日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月29日 恵みの時・救いの日

イザヤ書 49章7節〜13節 阪井牧師

 太平洋側の南方に新島が生まれ、成長を続けて隣の島(西島)に接続したと報じている。溜まったエネルギーの噴出後の空白はどう補われるのか想像し心配した。対処は個人の限界を超えることだけは確か。現代という世界はそれに似ている。クリスマスの喜びは、この世界に「神が人になった出来事」にあり、自分の事柄となる時に大きいものとなる。バビロン捕囚の民が、個人の領域を越える神の業による「解放」の状況を扱う内容の記事である。裁きの捕囚から解放だけでなく、新たな「主の僕」の使命が与えられる預言を示している。それは、神の慰めと憐れみである。主の民がイメージしていたメシア到来は威厳と力に満ちた方であったが、預言はそれと違う「僕の姿」イザヤ53であった。ここが、主イエスの誕生と重なる。罪の支配からの解放(救い出し)には代価が要る。主イエスの十字架の血は、その代価の支払いである。これを贖いという。でも、人には敗北、廃棄に見える。人に侮られ、捨てられ、顔を覆って忌み嫌われる方の出来事にこそ救いがあるとは受け取れなかった。そのイスラエルを神との回復のために仕える僕が「主の僕」・主イエスである。私どもに仕えてくださる救いにあずかり、新たな選びと召しがそこから起こる。神のご計画のほかに理由や説明はない。神のご計画と受け取ることができる者を介して、そこから神は新たな希望と生きる力を必要とする者に用いられる。 「恵みの時」を喜び歩み行く者に「救いの日」を備えられるのです。

12月22日 人間を照らす光

ヨハネによる福音書 1章1節〜5節 阪井牧師

 クリスマスおめでとうございます。神が人の世界に直接関わった出来事として祝う。ヨハネ福音書は、その出来事を直接に記述していない。しかし、象徴的表現を特色とするこの書は、世界の創造物語との関係する出来事として記述している。「初めに言があった」は、神の創造の業がそこに始まっている創世記の書き出しを想起させる。<言葉>と<言>の違いは決定的である。神の<言>は、即現実となるが、人の<言葉>は約束に通じる。実現への努力は最大限なされるものの、そのまま現実になるわけではない。ヨハネ福音書は、<言>は神と共にあった、とそこに神の意志を記した。神の意志は天使により告げられたが、マリアには自分の存在否定にあたる言葉であったと思う。当時の社会に「生きる」ことの許されない出来事だから。しかし、<神が人になる>この出来事は、私どもに救いの出来事として喜ぶ。他人事の喜びになっている事を想う。幼い女性であるマリアは「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように(ルカ1)」と応答している。神の意志に「いのち」を懸けて従った。理屈も納得もない。神に徹底して従う以外にない。これが信仰の姿である。実は、クリスマスはこのマリアの信仰を喜ぶことでもある。自分の存在を懸けてこそ喜び祝う出来事なのだ。新しい「いのち」の出発の時となる喜びであり、神のみ業をこの身に受ける決意が求められる時でもある。暗闇のこの世界に、神の光を輝かすのは、その信仰に歩む一人ひとりにかかっている。

12月15日 道を備えるもの

ルカによる福音書 7章24節〜35節 阪井牧師

 時間の中に生活する者には、「待つ」ことは日常の事である。しかし、そこには大きいエネルギーの消耗がある。「〜衛士があしたを待つにまさりて…」の詩編の言葉を想う。自分の思いと異なる「神の時」に向けてこのアドベントがある。同時に、心の隙や誘惑が潜んでいることを想う。アブラハムが神の約束に自力で対応しようしたが、受け入れられなかった。北イスラエルのアハブ王は、妻にシドンの王女を迎えて「主の前に最も大きい罪を行った」と言われたのもその理由と考える。知恵を尽くした業が、神との距離を築き、いのちを失う悲しいことになる。状況とその時に、必死な思いでもがいたことが、別の時間と状況にあって「おかしい」とすぐに判断できることさえある。バプテスマのヨハネは、獄中という全く別の状況にあってイエスに問いを出した。「見える」ということを想う。「来るべき方はあなたですか。それとも、他の方を待つべきですか」と。問いに答えた主の言葉の最後の「わたしに躓かない者は幸いである」は深い。人は、どうしてもイエスに躓くことを意識する。この方において、神が私どもに働いておられると信じ受け取ることは容易な事ではないからだ。「神の時」「神の業」は、人の叡知で納められないのであろう。クリスマスに向かうアドベントはそのために「備え」がどうしても必要なのだ。それは、知恵の業ではなく、自分を変えることにある。聖書に向かって自分が変えられていく経験ができますようにと祈ろう。信仰の証しはそこから始まる。

12月8日 強いられる歩み

使徒言行録 20章17節〜38節 阪井牧師

 人が苦しい時ほど、誘惑は強く働きかける。パウロは3回目の旅の帰路、エフェソに立ち寄らないつもりであった。が、どうしても話そうと、すでに通り過ごしたミレトにエフェソの教会の指導者を呼び寄せて語る内容がここにある。以前の認知との関係を絶って新しい場所で福音に仕えるべきを思い返しながら、パウロの心境を想う。共に歩み、教え、証ししてきた群れに向かって、今、自分は「霊」に促されてエルサレムに行く。つまり、これがあなたがたとの最後の時となることを意識して、<教会のいのち>を担う人として歩みに勧めをする。あなたがたは、「主が群れの監督者に選んだ」。この群れに対して<いのち>を危うくすることが起こる。「外から入り込んでくる場合と、群れの中から邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする場合である。「目を覚ましていなさい。」そして、「神とその恵みの言葉」とに「あなた方を委ねます。」と。教会のいのちはここにある。イエス・キリストの体の務めにあずかる者は、すべての人々と共に神の恵みを受け継ぐために選ばれて、用いられていくのだ、と。横の繋がり(教会に心を寄せる方々)に情の篤さに引かれて歩む事への警告となっている。イエス・キリストの体を構成する私たちは、その持てる性格や能力を働かせることにかかっているのではなく、御心に「従う」こと、全てを主に捧げて仕えることにある。 パウロがエルサレムに赴く理由は、主に仕え、主の求めに応えることにあることを受け止めたい。

12月1日 心を騒がせるな!

ヨハネによる福音書 14章1節〜17節 阪井牧師

 私たちは「教会になる」を目指して準備を進めている。その中で大切なことは、教会としての信仰の「言い表し」を互いに確認すること。その根拠を聖書に置いて検討を続ける。福音書はイエス・キリストの生涯の記録である。ヨハネ福音書の持つ特別な関心3つを紹介する。 @イエスとは誰か A主イエスが神の子であることを示すのにどんなことをされたか B新しい教えを受入れて主イエスに従う人たちと、律法に忠実であろうとした人たちとの関係である。「最後の晩餐」記事に続くこの今回のヨハネ記事とアドベントとの関係に心を用いながら学ぶ。弟子たちとの別れを備えさせる主イエスの話が内容である。「心を騒がせるな」で語り始めるその勧めは、「創造主の父なる神」と「み子イエス」との関係を語りつつ、イエスと弟子たちとの関係に話は展開している。その鍵の言葉は「内にいる」「共にいる」である。自分一人と考えるなら、厳しさと辛さに絶えることが困難となる。ところが、人の目に独りでも、事実は違う。「真理の霊」があなたがたの「内に」「共にいて」くださる、との約束が内容を保証している。人間の見える現実に縛られるなら、不安と恐怖が離れない。「主イエスを愛する」ことにより、わたしを用いて「主が」み業を行ってくださるから。主イエスを愛するとは、主が私において働くことである。主イエスが内に働く人々の群れ(=教会)は、主イエスが求める業を、悔い改めと主を信じる生き方を証しする。 主の来られる出来事を伝えるのだ。

11月24日 再び主に合う日

コリントの信徒への手紙U 5章1節〜10節 阪井牧師

 歴史を学ぶ楽しさには動かない記録がある。しかし、それを読み解く側に変化があるため、読み方がかわる。かつて横目で見たに過ぎなかった事実が自分と関係を持ち始める時に、特別の意味が生まれる。最初の殉教者ステファノを傍らで見ていたサウロ(後のパウロ)は、熱心な迫害者から回心して、宣教者に変わった話は有名(参照・行伝7章、9章)。「見えるもの」から「見えないもの」に向き直った。どういうことかをここ5章は説明している。この箇所は難解と評すると同時に、単純に読む人には一番正しく分かるところだと言う人がいる。なぜなら、この手紙が書かれ、読まれた時、誰もがその内容を受け取れたと考えられるからだ。神の行われるその「時」を、人の「時」に置き換えようとするなら分からなくなる。ここに信仰、神に委ねることの必要がある。それが「見えないものに目を注ぐ」と表現されている。キリストの再臨は最後の時、裁きの時である。神の前に罪なき人はいない。「見えるもの」に歩む人の恐れはそこにある。ところが、すでにその罪が主イエスによって<清算されている。つまり贖いを受けた>と信じる者には恐れはない。むしろ、待望と希望がそこにある歩みとなる。欲と争いの世界を構成する存在でありながら、主イエスと共にある者とされていることを喜んでよいのだ。自らの内に湧いてくる喜びがある。信じる者の確信を日常の生活に示すことが証しである。私の力や持ち味ではない。主に委ねる生き方にかかっている。

11月17日 神の右にいます方

使徒言行録 2章29節〜36節 阪井牧師

 人々は、聖霊を受けたイエスの弟子たちに対して「酒に酔っている」と思った。主から受けた約束・使命に仕える姿がそのように見えた。人々の生活の論理や常識からあまりにかけ離れていたからであろう。教会が伝道する姿(集会案内)もそれに似ている。<み言葉に仕える>には、称賛も名誉も、或いは特別な能力をも必要としない。神の業が、主のみ心がイエス・キリストにおいて示されたこと、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じる」ことを語るのだ。ここでは、さらに「あなたがたが十字架につけて…」と大胆に語っているのは、人間の内的力量を超えている状況である。主の霊・神の力が働いたと表現するしかない。これには、「全ての人の救い」という<神の計画>があることを言う。主イエスは、その死から甦られたのだ。私たちはその証人であると。自分の存在をかけて、自分にとっての事実を語るのが証人である。最初のキリスト教殉教者ステファノ(言行録7:54以下)の記事を想起する。生まれたてで小さく、か弱い群れのリーダーが踏みつぶされて息を引き取る場面で、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだとある。キリスト教信仰に生きる、そして死ぬ姿を見る。言葉の説明も号令も必要はない。その人の在り方、姿勢が生活の中で示されているのだ。教会が調整や合理性によって順調に見えても「神の右にイエスがおられる」との福音が示されていないと正しい姿勢にならない。世に証しする教会になろう。

11月10日 同じ言い表し

使徒言行録 1章1節〜11節 阪井牧師

 共同体が一つに固く結ばれた時、内外にその影響が及ぶことを想像する。家庭も然り、さらに力強いのは教会だ。「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい(ローマ12:14)」は、我慢しての勧めではない。祈りの源である信仰がこの言葉となっている。教会の真実を知る。<教会とはなにか?>、<どうなると教会でなくなるか>をこの箇所から学ぶ。イエスの弟子たちがここで「使徒」となっている。彼らは甦りの主イエスと出会い、40日間を共にしていた、と。聖書では、数字に特別な意味を託されることがある。神との関係を意識させる数字である。その折りに話された言葉は「エルサレムに留まり、父の約束を受ける」命令であった。言葉で世界を創造された神の約束である。ただ、その時に関しては人の思いの中に入らないことが分かる。自分の事柄としての証言者(証人になるだけ)である。「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と話されて、天に昇られた。人の無力を認め、託された約束に従うのである。証人は何をかたるか。教会の原点はここにある。これが欠けるとき教会でなくなる。楽しく快いことだけではない。「エルサレムに留まる」は、使徒達にとって厳しい場所である。だのに、そこに留まるのである。人の思い煩いを手放すことに通じる。そして、ひたすら神に心を向けることこそが教会の原点となる。使徒達の新しい主発が始まる。思い様々でも神に心を向ける姿が言葉に表されるのが教会の告白となるのである。

11月3日 信仰の本質

コリントの信徒への手紙T 15章1節〜19節 阪井牧師

 人は関係の中に生きるという。一人でいることの不安と恐れは、<いじめ>にも関係すると想う。しかし、文明と便利さは、この関係を希薄にする結果をもたらしている。顔と顔とを合わせて話し合うことが不要な現実は、時間と距離を縮めるけれども、関係の大きい欠損を見る思いがする。初期キリスト教の教会(コリント)に、生活の地域差があるところに課題があったことを想像する。だから、パウロは、そこへの手紙に奇妙なメッセージを送っている。「宣教という愚かさを手段(1:21)」が象徴的だと思う。自分だけの信仰生活や礼拝出席が全てではない。大事なことだが、「告げ知らす(1節)」や「伝える(2)」「受ける(3)」の言葉は関係を示したものである。キリストを頭とした体の共同体を構成するところには、一致の大前提がある。そこに先の関係をもつ言葉が生まれる。教会が外に向かって働きかける力が与えられる。私たちの教会が、今取り組んでいる<信仰の言い表し=信仰告白>は、教会が外に向かって公にする関係を造る力の源である。その内容を福音(良い知らせ)は簡単な二つのもので、十字架の購いと復活による罪の赦しである。言葉での関係作りもあろう。パウロは、議論をして相手に受け入れさせる方法ではなく、事実を信じて生きている姿によって示すことを勧める。手紙が私たちに語りかけるのは、神からの命を<どう生きる>、<生きるエネルギーを神からいただくには>を問う。 自らが生かされて示すのである。

10月27日 よみに降るキリスト

ペトロの手紙T 3章13節〜22節 阪井牧師

 神の支配するところが天国。悪の支配するところが地獄。「よみ」は、そのどちらにも属さない闇、光のない世界。生きていて、生きた心地がしないところと想像してみる。ノアの物語で、神の意志を無視して洪水によって死んだ人たちは、自ら<神との関係>を拒んで<光>を失った人たち、「よみ」の世界にいる人と紹介される。今日の私たちの世界に似ている。まるで「よみ」の世界。企業や組織の中で生きる個人(信仰の人)は、神との関係が見えない中で苦悩して喘いでいる。企業や組織は、生き残りや利潤を求め、そこには神との関係を求めない。その中にいる人は、まさしく「よみ」の世界である。聖書は「主のみ前に真剣に生きようとする者に、誰が害を加えるだろうか」と言う。「害」とは外面の無理強いや迫害もあるが、ここの場合は内面的な、心の深みへの言及と見える。それらに対応できる力量を私たちは持ち合わせていない。ロマ12:14以下の言葉は私たちにとって救いである。また、Tコリント1:18以下にある「十字架の言」は「害」と向き合う励ましの力である。主に召された私たちは、この世の知恵ではなく「神の力」での闘いに召されている。具体的には、喘がざるを獲ないその場で「キリストを主とあがめる」ことである。小さく弱い私たちが、大きく強い相手に向かって「祈り」と「十字架の言」とによって凌駕できるとの神の約束がここにある。「頭の上に炭火を積む」ことになるのだと。神がいない世界と思っている「よみ」にも、キリストが光としておられると。

10月20日 主イエスと共に

マタイによる福音書 27章57節〜66節 阪井牧師

 <生と死>は誰もが経験をするもの。その意味では、人は極めて平等である。地上でどれ程の権力を持っていても、また、恵まれた環境にあっても、この生と死は同じである。すると、神が人になる、あのクリスマスの出来事は驚きそのものだと言ってよい。そしてまた、人の誕生と死の<時>は、人の手にあるように思っても人の手にはない。そこに、戸惑いと感情としての「なぜ?」が生じる。聖書の証言その1,何事にも時があり(コヘレトの言葉3章1)、神はすべてを時宜にかなうように造り(同11)と続いて、「永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさることを〜見極めることは許されていない」と結ぶ。<主イエスの十字架の死>を他の記事以上に丁寧な使徒信条には、人の死との関係が強調されているとも受け取れる。ある人は、「改めてここで私どもは主イエスと一つになれる」と。主イエスの死を強調する教会の歴史(仮現説や養子説)を想起する。神の事実を、人間の説明で説く愚かしさでもあろう。時代や状況に影響を受けることなく、教会はその信仰を言い表す必然はそこにある。日本の戦時下にもそれに似た経験を聞く。信仰の先達は、その愚問(現人神と聖書の神との比較)に命を懸けた、と。人間の力を根拠にして営まれている現実を生活しながら、神の事実にどこまでも拘り続ける信仰者であることが求められている教会を形成していくのだ。単なる滅びではなく、神の愛の中に歩む確信を大切にして。

10月13日 あなたの罪は赦された

ルカによる福音書 7章36節〜50節 松村光司神学生

 自宅の近くにキリスト教学校があった。それだけでキリスト教学校へ行き、そこでの友人が行く柏教会へ中3の頃から通い始めた。高3の時、その柏教会でバプテスマを受け、大学生になると、CSの奉仕をすることになった。この時の経験は大きい意味を持っていると思う。人見知りの自分が、人前に立つ伝道者へと決断に至る大きい召しはない。敢えて言えば、職場の上司が聖書を読むのを知ったことにある。驚くと共に神の業とはこういうものとも思った。昨年度は、神学校の聴講生であったが、今年度は教師コースの学生になった。神学で信仰が試されることを知るようになった。聖書を批判的に見るからだ。罪の問題はその一つである。この箇所は罪を扱っているが、「罪が赦される」女性が中心ではなく、イエスが語りかけているのは、ファリサイ派の人と考えた。奇妙な譬えにより、多く赦された者はイエスに対する愛の大きさで分かる、とある。過剰な接待は罪が深いからと考えるファリサイ派の人は、自分の罪は小さいと見なしている。実は私たちの姿でもあると思う。女性は罪が大きく、赦されるべき罪が残っている、との見方にこそ罪があると言われているのだと受け取れる。他人を罪に定める時、自分が正しいと思うからであろう。主イエスの語りかけは、それを示しているとしたら、ファリサイ派の人への語りかけは、同時に私たちへの語りかけ、自分が問われていることになる。徹底して主の前に謙虚になりたいと願う。(文責阪井牧師)

10月6日 キリストを着る

ガラテヤの信徒への手紙 3章6節〜14節 阪井牧師

 声を聞いた。だから、それに自分を委ねて日常の生活を離れた。他人事ならいくらかの感心さと共に受け留める。だが、自分の事になるとどうか。今までの人生を捨てるに等しい。想像するのだが、聞き流していれば済んだであろうに、と。ここに、信仰がある。アブラハムの話(創世記12章)である。神の声は、自分に得する話だけではない。自分が祝福を受け、それをすべての人に至らせるとの使命が含まれている。言うまでもなく、自分の気に入った人だけでなく、敵対する人にも神の祝福が及ぶためである。現在の生活に満たされているのに、行き先を知らないまま(ヘブライ11)、その指示に従ったのだ。愚かにも見える。しかし、これが私たちの救いに及んでいる主イエスの歩みでもあると知ってどう考えるだろう。その「しるし」が「十字架」である。これを教会は世に向かって示すのだ。私どもの示す十字架のサイズはどんな具合だろうかを想う。十字架によって示される救いの「しるし」が、ブレスレットやイヤリングのように飾りや手に乗るものになっていないか。着るモノは、その体より小さいはずはない。自分の評価としては小さくても、神は「み子のいのち」で買い取られたのだ。骨董や飾りに終わらせてはならない。<十字架のみわざ>を、充分に語り尽くすことも示し足りることも不十分だ。私には、<主イエスが十字架について下さった>、との事実をわきまえて生きる、訴え続けることは許されていることを誇りたい。教会はそれを繰り返し、世に語りかけるのである。

9月29日 「だれ」のため?

ペトロの手紙T 2章18節〜25節 阪井牧師

 制度的課題を取り上げないで、ただ主人に従うことを勧める聖書内容に不快を覚える方があろう。この「従う」は、「仕える」と同じ言葉です。そこには、同等や対等の意識がある。さらに「心からおそれ敬って」は、神の前に立たされている人、つまり、神に対する姿勢を意味する。人を恐れるのではない。また、卑屈な心ではない。神を畏れることが人との関係を正すのだ。主なる神に向かう心の畏れが扱われている。神中心であって、制度や契約に矮小化させてはならない。時代の秩序に縛られた「不当な苦しみ」よりも神の前に人として生きる(信仰)の妨げである。教会の歴史、パウロの伝道、否、主イエスご自身がそうであった。イザヤ書(旧約)に、苦難の僕(=メシア)が語られている通り、父なる神に従う歩みが誰にも知られなかった。十字架の道・苦難の僕の姿そのものである。人々は、自分の期待や願いを主イエスに向けて、苦しみを課したからだ。主イエスを取り巻いた群衆と同じ轍を教会の私たちは踏んでいないかを想う。例えば、クリスマスが飾りやお祭りにしていないか。「天に宝をつむ」とは、心をそこに注ぐから「宝」なのだ。自由と解放を味わう私どもは、どこに心を注いでいるかを想う。生きる喜びの源が、宝であるなら、どうかを問われる。主イエスは、天の父に一切を委ね、そのみ心に従われた。これが十字架の道であった。この事実をしっかり受け取りたい。神への道、神への招きを信仰をもって受け取りたい。不当さの中で主イエスと一つになって歩みたい。

9月22日 聖霊の宮であるあなた

コリントの信徒への手紙T 6章12節〜20節 阪井牧師

 最近の「個の尊重」傾向は評価したい。しかし、その「個」について、聖書の語る場合と異なるように思えている。ここで、パウロの「全てのことが許されている」との言葉には、神との関係が背景にあることを見落してはならない。かつて、ユダヤ人や律法の縛りがあった。しかし、キリストのよってそれらから解放された。ここに、新しい自由を見ている。ところが実は、別の縛りを意識する。「全てのことが益になるわけではない」とあるのは、キリストの体である教会に組み合わされ、形成していることにおいてキリストと一つになっているという。<主の聖>に結ばれていることを語る。<主の聖>を汚すことは、許されていないことを示している。神との関係を外しての自由は認められない。聖書は、そこに<罪>を見る。旧約で「約束の地」カナンに入る時、与えられた十戒の意味は大きい。新約の中でバプテスマのヨハネがヘロデ王に指摘したのも、権力をかさに着てなした自由行使への批判である。神の聖を汚すことが許されないことを知ってか、その発言者の口を封じている。キリストによって関係回復した者は、聖霊の働きを受けて創造者なる方を「父なる主」と呼ぶことが許されている。そのみこころに生きたイエスと共に教会を建て上げ、体を形成しているところに聖霊が宿り、神の栄光に仕える使命を負うのである。自分の体でありながら、同時に自分だけの体ではない。信仰に生きるとは、その体を用いて主の栄光に仕える者でもある。聖なる器とされて。

9月15日 神の見えるところ

ヨハネによる福音書 1章14節〜18節 阪井牧師

 社会通念の変化傾向を感じませんか?嫡子と非嫡子とに不平等を認めないと最高裁の判決が、その例の一つです。かつては親の責任問題でした(家族制度)。それを子が引き受けるのは時代錯誤(個人の尊厳)となった、と受け取れる。ユダヤ社会の中で主イエスが「神の子」とするのは、その秩序を乱すものだった。神の意志は預言者や夢に示された(例:ヤコブの夢、ヨゼフの夢)。等が許容される筈はない。これが<十字架への道>であり、神の栄光とある。人が神や仏になる日本文化では理解しがたいと言われる。ユダヤ人達はダビデをイメージしたメシア到来であった(軍馬の王)のに、ロバに乗ったエルサレム入城は論外である。力の支配ではなく、苦難の僕に示される平和の君であった。迎えた人々の歓迎よりも時期はすれの声であったように思う。神の声(キリスト)より人の声(主張や期待)が大きい時、その世界は混濁と暗闇となるしかない。創世記の1章はそれを示す。神の声(言葉=キリスト)が世界の秩序が回復するのに、人間の声が大きいかぎり、主イエスは神の子に見えない。信仰は自分の力で神を見るのではなく、神の恵みが溢れるところに示される。「恵みと真理に満ちていた」とある言葉(ヨハネ1:14)がある。ここに神の栄光がある。その方が私に「神のいのちを生きなさい」と語りかけておられると信じることのできる幸いを喜びたい。教会の果たすべき使命はここにある。教会設立への信仰を喜びたい。

9月8日 神の全能とは

マルコによる福音書10:27 10章27節 阪井牧師

 聖書記事は、前後の関係を大切にすべきだ。少なくとも、自分の主張に聖書の言葉を仕えさせてはならない。正しい理解を誤る危険がある。この記事は有名な「金持ちの男」の話と関係している。「神の国に入る(救いを得る)のは、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」との主イエスの言葉に動揺した弟子たちへの応答である。応答は「見つめて」との説明がある。愛と慈しみが含まれた眼差しであったと想う。その眼差しは、聖書を読む私どもにも向けられているであろう、と受け取る。「誰が救われるだろう」の問いには、その眼差しに気付いていないのではないか。<全てを捨てて従っている>事実が、正しく評価されていないと思えたこと、戸惑いの大きいが故である。神の業が人間の測りで決まると考えていたのではないか。「人間にできることではない。神にはできる。神は何でもできる」。神の全能が言われている。みこころを行いには、どのような枠や制限を受けることはないことを見る。世界の創造者であり、この私の命を与え支配しておられる神である。この方が「私」に関わっておられる。ここに信仰がある。自分の都合良い時だけが全能ではない。最悪であっても、神を褒め感謝できる信仰を願う。あのマリヤの賛歌(ルカ1:47以下)を確認する。世の習わしに窮する事態をさえ、神賛美をし、感謝をしている。「私という存在」が創造主のみこころ>にあることを告白している。「父なる神」は、信頼と平安を含んでいる。この方に望みを委ねる<信仰>を歩みたい。

9月1日 主イエスのみ名

マタイによる福音書 1章18節〜25節 阪井牧師

 直接、イエス・キリストに触れた人たちの数が少くなると共に、生きた証言の保持が難しくなる。伝承が口伝から文字記録になった理由でもある。歪みや誤りを最小限にするため、聖書の正典化が教会会議で決められた。本来の意図は、正しい福音(真理)の伝達である。教会が聖書を第一とする理由はそこにある。目に見える教会や人間の側の理由ではない。文字としての聖書の言葉は人間の作であるから、「神の言葉」になるために聖霊の導きによる解釈が要る。解釈のための秩序に教義が生まれた。三位一体はその一つである。父と子と聖霊である。その子を「イエス」と名づけた。何故かを問う時、思いがけない事実を知る。ユダやの世界では、ありふれた名であった。特別な存在や働きをした故の名ではなかった。また親の偉大さによるものでもなかった。実は、その子の生まれることの中に神のみ業を見ている名の付け方である。私どもの期待や時代背景また祈願そして目立ちのためでもない。神が関わったとの信仰の思いがある。この子によって神への感謝が心に留められているのだ。この方、イエスがすべて順調ではないことは、今日の私どもの生活と同じだ。故郷ナザレでの宣教が受け入れられず、かの有名な言葉を残している。「預言者が敬われないのは…(マタイ13:53以下)」と。ヘブライ人への手紙では、<この方が私どもと共にいて下さる>との信仰を与えられている群れの証言をし、ガラテヤ3:26では「キリストを着ている」とある恵みを喜ぼう。

8月25日 神の子たちの交わり

ローマの信徒への手紙 8章1節〜11節 阪井牧師

  「オリエント」は東、東方を意味する。ヨーロッパから見て、それはイスラエルである。従って、教会に起源がある言葉といわれる。かつて、教会(礼拝の講壇が東側)が東を向いているため、街中では方角を知る手がかりでもあった。今日では、そのような建築は困難であろう。しかし、存在は、人生や生き方の方角を示すところでありたい。教会は、いろいろな人が集まるところである。人の事柄で構成されると一つになれない。キリスト以外には、何もないところ。別の理由で集まっても、そこから持ち帰るものはキリスト以外にはない。「信仰による義」は、人間の立ち入る要素が全くないことを指すとも言える。罪赦された人が喜び集まるところである。一人一人が、(欲に支配された)罪の世界=死から、いのち(罪からの解放=自由)に、キリストと共に生きる者の世界である。キリストは神の子、キリストを信じる者は、このキリストによって神の子とされた者である。このことは、神の側の働きかけ=聖霊の力による。教会は、この根拠から離れたら正しい存在ではなくなる。「教会設立」の課題がそこにあることを意識する。ローマの信徒への手紙は、まだ見知らないパウロが書いた。不安や困難を乗り越える力は、キリストの拠り、霊の力が働いて神の子とされた恵みの喜びを生む。主の霊は、私どもの苦しみを知り、かつ執り成しをしておられる。ここに、甦りの「いのち」を大切に生きる者の群れがある。世に向かって、その存在が「方角」を示すことを知る。

8月18日 死から命へ

エフェソの信徒への手紙 2章1節〜11節 阪井牧師

 生活環境に恵まれた青年が主イエスに「どんな善いことを…」と尋ね、「なぜ、善いことについてわたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」との返事は禅問答のよう。今朝の記事は、これに関係すると思う。神との関係が「善い}の判断基準となっているから。「神に造られた人」は、「善い業を行う」ためだと言葉の理解に至る。「救い」が人の業に基準を持たず、「信仰による」との記事に重なる。「キリストにおいて」は、すべての業の根拠となっている。それは、神の限りなく豊かな恵み(神の愛)による。道徳や倫理の<ものさし>が及ぶことではない。「肉の欲望や心の欲するまま」の世界のから救い出されたのは、「神の賜物」である。これに応えるのは、本人の意志力や能力によるのではない。神との関係を回復することから「善い業」が始まる。「キリスト・イエスにおいて」の意味するところである。神の愛の中に歩むことが、本当の<人間らしさ>となる。親が子を愛するとは、その子が喜び生きることに自分のすべてを差し出すのに似ている。自分の意志を子に貫くのではない。それは、子を死に至らしめる。子なる人は、いのちを生きさせるために全てをも引き受ける神の愛に気付くことが大切である。神は、<キリスト・イエス>において愛を示された。ご自身と共に、一緒に生きるようにして下さっている。これは、自分一人ではない。周囲の人々も同じである。ここに、教会の使命(善い業)がある。<役に立つ>価値観から、神に創られた人の価値に目覚めて生きる者でありたい。

8月11日 私を肯定する神

ヘブライ人への手紙 11章1節〜3節 ・ 創世記 1章1節〜19節 阪井牧師

 課題の重さや大きさに身動き取れない時がある。そこで、人か物に拠り所を求める人もあるだろう。しかし、それが本人の<命の息>を止めることになることもある。イスラエルは捕囚となって、神の民としての存在の意味が分からなくり、神の前にでた。創世記の記事である。イエス時代のキリスト者はローマの政権下で信仰ゆえの迫害を受け、存在の危機に遭遇した。敗戦後の日本の人たちも<どう生きるか>を改めて問うた。存在の意味を失い、どう生きるかが重大な課題であった。食料の課題以上だったとも知れないと考えられる。日常の中に、似た現実がある。病気、体力低下、仕事上の意志と現実との落差、家庭の現実など…。存在の意義が課題となるとき、神を疑う。目に見えない神は、言葉(イエス・キリストにおいて)を通して人に向かわれる。ここに、神の愛がある。十字架の出来事は、完全な敗北に見える。そこに、聖霊が働いて下さるとき、恵みと購いと受け止められ、溢れる力、<いのちを生きる>者とされる確信を持つ。岩盤の上に立つ建物は、その岩盤と一緒に揺れて良い。自分の力で立つ者は、存在が揺らぎ壊れる。<信仰とは〜確信すること>の確信は、本質の意味(参照1:3)と訳される。<神が言葉をもって私という存在を創造した>との確信=本質を自分のものと受け取る信仰が語られている。思いこみでも、自分の信念でもない。聖霊がその保証となっていることをこの箇所の記事は力強く語っている。多くの人が聖句に励ましと支えを受けてきた。

8月4日 あなたの望みは?

使徒言行録 17章22節〜31節 阪井牧師

 ギリシャのアテネは古い町である。哲学と芸術そして宗教が発達していた。そこに、パウロはキリストの福音を携えて来た。町の至るところに「祭壇」があり、中には「知られない神に」との祭壇があった、とある。町の評議所で語ることになった内容がこの部分である。パウロの「アレオパゴスの説教」と題される。公の場所で、キリストの福音を語る機会でもある。興味と関心を持つ人々は集まり、パウロの語るのを聞いた。アテネの人々の心を引きつけつつ、神によって創られた者、イエス・キリストにおいて神の子孫とされていることを語った。そして、人の手によって細工されたり、飾られるものは神である筈はなく、神とすることが間違いであると主張した。イエス・キリストの甦りの出来事の中に、神のみこころが示されていると。その出来事が私どもの"今"を生きる望みであり、神のみ業を信じることにある。これが教会の一つになる唯一の根拠である。日々の生活で、時に呻くようなことがある。「呻く」のは心の中にある事柄に対して言葉にならない思いを表す。痛い、辛い、不安、望みが失せる状態の中に置かれることがある。かつ、ては神と共にあることを喜び歌ったが、今や神の姿が見えなくなって孤立の厳しさにあるかも知れない。そこで、呻くしかない。でも、イエス・キリストの神は<インマヌエル=神共におられる>の神である、とのメッセージに生きる私どもである。人はどうあろうとも、神は約束を決してないがしろにされない。

7月28日 信仰の言葉

ローマの信徒への手紙 10章5節〜13節 阪井牧師

 礼拝は、特定の何人かだげで成り立つのではない。しかし、かつては、聞くことだけが礼拝のすべてとなっていた。そこで、互いが仕え合って神の言葉を聞くようにした。受付と祈り、奏楽に司会の責任を負い合うことにした。自分の中に抵抗もあったろう。自分を差し出すことによって、内側に空間ができ、そこに、神の言葉が入っていく。神の働きがそこに行われる。<神の言葉が人を生かす真実>に触れることになる。ここに信仰の事柄が、その人の現実となる。この現実を口に言い表すことが<告白>である。その時、「アーメン」の言葉が聞こえる。「同意する」や「確かである」の意味のヘブライ語をそのまま用いている。新約聖書では「アーメンである方」との表現で、イエス・キリストを指すようになった(黙示録3:14)。それは、主イエスが重要な内容を話すとき、この「アーメン」をもって始めていることに源をみる(マタイ5:18、ヨハネ1:51など)。「主イエスの語りかけ」として礼拝の言葉が聞こえる時、その応答<同意のアーメン>は、信仰の告白である。<真実です>のアーメンは、個人であると同時に、教会の告白でもある。信仰の告白は、伝えられた信仰の言葉を「口で表し、心で信じる(ローマ10:9〜10」ことによって、神の前に義とされる。すなわち、救いにあずかることである、とある。教会の根拠である信仰の告白は、聖書の言葉によってなっている。伝道所から教会への道に、この作業が課せられている。導かれて前進しましょう。

7月21日 祈ってください

テサロニケの信徒への手紙U 3章1節〜5節 阪井牧師

  指導者と見られる人が、宣教者が、それを受けた人々に向かって「わたしたちのために祈って下さい」の言葉を、どう聞くか。手紙の結びにあるこの言葉は、違和感を誰もが覚えるだろう。その言葉の前にある、「兄弟たち」の言葉を意識することを勧める。つまり、神の子とされたキリストにある「兄弟」である。神の恵みの<いのち>にあずかり、共に生きる者への呼びかけを見る。主イエス・キリストの十字架の出来事が、私の救いの事柄となっているお互いの呼びかけである。そこでは、今、その生活の手段や状況の違い・立場が重要ではない。神のみ業が示されるイエス・キリストの御前に共にいる兄弟である。説教する者、それを聞く者もキリストの兄弟である。その兄弟に<祈って下さい>は、心からの願いであったはず。同じ土俵に立つ者としての呼びかけは、互いを励まし、支える力を発揮し慰めを与える。医療者のある方は、「診察室が祈りの場だ」と言う。神の前に<いのち>に共に向かい合う場を意味している野だと受け取る。上や下の関係がそこに表れると、人は高慢にまた卑屈になる。伝道をするのは宣教者だけではないことを学ぶ。語る者が真剣に備えて神の前に出る。聞く者も腰を据えて神の言葉を聞くことがそこにある。主の真実がそこにある。たとい、一人であっても主イエス・キリストにおいて共に闘いに加わっておられる確信が祈りへの求めである。本当に祈られた人は、祈りの本当の力を知っている。主に感謝して。

7月14日 問い:「何を」より「どう」

エレミヤ書 52章1節〜34節 阪井牧師

  エレミヤの名が一度も出ない最終章52章から、どのようなメッセージを受け取るのか。その一つは2節の「主の目に」が気になる。出エジプトの民が統一国家を形成した時、約束の地の先住者は押し退けられた地を取り返すべく挑んできた。その指導者が士師である。常備軍をもって備えるために王制が取られた。しかし、南北に分裂して弱体化した国力に、対応を必死にしたはずである。でも北王国はアッシリアに滅ぼされた。さて、バビロンに脅かされた南に対し、エレミヤは、主の言葉に従い、服従を選ぶべきを勧めた。傀儡政権となった王ゼデキヤは、それに反してバビロンに抵抗して都エルサレムを破られた。兵糧攻め1年半を持ちこたえたが、城壁の一角が破られると都全体が徹底して焼かれ破壊され、神殿の装飾も聖具も「鉄くず」のように略奪された。その説明が先の言葉である。状況をよく計って、民から信頼を受ける抵抗であったと想うが、<主の目に悪とされることをことごとく行った>とある。人の目と神の目との違いを意識する。確かに、メシアとしての主イエス誕生の時、十字架に死ぬ状況は最悪の時と状況であるのに、主なる神は、その時、みこころを行われた、と聖書は開かしする。歴史の小さい点にしか過ぎないイエスの出来事は、全世界の、すべての人の救いに仕えて下さるカミの目に適っていた。ここに、私どもの希望、生きる力を与えられるのだ。 「何を」なすかより、「どう応えるか」が重要であることを示されている。

7月7日 選びー神の招き

テサロニケの信徒への手紙U 2章13節〜17節 阪井牧師

  現代病の一つに「コミュニケーション不良」がある、とあるカウンセラーが言った。その理由分析は<文明の便利さ>を掲げた。テレビ、携帯ゲーム、PCなどである。個人的対応が人間以外に委ね合うことが日常性となる結果からとか。<関係存在である自分を問う>事への展開発想がなくなるらしい。自分という一人の人間存在の意味が不明になっていく。対して、聖書は、人の存在意味が<神との関係>にあることを証す。今日の箇所で、パウロは「主に愛されている兄弟」と表現していることに注目する。単なる親しみ表現ではない。血族や感情を越えて、<神のいのちに生きる>存在を明確に示している。「霊の力によって」の言葉は重要である。神の力がそこに働いている関係を見ているからだ。さらに、その兄弟たちは、(福音という)真理に向き合っていることを感謝している。真理とは、@イエスがキリストであり、A十字架に死んで甦られた、ここに永遠の命の約束があることだ。第3者としての事実でもあるが、私との関係での真理である。それは、自分の決断ではあるが、神の霊が私の内に働く結果である。だから、時間と空間の距離があってなお、現在の私の事柄になる。私の救いであり、私の罪の赦しの真理なのだ。ヨハネの第一4:2に「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。…」とある。ここに、神の選び、招きがある。だから、受けたことを、応答として伝えるのだ。 この方の名が救いである、と。

6月30日 神の前に生きよう

エレミヤ書 51章1節〜64節 阪井牧師

 聖書の信仰は、「神に生かされている」だ。普段はその意識が薄い。しかし、限界に直面すると頭をもたげる。それも、<嬉しい喜び>の時でなく、<重苦しい現実>の時である。預言者エレミヤは、主の言葉に従った。人々は面食らったであろう。捕囚前は、バビロンに従うように説いた。今は、バビロンの滅びを説く。人々は戸惑ったことだろう。否、本人はもっと驚いたと想う。預言者の厳しさを想う。今の教会にも、その要素がある。周囲と穏やかであるためには、日曜日の礼拝や信仰を表面に出さないでいたい。だが、<キリストに贖いとられた者の生き方>を選ぶからだ。その恵みは神の憐れみであり、神の愛に拠るのだ。イスラエルとユダが価値あるのでなく、神が価値を認めたことが理由である。この神の御心に応える生き方が求められる。律法主義は、その方向を違えた。律法に従うことが価値の根拠にする誤れる方向である。その結果。キリストを不要とした。<屠り場に引かれていく羊>となって、なお、すべてのものの救いとなられた、<神の憐れみ>に応える信仰・生き方が求められよう。バビロン統治の最盛期ただ中にあるその時、主によって裁き・バビロンの滅亡が語られていることに驚く。人の目・口・耳に拠る現実に対応する生き方は、時代と世に鋭い。主イエスに贖われて神の子とされた私どもは、世と時代の中にありながらも、神の言葉の力と導きに自らを委ねて、神の御心を求め続ける歩みをする。教会の使命となっている。

6月23日 実で見分ける木

テサロニケの信徒への手紙U 2章1節〜12節 阪井牧師

 聖書の中にある時間<または時>に関心を持ちながら学びをしたい。詩編90に「人生70年、長くて80年。それも主の前には一息…」とか、84編「神の見み前にある一日は千日にもまさる恵み…」から、質の違いを意識させられる。初代の教会が取り組んだ課題の一つである。それを「神と共にある世界」と「神のない世界」とに分けると分かりやすい。教会の中に混在するなら、人々は当然困惑する。<主の日の到来>が<いつ>か?それによって人の生活は異なるからだ。しかし、<時>は人間の予測を超える、とイエスが言われた(マタイ24:36他)。しかし、人はその<時>を自分の<はかり>で推し量ろうとしていた。そのために、人が気付かないでいる生活の中での事を、神は判断の基準にしておられた(マタイ25:31以下)ことに驚く。我々は、良い木から良い実を期待する。だのに、主は実から、木を判断されることになる。経過の中で、神の時を迎えるはずと、人は予測するのに、神はその経過を全く無視して、<時を決めて>おられることを手紙に示している。敢えて言えば、神の<時>は、現在でありつつ、将来のものであることになる。パウロが、テサロニケの(教会の)人たちに語るのは、イエスは、「既に来られた。そして、まだ来られていない。」という理解を示している。人の努力が、神の時に関与するのではなく、人はその<時>を待ちつつ、今日を、み言葉に聞き、明日に向かって進む力をえる生活を続けるのである。そこに、神は御手を働かされるのだ。

6月16日 囁きを叫ぶ使命

エレミヤ書 50章1節〜46節 阪井牧師

 主の召しを受けたヨナだが、自分の意志故に、主の召しと反対方向へ船出した。波風にもまれた船から、ヨナはクジが当たり、海中投棄された。大魚の腹の中で三日間を過ごす中で祈る。陸に吐き出されて、再び主の召しを受ける話(ヨブ記)は、印象的だ。エレミヤ記50章には、今までの預言に矛盾する内容、バビロンの滅びが語られる。神の言葉に仕えるか、人々の求めに適う言葉にするかを悩み苦しむのは普通の人である。エレミヤは、「託された」言葉そのままをここに語る。人受けを求めず、辛さから逃げない。ここに、使命に生きる人の厳しさがある。否、「いのち」を与えられた存在の意味がある。神の言葉を携えて生きる理由でもある。すべての人には、神との関係に生きてこそ、生きる意味がある。神との関係を失うとき、迷える羊となる。神はそれを放置されない。ここに神の愛がある。失われた状態にある人々に向けて、語り告げるべき使命は、囁きのようであるとしても、「屋根の上」で叫べとの声がある。囁きを叫ぶ声で示すのが、召しへの応答である。同調を求めるのではない。「上から目線」と言われても、神の声としての使命を担い果たすことが求められ、エレミヤは語る。自分の力量が課題ではない。厳しさや苦しさ、非難やすくみを越える力は、神との関係にある。神の道具に徹するところに意味がある。神は正義と真実との方である。一時的な「はかりなわ」のための道具ではない。神のみこころに希望を持ち、導かれる旅を続けるのだ。

6月9日 諸教会での誇り

テサロニケの信徒への手紙U 1章1節〜12節 阪井牧師

 初代教会時代は「家の教会」でした。専用の礼拝などの場所や建物がなくて、個人の家をその集会場所としていたことからそのような呼び方になった。送られた手紙は、その集会で読まれたか、回覧形式で公開されたと想像できる。今日の教会にも向けられた手紙として読むこともできよう。もちろん、単なる「人々の集まり」ではない。<主イエス・キリストに結ばれている>群れが宛先である。<結ばれ>は受動態の表現、つまり、人間の側に主体はないことを意識する。挨拶の中に、<恵みと平和>の言葉は、日常の挨拶表現ではなく、神との関係にある表現である。困難や苦しみ・悲しみが無くなることを意味しない。信仰の生活であっても、それらはある。否、信仰を歩むが故に多くの厳しさに耐える必要もあろう。ただ、<キリストに結ばれて>いる故の強さがあると言える。フィリピ1章で、パウロは「福音信仰のために共に戦う…」と表現している。世の趨勢に身を委ねる生活には、問題は起きない。流れに抗するために厳しさがある。テサロニケの信徒への「感謝」は、迫害や苦難に<めげない>歩みが続けられていることに向けられている。そして、そのことが誇りであると言う。キリストに結ばれていない人の中で、キリストに結ばれた生き方を貫く信仰の人々を誇るのである。キリストを、主を誇るのである。キリストが共に歩んでいて下さることへの確信こそが、その現場に足を留めさせる力となっている。 賞賛や評価より、主の僕であるを誇りとしたい。

6月2日 3D(スリーデー)の世界

エレミヤ書 49章1節〜39節 阪井牧師

 紀元前600年前後が舞台の時代である。ユダとイスラエルを取り囲む隣接の人々、地域に向けて語られた預言である。以下の5つの預言内容にまとめられる。@アンモンの人々に向けて(1〜6)、Aエドムに向けて(7〜22)、Bダマスコに向けて(23〜27)、Cケダル・ハツォルに向けて(28〜33)、Dエラムに向けて(34〜39、)となる。歴史に起きたどの事件との関係を示すものかの具体性を欠く。@は立地条件に恵まれ、生活が乱れない。その分、自分たちの努力を評価し驕りとなる。人との関係だけで、神との(第3の)関係が問われるのは、今日の場合に重なる。遺伝子組み換え、エネルギー源の開発、人間細胞や命の操作、などは人間の留まるところがない努力である。Aはその先祖が双子の兄弟ユダの兄エソウ(創世記36:8)とすると近い関係にある。しかし、エルサレムの陥落時にはバビロン軍に味方していた。BもCもDも、その裁きを受ける理由となる事柄は不明である。神によって新しいこと(世界の展開)が始まる時、人の理解の枠の中に納まらないことを意識する。神の子イエスの出身が「何の良いものがあろうか」といわれていたナザレであり、この世の歩みが「呪いの十字架」への道であった。直接、主イエスから聞いていた弟子達さえも信じることができなかった「死からの復活」も、罪からの解放であること。そして、何よりも「信仰によって義とされる救い」は、すべての人への神の約束であることは、第3の世界がそこから始まることを知る。

5月26日 信仰の人と組織

テサロニケの信徒への手紙T 5章12節〜28節 阪井牧師

 「慣(ならい)性と成る」のように、私たちの日々の生活が大変慌ただしい。何の予定のない時の過ごし方に、労苦さえするのが現実である。まことに奇妙な現実だと思う。その様子が教会の中(信仰生活)にも浸透する。予想外の事が生じて、教会に混乱が生じるのは、現代に限ったことではない。このテサロニケの信徒の群れにも想像できる。教会にこんらんだから、パウロは結びの中に勧告をする。教会があるべき姿は、「主に結ばれる」事にあるのは言うまでもない。人の関係だけであるなら避けることでも、主にあって、主の愛に支えられて、敢えて「する」のだ。教会がそれをしっかり受けとめ合える時、主の霊がひとり一人の中に働いておられることを知る。「いつも」「絶えず」「どんなことにも」は無理な要求と思う。自力でなら無理であろう。しかし、「主が望んでくださること」とある。このような非力な私どもに主が働いて下さることの保証である。そして、実現に至らす方であることを語っていると受ける。世の人々の集まり、組織は、それなりの目的を持つ。教会はどうか。人の求めを実現するための組織ではない。主の求めに応答する信仰の人たちの集まりである。私どもの中で働く主の霊が、その信仰に生きさせ、「外に向かう」エネルギーを生み出す。そして、教会は世に向かって証しする。苦しみ呻き、挫折に泣きながらも、さらに先行きの不安に自分を失うような現実を引き受けて、なお前に向かう力を発揮する教会となる保証を受けるのだ。

5月19日 捕囚の屈辱

エレミヤ書 48章1節〜47節 阪井牧師

 過越祭から50日目が五旬祭、ユダヤ教の収穫の感謝の祭の時である。キリスト教では、主の復活(イースター)から50日目をペンテコステ(聖霊降臨日)と呼び、教会の誕生を記念する日としている。使徒言行録2章の記事がその詳細を告げている。バプテスト同盟は、この時を「海外宣教を覚える日」としている。聖霊を受けた人々が、イエスキリストの出来事を伝え、それを聞いた人々が信じる群れとなり教会が生まれた。教会の働きが新しく始まっている。自分の信仰を保つと同時に、イエス・キリストの出来事を伝える(外に向かって働く)ことが教会たる所以である。エレミヤ書おn48章は、モアブに対する預言であるが、歴史的事柄のどれが記事となっているかは定かではない。イスラエルの東に位置する隣国であり、アブラハムの甥ロトの子どもがモアブの先祖となる(創世記19章)。また出エジプト以来の関係がある部族である。戦乱や混乱のない平安な生活は、神を必要としなくなった。7節「自分の業と冨に信頼を置いた」と。そこに神の裁きがあるのは、今日の私どもの生活に通じる。神の計画・業は人間には説明の付かない理不尽さを感じる。しかし、主イエスの誕生も十字架と復活も説明は付かない。当時の人々に「捕囚」がどれほど屈辱的な事件であったか。また滅びそのものであったろう。ところが、神のみこころと受け取る時、そこから新しい歩みがあることを語っている。神は、その民を用いて世に働かれるとある。希望はそこにある。

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5月12日 キリストの土台の上に

ローマの信徒への手紙 15章14節〜21節 阪井牧師

 新年度「教会標語」は本日の説教題であり、その根拠としている聖書箇所も、ローマの信徒への手紙のここに含まれている(15:20)。標語の背後にある祈りの課題は、教会設立である。教会の成人式を想像して良いと思う。成人には責任と義務が伴なう自立である。体格よりも人格が大切となるのは当然であろう。「守るべき、変えるべき…」を耳にすることがある。この「べき」の基準を聖書から学びたい。気付いたら、自分の意志とは違う場所に立っていた私どもの過去があった。教会の場合も然りであろう。ローマの信徒の教会は世界中心都市にあった。その教会に宛てたパウロの手紙には、次の世界への宣教を願う祈りがあった。「キリストの名がまだ知られていないところへ」ローマの信徒と共に福音を伝えたいとある。その故に「キリスト・イエスの恵みに共にあずかりたい」と語る。教会の負う義務と責任の根拠は福音宣教にある。自分の信仰を大切に育てることは必要である。同時に、外に向かって福音を伝えること、神を知らない人々に向けてイエス・キリストを証しし続けることも欠くことができない。この作業を「信仰の足腰を鍛える」と表現した。教会の「体力作り」が今の時と考えてみた。具体的には、どんな時にも揺らぐことのない教会となるために、一人一人の信仰を言葉にして一つになる必要がある。教会の〈信仰告白〉または〈信仰宣言〉として、内に外に明らかにしていく取り組みが、人の思いを越えて神の御心を土台にすることから始めたい。

5月5日 主と共に生きる

テサロニケの信徒への手紙T 4章13節〜5章11節 阪井牧師

 キリスト教はユダヤ人以外の異邦人に福音を伝えて世界に広がり始めた。その第一任者パウロは、マケドニア地方の諸教会に伝道の旅をした。テサロニケの町はその2番目の地である。キリスト教とは異なる信仰や宗教が人々の生活に浸透していた。教会の中にもその影響が及んで、その深刻さを知っているパウロは、離れた地(コリント?)から様子を確認するために使いを派遣した。その報告にタイして、喜び溢れる思いに満ちてこの手紙を書いている。ここにある勧めは、キリストの身体である教会が一つでなること。これが外に向かって福音を伝える力を正しく発揮することになる。ここに扱われている「死といのち」の事柄は、人の理屈(論理)に納まらない。逆に人の論理に基づく時、神の領域を閉め出すことになる。イエス・キリストが十字架にかかって死に葬られたが、神は「甦らされた」。神の領域である。人がこれを受けるかどうかになる。納得の問題ではない。「信仰に生きる」世界は、この甦られた主イエス・キリストと共に新しい世界に生きる者とされている。神の領域にある「主が再び来られる時」を人の領域に引き込もうとする混乱が想定される。使徒言行録1:7やマタイ24:36などに御子・主イエスご自身が話されている。「その日、その時は、だれも知らないただ父だけがご存じである。」 これは、放置されるのではない。「主が共におられる」ことを信じる者に与えられる約束の言葉でもあるのだ。委ねる者に与えられる平安を歩もう。

4月28日 「いる」と「認める」の差

エレミヤ書 47章1節〜7節 阪井牧師

 聖書の中心舞台は、パレスチナと呼ばれる地で、地中海東側の沿岸内陸側、北はウル、ハランとカルデヤの地、南エジプトに囲まれた地域を指している。世界中で知られながら地図の上には、つい最近までその名はなかった。北の勢力(アッシリアやバビロン)と南の勢力(エジプト)そして移住の民(ペリシテ人)によってこのパレスチナじは混乱の連続であったと言えよう。イスラエルはその中心的地位に、神からの約束の地として住み着いた。イスラエルを取り囲む環境は都市国家の政治体制であった。統一国家はその対応に生まれたが、B.C.722年北王国、B.C.587年南王国が滅んだ。エレミアの活躍は南王国滅亡の前後となる。46章は頼みとしたエジプト敗退を語る神の言葉、この47章は絶えず脅威であったペリシア人への徹底した裁き(大洪水の誓え)を内容としている。何故それほどまで徹底した神の裁きが語られるのか。新しい神の世界が展開するために必要との説明もある。聖書を読む者への書かれていない「受け取り方の問い」を想う。神との関係を軽んじる人間への問いである。神の言葉は語り続けられているけれども、人は傲慢になる弱さがある。その人間に<神に帰る>ところを示していると。ルカ福音書の放蕩息子の父親は、遠くから息子を認めて、迎え出て喜んだ。帰る処があることを示しているようだ。世界の創造者は、私どもの意識(認識)と関係なく、今も共に歩んでおられることに気づくようにと語りかけている。感謝の限りである。

4月21日 主イエスに結ばれ

テサロニケの信徒への手紙T 4章1節〜12節 阪井牧師

 個人の限界を超える事柄なのに、結論を出し、引き受けて前進しなければならない状況がある。国内外の政治環境や生活や文化の慣習、医療や宇宙科学の事柄などがある。マケドニア地方のテサロニケでは、ローマ政治とギリシャ文化の世界に加えて終末が近いとする人々の強い関心が、教会に浸透してきた。パウロが書いたこの手紙の背景を確認して「神に喜ばれる」生活への勧めを読み取りたい。ここでの「生活への勧め」は倫理であるが、一般倫理と異なる「キリスト教倫理」なのである。主イエスが十字架に向かって歩まれた足跡に倣う、それは父なる神のみこころを根拠とする歩みだった。自分という一人の歩みであっても、神が支えている確信に生きることである。神との関係を保つ歩みは、神の聖(神の本質)が現れる生活になる。人間の状況や時代背景に左右されない。神の前に営む生活に基本となるため、信仰者が人間中心の現実の中でどのようであることが望ましいか、との問いに答えるものとなっている。人間を中心にするとき、自分に正直に歩むことが主張される。神との関係が失われた状態では、正しいとする根拠はどこにあるか。当然、人間が根拠とならざるを得ない。他者への姿勢は、比較の論理が働くことになる。上下、強弱、貧富、大小などは福音から離れた他者関係とならざるを得ない。そこには神に感謝と祈りへと至らない。キリスト教会は自立は、神の恵みへの応答であり、さらに他者へと向かう愛に導かれるのだ。

4月14日 正しく懲らしめる

エレミヤ書46:1〜28 46章1節〜28節 阪井牧師

 讃美歌301は、詩編121の言葉に由来する。前にも後にも、行く手を失った民が、山に向かって祈るとき「助けは主なる神から来る」との信仰を確認する歌として親しまれている。エレミヤ46章の歴史的背景には、北のバビロニアと南のエジプトとの強大な勢力に挟まれたイスラエルの現実がある。人は生活(目前)の現実に心奪われ、その対応に苦慮する。そんなときにも、預言者エレミヤは、自分の主張や意見を語るのでなく、主から託された言葉を忠実に語り続けた。時の状況を読み取り、味方に頼むべきはバビロンか、それともエジプトか。現実への対応に心を労する人たちには、預言者エレミヤの言葉は、反逆者または裏切り者の言葉に響いたことだろう。誤解に苦しみながらも、預言者としての使命を全うする。そこには、伝える使命が預言者を支え、力づけている現実がある。周囲を見回す姿勢から、改めて視線を上に向けることに通じる。主なる方は、民を滅ぼすことを目的に定めていないのだ。救いこそが神のみ心であることに気付かされる。ユダやエルサレムの民が直面している現実は、その目を人から神に向けさせること、滅びから救いへの導きである。親や教師がその子を叱るのは、苦しめる事でなく、正しく導くことにある。懲らしめるのは、救いから反れていくことを防ぐためである。人は感情に流される危険を孕むが、主なる神は、そのいのちを保たせることを願って預言者を立てた。その使命を私どもも担う者とされることを覚える。

4月7日 永遠の命を得る

ヨハネによる福音書 6章34節〜40節 阪井牧師

 子どもは直線的、直感的に言葉を発する。それに対して、大人はその時や状況をよみ、気配りや婉曲表現をする。そこで、大人としての関係を見ることは、その人を認識する一つの手立てとなると考えられる。ところが、この記事は関係ではなく、そのものを語る。「わたしは、世に命を与える神のパン」とのイエスの言葉は戸惑いを覚える、これは、イエスは誰か、どういう人かを私どもに信仰の姿勢を問い、告白を求める言葉となっている。つまり、このパンを食べるか、食べないかのどちらかを選ぶのだ。その基準が「しるし」であろう。「しるし」を判定するのは、誰か。ここに課題がある。認識を根拠にする時、その対象を問う側に主体性がある。しかし、この主イエスの言葉は、根拠が神の側にあることを意味している。だから、「わたしの所に来る」と言われているのだ。しかも、父なる神から遣わされた主イエスは、すべて受け容れることを断定している。ここに私どもの救いがかかっているのだ。父のみこころは、「永遠の命」を得させるために、わたしを遣わされたとある。パンのあれこれを吟味したり、議論によって決めることではない。食べるか食べないかしかない。信仰の事柄とはそのことを意味している。喜び受けるか、それとも、よく吟味して食するに値するかどうか判断するか。もし、そうであれば、永遠の命は人間の側の決断にかかっている。神の人間が認めて存在あらしめていることになる。子どものように感謝できる者でありたい。

3月31日 命にかかわること

マタイによる福音書 28章1節〜10節 阪井牧師

 主イエス・キリストの甦り=復活は、キリスト教の、また教会の最も核心的なこと、信仰の命に関わることである。聖書の記事「安息日が終わって、週の初めの日の明け方に…」は、日曜日(主日・聖日)礼拝の根拠となっている。受難週の日数に日曜日を含まない理由でもある。喜びの日として特別な意味を持つからである。人の生活の都合でこの日を変更自由にすることは賢明ではない。安息日の翌日を教会が「主の日=喜びの日」としたことは、律法が生活の秩序であった世界にとって簡単なことではなかったろう。主イエスの捕縛の折、ペトロは自分を隠して大祭司の官邸に入ったが、そこまで。他の弟子達はその姿も現せなかった。被害が自分に及ぶことを恐れたと想像できる。なら、安息日の翌日に礼拝をする特別の日としたことは、信仰の決断であったはず。記憶にあるのは、安息日に病の人を癒したイエスを、人々は殺害しようとしたほどである。その中での決断は「命にかかわる」こと、信仰の決断であったことを覚えたい。復活の現場に来たのは二人の夫人であった。彼らは、人間の理解や納得の世界を超えた出来事を「恐れた」はずなのに、それを伝えるために、喜び走ったのはなぜか。その途中に主イエスと出会っている。主イエスからも「恐れることはない」と、「伝えること」の言葉(使命)を受けている。このメッセージを伝える使命が彼らを支えたと考える。福音の内容が、それを携える人を支えるのだ。私どもにもその使命があることを喜ぼう。

3月24日 人の敷いた道

マタイによる福音書 21章1節〜11節 阪井牧師

 キリスト教は新約聖書を介して旧約聖書を理解する。しかも、旧約聖書の成就が新約聖書という関係をもっている。その関係をこの箇所からも学ぶことができる。主イエスは十字架に向かう歩み、都に入られた。エルサレム入城(受難週はここから始まる)である。このイエスの姿を旧約聖書のイザヤ書(62:11)やゼカリヤ書(9:9)を引用して説明している。時はユダヤの<過越の祭>の賑わい、中心舞台の都はイスラエル全土からの参詣者で興奮していたと想像できる。メシヤ(救い主)到来への期待で、興奮高まる時でもある。イエスの入城はそれに呼応している、とイザヤ書とゼカリヤ書の言葉で説明をしている。群衆は叫び続けた。「ダビデの子にホサナ。=イスラエル万歳。」と。ロバの背中に弟子たちは服をかけた。群衆は、道に自分たちの服、木の枝(ナツメヤシの葉)を敷いて騒いだ。イエス一行を取り囲む騒ぎに「どういう人物か?」の問いがでた。この福音書は実に冷静にこのことを描写している。「ガリラヤのナザレから出た預言者イエスだ」と。つまり、ユダヤの人々は本気ではないのだ(ヨハネ1:46参照)。嘲笑とも取れる説明を想う。ここに<苦難の僕>(イザヤ52:13〜53:12参照)の姿を想起させる。神が(旧約で)約束された<真の救い>は、この方だと語っている。初代のキリスト教会の信仰がそのように受け取ったのだ。神々しい栄光に輝く姿を望む中に、顔を背けたくなるひどい姿で現れた。ここに私どもの救いがあることを受け取りたい。

3月17日 栄光は仕えること

マルコによる福音書 10章32節〜45節 阪井牧師

 自分の弟子達を「友と呼ぶ」と語った(ヨハネ15:15)イエスは、その直前に「友のために自分の命を捨てること、これ以上大きな愛はない」とも語っている。弟子達にこれ以上の喜びはない。慕い従う先生から一切を差し出して「友」と呼ばれる程の名誉はない。でも、その真実を弟子達には理解できなかった。エルサレムに向かうイエスの様子は驚きと恐れであったと。受難と復活は、すでに何度か聞いていた(8:31,9:31)のに。どういうことか。自分の拠り所であるイエスを失うことへの不安と恐れだとを想う。その後の弟子たちの様子は、魂の「渇き」を想う。最初に召された弟子達がイエスに願い出ている。縦の関係が失われた横の関係を求める姿がここに現れている。最初の予告に反応したペトロに、「サタンよ、引き下がれ」と言われた場面も同じである。「神のことを思わないで、人のことを…」であったイエスの言葉を想起する。この弟子たちの姿は今日の私どもに通じる。上昇志向の世界の現実としての栄光に対して、私ども教会の向かうべきところ、立つべき根拠はどうか。詩「足跡=フットプリント」に信仰の知恵をみる。苦しいときにこそ、主が私どもを背負って歩いている。「自分の十字架を負う」のは、一人放置された姿ではなく、十字架を負った私どもを背負って歩かれる主の憐れみが語られている。人の栄光は上昇志向に、しかし、神の栄光は十字架への道を、私どもの下へと向かわれた。受難節の準備が、この主を新たに確認するときです。

3月10日 与えられた命

エレミヤ書 45章1節〜5節 阪井牧師

 自分の意図とは別に、神の召しと選びがある。しかし、そこには神が伴っておられることをエレミヤ召命記事にみる。その働きに書記官としてバルクが加わった。人々には、時としてエレミヤ以上の力を認めた(43:3)。エレミヤが様々な困難や苦しみを経験した。近くにいたバルクが同様の経験をしたことは想像できる。バルクがこれらの経験に加えて悲しみに疲れたとの言葉に、神はエレミヤを通して語った。その記事から一つのメッセージを受け取る。自ら身に負った経験者エレミヤは、預言者であり、牧者になるのだと。語られた言葉には、さらに恵みがある。エレミヤ召命の記事「〜恐れるな、私があなたと共にいて〜(1:8)」の言葉を想起する。神ご自身の計画に召されている恵みである。つまり。あなたの嘆きや苦しみ、悲しみは、神のご計画の中にあることを忘れてはならないのだ。バルク個人のものではない、また私共個人のものではない。そこに、自分の主張や思いを持ち込むことは、神のご計画を変えさせようとすることになり、仕えるべく召された者が神に肩を並べることになる。キリストについて来たい者は、「自分を捨て、自分の十字架を負って〜」と言われた言葉を想起する。主イエスに生涯従う者は、倣う者であり、同じ淋しさ不安を味わい受ける者でもある。主から「ご用に仕える者」と召されている誇りと栄光に気付きたい。 本来、私のものでないものを与えられている命を主に献げる信仰の成長を祈りましょう。

3月3日 信仰による励まし

テサロニケの信徒への手紙T 3章6節〜13節 阪井牧師

 幻を受けてマケドニアに渡ったパウロは最初にフィリピでみ言葉に仕えた。その働きは、牢獄での貴重な体験をした。町から出て行くように頼まれて次のテサロニケに来た。短い期間での教会誕生は、不純や困難に弱い。再びそこから離れる事情に合い、心配がテモテの派遣となった。人間の情がその根拠であれば、教会の本質を歪ませる。生きて働く神との関係が揺らぐ事への心遣いである。イエスがキリストであると信じる者の群れが教会である。教会はどんな状況にあってもその核心が揺るがない。説教は誰が語っても、神の言葉になるところである。その故に教会は、「キリストをかしら」として一つになる。現在、私どもは伝道所から教会への歩みを進めているが、信仰において一つであることの表明(信仰告白または信仰宣言)をしたいとの願いを持つのだ。パウロの心配は、そこにあった。しかし、テモテが持ち帰った感動的な報告は、嬉しい知らせ(福音と同じ言葉)であった。厳しい現実に、しっかり向き合っているところに神の力、聖霊が働いていることを示していたのである。祈ることさえ困難で疲れを覚えるところで、人の言葉が神の言葉として聞かれていたのである。パウロの言葉に、「弱いところにこそ神の力が十分に働く(Uコリント12:9)」を想起する。高慢を砕かれ、神の前に用いられる光栄を感謝している。 「あなた方の信仰に励まされた(7節)」は、テサロニケの人々が信仰において一つ、主イエス・キリストに結ばれていたのだった。

2月24日 現実を見る位置

エレミヤ書 44章1節〜30節 阪井牧師

 囚われの身であるイスラエルには、バビロン(カルデヤ)人の何気ない言葉が深く心の中に突き刺さっているのを、詩編の中(137、42、79)などに見る。若者は前を見るが、経験のある者は歩いた実績に拘る。エレミヤは、主から示されたことを忠実に語る。しかし、聞く人たちはそのままを受けとめられず、エレミヤを否定するか、或いはその回りの人の所為にする。神の民の契約という基本よりも、自分の基準を持ち出す。今ある現状から信仰の事柄も判断する。そして、ついには神との関係が負担になることを心に思う。「囚われの身」が神のご計画にあることよりも、身近にある、今と深く関係する(言い訳の)神との関係を繕う姿勢の民に向かって神の言葉が伝えられている。かつて祖先が歩んだエジプトでの生活から抜け出るのに40年を要したことを想起する。荒れ野の生活40年は、ただ苦しい困難な歩みである、との見方が成り立つ。しかし。もう一つの見方、神の民への備えとする見方とがあることをここに学ぶ。そこにある事実は一つである。私共の見方は、自分の位置からそれを見るか、それとも、神のご計画としてそれを受け取るか。同じ事柄が苦しみや悲しみでしかないのか、そこから新しい展開への力を受けるかの違いがそこに生まれる。その人の特性との見方がある中で、信仰の大胆さや勇敢さを発揮できる機会にすることが求められる。小さく弱いからこそ、その力の大きさが意味を持つ。神の民の群れである教会として歩みたい。

2月17日 汝ら我が誉れ我が喜び

テサロニケの信徒への手紙T 2章17節〜3章5節 阪井牧師

 イースターは教会の最も大切な祝祭(祝い日が移動する)である。その備えの期間をレント(受難節)として、喜びの催しを控える習慣がある。主イエスが苦しまれる受難は誰のためかを考えるなら容易に納得できる。その期間にこの聖書箇所を学ぶ機会も貴い。パウロの宣教が厳しい状況の中で進められている。自分の同胞ユダヤ人によって宣教が妨げられ、テサロニケにも滞在できないほどであったらしい。自分の退去後に、生まれたての小さいキリストの群れがどう困難と向き合っているかを想像するパウロは、苦しんだ。苦しみは、イエスの受難に通じる。自らが彼らのために痛むのだ。そこでの様子を調査するため、同行者を派遣し、報告結果に喜び、だした手紙がこれである。説教題はその思いを表したものだ。イエス・キリストを信じる信仰による困難克服の報告が、どれほど宣教者を喜ばし、主への感謝溢れるものだったことだろうか。時に、信仰に生きようとするが故に、生活が厳しくなることがある。苦しみが益すことさえ起こる。「私についてきたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って…」の主イエスの言葉を想起する。これは、その本人が一人で負う十字架ではない。主イエス御自身が既に負っておられる十字架である。この事実に目覚めて生きる信仰者には、目先に起きている艱難、周囲の誘惑に惑わされることはない。主イエスと共に歩むその姿には、周囲を引き込む力が働くのである。主ご自身が働いて下さる信仰者でありたい。

2月10日 極みで知る主の愛

エレミヤ書 43章1節〜13節 阪井牧師

 捕囚や死から残されたユダの民は、「祈って欲しい。自分たちの都合によらず、示された主の言葉に従う時、幸いを得る」と預言者エレミヤに願った。それに応えて祈り、主の御心を告げたところ、この主の民は前言と異なる行動に出たという内容がここにある。それはどうしたことなのか。主の前にあれほど誠実と思える言葉だったのに。そこには、「主の言葉に従うとき、幸いを得る」の言葉の中に隠された落とし穴があるのかも知れないと見る。目的と結果が同時にある。祈りは「従う」の責任を負うものである。祈りから得た主の言葉は、<ただ従う>のが第一である。自分の都合が条件となっては祈りとならない。ところが、結果の「幸いを得る」が目的になるのが人の常である。キリスト信仰は、主の恵に基づく赦し=愛が伴う。主イエスの十字架にその根拠があるのに、赦し=愛が目的になるとき、キリスト教から離れるのと似ている。「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って従いなさい」の言葉を想起する。エレミヤは民の意に反していても、神のみこころ(言葉)に従った。結果、神の意に反する道を取り、ユダの地に留まる命の危険・不安の民らと共に、ユダの地を離れてエジプトに行った。福島から避難している人たちへ、元の地に帰ることを促す状況と重なる。苦しく、厳しい決断を求められた人の思いを想像する。人の道理と神のそれとが顔をつきあわせる<極み>に、主の御手が働くと確信する信仰を歩もう。

2月3日 神の福音を語る

テサロニケの信徒への手紙T 2章1節〜16節 阪井牧師

 近年、「家庭」との言葉が空洞化している感を覚える。初代教会の時代には深く密接な人間の関係をそこに見ていた。@母親と子どもの関係で、宣教者と教会の人々を譬えている。福音に子を生かすためには、自分の命をさえ与えたい程の激しい思いがある。A父親と子どもの関係では、キリスト教信仰のゆえに生じる厳しさを乗り越えるために、必要な力を身に付けさせる配慮が語られている。その時、「一人一人に」との言葉に目を留めさせられる。これは人格の関係を意識させる言葉である。その時代に於いて福音信仰を生き抜くため、父親が子どもに向き合って、倒れても立ち上がり、更にもう一歩前に進ませる力を持たせるための配慮を示している。「99匹と1匹の羊」の譬えを想起する。神の霊の力が働くことの確信を見る。「神の御心にそって歩む」ことは必ずしも容易ではないのだ。パウロはその後に経験をUコリント11章で語っている。神の福音を伝えることは、時に周囲から歓迎されず、抵抗や迫害また妨げを受けたことを示している。時に福音のために命を損なうこともあった。かつてのパウロが迫害に「息を弾ませて」いた。その厳しさに向かって信仰の歩みをする人たちに語りかけている言葉は感傷・感情からのものではない。世に向かう時、寛さへの評価を気にすると、魅力ではあるが「罠」も在る、と言う人がいる。神から委ねられた福音を、魂を込めて語るのは当然。「語らなければ不幸だ」のパウロの言葉(Tコリント9:16)を想う。

1月27日 良くても悪くても

エレミヤ書 42章1節〜22節 阪井牧師

 精神的不安定が身体的不調の原因になるという傾向が現代的特徴と言われる。それにカウンセリングが対応の一つであろうが、聖書はそれとは異なる主張を持っていることに気づかされる。本人が気づかないままに「持っている解決策」を表面化させるのに対して、持っている主張を神の前に一切を差し出して自分を空にする、の違いである。エレミヤのところにやって来た人たちは、「あなたの神に祈って欲しい」(自分の持っている解決策と同じ答えが出るようにとの願い)と言うのである。エレミヤは「あなたたちの神に祈りましょう」と答えている。注目したいのは、答えに対する判断の基準はどこにあるかだ。自分か、それとも神にか。言葉では、エレミヤを遣わして告げられる主の言葉が「良くても悪くても」、主の御声に聞き従うことを誓った。それが最善であるとも。主の言葉がエレミヤに臨んだのは、それから10日後とある。エレミヤが預言者であっても、すぐに答えることができていない。エレミヤは毎日、祈り求めたことであろう。<祈りは責任を与えられること>と表現した人がいる。主の言葉を受けた預言者エレミヤは、彼らの意に反する主の言葉を告げている。エレミヤに祈りを求めた人たちにとって、存在そのものが危うい現実の中で告げられた主の言葉は、約束である。神の約束は信仰の課題である。今はまだ起きていないことを真実として受け取る信仰の課題は、今日の教会の課題でもある。 信仰に立つか、自分の判断に立つかの…。

1月20日 主に倣う者となった

テサロニケの信徒への手紙T 1章1節〜10節 阪井牧師

 使徒パウロの第2回宣教旅行は50〜53年頃と想定できる。福音書の成立よりも20〜30年も前のことになる。パウロとシラス(シルワノ)そしてテモテが、幻を受けて小アジアからマケドニアへ渡った。フィリピを経てテサロニケ(ローマ時代の州都)で福音宣教をし、キリストの群れ(教会)がそこに生まれた。事情は不明であるが、そこを離れたパウロは、テサロニケの群れが向き合っている課題を確認するためテモテを派遣した。その報告を受けて書いた手紙がこれ。使徒言行録17章にもその様子がある。ユダヤ人会堂で安息日を過ごし、イエスの復活を語った。そして信じる人が生まれた。「ユダヤ人は妬んだ」の言葉との関係からか、群れの集まりはヤソンの家で行われた、と。前任者の教会への心を想う。しかし、それは情としてではない。正しい神との関わりを祈る言葉である。「祈りの度に」は重い。神から選ばれたことが、神の愛に根拠を持つことを語る。あなたがたの厳しい現実生活を営むことの中に、主が働いて聖霊による喜びとなって御言葉(福音)を受け入れたことを感謝している。それは宣教者たちの姿であり、主イエスの姿でもあった。「主に倣う者の姿」である。今日の教会(群れ)の姿でもある。主の言葉は、その現実の生活を通して伝えられるのだと示される。生活と離れた信仰もあろう。しかし、生けるまことの神に仕える信仰者の日常の姿にこそ信仰の真実が示されるのだと語っている。主に倣う者とされていることを喜びたい。

1月13日 神への問い

エレミヤ書 41章1節〜18節 阪井牧師

 「派遣」が現代人の関心事となっている。雇用される側と雇用する側、どちらも時の経済事情に振り回されている。聖書のバビロン捕囚直後のエルサレム事情に振り回されている人々の生活混乱ぶりを想像した。ユダ社会のリーダー的存在が捕囚となり、故郷から引き離され、支配者側バビロン王が占領地の総督に、かつての高級官僚ゲダルヤを任命した。この人を頼って、捕囚を免れた人たち、エルサレムを離れていた人たちは、ミツパ(総督府の町)に集まり、復興の期待に燃えて力を注いだ。ところが、あり得ないと判断していた「暗殺の企み」が現実となった。当然、人々の燃え掛かっていた希望は壊され、人々は挫折した。総督に任命されたゲダルヤは、かつてエレミヤの身柄を引き受け他人で、エレミヤの預言内容をすすめる主張を人々に訴えていた。そのエレミヤは、エルサレム陥落の時も神の手に救われた。ところが、このゲダルヤは神の救いを受けることができないで暗殺された。この現実はどういう事か。神への問いを強くするのが人の思いである。ダビデが初代イスラエル王サウルに命狙われたが、隠れた場所で、サウルを撃つ機会を得たのに、「主が油を注がれた人」ゆえに手を下さなかった。手の届くところに機会はあっても神の意を求めたのである。神の民が異教の民に支配される事実は確かであるが、人の思いを書くなでなく、主に委ねる信仰を示される。主イエスが十字架で父なる神に自らを委ねられたように。

1月6日 み心を行うため

ヨハネによる福音書 6章34節〜40節 阪井牧師

 新しい年の歩みに際して示された「みことば」は如何でしょうか。お互いの情報交換の中に加えると、交わりは一層深まることでしょう。今日の聖書には、あるテーマが考えられます。「見る」と「信じる」の関係です。聖書全体の事でありますが、特にヨハネ福音書はこれを強く意識していると言えましょう。「盲人の話(9章)」や「弟子のトマスの話(20章)」はよく知られている通りです。このテーマは、時代や場所が異なり、また関係は複雑化しているけれども、同様の課題が今日にもあると言えましょう。<出生前診断>はその一つです。科学の進歩は進んでいても、「見る」目そのものが検証できないのです。ナザレのイエスを迎えた同郷の人々は、近すぎて誤りに陥りました。ここでのユダヤ人たちは、永遠の命に至るパン(荒野でマナ)を「しるし」と見立て、天からのパンをイエスに求め、<神の業>にあずかろうとしたのです。信じる事への道は、必ずしも見えることではないのです。トマスに向けられた主イエスの言葉「見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである(ヨハネ20:29」を想起します。「神の業を行う」ことは、遣わされた方を信じること、その方のところに集まることです。そのような人を一人も失わない事が遣わされた方の使命でした。すべての人が永遠の命を得ること、復活のイエスと共に生きることが、お遣わしになった方の「みこころ」であることを示されました。新しい年の歩みが、主イエスと共にあることを祈りましょう。 


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新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
       (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988


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