日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
〒245-0061 横浜市戸塚区汲沢1−24−9
Tel.&Fax. 045-881-0032
       
spacer

 

ホーム

牧師・協力教師

交通・地図

講壇


2001年の講壇 2002年の講壇 2003年の講壇 2004年の講壇 2005年の講壇
2006年の講壇 2007年の講壇 2008年の講壇 2009年の講壇 2010年の講壇
2012年の講壇 2013年の講壇 2014年の講壇 2015年の講壇 2016年の講壇
2017年−先週までの講壇

2011年 講壇

 

12月25日 さあ、ベツレヘムへ

ルカによる福音書 2章15節〜20節 阪井牧師

  「こどもは大人の背を見ている」を想う。クリスマスをどのようにイメージするだろう。大人の私たちはどうか。その経験が根拠になろう。ここに羊飼いたちが登場する。彼らは「全てのユダヤ人が登録」の話に関与していないことは何を意味するのか。ユダヤ人であることの拒否か、その資格さえないのか。野宿をして羊の群れを世話する人である事は、当時の社会的最下層を意味する。所属がないと考えた。そこに主の天使が近づき救い主の誕生告知があった。その言葉に「さあ、ベツレヘムへ…」と動いてる。ルカ福音書はそこに焦点を当てて書いている。政治と経済、たぶん宗教からも問題にならない人たちに語りかけている、と。夜を徹して起きている生活は、自分を考えざるを得ない経験がある。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」は、決定的な意味をもって聞こえていると想う。登録を問題にしていないのに、主が知らせて下さったことを見ようとする。知識や経験また自分の沽券を持つ人にはどう受け止められるだろうか。クリスマスが語るメッセージをどう聞くかを想う。さらに、彼らは探し当てた乳飲み子(幼子)ついて人々に話している。世界ではじめのクリスマスを語り伝えたのは羊飼いたちであることを知らされる。そこに「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」と結ばれた物語叙述に、さらなるイメージを抱かせられる。「心からクリスマスおめでとう!」 を語り伝える恵みを味わいたい。アーメン

12月18日 主からの告知

ゼカリヤ書 2章14節〜17節
マタイによる福音書 1章18節〜25節 2章14節〜17節
  阪井牧師

 ゼカリア書は分類上(黙示文学)とされる。新約のヨハネ黙示録と同じとなる。黙示とは、終末に対する神のみ心を(間接的)に表現する特徴を持っている。黙示録は勿論、マタイ福音書にもゼカリア書は引用されている(エルサレム入場、最後の晩餐など)。誕生記事の博士たちの登場場面にも。イエス誕生記事にマリアとヨセフが登場するのは当然である。マリアの話はルカ福音書に詳しいが、ヨセフのことは、このマタイ福音書(1:18〜)が特別に詳しい。これをゼカリアの記事(2:14〜)を重ねて見る。既にバビロン解放を受けてエルサレム帰還したが、神殿再建は土台工事で中断し、20年近く放置のままとなっていた。「神を信頼し、作業を続けるよう」に神のみこころが幻を通してゼカリアにより告げられた。ペルシャから総督として遣わされたダビデの子孫ゼルバベルと大祭司ヨシュアが力を合わせて作業を完成させた(B.C.520)。ヨセフの戸惑いに天使が夢で告げたのは「恐れず、妻マリアを迎え入れる」ことでした。夫ヨセフの立場はどうか。既に「秘かに」決心していたことを覆す内容である。主が誕生は、人間の存在を賭けた決断を否定して起こっている。ヨセフ当事者だけが聞いた告知である。優しさや柔和などの説明で済まない。肯定できない神の告知にヨセフは応える記事に感動を覚える。主イエスの誕生の背景にある神の御手(聖霊の働き)を、私の出来事として向き合うのがこのアドベント最後の時である。 「恐れるな!」の告知に聞き従う備えを持とう。

12月11日 何を見に荒野へ?

ルカによる福音書  7章24節〜35節 阪井牧師

 「待つ」に相応しい人物(バプテスマの)ヨハネの記事である。父・祭司ザカリアが子の名をヨハネと付けたのは主から示されたからだ。父ザカリアは預言した(ルカ1:76,77)。ヨハネは預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、罪の赦しによる救いを知らせるから、と。神殿ではなく、荒れ野で「ラクダの毛衣を着、腰に革の帯を締め、イナゴと野密を食べ物としていた…」の姿・生活は、悔い改めのバプテスマを宣べ伝えるに相応しい。つまりイザヤ書40:1以下の言葉や列王記下1章の記事を想起させる。荒れ野は、まことの神に向き合い、どう生きるかの問いの前に人を立たせることだ。「あなたがたは何を見に荒れ野に行ったのか」は、クリスマスを前にした現代人への問いでもある。27節の言葉は出エジプト記23章からの引用。モーセを用いて神の民を導き、荒れ野を進ませる約束であった。モーセの能力・力量ではなく主が先へと促している。主イエスは、ヨハネにそれを見、神の恵みとヨハネの正しさを語っている。ヨハネを介して人は2つに分けられる。徴税人さえも神の正しさに従う者の生き方に変えられた。一方、律法の専門家たちは変えられる生き方(悔い改め)を拒んだ。自分の気に入る事だけに反応する広場で遊ぶ子どもたちと似ていると評された。クリスマスに向けて、富や豊かさを求める人々の生き方の中で、神の民としての生き方を求め続ける歩み、 決断をしたい。あのエリヤが多数に対決して主に従ったように。

12月4日 告知を受ける

ルカによる福音書  4章16節〜21節 阪井牧師

 希望を持てない者は、「自分を生きる」力を失う。生物的に生きることと意味を持って生きるとは違う。多くの知識も生き方に関係がなければ、情報の一つに終わる。安息日に故郷ナザレの会堂で主イエスは聖書(イザヤ61:1〜)を読んだ。みんなが知っていた記事であったろう。あるいは、習慣によるそこからの言葉を期待したであろう。その限りでは、バビロンからの解放知識でしかない。イエスは、人々の注目に応答するかのように「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたき、実現した」と話した。旧約の預言として知っている神の恵みは、イエスによって「今日、成就した」と告知されたのだ。捕囚から解放されて、あこがれの故郷に帰還した。そこで見たものは、押し寄せてくる生活の困窮さ・神殿の修復にはとても力及ばない負の現実を知らされた。もう限界と言わんばかりの暗礁に乗り上げた現実である。ただ、自分の将来に対する破綻を待っているだけ。ナザレの人々、イスラエルの人々、私どもの現実に通じている。どのように将来に目を向けるか。情報としての知識を越えて、自分の生活への力を得るのは、「今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」と主イエスが語られた言葉に立つことによる。自分の力量や法則の発見、積み重ねに依らないで、「主の約束が実現」したことの確信に立たせていただくことである。現実をよく見つめ、主の言葉を生きる糧として、 神の民の務め(他の人への救いに遣わされる)に与ろうではないか。

11月27日 相談する指導者たち

マタイによる福音書 26章6節〜12節 阪井牧師

 孤立化が世の趨勢となっている。親子・夫婦・家族・職場に電子器機が介入して便利さが優先している。向き合う関係が薄れて、コミュニケーションが枯渇している。その回復の一端は語りかけである。イエスは、自分の受難と十字架という重大な内容を語りかけた。そして、新たな展開が始まるのである。状況の新展開よりも話しかけられた弟子たちの心の備えが整えられるのである。強制や圧迫に依らないで自らが向き合うためである。アドベントの時はこの姿勢に重なる。キリスト誕生への準備は、キリスト再臨へのこころ備えに重なる。周囲を見回して自分の姿勢を整えるのとは違うのだ。自らが神の前に出る準備であるから、「だれ」「かれ」に相談して準備するのではない。直前の「十人の乙女のたとえ」や「タラントンのたとえ」からも想定できる。神の前に「いのちを生きる」とはそういうことであろう。自分の決断が怪しい時、他と相談せざるを得ないのが時の宗教的政治的民の〈指導者たち〉であった。マタイ福音書は、その特色として、神の民を自称するユダヤ人を読者に想定して書いたと言われる。「過越祭」の時と関係させて書く。子羊の血が滅びを救ったあの出来事に思いを向けさせる。あの出来事の中に神の本質・愛を想う。同時に、神の子「イエスの受難物語」の中に私どもの救いを意図しているのを想う。神の愛に応える歩み方に、相談して決めることはない。 相談には、神への応答にもかかわらず、人の思いが優先するからだ。信仰を歩もう。

11月20日 命の道と死の道

エレミヤ書 20章1節〜14節 阪井牧師

 今日考える自由は「無条件の解放」であろう。だが、真のそれは、束縛(禁止)の中にあることを旧約聖書(創世記・エデンの園の物語)は語っていると受けとれよう。その時、そこには「いのちを生きる自由」が神に保証されていることになる。これを意識して、エレミヤ20章を読むなら、恵みのメッセージが聞ける。困難や不安と闘い、精一杯の努力を積んで人生の道を切り開く歩み、それはエルサレムを囲む外的圧力であった。ところが、崩壊の危機は外ではなく、内なる都の中心にあった。それは、イスラエルと神との関係を示している。今日の私どもの現実がそれに似ているといえないか。内にある関係は、人とのものではない。神との関係である。聖書はこれを「罪」と表現している。今日の私どもに何かが抜けているとしたら、この神との関係であろう。力による解決は一時的にすぎない。それ以上のものが襲いくるのが現実である。「イスラエルは敗れる」との預言を託されたエレミヤの心情は想像以上である。そこに南ユダの王ゼデキヤから遣わされた宗教的指導者は期待の言葉を求めてきた。心情的には期待に応えたい。神との関係をエレミヤは応えた。これが厳しいけれども、預言者の務めである。教会に導かれた私どもは、この世に向かって歩む時に、この神との関係を自分の基本とするように語り示す務めを受けていることを思う。 主が告げられた言葉を真剣に生きようとする姿を、日々の証しとするよう神が保証して期待しておられよう。

11月13日 主よ、いつ…?

マタイによる福音書 25章31節〜46節 阪井牧師

 この記事から「一杯のかけそば」の物語を想起した。母子3人が一杯のかけそばを食堂で分け合って食べた時、食堂の主人と女将の心遣いに感動した。「ごちそうさま」に「ありがとうございます。良いお年を!」が彼らの心の支え、励ましであったのだ。聖書は人の子(キリスト)の再臨の時の話しである。全ての天使を従え、栄光に輝いて座に着かれ、全ての国の民が集められて右と左に分けられる主の審判が行われる話である。右の者に「創造の時から用意されている国を受け継ぎなさい」と。だが、その理由に対して自分たちには覚えがない。だから「いつ…しました?」と尋ねた。その答えが「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私に…してくれたことなのである」と。左に分けられた人たちは「私たちはいつ…しなかった?」と。目の前の人がキリストであると分かったから何かをするのか?との問いがここにあるのを想う。「する」とか「しない」は人道的な事柄、つまり倫理の事柄ではない。世界創造の神が、世界の片隅にいるこの「最も小さい私」に「ひとり子のいのち」をもって手を差し出してくださった、そのことを喜び受け取る信仰にある限り、私のすぐ近くにいる「一人のその人」に自分のこととして仕えることができるのだと語られているようだ。いや、せざるを得ない。母がこの痛みや苦しみを代わりたく願うように、キリストに仕えることができるのだ、と語られているのではないか。 主の十字架の物語への枕となる譬えである。

11月6日 神の国の近さ

エレミヤ書 20章1節〜18節 阪井牧師

 楽しく満たされ、安定した生活のただ中で、神の審きの言葉を語る預言者エレミヤは受け容れられないだけでなく、人々の非難に襲われる。宗教指導者や権力者たちは、更なる弾劾によって、エレミヤの存在を脅かそうと相談をし、迫害される状態が起きている。思い起こせば、自分から願ってこの務め(使命)を負ったわけではない。むしろ、願い下げをしたのに、神がエレミヤを召し遣わした。そして、遣わされたところで起きているこの現実の厳しさは、どんなに辛い、苦しいことだったろう。そこで、「主の名を口にすまい」、「もう主の名によって語るまい」と心に決めたところ、どうしたことか、主の言葉が自分の内で燃え上がり、押さえつけるのに疲れ果てるのだ。苦しくて身が持たない。そこで聖書は、「しかし」と新しい展開を示している。それは、「主はわたしと共にいます」である。だから、「主に向かって歌い、主を讃美せよ」との言葉にエレミヤの姿勢が変えられている。遠いところにおられるとした神が、自分と共におられる。近い所におられるとの確信は、人の限界を超える世界に立つ者となっている。あの会堂長ヤイロが娘の病の癒しを主イエスに求める記事(マルコ5:21以下)で、会堂長の家に着いた時イエスに向かって「人々はあざ笑った」。人の限界を超え、命の主として立っておられるのに人々は受け容れなかった。主イエスを押しやっている。 神の国が近いのだ。信仰に生きる人の厳しさと同時に喜びを、互いに確信したい。

10月30日 キリストの体である教会において

コロサイの信徒への手紙 1章17節〜2
   『講壇交換』佐藤洋晴先(横浜教会)

 都合により聖書本文を紹介
キリストの体である教会の中で、私たちはどのように歩めばいいのか。 多くの人は、教会のイメージに十字架のたついた建物を思うが、外枠だけで教会とはいえない。 重要なのは、そこにいる人々、行われている事により、「教会が教会となる」のだ。 教会の中身は、「御子はその体である教会の頭」であり、「すべてのものよりも先に存在」し、創造の業に関与し、全てを支配し、「すべてを支えて」いることである。神は御子・主イエスの十字架の血により、人間を闇から救い出し、御自分と和解させてくださった。体は、当時一般的には宇宙を指したが、聖書では主イエスを信じる教会共同体を指していた。教会と訳されている語は、エクレシア(呼び集められた者)という言葉であり、教会は神によって呼び集められて創られ、主イエスによる主イエスの為に存在するものである。そして、キリストの体に属する私たちは、パウロに倣い、み言葉を伝える務めに日々目を向ける事、教会に仕えることである。しかし、教会は神が常に教師なので、自分の力でなくキリストの力により戦うのだ。また、そこには、様々な霊的賜物を与えられた人たちも集められている。皆が同じになる必要はなく、互いがその賜物を活かす時に、教会はその役割・才能を果たすことになる。大切なのは、真の礼拝がささげられる時、各々が自分の賜物を知り、活かし、救いの恵みに満たされ、主イエスの支えのもとで、教会は力強く歩んでいくことである。 (まとめ:河原さん、一部改変阪井)

10月23日 信頼に応える人

マタイによる福音書 25章14節〜30節 阪井牧師

 バプテスマのヨハネが捕らえられたのを機にイエスは、ガリラヤを中心に活動を始めた。地上最後の場所はエルサレムであり、十字架の死直前にこのタラントンの譬えを話された。つまり己の死を意識しての話である。前後の関係では、再臨の時に関する弟子たちの問いに答えたものである。譬えは、その話だけを取り上げると誤解する。自分の理解や納得を前提とするよりも、伝えられるべき内容に対する信仰の応答が求められる。主人が自分の財産を僕(私ども)に託すのは、異常と受け取れる。しかも僕は、「力に応じて」預けられる。隣と較べる時、明らかな違いがあるにも拘わらず、こにに神の平等を見る。ここにある課題は、力は互いに違いがあっても、預けられた財産を用いた結果を、主は褒め喜ばれたのだ。力以上を求められていない。信頼に応えていることが重要である。僕は、主人に身も心も用いられる存在だから当然の求めである。世界の創造主である主人が、信頼して貴重な財産を預けた。おごってはならない、軽んじてはならないのだ。改めて問われるのは、僕(現在の私ども)にとっての身も心も仕えるべき主人とは誰なのか?自分の主張が主人の求めよりも先になるなら、第3の僕にたとえられよう。タラントン(才能)は、主の求め(信頼)に応える事ができる保証を主が持っておられる。十字架の背後には、神の愛があるように、 自分のためでなく他者のためにその力を用いることの求めがあることを喜び仕える僕でありたい。

10月16日 柔らか粘土と固い壺

エレミヤ書 19章1節〜15節 阪井牧師

 1字あけて本文。そこに起きている事柄をよりよく理解するために必要な情報の一つが時代背景であろう。北イスラエル王国が滅んで(BC722)、およそ80年を経過した南ユダ王国の状況の預言がここにある。当時、いくらか安定した上層社会の人たちには、神殿を中心にしたエルサレムの繁栄が終わるとのエレミヤの預言は決して快くはなかったであろうと想像できる。聞く者の「耳鳴りがする」のは、彼らが「わたし」神を捨てたからだとある。それを示す象徴的行為が、固い壺を町のゴミ捨て場で砕くことであった。エレミヤは民の長老や長老格の祭司たちにその一切を見せ、告げた言葉が、「わたしが命じもしない、語りもしない、心に思いもしなかった」ことをした頑なさを糾弾するものだった。神の求めではないことを、神の名によってしたとの告発である。初めから、神を捨てるつもりである筈はない。ここに、人間の愚かさと判断の限界がある。創世記のエデンの園の物語(3章)を想起する。神が禁じたことを、「食べるによく、目に美しく、賢くなるに好ましい」と人は判断したのだ。神の民は、神の祝福に相応しく、努力をして異教の神を礼拝したのだ。今日の私どもにも警告となる。所詮、自分の努力が神に相応しくなれるわけではない。イエス・キリストにあってこそである。固い陶器はやがて砕かれねばならない。そして、新しい創造が始まる。陶工のてにある柔らか粘土であり続けたい。 主イエスを通して作り直された器として用いられる存在でありたい。

10月9日 心の目覚めを!

マタイによる福音書 25章1節〜13節 阪井牧師

 「その時」が分からないで「待つ」ことの難しさが譬えで話された。その時とは、再び主イエスが来られる時である。主イエスが十字架に向かうその直前に婚宴の話をされている。さらに、ユダヤ的色彩の濃いマタイ福音書だけの記事であることも心に留めておきたい。花嫁に代わって花婿を迎える務めを受けた乙女たち(10人)は到着を待った。初めは着飾りランプを用意して、場は盛り上がり、笑いやざわめきの溢れていた。しかし、待つうちに寝込んだ、とある。その寝込むことに「愚か」と「賢い」の区別はない。花婿(主イエスの再臨)が到着することは確かであるが、その時が分からない。そこで、賢い乙女たちは、予備の油という備えをしていた。愚かな乙女たちは、それがない。思いがけない時に花婿が来たけれど、予備の油を用意していない者は。用意している者に分け与えられることを求めた。得られないので買い求めに出かけている時に入り口が閉じられて婚宴の席にでられない。ここに信仰の真実がある。神の前に出るのには、その本人が備えをしていることを知る。親・子・兄弟・肉親・友・…などの人の繋がりが神の救いに有効なのではない。バプテストの信仰が幼児対応に特別であるかのように考えるのはどうか。優しさや、配慮をもって本人への信仰に口出しする誤りを確認したい。 「目を覚ます」は身体的(人間的・感覚的)ではなく神に向かって生きることを意味しているであろう。神の御子の命に生きる者でありたい。

10月2日 やわらかい心を

エレミヤ書 16章1節〜23節 阪井牧師

 話芸に「間」の訓練がある。聞き手に緊張を与え、息抜きをさせる。いずれにしても関心を話者に向けさせるために磨く。信仰者にも必要なものかを話し合ってみたい。「証し」に、「説教」に……。預言者エレミヤはどうだったろうかを想う。主はエレミヤを陶工のところに行かせて、そこで主の言葉を聞かせた。エレミヤにその実体験をもって民に話させる記事から想う。預言者が語る言葉には、神による実体験という現場を持っている。つまり、頭の中で考えた結論を語っているのではない。それは、具体的な生活という現実を生きていることに通じる。具体的な生活が、神の目に映っていることでもある。その意味で神の目は恐ろしいと思う。見えていないと想像しているのは、生活の現実にいる自分である。事実と違うことに気づかない自分である。それを自立というなら、滅びに至るものとなる。改めて思う。真の自立は、神との関係の中にある、ということを。「やわらかさ」は、この関係に意味をもつ。イスラエルの陥っている誤りを通して学ぶことは、神との関係・神のみこころから離れないこと・「神の声」に従うことである。与えられている「いのち」を全うすることの奥義とも言える。「あなたの道と行いとを正せ!」の言葉を聞くには、「やわらかい心」が必要である。預言者の語るところに、「間」はどんな意味をもつだろう。 信仰は、自分の存在を相手である主に委ねることだ。主が自ら痛みながら引き受けてくださることに委ねよう。

9月25日 僕(しもべ)のたとえ

マタイによる福音書 24章45節〜51節 阪井牧師

 「忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか(45節)」の問いに弟子たちは迫られる。この問いは筆者が所属する教団の直面している課題でもあろう。又同時に、現代の私たちの教会への問いでもある。これは、家の主人から一切の営みを託された使用人たちとその上に立てられてた僕のたとえである。僕は自分で希望したり、また努力してその地位を獲得したのではない。仕えることがその務めとして主人が立てた。主人は家と使用人たちとを託して出かけた。僕は他者に仕え、他者を生かす忠実さが求められる。また、「賢い」を口語訳では、「思慮深い」とあった。これは、感情や自分の都合よりも主人の求めを優先させる人の意味と受け取る。確実なことは、主人は帰ってくるのだが、その「時」が読めないのだ。神の時を、人間の時に置き換えたい衝動を覚え、自分を保つ時を予測するが、それは間違いである。主イエスが「あなたがた偽善者は、不幸である」と糾弾されたのを想起する。主イエスの律法学者たちへ、ファリサイ派の人たちへの批判はそこにある。彼らの律法への懸命さは、誰よりも熱心であるが、その心は神から遠いことを見抜かれている。神の計画である時を自分の計画の中に取り込んでしまう誤りがこの話だ。それは、単純に批判だけではない。神の時に備える期待が懸かっていること、そして期待に応える力が与えられることの約束でもある。 「忠実も賢いもその本人の外からのものと語る。託された僕の務めに徹したい。

9月18日 生ける水の源

エレミヤ書 17章1節〜27節 阪井牧師

 「灯りの譬(マタイ5:14、マルコ4:22、ルカ8:17)」を想起させる発電企業と行政の関係が報道されていた。感情を逆なでする内容である。他人事なら一つの報道で済む。個人の支払との関係を思うと、他人事でない内容となる。エレミヤの預言活動で南ユダ王国の将来を語るエレミヤの苦痛はどんなに深いことであったろう。その罪が子孫の「心の板」に刻み込まれるとは、深くて消し去ることができないことを示す。「石の坂」は生活の規範となる十戒を想起する。パウロは、「あなたがたは、キリストが神の霊によって心の板に書き付けられた手紙(IIコリント3:3)です」と教会の人々に書き送った手紙で述べている。信仰生活の基本であり、内面の拠り所でもある。ユダの人々の罪がそれほど深いものだと言う。その背景にはヨシヤの宗教改革がある。集団が個人の枠組みとなる時代に個人の信仰による決断が語られているのを見る。南ユダ王国滅亡の歴史の直前であったことに驚く。つまり、神の前に立つ一人の民として罪が糾弾されているのだ。同じくパウロはローマ書の7:24章で「意志が望むことをしない自分の惨めさ」を告白している。これが人の現実、罪の姿だとしたら、神の救いはどうなのかを自問しながら預言を語るエレミヤを見る。だれが神の祝福を得られるのか。神に信頼に自らを託すことではないか。すぐ傍らに「いのちの源」なる恵みの水がある。 決して自分で水を掘り当てることではない。既に与えられている水が飲める恵みを大切にしたい。

9月11日 思いがけない時

マタイによる福音書 24章32節〜44節 阪井牧師

 「いちじく」は、生活身近な果樹であり、その採り入れも楽しみであった。短い春に芽吹き果実を大きくする。それに次いで、葉の成長との順が「いちじく」の特徴だ。これは、神の祝福の象徴として人々は見なした。主イエスは、そのことを知って話をしておられる。その木の小さな変化にも、神の民はみ心の働きを見るようで喜びでもある。神の支配(=神の国)を待つのに似ている。だから、人は「神の時」に敏感にならざるを得ない。不思議ではない。神の言葉は、その「時」を支配していることを思う。創世記の1章やヨハネ福音書の1章にある言葉を想起する。「初めに言葉があった」のだ。人はその神の時を認識できないために慌てることになる。ノアの洪水物語(創世記6章以下)のノアと民との差異は、言葉に従うかどうかであった。自分の時で神の時を測るのは、人が神を動かすような愚に等しい。神の時は、人間にとって「意外」であり「突然」となって、日常を混乱させる迷惑と評するしかない「思いがけない時」である。ノアは、その時に備えて造船を励んだ。が、人々はそれを奇異で愚かしい作業と見て笑った。一人作業には大き過ぎる船の建造であった。しかし、神の時は来た。それは、ノアにとって期待そのものであり、どんなに大きい喜びであっかを想う。「神の言葉に聞く生き方」を選ぶのか、いつ来るのか分からないことを嘲笑い、「心の中に不安を抱きつつ平静を装う生き方」を選ぶのかを問う記事である。 思いがけない時に備える者でありたい。

9月4日 私の名は「主」

エレミヤ書 16章1節〜21節 阪井牧師

 わずか故郷から5〜6km離れたエルサレムで預言者として働くことは想像以上に厳しい。主イエスの言葉「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」を想起する。故郷の人々に、自分の命を狙らい、預言活動をするなと要求されていると知らされたのだ。しかもエレミヤは、自分を召し遣わす主が、この窮状に無関心だと受け取った言葉を発している。だから、神に仕えながら自分の誕生を憂い嘆くのだ。その預言者になお告げさせる言葉がここにある。神の裁き・即ち滅びを覚えて、楽しい家庭生活や他者への心配り、楽しみ悲しみなどを共有するな、と。しかも、民が「何故、脅かすのか?」と問うなら、「あなたがたの先祖が私を捨てた、それ以上にあなたがたは重い悪を行ったからだ」と告げるように示された。それは「心頑な」とある。自分の思いを主張することであった。神を「ないがしろ」にすることに通じている。神に仕えていても、自分を中心にした神礼拝であって、神に示されたもの以上であった。主イエスとファリサイ派の人たちや律法学者たちが対立したのはそこである。よく整った儀式、熱心な礼拝であっても、努力の積み重ねや精神的訓練に陥っていることがある。神の求めは「打ち砕かれ悔いる心(詩編51:11)」である。裁きの神が、今やイエス・キリストにおいてその頑なである人を救われるのだ。 ガリラヤ湖で弟子を召された時の「人間をとる漁師にする」との言葉はこの16節に源があることを深く受け止めたい。

8月28日 ラッパの音

マタイによる福音書 24章29節〜31節 阪井牧師

 関係者の間では、その意味することは理解できるが、言葉でそれを説明することができない合図表現を「ラッパの音」としている。預言者の孤独極まる姿を想う。同胞の民と享楽を共にすることだけが、預言者の生き方ではない。そこで、孤独を忍耐する力を神の言葉に渇き求める。神の言葉はそこに見い出されるのである。人と共に過ごす所にではない。み言葉を「むさぼり食べた」とある。自分への言葉として受け取る。どうしてその言葉を談笑の中で軽々しく語れるだろう。神の願いと求めは、神の民である彼らに、み言葉に向かうべきを伝え知らすことであった。人と共に円満にあることは願わしい。でも、神の召しに仕える者・預言者の使命は、彼らが「主の憐れみに立ち帰ること」への奉仕である。どれほど高らかに響くラッパの音も、空しい響きでしかないのは悲しく、心を注いだ語りかけの届かないことの苦しさ辛さを想う。その日には、「主が再び来られる」とのメッセージが空しく響くことがあってはならない。全ての人が、「死と甦りのいのち」によって約束に生きるよう求められる。ヨハネ3:16以下の真実を想起する。神が救いを選ばれるのではない。イエス・キリストを信じる者であるか、そうでないかが明らかになる時である。改めて検証したい。我が歩みは、主に結ばれた歩みであるか。そこから、厳しさの中にも信じる者には期待と喜びの時が来る。 人がそこに至るのではなく、「主が来られる」とのメッセージを受け取ろう。

8月21日 み言葉を食べた人

エレミヤ書 15章1節〜21節 阪井牧師

 <3才7ヶ月の里子の死>報道は衝撃である。里親、実親の葛藤よりも、子ども本人の<こころ>はどうかを想像し、神とイスラエルの民、神の言葉に仕える預言者の関係を考えた。大人には「わがまま」でも、本人には「必死の対応」だったかも、と。イスラエルの民が故意に神に逆らうはずはない。だが、神はこの民を顧みないから、執り成すことをするなと命じた。神の憐れみを意識できなかったからだろうか。目前の事柄の対応に心が占められる現実は、私どもの日常でもある。神の憐れみは、私どもの努力が奏功すのではないことを学ぶ。神のみ腕の働きを意識できないなら、自らが対処するしかない。それは、神から距離を作り離れることである。預言者エレミヤは、同胞への神の審きを告げるも、滅びからの救いを願って止まない。しかし、民らは自分たちの不本意を告げる預言者に聞かないだけでなく、呪う。そのために、預言者の孤独は極まる。民らと共に過ごすのは、預言者の生き方ではない。そこで、孤独を忍耐する力を神の言葉に求めている。み言葉が見いだされるのは、人と共に楽しんだり談笑する所ではない。しかも、その言葉を「むさぼり食べた」とある。自分への言葉として受け取るのだ。その言葉をどうして軽々しく語るだろうか。神の願いと求めは、民らが神の言葉に向かうべきを知らされる。人と円満にあることは願わしい。 だが、神の召しに仕える者は、人が神の憐れみに立ち帰ることへの奉仕であることを示される。

8月14日 主の警告

マタイによる福音書 24章15節〜28節 和泉 富夫先生

 8/15は1931年から1945年までを一括り(15年戦争)の最後の日・記念日である。国家権力で心や精神にまで支配を及ぼそうとした日本の過去にこの日、心を留めたい。ユダヤの民は、自ら神との関係に生き方を求めるのは「神の民イスラエル」となるためであった。「献げもの」の意味である。これには詳細な約束事の解釈が必要であり、律法学者たちがその任を負った。相応しくない者とされた人は罪に汚れた存在であり、人々との生活に受け容れられず、交わりから疎外された。この人たちが神に受け容れられるとイエスは福音を語った。当然、秩序を混乱させるイエスへの抵抗は激しい。祭司やファリサイ派の人たちが存在を賭けて全力抵抗(イエスの十字架)の闘いを行った理由である。十字架直前のイエスの言葉がここにある。マタイ福音書は、とりわけユダヤの歴史(ダニエル預言)を関連させてイエスの警告を記述した。それは、神が示される救いの期待を強く意識するからだ。被害は免れなくても、なお神に対して生きる希望と力を与えることを願っていると受け取れる。その際、元気一杯の若者よりも、高齢者や幼子が他に自分の存在を委ねて懸命に生きようとする姿に励まし支えられるのに似ている。あの震災でも、自力でその場を凌ぐ人よりも、他に助けられ、励まされて前進の力と希望を得る人の方が他者を励ますことになっているのに似る。 困難がどのように大きくても、神に一切を委ねて歩む人になれとの励ましと警告を受ける。

8月7日 マタイの自分史

マタイによる福音書 9章9節〜13節 和泉 富夫先生

 『意欲のある者は来たれ、過去は問わない!』との雇用案内の張り紙があったのを記憶している。 主イエスに召されたマタイは、この言葉を生きた人と想う。当時のユダヤの人々にとって、徴税人は罪人と同様に見なした。 そうであってもマタイは、そこに生きるしかなかった人である。ルカ福音書は、レビと名を変えて主に従ったと記している。しかし、マタイ福音書にはマタイの名をそのまま遣い続けている。その理由は、自分が「いつ」「どんなところから」救い出されたかを覚え、そこに自分の生きる力を得たからであろう。自分の過去に言及されるのには、辛くても耐えることができる。しかし、自分に覚えのないものを責められるのには耐えられないし、壊れ易いものだ。マタイ自身には徴税人としての不正をした自覚はないから、「もし、不正をしていたら…」との言葉を発しているのだ。謂われのない「罪人呼ばわり」からの救出はどうであったか。主イエスからの声かけが他の人よりも得難いチャンスであったのだ。マタイにとっては、この方と一緒に生きる他はなかった。たとえば、ペトロには漁があり、トマスには学問がある。でも、マタイには帰って行く所があっただろうか。他の福音書では、レビの名で徴税人マタイの名を薄めようとしたかも知れない。しかし、マタイはその名を名乗り続け、自分の過去の事実を覚え続けるのである。 自覚があるなしに関わらず、すべての人が救いに与れることを語っている。

7月31日 結実を期待して

エレミヤ書 14章1節〜22節 阪井牧師

 聖書の信仰によると、結婚は神を証人としてその生涯を共に歩む約束をすることであることから、結婚式は礼拝となる。神なしに<式>がなされるとき、本来の意味が失われ、焦点が人間になる。エレミヤ24章に示される預言内容は、それに似ている。このような有り様を旧約聖書は<姦淫>との言葉で表現している。夫である神、妻である神の民(イスラエル)との正しい関係が壊れていることを示す言葉である。ユダヤの律法では、姦淫は死に価する罪としている。ダビデの場合(サムエル記下12章参照)やイエス誕生の時のヨセフとマリヤの場合(マタイ1:19)を想起する。聖約として結婚式に象徴されている背景がある。エレミヤは、失われた神との関係に陥っている神の民に、神の裁きを伝えるよう遣わされた。干ばつはその結果であると。預言者の辛さは、使命が自分の思いと関係なく、また聞く者の心情とも関係なく語ることである。壮でなければ、神に遣わされない、また神の言葉も持たないで、しかも神の名を用いて語る者・偽預言者となることが記されている。今日の教会が負う使命は、聞き心地の良い言葉ではない。主イエスがあなたのために十字架に死ぬことによって、あなたの負うべき罪が贖われていることだけである。預言者が託された神の意志に、全存在をかけて仕えたように、私たちは遣わされるのだ。 真実の良い実を結ぶために用いられることを喜び受け止めたい。この非力な私を神が期待して使わすのだから。

7月24日 いつ? を問う

マタイによる福音書 24章1節〜14節 阪井牧師

 震災経験を聞いた。地震と津波でライフラインが止まった。その三日後に屋外で礼拝をし、互いに確認したことは、人の手になるモノは失われるが、失われないモノ、神と関われること、即ち礼拝が出来ることだ、と。喜び感謝したそうだ。エルサレムの神殿は、ユダヤの人々に永遠に存在すると思える堅固と壮麗さを誇っていた。だが、弟子たちには、主イエスの言葉{崩れる」が「世の終わり」と関係すると受け取れる状況に思えたであろう。そこで、「いつ?」とその「兆し」を尋ねているかも知れない。しかし、「終わる」は〈成就する〉の意味を持つ言葉でもある。ある事柄の途中で諦める「終わり」ではなく、神のご計画が実現する、完成する、つまり、滅びではなく〈救いの時〉が始まることへの問いとなる。しかし、その時は「誰も知らない。ただ、父だけがご存じである(36節)」との言葉を想起する。救いの日を求めて競い争う日々がある。しかし、それは産みの苦しみの始まりであって世の終わりではない、と。その世に身を置いて真実を貫くことへと遣わされているのが、教会の務め、主の弟子たちの使命であることを語られている。世の苦しみ争うその現実の中に福音を伝えるということは、スピーカーであらぬ方向へ大声を張り上げる簡単なことではない。神との関わりの愛に冷め、自分の事に懸命となっている人々にじわっと包み込む愛、温めていく愛を生活の中でもたらす産みの苦しみに耐えることができる。 それは、人の限界を超えているが。

7月17日 帯と甕のたとえ

エレミヤ書 13章1節〜27節 阪井牧師

 新共同訳『…愛は、すべてを完成させる<きずな>である(コロサイ3:13)』は、口語訳では『…愛は、すべてを完全に結ぶ帯である』となっている。心に残る言葉である。身繕いに不可欠の働きをする。身(神の腰、神の言葉)に付けられない(従わない)と、どんなに立派な材質(務め)であったとしてもその役目(神の栄光と権威に仕える)は意味をなさない。主に召された神の民をたとえている。神の言葉よりも自分の心や思いが優先する生活への批判は、今日の教会に繋がる私どもに警告となる。信仰の熱心や表面の熱さより、「しかし、私の願いどおりではなく、み心のままに(ルカゲッセマネの祈り)」が必要であるとの声を聞く思いがする。次は、甕に満たしたぶどう酒に酔う話。豊かさが自制する力を失せさせ、心をすさませる譬えと受け取る。神の心から離れて自分を誉れとするなら、神の平和であるはずのモノが「産みの苦しみ」や「滅びや捕囚」に変わることを警告している。神の前に「生きる」恵みに気づくことを促されている。「どうして…」と問いたくなる現実を負う神の民イスラエルへのエレミヤ預言には、神にあるべき権威と栄光の前に、「新しく生きる在り方」への促しがあると受け取れる。神は滅亡に至らせないために忍耐しておられる。それは、本来の〈神の民〉への悔い改めを期待されるからであって、神の慈愛や寛容の豊かさに溺れるなとのメッセージと受け取る。 改めて、神の民に託されている使命(務め)に仕える力を〈み言葉〉から得たく願う。

7月10日 ナタナエルは、まことのイスラエル人
       ―フィリポとナタナエル、弟子となる―

ヨハネによる福音書1章43〜51節より
説教者 和泉富夫先生

 都合により、今回の【講壇】は聖句だけをご紹介します。
  その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、 神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

7月3日 知られたる我

エレミヤ書 12章1節〜17章2節 阪井牧師

 内なる思いと異なる内容を口に表すのが偽善だ。主イエスがユダヤ教の中心にいる律法学者やファリサイ派の人たちに対して厳しく糾弾したのはそれであった。それより約600年前、すでにエレミヤは、ユダの人、エルサレムの住民に「契約の言葉を聞け。」と預言した。神の約束と生活の現実が異なると神が指摘したのだ。とりわけ、故郷の人や同族への糾弾にエレミヤは、主の裁きに異論を唱えて心を痛める。神は正しい方であるが、口先と腹とがかけ離れている人が安穏に生活しているのは「なぜ」か、と問う。遣わされる自分は、弱く脆い。「共にいる」との約束を目に見える現実にして欲しいと歌えている。汗を流し、手に豆を作り働く貧しい者が報いられないでいるからだ。主は意外なことを語っている。神に仕えるとは、自分の力量の範囲に限定されない、との内容だ。持てる力一杯の努力が福音宣教の結果であるか、との問いに聞こえてくる。経験、知識、知恵が福音を支配するかのように聞こえる。強い決意や困難に耐える意志だけではない。神に召された者としての学びと鍛錬がそこにあると受け取れないかを思う。神は見える部分だけで、この私どもを知っておられるのではないのだ。その限界と悲鳴を挙げる中で、なお「主は生きておられる」、「主は正義を貫かれる」との生活、ここに信仰の力が現れるのだ。自分だけの力だけでない。十字架の力を信じよう。

6月26日 イエスの嘆き

マタイによる福音書 23章37節〜24章2節 阪井牧師

 ベテランが初心者を指導する。言葉での説明は当然であろう。しかし、黙ってそのなす所作を見つめ待つ、というのもある。律法学者やファリサイ派の人たちへの非難に続いて、エルサレム(政治と宗教の中心地)への非難が主イエスから語られる。神に最も近くあって、何度も預言者を通して働きかけられたのに、それを拒むことが神への従順とすることに対して、働きかけがこの上なく空しいものとなっているとの嘆きの響きを感じる。その記事から、時空を越えて私どもは何を聞き取ることが出来るか。新しいイスラエル、霊と信仰の神の民として世に仕え、神の使命を果たすことへの勧めを受けとることができる。その故にこそ、神のひとり子・主イエスは十字架への歩みをされた。この事実に自らが向かい合うことを求められている、と思う。神は正義を貫かれる方であり、「罪」を徹底して裁かれる方である。「罪人」を裁くのではない。罪人は救われなければならないのだ。罪人は神によって生き、生かされる真実を歩むべきことが神の求められる正義である。神に応えない故の裁きではなく、親鳥がその子を羽のhした下に集めるのは、自分のためではない。神が働きかけられたのはの愛であった。そこから嘆きが聞こえている。罪の告白と赦しによる新しい歩みへ人が向かい得るのは、主がその責を引き受けた十字架にある。翼の恵みを受ける人になろう。

6月19日 契約の言葉を聞け

エレミヤ書  11章1節〜23節 阪井牧師

 旧約聖書のキーワードの一つに<契約>がある。遊牧の民は、これが民族の存続に深く関係しているという。従って、契約は<いのち>にかかわる約束事である。もし、それに反することがあれば、命を差し出してその責任を負うのだ。神と民との契約はシナイの山でモーセを通じて示された十戒が中心となっている。これは、神から与えられた恵みである。祝福は、<いのち>に至るものであり、呪いは、<死>にいたる。そこで主なる神は、エレミヤ預言者を通して「契約の言葉を聞け!」と命じられた。さもなければ、民の祝福が呪いに変わる。つまり、民の死が避けられないのだ。契約の言葉は、取捨選択や自分の都合の優先をゆるさない。<いのち>がけで従うしかない。信仰は神との契約である。神に従い歩む者には、自分との闘いとなる。ここに自分の命の根拠があり、威厳があり誇りがある。イスラエルはそのために40年の荒野の生活をした。エジプトの生活(430年)で身に染みついた余計なモノ(エジプト信仰)をそぎ落とすに必要であったのだろう。イエス・キリストによる信仰を生きるには、世の知恵・常識・学識経験に譲ってはならないところがある。「あなたは我が民、わたしはあなたの神」の福音・結ばれた契約が、私の生きる<よすが>であることを大切にしたい。 世は主を十字架に付けた。私はその十字架に救われているのだから。

6月12日 ふりかかる結果

マタイによる福音書 23章25節〜36節 阪井牧師

 律法はユダヤで生活の土台であった。時代の流れは、生活を変え、律法との関係に解決が必要となった。導きを受ける民衆は専門家に尊敬と権威を仰いだ。イエスは、律法の解き明かしを聞くことは勧めるが、彼らの行いには「倣うな」と。律法を拒否するのではない。「幸い」は祝福であり、生きることに繋がるが、「不幸」は逆である。民衆の生活に指導的存在である人々に対して、主イエスは「偽善者」「不幸だ」と繰り返している。他の福音書と異なる場面、十字架の直前の時である。今日の私どもには、その言葉は不要なのか、聞こえないのかと問う人がいる。神に最も近くいると周囲が認めていても、主イエスの言葉は鋭く迫っている。外側と内側が一致しない(偽善)ことに悲しみと嘆きを込めて言葉を繰り返されているのだ。杯・皿・墓・律法・……教会・礼拝と続いているように受け取れる。見えることに真実を見いだそうとしてきた人の歴史が今問われる現実である。その象徴が原子力発電所から空中に発散している放射線と呼ばれる見えない物質であろう。直接、自分が手を下していなくても、そこから享受することも結果を引き受けることになっている。十字架の出来事の中にその救いがあることが主イエスの言葉に溢れている。 これを読み取る信仰生活に送り出されたい。神の御手の中に置いて用いて下さる「幸い」を喜び信頼する者でありたい。

6月5日 御名にある力

エレミヤ書10:1〜25 10章1節〜25節 阪井牧師

 創世記の世界創造物語に「混沌」がある。そこに神の言葉「光あれ」があった。そしてそのようになった。ここに「神の秩序」を想った。神の言葉が行き届かなければ、人の知恵を拠り所とするしかない。人の存在が神の言葉に根拠を持つなら、このいのちは、自分の思いのままにしてはならないことになる。その意味では、人は生きなければならない。そこで、かつても、今日も、重要な課題は「人が生きる」ことである。「生きる」や「存在する」は、モノが過剰な環境では考えることが希薄になり、むしろ、貧しさの中で他者の心配りや行為を純粋に喜べる、と長い人生経験から語る人がいる。エレミヤの預言から学ぶのは、先の神による世界創造のように主の言葉が、現実を変えのである。地方祭司の子であったエレミヤが、異教的要素を地方から排除する改革に賛同したために身に危険を覚えたであろう。それでも、神の言葉に従うことが「神の民」としての存在の根拠であると語り続けている。世の常識、知恵、経験では受け容れ難い言葉である。神の前に立つことが存在の根拠であるのは、今日の私共にも同じである。神の創造の業は人間の理屈や論理でなく、信仰として受け取るのだ。人が過去現在格闘する課題である。 目の前の知恵よりも神の言葉(わたしが共にいる)に自分の存在根拠が認める信仰、ここに神の名がある。出エジプト記3章を想起して歩みたいと願う。

5月29日 幸いな人・不幸な人

マタイによる福音書 23章13節〜24節 阪井牧師

 他人事なら笑っておれれた。自分のことになって深刻となった。ここに登場する律法学者たち・ファリサイ派の人々がそうである。神のみこころに応えることが使命であり、そのための(しるし)である律法に人一倍詳しい彼らが、批判の対象となっている。福音宣教の始めの山上の説教で「幸いである」と語られたイエスが、律法に最も近い人々に向けて十字架の直前で「わざわいである」と語らなければならない現実を想う。祝福は希望といのちを与えるが、わざわいは死に繋がる。イザヤ書「あなたがたは見ても見えない。聞いても聞こえない(6:9)」を想起する。もちろん、身体の不自由ではなく、父なる神への信仰・魂・こころの状態を示している。これを偽善と言われ、自覚が無いことを嘆き批判をされる。なぜ、こんな事が起きたのか。神殿よりも飾り物や供え物がより大切と言うか。それは、彼らの熱心や情熱がそうさせている。神の前に出ようとする人を遮りや妨げになっている、と。教会が伝道をするとか、しないとかではなく、神の前に出て、その支配の下に立とうとする人を神から遠ざけることがおきているのだ。何よりも大事なのは、ひたすら神に顔を向けて「聞く」、主イエスを「見る」ことを示しておられる。 その時、第2の、つまり人間が手や顔を差し挟まない。自らが懸命に神に顔を向け、主イエスにおいて示されることを見続けることである。幸いな人よ!

5月22日 言わずにおれない

マタイによる福音書 9章1節〜25節 阪井牧師

 愛の反語は、無関心と言われる。黙って見過ごしてもよいのに声をかけてしまうため、お節介とも言われる。神が人に向かい関わりを求める一つの方策は、預言者を遣わすことだ。放置すれば命が危険となると承知している神は、逆らう者になぜ手を出すのか。ここに愛があり、憐れみがある。「荒野で〜宿を見いだせるなら…」とその先を見越した現実を語らせる。人の思いに任せるとどんな歩みになるか、偽りが満ちて、悪から悪に進むと語る。これは、神を知ることから離れていることにその端を発していると。ありのままの姿を知らしめるため、神は裁きを通して覚醒を求める。愛を生きるには激しい消耗を覚悟する必要がある。預言者を遣わすには、その覚悟あってのこと。イエス・キリストの十字架はその極みである。人生の道を外れる我が子を黙って見過ごす親はいない。神のいのちから外れて歩む者に関係を正しく回復するよう求める憐れみを意識してこの説教題に付けた。神の恵みを受けたことを心底から自覚するなら、自分の親しい関係する者に「いのちの言葉」を声かけないではおられない。神が私どもにそのひとり子において関わりを持って下さった。この恵みと憐れみの期待に応える者でありたい。 ここに私どもの使命・努めがある。自分の生活に精一杯だから放置して、なすに任せて良い筈はない。救いの喜びを伝える使者として務めを果たしたい。

5月15日 仕える者になれ

マタイによる福音書 23章1節〜12節 阪井牧師

 本気に二つのことを同時に取り組むことは出来ない。「だれも、二人の主人に仕えることは出来ない。…」との山上の説教(マタイ6:24)を想起する。ここに、主イエスが律法学者やファリサイ派の人々への批判をされる理由がそこにもあることを想う。他の福音書はもっと簡略に扱う記事を、マタイ福音書は多くの文字を費やす。特別な思いが強く働いているのだろう。簡略化や合理化にある課題を想う。話し相手は群衆と弟子たちで、律法遵守から遠く非難対象の人たちと異なる一般人である。イスラエルという神の民には律法が与えられ、従うのが当然であるのに、彼らほど熱心でなく、また遵法できない人たちである。律法の説明や教えは彼らに負うべきだが、行いにはその内容が欠けている、との非難が主イエスからなされている。つまり、神に向かうべき律法の持つ志向性が、ひたすら人間に向かっていることにある。神に向かうなら、その報告に自分も顔を向ける。ところが、人に向かうなら自分のところに向かうよう教え導くことになる。当然、その内容が質を変える。律法主義はそこに生まれる。「彼らの行いに倣うな!」はそこに理由を見る。多くを学び知る者は、後に続く人々が自ら決断して喜び歩むことへの先導者、仕える者であるようにと勧められている。 そこに誇りと大胆な信仰者の姿が現れるに違いない。信仰の連鎖を、ダイナミックさを求めよう。

5月8日 生きる使命と目的

エレミヤ書 8章1節〜23節 阪井牧師

 本来居るべき筈の場所から余りに遠く離れてしまい、その現実を自覚できずに苦しみ藻掻くイスラエルの姿を想像する。まさしく「迷える羊」である。それは神の民の姿ではない。「生きるよりは死ぬことが望ましいとの嘆き」が聞こえるとエレミヤは神の預言を告げる。気仙沼から峠を海沿いに一つ越えた陸前高田市街地の惨状を想起する。徹底した打撃は、再起の気力も失せさせる。存在の根拠を失うことに通じる。8節以下の言葉は、傷口に塩をすり込むような厳しい問いである。イスラエルだけへの問いか。教会の私どもにも向けられている。神からの問いは、〈裁き〉であると同時に〈救い〉への導きに聞こえるのだ。目を向けるべき方向を悟らせるためだ、と。安易な小手先の癒しによる「平和」が〈神のみこころ〉であるとする愚かさを知らしめるためであることを語っている。我が子の苦しみに親が代わりたい、と願う心情を想う。救いを叫び、手がかりを求めても、その向かう方向が違っていることも知らない愚かさにいらだちをさえ覚えるのに似ている。神に命を与えられ、生かされている、との信仰は、神に立ち帰ることにある。人がどんなに打ちひしがれようとも、父なる神(親)は、そこから立ち上がることへの思いを強く願っている。 エレミヤ自身も同胞イスラエルの再起への思いを強く抱く中で、励ましとして主の言葉に仕えているように受け取れるのだ。

5月1日 主=命のパン

ヨハネによる福音書 6章35節〜40節 阪井牧師

 時は神の民を意識する過越祭のすぐ前。この記事の直前は、「5つのパンと2匹の魚」で5千人の男が食事をした。メシアへの期待とガリラヤの辺地との落差を主イエスと群衆との関係に象徴を見るようだ。それは「しるし」を見るのと満腹との関係にも見る。「永遠の命に至る食べ物」としての「神のパン」について群衆に語られたイエスに、「主よ、そのパンをいつも私たちにください」と求めている。その「いつも」は、モーセの天からの「マナ」が旅を続けさせたことを想起する。「しるし」を求めているのに、見ても信じない現実を暴露しているのは、今日の私どもと同じ。信じるのは受け取ることであって、自らが確認して承認することではない。これが混同する時、聖餐式の混乱が生じると考えられる。交わりが信仰決断と同じでないように。主イエスの十字架の出来事が、主イエスを遣わされた方のみ心を行うことであったことに留意する。そのみ心は、主イエスのところに来る人が「神のいのち」・「永遠のいのちを得る」ことである。それは、主イエスとの関わりを続けることにある。人の交わりに繋がることではない。あの御子主イエスの十字架が、このわたしのためであると受け取るとき、わたしは生きる使命を新しい歩みとする人になる。 キリストと共に生きる「生かされた」人とされるのだ。この信仰の決断と歩みが「命のパン」を受けることである。招きを喜び受ける人になれ!

4月24日 主の深い計らい

マタイによる福音書 28章10節 エレミヤ書 1章7節〜8節 阪井牧師

 甦りの主イエスは、約束通りガリラヤで弟子たちに会われた。その描写がいささか奇妙である。「弟子たちはイエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた…」は何を示しているのか。「見て、ひれ伏す」ことと「信じる」こととは繋がっていないのだ。ヨハネ福音書のトマスの話を想起する。指を、手をその傷跡に差し入れて見なければ…、と言い張ったトマスの前に現れたイエスは、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と。それへの応答が「わたしの主、わたしの神よ」であった。どんなにか混乱していたに違いない弟子たちへの命令がこの箇所である。とうてい自分たちの力に負えない内容「すべての民をわたしの弟子に…」に続く言葉に深く思いを巡らしたい。「…わたしは世の終わりまで」は、時間の終わりや生活の終わりではい。時のない世界が語られている。神との関係においての終わりである。職場・家庭・交友の関係は、その終わりへの責任を覚えて真剣になるのと似ている。神との関係の中に自分を見ることによって自分を生きる意味が分かる。だから、続いて「いつもあなたがたと共にいる」の条件が喜びになる。地上のどんなに厳しい現実も、この共にいるとの言葉を受けた先達を覚えて、厳しい現実を越えて、この時から新しい「生きる」歩み出しをしていかなければならない。 主に委ねて信仰に生きる新しい時を共に祝うのである。

4月17日 主イエスからの問い

マタイによる福音書 22章41節〜46節 阪井牧師

 教会暦ではイエス一行のエルサレム入城から受難週に入る。その2日後がこの記事となる。 それはさらに3日後が十字架の出来事であったことを意味する。時は、最大の過越祭直前で、多くの人エルサレムに集まり賑わっていた。境内での「宮清め」は、一般の人たちにも宗教指導者たちにも異常であった。イエスへの詰問が「律法の中で最も重要なもの」は究極の問いだった。答えは、「神と人を愛すること」。次が、主イエスからの問い「メシアとは誰か?」である。人々の期待と興奮に乗じるかの如くて「ダビデの子」と民衆に近い宗教的指導者ファリサイ派の人に問い、そして答えている。その答えには過去の栄光と繁栄、誇りと期待が含まれている。かつての地上最高の権力者を象徴し、理想化された王であった。時のユダヤの人々は、王・祭司・預言者の務めを兼ね備えた方をメシアとする熱い思いを強く持ち、期待が高まっていた。ところが、主イエスによって示されるメシアは、権力を持って「上から支配」するのではなく、あの律法の究極として確認した愛、命令や力に依らず、下から支える愛の方・メシアである。その究極が数日後の十字架の出来事であった。すべての人が、神のいのちに生きる存在と知らされるから、たじろがない勇気と状況に振り回されない自由をそこから受けるのだ。 すべての者がこの方から生きる力をいただくことが出来ると聞き取ろう。

4月10日 消える巷の声

エレミヤ書 7章1節〜34節 阪井牧師

 「これらの言葉をすべて語れ、ひと言も減らしてはならない」との使命を受ける預言者エレミヤである。世相に流されている人々への改革(ヨシヤの宗教改革)を背景に活動をすることになる。形は神殿に詣でながら、また「主の神殿」と言葉に出しながら、その内実は、異なっている。神殿が「強盗の巣に見える」とのエルサレム入城直後のイエスの行った「宮清め」は、この記事に根拠を持つという。「道と行いを正す」とは、神との関係を問う言葉でもある。人道や人情は、その上に築かれるものだ。だが、イスラエルは小さく守りを固め、国や民との関係に心を用いていた。預言者としての求めは、そこに神との関係を訴えるのである。外の状況を整えることが神との関係に有効と思う落とし穴がある。神と自分との関係を整えることなしに、人と人との関係に心を患わす事が、状況を旨く運ぶ事がむなしい、と告げるのだ。他人事に聞いて処している私共にも考えさせる。「神のおられるところ」「神のご支配を」との言葉や祈りが本当のものか、と。方法や手段は本質に関係するだろう。しかし、そのまま本質と思い違いをしてはならないのだ。正面から主の十字架に向き合い、 そこから自分の在り方、神を畏れることが生活の一切の根拠かを尋ねたい。その秩序が聖書に書かれている。さもなくば、生活の華やかさ巷の声が失せる日がくる、と。

4月3日 遠くないあなた

マタイによる福音書 22章34節〜40節 阪井牧師

 被災現場を見た記者の「当事者と非当事者との間にある越えがたい深淵、そこに懸ける言葉を持ちうるか?」との自省に、心打たれた。イエスを試みようとした律法の専門家の質問「あらゆる掟の中で、どれが第一か?」には、決定的な意図<判断の基準を自分が持つ>を示す。主イエスはそれを見越して応えたのがこの記事である。相対関係が断たれる絶対関係の瞬間とも言えよう。その結論が「イエスがキリストである」の信仰告白となっている。真理について問われた時、ここぞという瞬間は、相対的な一切の関係を断つ大胆さを学ぶ。たとえ、その関係の切れることは不本意であっても。主イエスの十字架の立っている意味を想う。「あなたがたも私を離れるか?」と主イエスに問われた弟子ペトロは、「主よ、わたしたちは誰の所へ生きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます」と応えた記事(ヨハネ6:67)や福音を伝える使命に立ちはだかる権力の前で「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」と応答した使徒たち(言行録5:29)の姿勢を想起させられる。神の愛がそこに現れるのではないか。常々持っている課題(神の愛はどうして現実のものにできるか)の答えがそこに示される。第一があってこそ、第二がある。 神の愛との正しい関係に自らの身を置く時、結果は自ずと現れてくるのだと、主イエスの応答から学べる。

3月27日 灰汁が滓を溶かす

エレミヤ書 6章1節〜30節 阪井牧師

 「去るも地獄、残るも地獄」との避難所移動の報道見出しに、やりきれなさを思う。かつての関係の限界と亀裂が見えている。預言者エレミヤの状況に似ているように受け取れる。南ユダのヨシヤ王(BC640〜609)の宗教改革(BC621)を挟んで40年間、エレミヤは預言活動(BS626〜586)をした。自分の人生を有意義にするためでも、自分の目指すところを追求するのでもない。神から召され、遣わされた人である。その召命が20歳代であったなら、その生涯をそっくり神に仕えたことになる。その経験未熟な若者が宗教的政治的中心都市エルサレムの滅び、神の裁きを預言者として伝えた。誰がそれを本気で聞き取ったであろうか。エルサレムの人々は、宗教改革によって神の民に相応しく、み前に「良し」とされる歩みを続けている筈と思い込んだろう。「神のみ旨として受け容れ、聞き従う」ことは口で言うほど容易ではない。自分が困難さや悩みの中にある時、ここに私は主に遣わされている、と受け取ることが困難と同じ。神の光、キリストの恵みが必要で、神は私を選び、招きとして用いられている、と思えるか。神を知らない者には「変わり者」でしかない。それが信仰に生きようとする者の姿であろう。表面とは違う〈主の働き〉がそこにある、と受け取るのである。 厳しさや苦しさにも希望を持つ所以である。資格や力量を越えた働きに自分を委ねるのである。

3月20日 イエスに復活を問う

マタイによる福音書 22章23節〜33節 阪井牧師

 主イエスのたとえ(話)は、誰にでも分かりやすく印象に残る。話が分かることと譬えの本意が分かることとは同じとは言えない(マタイ13章の「種蒔きのたとえ」の箇所に譬えで話をする理由が記されているのを参照)。ここではサドカイの人たちが主イエスに否定している「復活について」問う。先のファリサイとヘロデ党の人たちからの税金論争に続く。否定する者が「復活について」問うことの不自然さに注意したい。恐らく真意は、自分たちの保身に由来するであろう。イエスの応答は「(旧約)聖書と神の力を知らない」であった。自分の側から聖書を解すること、神の力を自分の世界に取り込もうとする事へのへの批判であろう。私どもへの言葉に聞こえる。神のみ心は御子主イエスを通して示されている。それは、祈りともいう。同様に(旧約)聖書の理解は、主イエスを通してなされるべきといえる。人間の領域に神の領域を取り入れて、自分の主張や都合に合わせるのは信仰の真実ではないことを知る。神の委ねることは難しい。だから、自分の限界の中でみ言葉を真剣に聞くのだ。そして従うのだ。その具体的な生活の中で神が働かれる、と受け取るのは信仰である。自分の力ではない。神がそこに生きて働かれる事に私どもの応答(=信仰)がかかっている。 キリスト信仰に生きる者に生き方が問われる。困難な中に生きる希望はこの方に向かっている時である。

3月13日 神の自己矛盾?

エレミヤ書  5章1節〜31節 阪井牧師

 心を開き顔を向けている。でも、その相手はあらぬ方向(権威・富・名誉)に心が向いている。これが神の民イスラエルの姿である、と。身分が低い者だからではない。高い者であっても、神の意から離れたままの姿勢エルサレムである。ここに、神の妥協「エルサレムにひとりでも正しい者がいるなら」を視る。つまり、50人から10人まで正しい者のために、ソドムの町を滅ぼさないとの交渉結果を得たアブラハムの物語に至ることを想う。科学や経験の粋を集めた現代生活が津波に呑まれていくのに似ているのではないかを想像した。エレミヤが神から託された言葉は、本来あるべき神との関係が壊れていることを自覚させるものであった。神は正しくないものを裁く方である。自ら創造された存在を滅ぼすことの痛みを耐えて真実を貫かれるのが神である。親が涙を流しながら子を戒めるように。子が正しく歩むことを願う親の強い意志がそこにある。決して滅亡を願ってのことではない。「滅ぼし尽くすな!」は神の深い憐れみと受け取れる。イエス・キリストに召された者(私ども)は、この残された者である。残されるには、その人自身に理由はない。神の決定であるから、その使命を果たす理由が存在の根拠となる。神への畏れと感謝・さんびの根拠となるであろう。 神の地団駄を想起しながら、神の矛盾に生かされていることを喜びたい。

3月6日 イエスと税金論争

マタイによる福音書 22章15節〜22節 阪井牧師

 子どもの頃の遊びの体験は大人になって意味をなしていることがある。普段、仲が良くなくても、共通(敵)に向かう時は力を合わせるなど。 ファリサイ人たちとヘロデ党の人たちは本来的には敵対関係でも、主イエスに立ち向かうことにおいては手を結ぶ。これが試みる(罠)という(悪意)に働いている。 イエスへの試みとは、(皇帝に税金を納めるのは、律法に適うがどうか)の問いであった。 その前置きは、この問いから離れず、正面に応じさせるための楔のようなものであった。 (適う、適わない)のどちらに応えても、イエスを陥れる理由になるものである。 (真理)という言葉を使う質問者は自らが苦しんで発した問いではない。 (共に)という(合法的)な陥れ策によって宗教的理由に加えた政治的理由を窺っている。 自分の体重をかけない言葉は(偽善)となる。イエスの指摘はそこにある。言葉の「自己不在化」と言う人がいる。 イエスの言葉(偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか……) は彼らの悪意を明らかにする。 マタイ福音書は意識的にこの言葉を用いている。本質と外見との意識的差異を指摘しているのだ。 (皇帝のものは皇帝に)で終わらず、(神のものは神に)がその後に続いたイエスの言葉に、彼らは驚嘆した。想像を遙かに超えた内容を見たのだ。 神殿境内でのイエスに対する権威の由来を尋ねた場面を想起する。 「小手先」に対するイエスの答えは、問う者の「存在根拠をも揺るがす」ものであったことを想う。

2月27日 主は生きておられる

エレミヤ書 4章1節〜31節 阪井牧師

 分裂王国の北イスラエルはアッシリアによって滅んだ(BC722)。その預言をしていた北イスラエルの預言者ホセアから強く影響を受けている、といわれる南ユダの預言者エレミヤである。同じ南の預言者イザヤよりもその影響は大きい、と。「主に立ち帰れ」と繰り返し語りかける言葉は印象深い。そこに、「主は生きておられる」と誓うなら、と条件が示されている。決定的にイスラエルを排除していない。主は、立ち帰ることを待つ、と言われる。「誓う」は神の前に出ること、つまり、神を正しく礼拝することを意味している。私共にも通じる勧めである。私共が何事か優れているから、神から〈召し出された〉のではない。神が敢えて選んだのである。その選びに応えることつまり、神を正しく礼拝することである。自惚れることも、卑下することもない。神の意に仕えることがその務めである。それを怠り、意に反するなら、選びの意味を失う。神の意に反する者は必要なくなる。だから、本来の使命に立ち帰る、つまり主を正しく礼拝することが強く求められるのだ。この意に応えることが存在の根拠である。正しく主を礼拝することは、祝福を受けることであり、他の人々も祝福を受けることになる。歪んだ信仰を裁くべき神が、その民に苦しみ、呻き(神の痛み)、自らがその裁きを受けた。これがあの十字架である。 繁栄と栄華に満ちた世に遣わされた者は、このひとり子の十字架を現すのである。「まことに、主は生きておられる」と。

2月20日 豪華な宴会への招き

マタイによる福音書 22章1節〜14節 阪井牧師

 三つめの譬え(婚宴のたとえ)を学ぶ。この話は祭司長や民の長老たち(宗教的指導者)の問いから始まった第一は、兄弟のたとえ、第二がぶどう園と農夫のたとえ、そしてこの第三である。それぞれに主イエスからの問いがあることを意識したい。改めて知らされるのは、主への問いが重要というよりも、主からの問いにどう答えるかが重要である。この記事は平行記事(ルカ14:15以下)と異なる。宴会の主催は〈王〉であり、王子の婚宴(国を挙げての喜び)への招待に与ることの誉れが前提になる。その国の者なら誰もが願ってもない名誉であるが、断るのである。先の約束に従って、改めての招きは、食事と共に礼服も用意されるという。予め受けていた招きに応える者はない。そこで、別の人たちが招かれた。約束の民(ユダヤ人)が約束を受け取らないため、代わって異邦人がその誉れを受けている。でも、その時着るべき礼服(キリスト)を着ていない人は婚宴参加を断られたのだ。ガラテヤ3章27節の「バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなた方は皆、キリストを着ている」との言葉を想う。王(主)の招きに心が注がれていないため、今心にあることを理由に断った。決して曖昧な生活をしていないけれども、〈今〉すべき事は、礼服を着て王の招きに応えることだ。自分(の関心)を主張する限り、キリストの者に召されたことから遠い者となる。 王(主)は約束に従って豪華な宴会(喜びと祝福)へと招いておられる。豪華な婚宴の招きに共に与りましょう。

2月13日 主に立ち帰れ

エレミヤ書 3章1節〜25節 阪井牧師

 100年の時間経過は歴史の受け取り方を変える。60年余前の決断「二度と起こすまい!」の戦争愚行に対し、戦闘経験を求める人の出現が日本にある。エレミヤの記事から自分たちにも向けられたメッセージを受ける。同胞北イスラエルの滅びを経験した南ユダは、「神のさばきの恐れ」から「自分の滅びの免れ」へと変化していった。それが先祖の神を離れて、カナンの地の信仰(バアル崇拝)となった。ユダの人々は、生活の知恵が人の生きる手段である故に、神との関係を損なうとは考えられなかった。だから、時に応じて神を求めた。しかし、神はそれを「よし」とされないのだとエレミヤは告げる。神の民になることは、自分の都合であったろうか。それに相応しくなくても、神が選び特別の憐れみをもって選び出し導き支え続けて下さったはず。同じく、今日の私共もその故に、自分自身から主イエスを生き方の軸にした歩みを信仰告白において新しく歩んでいるのだ。そこで、人との関係を大切にすることは大事であるが、神との関係を後回しにすることを「よし」とするのだろうか。偏狭や度量不足と言われても、世間の常識に拘らないでよいのだ、と示される。主イエスはそのために代わって十字架に着き、甦られた(ヨハネ14:33)ことを想う。マタイ16:24以下の言葉に支えられて主に向かって歩みましょう。 「わたしについてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」。主に立ち帰れの声を聞き続けよう。

2月6日 目に不思議なこと

マタイによる福音書 21章33節〜46節 阪井牧師

 「二人の息子」に続く「ぶどう園の農夫たち」の譬えの話し相手は、祭司長、民の長老たちに変わりはない。 他人事として聞くのなら、簡単でよく分かる話である。ところが話し手の主イエスは、その譬えの最後に「旅から帰ってきた主人は、農夫たちにどうするだろうか」と尋ね、聞き手がその返事をするのを待たれた。答えがあなたの中にあるとの意を考える。旧約のナタンとダビデの物語(IIサムエル記12章)を想起する。自らに心当たりがあれば、素直に謝るべきだが、自分のことそう容易に謝ることは出来ない。むしろ、自分を肯定することを優先して、告発する相手主イエスをさえ黙らせようとしている。他人事でなく、自分の事となれば、死を持って償うべきを知りながら別の手を考えるのが私どもであることを承知で、「どうするか?」と問われるのは苦しい。だが、この問いは単なる追求や弾劾ではない。福音のメッセージがここにある。主人と農夫は神とイスラエルの関係を示しているように、イエスと私どもの関係がそこにある。自分を客観化する絶好の機会がある。主の栄光に最も近く、それに用いられる幸いが自己主張や自分の権威付けをしようとする戒めを受ける。使命は、他者への力関係にしてはならない。人の目に価値あると思えないところにこそ、神の栄光があり、人々の生きるよすがを指し示す者とされるのだ。十字架の主を誇る時、全ての人の救いの根拠を、人は見させられることを知る。 幸いなるかな、である。

1月30日 軽率な道変更

エレミヤ書 2章17節〜37節 阪井牧師

 人にはその人の身体のリズム(バイオリズム)があると聞く。自分が頑張ることとその体の調子とは一致するとは限らない。労務管理の仕事はそれを見極めて人の配置をするという。遊牧から農耕の生活への転換には、それなりの生活の知恵が必要となる。イスラエルの人々は、神の民であることを放棄したはずはない。だが、結果としては「神を捨てた」と同じ事を選んだ、とエレミヤは言う。その時、その状況で、最も賢明であると力を入れたことが、神の前に余りに愚かしいことであったのだ。エジプトに、またアッシリアに関係を造ることが、神との関係を放棄することだった。箴言にある知恵の言葉「主を畏れることは知恵の初め(1:7)」を想起する。現代の抱える課題は、自分のことには懸命であるが、それが他者にどういう意味を持つかを考えることができない。「自分に敏感、しかし、他者には鈍感」ということになる。厳しい状況にも神の愛が働いているとは思わない。それが表である。しかし、裏の関係で生きようとするなら、表を切ることになる。これが裏切りである。本来、愛の関係は他者から強いられるものではない。自覚的決断がそれを保つ。エレミヤの預言は、具体的な生活の一つ一つを指摘しながら神との関係へと目を向けさせる配慮を知らされる。神を畏れることが、人の目前への対応生活の後ろに回され時、神は懲らしめを持って関係回復を求めて下さる。 自らが痛みつつ。この決断は、神の前になされたのかを想わされる。

1月23日 父親の望み

マタイによる福音書 21章28節〜32節 阪井牧師

 イエスの譬えを聞くのは、神殿の境内で話し教えるイエスに詰問した人たち、祭司や民の長老たち、彼らはユダヤ社会の指導者的な人たちだった。「何の権威、誰からその権威を受けたか」の問いは、内容ではなく、自分の「居場所」を保証する秩序を問うている。それへのイエスの応答が、「バプテスマのヨハネはどこから?」との反問である。これは、内容に関する問いと気づく。答えられないユダヤの指導者たちに向けて語られた譬えが、父のぶどう園で働くことを求められた「二人の息子のたとえ」だ。父の求めへのその場での応答は、兄と弟は正反対だった。応諾してもその行為はない。逆に返事は拒否でも、実際は父の意志に従う兄弟の譬えである。ここには信仰の歩みをする私共への鋭い問いかけが読み取れる。追求だけでなく、私共へのメッセージがあるはず。それは何か。イエスの問い「父の望み通りにしたか」の言葉のにある。つまり、返事のあとがあることを知る。「考え直した」のだ。それまでを遡って問わない。考え直すとは、悔い改めを意味する。悔い改めは、時代に媚びる生き方もしたが、改めて神の心に向かって生きる・神の義を求めて歩み始めることなのだ。神の愛を知る者として歩むことがそこに始まる。バプテスマのヨハネが示した義の道とは、それであった。 神のみ手の中に自分を見いだそうとする所から、神の愛に生きる者とされるのだ。私どもにこの生き方を父は願いとして語りかけられている。

1月16日 求道者フィリポ

ヨハネによる福音書 6章1節〜14節 和泉 富夫先生

 十二使徒を一人ずつ取りあげている。フィリポあたりから記述が短くなるが、内容は凝縮されている。ペテロ、アンデレと同じ町ベトサイダの出身から漁師と推測され、イエスに従った最初の弟子であることがわかる。使徒達の中で食料調達の役を担っていたとも思われる。4回登場するいずれもイエスの問いに応えている。「私に従ってきなさい」と声をかけられた際(1:43)にはナタナエルを連れだって来た。イエスを知ろうとする時に仲間を誘い行動を共にすることで、信仰を深め神を見い出そうとした。パンの奇跡では5千人の群衆を前に「どこでパンを買えばよいか」と問われたが、これはどのように手にいれるかという信仰を問われ試されたのである。試みるという言葉は金を精錬するのと同じ言葉といわれる。すでに用意されている結果を混ざりものの中から取りだして下さり、私たちは完成していくのである。ギリシャ人を取り次いだ際(12:21)には「一粒の麦は死ねば多くの実を結ぶ」という全人類に対する救いの言葉を得た。十字架にかかる前に(14:9)「私は道である」すなわち私たちの生活と御心がなされる神の国とを結ぶ道であると宣言された。信仰は一生をかけて取り組むものであり、一瞬で、ではなく長い時間かけて静かに変えられていくこと。それなら私にも出来る。 フィリポは道を得て神を見定めた。私たちもいつまでも神を信じる道を求め続けたい。すなわち求道者で有り続けたいと願うのである。  (文責石黒)

1月9日 こわれた水ため

エレミヤ書 2章1節〜16節 阪井牧師

 興味関心のあることなら人は心を寄せる。しかし、隠しておきたいこと触れられたくないことを明るみに出されて言及されることには顔を出したくもないのが人情というものである。ところが預言者エレミヤには、「行って語れ。耳を傾けさせよ。」と神が怒り裁きを告げることを託された。使命を果たすよう求められたエレミヤには容易なことであろうはずはない。かつては神から特別の導きや恵みを受け、イスラエルは真実と愛や従順をもって答えていた。そこで、主はそのイスラエルを初穂として被害に合わせなかった。しかし、神から離れ、空しいものを追い求めた。その時、彼らは「主は何処に?」と尋ねることをしなかった。祭司たちも律法を教える人たちも指導者たちも助けにならぬものの後を追ったとの追求を語っている。生ける水の源である主を捨て、代わりに無用の水溜を掘った。それは水をためることが出来ないのに。まるで今日の世相を見抜いているかのようである。キリストのいないクリスマスの祝い、形に終始している礼拝を意識する。神と人との関係は、あのイスラエルの場合と同じく人格の関係が損なわれていくことがそこに起こっている。「壊れた水溜」とはその象徴である。砂漠や荒れ野にいた時は、神の恵みを自覚できた。だが、乳と密の流れる地での豊かな生活は神から離れることが起こった。 今日の私どもの生活は、確かに「生ける水の源」から「命の水」を得ているか。一年の歩みを心に意を決したい。

1月2日 主よ、どこに?

ヨハネによる福音書 1章35節〜42節 阪井牧師

 イエスの最初の弟子たちの話である。ヨハネがイエスを見つめて「見よ、神の子羊だ」と弟子たちに言うその言葉によって、弟子たちは、それを聞いてイエスに従っていく。その彼らを見て、イエスが問いかけるところから会話が始まる。イエスの「何を求めているのか」に対して「どこに泊まっておられるのですか」は特別な会話とは思えない。しかし、ここには鍵となる言葉「みる」が繰り返し用いられている。続いてイエスは、「来て見なさい。そうすれば分かる。」と。確認の意味もある。更に進んで、その場を意味あるものにする、決断を伴う意味もある。そこには、今の時を生かして用いる意味を含めて従うになる。そこに、証しせねば済まない心の働きが生まれている。アンデレが兄弟のシモン(後のペトロ)を探し当て、イエスのところに連れて行ったのだ。そのペトロをイエスは〈見つめて〉「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ(岩という意味)と呼ぶことにする」と言われたのである。このケファ(ペトロ)が初代エルサレム教会の中心的働き手となるのである。アンデレは、自分で得たものを他の誰かに伝えることによって本当に自分のものとすることになっている。伝道は信仰の証しとなって一人から一人へとなされていく。主によって名を変えたケファはそこから新しい使命と生き方を始めていくことになった。 福音の働きは社会的な秩序(兄、弟の順)を越えてでもなされる。キリストと共に歩める喜びをかみしめよう。


ホームページへ戻る

新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
       (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988


(C)日本バプテスト同盟 戸塚キリスト教会 2001-2011