日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月30日 恵みの時・救いの日

ルカによる福音書 2章22節〜40節 阪井牧師

 名前には時代的傾向がある。イエスの名もユダヤの世界では特別でなかった。両親とその社会的慣習で宮詣でをしている。母親は汚れの清めのため、長子を神に差し出す代わりの献げ物をする。この家庭は、ユダヤの習わしを実行するのに「貧しい」家庭であるために、羊の代わりにハトを捧げている。極めてユダヤ庶民そのものの生活状態であり、かの聖家族の実情である。具体的な状況の、ユダヤの律法下に歩むイエスだからこそ、贖いの救いであり、神の子とされることが現実となっているのだ。でも、それはユダヤ人に想像以上の現実であるために、律法を生きる多くの人に躓きとなった。しかし、不思議にも神殿でその家族を迎えて喜んでいるのは、祭司である筈なのに年配のシメオンやアンナという人たちとある。クリスマスに関係する賛歌の一つが、このシメオンの賛歌である。クリスマスは若者だけの祭典ではない。年輩者が心からの喜びと讃美を神に捧げる姿を見る。我が教会のクリスマス礼拝では特別の讃美を捧げることができたことを喜ぶ。近年、高齢化が課題となっている。自分を中心に考え周囲を動かす傾向もその一つである。シメオンは神をたたえる歌を、アンナは讃美し、人々にその喜び・恵みを語っている。ここに、何度か聖霊の働きが記され、神の働きかけと、神と共にあることを示す言葉となっている。「待ち望んでいた」「昼も夜も神に仕えていた」のはこの人たちに証しされている。 新年の歩みを主と共にありたいと願う。

12月23日 主を崇め、讃美した

ルカによる福音書 2章1節〜22節 阪井牧師

 系図で始まるマタイ福音書と秩序正しく記録したと政府重役に献呈するルカ福音書にだけ誕生物語がある。しかも、誕生の御子の所に来たのは、東からの占星術学者たちに対し、ここは厳しい生活を強いらる羊飼いたちであった、と。既に負っていたユダヤの税に加え、軍事力を行使したローマ税が課せらる時代が背景である。イザヤ8章の預言を想起する。ガリラヤは決してユダヤ人注目の地ではないことを語る。ところが、主イエスの活動はその地で始まっていることを意識する。ベツレヘムはユダヤでは名門の町、ダビデの里である。なぜ、妊婦マリアを伴って旅をしたのか。メシアへの説明になっている。滞在している間がどのくらいかは不明。しかし、主イエスはその値で生まれた。イザヤの預言が成就したのだ。片や軍事力にモノを言わせて支配するローマ皇帝、ここには馬小屋に滞在する「世界の救い主」の登場である。ここを訪ねて来たのが羊飼いたちである。人口調査どころか、部族やユダヤ人としての認知をさえ得られない人たちであることを覚えたい。私どもの救いはこの延長にある。天使の声を聞いたのは彼らだけではなかった筈なのに、主の「知らせ」に従ってイエスに会っている。祈りも然りであろう。み言葉に従うなら、祈りは成就する。自分の理性や思いが選考するなら…と想う。 羊飼いたちが人々に知らせると共に、聞いた通りであったのを喜び、「神をあがめ、讃美しながら」帰ったとの説明を今日共に味わいたい。

12月16日 あなたは何?

ヨハネによる福音書 1章19節〜28節 阪井牧師

 「あなたはどなたですか?」には、尊敬と期待がある。しかし、「あなたはなに?」の問いはどうだろう。不審と拒否があるように思える。主イエスにバプテスマを施す人・あのヨハネが問われているのだ。かく問うのは、当時の政治と宗教の重役を担う人たち・最高法院(サンヒドリン)から差し向けられた祭司やレビ人たちであった。この人たちは本来、仲間・同僚?であるヨハネに対して問うている。聖書記事は、このヨハネのことを「光について証しをする人(1:7)」という。証人とは、事柄の真実を明かすのが務めである法廷用語である。つまり、自分の都合や自分の主張が重要なのではなく、事柄の真実が重要なのだ。ある意味で、「イエス」か「ノー」かのどちらかが大切であって生活や感情の対象ではない。祭司やレビ人の務めは、申命記の18章に詳しい。ヨハネは「世を照らすまことの光を証すために来た」のであって、自分を語るためではない。「イエス・キリストが誰か」を語り・証しするのだ。ヨハネ自身を問うのでないことをしつこい程語る。役人たちは、自分の権威に立って威厳を示す問いになったのだ。ヨハネはイザヤ書40章の言葉で返している。その言葉は、神の恵みに歩んだ先祖を想い起し、律法の真実に依って立つべきを語ることになっている。「荒れ野」は、神との出会いの場所、「神の民となる契約の場所」である。イスラエルの生きる希望と根拠があることを語る。 自分の証人の務めが「何?」への答えである。クリスマスへの問いがある。

12月9日 主にある確信

テサロニケの信徒への手紙U 3章1節〜5節 阪井牧師

 地中海と黒海の間にエーゲ海があり、アジアとヨーロッパの境界でもある。パウロは小アジアの伝道旅行から、その海峡を渡ってヨーロッパに足を伸ばした。使徒言行録はマケドニアから助けを求める幻に応えた、と。ヨーロッパ伝道の始まりである。世界のローマがその先にある。意識したであろう。神のみ心がそこにあるとの確信は、必ずしも両手を広げて迎えられたのではない。あれほど〈熱心」にキリストの教会を迫害したパウロが、今、パウロの指導を受けたテサロニケの教会に向けて、「私たちのために祈ってください」は奇妙に聞こえる。理由は、@主の言葉すなわち、福音が速やかに宣べ伝えられるようにと、A福音の正しさから外れた人たちから逃れられるように、とである。そこには、パウロ自身の要求ではなく、自分を用いて下さる方に仕えることの真実を示しているように思える。主が共におられ、パウロを用いてみ業を進められるように、他の所でも主の働きを求める祈りがそこにある。祈りは自分だけに終わらない。一人の祈りは教会全体の祈りでもあるはず。なぜなら教会は、その一人を構成員として世に向かって働く使命を負っているから。イエスがキリストであるとの福音を携えて教会全体が、この社会に送り出されている。、その関わりの中にある個人の祈りは、一人の求めから、主に共にある教会全体のより有効な働きを求める祈りになることを知らされる。 同時に、神の召しに忠実な者は誰かの問いを受ける迫りを意識するであろう。

12月2日 「時」の意識

ローマの信徒への手紙 3章11節〜14節 阪井牧師

 人間の歴史の中に神が直接入り込んでくる出来事を思い起こし、その準備をする時がアドベントである。これを、教会(教会暦)は一年の始まりとしている。ギリシャ語で歴史を現す言葉に、(a)<刻み重ね続ける時>、(b)<自分に意味あるとする時>とがあるという。ここにある「あなたがたは今がどんな時であるかを知っている」の〈時〉は(b)である。主イエスがキリストとして誕生したその時、そのイエスに出会い、わたしのキリストと告白したとの時である。滅びの世界から、神のいのちに触れて生きる時、神の時を指している。この時が進んでいることを呼びかけている。自分の力や努力による生き方を求める大切さを認めても、「肉の人」に変わりはない。その心は、周囲を見回し、我先の競い合いの原理に生きていることに陥る。対して、「時を知る」者はキリストと共に死んで、キリストの甦りにあずかる<新しい神のいのち>に生きる者とされたはずである。それは、主の僕としての歩き方、世の人の生き方と違って良いのです。パウロが差し出した手紙を受け取る人々が生活する当時のローマは、世界の中心であった。いわば、国際都市でもあった。そこで、<キリストのいのち>に生きる生活は容易な事ではなかったと思う。しかし、朝が来るのに、昨日の汚れ、くたびれをそのままの装いは相応しくない。確かに昨日の続きを生活するのだが、キリストと共に歩むのです。 新しい「時」を生きる者としての現実、着実な歩みをすすめたい。

11月25日 出会いが人を変える

エレミヤ書 40章1節〜16節 阪井牧師

 苦難、忍耐、練達、希望への連鎖は信仰による恵みとして証しされる(ロマ5)。パウロはここに神の栄光を見、これを誇りとすると言う。パウロには、なにものにも代え難い大きい喜びを与えられたのだ。初代キリスト教会に向かって最大の迫害者であった人パウロである。徹底した姿勢がそこに見える。エレミヤがイスラエルの人たちに語った預言は、バビロン軍への完全降伏であったのに、彼らは受け入れるどころか預言者を閉じ込めてしまった。預言の内容と預言者との関係を想う。現実には、エレミヤの預言通りの事が起こり、占領と破壊、財産の消失を目の当たりにした。預言者エレミヤは囚われだった身柄を占領軍の指揮官によって解放され、食料の割り当てまでを受けた。その時、指揮官が語っている「イスラエルの人々の結果は主に対して罪を犯し、神の声に聞き従わなかったから…」と言っていることに深いものを感じる。つまり、イスラエルの民ではなく、異教の民であるバビロン軍、占領軍の指揮官が語っていることに意味がある。ちょうど、教会が遠慮するなら、神は教会と関係ない人を用いてでも「みこころを示される」と受け取れるからだ。人の思いや願いが限界と思える時がある。しかし、神はその人間の限界を超えて<みこころを行う方>であることを示す。逆に、人の優しさや場の雰囲気に遠慮することが良識とする私どもへの刺激がある。 「本当にこの人は神の子であった」と百卒長が告白する記事を想う。主に出会う時が近い。

11月18日 人を生かすもの

ルカによる福音書 15章11節〜24節 石渡 浩司先生

 飲食物が十分でも語りかけ(愛)がなければ、人は生きられない。無反応で命の危機を診断下された子が、根気ある語りかけとその体温に応答をした例話から、人は愛の中で生きることを知る。有名な「放蕩息子」の次男(人を象徴)は、生きる限界において放蕩を悔い、父(=神)の元に帰る決断をした。弟がまだ遠くにいるのを認めた父は、喜び出迎えた。本人が意識しないところにあっても、父はその子の事を心に留め、待っていたことが想像できる。本人の謝罪の前に父は受け入れている。この話は、人は神の愛のうちに生きるべき存在であることを示している。クリスチャンでなければ神の愛に気づけないのか。愛の源は神であることを自覚のあるなしに関わらず、人は神の愛の中に生き、それに応えることのできる存在に人は創られている。戦時下のユダヤ人迫害(ホロコースト)の収容所での実話(フランクルの『夜と霧』)には、心動かされる。僅かの水とパンで命を繋ぐ生活での中でも、病む者の傍らに自分の食料をそっとおいてその日の作業に出かけた、と。聖書はこの愛の源が神であると教えている。イエスが人間の罪一切を負ったメッセージ・十字架の出来事がそれである、と。神の愛が無条件だからといって決して甘やかしではない。大野晋「日本語を遡る」に、信仰は畏敬の対象であっても、天地を貫く支配者としての存在を知らない、とある。求め、すがる前から受け止め愛して下さっている方を伝える時、隣人を愛する心を与えられていく。

11月11日 いつも共に

マタイによる福音書 28章11節〜20節 阪井牧師

 「みんなで〜すれば怖くない」。一時、よく口に上った言葉は心境の急所を突いていた。「共に」がどれほど大きい存在かを想う。この聖書記事はその究極であろう。完璧な墓警備が妨げるはずの復活証言を担う報告に、祭司長や長老たちがどれほど戸惑い慌てたことか。一番神に近い人たちが権力と金を駆使して真逆の証言をさせた。片や権力の側に立つ人たちから受けた警備の人たち、もう一方は萎縮して身を隠す弟子たちへの使命を果たす女性たちは対照的だ。当時、女性は社会的に重んじられていなかった。女性たちの果たした使命を受けた弟子たちが強められた。「共に」の新しい事実である。人が神の業に対抗する愚かしさを示す。自分たちの担っている伝統や歴史が根拠であるが、神は全く意外な方法によって(担い手が婦人たち)弟子たちが〈主からの言葉〉を 伝えるのであった。弟子たちは<ガリラヤへ行け>の言葉に従った。そこは、弟子に召された場所、かつての生活の地である。山に登って(祈りと共にある)イエスに出会い、新しい使命を彼らは与えられた。その使命には保証がついている。「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」その使命は、時間にも状況にも、またその人の力量にも依らないことを想う。 主が共におられる生活に自信をもってよいのだ。

11月4日 信仰の一角

エレミヤ書 39章1節〜18節 阪井牧師

 アイデンティティー(自己同一性)の言葉がかつてよく使われた。イスラエルの人々には神との関係がそれであった。旅においては「神の幕屋」、定住では「神殿」とその都エルサレムと共にあるがそれである。だから歴史に起伏が起こるのは関係の歪みと判断した。関係の基準は律法だが、時間の経過の中で逆転が生じた。願望や期待を神の御心だと確信するに至った。エレミヤ時代の人々は、神の都エルサレムが異教の人に支配される筈はなく、神殿が崩される前に神がみ力をもって対応されると考えたため、エレミヤの預言を受け入れなかった。神の言葉に信頼できない者は、遣わされた人をも受け入れない。だからエレミヤは捕らえられ、閉じ込められた。一年半に亘る執拗な町への攻撃に、一角が崩れ都は陥落した。預言通り、バビロン軍は王宮や民家を焼き払い、城壁を壊した。ゼデキヤ王は息子たちの処刑を最後にその目を潰され、貴族は殺害され、都の中にいた人々は捕囚の民となった。これがバビロン捕囚である。エレミヤは占領者によって解放、優遇を得た。主の約束がなった。み言葉を根拠にする信仰に自分の根拠を持ち込む私どもの現実へのメッセージがここにある。目前の事柄に対処するその精一杯より、キリストに繋がる信仰に生きるところに力を与えられる、と。「主の言葉は、私の心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります…」とのエレミヤの言葉(20:8〜9)を想う。 主に信頼する歩みを祈り進めましょう。

10月28日 ガリラヤへ行け

マタイによる福音書 28章1節〜10節 阪井牧師

 ギリシャ語は時を2つの語@クロノス(kpovos)とAカイロス(xaipos)で表す。<物理的間隔で刻む時>と<事柄の意味を持つ時>である。ユダヤでは安息日が週の最初(創世記)。キリスト教は主の復活の日が週の最初の日(マタイ)である。人間の事情ではなく、聖書にその根拠(神の前に生活を始める)を見る。生活環境では人が中心。イエスの墓に来た婦人たちは、精一杯の人の配慮である。そこに意外な出来事が起きた。「墓の番兵たちは、恐ろしさの余り震え上がり、死人のようになった」。主の天使が婦人たちに語りかけた。「恐れることはない。復活なさった。急いで弟子たちに『ガリラヤへ行け』と告げよ」と。番兵たちが震え上がったのだから、婦人たちも恐ろしかったに違いない。人を中心にする精一杯もその先は行き止まりである。だが、主の天使は<生き方>を変える言葉を告げている。<過去の主に仕える生き方>から、復活して今も働かれる主に仕える生き方へと召されていく。「ガリラヤ」はかつて弟子たちが生活の場としていた地、故郷である。婦人たちが墓から弟子たちに伝える使命に走る力は、神から得ている。それを受ける弟子たちには<萎縮と憐れさ>から解放の知らせとなる。弟子たちに先立って、主イエスがガリラヤに行かれているのは、そこで彼らを待つことを意味する。元の生活にただ戻るのではなく、復活の主と共にある新しい働き人に用いられるためでもある。 私どもの帰り先に「主がおられる」約束を受け取りたい。

10月21日 いのちを得る道

エレミヤ書 38章1節〜28節 阪井牧師

 マサダはイスラエルの古戦場として外国人観光客も訪れる。ローマ軍とイスラエルが戦って敗れた最後の砦であった。まだ悠に一年は持ちこたえるだけの水と食料が蓄えられていた。そこの「水溜め」は砦に掘り開けられた大きい空洞であった。預言者エレミヤの閉じ込められていた場所にそこを想像する。ユダの最後の王ゼデキヤは、その場所からエレミヤを引き出し、再度、預言の言葉を聞いた。内容は戦士の士気を弱めるものに変わらなかった。聞いた王はエレミヤを監視の庭に身柄を移した。そのため、バビロンの占拠まで命を落とさずに済んだ。預言者の使命を果たすエレミヤに私どもは学ぶ。自分の命を左右する権力者の前であっても自分に都合良い対応をしない。相手に不都合であることを承知で語った。キリストに生かされている者の使命に似ている。立場や都合によらないで、聞いた神の言葉に従って証しをする。地位や財産を保つことが先んじる時、エルサレムの民が辿った道になるであろう。自分を判断の基準にするなら、一時的には難を逃れうる。十字架への道を歩まれたイエスは、ご自分が受けておられる父なる神の御心に徹するものであった。そこに私どもの今がある。<キリストの名にある私>の歩む道は自分を基準にするものである筈はないことを想う。力や宝ではなく、神の前に歩む道がある。 「正義は国を栄えさせる」の箴言14:34の言葉は深い。神の祝福の源に召されていることを喜ぶ者となりたい。

10月14日 準備の日の翌日

マタイによる福音書 27章62節〜66節 阪井牧師

 神の計画が人間の思惑とかけ離れ過ぎを詩編2:4に見る。社会的・宗教的権威ある者には、秩序の混乱(騒ぎや声)は迷惑であり強敵である。神の秩序と人の秩序のぶつかりがある。主イエスの十字架は、秩序を乱す根源排除であった。だが、心からの平安が得られないため、墓の特別警備策を総督に請願した。しかも、安息日(この秩序保持が本来の意図であった)を破っての矛盾行動となっている。「準備の日の翌日」とある。この記事はマタイ福音書だけであることを意識する。イエス・キリストの系図から書き始めたユダヤ色彩濃厚な書は何を意図したか、大いに気になる。律法に一番近くいる人たちが、安息日にローマ総督(異教の民)を訪ねている。イエス捕縛記事では「官邸にさえ入らなかった(ヨハネ18:28)」とある。そこでは自分を保っていたが、墓のイエスには自分を保てないでいる。請願内容・理由は「復活の出来事」への不安から、墓の番人を配置することである。他人へは冷静であった人たちが、自分の事柄には〈騒ぎ立つ〉のだ。世の秩序を保つべきとする人の本質暴露がそこにある。墓に納められている主イエスがその場を支配し、人々を動かしている。悲しみや絶望に萎えかかっている人々に向けて、神のご計画は人間の思惑を遙かに越えて行われることを示している。一時の勝利・征服感に満ちようとしても、内なる不安が人を揺るがす。この記事は私どもに問う。 「一体、わたしは生きる根拠と希望はどうなっているのか」と。主に頼む人は幸いだ。

10月7日 今日を生きる信仰

エレミヤ書 37章1節〜21節 阪井牧師

 地方によっては冷蔵庫が「温蔵庫」の働きになる。エレミヤの境遇は監禁状態であることによって「身の保全」になる場面を思う。 事の次第は時代背景も絡む。バビロン(カルデヤ)軍にエルサレムが包囲されていた時には、王も民も覚悟をし、主の前に姿勢を正した。ところが、南から北上してきたエジプト軍との摩擦を避けたバビロン軍は、その包囲を解いて撤退した。神のみ業と受け取った民は元の生活に戻ろうとし、王ゼデキヤはこの平安の続くことの祈りをエレミヤに求めた。だが、エレミヤを介しての神の言葉は以前の内容と変わらず「ゼデキヤ王はバビロン王に渡される」であった。包囲網が説かれた時を用いて故郷の土地相続のためにエルサレムを出ようとするエレミヤは「投降の抜け駆け」と見なされ囚われとなった。宮廷の王は牢獄から王の前に出して密かに尋ねている。「主から何か言葉があったか」と。地上の最高権力者も限界を知って預言者に期待を寄せる。預言者は相手や状況に関係なく、託された言葉や神の意をそのままに語る。今日を生きる信仰者の姿を見る。今の困難回避は、明日の生きる力にならない。「明日を思い煩わず」今日を精一杯に生きる時、明日を生きる力を得る。出エジプト15章には、荒野の民が天からマナを与えられ、明日の分を確保したら全て腐敗していた話を想起する。アブラハムは主の言葉を唯一の拠り所として旅に出た。 私どもに与えられている言葉に今日を精一杯生きる「主の僕」でありたい。

9月30日 墓に向かって

マタイによる福音書 27章57節〜61節 阪井牧師

 人が自分の限界を自覚した時、取る姿勢2つを考える。@手に負えないから諦める。Aすべてを委ねる。問題は委ねる相手。「墓」は人間の限界を象徴する。主イエスの納められた「墓に向かって座る」女性は、手が出せないその限界で空虚感を味わっているように受け取れる。場面に現れない二つのグループを想像する。@勝利と快感を喜ぶ人々。彼らは世の秩序と権力に身を置いていた。かつて土台を揺さぶられ、生きることに「シンドサ」を覚えていた人たち。A慕い集まった群衆とイエスとの間に立った弟子たち。喜びと誇りの絶頂から暗闇と絶望への転落となった。ここにも世の秩序と神の秩序とが向き合っているよう。見える現場でアリマタヤのヨセフが埋葬する。「金持ちで身分の高い議員」が、極刑である死刑囚の遺体を引き取り葬るのはどうだったろう。世の地位と評価を得ている人が信仰に生きる姿の象徴に見える。しかし、信仰の告白が示されているようだ。黙々と一人での作業に誰も手を貸さない。貸そうともしない。想像以上に厳しい労働でもあったろう。その現場に、二人の女性は墓に向かっている。場面全体が象徴的に思える。世の評価や価値を台無しにしてでも主イエスの死に仕えている。絶望の先に希望と生きる力が隠されているようだ。信仰姿勢を問いかけてくるように思える。「黙々と」「たった1人で」担い続ける姿の信仰者が必要なのだと語りかけている、 勧めているように思える。限界の中でも主に向かって生きる姿を示そう。

9月23日 聞きたくない言葉

エレミヤ書 36章1節〜32節 阪井牧師

 「世界は神の言葉によって創られた」との聖書の信仰は、人を生かし、人は神の中に生きる意味を持つことを示す。したがって、神の言葉は、活きて働いていると言える。活きて働く神の言葉は、それに生きる人に用いられることを要求する。固定して保たれるのは死んだものとなるが、歪みや誤りを最低限に止める。言葉が生きて働きかけるには、言葉に生きる人が語る時、聞く人に生きて届く。直接体験者の言葉が雄弁、熱弁でなくとも心動かすのをこの度の東日本の災害から知るところである。約35年間、主が預言者エレミヤを通して語らせて書き残された(エレミヤ書の)経緯をここにみる。主が命じて書かせたこの言葉は、神の聖であるから人の思いに依らない。人が触れることはできない。「悪の道から立ち帰る」ことを期待するもので、罪から離れて神にむき直すことを求めている。エレミヤ本人がこの記録を朗読する機会が得られないために、その記録者バルクが代理を神殿に集まる人々に向かって総読した。奇妙さを覚える。預けられた神の言葉に仕える人を、神殿の管理する側で拒むその現実はどうか。二つの秩序が衝突をしている。この世に力を持つ者は、神の言葉(神の秩序)を拒んでも、この世の秩序を保つことにその力を用いる。神の秩序に生きながらのこの様は今日の私どもへの警告となる。この世に力を持つ者程、神より自分を、自分の生きてきた事実を判断の基準にする。 一層自分を変えることの難しさを想う。どう〈み言葉〉を聞くのか。

9月16日 真昼の暗黒

マタイによる福音書 27章45節〜56節 阪井牧師

 神が言葉をもって世界を創造された。その時まで、世界を混沌が支配していた。と創世記は信仰をもって語る。神の言葉による「光」が闇を破ったのだ、と。ここに神の秩序が現れた。存在の秩序が乱れていた世界に神の言葉が秩序を与えている。私どもの生活も神の言葉で始まるべきを想う。主イエスの十字架に付けられた罪状書きは政治犯のそれである。ユダヤの宗教指導者も政治的指導者もお互い秩序の乱立とも言える自分の主張がそこにある。神の秩序が失われる状況を、この聖書記事は示す。真昼の時間帯なのに、一面が暗くなった、と。そこに主イエスの言葉が響いた。取り囲む人々は何事かを期待した。だが、心からの願いではない。興味ともいえる関心である。叫びは、世界の救い主からぬ言葉「わが神、どうして見捨てられるのですか」であった。どういうことか。ここに私どもの救いがかかっているとのメッセージを受ける。見捨てられるほどの罪が精算される十字架なのだ。これを美しく装ったり、飾ったりしてはならない。ガラテヤ3:1に「ああ物わかりの悪い…」は信仰者ガラテヤの人々への言葉である。顔を背けたくなる醜い悲惨な十字架の姿をイザヤ53章に預言の言葉としてみる。それが「わたしのため」だと知らないでいた、とも。十字架によって担われなければならない私どもの真実がこれだと受け取っているかを問われる。 救いとなる神の憐れみの「しるし」を歪めたり曲げたりしてはならない。御前に伏すのみであろう。

9月9日 自分を律するもの

エレミヤ書 35章1節〜19節 阪井牧師

 約束は人格に関わる事柄である。破約が重なると、その人との関係は意味を持たなくなる。善意を裏切ることにもなりかねない。エレミヤは主からの言葉を告げた。レカブ人全部族は神殿の一室に集まり、主の言葉を聞きもてなしを受けた。彼らの先祖ヨナダブの約束を守ってブドウ酒を飲まないだけでなく、豊かな農耕生活ではなく、より厳しい出エジプトの流浪・荒野生活を保ち続けていると証言した。便利さ豊かさよりも敢えて不便さや貧しさを選び、約束を生きている。自らの決断による不自由を自由としている。信仰は雰囲気や感性に動かされないもの、神に向かう自分の生活を示す。主イエス・キリストを通して神の働きかけへの応答が信仰である。私どもの教会の負うべき務めは、その構成員一人一人が、どのように主の働きかけに応えるかにかかる。人数の多い集まりに力を得る。しかし、その集まりの動きや雰囲気が教会の現実に影響を与え、左右するなら、この地域の人々に対する証し、世界の創造主にあって本来最も大事にすべきことを示すことが困難になる。地域・政治・行政の問題に関わることは大切である。本当に正しいものが何かをそこで証しする信仰が求められるている。主の真実が揺らぐなら、信仰に生きる命も失うことになる。人間は弱い。キリストによって新しく生かされる者としての信仰行為が希薄になると現実の世界への証しが無理、難しくなる。 神の語りかけを懸命に聞き、それに応えることが第一の務めである。

9月2日 一粒の麦・ステファノ

使徒言行録 7章54節〜8節前半 和泉 富夫先生

 ステファノはギリシャ系のユダヤ人であった。ユダヤ人に語られた神の救いは、イエスによってユダヤ人だけでなく全世界の救いになった。そのことを述べ伝えた初代教会の7人の執事の筆頭であり、説教が恵みと力に満ちた模範的な牧師であった。純血を尊ぶイスラエルからみればそれは反発の対象。サウロを首謀とする迫害を受けた。「この罪を彼らに負わせないでください」と自分を殺す人々の為の祈りは、イエスの十字架の祈り「彼らをお許し下さい」に通じる。これは祈りの重要な内容のひとつ「とりなし」である。いじめられたらやり返すのではなく、いじめた人を赦すことが出来るか。出来ないのならば自分が赦そうとする思いを誰かに託して伝えていく。それがとりなしである。サウロは後に「知らずに行ったことなので、憐れみを受け」た(Iテモテ13)と、とりなしによって懺悔した。私が今ここにあるのは誰かのとりなしがあるから。イエスのとりなしを知る者こそ、他人にとりなしをすることができる。実のならないイチジクをもう1年待って下さいという譬え(ルカ13:6)のとおり、待ってもらって赦されて実をつけることができる。地に落ちて死ななければ一粒の麦のままであるが、死ねば多くの実を結ぶ(ヨハネ12:24)。ステファノは一粒の麦となって死んだが、サウロからパウロに改心という豊かな実を結んだ。 私たちもイエスと共にある者として、とりなしによって、一粒の麦でありたいと願うのである。  (文責石黒)

8月26日 召しの目的を知る

エフェソの信徒への手紙 4章1節〜16節 阪井牧師

 教会の性格と目的に関する明確な解明にはエフェソ書が最適との紹介が『バプテスト教会の形成』にあった(P41)。教会を分裂させる危機をみたパウロは、教会人々への励ましと勧めがこの箇所の背景と想定できる。パウロは、この教会のために真剣に祈った。教会が負っている使命を正しく果たすための勧めの第一として、各々は主に招かれた召しに「ふさわしく」であった。「ふさわしい」ことに対して重要なことが3つ言われている。@「高ぶらない」。自分を自分で評価をしないで神のみこころに徹する。A「柔和」は単に優しいのではない。事実を事実として神の前に出る優しさである。神の前に「召された者」として歩むことの難しさがここにある。B「寛容」は忍耐して結論を急がない。感情に任せることをしないで、我慢をする。ここには主イエス・キリストの歩みを意識する時間と心の余裕がある。主の十字架は、主が歩まれた軌跡の結果を受けたひとり一人の「招かれ」であった。もはや、これらは、私ども生まれつき備えている人間の限界を超えている。祈りの力はそこにある。一人で足りなければ、祈りに加わる人を求める。祈りのある教会は、主の栄光が輝いている、と人は受け取る。主が働いている教会の「主は1つ、信仰は1つ、バプテスマは1つ」の信仰告白が土台となる。個が失われるのでなく、新しいいのちに活き結ばれている教会は、魅力ある集まりとなる。 互いに活かし合ってキリストの体を建てるのである。

8月19日 もう1人のユダ・即ちタダイ

ヨハネによる福音書 14章15節〜24節 和泉 富夫先生

 信仰者としての歩み方はさまざまである。足早に走り去る者もいれば、一歩一歩着実に歩む者もいる。一つの形に決められるものではない。12使徒の一人一人の姿はそれを示している。説教でとりあげる最後の使徒タダイについて知るのは、ヤコブの子であること、ユダと改名したこと、そしてこの唯一の発言「世には御自分を現そうとしないのはなぜか」だけである。この決別説教の趣旨は「私は歩むべき道を作った。歩みを支え導いてくれる精霊を与えた。精霊と共に生きよ。」とのことであった。伝記に出てくるような偉人に関心をもったとき、その生家やゆかりの地を実際に訪れてみることで、その人の心にふれるような経験をすることがある。カトリック教会などで行われる「十字架の道行(ドロローサ)」を体験することがあった。教会に掲げてある受難週から復活までの14枚の絵の前で順番に祈りを捧げる儀式である。イエスの歩まれた道を追体験したときに、偉人の心にふれた経験にまさる臨在感を得たものである。タダイは、他の人はどうなのかと問うことによって、自分自身の歩み方を問われた。先へ先へと進むだけが歩みではない。人々の最後になって、前を行く姿を見ることによって、最善の歩み方を選択することができる。他の弟子と同じくタダイも改名した。名を改めたほどに自分を変えられた。信仰はその歩み方によるのではない。 イエスと共に歩む道の中に、イエスに出会うことが出来るのである。(文責石黒)

8月12日 罵り「自分を救え」

マタイによる福音書 27章32節〜44節 阪井牧師

 キレネ出身のシモンは思いがけず主の十字架を負うことになった。昨夜からの裁判や尋問そして鞭打ちを受けてきたイエスには、処刑に用いる木材を運ぶ力の限界を来していた。ローマ兵は通りがかりのシモンをその代役に選んだ。シモンには不運としか言いようがない。しかし、キリスト教信仰にはこのような巡り合わせ、自分の意図と関係なく引き受けるべき「召し」がある。マルコ福音書記事には、彼の子どもの名を書いている。知られた名であったとしたら、シモンはキリスト教信仰を得て、主の重荷を負うたことが信仰の入り口になったと考えられる。「イエスに従うには自分の十字架を負って」との言葉を想う。信仰は自分が「ラク」になることでなく、他者の荷を負って真の自分を生きることだとの説明者もいる。巡り合わせが神の恵みに生きる道への始まりとなる。神の前に謙虚とされるとき、この世の最も最も苦痛をそのままイエスが受けた嘲罵の意味が自分のものになる。すべての人が救われるための「しるし」こそがあの十字架である。しかし、十字架を対局にするなら「罵りの言葉」の対象に終わろう。権力は全体主義から生まれ、権威は個人から生まれる。イエスの権威は既に私どもに委ねられている。罪の赦しと愛の業へ召し出されるのは、その人の徳や知識に依るのではない。イエス・キリストによって開かれた十字架への道を歩むこと以外にない。 神が用いるのである。私が与った救いを「あなたも」と願うようにと。

8月5日 誰と・何と共に?

エレミヤ書 34章1節〜22節 阪井牧師

 松代大本営掘削跡地を見学した。現在、気象庁精密地震観測室・松代地震センターである。約9ヶ月間に昼夜延べ300万人、極秘に作業が敗戦まで続き、総距離約11キロには呆れた。幅4メートル高さ2.7メートルで碁盤の目状態で3カ所。しかも75%の完成率という。その作業を見守った人々の心情を想像し、首都エルサレムがバビロン軍に攻撃を受けている時の王や貴族・民の思いに通じると想った。その時、エレミヤは都がバビロンの手に渡ることは主の御心だと語った。ユダの王ゼデキヤは受け止めた。容易なことではなかったはず。さらに、奴隷を解放する宣言をし、人々はそれに従った。戦況は変わり、バビロン軍が引き揚げることが起きた。事情はどうであれ、一時の状況変化により、神の前に約束した奴隷の解放を取りやめた。ここに主の裁きが決定的になった。先祖が出エジプトで奴隷解放を受け、神のものとなったことを忘れたように、今神の御心を拒むことは深い罪を犯すことだと。状況厳しい時は受け容れ、それが変わると拒否をする。神のものから、自分の依って立つものへと、姿勢が変わった。当時、奴隷は経済的社会的地位と信用を示すものであった。故意ではなく社会の慣わしを是としたのだ。聖書は、この「人の生き方」を問うている。神と共にあってこそ神の民(イスラエル)である。自分の持つものがイスラエル(神の民)とするのではない。 イスラエル(神の民)は神の言葉によってこそが全てなのだ。ここに教会・私どもの存在がある筈と。

7月29日 ユダの末路

マタイによる福音書 27章1節〜10節 和泉 富夫先生

 使徒の人物像を通して聖書の教えを学んでいる。残るは2人のユダ。イスカリオテのユダは首を吊って死んだ。使徒の中で最も不幸な最期である。あるときから、イエスに従い続けようとする者と、従うことをやめようとする者に分かれていく。その意味ではユダの裏切りも他の弟子達と大差ない。イエスは裏切るユダに最後まで赦しを用意していた。信頼して財布を預けていた。尊敬の意思表示として接吻した。師が弟子に対して友と呼んだ。それは全てを譲り渡した免許皆伝の意であった。だがしかしユダは裏切った。それを知って後悔したとある。「後悔」には悪いことをしたという省みしかない。「悔い改め」―やり直しの再出発の意味がないのである。この世にはなかなか再出発出来ない人がいる。目に見える罪。心の中の罪。できればやり直して進んでほしいと願う。後悔の末に悔い改めを自覚したのならば、両手を広げて歓迎したい。人は人と共に生きていけないことがある。どう譲り合ってもわかり合えないことがある。それでも背きあわずに、顔を向け合っておくのが大切だと思う。いつの日か互いの心を知る時がくるはずだから。ユダの罪は裏切ったことなのではない。悔い改めることをしなかった、赦されることを信じなかったのが罪なのである。このユダの末路に人生の警告を見る。私たちも遠くからでもいいから、常にイエスの方を向いていようと願う。 イエスが私の救い主だと気づく時がくるはずだから。(文責 石黒)

7月22日 荊冠の主を見る

マタイによる福音書 27章27節〜31節 阪井牧師

 強い者が小さい者や弱い者を「いたぶる」、まさに「いじめ」の構図である。宗教指導者たちは最高法員で、政治責任者は総督官邸でイエスを裁き、処刑を決定する内容はその典型となる。26:65以下では同胞ユダヤ人たちが、今ここで異邦のローマ兵が、イエスをいたぶり、侮辱の限りを尽くす。恭しくすればする程、侮辱の楽しさに遊びの要素が加わる。人間の実体・本姓を示すことをマタイ福音書は意識しているように思える。他人の痛みを楽しむその人も家庭人では紳士、日常の生活者である。それが状況によってはこれ以上残酷な場面はないと思える活躍をしてしまうのは、戦時下の日本兵が占領下でしてきたことを想起する。あの時、あの状況と言い訳をするのは強い者の言い分である。辛く悲しいそして1人の人間の尊厳を踏みにじられた人の言い分はどうか。選びの民の誇りにあるユダヤ人、世界を支配する軍事力をもつローマ兵のところに自分を並べるのは無理だろうか。そうする時に改めてこの箇所からメッセージが届いて来るように思う。人を惨めにおとしめる残忍さを、心の中で楽しむ人間性の前に、主イエスはその生身を正面から向き合って引き受けておられる。額に流れくだる血を、トゲの痛みを鞭打ちの刑の痛みに加えて受けとめられる荊(いばら)の冠を、単なる観察者として見るだけなのか。そこに私の救いがないのか。信仰の決断は私自身だけのものか。 神の御手がそこにあり、神の子とされていることの重大さを想わされよう。

7月15日 望みの絶える時

エレミヤ書 33章1節〜26節 阪井牧師

 同じ言葉でも聞き手と話し手との関係によってその響きや意味が異なる。従って神との関係が問われる記事をここに示される。思い込みと信仰との違いがそこにある。人は打ちのめされた時、どうやって立ち直るか。自分の依って立つ根拠が打ち壊されたならどうか。九州を襲った豪雨に「心が折れそう…」と話された夫人の目に涙を見た。神が共に居て下さる事を伝えたいと思う。エルサレムは城壁で囲まれているが、その外はバビロニアの軍隊で埋め尽かされている。陥落したり破れたりすることは決してないとの確信が消えるその瞬間を「神が顔を背けられた」と見た人々に、預言者の言葉が生きのびる希望と力になっていく。圧倒的人間の軍事力が目前にある。しかし、神のご計画とそれを受けるのは信仰に生きる民の恵みとなる。神は、イスラエルの民の罪を一切洗い流すために、そして新しく神の支配する地を再建するためであることを告げている。異教の民を用いてでも、主に対して犯した罪を「裁く」と同時に、回復への約束を示される。信仰なくしては受け取ることができない内容である。人も野獣も住まなくなった地に人が住み、羊と羊飼いとか群れをなす「生きる喜びを味わう」神の平和が語られる。神のみこころがそこにある、と。世の知恵、滅び行く支配者の知恵ではない。隠された神の知恵が恵みを受ける者の上に輝くことを語っている。そこで「私を呼べ。 私はあなたに答える」との言葉が最初にある意味となっている。感謝である!

7月8日 激高の民と沈黙の主

マタイによる福音書 27章11節〜26節 阪井牧師

 近すぎて事柄の「真実から疎く」なることが起きる。聖書箇所にそのことを意識させられる。イスラエルやユダヤ人、そして弟子たち、教会の私どもが問われる。国外の権力者が遣わされた使命・と責任を果たさない総督。自国の宗教指導者が神の子を拒絶するだけでなく、群衆を扇動する。民らは興奮して「バラバを赦し、イエスを十字架へ」と叫ぶ。対して主イエスは沈黙を保つ。冷静としか思えない。審判をする側がその沈黙で立場を変えられる。神の沈黙の恐ろしさを想う。本来の責任を果たさないなら、民衆の支持でしかそれを保てない。教会が問われるところである。ユダヤ人、イスラエルが問われて裁く側にあるのに裁かれている。経験と洞察の力が意味を持たなくなっている。そのままの事実を受け容れることができない。無理を押して、道理を後に退ける。この時、もう一つの不思議が語られている。ピラトの妻が裁判に口出ししている。「あの正しい人には…」の言葉である。夢は当時、神との関係で意味をもった。マリアの受胎をヨセフに告げ、誕生後にエジプト逃亡に神の働きを見た(マタイ福音書)。国外の異教人で、ローマ政府を代表するピラトの妻(名前も出されない人)が、主の裁きに神への畏れを告げる不思議である。ユダヤの律法専門の人でもなく、祭司長たちの中からでもない。聖書は促す。「あなたが福音を語らなければ、沈黙をもってしてでも、主イエスは示して止まない」と。 証しへの励ましを受け、語る者になりたい。

7月1日 回復の希望

エレミヤ書 32章1節〜44節 阪井牧師

  「希望が空しくならないために節制をする。朽ちる冠を得るためでさえ…、朽ちない冠のために…(Iコリント9:24)」の言葉を想起する記事である。希望は自分の中にその根拠を置く限り、努力や力量が鍵となる。時には諦めも仕方ない。でも希望の根拠が神にあると、結果はその人の側より神の側にある。人はそれに従うしかない。無責任と見えても信仰に生きる者の姿勢である。世界を創造された方の出された結果を受け取るのみ。神に「栄光を帰する」理由だ。しかし、人の不都合もある。預言者エレミヤの言葉が政治指導者に酷に思える。力で圧しようとする。獄中にあってなお、神のみ旨を実行するのは異常に過ぎないと思う。神の意図は人間の思いを遙かに超えていることの証明になっている。敵軍に市街が囲まれ都市陥落直前、宮廷獄中にあって土地を取得する。これは回復への備えである。神への背信と反逆への裁きについで憐れみによる救いがテーマとなる。この神の働きは信仰に関係ない民をも用いて救いをもたらすことの「しるし」となっている。狂ったように見える現実が神の計画の中にあることを知らせているのだ。回復の希望は人の「夢に過ぎない」事柄ではない。確かな「神の約束」、国土回復よりも民と神との関係回復という救いは人の目に奇異そのものである。人間の一時的関係回復から永遠の契約としての保証が、人の心に神を慕い、従う心を与え、神から離れることがないようにすることである。自らそれを喜ぶ、とも。

6月24日 後悔と悔い改め

マタイいよる福音書 27章1節〜10節 阪井牧師

 宗教・司法の最高法院は「イエス処刑」の裁き(決定)の結論が先にあって、その過程を1〜2節に見る。そして3節以下は、ユダの後悔の記事である。敵対者(律法学者や民の長老や祭司たち)がイエスを<亡き者>にしようとするのはそれなりに理解できる。しかし、主イエス自らが選び、召した弟子達、その召された弟子達は、生涯イエスを師として従う決意を持ったと思う。この記事のすぐ前の所のペトロ、ここではユダが裏切る話は不気味である。主イエスから「鶏が鳴く前に3度わたしを知らないと言う」の言葉を聞いたペトロは、力を込めて否定した。しかし、それが現実となった。一行の会計という重責を託されたユダが主人イエスをたかが銀貨30枚(奴隷の価値と同等)で敵対者に売り渡したのである。数字に強いユダが金目当てで主を売ったとは思えない。ペトロは自分の現実に大泣きした。ユダは銀貨を貰ったところに返しに行ったのは、自己責任の姿勢である。悔い改めと後悔との違いがここにある。後悔が自分で姿勢を立て直すことなら、悔い改めは自分から主イエスに<生き方>を変えることである。しかし、自分の力ではできない。ペトロは主イエスの言葉によって変わることができた。ルカ22:33の言葉がその根拠となる。主イエスの言葉に、主イエスの中にペトロが生きるのである。救いが与えられたと受け取る事になった。破れを自ら繕うことは、一時的であり、再び破れが生じる。 主に祈られ生きる者への招きをここから受け取ろう。

6月17日 神と出会うところ

エレミヤ書 31章1節〜40節 阪井牧師

 話の背景に「出エジプト」の歴史経験がある。直線距離なら歩いて2週間ほどを、出エジプトの民、奴隷状態からの解放を受けた民らは迂回をし、40年の歳月を費やした旅をした。与えられる神の恵みの水と食糧(マナ)に命が支えられたこと、また律法「神と民の約束」のしるしを受けた。約束の地は部族毎に割り当てられ、レビ部族はその割り当ての地を持たない。ヨセフ族はマナセ・エフライムに分かれ、サマリヤを首都に「エフライム」が北イスラエルを意味する理由となった。「ユダとエフライム」とは、かつての「統一国家イスラエル」を意味するものとなっていった。亡国となった「失われた民」が、主の憐れみを受けて回復する預言がエレミヤによて示された。律法を基準にする<古い契約>から、神の憐れみによる<新しい契約>がその回復・約束の<しるし>となる(旧約と新約の源はここ)。<参照マタイ5:17〜とルカ15:17〜>人間の思いに委ねられることは、神の裁きでもあることを知る。しかし、その呪縛から「われにかえる」のを待ち、本人が知らないでいても、それを認めて(父である)神は迎え出る恵みがここにある。「荒れ野」<生きるに厳しい環境>は自分を顧み、神との関係にこそ、真に「生きる道」があることを知るところであった。主イエスの「荒れ野の誘惑」記事を想起する。そこで主イエスが取られたのは、徹底した神(聖書に示されたみ言葉)に立つことであった。私どもにとっての荒れ野(困難や厳しさ)は、 改めて神の前に立つ恵みの時でもあるように思う。

6月10日 泣け、激しく

マタイによる福音書 26章69節〜75節 阪井牧師

 ペトロが3度主イエスを「知らない」と否む記事はよく知られている。主の晩餐の記事の最後に、「死ぬようなことがあっても…」と懸命な訴えをした12弟子の代表的な人物ペテロの話である。この記事に、私どもを励まし喜びを与えるどのようなメッセージがあるのだろうかを思う。教会に繋がる私どもは、むしろ<後ろめたさ>を感じる。最高法院が開かれる大祭司の官邸まで一定の距離を保ちながらイエス連行の後を追い至って官邸の庭に来た。一人の女性から彼に「あのガリラヤのイエスと一緒…」の言葉を受けて、意味不明を訴えて一度目の否定し、居場所を移したところでも「ナザレのイエスと一緒にいた」と言われ、強く「知りません」と二度目の否定をした。<知る>は関係を表す言葉である。その場の繕い状況は次の展開へ至る。無意識から強い意図になる。イエスと自分の関係が否定されることになる。「知っている」のに「知らない」が、第3の否認を誓い、呪いの言葉を伴うに至る。自分を守る意識を理解できるが、イエスとの関係を否定したところで本当の自分になっているかが問われる。イエスの言葉を想起して激しく泣いているのは、自分の情けなさではない。主イエスがその自分を立ち直らせるために、言葉を与えておられたことである。強いるのでなく、聞いていた言葉が自らと主イエスとの関係を新しく見出させることになっている。ここに新しいペトロの生き方がはじまる。 私どもへのメッセージをここに示されている。感謝一杯である。

6月3日 正しい懲らしめ

エレミヤ書 30章1節〜24節 阪井牧師

 主イエスから示された<主の祈り>の言葉に「み国を来たらせ給え」がある。神の国の時はすでにクリスマスの出来事の中に示されている。今は「神の支配」が私どもの生活の場となることだ。それは、人が主の御心に従い仕えるように<変わる>ことであろう。祈りは自分を中心にして求め願うだけではない。神が中心となっておられるかどうかである。そうする時、祈りは<かなう>ことを知ることになる。エレミヤの預言の中に、「主が、あなたがたは<私の民>…」とあることに注目する。これは大変重要であり、強烈なメッセージを覚える。深い傷、喘ぎや呻き、苦痛苦難…を知っておられ、神のその時に備えておられることを示している。だから、その時は救いの日、解放の時であり、「そら言」にならないと受け取る。自然の巡り合わせや、人の知恵や働き、あるいは神殿の制度などに依るのでなく、創造主の意志が働いて悲惨からの解放が語られている。神への罪を神は無視しない、と。正しく懲らしめ(裁かれ)るとある。神の子とされた者の恵みがそこにあることを想う。愛は叱責だけではない。愛する者を想う深い心の働きを見る事が出来る。「放蕩息子のたとえ」は、子の回復を喜ぶ父の愛がある。ヨハネ福音書15:13と3:16の言葉には、神の愛の極みが示されている。この私の「いのち」の造り主が、わが子のために自ら痛み傷つかれることをどう受け取るのかが問われる。本人をただ責める懲らしめではない。 神の愛を正しく受ける「いのち」を生きたい。

5月27日 目的と手段の関係

マタイによる福音書 26章57節〜68節 阪井牧師

 ローマ帝政時代初期、ユダヤ自治は国際関係以外大幅に認められていた。律法と行政の府・最高法院(サンヒドリン)があった。構成は議長(大祭司)と議員(70名)の国家エリートである。会議招集はイエス捕縛前になされ、過越祭最中の裁判のためである。しかも、死刑に判決する目的があって、偽証を求める異常さを見る。神の民が「神の子」を、神から与えれた律法に基づいて神を防毒していると裁く(手段)ために開かれている。神との正しい関係を裁くことによって、裁く者が裁かれる場面となっている。人間の関係で神の関係を裁くという課題を示している。イエスを裁く側代表の責任者大祭司は究極の尋問をする。「お前は神の子、メシアなのか」と。イエスは「それはあなたが言ったことです。しかし、……」と。人の子が神の子であることを示された時、最高法院として「神を冒涜した」と決することをした。この方において神自らを顕した方を、人が神を汚すと決するこの話に驚く。神に仕える民が「人の子」を裁くことであり、神の子が裁かれることだと語る聖書からメッセージを学ぶ。本来、全ての人を裁く方である神の子が、人に裁かれることを通して罪を担っておられる。私どもの救いはここにある。裁かれることを通して裁く者を受け容れる究極の愛を知る。あの十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」の言葉を想起する。 赦されなければならない私どもへの神の深い懐(ふところ)に感謝しよう。

5月20日 求め、見出せ!

エレミヤ書 29章1節〜32節 阪井牧師

 体内時計の他に2つ時を計ることがある。世間に共通している機械的時計と精神的な時計である。後者は人によって意味を持つか否かでその長さが違う奇妙な時計である。バビロン捕囚の期間は2年以内と語るアズルの子ハナンヤに対して、エレミヤは70年と手紙で捕囚の民に送った。この差について考えさせられる。手の届く時間と人の生涯を超える時間との違いは大きすぎる。しかし、この70年は神は恵みの約束を果たす時間だという。主が立てた<平和の計画>であるから、将来を見、希望をもって「家を建てて住み」「園に果樹を植えてその実を食べ」「家庭を築き」「捕囚として送られた町の平安を求め」「町のために主に祈りなさい。」と。寿命40年(想定)に70年はどうか。人の時としは絶えられない待ち時間を、受けとめられるように具体的現実生活を示している。神を信頼してこそであろう。ヘブライの手紙の言葉(11:1〜)を想起する。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」とある。信仰に生きる人の姿は呪いや恨み憎しみに捕らわれない。変えられるには、世代を超える必要を想う。神の計画が<平和の〜>と言われ、バビロン捕囚の民を通して世界の人々に神の祝福が行き渡るためと想う。そのような力・エネルギーが誰にあるだろうか。主に信頼する他はない。ある人の意志でも個性でもない。神の前に自分を委ねる他はない。 そこで主の語られる言葉を聞き、主を呼び求めることを勧められている。主に信頼しよう。

5月13日 イエスをとらえる

マタイによる福音書 26章47節〜56節 阪井牧師

 <最後の晩餐>場面の最後は、主イエスの象徴的裏切り予告に続くペトロたちの意気込みであった。そしてゲッセマネの園の場面で、主イエスが弟子たちに話している途中の捕縛となる。そこに「弟子」の語がない。何故<イエスと一緒にいた者の一人>との表現なのか。弟子たちの課題は、教会・私どものものと考えた。 暗闇の中に松明と剣と棒を持った兵士一隊が現れた時、持っていた剣で抵抗している姿である。勝てると思った筈はない。主を守れる意気込みに過ぎない。苦し紛れのもがきでしかない。ゲッセマネの祈りは「主のみこころのままに」であったことからかけ離れすぎ。委ねるには、それなりの努力が求められるのか。ちがう。<ゆだねる>は自分の身をまかすことである。<あがき、もがき>は相手にではなく、自分の側のことのはず。主イエスは捕縛を<神のみこころ>と受けとめる故に、剣で抵抗する者(弟子たちと表現していない)を諫められた。「剣をとる者は皆、剣で滅びる」と。自分の抱く恐ろしさが力の限りの抵抗となったことを想う。イエスを捕らえに来た人たちが<剣と棒とをもっていた>のも、<イエスへの恐れ>であったと言える。力でイエスを支配することの無意味さが示されている。父なる神のみこころが行われているのだ。「イエスを捕らえる」ことによって今、人は「イエスにとらえられ」るのである。ローマ兵の百人隊長の言葉を想起する「この人は真に神の人であった」と。 私どもも、その一人にされていることを喜びたい。

5月6日 委ねられるか?

エレミヤ書 28章1節〜17節 阪井牧師

 「何事にも時があり…」コヘレトの3章の始まりである。そして7章14節には「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ」との言葉がある。エレミヤの預言は受け容れられないだけでなく、身の危険をさえ覚える中でどのように振る舞ったかを学ぶ。捕囚期間70年のエレミヤ預言に対し、ハナンヤという預言者は2年以内の解放を言う。当然、人々はハナンヤ預言を喜ぶ。この人々の前で、エレミヤは「主があなたの預言の言葉を実現してくださいますように!」との言葉を残してその場を去っている。どのような気持ちであったろう。不本意よりも悲しい思いに苛まれたであろう。しかし、その事実を決着する行為に駆られてはならない。神の言葉に人間の情や思いが働いて、優劣を議論しても、決着させてはならない姿勢を学ぶ。「神の言葉を聞く」という事柄は個人の霊のこと、議論から結論することではない。「聞く」は「委ねる=信頼する」ことで、信頼して自らを委ねることだ。そこに、困難ながらも平安がある。エレミヤの退去には、神の言葉(預言委託)への信頼と自信溢れる姿を見る。打ち負かした筈と見えていても、勝者の側には深い衝撃が残ろう。神の言葉である<いのち>に身を委ねるのが信仰である。つまり、主に信頼して生きることは、わたしの<いのち>に関わる事柄である。神殿での祭司たちやすべての民の前から退去するエレミヤの信仰を与えられたい。 主の言葉に聞き従う信仰は、何よりもみ言葉を聞き委ねることにある。

4月29日 熱心党のシモン

使徒言行録 1章12節〜14節 和泉富夫先生

 シモンは常に「熱心党の」と冠される。イスラエルに最後にあらわれたこの政党は、人口調査に反抗して結成されたという。ユダヤの神ではなく、ローマ皇帝に従うことをよしとせず、暴力的抵抗も辞さない集団であった。十二使徒の半数は暴力主義者であったという。国を愛するとされるシモンと、国を売るとされているマタイ。正反対 の価値観を持つ者同士がイエスによって共に用いられた。教会も同じ。方向が違っても礼拝を共にできる。メシア到来の預言(イザヤ11:6)に「狼は子羊と共に宿り豹は子山羊と共に伏す」とあるのも、イエスがおられる平和な世界を示している。「平和を実現する者(マタイ5:8)」の「実現する」は「ならしむる」とも訳す。平和は神から賜るもの。人が作りだすものではなく、神から与えられた平和をそのままに、人の世に孵化させていくこと。平和ならしむる為に、支度と取り組みと用意とをもって、この群れに、人のつながりに、国に、世界に、平和を取り入れていく使命がある。ローマとの最大最後の戦いに敗れた憂いから成る熱心党。その中にあったシモンは、イエスと出会い、福音によって国を救い変えていこうと思ったにちがいない。人は孤独山中では変えられない。人の中に帰ってこそ変えられる。それは自分の個性を失うことではない。あるがままに清められ整えられて快復する。イエスと共にあれば、自分自身の有様を見いだし、生きて用いられることに気づかされるのである。(文責石黒)

4月22日 祈り「できることなら」

マタイによる福音書 26章36節〜46節 阪井牧師

 生活には後ろを精算し、前に進むため「節目」や「区切り」が必要である。記念日はその一つである。主イエスのゲッセマネでの祈りもその区切りとなる。直前は主(最後)の晩餐において、召し出された弟子達が主を裏切るとの記事だった。そして「それから」の新しい展開が始まる。世は<過越の祭>で賑わい、明かりがある。一方、この祈りの場所は静寂と暗闇に包まれている。その場所がゲッセマネ(油絞り)とは象徴的に感じる。イエスは伴った弟子達に「わたしと共に目を覚ましていなさい」と命じられて、すぐ近くで汗を血のように滴らせて(ルカ22:44)祈られた。その祈りは「父よ、できることなら…」との十字架への道への激しいものであったが、弟子達は眠っていたとある。イエスは「わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、祈っていなさい。…」と言い残して向こうで祈られた。これが2回繰り返され、3回目は「時が近づいた…」と話されている。繰り返される祈りは、更に深まった内容になっている。悲しみ悶えの祈りが「あなたの御心が行われますように」へと。私どもの「できることなら」は、自分に余地を残した祈りだが、主イエスの祈りは、自分を明け渡したもの、神の側に一切を委ねたものである。この祈りへと弟子達が招かれているのではないか。それは、私どもへの招きでもあろう。 新年度の教会総会を午後開くに際して、幻や夢が自分の側にあるのでなく、主の御心が行われることを祈る総会でありたいと願う。

4月15日 神の意と民の思い

エレミヤ書 27章1節〜22節 阪井牧師

 「信じる」というのは「見えない」ところにこそある。「見えなければ…」は信仰でなくなる。しかし、それを求めるところに現代の課題があると考える。「見えないもの」を「見えるように」との思いが働く時、その本質は失なわれよう。愛や親切はその例として想定できる。見えない人との関係を信じること、この大切さ・関係を、太宰治の「走れメロス」に扱っている。聖書のここには、神と人との関係「信じる」が扱われている。神が人に約束を与え、人はそれを信じ受け取る。ところが、自分の努力や解釈でその実現を早めたり確かなものにしようと、あのアブラハムはもがき、神に拒まれた。それは 神の意ではないと。これを受け取るから「信仰の父」なのか。ゼデキヤ王の治世の始め頃、エレミヤはイスラエルの人々の心の揺れを厳しく預言した。国際関係や政治の現実は容易なものではなかった。しかし、預言は<民の思い>を捨て、<神の意>に従うことである。バビロンの支配を受けることが<神の意>を<生きる>ことだ、と。まるで敗北主義と言われても仕方ない生き方である。伝統や権威にこだわるところに<神の意>があるのではない。神の民の伝統や神殿の聖具という「見えるもの」よりも、「見えない」神の意である<いのち>こそが何ものにも代えがたいことを預言した。人々はこの預言者に殺意をさえ抱いた。人に<神の意>は必ずしも納得や理解できるものではない。 だから、神の約束に委ねる信仰に<生かされ。生きなければならないのだ。>感謝である。

4月8日 命を受けるため

ヨハネによる福音書 10章7節〜18節 阪井牧師

 人間の範疇を遙かに超えた神の御業がイースター(復活)の出来事である。知的理性的理解を試みるならキリスト信仰から離れる。同じように私どもの「生まれ」や「死」も人の自由に委ねられない。与えられた「いのち」をひたすら生きるべきです。これに神が主イエスにおいて関わることがこの記事である。羊と羊飼いの関係になる。 「羊の門」「よい羊飼い」は〈羊のいのち〉に関係する。〈いのち〉は与えられているが、失われる危険(強盗や盗人)に脅かされる。物理的力だけではない。最も強力な脅かしは「知ること」であろう。〈いのち〉を失うことが起きる創世記2〜3章の物語を想起する。羊は「命を受け」生きるべきである。そのために「命を捨てる」羊飼いが働く。その羊は囲いの中だけではない。今、まだ入っていない羊がいる。導かれ、一つの群れになる(命を受ける)ために、羊飼いは「命を、再び受けるために、捨てる」とある。十字架は復活に向けた〈羊が命を受ける〉ための神の愛の働きである。イースターは神の勝利の出来事である。ここにキリスト教信仰が立っている。この出来事を私たちが最も身近に生活した人々に想起するのだ。慰めと希望と生きる力をキリストの出来事から受けるのだ。一人の信仰者のために「主イエスが命を捨てる」と語られるメッセージを、最も深い内側で受け取り聞きたい。羊は「羊飼いの声を聞き分ける」のは、自分の命がその声にかかわっていることを知っているから。 私が命を正しく生きるための声である。

4月1日 二回の「たとえ」

マタイによる福音書 26章26節〜35節 阪井牧師

 受難週の〈最後の晩餐〉で知られる場面の記事である。都エルサレムには国内外から多くの人が〈過越の祭〉を祝い集まった。イエス一行もそれに含まれる。そこで過越の食事をした。これは主イエスが十字架にかかる直前であった。ダヴィンチの名画に見る。パンは出エジプトを想起する〈種入れぬパン〉であった。しかし、主イエスの裂いたパンは〈わたしの体〉と言い、杯を〈わたしの血、契約の血〉と言って弟子達に与えた。まだ起こっていない出来事を予告されたが、弟子達には通じない。38節の「たとえ…」とのペトロの言葉は、堅い決意を示すが、主イエスの言葉の真実を受け止められない証明となる。より具体的な事柄を示される主の心遣いは、私どもに向けられている。固い決意が頑固となっているとは思いも依らない。更に、重ねて「たとい…」を言うペトロの姿が自分と重なる。悲しい現実を示されているように思う。誰が好んで自分の師を裏切るだろうか。裏切らざるを得ない現実を主イエスは、その身に引き受けることをこの食事に示しておられる。食べて飲むそのたび毎に祈り讃美をされたことを忘れてはならない。この〈主の晩餐〉は、イエスを死へ追いやる裏切り(罪の深さ)への赦しである。教会はこれを「聖餐式」として引き継いでいる。人間的な感情や心情の入り込む余地は全くない。祈りや敬虔さが有効ではないことを心に留めたい。 主が祈って主の晩餐に招いてくださることに、心砕かれざるをえない。感謝しよう。

3月25日 言い残すな!

エレミヤ書 26章1節〜24節 阪井牧師

 証しの言葉に「歴史に委ねる」がある。時代のただ中では、精一杯の決断と努力をするが、その結果は後の人々が判断することを意味する。エレミヤは神から命じられた言葉を人々の前で披露した。条件「ひと言も言い残しておいてはならない」があった。日本語の表現の仕方には奥行きがある。そのまま全てを言わないで相手の「よみ」に期待する。俳句や和歌が上品なら、川柳はやや庶民的だ。「武士の情け」は相手を追い詰めないで自ら手を緩めて譲る。美談はそこに生まれる。しかし、聖書の世界は徹底を求める。そこに命がかかっていることを知る。日本的感覚では聖書の世界は異常となるかも知れない。人と人との関係なら譲るとか、相手に配慮するとかは関係を円滑にする。だが、聖書においての神との関係にはその必要を一切認める必要がない。いな、正しい関係を失うことを示している。預言者エレミヤを拒否したのは、神殿に仕える人たち、祭司や預言者たちであったのは、私どもへの警告となる。イエスを捕らえようとしたのは、律法学者たち、宗教的指導者たちであった。また裏切りは、弟子たちであった。彼らは神に仕えることに熱心であった。その神関係は自分たちの内に抱いたイメージが正しいとした所に起きた。神の言葉は語りっぱなしにならないことも知る。何処までも人間の知恵を越えて人の奥深くに働きかけていく。命を与えた真実なる言葉自身の力である。 神の言葉に私どもが生きているかを問い続けることを知る。

3月18日 食事の席で

マタイによる福音書 26章17節〜25節 阪井牧師

 ともに「食卓を囲む」ことは人間の関係を築き保つに大切な場と言えよう。「同じ釜の飯を食う」は、生活を共にする親しい関係を表す言葉に用いる。私ども今の生活環境は、家族とさえ食事を共にすることが難しい。家族関係が円滑でない原因の一つはここにもあると見る。主イエスと弟子たちの食事は、後に<最後の晩餐>と言われるものである。聖書は、「除酵祭の第一日」とか「過越の食事」との言葉で場面を始めている。これは、イスラエルの歴史・出エジプトの出来事を想起させる。滅びから救い出された歴史的経験の<荒れ野の旅>から<約束の地>へ至った<神のめぐみと導き>は、イスラエルの存在根拠であり、誇りでもある。その歴史背景を伴った<食事の席で>主イエスの話が「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」であった。弟子たちの心は騒ぎ驚いたに違いない。慌てて「主よ、まさかわたしのことでは…」と言い始めたのは無理からぬことだったろう。そこにある「わたしの時が近づいた。…」の言葉に思いを至らせる余裕はなかった。主イエスが福音を宣べ伝え始められた時の言葉(マルコ1:15)を想起する。<神の時>がこのようにして進められているのを知らない弟子たちは、私どもの教会の姿に似ている。神の時・神の計画に人間が立ち入ることは、裏切りとしての関わりしかできないのではないか。その事実を主イエスは知ってなお弟子たち(教会)に自らを委ねられたことをどう受け取るか。 今も主は私どもに委ねて福音宣教をされている。

3月11日 声・音・光が絶える

エレミヤ書 25章1節〜38節 阪井牧師

 音、声、光、のない世界を経験して一年が経過した。そこには底知れない不安と不気味悪さがあった。世界創造の物語にある『混沌』をイメージする。あらゆる繋がりが途絶える世界を想う。エレミヤがユダの人々やエルサレムの住民に語る将来像はこれに似ている。喜び、祝い、生活の現実が絶える、と。してみると、騒音は神の祝福の世界、生活の営みが行われている証しである。エレミヤは預言者として少なくとも23年間、神から託された言葉を語り続けてきたのに、人々は耳を塞いで聞かなかった、と。事実は目前の事柄対処に精一杯の生活をしていたのだろう。それが誇りであり、存在の根拠である神の民が神の声や言葉に耳を塞ぐ筈はないと思うからだ。例え、神の民でも現実の世界を無視できない。小国家間の国際、民族、経済問題などがある。現代の私どもにも文明の発展や進化が生活の中に入ってきた。時間と便利さを享受している。神の声・音・光を無視するのではないが、聖書を通して聞こえる「神の言葉」は後回しになっていないかを考えさせられる。イエスの言葉をどう聞くか。「わたしに従ってきたいと思うなら、自分の十字架を負いなさい」は自分の生活の今を問うているように思えるのだ。持っているものを手にしながら従うことはとても難しいことだ。自分の力には余りある事だとも言える。改めて、「私の十字架を負いなさい(マタイ11:28)」の言葉を聞き直したい。 十字架の陰にその身を置く恵みを知る者だから。

3月4日 「そのとき」とは!

マタイによる福音書 26章14節〜16節 阪井牧師

 人の成長に時期や速度はさまざまで、聖書理解や信仰にも同様な真実があるようだ。このユダの裏切りの記事はその類にならないかを想う。自分の生涯を懸けてキリストに従い仕える者となった弟子たちの一人である。主イエス自らが選び召した人、最も近くにいて、その師の言葉を聞いていたし、一切を見ていたのに「裏切り」が起きた。この記事にどんなメッセージがあるのかを考える。その糸口は「その時」との接続の用語に注目をする。直前にあったベタニアの女性の記事と関係を見るのだ。女性には「自分のいのち」を生きる喜びを表す行為であったが、周囲には「むだ」に見えて批判対象となった。それを主は「葬りの準備」と受けとめ、想定外の評価を与えている。この流れの中にユダの行為が「この時」に関係しているのではないか、と。誰がムダを求めるだろうか。誰が初めから裏切りを企てるだろうか。キリストの十字架はムダや裏切りか。神の計画は人間の図れることではない。しかし、そこに人の関わりを差し挟もうとする時に裏切りが表面化するのだ。そこに人間の限界があることをみる。主イエスのゲッセマネの園で祈られた記事を想起する。血のように汗を流しながらの祈り「死ぬほど」の苦しみはこの限界への姿であろう。神に自分を明け渡すことがどれほど困難であるかがそこにある。改めて主に委ねる信仰を歩む事への難しさをみる。と同時に「みこころのなりますように」との祈りへ導かれる。 自己への固執からの解放を祈り続けたい。

2月26日 置かれた二つの籠

エレミヤ書 24章1節〜10節 阪井牧師

 イエスの系図がマタイ福音書の冒頭にある。それを3つに区分けするその境にダビデとバビロン捕囚がある。イスラエルの歴史に残る出来事と言える。預言者エレミヤの活動は第2の分岐にあたる。神の民であるイスラエルという国が滅びるという悲惨の極みが神の意志であり、御手の働きの業であり、その「みこころ」に従う捕囚の民を、主は一つの籠にある「良いいちじく」と見なし、それに抵抗してエジプトを頼りにした王たちや民えを残りの籠に盛られた「悪いいちじく」と言われる。主は第一の籠に目を留め、恵み、主を知る心を与えるが、第2の籠のものを「非常に悪くて食べられないいちじくのように」すると言われる。神の働きとみこころは、不可解としか表現できない。ここに信仰の真実がある。神の「みこころ」は説明や論理に納まらない。パウロの「だれも聖霊によらなければ、イエスを主と言えない(Iコリント12:3)」との言葉を想起する。神の働きに人の立ち入る余地が認められないことを知る。「主告白」は人間の決断よりも神の働きによってなっている。主にすべてを捧げる(神殿の前に置かれた籠)ものであって、主がそれを用いられることを知る。これはローマ12:1にある「霊的な礼拝」に他ならない。神の民(キリスト者)であること、律法に熱心(信仰生活)が重要というよりも、人はその「こころ」を神に集中しているか、目を神に向けているか、主に向かって真心をもって歩んでいるか、がだけ求められる。 良いいちじくは神の裁量にあることを想う。

2月19日 実証論者トマス

ヨハネによる福音書 20章24節〜29節 和泉富夫先生

 トマス(ギリシャ語でディディモ)は双子の意味だが、イエスと共に生きる者ととらえる。マルコ・ルカでは8番目だが、時代が下るにつれて7番目(マタイ)6番目(使徒言行録)と名簿順が向上している。外典にトマス言行録があり、後に東方へ渡ったとされ、インドの聖トマス教会に、さらに中国の景教にも影響を与えたとも言われている。聖書への登場は少ないがトマスが言わなければ分からずじまいになる真理が多い。ラザロの死の際(ヨハネ11:1)には「一緒に行って死のうではないか」と弟子たちに勇気を与えた。分からないことをそのままにしないで「どうして道を知ることが出来るでしょうか」(14:5)と問うたからこそ「私は道であり、真理であり、命である」という真理を得た。復活を聞いても実証論的な立場を崩さず「釘の跡を見ないと、指を入れないと信じない」(20:25)と疑ってみせたことで、逆にイエスから「手を当ててみよ」と求められた。手話では手のひらに指を刺して探る動作でキリストを示す。分からない体験を徹底的に問うことで、共にいる救いを得た。まさに信仰とは見えない事実を確認すること(ヘブル11:1)である。讃美歌を歌う際にふと落涙することがある。そうしたときこそイエスが共にいることを感じる。聖オーガスチン曰く「トマスは後世の人々が疑わないで済むように疑った」。私たちの総代としてイエスに叱られてみせてくれた。 疑う心で信じてこそ、臨在の確信が得られるのである。(文責石黒)

2月12日 膝に飛び乗る猫

マタイによる福音書 26章6節〜13節 阪井牧師

 生活の環境が私どもと大きく違っている聖書の記事は、想像をたくましくせざるを得ない。同じ記事がマルコ・ルカにある。表現のわずかな違いにも筆者の意図があるかも知れない。場所はベタニヤとある。イエスがエルサレムに旅した折、足を止めた地名と私どもは知っている。ルカには地名がなく、ファリサイ派の人たちと食事をしている。ヨハネはマリアの家とある。マタイは思い皮膚病の人シモンの家。これは、神との関係が壊れれていると見られる人のところを意味する。しかも、イエスがそこで食事の席に着いていた。食事を共にということは、特別深い関係を持つ人との交わりである。そこに一人の女が来て、イエスの頭に高価な香油を注いだ。弟子たちはそれを見て憤慨し、「無駄遣いだ」と非難した。なぜ?日常の生活感覚では、一瞬の多額消費への非難は正しい。もっと有効利用の仕方があるはずと考えて当然である。自分の全存在を賭けて主イエスに仕えようとした女性を、主は受けとめられた。この女性は「膝の上に飛び乗って寛ぐ猫」にみえる。安心しきってその身を委ねた姿は、回りの雰囲気を和ませることさえ起こす。人が近づきがたい場所に主イエスがおられるのを知った女性は、主との出会いの瞬間を捉え、自分を主に委ねたのだ。主イエスは十字架への備えとして受け取り、「私に良いことをしてくれた」と語られたことに心と目を注ぎたい。 福音を委ねられた者(信仰者)は誇りと喜びをもって遣わされたい。

2月5日 語るより聞け

エレミヤ書 23章1節〜40節 阪井牧師

 「牧者」は羊の世話をするのが務め、使命です。エレミヤの預言には、「私の羊の群れを滅ぼし散らす牧者」との主の言葉がありました。イスラエルの民は神の羊です。この羊の世話は、油注がれた王ですが、結果として神の意志に応えられないことがその内容です。なぜそのようなことが起きたのでしょう。羊に仕え働くはずが、羊に仕えさせることになっているのです。周辺環境の、時代の状況が様々合ったことでしょう。主イエスの言葉を想い起こします。「わたしは良い羊飼いである。羊のために命を捨てる(ヨハネ10:11」や「人の子は仕えられるためではなく仕えるため、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た(マルコ10:45)」の言葉です。この「命を捨てる」や「命を献げる」は神に向けられています。ところが、エレミヤの預言している牧者(=王)たちは、命を捨てさせたのです。主はこれを裁き、新しい創造に向かわれました。残った羊を集め、主の牧場に帰らせ、子を産み、数を増やさせる牧者を立てると約束が語られました。恐れること、怯えること、迷い出ることもないというのです。主の約束の言葉に信頼する牧者は、いささかも自分の思いや主張を差し挟むことなく遣わされたところで全力を注ぐのです。そのために、自分の死をさえ引き受けるのです。主イエスを私どもの牧者として与えられていることを喜びましょう。羊は牧者の声に従うことによって命を保つのですから。 「憩いの水のほとり」に伴ってくださいます。

1月29日 言葉が終わる「時」

マタイによる福音書 26章1節〜5節 阪井牧師

 弾ける瞬間、息を止める。この箇所はマタイ福音書がその時を示していると思える。「すべて話終える」がその根拠である。話は頭に重心がかかる。この後はどうなるか。取り巻いていた群衆ではなく、弟子たちへの語りかけ「人の子は、十字架にかけられるために、引き渡される」との内容となっている。地上での最後の部分、イエスによって召し出された弟子たちと共にある事が含まれている。ユダヤ人や律法に拘る世界を越えて、新しい神の国に生きる人々と共に歩む新しい在り方への宣言である。神の民に、「過越祭」は約束の地への旅立ちを想起する歴史記念であった。「子羊の血」が彼らの救いの〈しるし〉であった。今、「イエスが十字架にかかるため」と言われているのはこの歴史事実に重なる。宗教的政治的指導者たちが関わらされることを「引き渡す」に見る。人間の主張や都合が表面に見えていても、背後に神のご計画が進められているのだ。ましてや、〈成り行き〉ではない。時に、日常では不都合や下り坂の憂いで心悩まされることがある。神の国に生きるため、主イエスと共に歩む者に、神はそれを放置されるであろうか。そこには神のみ心がある、と受け留めることができるのではないか。祈りへの道がそこにあることを教えられる。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く」ことができる人に育てられる機会になると受け取れるのだ。主は十字架において、この私どもと共におられる〈神のみわざ〉である。 共に歩む者への主からの言葉を聞こう。

1月22日 聞こえているか

エレミヤ書 22章1節〜30節 阪井牧師

 一つ言葉、口に出す側と聞く側では違う響きとなる経験をする。求めて聞く場合でも、求められる側は違う意味に受け取らざるを得ない状況があると知る。捕囚の状況にあることが、自虐的にするを想う。明らかにそれを意図する求めがされたのだ。楽しみの求め「歌え」は、「神讃美」を嘲笑する意味となる。神が捕囚の悲惨な状況に対処できない、しないことを笑い楽しむ求めだ。他者の痛みを自分の誇りにするのと同じだ。イスラエルの悲惨は、何故かをエレミヤは告げる。豪華きらびやかな神殿が神を讃美することではない。王も親の権威を継承することや王宮の立派さが価値を持つのではない。「神の言葉」を聞くことがその根拠でなければならない。キリスト教信仰は、親や血縁などの繋がりが意味を持つのではない。今の私、今の教会への問いがそこにある。神のみ手の支えや助けを受けて今があることをどう思っているか。神の言葉より、自分を根拠に「今ある」主張になっていないか。どんなに見栄え華やかさがあろうとも、主は「生きておられ」約束は続いているのだから、その言葉は今も生きて働いているのに、無視をすることは恥と卑しめの理由になるのだ。信仰にある命から外れてはならない。神の言葉を聞くことによって神の前に自らを吟味し正すことができる。霊的に生きる者となっている時、活きた証し「私は活きている」が用いられる。 やがて衰える外より、心に語り注がれる言葉に、心鎮めて聞き続けよう。

1月15日 何を求めているのか

ヨハネによる福音書 1章35節〜51節 阪井牧師

  「人が人を思う。それ以上に美しいものがあるだろうか」の言葉が、東日本の被災者を支え、生かしている」との投書報道を見た。本来、人は関係や繋がり=絆を求めて生きているを考えた。今日の便利さや快適さの追求がそれを蝕んでいる、を想う。ヨハネの弟子(二人)が、イエスの弟子になるこの記事は、それを考えさせる。「見よ、神の子羊だ」と主イエスを指し示された彼らは、ヨハネを離れてイエスに従った。ヨハネの最後の登場場面であることが意味深い。徹底した証し者(荒れ野で叫ぶ声)の生涯である。初代教会(例コリント)には指導者への繋がりによる党派があった。ヨハネは違った。イエスに彼らを託すことができた。そしてイエスからの眼差しと声によって新しい「出会い」が起きている。そのアンデレが兄シモン・ペトロをイエスに出会わした。家族伝道である。これが全世界の歴史を動かすことになると誰が想像できよう。次いで、地域伝道でもある。イエスに「わたしに従いなさい」と声かけられたフィリポが、同郷のナタナエルに声をかけた。しかし、強い抵抗、拒絶にあったフィリポは、「来て、見なさい」と言い、イエスとの出会いのきっかけとなった。詰めは主イエスにあるこれらの出会いから学ぶのは、人を神はみ業に用いられることである。強いられてではない。その人の内にある求めが用いられている。「何をもとめているのか」の言葉が、深く潜んでいる賜物、多の人の生き方に関わる働きを目覚めさせている。 語りかけを聞こう。

1月8日 12才という年齢

ルカによる福音書 2章41節〜52節 阪井牧師

 ルカ福音書の信仰がこの個所に記されている。旧約聖書の記事を背景にして神殿詣でが場面となっている。ユダヤ人の一般的生活の慣習を語りながら、〔過越の祭り時(子羊の血)、12才(成人13才の前年)、主イエス捜し、三日後に、神殿境内で、見出す〕の言葉には、後の主イエスの十字架と復活の話が重なっているところに神学があるとも言えようか。親としてどれだけ心配したか、のマリアの言葉にイエスは答えた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが父の家にいるのは当たり前だということを知らなかったのですか」は〈親の心子知らず〉を想うかも知れない。この〈子〉の誕生には神の秘密があった。マリアは「心に納めて、思い巡らした」(2:19)し、ヨセフは正しい人(マタイ1:1:19)であった。毎年、エルサレムへ旅をする信仰の両親であったこの人が、主イエスを捜し、見出したのが神殿の境内であることに聖書のメッセージを受ける。親であることの確信、それは生活の慣れとも言える信仰姿勢を想う。主イエスが特別の方、父なる方(聖霊)のみこころを歩む方である。どんなに近くても、自分の手の中に思い込んでいることの誤りを意識させられる。家族的関係や人間的な繋がりの中に、主イエスとの関係を取り込むこへの警告を想う。新しい年の歩みだし(過越しの時)が知恵や慣れで、真実な主イエスを見出しうるとする時、倫理や道徳、生活の種々の手段が場を占め、 神の言葉を聞く場を失うことになる。祈りをもって先ず、聞くことを。

1月1日 主にある慰めと憐れみ

ルカによる福音書 2章21節〜40節 阪井牧師

 ルカ福音書は、人々がユダヤ人としての登録をする時に、全ての人の救いの告知が羊飼いたちに告げられた、とある。これは、自分の存在が羊にかかっていることを意味している。政治と宗教(律法)が存在を脅かしているのではないか。神のいのちへ導く道は、シメオンとアンナという人たちによって証しされている記事である。彼らは主イエスが両親に連れられて、清めと贖罪の献げものをもってエルサレムの神殿に来た。その時、当然祭司が登場して良い。だが、そうではない。不思議な記述である。シメオンについては、<正しい人で信仰があつく> <イスラエルの慰められるのを待ち望み><聖霊が彼にとどまっていた>とある。またアンナは、若い時から苦労をし、84才になっており、 <神殿を離れず> <断食したり祈ったりして><夜も昼も神に仕えていた>女預言者と紹介されている。 彼らが神殿の境内で幼子イエスを迎えて祝福を祈り、喜び神を賛美している。幼子の誕生が、やがて受けられる十字架、そこに神の計画があることの証しをしていることを記している。今、私どもは激変の時代と言われる。イエス時代に似ている。今までの基準根拠が揺れて、正しさや向かう方向、自分の生き方を求めざるを得ない時に、イエス・キリストの誕生が意味を持つ。永遠の神が、私どもの時間の中に自ら関わってくださるのだ。<神の救いの出来事への証言という使命>が私どもに託されている。 「恵みの時、救いの日」を共に喜び讃美しよう。 


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新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
       (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988


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