神が、主イエス・キリストにおいて与える恵み、これが神との正しい関係であり、福音である。 努力も血筋も人間の何かを必要としない。ここに行き着く(塔の発見)までルターは修道士であり、ウイッテンベルグ大学の教師であったのに苦悩した。 それが宗教改革者の一人でもあることは深い。手の届くところにあるのに手にできない苦悩は刑罰でもあろう。 現代は科学技術、宇宙科学によって神に変わりうる所に人が立つ。聖書はそんな私たちに、自分を失うほどに神との正しい関係を求める者は…と呼びかけている。 否、主イエスは約束を語っておられる。世の人が愚かしく、損だとする中で、神の愚かさを引き受ける生き方、自分の拘りを捨てることの「さいわい」を求めてよい。 十字架の言葉の愚かさに甘んじてよい。死からの甦り、世に勝つ信仰をいただいている。ここに望みの真実がある。神の貧しさを喜ぼう。

4月29日 奇しき主の真

雅 歌 7章1節〜14節 阪井牧師

 言葉を尽くして愛する乙女をたたえる若者と、それに応えるおとめの歌は、人格と人格が正面から向き合い、 喜びに満ちた歩みを始めようとしている。 眩しく輝いている。自分の持てる限りを尽くし、相手を尊び受け容れあうその気高さが、周囲を明るくし、 感動を与える。自分の思いが先んじていても、相手の前に謙虚になって主導権を相手に移す。 私たちに向き合ってくださる主なる神の姿勢、主イエス・キリストが最後の晩餐の洗足の情景で示された。 師弟の関係では異常である。奴隷の立つ場所に神の子、主イエスが立つ。弟子たちでなくても慌てる。 「そんなことしないで!」に、主は「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関わりもないことになる」と。 自分で決めても、選ばれ招かれている。雅歌の若者はおとめに愛を捧げる、と。 主が十字架にいのちを託すまで、私たちが豊かになるために貧しくなられた(コリントII8章9節)ことを想う。 十字架の力に生かされていることを受け止めたい。 自分を注いで人を愛するさまは美しく感動と忍耐する力を与える。 それでも私たち自身の力・愛は限界がある。変化し枯渇する。主により示された神の愛は変わることがない。 「私は我が愛をあなたに与える(13節)」を十字架のしるしの中に受け取ってよい。 主イエスに出会う事がこのしるしにある。どんな時にも、状況がどう変わろうとも、主の真は変わる事がない。 この真に支えられてこの一週を歩みたい。

4月15日 愛することの喜び

雅歌 6章1節〜12節 阪井牧師

 淋しく辛いことに、かつての親しい関係の喪失を味わうことがある。 イスラエルの人たちには「神がみ顔を隠す」ことがそれに当たる。バビロン捕囚は厳しい現実だった。 神を知らない異教の民に支配され、異境の地へ移された時、神がみ顔を隠されたとしか考えられず、捨てられたと受け取った。 神が唯一の拠り所である民には再起が困難だったろう。「生ける屍」同然である。主の十字架上の姿は、まさにそうであった。 「おまえの信じる神に救ってもらえ!」の悪態雑言は苦しさを増す。 雅歌ではイスラエルの女(神の民と自負する人)たちは、「おとめ」に「若者」の所在を尋ねる。 親切よがしに「一緒に探そう…」との言葉は、傷口を逆なでするかのよう。 あの十字架の苦しみを、酸っぱいブドウ酒を口にしないで受けられた主イエスを想う。 厳しさをその身に引き受けられた姿を見た兵士は、「この人はまことに神の子だ」との言葉を残した。 伝道する教会や教会員も同じかも知れない。真珠貝の結晶を想う。若者は自分のために心を砕いていると「おとめ」は返事をした。 また若者も「おとめ」を心強い思いを寄せている(8〜9節)。多くのおとめの中で、この一人の人を愛することの幸いを見ている。 生きることの希望を失うような現実にも、他者のため、神に仕えて生きる道をこの歌から示される。 若者も「おとめ」も愛することによって自分が強められている事を学ぶ。 愛されることだけを求め続ける私たちの発想を逆転させるものを受け止めたい。

4月8日 主は甦られた

ヨハネによる福音書 20章1節〜18節 阪井牧師

 受難の予告には十字架にかけられて、墓に葬られた三日目に甦ることがある。 しかし、ここにはその表現ではなく、「週の始めの日」とある。 すでにこの書の書かれた時代(1世紀末)に、イエスがキリストであるとの信仰に立つ人たちの集まりが、 ユダヤ教の安息日でなく、日曜日であったことの強調をみる。 人々の生活慣習と異なる信仰の在り方には相当の苦労があったに違いない。 今日でも、一週を礼拝から始めることは大変である。主イエスの甦りの現場に最初に登場する人で、 甦りの主イエスと最初に会話をした人はマグダラのマリアである。 この人については、ルカ福音書の7章後半と8章前半の「多くの罪を赦された女性」と同じ名である。 男社会なのに、弟子達ではない罪ある女性がこの光栄ある場面の中心に立っていることは感慨深い。 墓が空であるため、主の身体が取り去られたか隠されたと思い、泣く彼女に主イエスは声をかけられた。 主イエスを墓の中に探す彼女には、その声の主が復活された主とは思えなかった。隠されていた、とある。 しかし、「マリア」と名を呼ばれた彼女は、その時声の主が主イエスと分かり、叫んだ『ラボニ』(先生の意)と。 ヘブライ語のままに残されているこの言葉には特別の受け止め方を考えてみる。 「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と同じく、それは主イエスとの出会いの瞬間の言葉である。 厳しい現実の中に立つ者に、心行き届いた言葉であったろう。 私たちもその言葉を味わいたい。

4月1日 執り成しの祈り

ルカによる福音書 23章34節 阪井牧師

 受難の予告を聞いても弟子たちには理解できなかった、と18章31節以下にある。 預言が成就するためだと主は語られた。エルサレムの町に入られた(エルサレム入城)のは町中が「過越祭」に興奮している時であった。 過越の祭りには羊が犠牲として献げられ、「神の子羊」が犠牲になる主イエスの十字架の出来事と時が重なっている。 ローマの支配下にあっては、ユダヤの司法による処刑を自由にできない。 そこで代表の総督ピラトに裁定を求めて引き渡すが、ガリラヤ領主のヘロデに託し返された。 彼はイエスに興味を覚えて、問いを出すもイエスは全く応じない。関係の成立がない、ということか。 人格の関係が誠実と真実によって成り立つとしたら、主イエスは大変厳しい姿勢を貫いていることになる。 神への願いや要求の無応答は、関係が不成立なら、神が無関心、おられない、というのとは違うと考える。 神はそのような方ではない。象徴的な言葉、十字架上の七言の一つがこの箇所にある。これを「執り成しの祈り」という。 自分のためや自分が祈った後ではなく、他者のために祈る。 自分の存在が失われそうな状況にあって、存在を越えた方に向いて祈る主イエスの姿に「執り成しの祈り」の真実がある。 歴史を導き、命を支配しておられる方に希望を持つ祈りである。自分の存在を消そうとするその場面で「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです」と。 十字架への道は私たちを救いに導くためである。

3月25日 慰められる者

マタイによる福音書 5章4節 阪井牧師

 奇妙で、通常の感覚に馴染まない言葉「悲しむ人たちは、さいわい」をどう受け取るか。 理性や経験などの生活の知恵の言葉ではない。 従って粘りを付け、また丈夫な人間になることを求めるものでもない。 主イエス・キリストの言葉である。 これを聞いたユダヤの人たちは、驚くと共に新たに生きる力を得たと想う。 当時のユダヤ人は弱音を恥とし、受け容れないのが自然であったと考える。 神の民、選びにあずかる民の自負が身に付いていた。 先祖たちがどのような歴史を作ってきたかを誇る民であった。 最強のエジプト王の下、奴隷状態を脱して約束の地に到達し、異教の民カルデヤ人(バビロンの中心部族)の支配を乗り越えた民である。 その人たちにとって、悲しむことや涙することを認める言葉は特別な意味を持ったと想う。 主イエスは、自分の力でその解決をしなくて良いことを示した。神の前に意味を持つと語った。 人の死をさえ克服する主の言葉である。主イエスと共にいれば悲しみが無くなるのではない。 それを十分味わい知っておられる主の歩みに自分の救いを見いだすことができることがそこに語られている。 苦しさや悲しさは信じる者になったために一層深くなるかも知れない。 でも自分一人で引き受けるのではなく、主が共におられることを知るなら、悲しみはその質を変えられる。 生活のあらゆる所に主が共に居られることを知る者は自分の悲しみだけでなく、他者のためにそれが意味を持つ。 そこに幸いがある、と。

3月18日 これが私の……

雅歌 4章16節〜5章16節 阪井牧師

 「結婚カウンセリング」は結婚に向けて準備をする歩みの過程である。 求められて戸惑ったのは「結婚後カウンセリング」である。 改めてこの意味することの重要さを思い知らされる現代傾向である。 1999年では熟年離婚が1963(オリンピック前年)の約3.6倍とある。 「少しでも一緒に長く居たい、お互いを語り合いたい」が逆になるのはなぜか。 友人の関係であれば距離を置くこと場所を確保できる。 しかし、同じ場所に生活する夫婦にとって自分を回復する場所は何処か。 言葉や想いに対する自分の適温が、相手にとって息苦しい、と意識し始めることは危機的である。 4章16節に見るおとめ心に応える5章2節の若者の姿は真剣かつ情熱的である。 だが、おとめは心待ちにしていたのに、戸を開けるチャンスを逸した。 迎え入れるべく戸を開けたとき、既に若者の姿がない。 夜中、寝間着姿という非常識な追い求めは空しいものとなっている。 ほんの暫しの躊躇?奥ゆかしさ?それとも喜びと驚き?であろうか。 改めて自らの生き方を問われる想いがする。そして、こころ迫られる想いがする。 神はあなたを尊い、神にとって価値あるとしておられ、 周囲の動きが止まって静寂さの中にも訪ね来て声をかけておられるとしたら、 あなたはどうしますか?の問いを想う。 改めて、私はあなたをどれほど恋い焦がれているかを伝言するのでしょうか。 私が本当に愛してやまない方は、と語る信仰の生活となる上からの力、霊の注ぎを受けたい。

3月11日 祝福される貧しさ

マタイによる福音書 5章3節 阪井牧師

 生活の知恵をまとめたものではない。悟りの閃きでもない。 また、教訓でもない。私たちの歴史の中に生きて、十字架につけられ、葬られ、 3日目に死から復活される方が人々の前で話されたのが「山上の説教」である。 聞く人の耳障りや記憶しやすいとかの事柄ではない。 全ての人の生きる力、腹の底から湧き出る喜びの言葉であったと想う。 それを読む私たちには、どうであろうか。慣れすぎて刺激にもならないで、 記憶に残る言葉になっていないかと問われる。 「心の貧しい人たち」の「こころ」は「霊」とも訳し得る。 ヨハネ4章20節では「神は霊であるから…」とある。 心=霊=神となる。神に対して貧しい人のことが言われている。 謙遜やへりくだりなどの徳は自分にいくらかの可能性がある。 ここでは自分の徹底した無力を知り、神に頼るしかない自分を意識させられる。 愛は誰かのために尽くして生きようとすることである。 だが、自分にはその可能性もないことを知る者は神に頼るしかない。 もっと力をつけ、よく学んでというのではない。 神の愛を受けてこそ、愛に生きる者となれることを知る者が幸いというのである。 受胎告知を受けたマリアは、神の前に「主のはしため」 であると告白をして主を賛美(マリア讃歌)している。 神のみ業が行われることを祈り求めた。神の支配がこの私にあることを願った。 神への徹底した信頼は喜びの賛美になることを知らされる。 十字架と復活がこの保証であると受け取る者にされよう。

3月4日 喜びに心高ぶる

雅歌 4章1節〜15節 阪井牧師

 私たちの生活文化に「奥ゆかしさ」がある。 17文字や31文字で世界をまた心の奥行きを表現する歌はその一つであり、芸術でもあろう。 この雅歌にも東洋的美学を見るように思う。 ベールに覆われた花嫁の内側を観察表現するのは、間近に見ることができる両者の関係をも示している。 互いに気負うことなく、率直なまま見つめ合える状態は、第三者にもほほえましい限りである。 向き合っている目は脳に直接繋がる器官だと聞く。続いて髪、歯、唇、口を美しいとほめ歌う。 少しでも自分を示すために知恵を発揮する現代人と違う。相手を心に受け止め、思いやり、優しさを湛える心の趣を想う。 なぜ、それが聖書なのか、と考えさせられるほど両者の関係は近い。これは旧約聖書だけではない。新約聖書にもある。 主イエスの語られた「放蕩息子のたとえ(ルカ15章)」である。 我が儘勝手な子ども(兄弟の弟)が、親からの財産を前倒しに受け取り、家を出、破産して帰還する。 その時、兄弟の兄が憤慨するほどに、涙を流し喜びもてなす父の姿には権威も威厳もない。 まさしく盲目の愛の姿である。主イエスにおいて父なる神が私を愛する姿としてメッセージとして受け取る。 そこには社会的な規範や秩序が成り立たない「愛の関係」を見る。 自分を保つことを捨てて、相手に徹底した近づく姿は、相手を溶かす。神の愛は、私どもの頑なな心を溶かす「武器」である。 この攻撃を「喜びの心高ぶらせて」受け取る信仰を歩んでいこうと願う。

2月25日 山に登るイエス

マタイによる福音書 5章1節〜12節 阪井牧師

 かつては垂訓、今は説教という。 言い放しや教え諭すというのでなく、神の国(神が支配する所)に生きる者とされた人の在り方、 救いが現われていることを宣言していることが内容だとの意味が示されている。 説教は、人の言葉ではあるが、人の生きる意味や価値を示す神の言葉に「なる」事が起こるのである。 説教者は、自分を語るのでも、聞く者に言い聞かせるのでも、さらに期待に応えるものでもない。 神が語りかけることを取り次いでいる。だから、ある人には知識の領域のことであり、 ある人には罪を悔い改めて信仰への決断を迫られる。主イエス・キリストの語られた言葉は放言ではなく、 その先は十字架に繋がる責任ある言葉である。ベートーヴェンの交響曲を、 その背後に苦悩に満ちた生涯とそこから神賛美があること知らないで聞くことの大きな違いを語って、 山上の説教を説明する人(江谷林蔵さん)がいる。「さいわい」をどのように聞くかがここで想わされる。 苦しみやつらさを通して、主に感謝できることが生活の中にないだろうか。実感できる時がある。 「〜する人はさいわいである」の言葉が単なる標語の類になっていないかを問われる。 すでにあなたがたは、神の支配にあることをしっかり受け止めて生きたい。 主イエスの語られる言葉を自分の生活の中に聞き取ることから全てが始まる。 努力が救いに至らせるのではなく、すでにある「さいわい発見」を経験する歩みをしたい。

2月18日 循環を断つ

雅歌 3章1節〜11節 阪井牧師

 恋慕う人を求めて、夜、町中を歩く姿を見つけて、夜警が声をかける。 「こんな時間に、こんなところで何をしているのか」と。 すると「わたしの恋慕う人を見かけましたか」と問いかけている。 日中は目前の慌しさに気を紛らわすことができても、夜自分の時間を持つとき、心の奥にある課題が大きくなり、 捜し求めなければ済まなくなっている恋人を想起する。 そこに、求め合う関係の美しさと前に向かって歩む人生の熱いエネルギー、人格と人格がひとつの生活に向かって歩む姿を見る。 しかし、理性を働かせると、冒険や挑戦は少なくなる。安全と確実さを求めて、できるだけエネルギーの浪費を避ける。 神との関係にもこの理性が主役になっていないか。痛手を少なくしたいと用心を繰り返す。これが循環。 周囲の人に感動や憧れを与えることがない。信仰の一面には理屈が通らないところがある。親が子を想うに似ている。 動物的なところがある。しかし、感情ではない。主イエスの十字架の出来事はとても理屈に合うものではない。 自らが与えた命のためとはいえ、自分が痛み、独り子を死に渡してまで生きることを求める関係が信仰にある。 不合理そのものである。神の愛に応えて生きる私たちが、理に合うこと、自分の計算を大事にしすぎていないか。 神の語りかけを、主イエスの歩みの証言を、自分の理性の判断で受け入れるかどうかを見ているとしたら、冷めた信仰になる。 傍らにいて語りかける言葉を受け止めたい。

2月11日 鑑定の苦楽

マタイによる福音書 4章23節〜25節 阪井牧師

 「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。 風にそよぐ葦か、…しなやかな服を着た人か…」と群集に語る(マタイ11章7節〜)イエスの言葉がある。 一方、ヨハネは「マムシの子らよ!差し迫った神の怒りを免れると、誰が教えたのか…(マタイ3章7節〜)」と、 集まって来たファリサイ派やサドカイ派の人たちに叫んだ言葉がある。マタイ福音書記者の意図をこれらの言葉の中に見る。 伝統や形に救いがあるとする人よりも、その枠から外れ、救いから遠いと思われる人々に福音が伝えられていることを示す。 「ガリラヤ中を回る」は、飼う者のない羊を捜し求める羊飼いの活躍に似ている。 そして「諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のあらゆる病気や患いをいやされた」は、伝道がどのように行われたかを示す。 教えの内容は、この後の山上の説教にある。 神の救いの福音の宣教が、十字架と復活を分離してはならないように、癒しと教えが別のものとして扱われてはならない。 キリストの体である教会の務めは、父なる神のみ心に応えることである。 事情や状況がどうであれ、教会はみ言葉を聞く、神の福音宣教に耳を傾けることである。 聞く者の都合を優先させるなら、宣教でなくなり、神の語りかけでなくなり、生きる力をそこに得られなくなる。 「私は道であり、心理であり、命である」と語られた方、イエスの言葉を想う。 道を伝えるのが伝道で、自らがその道を歩みながら伝えるところに「道」の鑑定の正しさが現れる。 神の支配が示されるのだ。

2月4日 風が騒ぐ前に

雅歌 2章8節〜17節 阪井牧師

 生活の思いが込められた特別な意味が「春」にはある。言葉の上でも、人生の春や青春思春がある。 新しさやいのち、また勢いを示している。植物も動物も新たな息吹力強さを示すエネルギー溢れる時である。 距離や状況の難しさを乗り越えて、互いに近づきたい。 来訪を期待して心が躍らんばかりの思いがここにある。 メシアの到来を待つ神の民は、そこに困難に屈せず、厳しさを耐え、生き抜く力を得ていくのである。 そこには約束の確実さへの信頼がある。 黙示録3章20節を元にした戸口に立って扉を叩く主イエスの絵画を想起する。 「だれか私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」と。 イスラエルの人たちは神の民の約束事を大事にする余り、異邦人と食事を共にすることを厭う。 それなのに、主イエスは私たちの所に訪ね来て、共に神のみ言葉を戴く食事をするために、戸が開くのを待っておられる、とある。 部屋に閉じこもっていないで明るい春の日差しの元に出てくるように、と乙女に声をかけている若者の歌をどのように味わいましょうか。 声を聞くことが喜びであるその間に、主を迎え入れるために戸を開けたい。 心を注いで私の担うべき重荷を負ってくださる招きの声を受け取りたい。 そのように今日からの一週間を家族に耳を傾け、心を向けて話す者になってみませんか。 あなたのいる所が、花の咲き、鳥の歌う神の祝福の場所となりましょう。

1月28日 呼ばれています

マタイによる福音書 4章18節〜22節 阪井牧師

 忘れ物を取りに帰るのは、家を出てどのくらいまでだろう。 時間・距離・ものなどの条件や事情もあろう。取りに帰る自分を悔やみ腹立たしさを覚えたことがある。 忘れ物でさえそうなら、人生を引き返すのはどうか。 大袈裟でなく、その時々の決断を積み重ねてきた人生の価値が、全く無意味となる事がある。 生きる意味が消えるのは「死ね」に等しい。日常の目先に心を紛らわすなら別。 もがきは、まだ名残を惜しむ事ができている。どう生きるかを失うとどうなるか。 昔も今も変わらない。必死に頼りになるものを探す。 文明の時代、コンピューター時代に占いが大流行するのはなぜか。 便利さが孤立を生み、現代人の心を苛んでいるように考える。 「神が人を〈神のかたち〉に創造された」とあるのは、孤立でなく他者と人格を生きる者にされたことでしょう。 ガリラヤ湖で2組の漁師がイエスから弟子に召され、従う記事は、彼らの生活が逆転したことを示していると受け取れる。 生活(網、船、血の繋がり)を捨てるとは、今まで自分にプラスであったものを手放すことだとすると、忘れ物を取りに帰る悔しさの比ではない。 自分では負いきれない痛みでも、主が伴われるならできる。悔い改めるは自力ではない。 主の声に聞き従うことのなかにその力がある。 夫婦が向かい合う食卓の時にも、手を焼く子育てにも、主の声が聞こえるところには、心を注ぐ生活の場が備えられている。 新たに遣わされていく弟子?にしていただきましょう。

1月21日 距離を縮めたい

雅歌 2章1節〜7節 阪井牧師

 シャロンの野はカイザリアを中心にする地中海沿岸一帯の平原のことである。 そこに咲く花を自分にたとえる乙女は、謙遜の表現をしたと見る。 他の人より目立つことを考える現代人と違う。 これは、世界の創造主である神様に召し出されて教会に連なる者の姿と重なる。 道端の石ころ、器にさえならない土くれ、との自覚を持つ者が、神の独り子・主イエスの十字架により罪を赦され、神のみ業に仕えることを求められた者に通じる。 だが、返ってくる「あなたは茨の中に咲くユリの花」との言葉は思いがけない。恋愛の風邪引きなどと違う。 心にかける者からの言葉さえ、自己嫌悪や自己憐憫の深みから脱出する力、自分に正直に生きる力となる言葉であろう。 心を寄せる人から言われてそうなら、創造主の神の言葉ならどうか。 自分の命をかけたいとさえ思ってもおかしくはない。 <私の目にはあなたは高価で尊い(イザヤ43章4節)>を想起する。 心惹かれ合う者は・恋い慕う関係にある者は、互いにより近く心を寄せ合いたいと願う。 相手の姿形より充実した生き方・結ぶ実を想う乙女と美しさ麗しさを喜ぶ若者の関係にある者は、周囲に対して喜びの表現の歌が生まれる。 より近くにいたい、いて欲しい想いがこの歌に溢れている。「もし、……なら」が入り込む余地はない。ひたすら求めてよい。熱くなって主イエス・キリストに求め、応えてくださるとの信頼を寄せてよい。 うれしいメッセージをこの歌から受け取り、力を得たい。

1月14日 大きな光を見る

マタイによる福音書 4章12節〜17節 阪井牧師

 「わがままなのか」の問いを抱く。ヨハネはヘロデの不正に批判して捉えられた。己が心に秘めて他人事にしないで口に出し、結果的には命を落とした。 主イエスの宣教は、このヨハネの捕縛を知ってガリラヤから始まっている。ヨハネが荒野で叫んだ言葉「悔い改めよ、天の国は近づいた」との言葉そのままであった。 ヨハネは、まさに主イエスの道備えであったことを示す。主イエスはご自分の受難と復活の予告を数度された。 3回目に、「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される…死刑を宣告して、異邦人に引き渡す…」とある言葉とヨハネの捕えられたの言葉は同じである。 マタイ福音書は、イザヤの預言が実現するため、と語る。異邦人が住み、混血が起こり、宗教上の混乱がみられるガリラヤ地方は、暗闇の地であった。 当時のユダヤの人々は、「ナザレから何か良いものが出てくるだろうか(ヨハネ1章46節)」と言っていたほどであった。 そこにそメシアの光が現われるとのイザヤの言葉を示している。メシア預言の成就は、人々の思いを晴らすためでも、その力を示すためでもなく、命を父なる神のみ手に託し、真理を示す神の知恵に自分を捨てることにあった。 それがまさにヨハネの語った言葉と全く同じであったのである。私たちの教会もそこに立ち続けるのです。誰かに強いられたり求められるのでもなく、私の暗闇に差し込んできた大きな光を見、照らされて生きる者となった、そのことを証しするのである。

1月7日 素の美しさ

雅歌 1章8節〜17節 阪井牧師

 晴れ上がった青空に恵まれ、新年礼拝が神の「愛の歌」のメッセージであることを感謝したい。 「愛は感情ではなく意志である」の言葉は印象深い。慣れで緊張を弛める時には、確かにそうだと思う。 「神を愛する」も「神が私を愛する」もそうだろうか。親がその子を想うのはどうだろうか。食べさせたい、着せたい、見せたい、……と何かにつけて子を想う思いは、人の素であろう。自分の素を晒す事には勇気が要る。 不安と恐れを克服してこそできる。婚約期間は互いの素を受け止めるための備えの時であると思う。「ひきこもり」傾向は素の自分を押さえる二重性にあり、日本人には自分を覆い隠すことを文化に持っているため、傾向は強いらしい。 雅歌はそのように自分を謙る者に、素のまま、あなたは素晴らしいと歌う。互いに愛し合う相手から、それに相応しい贈り物を受けることは「生きる力」「マイナスをプラスにするエネルギー」を受ける。 地上の最高の権力者をさえ引きつける香りを放ち、砂漠に湧く泉となる。植物も動物もそこに繁り、また憩うところとなる。 自分で評価できなくても、愛する者から「そ=素のまま」で美しく、私には価値がある、とされることの幸いが歌われている。素の美しさがわたしの喜びとの歌が、私たちのこの一年の歩みを支えるのです。 生きて、いのちある愛を受けて主、神の愛に応えて歩みたい。しかも、世界の創造者である方に仕える者とされることを喜び、平和の士に用いられたいと願う。


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新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
       (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988


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