日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月26日 栄光を全地に

詩編 57編6節〜12節 阪井牧師

 約束に従って、エルサレムにとどまり続け、聖霊を受けた人たちのことを、旧約聖書から引用して「息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。〜」とペトロは説教した。私共は、この1年の「夢」を与えられて歩み出した。今、その締めくくりの時となった。生涯の締めくくりを振り返る、有名な詩「足跡」のシーンを想起した。それぞれの歩みは、その人にだけの具体的な内容を持つ。従って、その魂の訴えや呻き、叫びや忍苦、身の置き所もない厳しさの中でどう越えたかを思い返したい。このダビデの詩(詩57編)では、獅子が群がり取り囲まれた状況にあって、そこで浴びせられる言葉は、鋭い槍、どこからともなく射られた矢のようで、しかも足もとには前進を妨げる網が張られ、穴が掘られている。その状況で詩は「私は心を確かにする」とある。心が乱れ、居所を失ったその中でなお<主をほめたたえ><讃美する>ことを続ける。そのことによって神の民であることを誇りとし、動かされることがないと主に感謝している。心くずおれる痛ましさや屈辱に負けることなく、はねのける言葉、神の大いなるご計画に自分が受け止められている、この故に〈主を褒め称える〉確信、神への信頼と信仰が、周囲に向けて大いなる慰めや励ましになっていることを知る。その信頼の確かさは、「目覚めよ、竪琴よ、琴よ。 わたしは曙を呼び覚まそう」とまでうたっている。その極まりに「主の栄光を全地に輝かせて下さい」である。

12月19日 思い巡らす母

ルカによる福音書 2章15節〜20節 阪井牧師

 ゴスペルソングに「世界ではじめのクリスマス」がある。その言葉の一部の「〜ユダヤのいなかのベツレヘム……、小さな小さなクリスマス、けれども喜び満ちあふれた気高いまことのクリスマス〜」に心の緊張を覚える。政治や経済そして一般の生活からかけ離れたようなところ、野宿しながら羊の番をする人たちに、世界の救い主誕生の告知がされたのだ。「今日、あなたがたのために…」のメッセージを携えて彼らは、出かけ、探し出した。そこでことの仔細を語った。時の流れにも関係ない存在に思える羊飼いたちは、神のみわざを伝える天使の働きに連なった。聞いた人は不思議(驚き)を受けた。神の業が人の世界に向かって行われること、それ自体が納得いくことではない。「しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」と。疑惑や不審の「思い巡らし」ではない。大事に心に止めて、機会ある毎にそれを取り出して自分の歩みの共にするのであるから、マリアにとっては、導きと励ましであり、あるいは生きる支えでもあったろう。大事だからしまい込んで、持っていることさえ分からなくなるのと違う。主イエスの誕生が、メシアの出現・神のご計画の現れと心に納めたのである。だから、それを思い巡らすことが生きる希望であり、困難を乗り越えて前に進む力となる。肉親の母に終わらない。 一人の人の生き方がそこにある。クリスマスが私どもの「それ」となり、神讃美をしながら生活へ遣わされたい。

12月12日 知恵の正しさ

ルカによる福音書 7章24節〜35節 阪井牧師

 何となく、街中のクリスマス雰囲気が静かだ。この様子はヨハネが弟子を遣わして「来るべき方はあなたですか?」と尋ねたあの時に似ているように想う。 何かが起こりそうな気配がそこにある。以前、ヨハネ自身が「あなたはなたですか?」とエルサレムのユダヤ人たちから遣わされた祭司やレビ人に問われた(ヨハネ19:5)時、 「メシアでもエリヤでもあの預言者でもない」と答えていたことを想う。緊迫した空気が漂う中での会話に続いて、主イエスは群衆に向けてヨハネは「預言者以上の者」と紹介している。ヨハネ自身の自己認識と、主イエスの紹介内容との差異は何を示すのかを考える。彼の信仰や資質が、あるいは実績や働きがその評価に鳴っているわけではない。かつてご自身がヨハネからバプテスマをお受けになる時、「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことだ」と言われた。ここに、我々信仰者に大きい励ましをいただく。自分のなすことの立派さが重要ではない。 神のみこころが行われることに仕えること、ヨハネを用いて「主のみわざ」が行われることに、私どもも与れる励ましをいただくのである。人の評価による正しさが語られているのではない。「神が愛する者」と宣言された方、主イエスにある正しさが基準となる。知恵の正しさは、ここに立つ者にのみ得ることができる。箴言の1:7に「主を畏れることは知恵の初め」とある言葉を心に止め、励ましと力を得たい。

12月5日 わたしは言うまい

マタイによる福音書 21章23節〜27節 阪井牧師

 神殿境内での論争である。ガリラヤのナザレ人イエスがなぜ、エルサレムの神殿で祭司長や民の長老たちと向き合っているのか。主告白に続く受難の予告の記事を想起する。「必ずエルサレムへ行って…」とあった。あのバプテスマを受けた後に、天から声があった言葉と関係する。「わたしの愛する子、わたしのこころに適う者」が神のご意志を現すには、本来そこで礼拝されているエルサレムの神殿がある場所でなければならなかったことを想う。耳障りの良い言葉ではなく、神の言葉、神の真実の声を聞く場所であった。そこでの教えは、聞く者には驚きであったろう。ちょうど、山上の説教の締めくくり(マタイ7:29)の説明の通り、「権威ある者としてお教えになった」のだ。しかも、予告通り、祭司長や民の長老たちが敵対せざるを得ない境内であった。権威が秩序となって保たれている場所での「教え」は、自分たちの存在を脅かした。同じ自己主張なら、受け容れやすい方法と場所を考えるべきと思うが、神のみ心を行うには、罪に汚れた人間の状況を考慮に入れる必要はない。神に仕え、神の子とされているイスラエルの代表者たちが、神の子であるイエスを排除することさえ考えている。それが「何の権威で…。誰がその権威を与えたのか」との問いである。それは、神を対象としていない。群衆を対象とした自分の姿勢を示している。 あの「わたしのこころに適う者」との声を想起するなら、イエスの前に謙虚にいることができるだろう。

11月28日 主の言葉が臨む

エレミヤ書 1章1節〜19節 阪井牧師

 直接に戦争体験者の声を聞き取るには「時間がない!」の若者の言葉は印象的である。「若い」は年齢だけでなく、経験や世情また未熟にも用いる。エフェソに留まっていたテモテにパウロは、「年が若いということで誰からも軽んじられるな!」とある。信仰の内容には年齢が妨げになってはならないとの示唆を受ける。エレミヤは、南王国のイザヤの後輩にあたる預言者であるが、イザヤとの違いがある。北イスラエルの滅亡にも拘わらず、滅亡を免れた南ユダ王国は神の憐れみによると預言したのに対して、南王国の滅亡を語る使命(召し)を受けた。しかも、「母の胎にいる時から聖別し、預言者とした」と言われ、「若者にすぎないと言うな。遣わすところに行って語れ」と命じられた。そこには、イザヤのように「私を遣わしてください」の余地が残されていない。「わたしがあなたと共にいる」の言葉が唯一頼りとなる保証である。主の言葉を託された者には、託された言葉に対して取捨選択の自由はない。さらに、本人の都合や主張、聞き手に心地の良さもタイミングも関係ない。もちろん、言葉の一部分だけとの制限も許されるものではない。主イエス・キリストが私共にそのように働かれ、わたしを捉えておられる。その証人として立つことが、主イエスの「私に従いなさい!」である。しかも、「自分の十字架を負って」と語り続けておられる。 アドベント第1の週を歩む私たちは、エレミヤの召命の記事を心に留めていたい。

11月21日 私の名を呼んで下さい 〜ザアカイという男に訪れた幸運と喜び〜

ルカによる福音書 19章1節〜10節 山田 和人先生

 人の生涯で持ち続け、使い続けるものは多くない。身体と名前ぐらい。その名前は付けられたもので、付けたものではない。 生涯その名で人との関係を続けて自分を生きる。名前を生きるとは、いのちの関係を生きることである。 聖書の「徴税人のかしらザアカイ」の名を聞いて「ケチ」や「強欲」な人とのイメージを持つかも知れないが、主イエスと出会って「正直」で「自発的」な人として生きた人である。 本当の心の中の願いに生きる人となるザアカイは、世評に拘らないで、主イエスの呼びかけ(名を呼ばれた=いのちの関係)に生き始めるのである。 抱えていた立場や本心との違いの現実から、主イエスに受け入れられた「いのちの関係」に応えてザアカイは生き始めている。 持っているものを差し出し、自分の思いに正直に生きる新しい生き方、新しい人生、新しい関係に生き始めている。 私たちはこの社会の中で失われた者になっていないか、その立場のために関係が失われていないかを想う。 放っておかれた人が多い社会、その一人の人の為に主イエスは、心の奥深くからその人の名を呼ばれた。 今、私たちにも、憐れみ深い眼差しを注いで声をかけておられる。 この主イエスの声かけに応えて生きる時、人は他者に向かう者、他者を生かす者、真実な人にされるのだ。 この語に、主イエスとの不思議な出会いや不自然さを感じるかも知れない。 深い主イエスの憐れみの呼びかけが、それらの一切を乗り越えさせることを受け止めたい。(文責 阪井)

11月14日 祈りへの約束

マタイによる福音書 21章18節〜22節 阪井牧師

 その時から暫く経過して、何かの時に、あの時の言葉の意味に気づくことがある。弟子たちにも、主イエスの話をそのように体験した記事ではないかを想う。 主イエスが十字架に付かれるその週の話を私たちはどう読むのか。エルサレム入城の賑やかさ、宮清めの騒動に較べてエルサレムに帰る途上の静けさが気になる。 そのままではない別の事が示されていると考える。ルカ12章には「実のならないいちじくの木」の譬えがある。 根本に斧があって、切り倒される寸前の話は、「イエスの空腹を覚える」に関係しているように想う。 直接の話や目の前に見たことは、認識しても、自分の最も奥深いところに届いていないようだ。 だから「驚く」のであろう。自分の世界と全く違う世界がそこにある。生きている土台が揺らいでいることを意味する言葉である。 イエスの空腹とは、父の前に出る(十字架を受ける)のに、なお遣わされた使命に応えられた実りがないことだとしたら、 「信じて祈るなら…」の言葉は真に心からの語りかけであったに違いない。 しかも、自分を委ねきる(信頼)ことによって、祈るならば、そこに起きた驚きの事実よりも大きなことであってたとしても、 求めるものは得られるとの約束を受けているのだろう。自分を中心にした祈りではない。主に委ねた中での祈りが語られている。 それは、主イエスにおいて神が生きておられること、自ら働いて私どもに関わって下さることでもある。この信仰に共に歩ませていただこう。

11月7日 おののき から十字架へ

イザヤ書 66章1節〜24節 阪井牧師

 心を込めて集中している事柄に批判を受けと、不快を覚える。否定されたら、なおさら、自分の存在否定ほど衝撃となる。 バビロン解放後のイスラエルの懸命な神との関係回復の努力の中でのこの預言はそれに等しい。何故だろうか。 預言者は単に否定しているのか。あまりに冷たい言葉である。神殿建設は、礼拝への熱き想いへの結晶であろうのにである。 実は、既に20年を経てなお完成していない現実が背景にある。出来上がったものよりも、その過程にある人々への深い神の配慮がそこにあると思う。 世界の創造者である方を、その被造物の人が造って喜ばれるか。否定ではなく、慰めと癒しを想う。 本来、神に向き合うことが第一であるのに、ものが優先することにより人の心は蝕まれるのを現代人はよく知るところである。 神との関係にすら、人の思いが優先する時、あの「善いサマリヤ人のたとえ」の質問「誰が私の隣人ですか」に通じよう。 律法の専門家は、永遠の生命を求める真剣さを持ちながら、そのもっているものにより、心を鈍らせて自らが高みから関係を考える姿勢になっていた。 神との関係にさえ、その姿勢を持つのは私たちも同じである。神を喜ばす思いが、本当に可能なのか。 神を喜ばすのではなく、神を喜ぶことから真の信仰が始まることを学ぶ。 自分を赦し、そのために御子を差し出された神の前に出る時、畏れとおののきが生まれ、あの十字架が自分の輝きであることに喜ばされる。 伝道集会がその機会になろう。

10月31日 キリストが私を通して働いて下さるという誇り

ローマの信徒への手紙 15章14節〜21節 
 講壇交換 説教者 並木裕忠先生(厚木バプテスト教会牧師)

 都合により、今回の【講壇】は聖句だけをご紹介します。
 兄弟たち、あなた方自身は善意に満ち、あらゆる知識で満たされ、互いに戒め合うことができると、このわたしは確信しています。記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切ってに書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいて、異邦人のためにキリスト・イエスに仕える者となり、神の福音のために祭司の役を務めているからです。そしてそれは、異邦人が、聖霊によって聖なるものとされた、神に喜ばれる供え物となるためにほかなりません。そこでわたしは、神のために働くことをキリスト・イエスによって誇りに思っています。キリストがわたしを通して働かれたこと以外は、あえて何も申しません。キリストは異邦人を神に従わせるために、わたしの言葉と行いを通して、また、しるしや奇跡の力、神の霊の力によって働かれました。こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました。このようにキリストの名がまだ知られていない所で福音を告げ知らせようと、わたしは熱心に努めてきました。それは、他人の築いた土台の上に建てたりしないためです。 「彼のことを告げられていなかった人々が見、聞かなかった人々が悟るであろう」と書いてあるとおりです。

10月24日 祈りの家であれ

マタイによる福音書 21章12節〜17節 阪井牧師

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことをパウロは語る(ロマ12:15)のは、心や思いを一つにして、平和を歩めとの文脈にある言葉である。泣くべき時に泣けないことは悲しい。そこには深い課題があることを想う。その真実は、外の人には見えない。だから変人であり、奇怪な人と見える。その異常さを理解できないと、「大人げない」と言うしかない。神殿の境内でのイエスの行為(宮清め)は、それと同様であろう。時はユダヤの最大の祭り(過越祭)直前である。全国から参詣者が集まり、境内は大いに賑わっていた考えて良い。イエスは、宮清めの時にイザヤの言葉(56:7)を口にされた。それは、本来「主の恵み=救い」に与れない、と見なされた人たちも、「祈りの家=教会」に主は迎えられる、との文脈にある。そこには、心を注いで主の名によって生きることが求められていた。つまり祈りの家は、人や周囲が認めるのはでなく、主ご自身が働いておられることを示す。しかし、近いはずの人々(ファリサイ派や律法学者たち)には、「不思議」と見えた。ここに悲しさがある。神のみこころに、人が口を差し挟むことを排除している。自分の主張や人の都合が先んじるなら、本質を歪めることになることへの警告と見る。神のみこころが見失われないようにと願い、私どもの教会の在り方への勧めを聞き、学び取りたい。 「祈りの家であれ」との主の召しをしっかり心に受け止めて、特別伝道集会(11/21)への備えを共にして行こう。共に祈ろう。

10月17日 天の喜びは…

イザヤ書 65章1節〜25節 阪井牧師

 生活で遭遇する事柄を、広い視野と将来を見渡す姿勢で受け止めたいのに、自分を超えることができない限界がある。聖書から受ける見方、考え方は違う。時間も長い捉え方をする。遠く先祖の歩んだ歴史に関わり続けられた方に軸足を置きながら、今を見ようとしている。自らが神の民とされたことが一切の基準である。そこに拘るから、律法が意味をもつ。ところが、その意に反して預言は「わたしを怒らせた」とあるのはどういうことか。み心に適うことを願ってする一切が、神に背き反逆となっている、と。だから、主は民に「新しい世界を造る」と呼びかけている。1節はその声である。ヤコブは旅の途中、ベテルで主と出会い、「主がともにおられる」の声を聞いた。主イエスの譬え、「放蕩息子」では、父の元に返ってくるのを待っていて、息子がまだ遠くにいるのに走り寄って喜び迎え、祝宴を開いた、とあるのを想起する。理屈では考えられない神の憐れみと忍耐と愛が、この預言の言葉から知らされる。十分に味わいたい。歩む方向が違って迷っても、帰ることを放棄した者にも、声をかけ、手を差し伸べるだけでなく、迎えにまで出かける方が聖書が示す基準である。しかも、見いだした時、立ち帰った者を迎えた時、大いなる喜びを表わすのだ。実は、ここに私共の生きる希望と力の根拠があることを示している。 過去の誤りを責めることなく、今あるそのままを受け止めてくださることを私共も喜び、証ししよう。

10月10日 「ちいろば」の行進

マタイによる福音書 21章1節〜11節 阪井牧師

 一つの事柄でも観点を変えるなら、プラスとマイナスが逆転すると語る人がいる。パウロも、その経験を語っている(フィリピ3:8)。そこで、エルサレム入城の場面のどこに自分が居るかを考えてみたい。一見、華やかな歓呼の中でイエス一行の都エルサレムに入城を見るか。これは、ゼカリア書(9:9)預言にある姿で、シオンに来られるメシアはロバに乗って来られる、と。今回はそのロバに注目をしよう。戦わないロバである。預言の言葉に続いて、神の平和の到来がメシアにおいて示される。いななき、頭を振り上げる馬と違い、ロバはひたすら下を見ながら背中の荷物をしっかりと運ぶ。イエスのエルサレム入城は、このロバの背に乗っておられるのである。ロバは、町に入ってすぐ分かる場所に繋がれていた。イエスは、それを知っておられて求められた。この日常の中にいるロバを「ちいさいロバ」すなわち「ちいろば」と呼び、主の求めに応える備えをしたいと願って、自らを称する人がいる。神の選びを鼻にかけ、伝統を誇るよりも、主の十字架の道に伴い行く備えである。そして、復活の喜びと歓喜の声を多くの人と交わし合う世界平和への道を歩むように求められることを願う、とのメッセージを受け取る。主イエスの「声かけ」に備え、それを受けて、主の元に引かれる「ちいろば」が、罪を負う十字架、その罪の解放を背に乗せて主に従う行進に参加するのである。 特別伝道集会への備えが主に従う行進となるようにと祈ります。

10月3日 失意の淵より

イザヤ書 64章1節〜11節 阪井牧師

 自分の一切をささげ尽くせるような、何か生きる目標が欲しいと。私共は何かしら、それに似たものに向かい生きる。 突然にそれを失ったら、全く奇妙な格好をした生活になるであろう。階段を上りきっているのにもう一段あると勘違いした時の格好を想像をする。 これを、他の誰かによって起きたと考えるか。もし、そうなら愚かしい、と誰もが思うだろう。 厳しく不本意な現実に直面した時に、私共のそれをどう考えるだろうか。誰かのせいにしたくなる。自分を慰めるためなら、前向きではない。 信仰者にもいえる。つまり、現実から神との関係を考えて、原因や理由を自分の外に求める。だが、事柄はそれまでとなる。 イザヤ64章(預言者)の言葉は、その逆の姿勢を示していることに気づく。神との関係から現実の自分(イスラエル)を見るのである。 耐えられないような現実が目の前に起きた。神の民が異教の民による支配やバビロン捕囚、神殿破壊などの生きる喜びが失われた民に語りかけている。 それは、「主よ、あなたは我らの父です」との叫びである。まるで破れかぶれの幼子を想起する。母親に叱られた子が、その母親に抱きついて叫ぶ。 「お母さんに叱られた!」と。神の民がその創造主に待った記信頼を寄せるのだ。ルカ15章の「放蕩息子の譬え」で、帰ってくる息子を走り寄って迎えた父を想う。 どんな失意の深みにあっても、「主よ、あなたは我らの父」と言いうる恵まれた環境にあることを喜びたい。耳を傾けて居られる主を。

9月26日 目を開けて欲しい

マタイによる福音書 20章29節〜34節 阪井牧師

 舞台のエリコの町は、古い歴史を持つ。出エジプトの民が約束の地に入った最初の城壁に囲まれた大きい町で、先に進む気力を萎えさせた。 しかし、ヨシュアは神の言葉を信じてその町を征服した。奇跡の舞台でもある。ザアカイの話、善いサマリア人の譬えの舞台でもある。 イエス一行が、「この町から出て行こう」としていた時に二人の盲人が叫んだ。 用を済ませ、次の目的へ歩み出すその時、足止めの声を群衆は叱り、押さえつけようとするほどに声は大きく叫んだ。 <ダビデの子よ>と。<神の祝福から外れている>と見られていようとも、この瞬間を逃したなら二度と無い機会として捉えて主イエスに向かって叫ぶ盲人の姿は、 まことの信仰者そのものである。「ダメもと」の余裕はない。どんなに黙らされようとも怯むことなくただ一心に叫び続ける。 その故に主イエスから「何をして欲しいのか」の言葉を受けた。主イエスの問いによって、その人の中にある真実が導き出される。 「目を開けて欲しいのです」と。この方によって、弟子たちが主告白を導き出されたのを想起する。そこに癒し、目が開かれる奇跡が起きた。 見せたり驚きを期待する者ではない。メシアとして神の働きがそこに現れた。本人の願っていた<主の憐れみ>をその身に受けている。 屈辱や依存的な生活から光の世界に、自立的な生活がそこに始まった。 主に従う目的とそこに現れる讃美の生活へと変えられている。暗闇に住む民は大きな光を見る、とあるとおりに。

9月19日 自ら働く方と

イザヤ書 63章1節〜19節 阪井牧師

 育児の方法の一つ。オモチャを与えるのに、赤ちゃんを運んでオモチャに触れさせるというのがあると聞いた。 相手を動かすのが現代の合理。労務管理、部下操縦など企業営利、作業能率を考える生活は、人に神をも仕えさせる。 祈りを聞き応える神こそが信仰の対象となる。信仰も人間の主張や「お金」の論理に振り回されかねない。 ところが、幼い子どもに大人が教えられることを聞いた。差し出した「お金」が「本当のお金」になるために、 幼い子ども自らが空腹を感じてこそと主張して、大人が食べるように勧めるお昼を抜いたという。 エドムがイスラエルのバビロン捕囚の苦境を傍観して助けなかった歴史的背景を想起させる記事が後半にある。 神は、その後計画に従ってエドムを裁き、イスラエルを救う。ただし、その時に神は人も物も必要としない。 私どもは原因や味方を力にして何事かをするのと全く異なる。今がどんな状態であれ、今までがどうであっても、神が働かれるなら一切の課題が解かれる。 物や人に頼る時、そのことに悩みまた自分を乱す。神はそこに入り込んできて、働いてくださる方であることを預言者は語っている。 新約聖書のメッセージは、自ら働いてすべての人に救いをもたらす福音をイエス・キリストにおいて実現されたことを告げている。 神の御業にあずかり、神の民としての歩みを願ってくださる。 私どものいかなる状況にあっても、(今日ある)恵みに活きる信仰を歩み続けたい。伴いたもう主と共に歩みたい。

9月12日 何が望みか?

マタイによる福音書 20章17節〜28節 阪井牧師

 『「すべてのことが許されている。」しかし、…』とTコリント10:23以下に続く言葉を想起させる主イエスの問い「あなたは何が望みか」である。 同時に、想う言葉はパウロがコリントの教会に送ったその文章の締めくくり(31節)にある「…あなたがたは、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。…」とあることに気づかざるを得ない。大事なことである。 「主のみ栄えのため」の言葉は現実の生活で重い事を知っている。容易ではない要求だからである。むしろ、幼い子どもの方がそれが「やさしい」話を聞いた。 大人の柔軟さ(大人らしさ)によって真実を遠ざけてしまうことが起きている。 すると、私どもの日常でのその場の繕い「大人気」さは、本質を危うくしていないかとの問いを想起させられる。 支援のお金を出すことが、あるべき関係が切れる場合があると話されたのを思い起こす。 さて、主イエスの問いは、第3回目の「受難の予告」に続いている。つまり、主イエスが栄光を受ける時には…と願い出たゼベダイの子たちの母の抱く栄光は違っている。 言葉は同じであっても、本質がズレていることを想う。『何が望みか』の言葉は、本質への導きに聞こえる主イエスの優しさだとも受け取れる。 ある人の言葉「イエスの事柄が、倫理化する時、本体(構成力)失う」を想った。 人間の意思が十字架を排除して、謙遜や共有が我が物顔にならないように信仰の歩みへの導きを受け止めたい。 使命を受け止めたい。

9月5日 目を覆うモノ

イザヤ書 62章1節〜12節 阪井牧師

 今あなたが『見える』と言い張るところに……(ヨハネ9:39)の主イエスの言葉を想起するこの預言である。 ファリサイの人たちに向けた主の言葉は、今日の私たちにも向かって来る。この見える、見えないはどういう事か。 神の約束と今立っている現実とのギャップが、人々に神の民として生きる喜びを奪っていたであろうか。 遠くを見るよりも、今、すぐ目先に起きている諸事に対処することで精一杯の毎日であったからこそ、預言者は語っていると思える。 「わたしは黙っていない」と。そして、神から使命を与えられている民にも、「沈黙するな」と呼びかけている。 「主なる神は、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたを喜ぶ」とまで告げる。覇気を失っている民に向けて創造者である神が、「あなたを喜ぶ」とは、なんということか。 周囲の人々のゆえではない。また、その人自身の何ものかを理由にしているのではない。あえて言えば、神が約束をされたことの故に、「あなたを喜ぶ」と。 ここに、全ての人は喜び生きる根拠を持っている。信仰を与えられた者に、「黙するな」といわれるのは、この喜びのことである。 それは、しなければならないのとは違う。させてもらえる赦しである。ここに神に向かって生きようとする真実が現れ、神はそれを用いられる。 それに触れる者には、厳しさの中にも励まし、神のみ業に、また主イエスの働きと言葉に目を向けさせることをなさる。 さらに、その人を証し人として用いるのです。

8月29日 因果応報からの解放

ヨハネによる福音書 9章1節〜14節 小野慈美先生

 字画が不都合との理由で同じ読みの名前に変えた、と聞いた。 信仰を持っていても不幸があるとか、因果応報なのか、神のご機嫌を損ねるような生活をしているのか、などの問いをもつことがあろう。 弟子が主イエスに問うたのは、「誰が犯した罪の結果なのか」である。そこには不幸は悪であり、あってはならない「応報の思想」が潜んでいる。 イエスは応えて、不自由ではあるが、悪ではない。存在を否定するものではない、ことを『神のみわざがあらわれるため』と語られた。 それは、見えない者が見えるようになる「神の業があらわれる」ためではない。その人の存在そのものが神のみ業であることを示そうとされたのだ。 主イエスがその人に向けて注がれた眼差しから記事が始まっている。しかも、癒しが行われたのが案息日であった。 律法の規定を犯す者は、死をもって償う世界においてである。主イエスの行為は、ご自分の「いのち」を賭けたものであったことを意味している。 神の業が現れるのは、神の愛が示されていることと言い換えられる。つまり、生まれながら目の不自由な人の存在の価値回復がこの記事である。 自分から訴えたからではない。自分でさえも、存在価値を見失っているその人に、主が目を注がれた。ここに、すでに神の業が現れている。 現在の私たちにも、主イエスは目を注いでおられる。たとえ、自分でその人生が肯定されなくても、不幸や不自由はバチではない。ムチでもない。 存在そのものに価値がある、と。

8月22日 いけないか!

マタイによる福音書 20章1節〜16節 阪井牧師

 否定の疑問は、強い肯定を促し、さらに否定の説明を求める力をさえ感じる。主イエスの天の国の譬え『ぶどう園の労働者』の中にある言葉である。 マタイ福音書の中にだけある譬えであることを留意したい。この譬えに「割り切れなさ」を感じる理由を2つ挙げる人がいる。 その1は、朝早くから働いた人と最後の1時間くらいしか働いていない人との賃金が同じである。その2は、賃金の支払いを最後に来た人から支払われることである。 神の国(=神の支配が行われているところ)の話は、人の生活する事柄で話されているだけである。話が不可解な理由でもある。 何度も出かけて行き、労働者を雇うのは、収穫の時との関係で当たり前であった。 労働時間に比例して賃金を払うのが当然であるのに、それに関係なく支払うのが主人(神)の思いである。 ここに「先と後」の言葉が関係している。先の者になれない人を受け止める方の深い思いがそこにある。 人は周囲との比較(関係)から自分を決定する、けれどもここには、神と人との関係が、主人と労働者との関係で語られている。 自分はどこにいるのかを考えることが話の「割り切れなさ」を解決する。先の人は誰か?ユダヤ人?それともペトロやパウロ? そうではない私たち私たちは、後の者でしかない。それを敢えて、特別の関係にしようとするのが天の国であることを語られている。これは非常識でしかない。 それが「いけないのか?」と問われているのである。恵みを素直に受け取って良いのだ。

8月15日 自分の破れ

イザヤ書 61章1節〜11節 阪井牧師

 「破れ」は、これが自分という根拠を失うことでもある。従って説教題は、自分が自分でなくなる、無や空を意味する。 誰も自分を失いたくはない。しかし、「わたし」という自分の命を与え、奪う神の前では、どうかを問う必要がある。 8/15は、戦争の記憶と相まって、列島の情念が一番深まる時と言う人がいる。日本が本当に「破れ」た時、意味ある時としたい。 アブラハムの旅立ちの時を想う。イザヤのこの預言は、実に意味深い言葉である。神殿という「かたち」はあっても、魂が入らず、心の喜びがない礼拝を想う。 生きる力と希望を求める神の民イスラエルに、語っている。その言葉は、絵に描いた餅のように余りの現実離れと見える。神の約束は成就する、と。 ここに「良い知らせ=福音」の言葉がある。しかも、この箇所を、故郷ナザレの会堂で主イエスが読まれ、 「今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話されたことを心に留めたい。福音は、聞く者に「神の力」を与える。 伝える人に拠るのではない。サムエル記上15〜16章には、「油を注ぐ」話がある。語られた言葉に、聞き従わなかったイスラエルの王(サウル)は、 主から退けられ、新しい王(ダビデ)に油が注がれる記事である。目に見えるもので判断するところに、主は「わたしは心を見る」と言われた。 この主に自分を明け渡す「破れ」に神の力が働くことを知らされる。 受けたものを伝える使命をもって遣わされるところに力と希望が備えられるのである。

8月8日 キリストの中に

マタイによる福音書 19章23節〜30節 阪井牧師

 質問が自分に向かっている時、緊張を覚える。富める青年とイエスとの話し合いの現場に居合わせた弟子たちは、どうであったろうか。 自分がその一人ならどうか。弟子たちは非常に驚いて「だれが救われるのだろうか」と口走った。 すでに、一切を捨てて主イエスに従った彼らの言葉をどう受け取るべきだろう。 ピリピ3章のパウロの言葉「わたしにとって有利であったものが、キリストの故に損失と見なす…」の意味に通じるように思う。 「キリストのうちに自分を見いだすようになるため(9節)」とある。「神のみこころ」は、すでに御子キリストにおいて成されているのだ。 人のなす何事かが、神のみこころを成就完成させるのではない。 つまり、「永遠の命を得る」ために「何かをする」の敬虔さは、的が外れていて、ラクダが針の穴を通るのに等しいこと。不可能に挑戦しているのである。 だから、イエスは「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われたのである。神の救いは、神のなさる業の中に自分を委ねることにある。 従って、私どものなし得ることは、一切をみ手に委ねることだと言える。すべての人が、神の救いにあずかることができる、とも言える。 その時、イエスの眼差しがあったことを覚えたい。あのペトロの勇ましい表白「たとえ、みんなが…」のすぐ後に、「わたしは知らない」と言ってしまった時、 イエスの眼差しがそこにあった。 キリストの中に、自分を見いだすまで委ねて良いと語っておられる。

8月1日 2つの「しかし」

イザヤ書 60章1節〜22節 阪井牧師

 「しかし」の接続語は、前文と反する内容に展開させる場合、その期待と異なる時に用いられる。 バビロンから帰還した人々は、期待し想像した世界から遙かに異なる現実の中で預言者の「しかし」を聞いた。 「闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。『しかし』、あなたの上には主が輝き出て、主の栄光があなたの上に輝く」と。 創世記1章やヨハネ福音書1章の言葉を想起する光と闇である。 闇は神との関係が失われた状態、罪が幅をきかせている社会であり、ある者はそれを「成人した社会」と称した。 森 有正は「光と闇」講演集に、アブラハムの物語を通して示唆を受けると言う。人の人生には闇と光が交差している。 その時、神との約束との間に見えるズレを埋める「しかし」を学びたい、とある。 神の約束は、み子イエス・キリストにおいて成就完成した。信仰によって聞いた。 一つの「しかし」、私どもの生活現実はどうか。神はどうしておられるのか。      み子イエス・キリストはどのように働いてくださっているのか。 もう一つの「しかし」、厳しく辛い、また悲しく苦しむべき心を塞ぐ中で、なお、 「神は光を差し込んで下さった」とそれらを受け取る。ここに、神の祝福に輝く生き方がある。 この輝きにある人を通して、神ご自身が栄光をお受けになることを知る。それは、私どもが懸命になることとは異なる。 「アブラハムは信じた。希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて…(ローマ4:18)」を心に留めたい。

7月25日 わたしのところへ

マタイによる福音書 19章13節〜25節 阪井牧師

 同じ言葉でも、その内容の異なる場合がある。 主イエスに近づく人の2つの場面、その(1)は、連れられてきた幼な子の場合、その(2)は、 何かを求めて自ら近づく富める青年の場面である。 幼な子に祝福を受けさせて、より良い地上の生活をすることを願った親(?)の気持ちを思う。 祝福は将来生活への豊かさ願うものであったろう。一方、青年はもっと真剣な問いをもっていた。 <永遠の命を得るために何をする>の問いであった。主イエスは幼な子を祝福してそこを離れた。 青年には、神との事よりも人への思いが中心であることを示され、自らそこを離れた。 近づき、そして離れているが、何が違うのか。福音のメッセージはこの両場面に示されている。 幼な子の近づきを遮った弟子の配慮は人間の思いであったろう。だが、主の祝福には弟子たちとは異なる配慮がある。 ご自分の十字架に示される神の祝福であったとしたら、弟子たちはその妨げ(参考マルコ10:14)をすることになる。 同様に青年の<何かをする>は、その敬虔さを示しても神の恵みを受けることから遠いことを教えておられる。 その青年の心の痛みを、主は引き受けながらであったと思う。 <もし完全になりたいのなら>は、神の完全に倣うこと(参照マタイ5:48)に通じていよう。 人を中心にした世界に留まらないで、神を中心にした世界へと招かれている。 贖いの主が一切を引き受けて、「わたしに従いなさい」と語っておられる。 招かれていることが神のいのちへ繋がっているのだ。

7月18日 契約ー主の霊と言葉

イザヤ書 59章1節〜21節 阪井牧師

 「手が短い」とか「耳が鈍い」は、力や訴えが届かないことを示す。捕囚からの解放と帰還の生活環境が、 如何に厳しいかの背景を想う。精一杯の努力や多くの犠牲を払った精力消耗の民に向かって預言者は何を語るか。 全く思いがけない神のみこころを伝えた。それは、あなた方が「神の働きを妨げている」と。 創世記の3章にある記事は、人間の本性が示されている。努力しても自分の思いが成り立たない時、責任転嫁となる。 その行き着く先は「神」となっていく。人が中心になるところは、神批判にさえ至事を示している。 神に向かうはずが、神批判とは、人間の逃れられない現実だろう。 そこで預言者は、そのことを充分に示して、既に失われた関係を、神の側からの働きかけを伝えていることを受け取りたい。 「あなたの上に私の霊が」「あなたの口にわたしの言葉が」ある、と。実に理屈に合わない話である。 遊牧生活の人々にとって契約は命に関わる約束であった。 その破棄した側のところに、わざわざ出向いていき、契約を有効にするため、自らがその責任を取るのである。 これが神のなさる「み心」。信仰は自分の都合や意思主張によるものではない、と知らされる。 つまり、人の側が働く結果ではない。導かれ、与えられ、愛されていることの現実であると受け取ることに他ならない。 証しはその故に語られることになる。 神の贖いを、主イエス・キリストに受け取る歩みに導かれていることを互いに感謝しようではありませんか。

7月11日 受け入れる者

マタイによる福音書 19章1節〜12節 阪井牧師

 ここから新しい展開が始まる。ガリラヤを中心に働いた主イエスがユダヤの地方へ移動される。 その後ガリラヤに立つのは、エルサレムで起きたあの出来事の後である。この第一歩がここから始まる。 イエスを試そうと近づき、問いを発したファリサイ派の人たちへの答えに、弟子たちが割り込んで発言している。 それは、ファリサイの問いが、彼らの問いでもあったからで、つまり、私どもの問いでもあろう。 イエスの言葉は、結婚や離婚に、その根の深いところで神との関係があることを示された。 これは「信仰の事柄」を「人の問題」とする限り、真の解決にはならず、むしろ、それによって本来の関係が壊される事になることを想う。 主イエスのところに来て、そこで答えを聞こう。 一時の知恵でなく、本質に帰る知恵、それは神のみこころを尋ねることでもある。 自分の答えをもったままでは、神のみこころを受け入れる余地がない。そのことを頑固という。 神との関係を正すことから、人との関係が命を吹き返すから。結果は、必ずしも自分の望んだものが得られるとは限らない。 神との関係がしっかり保たれているなら、人のと困難な現実も必ず乗り越えられることを見る。 主の前に、己を徹底して低くする、これは神のみこころを受け入れることに通じよう。 日ごとに神の前に立つことから一日が始められるその姿勢が、家族をまた、周囲を変えて行くことになる。 「朝の15分があなたを変える」のことばを味わいたい。

7月4日 黙すな、我を呼べ

イザヤ書 58章1節〜14節 阪井牧師

 「声をからして叫べ、角笛を鳴らして…」は、サッカー世界大会の鳴り物を想像する。 神の民に対する命令呼びかけが預言者を通して伝えられる。それは、彼らの咎や罪を明らかに告発をするためだ、と。 バビロンからの帰還後のユダヤ人たちが、神に対して適当に振る舞っていたのではない。 むしろ、彼らの熱心や情熱が、その方向を歪めていることを示している。 預言者は神の言葉を伝え、同時に自らがその民の一人としてその言葉を聞く。 神への熱心を示す断食、苦行であったとしても、神のみ旨とした自分の主張行為となっている。 だから「神に仕え」ているのは、「神に応えさせる」「仕えさせる」ためと同じになる。自己抑制が自己主張の裏返しである。 それでは、本当の神の民、神のみこころを生きる者とならない。 人は誰でも自分の身内を糾弾したり、批判・非難をするのは辛い。 だが、この預言者は自らをその民の一人として共に厳しく糾弾を受ける。 悪やくびきからの解放、虐げや繋がれを断つこと、更に飢えた人・貧しい人・裸の人・同胞への配慮こそが神から求められる「断食」である、と。 そこに正義が輝き、主の栄光があなたを守る。あなたを包む闇を照らす光となる。 自分にはその力が無くても、呼ぶ声に主は答え、叫ぶなら「ここにいる」との声を聞く。 こうして、あなたは潤された園、水の涸れない泉となり、主を喜びとする歩みができる、と。 使わされた生活の場所で主を喜び生きよう。私たちは「主を呼び続けるのです」。

6月27日 赦しの本質

マタイによる福音書 18章21節〜35節 阪井牧師

 ある人が言った「存在しないものに名前(その名)はない」と。 この箇所をそのまま読むと、<救い>は存在しない。 赦しには、悔い改めの自覚があってこそ、存在するものだと平行記事ルカ福音書(17章)にはある。 しかし、マタイ福音書には全くその気配さえない。それでは、ここの赦しの記事は何を語っているのか。 「あなた」の赦しの相手は、全ての人・無制限ではない。前後の関係からの判断で教会の中の事柄だと分かる。 「あったこと」を「なかったこと」にするのが赦しではない。 事の発端は、18章の「天の国では誰が一番偉いのか」という問いが弟子から出されたことにある。 天の国いうまでもなく神の支配しておられるところ、つまり教会ではの問いでもあった。 そこでの答えは「幼子のように」であった。さらに、「小さいものを躓かせるな」であった。 一人でも滅びることは、父なる神のみこころではない。赦されるところが教会である。 そこでペトロは尋ねた。「7たび?」「いや、7の70倍」とイエスは応えた。その説明が次の王と家来の譬えである。 どんなに頑張っても借りを返せない家来がそれを免除された。これが赦す側になりうるのか、と思う。 返せない借りを誰が代わって返済したことになるか。王の痛手として決着された家来は、貸し手になり得ないはず。 ここに、私共の福音がある。赦しの背後に、神が痛む、十字架が見え隠れしている。 この小さき者のために、神の子が引き受けておられることに気づきたい。

6月20日 求めの向かう先

イザヤ書 57章1節〜21節 阪井牧師

 「ひどい生活に苛まれている者は、心を過去に向ける」との言葉は、もがく姿を想像させる。 実体験のない耳学問の弱さでもある。バビロンから解放されて故郷に帰還したイスラエルの思いは,今日にも通じる。 単なる回顧ではない。希望と立ち上がりのエネルギーを求める。そこでイザヤ53章を想う。 「…誰が思い巡らしたであろうか…」。不条理と見えるこの現実は何(?)か、と。 そこで人は、一層深く身もだえする。そこへイザヤ57章の言葉が届けられている。 「あなた方の熱心、あなた方の情熱、真剣さは認める。ただし、その向かう先はどこかが重要だ」と。 礼拝することの熱心が本当の救いか。むしろ、そのことによって神との関係がより遠のくことになっていないか。 熱心の情熱が,人を盲目にすることを知っている。それが本来の価値基準を狂わせて、神から離れることが起こる。 かつて、人生を費やして神との関係に生きた人が,世からいなくなったことも心を留めることさえできない生活が営まれる。 神の民は,外の情況から窮せられても滅びることはない。緊張の解けた内側から崩れと腐敗が起きる。 姦淫(かんいん)は、象徴的な用語である。曲がる歪んだ信仰(魂)は,本来の関係ではないモノとの関係に陥ることを指す。 砕かれ,へりくだる苦闘の中にいる人のところに神が働いてくださることを知らされる。 その結果が「神の栄光となる」ことを味わう。 神に仕えるところに,私どもの目指す一切がかかていることを喜びたい。 あなたの信仰の事柄への語りかけを祈りの中で聞き取りたい。

6月13日 主の名による集まり

マタイによる福音書 18章15節〜20節 阪井牧師

 日常会話には、主語がある。その単数・複数をあまり気にしないで済ませている。 この箇所では、「あなたがた…」と「あなた」とが使い分けされていることに気付いた。 16章の「主告白」に対して「あなたは幸いだ…」と主イエスは言葉を返したのに、この18節では「あなたがた」とある。 主と向き合うところでは、「あなた」個人が重んじられる。主の前に共にいる時、「あなたがた」つまり、<教会>となる。 主告白の時と同じ言葉があることを注目する。地上の「繋ぐ」「解く」は、天上でのそれとなる。 ここには、人の情念の立ち入る余地がない。心の温かさや優しさを持ち込むことは許されてはならない。 パウロは3回目の旅行から帰路についた時、待っている投獄や試練をも承知で「神の福音を証し」することを任務とした。 誰も喜んで送り出せない。これが人の情念である。しかし、パウロは主イエスの名のためにそれを振り切って旅立った。 ここに躓きがある。ゆがみの根拠が、罪がある。その罪は人ごとではない。だから15節に「あなたに」との単数扱いがある。 教会が人の群れではあっても、「主の名による集まり」が鍵となる。 かつて、「外からの圧力よりも、内から理由による」崩れに弱いことを言う人がいた。 教会にも同じ事を考えて良い。主イエスの名による教会に、人の情念が立ち入ることは、 真の信仰本質を歪める、躓きを与える。その意味で、自由は本質を見失わせる。

6月6日 主の名を刻む家

イザヤ書 56章1節〜12節 阪井牧師

 神の慰めと希望を主軸とした第2イザヤから、ここ第3イザヤは全世界の創造者であり、 救済者である方の恵みが内容となっている。約50年のバビロンでの捕囚生活は、そこに根付きを始めていた。 そこに神の民として与えられている使命を果たすべく(第3イザヤ)預言者は神の約束を示している。 帰還の民は少数でありながら、故国の象徴、神殿を建設する恵みを聞く。 「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」と。 この言葉は、主イエスがエルサレム入城(受難週第二日目)の時、 神殿が礼拝を純粋にできない状態であったと嘆かれた際の引用でもある。捕囚から解放され、 自分の生活を取り戻す時の第一が神殿建設の作業であったことから、神中心とする生活が始まるのを学ぶ。 自分の衣・食・住がどんなに満たされても、魂は喜びも力もないとのメッセージを聞くことに繋がる。 「忙しいからこそ礼拝が大切だ」との言葉を想起する。神殿が廃墟の状態を放置してはならない。 それは神の民の生活が崩れるのと等しい。神を礼拝する生活の秩序こそが、神の民としての力と希望を得ることになると。 創世記の世界創造の記事は、混沌(無秩序)から神の言葉が響いて「光」が生じたことを示している。 神の言葉は放置されたものにならない。そこに必ず事実が現れる信仰が語られている。 神の言葉を聞き、それに従う生活は目に見えるものに支配されない。 その人に神の言葉が刻み込まれる。私どもは召されて集められている。希望を持とう。

5月30日 あなたは価値がある

マタイによる福音書 18章6節〜14節 阪井牧師

 「変えられないものを受け入れる心の静けさと、変えられるものを変える勇気と、その両者を見分ける英知を与え給え……」とのを想起する。 聖書は思わぬ急所を突く。人の評価には入らない部分であっても、そこに神の価値があることを示す。 主イエスの譬えは、その極みであろう。ここにある「99匹と1匹の羊」、20章の「ぶどう園の労働者」は好例である。 主イエスの「あなたがたはどう思うか」との発問に続く譬えは、混乱を想定しているかのようだ。 この箇所には6回〈つまづき〉の言葉が繰り返されている。他者との関係に使われていることに留意したい。 「わたしの名のために」〈つまづく〉のは誰か。小さい者とは誰のことか。 世では数に入らない、小さい者であっても、神の前に惜しまれる貴い存在であることが語られている。 神の喜びと深く関わる存在であることと譬えは語る。 私どもが生活している歴史の中でどんなに小さくても、その者のために神は悲しみや憂う方、心を配られる方である。 この神に仕えようと心を用いる信仰に歩んだ人は、<つまづかせる>世を変えることになった。ルターがその人である。 大学と教会との間で起こる自分の経済的不利よりも、教区の人々の〈永遠のいのち〉に対する責任を負うべく歩みをした。 福音に生きようとする小さき者を困難を超え、希望に生きることを求めて「あなたには価値がある」とされているメッセージを聞き取りたい。 憶せず大胆に主の前を歩みましょう。

5月23日 魂に命を得よ

イザヤ書 55章1節〜13節 阪井牧師

 「……その日がくれば……パンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく 、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きなのだ…(アモス8:11)」の言葉を想起する。 他人事なら「そうか」で済む。だが、現在の私たちへの言葉として聞くなら、それは容易な事ではない。 また同時に、あのルカの記事(14:15以下)も気になる。大宴会の譬えは、招かれた脚はそれぞれの理由で欠席をする。 そこで町の広場や路地で通りがかりの人が招かれるのである。 イザヤ書55章の記事は、神の民イスラエルに語りかけた預言であるが、今日の私たちにも十分心に響く。 不遇の時、逆境の中で生活の根拠を築いて生活の安定を得たが、砂漠を越え、 荒れ果てた都(神を礼拝するところ)へ生活の拠点を移すようにとの促しである。 現実の生活に必死で対応して、やっといくらかの安定が成ったのに、それを手放すことは余りにも厳しすぎる。 ところが、腹は満たせても魂は飢えている、としたらどうかがこの預言の背後にある。 あらぬ方に目を漂わせながら、目前の人と会話をする様を想像してみる。 神の言葉が私共の生活の中でそのような扱いと同じになっていないか。 イスラエルは、豊かになった生活を勝ち得たが、神との関係が薄れているなら、本当に生きた民となることができないのだ。 神はご計画を立てて、「神のいのち」を生きる真の民であることを望まれている。 主イエス・キリストの購いの福音をどう聞くのか。 わたしの所に来て「魂に命を得よ」と語っている。

5月16日 自らを低く

マタイによる福音書 18章1節〜5節 阪井牧師

 「幼な子のようになれ!」は、主イエスの言葉と知らない人もいると聞く。 これは弟子たちの問い「天の国では誰が一番偉いか」への応答である。 「天の国=神が支配するところ」と条件はあるが、なぜこんな問いが出たのか。 あまりにも大人げない。だが、他者との比較は、すべての人のもの、あからさまでないだけとも言える。 神の子主イエスと共に居る弟子たちでさえ、同じ比較を抱えている。 そこで、応えられたのは「心を入れ替えて、…」となったのである。 それは悔い改めて、元の位置へ戻ることでなく、「新しく生きる」ことであり、「全く別の人になる」つまり、自分への拘りを捨てることである。 子どもが純粋とか無垢というのではない。 自分が低い者で数に入らない存在として、人の評価の外に自らの身を置くことができる存在である。 それは卑下ではない。イエスをキリストと信じるが故である。他者との比較から結論されない。 神への思いを強くする姿勢がそこにある。神の恵みには、人間の側の一切の理由を必要としない。 勿論、自己正当化も要らない。ただ受けるだけなのだ。人はなおそこに手段を持ち出そうとする。 そして、その手段を目的に置き換える誤りを生む。神の前に自らを低くする(=幼子のような)者には、そこに希望が与えられる。 この世のどんな基準や評価も意味を持たない。 神の前に自らが低くある者は、人に対して胸を張って歩むことができる。 主イエスの名のためにこの自分があることを誇りたい。

5月9日 世に勝つ信仰

イザヤ書 54章1節〜17節 阪井牧師

 自分に拘るのは、私たちの生きる知恵ともいえよう。 それが地位や財産そして最も強い拘りは名誉と言われる。 神の民イスラエルは、神との関係が怪しくなることにより自分に拘ることになっていた。 その歴史の現実に対してこの預言が伝えられている。 神は一度交わされた約束(契約)を、人の側の崩れにも関わらず廃棄されない、と語り、 深いみこころを〈贖う〉〈呼ぶ〉〈慈しみ憐れむ〉の語で示している。 痛み・辛さに苦しめるのが常である人のありようと異なり、困難から立ち上がらせる強い計らいがそこにある。 自分の側に責任があるものを、本人に代わってそれを引き受けるのが神である、というのだ。 世界の創造者である方が、造られた私ども人間の一切を引き受ける、そこに命の源があり、生きる希望となるこを語る。 相手に自分を認めさせるためではなく、まさに神との関係の中に、神の民として生きることに仕えようとされている。 関係の崩れを〈姦淫〉という用語で聖書は記す。神との関係の回復は、人の側からは成り立たなくなっている。 神からの働きかけが必要である。人の側ではその働きかけを備えして待つように語りかけている。 神は祝福の業を進めておられることを知るなら、それでも世の現実を大事にするのか、それとも神の約束の言葉に自分を委ねるのか。 改めて主イエスの言葉をどう聞くかが問われる。「あなたがたには世で苦難がある。 しかし、勇気を出しなさい。 わたしは既に世に勝っている。(ヨハネ14:33)」

5月2日 新たな歩みへ

マタイによる福音書 17章22節〜27節 阪井牧師

 3回の受難(十字架の死と復活)予告がなされた。第2回目がこの部分である。 第1回目は(主告白)のすぐ後、第3回目の時は、(エルサレムー十字架)に向かう出立の時。 どちらも非常に重要な時であった。ここではどうか。 実は、「一行はガリラヤに集まり…」の短文の中に厳しい緊張がある。 そこはイエスの活動拠点である。そこに起こった危険混乱を逃れて避難していた所から集まる(=集結)のは、集合ではない。 先にある厳しい現実を正面に据えた決意の下に取る行動の表現である 。しかも、イエスの受難の予告は実に短く「…人に渡され、殺され…」は、受け身表現である。 行為者は誰か。主語はイエス(人の子)である。渡すのは誰?ユダヤ人が異邦人に渡すのである。 神が御子を人の手に渡すを意識させる。神の御心が働いていることを示す。 今なら避けられるのに、御心に従う並なら無い強い主イエスの意思がある。 弟子達の立ち入る余地のない迫力が満ちていることを後の文「非常に悲しんだ」が示す。 ここに本当の新しい歩みがある。 神のご計画は私共の生活の中に始まることを不思議な話、神殿税の話で説明されている。 強いられるのでなく、躓きによって神との関係が失われることの無いようにとの配慮がある。 私共の教会が新しい年度の歩み出しを始める時、主イエスが良い知恵と力を与えてくださる恵みがここにある。 日常の信仰生活の中に他者へ主の恵みがある(神に生きる恵み)ことを示す者になり得ることが求められている。

4月25日 ヨハネはパトモスにいた

ヨハネの黙示録 1章9節 和泉富夫先生

 講壇でお話しする使徒の4人目となる。 兄ヤコブとともにボアネルゲス(雷の子)と激しい気性を称されたヨハネはまた、 文学的素質も持ち、書かれた聖書はヨハネ文学とも呼ばれる。 三高弟のうちヤコブもペテロも殉教に斃れたがヨハネ自身は長寿を保った。 パトモスに流刑されたが殉教することなく90歳まで生かされた。 冒頭の「パトモスにいた」の言葉は、キリスト者として共に苦難に預かっている者という名乗りと読める。 しばしば教会の老齢化が話題になるが、礼拝に出るのがやっとで天気健康気分次第。それでよいのではなかろうか。 教会を通してイエスとつながっていることで、イエスの受けられた苦難と支配と忍耐とに預かれる。 見栄えなどなく静かに人生を終わる私たちの姿と、生涯には華々しさは見られなかったヨハネの生き方とを重ね合わせてみる。 その中にイエスによって与えられ生かされている生き方を確信するのである。  ヨハネ文学の特徴は明確な文体。福音書ではイエスを神として明瞭に書いた。 3つの手紙では神の愛を行動で示す指針を書いた。黙示録では未来を見いだす望みを書いた。 長くパトモスに流されたヨハネだからこそ、ペテロもパウロも残せなかった花を咲かすことができた。 単なる運命論でも改革論でもない。苦しみの中にキリストにある生き方を見つけることができる。 人はなぜ苦しみの中に生きながらえているのでありましょうか。 ヨハネは答える。神の言葉とイエスの証のゆえに、と。(文責石黒)

4月18日 思い込みと事実

マタイによる福音書 17章14節〜20節 阪井牧師

 山上の変貌は、主イエスの栄光の姿を示していた。その山から下った話が今日の内容である。 神が人の現実の世界に自ら向き合って下さる記事だとも言える。一人息子が悪霊に取りつかれて苦しみもがいている。 父親は癒しを求めて来た。イエスはその時、山上にいたので、弟子達は、求めに応えようとしたが、期待に応えられなかった。 そこに主イエスがこられた。事情を聞いてイエスは「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。 いつまで…」との言葉に続いて、「その子をここに、わたしのところに連れて来なさい」であった。 そして、その子から悪霊を追い出し、その子は癒された。 弟子達は、ひそかに主のところに来て、「なぜ、私たちにはできなかったのか」を尋ねた。 彼らは、自分たちなりに精一杯のことをしたはず、との思いを想像する。 ここに弟子達の〈思い込みが〉あった。主イエスは「信仰が薄いからだ」、「もし、からし種一粒ほどの信仰が…」と。 これが弟子達の〈事実〉であったことを示している。これは、今日の教会の、またわたしたちの姿と重なる。 主イエスが働くところに、割り込んで自分を主張することになっている姿を想像する。無力であることに甘んじて良い。 力む必要はない。私共に何かをするように求めておられるのでなく、神の力が働くことを求めればよい。 神の力が伝えられる〈一粒〉になることが信仰の実力、事実であるように求められている。

4月11日 主の僕の栄光

イザヤ書 52章12節〜53章12節 阪井牧師

 『蜘蛛の糸』は芥川龍之介の作品である。地獄に降ろされた一本の蜘蛛の糸を巡る話である。 地獄から抜け出したい願いの真剣さが、他者への思いに勝った結末はやりきれなさが残る。 自分との関わりがない人へどうして自分を犠牲にできるだろう。子どもでも分かる話であろう。 イザヤ52章の「苦難の僕」とは誰のことか。聖書の読み方に関係する。 新約を通して旧約聖書を読む時、この僕は主イエス・キリストとなる。 実際はバビロンに捕囚となっている神の民イスラエルである。 どうして神に生きる民がこのように苦しむのか、の問いをみる。 正しく神に従う者が、苦難に苦しむ理由を知りたい。信仰に歩む人が苦しまなければならないのは何故か。 まさしく主イエスの姿そのもの。今日にも通じる。ここに神の栄光があることを福音書から知る。 私共の時間の中では、十字架のイエスに嘲るしかない有様である。 弟子のユダに売られたこの惨めな姿こそ、実に神の栄光に仕える「主の僕の姿」であった。 なぜ、神の子が?十字架と復活の出来事が自分との関わりを離れる時、つまり、自分の罪を正面に見ることがない限り、 イエス・キリストの事柄は、救いの恵みにならない。神の子羊がすべての人の救いとなられた栄光の姿に見えない。 神の子羊である主の僕は、父なる神の栄光に徹底して仕えられたところに、私共ひとり一人の救いが、死の克服がある。 罪の報酬を受けられた贖い主に仕えられる幸いを喜び誇りたい。 これは量の事柄ではなく質の事柄でしょう。教会の姿を想います。

4月4日 礎は崩れを止める

マルコによる福音書 12章1節〜12節 阪井牧師

 「隅の親石」は「生ける石」、「かなめ石」と表現されている。それは、主イエスご自身と受け取って良い。 人から「捨てられた」石を、建物を安定して支えるために、どうしても必要とされる石となった。 扇子の要は、骨部分を一点で支える。アーチのかなめ石は、最も高い中央部で、その形を保つための楔びの石のことである。 目立たず、存在感は薄いけれども、神はそれを用いて、アーチのバランスを保つ働きに当てた。 これが復活信仰で、教会またはキリスト教に、欠くことができない重要なものである。神が私共に与えてくださった。 人間の努力や知識経験から、それを得るのではない。 ユダヤの宗教・生活の指導者たちを相手に、主イエスがこの「たとえ」を用いて話をされた注目すべき理由はそこにある。 ぶどう園はイスラエルやその指導者によくたとえられた。イザヤ書5章がそれだ。 しかし、ここではぶどう園の農夫が中心に扱われて、主人にどうかを語る。 ぶどう園を託された農夫の果たすべき役割や使命が課題である。神との関係が問われるている。 主人の備えと期待に反して、自分を中心にする時、神に反する好意となる。神(主人)の嘆きと悲しみは、深く重い。 み子(主イエス)の十字架が、どれほど悲しいことか。神の期待は、それで終わらない。 その死からよみがえりによって、なお生きる者となることを求めてやまない。 復活信仰の恵み、その真実は霊の働きを受けて私の信仰となる。 召天者はその恵みに預かっていることを想う。

3月28日 神は愛です

ヨハネの手紙一 4章7節〜21節 H.アンデルソン師

 100年前一つであった民族がベルギー、ドイツ、ユダヤ、ノルウェー、フィンランドの人々を受け入れて、 900万人口の2割によりスウェーデンは変化している。経済、福祉食、宗教に現れている。 根本は同じという人もある。しかし、聖書は〈救い〉はこの方のみと単純である。神は愛です。 神と愛は切り離すことはできない。7〜21節に30回ほど〈愛〉という言葉の使用がある。 ギリシャ語には男女(エロス)や親子兄弟(フィリア)、そして無条件(アガペー)の愛表現がある。 完全な愛は正しい方のもの。すべての人の罪を負う(ロマ3:22)、罪の報酬は死(ロマ6:23)と厳しいが神の愛に希望がある。 イエスは遣わされ、十字架の受難で、罰せられる罪の責任を代わって負った。イエスは私たちのために命を捨てた。 この愛に勇気を得る。恐れを取り去り、罪のない者として神の前に立つことができる。 特別に悪いことをしていない、というのでなく、イエスが代わって責任を負たのだ。 愛である神は、私たちに悪いことを望まれず、良いことのみを望まれる。 恐れは破滅を、自由は喜びを、病気は心配を、しかし、神に従うと元気になる。 愛されていることを知る者は強くなり、寛大になれる。 神は、互いに愛すべきこと、恐れのない神の愛に満たされることを望まれる。 主の愛に私が開かれるように。今、世界は主の愛を必要としている。 わたしの愛を世に向けよう。主の愛に向けて心を開こう。 主の復活に向かって歩む受難の時を大切に過ごそう。 (文責 阪井)

3月21日 僕である支配者

マタイによる福音書 517章9節〜13節 阪井牧師

 「主の日が来る前に、預言者エリヤが遣わされる(マラキ3:23)」との記事を背景に、イエスと弟子たちの会話がされる。 400年以上前の預言書が意識されていることに驚く。山上の変貌は、主イエスがメシアであることを示していた。 山から下りる時、弟子たちが命じられたのは、ご自身が「死者の中から復活するまで誰にも話すな」であった。 今や、主イエスの十字架への歩みは否定されない。ここに信仰の姿を見る。 人の感性や理性では受け取ることはできない内容である。 信仰は、人が神野領域に招き入れられることであって、人の側の一切が足止めされる。 「神の救い」に、直接人が関わることは許されない。その生活や生き方は、神の恵みを示す結果である。 つまり、倫理は信仰の結果として現れることになる。 逆を考え易い。弟子たちからの問い「エリヤ」は、「既に来た」と、主は応えている。 ただ、人々がそれを認めず、自分勝手にあしらったのだと。 バプテスマのヨハネのことが語られ、同じようにメシアである主イエスも苦しみを受けるのだ、と。 ここに、贖い赦されなければならない人の罪をみる。 力と権力を振りかざすメシアでなく、人の罪を代わって受ける主、それは苦難の僕に他ならない。 誰が世界の創造主なる方が、そのような僕=栄光?の姿で来られていると受け留められようか。 今、レント(受難節)は、この事実に「どう私共が向き合う」かを整える時である。

3月14日 先頭としんがり

イザヤ書 52章1節〜12節 阪井牧師

 経験や知的判断の方が、聖書の言葉より遙かに賢明で合理的だと思えることがある。 とりわけ人生の大半をそのように生きてきた人間には当然であろう。希望をなくした人は、藁をも掴むだろう。 人生の成功を収めている者には、自負があり、藁に興味を持たなくなる。 神の民であるバビロン捕囚の民に、その両者がいたと思われる。 豊かさが神の民である意識を薄れさせるとするなら、今日の私共の課題となる。 結婚式を神の前でする行うのは、祭儀だけではない。神の承認への感謝であり、信仰の応答である。 だとすれば、新生活環境に起こる課題を人にではなく、神の前に携え行くべきであろう。 人は目前の現実への対処が重要となる。しかし、神の前では、神の意志が重要となる。それが信仰の歩みである。 神との関係を離れた道は、暫くは続くかも知れない。でも長くはない。次の課題がまた生じる。 そこでまた、人の知恵と経験で解決を計ることになる。 神との関係であれば、神の前に出て、そこから神の「み心」を尋ね、世の人々の騒音をはねのけて、「み心」に従うべきであろう。 預言者の言葉を聞くに価しないとするか、聞き耳を立てて囁く声に従うか。ここで預言者は告げる。 『あなた方の先(先頭)を進むのは主であり、「しんがり」を守るのもイスラエルの神だから』と。 み心を求めて歩むことの結果が、世界の創造者のみ業に仕えることになることを想う。

3月7日 『これに聞け』の声

マタイによる福音書 17章1節〜8節 阪井牧師

 商事や人事を密かに調査するのが興信所である。 主告白のメシヤとはどんな人か、その説明の一つは、受難の僕の記事であり、 続くこの「イエスの変貌」の記事もその説明と考える時、先の機関を想起した。 聖書のこの関係が不明のままなら、確認と立証(合理)の世界に生活する私共には、理解しにくい奇妙な記事と映る。 実は、この記事にはメシア待望の人々が持つ背景の旧約聖書を想わせる言葉から始まっている。 それは、主告白から「6日」の間隔の数である。モーセがシナイ山で十戒を受けたあの時と重なる。 イエスが山に登った理由は、神のみこころを受ける(祈り)であったことを想う。 さらに3人の弟子たちは、ゲッセマネの園での祈り、会堂長ヤイロの娘が復活する場面、そして今この山上の変貌である。 ペトロの「家を建てる」は、幕屋と繋がることを想うなら、神が共におられることの信仰の証しである。 イエスがメシアであることを正しく受け取るためには、弟子たちにとって必要な経験であったろう。 人間の理屈には馴染まない現実が神の子・メシアである。果たして、私共の真実の姿をこのように晒すことはどうだろう。 関係を保ち続けられなくならないか。十字架の姿こそが真のメシアであることを知らされている。 自分の思いの中に相手を抱え込む時、相手を縛る。十字架はその究極である。 神の栄光に仕える弟子たちの必要な体験をこの時している。

2月28日 神の裁きは人の光

イザヤ書 51章1節〜23節 阪井牧師

 伝達方法の一つ、物語(お話)は記憶に残りやすい。 また、その入れ物には、読み取る人には汲み尽くせない深い内容が詰まっているように考える。 その人の力に委ねらっれているため、強いられることもない。 イスラエルの人々あるいは教会の私たちには、この書がそれに似ているようだ。 さらに、物語と受け取るなら、他人事で済む。関係のない架空の話とすることもできる。 自分の限界を覚えて、不安と戸惑いに悩む人がここにいる。 政治や時の流れが、人の前に立ち塞がって苛む時、心境はどうであろう。自分ならどうするか。 誰もが経験してきた。預言者イザヤが語りかけているのは、捕囚からの解放であり、神が御心を行う裁きである。 ところが既に、その場に生活の根拠を築いている者には、ただ喜んでいられない。 約束の地、シオンは、神から与えられた土地で、神の民が使命と誇りの根拠としているところである。 人は目先の課題が大きく移る時、その対策に必死になる。神との関係が後回しとなりかねない。 そこで、預言は、自分の歩んできた道を顧みて恵みを確認するように語る。神は約束を、恵みの業を貫いていることを示す。 その時、民が立派であったのではなく、神が民を「前に向かわせた」ことに気づく。 「聞け。わたしは主、あなたの神である」の言葉が、その時、力となる。 苦境の中にあっても、行き倒れるどころか、人の光として立たしめる者とされる、と語る。 主イエスは、神の恵みとなって働いて下さると。

2月21日 イエスの打ち明け

マタイによる福音書 16章21節〜28節 阪井牧師

 本来、「問う」は弟子から師に発するもの。だが、師が弟子に発する時は、教育や訓練となる。主イエスの問いに「主告白」を答えた弟子は、主からほめられ、喜ばれた記事に続くこの記事は、弟子たちへの「口止め」理由を推察させる。言葉では的(まと)を得ていても、内実が伴っていないからであろう。つまり、「誰にも〜話すな」は、真のメシアを知る者がいないことを示す。確かに「主告白」なのに、自らのものでないことを知らされた。「告白」が「問い」に導かれたものであったことを想う時、その理由がこの第1回受難の予告にあると受け取れる。弟子が師を諫める話は、美談となる筈が思わぬ展開となった。「サタン、引き下がれ」は、師思いも優しさも前に出るなを意味する。つまり、「神のことを思わないで人のことを思う」ことは、邪魔にしかならない。これをただの切り捨てと受け取ってはならない。正しい「主告白」を携える者になることを求める次の言葉がそれを示す。「自分を捨て、自分の十字架を背負って」神のいのちを歩むように、との言葉である。十字架は死を意味している。自分を死ぬのである。それは、世界の創造者である方の御心に仕えることに通じよう。人の思いが先に出る限り、すべての人の救いとはならなくなるであろう。主イエスの受難は、すべての人が神の恵みを受けるためである。だれが、メシアは受難の姿で私共の前に立たれると想っていたであろう。 だれもいない。主イエスの受難に私共の救いの奥義がある。

2月14日 言葉を呼び覚ます方

イザヤ書 50章1節〜11節 阪井牧師

 「せつない」の言葉を想起する記事である。片方の思いが相手方に正しく伝わらないだけでなく、逆の意味になって受け取られる時がそうである。客観的に見る者には、胸が締め付けられる。母親を追い出した(イスラエルの捕囚)は、捨てたり売り渡したのではない。神との正しい関係が壊れていることにある。今ある状況から相手を問うイスラエルに対して、この状況に至った原因が問われるべきである。その時、離縁状を渡されても、また奴隷に売り渡されても仕方ないことを理解するであろう。しかも神は「手が短い」から救いに力及ばないと思い込むのは、あまりに「切ない」。世界を創造し、自然を支配する力ある方が、バビロンにいる神の民に「手が届かない」はずはない。人の考えや知恵経験が神の計画を取捨選択することの愚かしい信仰を与えられているのではない。人の手になるものを拠り所にする者は、灯した火や松明(自分の火の光)を掲げているが、やがて苦悩に倒れる。主を畏れ、主の言葉に聞き従う者は、闇の中、光のない時であっても神と共にいることができる。主の僕は、神から教えられ、学びを与えられている者、主に信頼し、委ねることができる者である。自らが癒しと慰めと励ましを受けた者は、その事実を携えて、他者に仕える者とされる。日毎に与えられて蓄えた主の言葉を語る者とされる。 主がその「言葉を呼びさまし」てくださる。主にあって「せつない」思いを持つことはないのです。主に信頼しよう。

2月7日 最初の主告白

マタイによる福音書 16章13節〜20節 阪井牧師

 出発点に立ち返ることは大切である。個人的・組織的にかかわらず、そして、また関係でも同様のことが言える。とりわけ、神との関係で自分を正すために。この箇所はマタイ福音書の分水嶺だと説明する人がいる。それは、最初の主告白と教会の存立が記されているから。または、緊迫した状況から逃れるイエスは、弟子たちへの教育と訓練の機会ともしているから。その場は、ガリラヤからさらに北の国境近くである。そこは、政治的(人間世界)にも影響が少ないことを意識する。マルコ記事では「〈わたし〉のことを何者というか(8:27〜」だが、ユダヤ人に特別関心を持つマタイ記事は、〈人の子〉と表現する。イスラエルに対する〈神との関係〉・〈出発点〉を問うている。それは、私どもへの問いでもある。改めて弟子たちに、主イエスは「わたしのことを何者」と言うかを問う。「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。神との関係を告白している。教会はこの問いを続けるところである。そして、その答えを出させるのは「天の父である」こと、その幸いが語られている。信仰の告白(出発点)は、その人の経験や知恵ではない。自分と神との関係が問われるのは、主イエスにある弟子たちとの関係の中である。教会は人の思いが退けられ、その使命を共に担う祈りの中で問われる。正しく問われ、答えるところに、 福音の力が発揮される。人との関係が前面に出る教会は、出発点に帰ることが求められる。ともにあの、主告白へ、と。

1月30日 神から呼びかけ

イザヤ書 49章1節〜26節 阪井牧師

 「私に聞け、耳を傾けよ」で始まるこの章には魅力を感じる。バビロン捕囚の民に、直接語りかけながら、スケールの広い世界の人々に語りかける内容となっている。人は自分が苦渋をなめるとき、思いを他者へ向けにくい。そこでなお、自分を存在させ、用いられる神に希望を託す生き方を示している。しかも、憂き目を強いられる生活の中でこそ、神の民としての成長をみている。初代教会の人たちは、政府の権力をもって迫られる信仰迫害の現実を信仰の喜びとして受けた。使徒言行録の記事からそれを学ぶ(11,12章)。明らかに現実は敗走者であるのに、証し者となる。神の栄光、キリストの苦しみに預かる誇りとする生き方が、触れる者をキリスト教信仰へと変える。強がりでも片意地でもない。苦しみ嘆きながらも「キリストと共に」の信仰がその世界を変えてきた。人の思いではあり得ない神の現実がそこにあるとみる。バビロン捕囚からの解放もそうであるが、それが目的ではない。解放の民としての生き方、使命がある。それが「主のしもべ」である。これは、その人の自覚や献身というよりも、神が働く道具になることである。神は、「み心」を行うために最も有効な用い方をされるために手を入れ、磨きもすれば、研ぎもする。されに剪定もする。およそ50年の捕囚生活は、エルサレム帰還が受け取り難い者もいたであろう。 その人々の中から主は選び声をかけている。教会の群れにも、神の呼びかけが響いていることを想う。

1月24日 ボアネルゲのヤコブ

マルコによる福音書10:35〜45 10章35節〜45節 和泉富夫先生

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」  イエスが「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。 「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」 イエスは言われた。 「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。 このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか。」 彼らが「できます」と言うと、 イエスは言われた。「確かにあなたがたは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることになる。 しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」  ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。 「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、 偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を捧げるために来たのである。」

1月17日 まだ、分からないのか

マタイによる福音書 16章4節〜12節 阪井牧師

 口語訳で「今、あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたの罪がある。(ヨハネ9:41)」の言葉を想起した。 この箇所で強調されているのは、パン種または、教えである。マルコ福音書記事にある数字やパンが重要な事柄ではない。 普段は一緒になれない宗教指導者たちが、主イエスに向き合うことによって結び会えている。 一般の人たちではなく当時の熱心な宗教家たちであることが強調されている。 強く神の民を自覚した人たちが神の子・イエスに対立している。 イエスが奇跡を行い、病を癒すことも受け止める。また、力ある教えを人々に語るのもよい。 だが、自称のメシアが自分たちが求め伝え、教える救い主であっては困る。だから「しるし」を求めた。 ファリサイ派の人たち、サドカイ派の人たちの「パン種」を警戒せよとは、教えに対することであった。 それは、彼らの熱心が人々を神から距離を作ることになっていたことにある。つまり熱心の根拠が自分たちにあった。 神に救いの根拠があるのではない。熱心こそが救いに関わっているとの信仰が彼らを支えている。 神を神とするのは彼らにある。同じ事が今日の私たちにも起こる。 教会を教会たらしめるのは私たちにある、とする信仰である。神の霊が働いて(ペンテコステ)教会が生まれた。 実を結ばせる方が共におられるから教会は喜びに満ちたところとなる。ひとり一人に神が向き合い、言葉をかけられる。 その憐れみと愛の言葉を「まだ、わからないのか」の中に聞く。

1月10日 神が声をかける

イザヤ書 48章1節〜22節 阪井牧師

 渦巻く世界に、今私たちは生活をしている。時と状況の視点の違いにより、判断の基準が動くそのただ中にいる。 消費経済では善であっても、環境保全からは、不可となる。いずれにしても事柄の当事者は、目前の課題に必死である。 弱い立場や安定を欠く側では「生き残り」が中心テーマである。イザヤの預言は、今日の状況に似た背景を持っている。 イスラエル統一王国が分裂、やがて滅亡し、南ユダはバビロン捕囚の民となって、歴史の渦巻きの中で。「生き残り」を求める。 そこに頑固が生じることを語る。見えない神へではなく、自分で確かめ得る、見える神を求める頑なさである。 これは、捕囚の民だけではない。人全てに該当することを想う。 目前の事柄の背後に、神が働らいておられるのを見失って、ひたすら保身の自分中心にもがく。 裁き滅ぼして当然の民に語りかけ、「わたしの名のゆえにあなたを滅ぼないようにした」と。 聖なる、贖いの主が働くところに神の愛がある。捕囚の民に教えて力をもたせ、導き恵みを与える。 そこから出て喜びの声を地の果てまで響かせ、届かせよ、「主が贖われた」と。 「恥ずべき民を、わたしの民」と声をかける神の愛に、経験的に受け取ったのは旧約の預言者ホセアである。 神の愛は、本人を、またその周囲の人を変える。迫害者パウロを宣教者に、わたしどもが、 神の「いのちのことば」を携え、生かされている喜びを伝え、地の果てまで響かせる使命を負っている。 主はそこに働き用いられるのだ。

1月3日 ヨナのしるし とは?

マタイによる福音書 16章1節〜4節 阪井牧師

 飛鳥IIから海に転落か、とのニュースに接してヨナの物語を想起した。 神のみ手を逃れたヨナは、魚に飲み込まれ3日3晩腹の中で祈っていた。 吐き出されて改めて主に仕えた、あの話である。生活を楽しみ、不自由のない人々に神の裁きを伝えることは常識的ではない。 ヨナでなく私たち現代人のキリスト者でも同じであろう。 イエスの所に来て「天からのしるし」を求めたのは、当時のユダヤ教を代表する人たちであったとマタイは言う。 その問いに、イエスは「ヨナのしるし」以外は与えられない、と応えた。 普段は対立する関係にあった宗教代表者たちが、イエスに向かう時、一つにされているのはなぜかを想う。 イエスが自分たちの信仰基盤を揺るがしているからであろう。 イエスが神から遣わされていること、救いをもたらす方というなら、自分たちの律法への「こだわり」が意味を失うことになる。 「天からのしるし」は自分たちの死活問題でもある。自然科学は証明と納得を求める。信仰は、その領域に収まらない。 それなのに、神のなさることも納得を求めている。それは信仰を離れたことである。 神の子・主イエスが十字架につれること、3日後にその死から甦ってなお、神の救いを伝えられた。 このことを誰が納得できようか。自分の不信仰から解放され、まことの救いは、 主イエスにおいて、つまり「ヨナのしるし」によってしか正しく受け取ることはできない。 この残酷さにおいてこそ、まことの救いがあることを知らされる。


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新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
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