日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月27日 誤らせるもの

イザヤ書 47章1節〜15節 阪井牧師

 マグニフィカート(マリア賛歌)の言葉を想起させる記事である。 「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ…。(ルカ1:51)」は、 預言のバビロニアにも当てはまり、今日の私たちにも該当する。知恵と知識を身に付けても、神との関係・秩序が失われていたなら、このような賛歌とはならない。 自分を優先する世界はバビロニアに向けられたイザヤの言葉通り、神の裁きを受けることになる。「おとめ」や「娘」は戦いの破れを知らない象徴で、飾りで自らを装うことによって周囲の慰めとなる存在である。 優雅さや贅沢さは、一時的には慰めにもなる。だが本当の裁き、危機である「火」や「炎の力」が襲い来た時には、装いはいのちを救うことができない。 イスラエルを支配するに至ったのは、自分の力と運によると思い込んで、その民イスラエルに、辛く厳しく当たる現実こそが、神の報復を導くものとなっている。 神のみ手の働きに、神を信頼するよりも、自分の手の苦労で身に付けた「占い=知恵」や「呪い=知識」により、神に立ち向かうことがどれ程愚かしいことか、と預言は語る。 また、その預言の背景には、異境の地の生活で神信頼が揺るぎかけていた民への「信仰の立ち返り」を促すものでもあったことを想う。 50年という捕囚生活が信仰を揺るがしていたのである。神がその民(選び)に求める使命を、私どもへのメッセージとして受け取り直して新年を迎えたい。

12月20日 闇を照らす光

ヨハネによる福音書 1章1節〜13節 阪井牧師

 「世は言を認めなかった」は「受け入れなかった」と同じです。その世界が暗闇であることを示しています。 ユダヤの王ヘロデが主イエスの誕生に執った備えは、自分の権力保持を「ベツレヘムとその周辺一帯の男の子殺害を命じ」ました。 このことは今日の私どもが考える必要ありましょう。現代は、先ず自分の理解や納得を前提が決断に求められます。 そこでは、神の働く余地がありません。 大いなる不安の中でも「私は、主のはしためです」と信仰告白した少女が、 知らされた親族エリサベトを訪ねて恐らく4日程の道のりを歩きました。 自分を投げ出して、主の言葉に生きる少女の訪問を受けたエリサベトの言葉は「ああ、さいわいな方」と叫んだのでした。 主の言葉にとどまり、受け止める人は、主に包まれ、主の霊に覆われています。これがマリア賛歌となりました。 能率や賃金という科学や感情で人間の環境・状況がよりよくなることを否定するのではないのです。 神の前に生きる人の「いのち」が失われる暗闇の中でも、生きる希望と力をいただくのがクリスマス、 いのちを照らす光の到来です。常識的には受け入れがたい現実、苦悩や葛藤また不条理に戸惑いながらも、神に生きるのです。 情報に振り回されて自分を探すよりも、神の意志を尋ねて与えられた恵みとなるように祈りましょう。 この身に主の言葉が現れますように、と。この闇の中を照らす光となって用いられることを願い求めたいです。 他者を励ます主の道具になりたいです。

12月13日 ああ、幸いな方!

ルカによる福音書 1章1節〜13節 阪井牧師

 修辞の巧みさがここにある。読者は自然に胎の子ども、主イエスに向かわせる。 天使の告知が、ザカリアとエリサベト夫妻に、そしてヨハネのいいなずけマリアにも。 母になる二人は親戚関係。その両者が顔を合わせた時の母エリサベトと胎の子に起きている現実を物語る。 人の思いや生活慣習では、考えられないところに神の計画が進められている。 そこに、信仰に生きる者の姿が浮き彫りになる。それが、人の世界に神が介入する、ということであろう。 クリスマスへの準備(アドベント)は、サンタさんを迎える子どもの心境とほど遠いことを想う。 自分の必要を満たされることの期待ではなく、神の働きかけに応える備え、敢えて言うなら、 今の自分が保てなく不安の中で、神が私どもに働きかけておられることに「どう応えるか」となる。 ユダヤの王ヘロデが取った備えは、ベツレヘムとその周辺一帯の男の子殺害を命じたことを考える必要がある。 現代は、理解や納得を前提とする決断が求められる。そこには、神が働く余地がなくなる。 不安から「私は、主のはしためです」と信仰告白した少女が、エリサベトを訪ねるのに、約4日の道のりを歩いている。 自分を投げ出して主の言葉に生きる少女の訪問を受けたエリサベトの言葉が「ああ、さいわいな方」と叫んだのである。 主の言葉にとどまり、受け止める人は主に包まれ、主の霊に覆われる。 それがマリア賛歌となっている。クリスマスに向かう人々を支え励ます歌をともに賛美したい。

12月6日 愛は冷える

マタイによる福音書 15章29節〜39節 阪井牧師

 カナンの女性がその信仰の故に娘の癒しが起こった。その記事に続く多くの癒し記事がある。 癒された群衆とは誰か。前後の記事から、ユダヤ人ではなかろ。しかし、その人たちがイスラエルの神を賛美した、 と結ぶ文には深い意図を想う。本来、神の救いは、ユダヤ人特有の誇りで、以外の人にはないものである。 イエスの祈りが父のご意志を行う備えと受け取るなら、この記事は深い。 14章の「5つパンと2匹の魚」の記事はユダヤの群衆であった。「7つのパンで男4000人」は異邦人となる。 主イエスが、繰り返してお示しになっているところに、弟子を愛する姿がある。神の愛は疲れない。 分かるまで繰り返すその愛が、いのちを保ち、成長を助ける。反芻をして生きる牛を想う。 信仰生活も、神の愛を反芻する(繰り返して味わう)ことが大事である。 主イエスに繰り返し「お会い」して、み言葉を聞く、深い交わりをすることの繰り返しがその「いのち」を保つ。 怠ると、それに生きる愛が変質し(冷める)たり、消耗して、愛そのものに疑いを持つに至るのが私たちである。 神の愛に向かっていた自分を「思い込み」に生きていたとさえ変質し、周囲に不安定となった自分の毒?を散布するほどになる。 自分を中心に生きることを始めることになり、神の言葉が「騒がしい音」にすぎなくなる。 聖書に向かい、祈りを繰り返すことの中に、私どものいのちがかかっていることを学び、このアドベントの時をしっかり歩み、 その時を待ち望みたい。

11月29日 自ら働かれる神

イザヤ書 46章1節〜13節 阪井牧師

 思いがけない代理出産の報道に驚いた。当事者からの法整備の訴えに疑問を覚えた。 時代の特徴を見る。自分が中心の発想である。そこでは命の創造者が誰かを考えない。 だが、聖書の記事は、この逆である。人の現実を神の前に見ている。 バビロニア帝国が新興国ペルシャによって滅ぶ歴史の流れが、神の働きであると。 その現実をイザヤは預言している。神は約束された言葉を空しくしない。 必ず完成させる方である、と。バビロニアの神々は人の手によって存在していることを対照させて語る。 「わたしに聞け、あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた。 同じようにわたしは、あなたたちの老いる日まで、白髪になるまで背負って行こう…」。 ここに信仰の生き方をみる。 自分が神を喜ばしたり、背負ったり、神に対して何かをしようとしていないかを、ルカ福音書の 「マルタとマリアの記事」からも考えさせられる。主イエスは旅に疲れている。 もてなしに懸命なマルタに比して、マリアはその膝元で時を惜しんで寄り添い続ける。 主イエスは、そのマリアを受け止めておられる。 生活感覚から、例えずれていても、神の御前に遠く見えても、約束の言葉を実現するために、 神が働いてくださることを受け取る時、希望と将来への歩みの足は着実となる。 神の言葉に自分を託すなら、そこに自由がある(ヨハネ8:32)。思い込みの自由ではない。 神がそこに働いてくださる解放であることをしっかり味わいたい。

11月22日 キリストを信じて生きるとは

フィリピの信徒への手紙 3章5節〜11節 松本昌子先生

 パウロの詳細はそう多くはない。熱心なユダヤ教徒、ファリサイ派の律法学者であり、 主イエスとほぼ同年代の人であり、AD60年頃にローマで殉教したことが知られている。 回心のあと、約30年間の宣教は、「キリストを知ることのすばらしさ」の故であったと語っている。 約2年間位の滞在で、その地に教会が生まれたが、様々な課題があったことを手紙内容から知る。 それに対して、主イエスの十字架と復活の福音による根本解決を示している。 ユダヤ人たちは閉鎖社会のため当時の社会に疎いが、教育には熱心でヘブライ語を読み学んだ。 国を持たない彼らは、律法を中心にして神との契約を大事にした。 パウロがタルソ生まれのユダヤ人であったのに、律法に生きようとした理由はそこにある。 だが、「キリストを知るすばらしさ」の故に、益となるもの一切を捨て、天幕造りで生計を立てながら福音宣教をした。 律法の成果主義(罪の赦し)に対し、信仰による義(恵み=信仰義認)を説いた。 ユダヤ人は、イエスたちをガリラヤの律法解釈補正グループと見ていたのに、パウロは全く異なる福音であることを公にした。 この手紙(書)は、殉教に繋がるローマ法廷への護送途中(たぶんエペソ)で書かれたものと考えられる。 モーセがヨルダン川を渡る直前に語った決別の言葉(民数記)を想起する。 今日も「キリストを知るすばらしさ」の故に、キリストを信じて歩む人々が、証しを続けている。 私たちもその証し人になりたいと願う。   (文責 阪井)

11月15日 パン屑を受ける信仰

マタイによる福音書 15章21節〜28節 阪井牧師

 目的への経過が目的化される時、本来の目的が怪しくなる。 このことは、選びの民を強く意識するユダヤ人、主イエスに最も近い弟子たち、さらに教会の私どもの歩みと神の恵みを考える機会となる。 これは、異邦人(カナン)の女性と(国外避難の)主イエスとの出会の話である。 ユダヤ人のメシア告白を叫び訴える女性は異常である。 主イエスの事情や自分の周囲を無視しての姿勢は、祈りの姿でもある。 それは、全てを晒す信仰の呻きとなる。しかし、イエスは沈黙を保つ。 そこで弟子たちは〈追い払い〉を進言した。イエスの使命を示す言葉に驚く。 女性の懇願「どうかお助けください」が続く。同じ言葉が、弟子たちから出た記事を想起する。 マタイ8:23、14:22では、イエスから「信仰の薄いものよ」との言葉がある。 この女性には、「あなたの信仰は見上げたもの」とあることを意識する。 それは、イエスの「子どもたちのパンを取って、子犬に投げてやるのはよろしくない」に応じた「主よ、ごもったもです。 でも、食卓から落ちたパン屑はいただくのです」の女性の信仰をほめられた。異邦人への福音宣教がある。 神の恵みが世界に至ることを告げている。 マタイ福音書が、ユダヤ人キリスト者を読者にすると特徴付けるなら、 主イエスとの歩み時間の長短、距離の遠近、学びの濃淡、経験の多寡、 民の差異を越えていることががどんなに恵み深いことかを想う。 「主に依るほかに」の信仰を受け止めて下さることを、共に喜びましょう。

11月8日 失せず曲がらぬ言葉

イザヤ書 45章1節〜25節 阪井牧師

 信仰を見方によっては、身勝手・独善となる。個人のことなら傍観できるが、関係は損なわれる。 イスラエルの歴史に捕囚解放の事柄がそうである。 国際政治や軍事の動向を、神の働きが起こした結果である、と預言者は語る。 直接の原因をもたらしたのが、異教のペルシャ王キュロスであり、彼を「主に油を注がれた人(ヘブライ語でメシア、 ギリシャ語でキリスト)」と説明をしている。民らは解放を喜んでも、神を知らない者が神に仕えることは容認できないわけです。 「清濁併せのむ」はご都合良すぎる。ここには、選ばれた民の強い意識が働いている。 神の意志さえも自分の意識に仕えることになっていないだろうか。 「ぶどう園の労働者たち(マタイ20章)」や「失われた羊(ルカ15章)」の譬えが不思議に思えるのは、 自分がどこに位置しているかに因る。 イザヤは粘土と陶工との関係で、神の民の不可解さを説明し、神の義と秩序は貫かれていると語る。 今日の人間世界は、自己顕示性が強く、神をさえ視覚対象にして信仰を曲げる。そこから、美が新しい倫理の根拠となる。 人の内面に隠れている貴いものが失われていく。改めて「見えないものに目を注ぐ(IIコリント4)」ことが大事となる。 主イエスは静かで寂しいところに祈りの場を持たれ、「主の祈り」を示される時も、奥まった部屋で祈ることを示された。 人の感性や知恵で世界を見るところに、信仰の目を持つことを学ぶ。 神の前にどのように生きるかが、人の尊厳に関わると知って歩みたい。

11月1日 口先と心との距離

マタイによる福音書 15章1節〜20節 阪井牧師

 目前の事柄への対応は、確かだと思う。でも時間と状況が変わると、それが違う意味になることが起きる。信仰と倫理は、そこに違いがある。「手を洗う」は律法の重要な戒めである。その筋の方々にはそれに従わないイエス一行を糾弾する。その行為への問いにイエスは、信仰からの答えをされた。「洗い=清い」は、神の聖に対する人の姿勢、神の前に汚れた自分を自覚する象徴的行為である信仰表現となる。 つまり洗うことが目的ではない。象徴や手段を目的にする時、その内容は倫理に変質する。 「清くあろうとすること」に熱心が重要となる。 かつてのパウロが、キリストを知る故に益であったものを損と思うようになったと言う(フィリピ3章)。 神を見るよりも周囲(人)を気にする生き方が変わった(悔い改めである)。 本来、神の民として召された者の務めは、神のみ心を歩むことである。 (こころにある)口から出る言葉が、神との関係にあることが大切。その結果が隣人に関係する。 十戒の後半は、「人との関係」であって 前半の「神との関係」を見失うと、信仰的な人たちが神の子をも批判することになる。 主イエスが来て語られ、神のみ心を示される。これは生きる喜びと力を得る恵みの時である。 汚れた者が主を讃えることを赦されている。それが「洗う」ことに繋がっている。 主を讃えて清められた者が、周囲の人を立ち上がらせる道具に用いられ、仕える者とされる。 自らの行為が他者を変えるのは、そこに主が働かれるからと信じる。

10月25日 神の選び

エフェソの信徒への手紙 1章3節〜14節 田所 賢二先生

 松本からの講壇交換の時を感謝する。今日は「神の選び」と言うことについて学びたい。 人が物を選ぶときにはこだわりがある。セーターを選ぶときには色やデザインの好みがある。 神様が私を選んだのは何故だろうか。 この1年を、あるいは人生を振り返っても、選ばれるような長所があったとはとても思えない。 神様は独自の選択基準で選ばれる。申命記(7:6)には数が多いのでも、力があるわけでもなかったとある。 神様は一方的にそうお決めになって、私たちを宝の民とされたのである。旧約にはさまざまな召されが出てくる。 アブラハムは75歳のときから故郷を出で立ち新しい人生が始まった(創世記12章)。 モーセは80歳にして召され出エジプトを企てた(言行録7:30)。若者に過ぎなかったエレミヤが預言者として召された。 絶世の美女エステルは王の妃として召され命をかけて働いた。神の選びを知った時から人生は変えられる。 私たちひとり一人に、愛のプログラムが用意されているのである。 どんなときも恵みと平安とがキリストにおいて与えられていることを知ることが出来る。 信じて感謝して、もう一度このことを覚えたい。 最近、幼稚園を手助けしてくださる年輩の男性から「古代蓮濁世に祈る姿かな」という句を頂いた。 古代蓮が甦ったように、神は選ばれたことをいつまでも忘れない。聖霊で証印を押された(13節)ということが喜びだ。 召された者たちには万事が益となるように共に働く(ロマ8:28)のである。   (文責 石黒)

10月18日 主のみ前にある価値

ペトロの手紙I 3章3節〜4節
コリントの信徒への手紙I 12章4節〜11節
佐藤洋晴先生

 4月から関東学院中高で宗教主任になる以前、8年間仙台の尚絅学院で教師をした。 期せずして今日(10/18)は学校を覚える日ということで学院の名前と聖句に関してお話したい。 尚絅の名前は、中国の古典「中庸」にある衣錦尚絅(いきんしょうけい)に由来する。 錦を着て絅(薄衣)を尚(加わ)うの意。綺麗な着物を外に出さず、上から薄ぎぬを加えるを美徳とした。 これに相応しい聖書の箇所としてIペトロ3:3〜4が選ばれたという。 外見でなく中身の価値を重んじたのです。「尚絅」名の他に候補として克己復礼もあった。 残念だが明治時代の心意気を現在に生かすことが難しく、また聖句も自分で実現することは本当に難しい。 内面的な「柔和でしとやかな気立て」が神の御前で価値があると言われると、たやすく実現出来ない心苦しさを覚えます。 だが、「柔和」という言葉は、イエスを示す言葉として(マタイ11:28-29や21:5に)用いられている。 即ち、単なるスローガン・目標というものでなく、私たちが出来ないからこそ、イエスが十字架を通して与えてくださるものだと受け取れる。 生徒を見ていると、各人が持つその人柄は様々であり、とても一言では教育できるものではない。 Iコリントにあるように一人一人の異なる価値(賜もの)が全体の益になる。 一人が与えられている賜ものを、イエスを通し活かして全体が輝く。 教育の場において、その輝きを社会の中に活かすことの手助けを、祈りの内に出来るようにと願う。   (文責 石黒)

10月11日 惑う心、道を誤る

イザヤ書 44章1節〜28節 阪井牧師

 使用しないと「傷むもの」が、生活周辺に多々ある。家屋、家電、機械、車、衣服革製品などを想う。 教会生活や信仰生活もそれに似ているかも知れない。 なぜ私?とか、この時?、こんな具合?…歴史の中の歩みにイスラエルの人々はどうであったかを聖書から学ぶ。 「信仰によって」つまり、神との関係で捉えている。 神の選びの民・イスラエルに「わが僕」と声かけられたのは、神との主従関係であり、 そこには神の側に選びの根拠があることを示す。 自分の意に反して居心地良くないところに用いられる時、信仰なくしては応え得ない。 旧約のアブラハム、ヤコブ、モーセ、新約ではマリアと例はいくつもある。 バビロン捕囚のイスラエルが今ここに扱われている。 すでに世代交代をして、その地に生活拠点を持つ民を、神の計画に用いると語る。 偶像とは、神に代わるものを人の心に築いている一切を指す。 それが芸術であれ、魂を注いだものであれ、歴史を刻んで人々の生活に深く根ざしているとしても、 神に「いのち」与えられている者は、その世界とどう向き合うかを問い、 創造主のみ手の中にこそ立ち帰るべきを預言者は告げている。 主イエスの譬え「放蕩息子」を想起する。弟息子は「もう私には息子と呼ばれる資格はありません」と父のもとに行った時、 父はそれを見つけて憐れに思い、走り寄って喜んだ。 すでに神の子とされている恵みから惑うことなく、立ち帰る機会を信仰において受け取る私たちでありたい。

10月4日 安心せよ、私だ

マタイによる福音書 14章22節〜36節 阪井牧師

 「灯台下暗し」の言葉を想起する。 〈5つのパンと2匹の魚〉の記事に続く、〈湖上を歩くイエス〉の記事の現象に目や心を奪われると本来のメッセージが見えなくなるところからその言葉を想う。 話の結びに「本当に、あなたは神の子です」と言って弟子たちはイエスを拝したとあるのは、 弟子たちが主イエスを神の子と受け取れないでいたからだと思わせられる。 その前に、この弟子たちをイエスが「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」との言葉が示している。 主イエスは弟子たちを「強いて」舟に乗せたことの理由は、訓練であろう。 元漁師たちがいる弟子たちの訓練は、主イエスが居なくなる(十字架の)時への備えと考えられる。 福音を担い伝える使命を与えられる者に対する恵み、主から離れる訓練がここにある。 経験や力量による使命への判断は、弟子としての務めを担い得ないことを学ぶ。 イエスは、「一人祈るため」の内容が気になる。 (1)飼う者のいない羊(=群衆)、(2)ご自身の父との交わり、(3)弟子たちのためを想う。 (3)から〈離れることが祝福〉の関係があることを想う。 周囲の状況が厳しい中でこそ、知ることは〈主が共に〉である。 信仰の反対は、「恐れ」である。神の子を「幽霊」と恐れた。 〈主が共に〉が薄れる者=私どもに対して、主は語りかけてくださる。 「安心せよ、わたしだ」と。パウロはローマ8:15で「恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けた」と語っている。 「私だ」とのイエスの言葉をいただいて歩む者となろう。

9月27日 汝、我が目に貴い

イザヤ書 43章1節〜28節 阪井牧師

 「手のかかる子ほど愛しい」とは、世の親心である。 神もまた同様と想わせられるのがこの記事である。「神の民」の契約から外れ、「神の名」を汚した事に今の敗北と悲惨がある。 だが、そのことすら気づかない「民」になったいるイスラエルに向けたイザヤの預言は、神の愛と慈しみを伝えている。 子のいたずらに親が近所を謝罪して廻るのに似ている。創造者である主から「わたしはあなたを贖う。 あなたはわたしのもの」との言葉がそれである。 しかも、「今」とあるのは、過去や未来でなく、民の罪を神が変わって自らが「今」負うことを意味している。 この言葉を、イザヤ自身も自分への神の深い愛として受け、励ましと慰めを得ながら語っていると受け取れ、 証しや伝記が心を打つのに似ている。 バプテストの教師伊藤戒三師(S6.5.16告別)の伝記は、心を打つ。 嘉手納良弼述『栄光の苦闘』村上利雄編著である。痛みや苦しみを自分のものとして受け、 人に知られず見舞い、慰めを祈っていた。そこを離れて、教会の人たちは知ることになった、と涙ながらに読んだ。 イザヤは続ける。 民がどんな苦境にあっても主なる神は「ともにいる」と語り、 さらに頼りなく愚鈍で破れのある民を用いて、主がまことの神であることの証人に立てる、とまで語る。 主イエスがザアカイの家に泊まる、と言われた話(ルカ19章)を想起する。 失われた羊を尋ね求め、救いをもたらして喜ぶ神の子の姿と重なる。 人の評価でなく、主の恵みに信頼して歩む者になりたい。

9月20日 五餅二魚の怪

マタイによる福音書 14章13節〜21節 阪井牧師

 クリスマスの出来事でさえ、全(四)福音書は記録していない。 この記事は四福音書が共に書いているのは、それだけ後代の人々に残し伝えたい願いがあると考えられる。 それは何か。恐れに縮こまらず、外に出て行く力を得、喜びに満たされるメッセージを味わったからだ。 群衆が慕い、囲む先生に最も近い弟子たちは、ヨハネの死に関する情報と人々のメシア待望の高まりから恐れを覚えたであろう。 ヨハネの事を聞いたイエスは人里離れた所(父のみこころを求める祈りのため)に船で退いたが、歩いて人々はそれを追った。 イエスはそれを見て「深く憐れみ」、時を忘れて向き合われた。ご自分の痛みとして受け止められたのである。 弟子たちは経験と知恵による提案をした。食事の時を意識しての極めて常識的な言葉である。 だが、イエスは思いがけない反応を示された。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と。 イエスの弟子たちへの教育訓練を見る。十字架の後に残される弟子たちが使命を担う者となるために。 五つのパン(五餅)と二匹の魚しかない。それをもって男だけで五千人を飽かさせたのである。 合理や常識では不可能なことが、神への信頼に立つ者には可能となることを弟子たちが体験した記事である。 「カナの婚礼(ヨハネ2章)」の記事を想起する。不思議なしるしは直接関わった者だけがその真実を知っていたように。 神に信頼して用いられる者に与えられる恵みがここにある。 私たちがその機会を今、持とうとしている。

9月13日 選び迎えられる

イザヤ書 42章1節〜25節 阪井牧師

 「わたしの僕に主の霊が置かれた」の記事(1節)は、主イエスがバプテスマを受けた時の記事(マタイ3章) 「これはわたしの愛する子」「わたしの心に適う者」と天から声があったを想起する。 またマタイ12:15以下には、イエスはこの箇所を引用し「預言者イザヤの言葉が実現するためである」と言っている。 みこころに仕える人、主に選ばれた人、の話が出エジプト記17:12(アマレクと戦うモーセの記事)にもある。 神の霊が働き、注がれるなら、人の苦労や努力よりも神の僕として働く者となることを知る。 しかも、神の道具、神の器とされたことを喜ぶ者とされる。イスラエルが神の民であるのはその故であった。 そこから外れたことを示すために「わが僕」が用いられている。 「耳があるのに聞こえない」や「目があっても見えない」は、現代の私たちに通じるかも知れない。 イスラエルの存在の根拠は神の民であることかかっているのだが、努力・精進・苦労が必要とする愚に外れた。 神のご計画やみこころに、人の知恵や経験を含んだ「よみ」は、道を曲げたと告げている。 傷ついた葦、暗くなる灯心でも、神の真実になお応え得るのは、主の恵みに他ならない。 タイミングも人の関心事も神の前には小さい。神が人を器として用いる時、人の現実が逆転さえする。 信仰に歩む者として最も重要なことは、世の評価や自分の才覚よりもキリストを信じ、仕える者とされた恵みを悦び生きることである。 礼拝に参加できる恵みを共に喜ぼうではないか。

9月6日 家族の絆

マタイによる福音書 14章1節〜12節 阪井牧師

 「絆」という言葉のイメージは関係保持の大切さを想起する。だが逆の場合もある。 ヘロデ家族がその例であろう。妻ヘロディアは現夫ヘロデの弟の妻であった。 その娘が母の願いに応じてバプテスマのヨハネの首を要求し、義父のヘロデは、誕生日の祝宴に招いた人々の手前、 自分の意を押さえて娘の要求に応えた。 娘の名はサロメと言われているが、ここには明記されてない。 シャローム(平和)と同じ言葉への配慮だろうか。ヨハネがヘロデたちの結婚に関して、 ユダヤの社会規範の律法に反していると指摘した。入牢はその故であった。 宴の盛り上がりと家族からの要求に応えたヘロデの決断、そこにヘロデの「家族の絆」がある。 また、招かれた人の中に愚行を諫める者もなかった。 誕生日の祝いは、自分の存在を共に喜ぶこと、つまり自己肯定である。 本来、自己存在の肯定は神から始まっている、と信仰者は受け取る。だが自己肯定から罪もまた始まる。 それは、神との関係に背を向けること、つまり、人との関係、家族との関係、人との喜びが神に優先することから起こる。 神の前に歩むことより、自分優先になる時、来客の手前、約束の故など知恵と経験を盾に、自分の姿勢を保つことになる。 力、知恵、権力を多く与えられた者ほど陥り易い。 〈真理に忠実、同時に日常の生活にも忠実〉の絆は、バランスを崩し、自分も破れ、真理をも手放すことになる。 主と共に愚かしいほどに一つ事(神の言葉)を徹する人であり続けたい。

8月30日 力を新たにせよ

イザヤ書 41章1節〜29節 阪井牧師

 「口あけて はらわた見せる柘榴かな」は有名な句である。 「潔さ」の捉え方、その反対に「隠しているつもりでも見えている」を考えさせる。 イザヤ41章の展開から想起した。イスラエルを囲む民、国、人が神の前にいる姿がここにある。 さらに「わたしのもとに来て静まれ」は浮き足立つ生活から神に心を集中せよであり、 自らの喋りを控え神からの言葉に向き合えとの指示である。礼拝の本質を示す。 現実に起きた事は政治や時流でも(神と民)との関係は失われていない、と。 むしろ、神がこの現実を起こしているのだと預言する。 神に向かう者が厳しい現実に向き合うのは、主イエスの荒野の誘惑(マタイ4:1〜)に、 パウロの回心後にアラビアに下った(ガラテヤ1:19)例にも見る。 神に仕える民、召し出された者に必要なところは、ある種の「荒れ野又は砂漠」のようなところと受け取れる。 訓練と鍛錬がただ必要ではない。イザヤの預言のように、神がそこに働いておられるとする信仰への姿を語る。 自ら鍛えることでなく、状況によることもある。 9節の「わたしは、あなたを固くとらえ、地の果て、その隅々から呼び出して言った。 あなたは私の僕、わたしはあなたを選び、決して見捨てない」の言葉は慰めと耐える力を与える。 そこには繰り返して「恐れるな」を伴っている。自分でさえ、思いがけない現実が起こるが、 そこに「召された者」は用いられることになる、と。 神を離れて自分の力で現実を変えようとすることからの戒めでもあろう。

8月23日 イエスへの躓き

マタイによる福音書 13章53節〜58節 阪井牧師

 「医者の不養生、坊主の不信心」を想起する聖書「預言者は故郷、家族の間で敬われない」の言葉である。 伝道の困難や行き詰まりを慰め励ます記事ではあるまい。 今日をまた明日に向かう力強い歩みや生き方へのメッセージを聞き取りたい。 イエスの話を聞いた人々が「非常に驚いた」との言葉に関係する。山上の説教の締めくくりのマタイ7:29にも同じ言葉があり、 そこに「権威ある者として」話された、との説明に注目する。 権力は外から付与され、権威は内側から外に向かい出てくるものである。 しかし、外からの理由を探す人には納得できない。だから驚き怪しむのである。主イエスの譬えはそれであろう。 話は誰にも分かる。それで神の国のことが分かることになるか。 天上の事柄を地上のことに譬えてあるから、話は分かってもその内容を納得したことにはならい。 だから「驚いた」のだ。「おはなし」でも、自分の生活をかけて聞く、自分の世界(=故郷)を出ることには抵抗を覚える。 それが「躓き」である。復活の話は、「いずれまた」と、 アテネの新しいことに興味を持つ人々からパウロはアテネ伝道で聞いている(言行録17:32)。 説教のうまさや楽しさが問題ではない。神の言葉を聞くことが重要である。 教会はその場所であり、主イエスと出会う所である。 そこが自分の故郷として護ることで、神の入り込める余地を閉め出していないかを想う。 そこを主イエスが故郷としておられ、わたしたちはここに信仰を生き、力を得るのである。

8月16日 兄弟アンデレ

ヨハネによる福音書 1章35節〜42節 和泉富夫先生

 聖書に3度アンデレが登場する。まず、自身の兄ペトロをイエスに引き合わせた(ヨハネ1:35〜42)。 いずれ自分の上に立つと分かっていても、イエスによって変えられてほしいという願いからだろう。 次はイエスが五千の群衆に食べ物を与えた時(同6:8)。パンと魚を持った少年がいると言ったのがアンデレだった。 イエスに役立つ可能性があるものは誰でも連れてくる姿を見る。 3度目は十字架の直前にもかかわらず、訪ねてきたギリシア人を会わせるのをためらわなかった(同12:20)。 イエスがいつでも誰でも受け入れられると信じ、すべての人はイエスによって救われると感じていた。 イエスに引き合わせた点が共通し、直接イエスと繋がって第一人者になってもらいたいという願いを見る。 教会に繋がる同胞を兄弟姉妹と呼ぶがその模範こそがアンデレだ。 人には実力がありながら次位に甘んじなければならない時もある。 後の者が先になっても心静かにしている姿も模範となる。 常にペトロの弟と紹介されて影は薄いが、歴史のIFを言えば、アンデレなくしてペトロはなかったし、 「一粒の麦の譬」もなかった。誰かをイエスに引き合わせることが伝道の第一歩である。 ためらわず家族友人知人を教会に連れてきてよいのではないか。 アンデレにならって人をイエスに連れてきた時に何かが起こる。人々の交わりの中にいなくてはならない人アンデレ。 私たち一人一人がアンデレであればそれは教会にとって喜びとなるはずである。   (文責 石黒)

8月9日 平和の礎・十字架の贖い

マタイによる福音書 5章9節
エフェソの信徒への手紙 1章7節・2章15節〜16節
松本昌子先生

 毎年8月に平和を考える講壇を受け持っている。今年も話ができることを感謝する。 読んだ聖書に加えてエフェソ2:15〜16を加えたい。我が国でも欧米でも挨拶は朝昼晩を意味する言葉を用いる。 ところがイスラエルでは「シャローム(平安あれ)」唯一つしかない。 約2000年のかの国の歴史について旧約をひもとけば、アブラハムの苦難、出エジプト、モーセ、40年の苦難、 南北分裂、バビロン補囚、ペルシャの支配、ローマの支配…と少しも平安でなかったことがわかる。 弱小な国に平安を与えて欲しいという万感の祈りが挨拶の言葉になった。 イエスはローマ帝国に反逆する政治犯として処刑されたが、なんら反逆の言動はなかった。 新たな宗教を興した訳でもない。当時の律法学者を否定したのではなく、律法を真髄をより守る行動をとった。 それが「隣人を愛する様に敵を(も)愛せよ」という言葉でありイエスの行動であった。 敵を愛するようなことは私にはとても出来ない。しかしそれが実現されている奇跡がある。 ルワンダで94年に起こった大量虐殺。 その受刑後の加害者と被害者とが共存する社会を支援している佐々木和之氏と現地NGO(REACH)の活動を思う。 罪を償い罪を赦すその奇跡を便りから読む。共生は赦しが先に立つ。それはまさに敵を愛することに他ならない。 イエスの十字架の償いを通して、憎しみあう敵意を滅ぼし、私たちを新しい人に造り上げてくださる。 その信仰によって平和を実現してゆきたい。   (文責 石黒)

7月26日 ペトロは立ち上がって往く

ヨハネによる福音書 21章15節〜23節 和泉富夫先生

 私たちが行き詰まった時に必要な励ましの言葉は、過ぎたことへの言葉ではなく、 これからの新しい方向へ向かう言葉であろう。 イエスは、失意の心にうちひしがれている時「私を愛しているか」「私の羊を養いなさい」 「私に従いなさい」と言葉をかけてくださる。聖書で言う愛とは、お互いを授受すること、 すなわち、神の心を全て戴き、粗末ではあるが私の全部をお渡しする、そういう形と考える。 聖書の世界で3は完全を意味する。ペトロに向かっての3度の問いかけは、 「イエスを知らない」と完全に裏切ってしまったことに応えたものである。 この問いかけに対しペトロは、「それはあなたの領分です」と、 すべての弱さをさらけ出して完全にお委ねしている。そこから、人は強くなっていく。 人、誰しも他人にはない体験を持っている。自分の限界・弱さにぶつかった時、体験を無にするのではなく、 高いところへ引き上げてくださり、ここまでという限界の杭を、遠くに打ち直してくださるのが神の言葉である。 初代教会のアポロ・パウロには英才があった。 ペトロは単なる漁師であったが、網を投げてイエスの働きに人々を導いてきた。私たちはそのあとに続く道が残されている。 他の人を羨んでも自分の力にはならない。 弱い人が立ち上がる姿ではなく、誰かによって立ち上がらせてもらっている姿を見る時、私たちの力になる。 ペトロが失敗から引き上げられる姿を見ると、私の中に「ぽっ」と励ましの火がつくのである。   (文責 石黒)

7月19日 「何のため?」 の問い

マタイによる福音書 13章36節〜52節 阪井牧師

 合理と利便の知恵が今日的な特徴の一つであろう。 その例が言葉の短縮「就職活動」を「就活」、「結婚活動」は「婚活」、最も新しいのが「早朝の活動」が「朝活」となるとか。 さしずめ「天の国の譬えの学び」は「天学」となろう。この学びを修めた者を、主イエスは「学者」と言われた。 実際は、無学の普通の人(言行録4:13)である。弟子たちは教会の中心、私たちは教会の群れ、すなわち天学の学者となる。 この世の基準とは異なる。主イエスを通して神の真理、霊的な働きをその身に受けている者だからである。 畑に隠された宝は掘ってこそ見い出せる。さらに良い真珠は、それを見分ける鑑定力が求められる。 途中を省略する合理や利便性の追求で見落とすしかない過程は、時間や労力が欠かせない。 天の国とは神の支配が行われているところで、すぐ分かるものではないと考えられる。 しかし、そこに隠されている宝や良い真珠を見いだすことになる。 神の支配があるとは思えない現実は、悩みや苦しみまた辛さで覆われている。 だから救い主であるイエスが十字架につけられ、取り除かれた。 神らしくない神の子として主イエスは、私どもの知恵・情報・経験では適わない深さの中に自らを置き、僕として歩みをされた。 弱さ・惨めさ・悲しさ・痛み・軽んじられることを引き受けられた。 「何のため?」「なぜ私なのか?」を問うのが私どものの現実。 その答えが、ここにある。そこに居る全ての人の救いとなり、神の子の高さに導くためであった、と。

7月12日 愚かな思い込み

イザヤ書 39章1節〜8節 阪井牧師

 自分では正しく、理に適っていると判断しても、神への背反となる話が旧約聖書にある。 初代イスラエルの王サウルが、アマレク人と闘って勝利をした時(サムエル上15章)のこと。 神は出エジプトを妨げた彼らを「一切滅ぼし尽くせ」と命じられた。勝利をしたサウルは合理的判断をした。 結果、神の求めと異なった。それ故神から王位を退けられ、少年ダビデが代わって油注がれ(王に選ばれ)た。 しかし、人々の前はなおサウルは王のままであった。ただ威厳は失われていた。 その後の王子ヨナタンとダビデの関係は有名である。言い分や事情はあろう。 だが、重要なのは、神のみ心に適うことである。 南ユダの王ヒゼキヤが死の病から回復し、祝いに来たバビロンの特使を喜びもてなしたヒゼキヤ王に、 イザヤは実に厳しい神の言葉を伝えた。 言い分には(1)国の危急を救う対アッシリア対策があった、(2)死を免れた王の回復、神は祈りを聞き届け、 神の愛で応えられた、と受けたことであろう。神のみ心への思い込み、民や王の意志が神の領域を超えていないか。 その時、人は自分を中心に考えてしまう。 あのペトロは確信的な発言「譬え、他の人が…」と言い切ったその夜、意に反する結果に至った。 主イエスはすでに知っておられたことに気づいて泣いた。ここに信仰に歩む者の姿を見る。 誤って自分の力で何事かをなし得ると思い込む。神が託して下さった召しに用いられるだけである。 その力は、み言葉に聞き続ける他はない。恵みを歩みたい。

7月5日 からし種とパン種

マタイによる福音書 13章31節〜35節 阪井牧師

 13章の譬え〈3つ〉を単純化してみた。 (1)〈種まき〉は神の言葉、(2)〈毒麦〉は蒔かれる場所、(3)〈からし種とパン種〉はどんな働きか、を考えさせる。 さらに、これらの譬えには福音書の編集資料の背景も考えさせられる。ところで、〈からし種〉を受付に置きました。 まるで〈粉に近い粒〉であることを知るなら、一粒が重要問題ではないことは納得できる。 しかし、この種が発芽して生長すると、2〜3メートルの高さになって鳥が巣を作る。 これでは食卓に乗る野菜の名に不相応で、むしろ木であろう。天国を譬えて、種との差を示している。 パン種も同じく〈粉全体を膨らませる力〉を示す。 預言が成就して神を称えることを示す詩編76を引用しているマタイ福音書の特徴がある。 確かに、ガリラヤはパレスチナ全体から重要ではない、しかもその一地方のイエスの事柄(福音)は目立たないし、 取るに足りないと人の目に見える。だが、それがこの世の全ての人に働きかけ、 驚く程にその力を発揮する新しい〈いのちの源〉である譬えである。天国、神の驚くべき〈み業〉は語ることができない。 知恵や知識、また経験という人間の側のことで説明できないから〈たとえ〉で話されている。 また、確かに神のみ業は行われていることを語っている。 どこか別の世界の事柄として、神の働きを考えたり、想像するべきではない。 現実に生活している私たちの只中に〈神のみ業〉は進められていることを受け取り、 その働きに用いられる教会の一員であることを喜びたい。

6月28日 祈り、泣く王

イザヤ書 38章1節〜22節 阪井牧師

 「そんな!」とたじろぐ言葉の書き出しは、死を間近にする人(ユダの王ヒゼキヤ)への預言者イザヤの言葉である。 神の言葉を伝えるとは言え、こうも情け容赦なくて良いのか。イザヤは血の通わない人であったとは思えない。 改めて、神の真実を伝えるということの厳しさを思い知らされる。 「アモツの子」とイザヤを説明する記述から、思い悩みを超えて語らざるを得なかった人であることを想う。 だからこそ、ヒゼキヤは「壁に顔を向け」たのであろう。 人との交わりを避け、一人になる姿、すなわち、神に向かって祈り、涙することになったとしたら、 イザヤの使命は意味を持っている。 最後の晩餐の場面で、ペトロが主イエスに言われたことを思い出して、激しく泣いた記事(マタイ26:34)を想起する。 祈り、泣くのは、神の前に素顔の自分、一人の人になりきることである。 イザヤを通して聞いた神の言葉に対して、祈りも泣くことも、神は受け止めて更なる言葉が与えられている。 癒しと恵みが約束されるのである。主が生かし、支えて下さることへの喜びが賛歌になっている。 ヒゼキヤは告白している。あの時の厳しい現実は、平和のためであった(17節)と。 それは神の赦しに生きる信仰の決断と神に求め、祈ると共に祈られること、神の側に立たせてもらうことである。 全く不可解な出来事がそこに展開している。アッシリア軍が包囲を解き、引き揚げていった。 喜びと感謝がごく自然な神賛美となっている。 祈り、祈ってもらえる交わりを喜ぶ。

6月21日 育つままに

マタイによる福音書 13章24節〜30節 阪井牧師

 福音書には書いた人、場所、時、つまり状況が異なる背景を持っている書である。 種まきの譬えはマルコにもルカにもある。譬えの説明が群衆とは別の場所で弟子たちになされている。 それに加えて、毒麦の譬えが他の福音書にない理由を想う。種とは福音であり、神の言葉=イエス・キリストご自身である。 この種を蒔く使命(務め)を負っているのは弟子たち、教会であった。託されたよい種を蒔いた。 ところが、そこに毒麦が生えている。何故か?どうしたらよいのか?  この問いの背景に、実に生々しい苦闘の経験があったろう、と。 確かに、「キリストによって生きる」蒔いた種が実を結ぶ喜びはある。 でも毒麦が…。眠って間に蒔かれたからだ、との主人の言葉をどう受けとめるか。 使命を託された「あなたたち」の責任ではないと言われている。 敵(神に適する)との闘いに、主イエスは十字架にかかられたことを想う。 神の子が相手になるほどの敵と、人が戦えるほど毒麦は甘くはない。 敵が種まきを妨げることの責任を、あなたが引き受けることではない。 間違って、麦の穂を抜くことのないように、刈り入れの時(神の審きの日)まで「育つままに」しておきなさい。 この言葉が弟子たちに、教会に、そして今日の私たちに向けられている。 ひたすら、種を蒔き続けることに励むことを促しておられる。 ここに大きい励ましと支え、そして慰めと保証がある。教会の批判より、宣教の使命に応える者でありたい。 祈りつつ出かけようではありませんか。

6月14日 祈って欲しい!

イザヤ書 37章1節〜38節 阪井牧師

 自分の人を検証する簡単な方法は本当に困った時に見えることがある。 それをどこへ持って行くか。相手から自分の気に入った反応を喜び、さもなくば聞き流す。 ユダの王ヒゼキヤはどうしたか。アッシリアの降伏勧告に対して、エジプトに持ち込むでもなく、 エルサレムの人々に緊急対応を求めもしなかった。「衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に入った」とある。 屈辱や怒りの激しい感情表現の象徴が「衣を裂く」ことであったとしたら、 それを神殿、つまり神の前に出ることをしたのである。神の前とは、神と自分との関係を正すことである。 それは粗布をまとうことの中に示されている。 王の衣装を脱いで一人のイスラエルの民として神の前に出る姿である(参照詩編51:19ダビデの歌)。 自分の主張=怒りや悔しさは前面に出ていない。まず、何よりも神のみ心を求める砕けたこころの姿勢を学ぶ。 「自分のできる限りを尽くして」は敬虔に見えるが、傲慢ではないか。本当の神信頼であろうかを想う。 ヒゼキヤは信仰の決断ができない(退治を生み出す力がない)。そこで預言者イザヤに使いを出した。 その内容は「祈って欲しい」である。 地位や名誉のある王が神に仕えるイザヤに求めたのは祈り支えられることであったことは、重要である。 信仰に歩む人にできる大きな業があるとしたら、自らも祈られ、そして他者のために祈る者となること。 なにより自分の一切を振り払って神の前に出ることから、全てを解く第一歩が始まるを学ぶ。

6月7日 譬・理由と説明

マタイによる福音書 13章10節〜23節 阪井牧師

 譬(たとえ)は、より理解させるための話法。だが、妙な質問「なぜ」を弟子がしている。 改めて譬からメッセージ「何を」学ぶことができるのか。 「あなたがた」には許され、「彼ら群衆」には許されていないためであるとの主イエスの説明をどう受け取るか。 悟ることが許すの主語である。イザヤ書の引用には「悔い改める」が関係していることを示す。 「弟子たちに出来て」、「群衆には許されていないため」に鍵を見る。 天〈=神〉の国は、人間の側にはなくて「時が満ちて、近づいてくる(マルコ1:15)」ものである。 つまり、人の経験や知識やその人の特性に依って得るものではなく示され受け取るものであることを知らされる。 と同時に、こちら人間の事情を超えて神の働きが行われていることの保証でもある。 かつて、多くの預言者や正しい人たちが願い待っていたことが今ここに実現していることを語られている。 「種をまく人が、種まきに出て行った」のは、種がテーマである。み国の福音=言葉である。 それは主イエスに示されている事実でもある。蒔かれるのは、それが自分の中にないことも示す。 主イエスを介してのみ、私たちの中にあるものとなる。大賀ハスは2000年前の種を発芽開花させて世の注目を浴びた。 ここからも種には「いのち」が宿っていることを学ぶ。種が土地と一体になった時、新しい世界を創る。 観察や評論からは「いのち」は現れない。 この一体こそが信仰者、私たちへの課題であり、保証付きのメッセージであろう。

5月31日 信仰の闘い

イザヤ書 36章1節〜22節 阪井牧師

 列王記下18〜20の内容と重なる。 しかし、イザヤに欠けた内容(同18:14〜16)は、ユダの王ヒゼキヤがアッシリアの王センナケリブに降伏して多くの貢物を贈った部分である。 人の判断は目に見え、形に左右される現実による。イザヤは約束された神の言葉に立つべきを主張している。 恐らく、イザヤの働き機能は、軍使ラブ・シャケ(高官)の降伏勧告から、国外にも知られていたと想う。 勧告の場所は、かつてイザヤが王アハズにシリア・エフライム同盟に関して「落ち着いて静かにしていなさい。」と進言した。 軍使の言葉は実に絶妙である。 (1)舌先の言葉が戦略戦力になるか(2)折れかけの芦(エジプト)に頼れるか(3)ヒゼキヤの宗教改革によって 「お前たちの主」に頼れるか(4)ユダの戦力は論外(5)アッシリアの攻撃から神に守られた国があるか、と。 勧告を受けたユダの代表たちは心揺れる民に聞かせたくないほど鋭く、また当を得ていた。 ここに信仰者の証しのポイントがある。当面の厳しい現実で、信仰者は神への信頼と不安に向き合い、疑いとの闘いをする。 迷いぐらつく中で、神との関係に立ち続けることを学ぶ。現実から神を見る世間に対して、 神が聖書を通して語られていることに信頼する。この時、聖書が真実となってくる。 逆ではない。深く信頼するほどに、現実の厳しさと向き合う者は不安と恐れに苦しむ。教義や信条が心を支えるのではない。 自分との闘いを通して、〈あなたの頼みとするものは何?〉との世間からの問いに答えていくのである。

5月24日 譬え「種蒔く人」

マタイによる福音書 13章1節〜9節 阪井牧師

 「新しい皮袋」「100匹の羊」等と同様に「種まき」の『譬え』は、よく知られている。 『譬え』その話は知られているが、課題がある。 伝えるべき事柄を、聞く人に理解しやすくするため「傍らに別のものを置く」意味を持つ話法である。 「傍ら」に置かれた話が「わかる」なら、本来の話が分かっていることになるか、との課題である。 ナザレのイエスがキリスト(メシア)である、とのメッセージを示されたら人は皆つまずく。 本来、神は見えない方であるはずなのに、主イエスにおいて見えるから躓く。 「わたしにつまずかない者は、さいわいである(マタイ11:6)」言葉を想う。 主イエスの『譬え』は神の国のこと、神のみこころが行われている話である。 人の知恵や能力で理解できることであろうか。「あらわにされる」ことによって「かくされる」のではないか。 もう一つの課題は「まく」である。漢字では「蒔く」と「播く」がある。蒔絵は、漆で適する色を適する場所に置く。 「決めた場所に配置する」のに較べて、広い場所にばらまく時に、一般的には「播く」の字を使うと辞書にあった。 イスラエルの農法も関係するかも知れない。 畝に種をまく日本的農法ではなく、種をまいた後に土をすき(鋤き)返すため、種が落ちる、との表現がされているのであろうか。 主イエスから話を聞いた人々にはすぐ状況をイメージできたであろう。 「種まき」の話は、神の事柄が私たちの生活の中に及んできている「恵み」と受け取れる。 果たして…。

5月17日 先立ち歩む方

イザヤ書 35章1節〜10節 阪井牧師

 日本の気候では草や樹木が荒れ放題をイメージする、荒れ野や荒れ地また砂漠だが、 イスラエルの地では人がそこで生活を続けることを許さないいのちを拒否する地である。 従って、方向性の根拠も進むべき道もない。 自ずと、そこで人は「いのち」を見つめ、神との関わりの中に自分の存在を知る場所となる。 イスラエルの状況はそれに等しい中でイザヤの預言が語られている。 死滅の世界、人の力が尽きて見えるところに花が、咲き水は流れる、と。 イザヤの召命の使命は「見ても見ることなく、聞いても悟ることのない」世界(6:8〜)を告げることであった。 土がどんなに肥えていても水がなければ、豊かさは現実のものにならない。 神が水を注いで渇いた地を潤し、弱る「いのち」に喜びを満たす時、人は力と希望が湧き、躍り神を讃える、と。 なぜ?、あのイスラエルに? その鍵は聖書の言葉「贖い」である。理由は、私共の側にはない。 神が必要とされたことに根拠がある。そのための一切の責任を、神ご自身が引き受けられた。 私どもの保証に神が主イエスにおいてなってくださった。 世界の創造者である神が責任を担うことに対して、「なぜ?」と問う意味は何か。 信仰者の強さ、証しの力はこの方にある。少なくとも、持っている性格、経験、能力、知識ではい。 神の恵みの中に引き受けられ、しかも、我々に先立って十字架への道を歩まれた。 私どもはただひたすら、主イエスの後ろに従い歩くのです。 喜び踊る思いを抱き続けて!

5月10日 み心を行う人

マタイによる福音書 12章46節〜50節 阪井牧師

 「母の日」にこの箇所を学ぶ機会となったことに特別の巡り合わせを覚える。短い。 文章でだれにも分かる内容であろうが、単純ではない。9節からの内容の結びである。 安息日に会堂で癒し、教えていた時、親兄弟が来た。中に入らず「外に立っていた」とあるのは何を語っているのか。 身内は意志して中に入らない。イエスが出てくるべきとの思いがある。取り次ぎがそれを伝えている。 そこで、イエスは全く思いがけない言葉、想像を超えたことを言われた。 「私の母とはだれ?私の兄弟とはだれ?」「気が変になっている」とマルコ福音書(3:20以下)にある通りと受け取れる。 長男の責任を負わないにもましての発言である。 その後の「私の天の父のみこころを行う人が私の兄弟、姉妹、また母である」との言葉をどう受け取るか。 世間は人間を中心に一切を進める。しかし、ここには神との関係がその先にあることを示している。 結婚は、互いにその人たちの思いを神が保証する、と考える。だが、聖書はその逆を示している。 神が働いておられることを受ける信仰の出来事であることを。人が先んじると、その都合によっては神の場所を捨てる。 信仰に生きる者は、神との関係で自分の存在を認め、周囲の人に、事柄に向き合うことをするのではないか。 血肉・感情・感覚が優先するなら主イエスは乱心者となる。主イエスは、存在根拠を神に持つよう語られている。 新しい関係に生きよう。IIコリント5:16のパウロの言葉を想起して歩みたい。

5月3日 主は定められる

イザヤ書 34章1節〜17節 阪井牧師

 今日、人の関係の薄れが親子にも現れている。〈愛の欠乏症候群〉とでも名付けたい。 聖書の表現によると、関係は愛となる。神との関係(似せて)の中に人は創造された。 人の存在理由は、神に愛されているからとなる。 主イエスはヨハネ15章で弟子たちに「友と呼ぶ」のは「友のために命を捨てる」からで、 「これより大きな愛はない」と。ただし、その友には「互いに愛し合う」ことを求めている。 平穏・穏やかなら、努力もできる。敗戦後の日本の生活をイメージして想う。 敵の侵入が間近いと予想される時はどうか。我先となる。北イスラエル王国の滅亡、 南ユダ王国と聖都エルサレムの破壊の中で、イザヤは、神の愛に立って生きる希望を語る。 まるで正気を失ったかに見えたであろう。イスラエルと同一祖先に遡れるエドムの民が、 イスラエルの壊滅を外側からじっと見ていた。そのことへの審きと見る、審きなら怨恨の領域の事柄となる。 イザヤは、神のみ手と心、つまり神の支配がここに及んでいるとを示し、神の支配の下に人の歴史がある。 知恵と力や経験の尽きる限界にも神はおられることを示して、神の愛を受け取ってよいと危急の中で語り続けている。 神に背を向けている人々にも、神の存在を認めないと言う人たちにも神の愛は届けられている、と。 主イエス・キリストは神が関係を求め続けておられるなら、どんな状況にあっても神の支配の下にあるなら委ねて良い。 主イエスは神の愛の恵みである。 喜び受け取って良いのです。

4月26日 主の勝利に与ろう

マタイによる福音書 12章43節〜45節 阪井牧師

 胃カメラ検査の勧めで「何でも飲まなければ…」と言われた。 その言葉から思うのは、自分の口に「合う」、「合わない」の現代的人間関係である。 信仰にもそのことが起こると聖書の記事から思う。生活の知恵による判断には、「しるし」が要る。 神の言葉を受け容れるなら、人から「汚れた霊が出て行く」が、人の知恵を働かせることによって呼び込むことになる。 神の民が、その支配から離れるからである。その実態は神をさえ裁く。十字架の事実はその「しるし」となる。 旧約の出エジプトの民はものの2ヶ月ほどで奴隷であったエジプトの地を懐かしがった。肉鍋はその象徴である。 人は過去の温もり(郷愁)を求める。そこでは、神の言葉に生きる、との決断も、時の流れの点や瞬間にさえなる。 神から受けたいのちを喜び楽しみ生きることに逆らい、妨げをさえする。 本当に力ある者は叱って打ち倒した者を立ち上がらせることができるという。 人が自ら立ち上がれないほどの厳しい主イエスの裁きは、その深い愛に支えられたものである。 自分の生活力や律法を拠り所にする生き方から、人を解放し自由に生かす恵みへの招きであることを召している。 愛は、自らが痛みながらもなお他者に自分を差し出し続ける。 この方に生きることをパウロはガラテヤの2:20でこう言っている。 「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの肉に生きておられるのです」と。 死を克服して生きるように招かれていることを喜びましょう。

4月19日 騒音の中に聞く

イザヤ書 33章1節〜24節 阪井牧師

 どうしても知りたい、が知ることのできない。 それは、神のご計画だ。つい「なぜですか?」と尋ねたい。 都合良ければ感謝できる。不都合で避けられないなら、他者か責任転嫁をする。 南ユダのヒゼキヤ王はアッシリア王のセナケリブから和睦条件に莫大な補償金を求められた。 その準備最中にエルサレムに向けた進軍が起こり、危急を知った民らは、色を失い慌てた。 神に救いを求め、待望する様子を観る。平常心を欠いた心には風評が力を持つ。 敗戦直後、在日朝鮮人の反乱風評を想う。彼らのいのちを無為に奪ったと聞く。 間際に特攻(尊称 神鷲)で出撃したが、 2度も故障で帰還した兵の落胆振りと再出撃の愛機前での合掌の姿を報道した記事の紹介から正気を失う人々を想う。 歪んだ秩序の中、静まる人がイザヤという預言者である。神に焦点を合わせて自分を保って使命を果たしている。 人の思いや働きかけに動じない姿勢を学ぶ。人の声が大きい時、神の声は聞こえにくい。 そこで静まり、神の声を聞く、神からの答えを求める使命は、現代の騒音の中でより必要となる。 強調や調和は大事だが、何が神のみ旨か、何が神に喜ばれることかを聞き分け、 主のみ言葉に生きようとする者が私どもの召しと思う。神は知り、見ておられる。 時を待っておられる、とイザヤは語る。信仰に立って時を待つ者となるには、霊の力が要る。 主を畏れるとは、み前に自分が砕かれ、虚しさを受け取ることにある。 自分の前にみ言葉を置く生き方を望む。

4月12日 神の介入―復活

ヨハネによる福音書 20章1節〜10節 阪井牧師

 「週の初めの日」に甦りの出来事があった。これが日曜日、喜びの日の根拠となっている。 罪の赦しがここに成就している。ローマ兵の監視の下に処刑された主イエスを安息日がすぐ始まるのに、 弟子たちは「恐れで」引き取れない。 最高法院(サンヒドリン)の議員でアリマタヤのヨセフという弟子がフィラトの許可を得て墓に埋葬した。 安息日を過ぎた朝早く墓に婦人が出かけたのがその日となる。しかし、入り口の石は取り除けられ、墓は空であった。 彼女は走って行ってそのことを弟子ペトロそしてイエスが愛していた弟子(多分ヨハネ)に告げた。二人とも墓へ走った。 墓の中には亜麻布と頭を包んでいた覆いが離れたところに置かれていた。 その事実は信じたが、以前に聞かされていた「復活されることになっている」との聖書の言葉を理解していなかった。 どういういうことか。理解は人間の領域に入ることを意味するとしたら、 神の出来事は理解の対象にならないことだと考える。神が人の世界(歴史)に介入されたクリスマスと同様に信じるしかない。 盲信や迷信ではない。神ご自身が働いて私どもに受け容れさせてくださる時、 信じる者とされ、神のいのちに生きる者となるのである。 神が私を選んで召してくださったことを畏れつつ受けとめたい。神の道具として用いられる者となりたい。 先に召された方々は、この信仰を生涯通して歩んだのである。 神が私に働いておられるとの信仰を喜び、イースターの喜びを分け合いたい。

4月5日 ヨナにまさるもの

マタイによる福音書 12章38節〜42節 阪井牧師

 「悔い改めよ、天の国は近づいた」はユダヤの荒野で宣べ伝えたバプテスマのヨハネが語った言葉である。 その後ガリラヤに移り、主イエスが活動を始められた時の言葉は同じである。このことは私どもの慰めと励ましとなる。 ヨハネの働きを主イエスが「父のみこころに適う」働きとしておられることを見るから。 バプテスマの業を主イエスが受けとめて、「正しいことを行うのは、我々にふさわしい」と言われたことに通じる。 また、私どもの「正しさ」の根拠を問われていることも想う。 神が関わってくださることがその「根拠」となり、十字架に責任を負うことを示して居られるを想う。 聖書を読む時、編集の意図を無視できない。そこに人の言葉の限界がある。前後の記事との関連を想う。 生活規範の指導者たちが主イエスに問いかけたのは正しさより自分たちの正当性の主張ではないか。 主イエスの答えは目の前にある神の現実を受け取ることであった。 「ヨナのしるし」以上のものは主イエスによって示されている。 神の側にいると思い込んでいて、その反対側で裁かれる筈の人たちが裁く側となっている現実を示された。 教会の私どもへの警告ともなる。 主イエス・キリストによって魂の慰めと癒しを素直に喜び受け取る者であるようにとの勧めを聞き取ろう。 それには悔い改めと信仰の決断が要る。決して自明のことではない。 改めて神の恵みを私どもの主張の中に取り込むことは真実を誤る。 「主よ、お語り下さい。僕聞きます」を。

3月29日 イエスの眼差し

ルカによる福音書 22章54節〜62節 岸政邦先生

 ペトロはイエスの最初の弟子である。イエスの側近者に指名されている。 フィリポ・カイザリア、ヤイロの娘の場面、ゲッセマネの園で、特別の場所を与えられていた。 この弟子が大祭司カイアファの中庭で裏切った。しかし、主の眼差しはペトロから離れなかった。 イエス教団の責任を主の兄弟ヤコブに託して、主の復活の証人となってペトロはユダヤ人伝道に、 パウロは異邦人伝道への任を負った。そのペトロはローマで殉教している(AD64?)。 「クオ・ヴァディス・ドミネ」シェンキーウィチ著はその逸話として有名である。 また、バッハのコラール「恥辱の極み」の翻訳者鈴木氏は「マタイ受難曲を聞くときに」を著し、 音楽を通してイエスの眼差しを強調している。有名なルオーの版画にミセレーレがある。 粗末なベッドに横たわって、今まさに天に召されようとしている老婆の顔にイエスの眼差しが注がれている作品である。 愛に満ちたイエスの見守りの中に老婆が居る。遠藤周作の「沈黙」でも踏み絵のイエスは語りかけている。 「踏むがいい。わたしはお前たちに踏まれるためにこの世に生まれたのだ」と。主イエスの愛の眼差しをそこからも受ける。 「見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方(詩編121:4,5)」の言葉がある。主は私たちひとり一人の救済計画を持っておられる。私たちが笑っている時も、 泣いている時も「私たちの目の涙をことごとく拭い取ってくださる(黙示21:4)」のである。   (文責 阪井)

3月22日 平和と信頼のもと

イザヤ書 32章1節〜20節 阪井牧師

 海や山、荒れ野や岩などの自然を表現して、ある意味を含ませる聖書独特の言い表わしがある。 海は悪を行わせるモノの居場所、それが上陸すると人間を神から引き離す。 山は人が神との出会いをする場所で、荒野は人が生かされている現実に向き合うところとなる。 気候立地条件の違う温暖気候の私たちには理解が難しい。でも遊牧の生活をする人々には極めて現実的である。 厳しい自然風土の中で神の秩序は生きる現実に繋がる。 1〜8節には理想の安定を内容とし、9〜14節はかけ離れている現実が内容になっている。 自分の生活の安定が問題で、その故に生じる他者の事柄に想いが及ばなくなっている姿は、 今日の私たちの現実とそんなにかけ離れていない。現実の安定だけが重要であって、 そんな自分を支えて犠牲になる人への無関心は経済大国日本の最も悲しい現実である。 ここに神の働きが期待できる、として15〜20節は神の深い憐れみや真実の愛が示されている。 「主の霊」が「上から」注がれるのは、人間の努力や経験などを一切必要としないで、 どこまでも神のご意志が働いていることをしめす。これが神の正義である。 人はここに拠り所をおくことが赦されている。そして、平和と信頼を得る者とされることをイザヤ書は語る。 残念ながら、人は物を手にして霊的に手を抜く。改めて、神の声が聞こえているかを想う。 尽きることのない愛に敏感であり、神のご意志に生きる責任を覚える者でありたいと祈る。

3月15日 言葉の出どころ

マタイによる福音書 12章33節〜37節 阪井牧師

 本来植物用の言葉「節目」を人の生活に適用している。新しい枝の芽吹きはその節目から起きている。 言葉の転用に感心する。良くて「新しさ」、悪くて「枝分かれ」の点である。このことから聖書の読み方を示唆される。 前後関係を離れて解する言葉は、後者の危険に通じよう。「人の子」主イエスをどう見るか。 メシア・神の働きとして見るか、悪霊の頭(かしら)に従う者の業と見るか。聖書には厳しい問いが含まれている。 生活の知恵でイエスを見るか、それとも、信仰の告白によるか、と。 「人の子」への逆らいは赦されても、聖霊(神ご自身の働きの力)を汚す罪は赦されない(直前記事)、の説明がこの箇所である。 なお、赦すとあっても、無かったことにするのでない。 イエスご自身が十字架で責任を代わって負う(これを贖いという)意味である。 生活の言葉、業、思いの根拠はどこにあるのか。 たとえば、私どもの言葉は関係作りや関係回復を願いながら、さらに状況を悪くする現実は余りに悲しい。 自分の意に反する方向、一層の関係崩れが起こる。 主が十字架上で語られた言葉(ルカ23:34)「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 を想起させられる。本来、人の中には神の栄光に値する実はない。 しかし、この主イエスに信頼し、この方に一切を委ねることによって変えられる。 自分自身はもとより、周囲の人を生かす希望を携える者にされるメッセージが聞こえる。 この幸いを共に喜びましょう。

3月8日 神の前に岩も動く

イザヤ書 31章1節〜9節 阪井牧師

 黙示録(3:15)に「冷たいか、熱いか、どちらかであって欲しい」との言葉がある。 「生ぬるい」にはそれなりの理由と困惑がある。ただ外からは実に「じれったく」見える。 南ユダの立場も似ている。為政者の悩みはどれほどか。北に暴れ者のアッシリア軍、南に大国エジプト。 国や民の生活を守り平安を得る策を選んだ。エジプトとの同盟である。 大国を頼むだけでなく、自ら城壁を補強し、城外からの水路に岩を掘削し、城内固めも怠らない。 だが、預言者イザヤは糾弾する。馬や騎士、戦車を頼みとする選びは神の民として愚、誤りだ、と。 イスラエルの歴史を想起する。初代サウル王がペリシテ軍の巨人兵(ゴリアト)に対峙してイスラエル軍は恐れ怯えた。 その時、羊飼いダビデは「生ける神の戦列に挑戦するとは、あのペリシテ人は一体何者か」と言い、自ら対戦し、 勝利した(列王記上17章)物語がある。神が働きを信頼すべきを学ぶ。 共に居られる主を無視して他を頼む不信の行為は罪であり、「災い」である。 イザヤは神の愛を語る。イスラエルの苦境や悩みを主が受けとめ、守り、支え、救いになられる方こそ信頼すべきである、 と。「立ち返れ」との預言者の言葉を聞き取ることができる者は、幸いである。神の前に岩も動くことを示す証人とされる。 砂漠に川を、荒れ野に花を見る。騒ぎや不安の中にも、神と共に居る者は、静けさを保てることを学ぶ。 世の問題が大きく重くなる時、神不信の芽が内に萌えていることを知ろう。

3月1日 信頼して立ち返れ

イザヤ書 30章1節〜33節 阪井牧師

 移動や転身の時期に思う。自分が選んだのに、相手に選ばれた事実を。 生きているのに、生かされていると「ぶどうのたとえ(ヨハネ15:1〜)」からも知る。 信仰の姿勢も、神に依る安定は「腰が据わる」で、自分中心は「身体が泳ぐ」ことになる。 イザヤの時代、政治指導者は、諸外国の動きに機微に対処した。時間的にも精神的にも厳しい状況での決断であった。 だが、イザヤの進言と異なっていた。エリコ攻略は、神の言葉に従ったヨシュアの信仰を想起する。 人の最善の道でも、神のみ心ではないことを学ぶ。日常生活の苦悩は、これに似ている。 私どもは、神が根拠であるのに、神は私どもに仕える方との思いが働くから、 「なぜ?」や「見ておられない」とか「知らない」と決めつけることになる。 ユダの国のために神がおられるのか?荘ではなかったことを出エジプトの記事で確認できる。 神に向かってつぶやくイスラエルの民の不信仰を裁こうとされる神に向かって、モーセは執り成しの祈りをしています。 荒れ野で滅びる民には、神が共におられなかったことになる。あるいは異教の民に、神の名が汚されることになる、と。 モーセの執り成しによって神は怒りを収められた。神の名の故の民であることを知る。これが信仰である。 知らぬ間に人間中心にある私どもにも考えられる。神のみ心のために、わたしは生きる、また死ぬ、とのフィリピ1:20を想う。 主に委ね、主の僕として生きる者として信仰に歩みたい。落ち着こう。

2月22日 信仰のブレーキ

マタイによる福音書 12章22節〜32節 阪井牧師

 自分の責任をできれ免れたい。何も子どもだけではない。 創世記3章には最初の人間が神の前に責任転嫁をしている。 その行き着くところは創造者なる神になっている。 つまり、自分の存在の根拠である方の責任は、自分の存在を否定することに繋がっている。 悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が癒された時、群衆は驚いた。 自分の「ものさし」では測りきれないことを認めた。立っている足場が揺らいだ。 自分の足で立つ律法び人ファリサイ派の人々は、あえて自分の「ものさし」を使った。 癒し人イエスを批判する思いが働いた。 自分たちこそ、最も神に近くいるとの確信を持っていたし、神の働きには敏感だとの自負があったろう。 だから、目前の出来事を喜べない。普通の人と同様に生活ができる幸いよりも、 誰がそのことを起こしたかを問題にするのは、現代人と同じ。自分との関わりが重要で、目前のことを超えて見る見方、 それは自分を重要視するのに通じる。 自分の意味や価値を揺るがしたくない人とは、努力家や経験者、情報知識の豊富な人、 社会的地位や社会の名声を得た人ならその苦労や努力を認めてもらいたい。 自分の価値を神の名のもとに評価されたい。できれば誇りたい。 信じて従うしかない人との差異はなにか。自分を捨てられるか、との問いを前に自分を見ると良い。 自分を捨てるとき、従うことは苦痛でなくなる。 主イエスと一つになることの妨げが信仰のブレーキである。主がここにおられる。

2月15日 主イエスに望み見る

マタイによる福音書 12章9節〜21節 阪井牧師

 ユダヤ人には、安息日を守ることが神の民として生きる支えであり、重要であった。 守らない人を罪人と見なし、その人と距離を保った。信仰と生活の中心である会堂に主イエスは入った。安息日であった。 そこに片手の不自由な人がいた。イエスに向けて質問が出された。 「安息日に病気を治すのは律法で許されていますか」と。先制攻撃か、挑発か。 イエスを訴えるためであった、とある。自分が既に答えを持っていて相手に問うのは、 自分が正しいとの確信と相手を陥れる試みが読める。主イエスはそれに羊のたとえで答えた。 「あなたたちのうち……」は、一般論でなく、自分の場合はどうかを語りかけた。 誰もその言葉から逃れることはできない。 続けて、安息日にこそ生きる喜びを共に神の前で味わうべきであろう、と癒された。 知らず知らずのうちに自分の正しさを相手にも求める余り、神の領域にまで踏み込んでしまう熱心さをここに示された。 同時に、マタイ福音書は、主イエスのその行為が十字架に繋がっていることを、 次のイザヤ書42章の引用によって示している。主イエスは旧約の預言に語られている方、 父なる神の御心を現される方と見ているのであろう。神の正義が現れるとき、裁きや拘束を働くのでない。 罪に縛られている者を解放し、いのちに与らせ、人を生かす。それによってさらに他者への働きかけに赴かせる力を持つ。 神のいのちに生きる私どもは、主イエスに一切の望みを託す。栄光に仕えよう。

2月8日 口近く心遠い

イザヤ書 29章1節〜24節 阪井牧師

 兄弟や同族のことさえ自分に置き換えて受け取ることが難しい傾向の中では、 他人や知らない人のことを自分に置き換えることの困難さは当然である。 経済不況の中で、正社員が非正社員に、そして派遣社員になることが起きている。 かつて禁じられた副業が推奨さえする大企業の変化は、さらに弱い人を苦しめる。 イザヤの活動は、世界的規模の混乱期だった。 安定や平安を求める民、統治する為政者の決断は、イザヤの語る神信頼とは異なあった。 イザヤの言葉は厳しい。「民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬う。 しかし、その心はわたしから遠く離れている……」と。 旧約の士師サムソンが妻デリラから問われた言葉を想起する。 「あなたの心はわたしにはないのに、どうして『お前を愛している』などと言えるのですか」。 心は愛することと結びついているもの。神を愛し、人を愛する戒めに生きる神の民イスラエルにイザヤは問う。 目先に心奪われて口先だけの言葉は関係を壊す。ここにキリストの十字架が必要であった。 それは理解の事柄ではない。霊の力を受けて自分の生き方を委ねる信仰、愛である。 キリストとの出会いから起こる。キリストとの出会いなき聖書の言葉は封じられた書である。 人の大切さが福音メッセージに変わる。聖書は、人が神のために生きることを語る。 人のために神が働くとの思いは、目先に心が奪われ目を覆われた口や唇。 生き方を主にかけるとき、出会いと神との関係が保たれていくのです。

2月1日 形と内容

マタイによる福音書 12章1節〜8節 阪井牧師

 結果はともあれ、努力を認めて欲しいのが私たちの本音だ。 それに注文を付ける人がいる。止揚学園の責任者福井達雨さんである。 どこに向かって、何のためかが重要だと。その説明に、不正をなす者も自分の目的に向かって「努力」をする。 だから努力だけを評価してはならない、と。主イエスの話はどうか。間違えるとヒューマニズムや倫理に陥る。 安息日に麦畑の中を主イエスと弟子たち一行が歩いていた。弟子たちはお腹をすかせて、麦を摘んで食べ始めた。 これはユダヤ人の重要な安息日の掟に反することだと指摘するのがファリサイ派の人たちである。 確かに彼らは懸命に掟に従う生活をしている、努力の人たちであった。 努力は大切であるが、その本来の意味を失うと形だけになる。 主イエスは、喜び生きることが形に陥る誤りを示された。人間の努力は、時に方向を誤る。 マルタとマリアの話(ルカ10:38〜42)はその例となる。 人をもてなすマルタ(努力)は、主イエスに聞くマリア(関係)を批判している。 罪からの救いというテーマから当然であっても、従来の倫理や秩序に対して過激であり、破壊的に見える。 人の努力を超えて、神が働かれる、死からいのちに生きる関わり(内容)への招きを示された。 努力が結果をもたらすのではない。「主が共におられる」恵みを失ってはならない。 暗闇を照らす世の光の信仰と望みを与えられる者の歩み方を大切にしたい。 神の前に自ら正しく立ち得ない者を、赦し立たせていただくのです。

1月25日 驚くべき主の計らい

イザヤ書 28章1節〜20節 阪井牧師

 圧倒的な力に翻弄される現実に自分の身を任せながら預言しているイザヤを想定する。 自分の体験が背景にある話には力がある。その意味でも戦争体験を聞くことのできる時はそんなに長くない。 イザヤの場合も、自分の生活がぎりぎりの中で、神からの使命に生きることへの語りかけは、王にも民にもつらい。 かつての荒野の生活では「神と共に」が生きる力であった。だが定着後は生活が豊かになり、心におごりが生じた。 使命への意識が薄れ、神との関係が生活の次になる。ここに警告を聞くことができる。 ヨハネの福音書の言葉「はじめに言があった。言は神と共にあった。この言には命があった」を想起する。 世の浮き沈みや、流れの速い遅いが様々であっても、そこは神の支配されているところである。 神への信頼はその中でのあり方を強く支える。流されまい、振り回されまいとすることからも自由になる。 神の知恵がその人の中に働いて、むしろその世の現実をより深みにおいて捉えるとともに、 その世界への働きが的確となる。あえて言えば、苦難に振り回されているようであるが、 苦難をしっかり捉え、その中で信仰に歩む喜びを保っている生き方があることを示している。 神ご自身の計画の中に私は立っているとの聖書の信仰に立ち返ることを学ぶ。 パウロはその信仰を「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。 満腹していてっも空腹であっても……私を強くして下さる方のおかげで私は全てが可能です」と。

1月18日 休みなさい

マタイによる福音書 11章25節〜30節 阪井牧師

 受験のシーズンたけなわ。受け入れ側も選びの責任に苦労している。 そこでは基準が問題となっていく。ここでも基準を意識させられる。 それは「神のみ心に適う」である。バプテスマはそれを意識する時であった。 主イエスがバプテスマを受けられた時、天から声があったのを想起する。 私たちの熱心も、思いも、知恵もその基準にならないことを知る。 記事の直前には「み心に適わなかった」町々をお叱りになっていた主イエスが、そのことも含めて主をほめ、 讃美しておられることに驚く。 知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者に神の真実をお示めしになられたことは神のご意志である、と。 知恵ある者や賢い者とは、人々の信頼や尊敬を得ている人たち、つまり律法にも通じた人たちである。 信仰に生き、神に従う歩みを自負していたであろう人たちである。ところが基準はそこではない。 主イエスが基準になっておられる。自分の限界を知り、律法に従い得ない生き方は未熟で愚かしい。 ところがそういう人を主の讃美の場に招いて「来て休め」と言われている。 疲れや悩み、苦しみの中に立ちすくんでいる者に、讃美する中で休めと。 荷が軽くなるのは全部を手放すのではない。「わたしの荷は軽い」からとも言う。 不思議である。主の荷を負うことによって、自分の負っている荷が軽くなるとはどういうことか。 新しく生きる力を得るからである。

1月11日 時来たらば

イザヤ書 27章1節〜13節 阪井牧師

 自分から進んで負(マイナス)を背負い込むその生き様は、人を揺るがす。 時として人の生き方を変えさせる。主イエスはそのように生きられた。 キリストを頭とする身体なる教会の構成員・信仰者は、主イエスに従って生きようとするために、似た生き方をする。 人が避け厭がることも、負を承知で受け入れ歩む。ここにそのエネルギーの源を示している。 この箇所は5:1以下を想起させる。 地を整え良いぶどうの木を植えて、良い実を結ぶのを待ったが、酸っぱいぶどうであった、と。 期待を破っただけではない。この実が他のものと混ざるとぶどう酒全体を損なうことになる。 そのために手入れや肥料また監視をしたのではない。〈ぶどう〉はイスラエルの民、また私どもである。 その土地を塞がせておくよりは他のものを植えて…、と考えて当然なのに、なお、手入れを続けて肥料を怠らない。 もはや良い実を付けるかどうかより、見事な〈ぶどう〉畑を喜べ歌え、と語る。 マイナスを承知でなお、水を与え、夜昼見守り、障害を与える者を取り除くために、自ら進んで闘う、と。 愚直さそのものである。そして、自分を砦として、和解を求めよと。神との関係を正しくせよとの求めである。 自分で立て直しをするのではない。神がその贖いを引き受けておられる。 自分で試みることが背を向け離れ関係を損なっていたと知るのは、この贖い・愚直さからである。 愛されることを知る者は、この愛に応えて生きたいとの思いを強くする。そうありたい。

1月4日 なおも望みを抱いて

ローマ人への手紙 4章13節〜25節 阪井牧師

 「希望するすべもなかった…(18節)」は「望みに逆らって…」と訳すことができる。 常識、理性、人生経験に裏打ちされている〈人の思い〉が主語である。 それに逆らうのは、馬鹿げており、まともに相手にできない。それがアブラハムであった。 しかも、聖書はアブラハムを〈信仰の父〉とよぶ。創世記12章の記事を紹介する。 彼は神からの語りかけを聞いた。それは、今ある安定を手放して、その言葉に従うことであった。 あえて言えば神の契約「あなたを祝福する。全ての人の祝福の源になる」を受けた。 納得も確認もない、そんな一方的な契約は成立するのかを想う。しかし、かれはその言葉に従った。 現実離れしすぎている。せめてその〈しるし〉が欲しいのが私たちである。ここに信仰の真髄がある。 主イエスに〈しるし〉を求めたのは宗教人と言える人々、 律法学者たちやファリサイ派の人たちであったことを考えてみたい。 彼らが真剣であったからこそ主イエスを殺そうとしたことを想う。 自分の計画や主義主張が表面に出ると自分の理解や納得が必要になる。 信仰は、主イエスを受け入れるか否かであって、条件を差し挟ませる時、受け入れない、殺すことに通じる。 十字架の言葉を信じないのではない。信じられないのである。 パウロは、主イエスにより神が働いて自分を知り、受け入れさせて下さった、と変えられた。 自分を保つ束縛から解放された。 従い仕えたいとの思いを用いて神の働きが勧められる望みをいただきたい。 


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新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
       (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988


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