日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月28日 隠されていた知恵

コリントの信徒への手紙T 2章6節〜9節 阪井牧師

 使い切れないまま持ち物が保存されていて、持ち物と言えるか。主イエスの話された譬で、失われた羊や銀貨や息子の話(ルカ15)がある。神との関係が失われた私どもへの神の恵みが語られている、と受け取る。見失って、そのままに放置すれば存在が失われる。だから、捜し見付けて喜ぶのだ。いや、喜ばれる存在にされていることが、主イエスの誕生なのだと思う。ここに「神の知恵」があるのに、不合理や生活の知恵で拒絶するところに「世の知恵」が働いていることを示す。人は、自分にあらがう者を遠ざける。しかし、神は、ご自分に歯向かう者のために、最も大切な<ひとり子>を差し出された。これは愚かしい限りの行為でしかない。そこに「救いの奥義」つまり、隠されていた(神)の知恵なのである。努力や論理から到達できる結論ではない。私ども(世)の生活から辿り着く知恵(律法による救い到達)は、この<奥義=隠されている知恵>を十字架に付けるしかなかった。「この十字架こそが、すべての人の救いである」と告げる福音であるために「宣教の愚かさ」と言うのだ。自分の側に理由がない貴重な<贈りもの>は気味が悪いだけであろう。敢えて、理由を挙げるなら、失われているけど存在そのものである。どうして、それほどまで心にかけられるのか。信仰によって受け散れる理由がある。その存在は、神が命を与え、神が生きることを求められるからとなる。関係の回復を、神がどれほど喜ばれるかを知るなら、決してこの<私という存在>を粗末にはできない。感謝です。

12月21日 暗闇の中に光り

コリントの信徒への手紙T 2章6節〜9節 阪井牧師

 クリスマスおめでとうございます。主イエスの誕生より約700年程前に、イザヤという預言者の言葉がそれを語ったと言われる(9:5)。実は、アッシリアやバビロニアの圧力に苦しむ国情の下で、歴史に偉大な王として記憶されるダビデを想起した言葉でなのだ。その記事がクリスマスに用いられている。世の権威、金、兵力が支配力の要素であった時代である。人は不安と心配に苛まれていた。周辺の事情に見当がつかない。暗闇である。そこに、イザヤは「目を神に向けて!」「神は共におられ、働いておられる」と信仰の言葉を語った。「闇の中を歩む民は大いなる光を見死の地に住む者の上に、光が輝いた。…」と。この旧約の言葉に対応した新約の言葉(ヨハネ1:1以下)は、「光に命があった。命は人間を照らす光であった。」と記した。人の能力でこれを受け取る事ができない、とコリント書は「神の知恵」との言葉で説明する。人として生きることが厳しい状況にある人(例えば、罪人、酒税人、貧しく律法に従えない人)たちは、「あなた方のためにメシアが誕生した」の知らせを喜び受け容れた。いわば、「クリスマスがきて」「クリスマスになった」のだ。自分のものを保ち続ける者には難しいことである。「クリスマスが来た」のに「クリスマスになる」ことができない。自分が主人である限り、その知らせは心からの喜びにならない。欲や汚れの暗闇にこそ「光」が届けられ、自らが光として世に向かって輝く者とされていく不思議な神の知恵がここに現わされている。感謝です。

12月14日 人間生活の急所

ルカによる福音書 3章7節〜20節 阪井牧師

 記事の背景には、ローマの強力な支配力と律法に根拠を置くユダヤ教の形骸化がある。そんな時、「荒れ野で叫ぶ者の声」ヨハネが、悔い改めのバプテスマを迫った。多くの人たちがヨルダン川(荒れ野)に集まった。彼らへのヨハネの言葉は厳しさを感じさせる。「蝮の子ら」「石ころからでも、アブラハムの子たちを」「斧」「火」「神の怒り」の言葉がある。「神の民」「選びの民」の特権、「慣習となった清め」への警告が含まれている。「あなたがたは、本当に、神の前に出るに相応しいか」の問いを覚える。群衆・徴税人・兵士たちがヨハネに向けて共通の問いをした。「私たちはどうすれば良いのですか」との自問をさせる言葉は、すべての人への急所を突くものがある。説教の基本は徹底して神の前に共に出るべきことを学ぶ。この基本が弛むと、運動や思想あるいはお祭りにも変化する。「民衆はメシアを待ち望んでいて…」の言葉が、重要である。国政衆議院議員選挙の日と重なるこの<アドベント>が時代や歴史を変える力となる。神との関係を見失った行動は、<おかしな>方向へ進むことを、私どもの歴史からも学ぶことができる。時間と状況に距離を置くなら、「おかしい」「悲しい」「愚かしい」と冷静に判断できるのに、気付いた時には後戻りできなかった。ユダヤの人たちは、彼らなりに本気でメシアを求めたのであろう。私ども現代人の心にも、信仰とか宗教の言葉を用いなくても「本当に良いもの」を意識しているのではないか。主イエス・キリストを待つことを、さらに深めたい。

12月7日 新しい生きた道

ヘブライ人への手紙 10章15節〜25節 阪井牧師

 深みに眠っていた課題の表面化に対して世界は驚いている。先進国、アメリカの人種問題である。他人事ではない。我々日本にも同和等の課題がある。エイズ感染者や受刑経歴者、少数者はそれを意識している。実は、クリスマスにも似た背景が想像できる。初代教会に加わった人たちは、社会から疎外されていた人たちであった。「罪」と「不法」の負い目・引け目を背負い続けていた。その人たちは、神との関係が無条件に、すなわち主イエスによる購いの救い(=福音)を喜び受け入れ、時代の中に「生きる」希望と慰めを与えられた。20節の「イエスは、ご自分の肉を通って《新しい生きた道》を開いて…」とはそのことを指している。努力の不足や自分の現実と不安、周囲への煩いも身体の悩みも不要であることが喜びであった。ただ主イエスをキリストとして全てを委ね、信頼しきって神に近づく者とされるのである。ゴスペルソングはその信仰に生きる歌である。神が主イエス・キリストにおいて、この私に目を向け、見ていて下さる喜びが伝わる。エルサレムに教会が誕生したのは、十字架に死んだ、あのナザレのイエスが、メシアであると人々の前で語ることあった。食卓の世話を委ねられたステファノは、どのような厳しい責めにも屈せず、主が私の贖い主であるとの信仰を貫いた。自分の側から回復できない神への道が、新しく開かれて「生きた道」となって、@神に地かづくことができA信仰の告白が揺るがぬようにB互いに励まし合うアドベントの時を備えましょう。

11月30日 剪定ー捨てると得る

エゼキエル書 15章1節〜8節 阪井牧師

 教会の暦のアドベント(待降節)は、一年のはじまりである。これは、イースターの準備期間(レント)を意識している。つまり、誕生の喜びは十字架と復活に結びついていることになる。「光」と「喜び」の祝いには、深い厳しさがあるとも言える。神の民イスラエルは、民自らに特別な理由があるのではなく、神の側に根拠をもった「神の民」である。しかし、人は時間の経過から、現状がすべてになり、神の前にさえ立ち、主張する。この現実を歴史的事件、<神の民が異教の民に支配される>経験が記事である。「ぶどう」は、イスラエルを指し、良い実を結ぶことがその務めである。そのためには、剪定が要る。痛みと犠牲(捨てること)があってこそ、期待された実り(得る)を結ぶ。剪定をしない果樹は、酸っぱいのやバランスの悪い実りとなる。農夫の意図から離れた果樹は、その存在の価値を失う。ぶどうの樹木は、建築材料にならず、燃やす以外に使い道はない。自由や平和が、人間の側からだけ考えることへの警告にもなるように思う。制限が全くない自由は、人を真実に生かすことができなくなる。平和も同様であろう。真の平和は、主イエス・キリストに示される神との人間の和解を根拠にしてこそ成り立つことを知る。つまり、「神の愛」を根拠にすることが必要である。「神の愛」は、主張だけではない。自らを差し出して成り立つものである。神の犠牲、主イエス・キリストの十字架がそれである。痛みを伴う時、本当に相手への想いと繋がるのである。私は愛されている、と。

11月23日 感謝と喜びの祈り

フィリピの信徒への手紙 1章1節〜11節 阪井牧師

 現在、世界が注目する<中東シリア>の北部に、ローマ時代アレキサンドリア都市に次ぐほど栄えたアンティオキアという都市があった。キリスト教がエルサレムから世界へ広がる伝道拠点となった町であり、パウロが3回もの宣教旅行の出発点となったところである。パウロは、その2回目(AD50年頃)の途中、小アジア(現トルコ)からエーゲ海を越えてマケドニア(ヨーロッパ)に渡った。最初の宣教地がフィリピで、短い滞在期間中に教会が誕生した。そこを離れた後に、別の教師がやって来た。結果、教会に混乱が生じた。教会(管理代表=監督)からパウロは報告を受けていた。その教会(信徒の群れ)に向けた手紙が、「キリスト・イエスの僕パウロとテモテから」の書き出しである。そこに、特別な意図を感じる。「僕」は「奴隷」と訳すことができる。主人、イエス・キリストにのみ徹底して仕える務めを生きる者と紹介している。つまり、宛先の教会が直面している課題に配慮していると思える。確たる信仰の告白でもある。本当の自由は、すべてから解放された状態ではない。一つの縛りに徹するからこそ、得られるものであろう。ユダやの慣習や伝統(律法)から解放されるのは、主イエスに縛られて、神のいのちに生きることにあることを、パウロは身をもって経験している。そして、「僕」は、主人が受ける困苦も喜びも共に味わう生き方なのだ。喜びと感謝は、ここに根拠を持つ。さらに、主の十字架が、神の愛を人に根拠づけているのを示している。証し者の姿勢を学ぼう。

11月16日 心を捕らえる方

エゼキエル書 14章1節〜23節 阪井牧師

 カルデヤの地へ強制移住(バビロン捕囚)を受けた民のリーダー的存在が長老たちである。彼らは、預言者エゼキエルのところに訪ね来て、主の御心を聞くのであった。そのことを、主はエゼキエルに言葉を示した「偶像を心に抱き、人々を躓かせる罪を目の前に置いている。…」と。そこにある意味は、今日の教会への警告でもなる。異教の地で「生きていく」のに、何としても希望が必要でる。異国にあるために、切れた(と解している)神との関係を回復する目的があった。神のみこころを求めるのと異なる意志が働いているのだと主は言葉を示している。目的は、人の都合や選択によって成立しているが、神の御心ではない。ここに偶像がある、と。現実の対処として神の前に出ることへの警告であろう。答えを持っていて、それに相応しい言葉を求めるのである。形や姿勢は立派であってもその本質は異なることがある。同じように聖書を読むのも、自分に相応しいモノを良しとし、迫り来るモノは無視するなら、本質が歪んでいく。<神のいのちを生きること>と<長生きをすること>とは異なる。神のみこころから離れた長生きは、生きる本質と違う。<神の栄光に仕えて生きること>こそが本来的<生きる>意味であろう。預言者の前に出て神の言葉を聞くのであっても、自分の都合が優先した状態は「偶像を抱いて」いるのだ、と。人集めの教会には、本質を歪める危険がある。神の言葉を喜び聞く人を求めてこそ教会の使命を果たすことになる。主の救いを伝えるのである。

11月9日 すばらしい人生を求めませんか

ヨハネによる福音書 3章16節〜17節 山本富二先生

 「残り少ない人生なのに聖書の言葉に向き合えていません」との手紙を受けて、人生を考えていることを想った、との話から始まり、ニコデモの話を確認し直す。イエスを夜訪問した理由は何か。静かに考えること、(大人の弱音、家族や人々の前で)本音の言えない立場があろう。イエスに向かって「神が共におられる」つまり「あなたは神ですね」の言葉かけ、に「人は、新たに生まれなければ…」の返された言葉は重い。本質に生きていない、本質から外れた周辺に生きていることの指摘であることを見抜いている。「神は神子を与えられた」は佳子の事実であり、クリスマスの出来事である。十字架による罪の赦しは、神に愛されている事実である。親は子を許すことを前提にして叱る。神の赦しが先に<過去の事実>としてあって、これを受け入れる事が、他者を赦しつつ歩む事であり、教会の姿である。ニコデモは、このことが分からなかった。しかし、19章には、イエスの遺体を十字架から引き取る場面で.ニコデモは、アリマタヤのヨセフのところに来て墓に葬ったことが記されている(38以下)ことから、イエスの言葉が分かったと受け取れる。ニコデモとは、ニカオ(勝)とモモス(人々)の言葉からなる名前である。イエス・キリストの前に、人々の中で勝って生きていくのだ。バプテスト同盟には、72の教会・伝道所および教育機関などの協力団体がある。その教会・伝道所には1687名の信徒がいる。互いに手を繋ぎ合って福音を宣べ伝える働きをしていきたい、と願う。

11月2日 新しい創造

ガラテヤの信徒への手紙 6章11節〜18節 阪井牧師

 差出人の直筆は、受け取る側には暖かみを感じる。初代教会の頃は、口述筆記人が文章を書いた跡、差出人の挨拶署名が普通であったらしい。このガラテヤ書も同じスタイルである。敢えて違いを取り上げるなら、「大きな字で…」との言葉である。文字が大きいこともあったろう。しかし、力を込めての意を想う。心して読まれることを求めているようにも受け取れる。心血を注いだ教会を跡にしたパウロは、後任者によって信仰の揺らぎを知った故の<すすめの結び>がここにある。それは、「福音は、徹底してキリストの十字架による以外にあってはならない」ことである。救いに寄与するどんなものもない。いくらかの人間的な要素を加えてはならないことを強調している。教会の本質を示している。人集めをするなら、その人を教会に繋ぎ止めるには、何をもってするのか。「脇の甘さ」との言葉を聞く。福音を「人の関心で」繋ぐことは、「本質を歪ます」であろう。パウロは、キリストによる十字架の購い=福音にのみ『救い』があること伝えてきた。喜ばれ、親しみ交わることのほうが大きくなる時、福音は本質を失う。「主イエス・キリストの十字架によって、世は私に対し、私は世に対して、はりつけにされた」との言葉は重い。新しい「いのち」を生きる(創造)には、キリストと共に葬られ(世に死に)、死者の中から復活させられることである。人の思惑が救いに拘わるはずがない。<新しさは、古きものを徹底して捨てることから始まる>のである。容易なことではないことを知る。

10月26日 真を曇らす偽

エゼキエル書 13章1節〜23節 阪井牧師

 「偽り」は、真実に限りなく近いもので真実でないものを指して言う。その時、「偽りの預言者」はどういうことになるのか。主から遣わされていないのに、また、主が言われていないのに、「主は言われる」と言うことだ、とある。しかも、自らは手を汚さないし、身体を動かそうとしない。イスラエルの人々が、厳しいいのちの危機の現実に遭遇しても、守ろうとしない、防ごうとしないのだ、とエゼキエルに語らせている。では、どうしているのか。「むなしい幻」を見て語り、人々の心を惑わすのだ。欺きの占いをする者も、「主は言われる」と勝手に語る。女預言者もまた、自分の心のままに語り、民らに一握りの大麦、ひとかけらのパンで気休めや欺きをし、神から心を引き離して死に至らせる。それゆえ、主が自ら彼らの偽りに「立ち向かい」、捕らえられた魂を解き放す。また、彼らを撃たれる、と語らす。「その時、彼らは、わたしが主であることを知るようになる」との言葉は心に残る。つまり、彼らを滅ぼすことが目的ではないのだ。偽りに対する真実を示すことが語られている。目の前に起こっている現実を正しく見るには、神のみこころを通してであることを学ぶ。主を侮ってはならない。偽りの預言は、一時的気休めとなる。しかし、私どもは、主の民とされている。主ご自身が、起こっている現実に立ち向かわれ、囚われの民を祝福の民、神の民として、解放してくださり、真のいのちを生かしてくださるのだ。真を偽りから区別するには、真(神の言葉)を聞き続けることが大事である。

10月19日 時のある間に

ガラテヤの信徒への手紙 6章1節〜10節 阪井牧師

 同じ課題に向き合う人たちの集まりは、励ましと慰めを与えるという。コヘレトの言葉(以前伝道の書4:10)に、「倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ」とある。友とキリストに言われている私どもは、死の淵から助け起こされた喜びを他の人へ証す力とエネルギーを得る。キリストの教会は交わりの中に見えるように勧める6章である。福音に生きる、イエス・キリストと共に歩む姿を証しすることだ。口で言うは簡単だ。しかし、教会生活をする私どもには容易なことではない。「不注意にも」の言葉がそのことを示唆している。気を付けているのに、罪に陥ることがあるのだ。罪とは神の意志に逆らうか、背を向けることと想像してみる。家庭、職場、知友…との交わりをする中での事になると、どうかを考える。ガラテヤの人たちに向かって、「霊の導きの下にいる」との言葉は皮肉ではない。主のものとされていることを指す。それは、この私どもへの言葉でもある。「霊に導かれて」生きている者とされたのだ。信仰の歩みは、霊の働きにあずかることから始まるからである。だから、私ども一人一人が、教会としての「キリストの身体」を建て上げることができるのである。「霊に導かれて」生きるのは、信仰の継続を期待し、信頼しての言葉である。誰も自ら進んで罪に歩む者はいない。神に背を向けることを意志する者はいない。しかし、それが起こるとしたら、「不注意」以外はない。柔和で愛の方と共に歩むため、「祈り」と「言葉を聞き」続けることが必要なのだ。 

10月12日 主のしるしになる

エゼキエル書 12章1節〜28節 阪井牧師

 預言者にとって決定的なことは「主の言葉」である。予知能力を必要としない。社会的にも人物的にも秀でた人でなくて良い。主の言葉に徹底して従順であるだけを必要としていた。従って、自分の主張も経験や知識・学歴も求められない。そのままに使命を携え、仕えるだけだから、結果への責任もないことになる。でも、生活の場で「務め」を果たすとなると容易な事ではない。預言者エゼキエルが受けた使命は生活の場で果たす務めであった。その内容は、周囲が認めたくないことを示すことだった。神の都エルサレムが陥落をすること、と同時に神の民がカルデヤ(バビロン)に連行(捕囚)されることを示すことである。しかも、その務めを果たすことが「主のしるし」になるのであった。時や状況を自分の都合に合わせて選ぶことはできない、となると穏やかではない。周囲の人が気付き、注目を受けなければならないエゼキエルである。捕囚の人になることを前提にした白昼での荷物作り、その夜には壁に穴を開けて、そこから荷物を担ぎ出すのである。教会の私たちにも、預言者的要素があると言われる時、この事を想う。特別伝道集会への案内はそう言う一面を持っているのではないか。キリストの身体を形成する教会は、世に救いを伝える使命を受けている。能力や経験を求められているわけではない。「主の言葉」をそのまま伝えるには、聞き、また見たことが重要となる。その時に私たちは「主のしるし」とされていることを果たすことの第一歩になるであろう。

10月5日 みのりの収穫

ガラテヤの信徒への手紙 5章16節〜26節 阪井牧師

 パウロが熱を込めて語るのは、自分がかつて闘ってきた背景を持つ(フィリピ3:8)。繰り返して勧める内容は、手紙の核心「霊の導きによって歩む」ことである。「肉」は、元来「主の霊」に逆らうもので、自力では成就できない。倫理や道徳の及ぶものであろう筈はない。人の努力や性格の範疇でもない。神から与えられた<律法>さえ守り従い得ないのが肉である。主イエスがキリスト(メシア)として生まれ、十字架に死んで甦られたことにおいてだけ、人は生きる力と希望を得るのだ。ところが、理解はできても、肉(生活)は受け容れられない。どんな人も、自分の積み重ね(経験や努力)を手放すことができない。むしろ、今ある自分を支えてきた事が、その人を頑なにし、縛り付け支配する。律法に生きた人は、それを捨て「キリストに生きる」ことは容易である筈はない。主イエスの言葉は身に染みる。「知恵ある者や賢い者には隠して、おさなごのような者にお示しになりました」や「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」は自分の破れを認める人たちへの招きである。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」や「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」の言葉が私どもを「キリストに生きる者」にしたのであって、自分の努力からではなかった。キリストと共に働いた霊により信仰を与えられたのだ。主の霊が働いたところに実りがあり、その取り入れを主から求められている。特別集会に向けて共に備えをしよう。

9月28日 人の思いと工夫

エゼキエル書 11章1節〜25節 阪井牧師

 自分確認は他者があってのこと。その他者はなに? 「もの」「動物」「人間」それとも「主義」があろう。他者によって、神の恵に生きる自分の評価が異なるを想う。歴史にも同じことが該当するかもしれない。時代や環境からの理解とそれを越える支配者からの理解である。エレミヤもこのエゼキエルも時代の人と違う受け取り方をした。その事実の背後に神の意志を受け取った。時代の人には嫌われ、憎まれたろうにと想うと辛い限りである。「悪い企み、悪い計画」とは、緊急事態に練られた対応策に下された神のみ心からの判断である。なぜ「悪い」のか。神との関係が失われたままであることを告げている。現象としての歴史事実は同じであっても、受け取り方が違うことを学ぶ。「歴史を神が支配しておられる」ところに、人間がどのように意思を持ち込もうとも、適わないのだ。神の事柄に人間のどのような工夫や想いも効を奏することはない。人には滅びに見えても、神のみ心は違っているのを気づかせる記事である。ヨナ書の物語にもそれを見ることが出来る。対応の根本は、神に向き合うことにある。その根本を失う時、人は不安と恐れに苛まわれる。縛り付け、身動きできなくさせる事になる。神に向かい合って事柄に取り組む時、恵みのチャンス(好機)とさえなる。信仰に生きる人の強さは神に向かい合うことに力の根源があることを学ぶ。自分を保ちながらの神との向き合いは真実ではない。すべてを主に明け渡すところから希望と力を受けるのです。

9月21日 十字架のつまずき

ガラテヤの信徒への手紙 5章2節〜15節 阪井牧師

 現代社会の常識に「自由」と「平等」がある。しかし、現代の諸問題の根底には、この常識が破れているように思える。「頭で理解すること」と「生活で分かること」との違いとも考えられる。生活(身体)で身についたものは容易に拭い去れない。出エジプトの民が40年を費やしたことの意味を想う。ユダヤ人たちが律法に拘る理由も関係しているかと想像する。キリストの福音に生きるステファノの殺害は、律法を軽んじ(神を冒涜し)たと解したことにある。パウロは「律法に生きる」ことの限界をキリストとの出会いから認め、それまでのすべてを捨てた。自分を否定する以上の苦悩がそこにあったろう。イエス・キリストの福音に生きる喜びがそうさせた。いくらかでも自分の努力や能力が、神の救いに寄与するとするなら、ガラテヤの人たちだけでなく、どのキリスト者にも、キリストの十字架は意味がなくなる。パウロの言葉の激しさの裏側には、この核心を歪めることへの熱さを想う。神の救いの恵みを人の業で測る愚かさに憤るパウロの警告は、我々にも響いてくる。神の救いの恵(十字架の贖い)は、人の持つ一切を拒絶する。そこに自由の本質があるように思う。神に背を向けて神に従う歩き方は、変である。キリストの福音信仰を生きようとするなら、キリストの十字架に躓かずに済ますことはできないのかもしれない。イエス・キリストのゆえに家族や財産の一切を手放す(ここに大きい躓きがある)ことから、新しい出発、意味の違った家族や財産が与えられるのではないか。

9月14日 主の栄光はどこ?

エゼキエル書 10章1節〜22節 阪井牧師

 茶室には、「にじり口」や「茶道口」、「貴人口」というのがある。その用い方や使う人によって「出入り口」に名前がある。「主の神殿の東の門の入り口」は神殿に向かう正面に当たる。その門の入り口はあっても、出口ではないことをイメージする。門の内側には神殿の庭があって聖所(せいじょ)に通じる。その奥が「至聖所」である。主の栄光を拝するために大祭司が年に一度入るところである。「門の入り口に神の栄光がある」とはどういうことか?大いに気になる。「主の栄光が門の入り口にある」とは、神殿には主の栄光がないことを意味する。「燃える炭火を都にまき散らせ…」の命令を亜麻布(ユダヤ教では祭司のつとめをする人の衣装)を着た人に命じられていることに併せて想像すると、神の都・主を礼拝する神殿には<主がおられない>ことを意味する。教会にも同様な事が想像できる。その背景がどうであったにしても、神との関係を離れて人の力で苦境を乗り切ろうとすることは、<神の前に正しい>ことにならないのだ、と。人が多く集まり、賑やかなプログラムが進められていたとしても、そこには主の栄光がないことが起きるのだ、と。この私どもの現実の世界もまた然りである。科学や技術の神父がどれほど著しいものであっても、その最も基礎となるところに、「神との関係」があるかどうかを想う。見すぼらしくとも、キリストのおられる教会でなければならない。キリストの名によって一つである教会にこそ<主の栄光>があると確信する。

9月7日 キリストにある自由

ガラテヤの信徒への手紙 4章21節〜5章1節 阪井牧師

 語りかけられる言葉に正面で受けとめることが困難な時代です。言葉が人格から離れて軽いのか、関係が曖昧なのか、それとも言葉を発する側に課題があるのか。アブラハムの旅立ち(創世記12章)を自分はどう見ているかが問われる。だが、彼は神の祝福の言葉を自らの力で実現しようとした。人の限界を越えた時、神はイサク(嗤う)を与えた。律法による神の意志の実現への取り組みは、人を束縛して神の意志とは異なる生き方となった。パウロはキリストに出会うまで、神の民の真の生き方は律法遵守にあると信じて歩んだ。律法の成就は人の努力や業の中にあるとするから、律法を軽視する者の排除に奔走し、神の子・キリストを十字架に付ける側に立ち続けたのだ。神の業を人間によって完成させるのでは信仰ではない。信仰は、理解や納得に依らず、そのままを受け容れるものだ。神の子が<人の世界に生き>、そして<十字架に死ぬ>、しかし、<甦る>この出来事は、まさしく人の領域外である。人は神に仕えることが正しいのであって、神を仕えさせることではない。だが、人は自分に仕えてもらうことを良しとする思いを生まれながらに持つ。キリストによって示された神は、人を創り、神に向かって生きることを求める方であることを聖書は示している。私どもの一人一人を神の御手に価値あるとして固い殻(自分を中心に生きる)を破るのには、キリストの十字架が必要であった。ここに、人のキリストにある自由がある。再び奴隷のくびきに繋がれてはならないのだ。

8月31日 額にしるしある者

エゼキエル書 9章1節〜11節 阪井牧師

 いくらかでも自分の言い分があるなら、その責任を免れたいのが私どもである。創世記3章からそのことを学ぶ。その傾向は自分に強い自信がある人によく現れるように思う。エルサレムの裁きを語るこの9章には、一切の主張や言い訳を認めない。どのような歴史背景があったとしてもである。例え、国際情勢が極めて厳しい中であったとしても、神との関係が壊されている現実を「もっとも忌まわしいこと」の故に滅ぼすとの意志を示される。ところが、そこに嘆き悲しむ者がいることも記す。その額に「しるし」をおいて滅びから救うのだ。出エジプト記の過越しの記事(出12章)を想起する。自らが創られた<いのちの全滅>を神は望まれる方ではない。知らぬうちに、神の前よりも大きい価値観をもって生活をする落とし穴があることのメッセージを聞く思いがする。パウロの言葉「今私は人に取り入ろうとしているのか。それとも…(ガラテヤ1:10以下」は、厳しい誘惑と闘っていたに違いない、と思う。「神の前に…」を生きることは容易ではない。変人・孤独・仲間はずれ・などの壁が生じるからだ。神に喜ばれる生き方は、容易ではない。その苦しみに嘆き悲しむ者の額に「しるし」を付けるのです。キリストのものであるしるしです。使徒たちは、キリストの名の故に辱めを受ける程の者とされたことを誇って(行伝5:42)、毎日神殿の境内や家々で絶えず教え、福音を告げ知らせた、とある。改めて自らに問い直して生活を立て直したい。生かされている人生の目標は?

8月24日 神から知られている

ガラテヤの信徒への手紙 4章8節〜20節 阪井牧師

 広島の土砂災害にある教会はこの日の礼拝をどうするのか。タイでの代理出産の報道から、子どもの母は誰か。神(親)と人(子)の関係を考えさせられる。さらに、親が分からないとしても親は存在するということを考える。父を父とすること、礼拝が出来ることの大切さを思う。手紙の宛先のガラテヤの人たちは、ユダヤ人以外の異邦人たちだった。「今は神を知っている」と言いつつ、「神に知られている」と言い直す理由は重要である。そこには人格の関係を含んでいる。「かつて」と「今」の間に主イエス・キリストの出来事があることを意識する。筆者パウロは、「私の主イエス・キリストを知る事のあまりの素晴らしさに〜今では〜(フィリピ3;6以下)」との告白を記している。キリストの赦しの中で、新しい「いのち」に生きる喜びが感動と共に伝わる。「かつて」その命を託そうとさえ思っていたもの一切を離れて、「キリストと共に生きる」今は、自由と解放を得ている。神を信じる者であり、神のものとなっている自由な「今」のあなたがたが、再びかつての奴隷になろうとすることが認められない、と厳しく戒めている。今日の私どもにも通じる。普段の生活では意識しないままに、「諸霊の下に」逆戻りすることが起こり得る。主イエス・キリストをしっかり見つめること(み言葉に聞き、祈ること)が、正しく神に知られている者としての歩みを保つことになる。神が私を選び、私を愛し、罪の重荷を引き受けて下さった方を見続けることから、神に委ね託す生活への喜びがあるのだ。

8月17日 神のねたみと愛

エゼキエル書 8章1節〜18節 阪井牧師

 普通の人以上に生活環境に恵まれた指導者から受ける感動は少ない。例え、そうであっても、ひたすらに与えられた務めに専心する姿は、心を打つ。その極めつけが、主イエス・キリストであろう。フィリピ2:6〜8の言葉が信仰者を励まし、心を捉えるのだと思う。自分を含めて、多くは自分のことを無にすることはできない。信仰の奥義と似ている。相手に自分を託すのだが、他から強いられてなら奴隷となる。自ら求めて自分を託すのが信仰である。目標や目的のための訓練に自分を託すことはある。主イエス・キリストは、父なる神に十字架の死に至るまで委ねて、み子を信じるすべての人の救いとなられたのだ。この方を私の主とするのは、信仰である。どこまでも自分でありたい、と主イエス・キリストに託し委ねるとの違いは決定的である。この8章にはエルサレムの陥落が記されている。民らが、「神でない何ものかを神とした」ことへの神の裁きを「神の妬み」と表現する。実情は、生き延びるための工夫であったとしても、放置されない。ここに、その責任をとろうとする神の愛がある。神は、自分の民のなすことを自分の責任とすることを知らされる。神と人とが「人格的関係」というのはこのことである。神の誠実、真剣さ、責任的関わりに、人はどう向き合うのかを問われる。その場限りの対応であってよいはずはない。み子イエスを私どもに託して委ねられた方に、自分の旨い部分だけで対応してよい筈はない。神に責任的に向かうとはどういうことかを考える。

8月10日 同じ土俵に立つ者

ガラテヤの信徒への手紙 4章1節〜7節 阪井牧師

 自分やイスラエル集団の意志が封じ込められていた。その環境から出て、新しい環境の地に向かう時与えられたのが律法(きまり)だ。その地に住む人々とは異なる信仰に生きるためには、大きい恵みであった。次第に、それが人々にとって縛りや拘束になった時、恵みでなくなる。解放には、同じ所に立つ人が要る。クリスマスは、その出来事の一つであった。主イエスの誕生した時代の世界は、律法中心の生活であった。当然であるが、主イエスの福音とは、対立することになった。初めの意味と異なっていたからだ。初めは、神の民として生きるための<きまり>であった。喜びであった。その時の土俵に立つために、律法中心の世界という土俵に生まれ、元の意味に立とうとすると排除(十字架の死)された。それこそが、誤っている律法の完成となるのである。<贖い>は、−(マイナス)を引き受けて+(プラス)にすることである。−を生きてきたことを、パウロは、甦りの主イエスに出会ってそのことを知らされて回心した。<前>であったものが<後>に見えだした。まだ、−(マイナス)を生きようと誘いにどうしても対立をしなければならない。この手紙の意図はそこにある。律法は、約束への導き手(管理人・後見人)である。主イエス・キリストが現れるまでの不自由が終わったことを伝えて、新しい世界が始まっていることを告げる。今度は、神の子とされた自分たちが、主イエスと同じ土俵に立つのである。準備に余念無く、主イエスが歩まれた土俵に上りたい。

8月3日 信仰による損と回り道

エゼキエル書 7章1節〜27節 阪井牧師

 目指して進む過程に生じたものを、人は称賛する。それが目的であったかのように。ところが、通過点だと受け流して、次に進む姿はまぶしい。パウロの福音に生きる姿がそれに重ねられる。「肉に頼るなら、わたしも…」と言うが、イエス・キリストのゆえにそれらが損と思うとも言う。謙遜よりも、邪魔だと受け取れる。この世界が目指すものと異なる歩みがあることを示す。この世界に拘り、留まる限り、キリストと共に先に進めない。なぜ、こうも変わったか。「キリストに捕らえられているから」と告白している。エゼキエルの預言とも通じる。「イスラエルの地」に向かって託された言葉を語る。それは、神の民へ、約束の地にあるものへ向けて預言する。必ず「終わりの日」が来る、と。それは、主の裁きを指し、感情や思いの「ぶちかまし」ではない。主の目指すところは、「わたしが主であることを知る」ためとある。神でないものに関わり賑わう所を絶滅させる。結果ではなく、目的への過程である。人間の造ったどんなものであっても、神のみこころ(意志)に抗せず、御心は貫かれることが預言の内容である。聖なる都、神を礼拝する神殿が汚れていくのは、真の神との関係が保てないことを意味する。世界の混乱を人は意志したはずはない。整えられ、便利や都合を優先する生活が、神のみこころと違う方向に進むのは、今日の私どもの生活と重なる。神を恐れず、神との関係を欠いた世界に、本当の<平和>は成り立たない。恐れるのは人ではなく、神にあるべきを学ぶ。

7月27日 キリストを着る者

ガラテヤの信徒への手紙 3章21節〜29節 阪井牧師

 「溺れる者ワラをも…」の知恵の言葉に関連して想う。助かりたいその<もがき>のゆえに救出を困難にすると語っていたライフセーバーの言葉が印象的だ。「救い」も同じように考えられる。救いに対してのもがきが、それを困難にする、と。自分自身を委ねることが救いの原則であるのに、自分の努力でそれを確かにしようとする誤りが指摘される。 元来、聖書で表現する「罪」とは、神との関係の崩れのこと。律法は、イスラエルの神と民との関係を保つために与えられた恵みである。いつの間にか、その事実は歪み、律法の遵守が神との関係を造る、つまり<救いに至る>となってきた。すると、救いは神の恵みでなく、人の業になる。本質が変化しているのだ。主イエスの出来事(イエスの死と復活)が意味を持たないばかりが、神に向かって生きることがなくなる。主イエスとの出会い迄は、パウロ自身がその誤った歩みを生きていた。律法にある生き方が「有利」と思い歩んでいたが、キリストのゆえに損失と見なす、とある(参照フィリピ3:7)。ガラテヤの人々は、その誘惑を受けていたのだ。努力や精進のどこが間違いであろうかを想う。救急のためのライフジャケット=キリストにある恵みに対して、着方や流行を追求する事は余計な心配りであろう。恵みの救いに対して、パウロは自信の歩みを想起しながら、民族・男女・年齢そして経験が重要ではないことを示そうとしている。「キリストの恵み」は全身を託してこそ<いのち>に生きる信仰者である。そのような一週を歩みたい。

7月20日 真に恐るべき方

エゼキエル書 6章1節〜14節 阪井牧師

 争いや紛争がヨーロッパ(ウクライナ)に、アジア(パレスチナとイスラエル・シリア)に起こっている。国内にも政治と経済の不透明さが話題である。神の民の誇りと熱心さは、自らの存在に深く関係していると想う。イエス時代の指導者たちは、そのために対立したのだ。エゼキエルの預言(6章)が、神の裁きの深刻さを示すのは、滅びではなく、神の民が「主なる神は生きておられる」「主がおられる」ことを正しく受けとめることにある。この言葉が複数回(7,10,13,14節)繰り返されているところにその重要さを示している。神の民として歩むために与えられた戒め(十戒)の最初二つを想起する。それに従うことへの熱心が、<神のみこころ> に反することになるとは、意外そのものである。<平和を求める>との言い分が、自衛権の行使というのに似ている。世界の創造者である神に選ばれ、使命を負う民が偶像礼拝を意志するはずはない。けれども神の裁きは、神でないもの(山・高い所・木の下など)を神とすることに対する厳しいものである。飢饉、剣、疫病をもって行われ、死の身体は葬る者さえいない。人間の生きた事実が放棄されたままとは、厳しすぎる。カナン宗教(生活の慣習化)がその起因となっている。人は誰でも、自己存在の肯定を求める。その保証がなく、自分が真に孤立する時、神に向かわざるを得ない。信仰の闘いはそこにある。存在がどんな状態であっても、神が肯定していることを受け取る時、恵みは喜びと生きる力となる。神と共に歩める差いを味わう。

7月13日 神の約束

ガラテヤの信徒への手紙 3章15節〜20節 阪井牧師

 人間の平等は、神に創造されたことに根拠をもつ。しかし、聖書は「男と女とに、人を想像された」とある。これは、違いがあることを意味する、と受け取れる。神の前に命ある尊厳においては平等であるが、老いも若きも、大人と子どもも、健康な人も病弱な人もというのではない。違いがあっても、その尊厳は同じということになる。聖書の論理を、そのまま一般社会の論理にするとき、混乱が生じる。「神の前に」は、信仰の事柄であることを曖昧にしてはならない。ファリサイ派の人や律法学者たちは、当時の人々の中で最も神に近い筈の人たちでしたのに、信仰を別にして行為だけを重要視する誤りに陥っていた。主イエスはそのことを指摘した。神の子イエスが、神に最も近い人たちから排除される<十字架>に対して、神は<復活>によって「約束」を成就したのである。人の努力の積重ねや知恵によるのではない。<神の約束>はアブラハムの側に理由があるのではない。それを「相続」するのである。約束の言葉を信じ、受け取るのは、信仰である。ここに、、アブラハムが<信仰の父>と言われる理由がある。教会の中に、この信仰とは関係なく社会の論理を容易に持ち込むとき、陥る危険があることを学ぶ。多数決や自由を簡単に教会に持ち込むことは注意する必要がある。平等という言葉の魅力は、人と神とが競り合う事になりかねない。信仰の基本は、イエス・キリストと共にある神の恵みを第一とするにある。緩むことを互いに戒め合おう。

7月6日 「分かる」と「聞く」

エゼキエル書 5章1節〜17節 阪井牧師

 人は自分の「個」に特別の思いを持っている。だから、他と同じであることに特別の意識が働く。最初の教会の様子(使徒言行録2:42以下)の具体的な姿が3章に展開している。神殿で祈りの時を持とうとしていたところに「施し」を求める人に出会った。そこでの会話は意味深さを覚える。「持っているものをあげよう」に続いて、「主イエス・キリストの名によって立て。歩け」であった。求めていたのは、金銀であったのに、奇妙な会話である。ここに教会の、信仰者の姿勢を想う。日常と神との関係でもある。聖書は、預言者の具体的な生活の「しるし」でエルサレムに対する主のみ心を語る。@誇りが懺悔や恥辱に、A剣による死、B離散と追迫は、神が御心を行うことを示している。イスラエルの人々は、自分たちの精一杯の努力の現実であった。なぜ、このような厳しい預言がなされるのか不可解である。敢えて言えば、神のご計画と人の生活は必ずしも一致するのではない。知恵や経験で納得したり、分かることではない。「分かる」と「聞く」の違いに戸惑う。「どうして?」「この私が?」の問いは自分に根拠を持つ。しかし、聖書は、人に根拠を置かない。神に根拠を置いている。聖書は「分かる」ではなく、「聞く」を求める。聖書の信仰は、人の理解を超えて、神の言葉に自分を委ねるものである。イエス・キリストの出来事にある真実を受け取ることにある。時に愚かしく、ピント外れも甚だしいと思えることが神の恵み、救いのみ業なのだ。神の働きを感謝する者でありたい。

6月29日 一つの確かめ

ガラテヤの信徒への手紙 3章1節〜14節 阪井牧師

 強烈な書き出しに戸惑う。その理由2つのことを考える。@つは、本当の憤りの爆発である。Aつめは、互いの間に培われている深い心の交わりに基づく温かさを想う。卑近な例になるが、子どもを親が必死の思いで叱る光景を描いてみた。自ら涙を流しながら語りかけ、子ども自らが、立ち上がることを強く期待している親の姿である。生活態度や知的レベルの話ではない。信仰の、あるいは霊的な事柄である。ガラテヤの教会が陥っていたのは、信仰と律法の関係に迷いを生じていた。「見えるもの」と「見えないもの」との関係に置き換えて、今日の教会にも考えられる現実がある。忙しくて教会のことが後回しになる時、「忙しいときだからこそ礼拝に!」の言葉を想起する。パウロは、<ほかの福音に乗り換える>とか<福音の審理に乗っ取ってまっすぐに歩かない>との言葉を手紙に書いているのは。「主イエス・キリストの十字架」が神の恵みでなくなることを見ているのだ。徹底して教会を迫害した自分が、その恵みを受け、宣教の働きに召された事実を背景に持っている。<救い>は、信じることだけであるはず。人間の側に何かを条件にしてはならない。分かっているのに、本質から逸れるのは意識的ではない。ここに熱がこもるパウロの言葉がある。「信仰はキリストの言葉を聞くことから(ロマ10」や「聖霊によらなければ、誰もイエスは主であるとは言えない(Tコリント12」の聖句を想う。知識の領域と信仰の領域とが正される箇所である。私の出来事を吟味したい。

6月22日 逆転の類推

エゼキエル書 4章1節〜17節 阪井牧師

 焼き入れ前の煉瓦に首都エルサレムの予告を預言者エゼキエルは、掘り刻む「しるし」によって神のみこころを示よう命じられた。かつて祭司職であった人によって示される主のみこころは、言葉以上に厳しい現実になったろう。神の意志の全き堅さが「鉄」の用語で示されている。目に見える「しるし」は、捕囚の民にどれ程厳しいものであったろう。「捕囚からの解放」や「故郷帰還」の希望を全く打ちのめすものである。預言者は、彼ら捕囚民の罪の重さを自分の身体で示すよう求められた。身体が自由に動かせない状態で、食糧は窮乏していく。雑穀で粉を造り、空腹を凌ぐ一人一日分の粉約200c、水0.6、焼くための熱源が「人糞」とある。辛うじて「牛糞」にと執り成し得た。それで神の民の生活が保てるだろうか。無理な要求と言わざるを得ない。現代の私たちには想像するのも難しい。ただ、東北の被災者、福島原発の被害者から、それに近い状況を想像できるかも知れない。3年越しの仮設の生活、自分の世代では帰還不能となった土地など。どうして「生きよ」の言葉を語りかけられようか。聖書は「生きよ」と奨める。どういうことか。それは、自力でなく神によっての「生きよ」であることを想う。人の側から繁栄や窮乏を諮る。果たして、神の側ではどうなのか。信仰による力と希望が示されているのを想う。神に顔を向け続けるのである。目前の躓き、人の言葉や想いを神の側から見ることが恵みとして与えられている。その生き方が他者を支える力ともなるのだ。

6月15日 私の内にキリスト

ガラテヤの信徒への手紙 2章15節〜21節 阪井牧師

 教育に「褒めて育てる」というのがある。それは、一つの「見なし」であろう。しかし、聖書は仮定や褒めることではなく、事実の宣言がある。「あなた方は世の光である、地の塩である」を想起する。その発言が、主イエス・キリストであることの重さを感じる。ここに、その生涯を懸けたパウロの姿勢を見るとき、エルサレム教会の人たちやケファ(ペトロ)との間にあった事柄をガラテヤの人々に語っている理由を想像させられる。福音の真理に基準を置いてこそ、教会の宣教が力強く進められると語るためと受け取る。自分の力量や性格また研鑽が、福音の真理を伝える主要な条件では無い。神との関係にこそ「救い」の事実があるからだ。人間的要素を少しでも持ち込むなら、救いは神の恵みだけとならない。主イエス・キリストの出来事、贖いは意味をなさなくなる。徹底してキリストの教会を迫害した自分パウロが、救いに与れたたのは、そのキリストにある十字架の恵みにある以外にないことを証ししている。権威や配慮が福音の真理の前に現れるなら、陥る危険を見ているに違いない。どんなに人として見上げる存在であっても、「信仰によって義とされる」その事実こそが、信仰の中核である。人柄や心の事柄に福音の真理が歪められてはならない。日々、み言葉を聞いてそれを生きる、実行(従う)するのは、自分の力だけでは無い。神の恵みが自分の中に働く他はない。「私の内にキリストが生きている」とパウロが、語る理由はそこにある。私たちも…と。

6月8日 語る時、黙る時

エゼキエル書 3章1節〜27節 阪井牧師

 人の心に抱く場合と神が予定される場合の「時」には、大きい開きがある。コヘレトの言葉3章には信仰によって「すべてには時がある」と歌っている。エゼキエルは、預言者として召されて、神のみこころを伝える使命を受けた。使命には派遣が伴うのだ。神の民に向かって遣わされるには、自分の存在と関係なく語るのではなく、「言葉を食べる」つまり、自分の血肉とすることから始まっている。自分の嗜好具合や健康具合は問題にならない。時や状況を自己判断できるわけではない。預言者の厳しさである。教会に繋がる私どもも「福音の証し人」として使命を受け、そして派遣される時にその個人の思いは<二の次>になると考えさせられる。従って、派遣の結果はその個人の力量に負うのではないことになる。もちろん、話術の上手いかどうかよりも、内容が正しく語られているかになる。「腹に満たす」のは、食べてこそ言える。その時、自分がどう味わったかを語る。味わった者にしかない言葉となって口から出る。「ついて」の発言は評論であって、証しではない。だから、語るには「語れ!」の指示を祈り待つことになる。どんなに自分が語りたくとも、語るべき言葉を聞く必要が「黙る時」となる。自分の内なる爆発であっても、神の言葉にはならない。教会は、神の言葉が中心になって形成されている理由でもある。自らが聞いたことを、生活に実現したとき、周囲の人はそこに神のみこころを知らされるのだ。信仰者の恵みを共に与りたく思う。

6月1日 心にもないこと

ガラテヤの信徒への手紙 2章11節〜14節 阪井牧師

 なぜバプテスト神学校がこの戸塚の地なのか、答えが出せないのが現実。当該教会としては、課題を抱え続けている。バプテスト教派の中で「教会になる」ことを大切にして準備を10年以上続けて、今回の教会総会で「教会の信仰告白」を確認した。その文面には、<バプテスト信仰>やその教派としての特別の言葉を用いていない。「なぜバプテストなのか」を自覚するためにも「教会設立」という過程の中でゆっくり備えていきたい。「時間を掛けすぎる」の思いもある。しかし、<時>は神の導きにあると信じ委ねて歩みを進めたい。後に下がるのは、<教会の本質>と異なる理由になりかねない。聖書記事から予想外の展開になった。全身全霊を注いで、「福音の真理」に仕えてきたパウロの意図に通じると思えた。福音の真理が歪んだり、誤って伝わったりすることに対して異常とさえ思える強い反応がある。ケファとはペトロのこと。パウロはこの人に特別の思いを持っていた(1:18)のに、人前で避難をした理由はそこにある。神との関係を差し置いても、人との関係に心を用いることが「真理に則ってまっすぐに歩いていることになるか」の問いがある。一時避難や迂回のつもりが、元に戻れないことがある。小さく些細なことが全体を歪めるのだ。教会の業のつもりの教育や文化や事業が、その本質に対立し、やがて礼拝を妨げることにさえなる。人間の賢さは、信仰の愚かさにどうなのか。イエス・キリストの福音を信じること以外に教会の一致はないことに心を留めたい。

5月25日 受け(て)立て

エゼキエル書 2章1節〜10節 阪井牧師

  「『わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。』そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。」との言葉(使徒言行録3:6〜7)を想起する。彼とは、神殿の入り口「美しい門」に座っていた人。その「座る」の対象語が「立つ」である。あの勇ましい<受けて立つ>の「立つ」ではない。動かない自分から、行動へと向きを変える動作に移る「立つ」である。主の御手がエゼキエルの上に臨んだ後、「…自分の足で立て、わたしはあなたに命じる」の言葉を聞いたのだ。自分の意志による決断が求められている。周囲の意志に同調するようなものではない。イスラエルが神の民であるのに、「反逆の民」と言われることは座ったままで「主の言葉」を聞いたのだ。自分が動かない(座したまま)で聞くのでなく、「立って」聞いた。主の手が臨む(召し)は、「派遣」に繋がることを確認する。その派遣相手は、歓迎して「聞き入れる」ことが前提ではない。その現実はきわめて厳しいものだ。自分の主張であるなら、適当に対応できる。しかし、主の言葉に加減も中途もないのだ。主の言葉を「食べる」のは、自分の身にすることを意味する。人に示し、見せるためではない。自分が変わり、生活に変化が現れることを伴う。混沌の闇に光がもたらされるのはこのことだと知る。神の言葉が届くところに、新しい秩序が生まれる世界の始まりである。この光は、他者の魂を救う力を持っている。 その働きに用いられる恵みを知ろう。

5月18日 与えられた恵み

ガラテヤの信徒への手紙 2章1節〜10節 阪井牧師

 1:18の「3年」、2:1の「14年」の基準は不明。しかし、エルサレムへ行くことの意味を考えさせられる。単なる空しい<時の経過>だけではなく、新しい福音宣教への展開が示されている、と。また、かつての敵対者が、福音宣教者へ、しかも異邦人への使命を担う者の姿は、福音が全世界的な拡がりを持つことへ繋がる。その使命は「啓示」の言葉に含まれる。つまり、神の働きによるのだ。「バルナバ」(レビ族の人でエルサレム教会から異邦人教会へ派遣された人物(使徒言行録4:36))、テトス(ギリシャ人キリスト者(Uコリント8:23))や他の人たちがエルサレム教会で話し合い(エルサレム教会会議ともいう)のために、アンティオケ異邦人教会から遣わされた。これも「啓示」の内容に関係する。意気込んで会議に臨むのではない。神のみ心を信じての行動である。人の主張や思いよりも、ひたすら「み心」を祈り求める姿を想う。その意味で、教会の会議は<民主主義>ではない。主の「みこころ」がここにあるとの確信が与えられるまで、神の前に<祈り>と<求め>を繰り返すことである。賛成者が多いからの結論ではない。主のみ心に従うこと、<福音の真実>にひれ伏すことが教会会議の<いのち>と<姿>である。主の力がそこに大きく働くと信じて、互いの使命を重んじ、遣わされることへの祝福を祈り合う喜びが与えられる。剣呑な空気を感じる状況にも拘わらず、使命に赴く人と喜びを共有して祈り送ることへの不思議を味わう姿を見る。神があなたを選んで遣わされることを、恵みとして共に喜び歩みたいと願う。

5月11日 神のみ手が置かれる

エゼキエル書 1章1節〜28節 阪井牧師

 今回からエゼキエル書の学びを続けることになった。イザヤ、エレミヤに続く比較的長編の預言書で書の名前は預言者の名、「神が強くする」の意味という。エレミヤと同じ頃活躍し、共に祭司の子である。エレミヤはエルサレムで、エゼキエルは捕囚の地カルデヤ(バビロン)で活躍をしている。その表現方法が新約の黙示録と同じく、黙示的表現である。直接的表現を避けてはいるが、当時の人々には暗黙に理解できた表現という。圧倒する力の支配力下の迫害弾圧を避けて、滅びや神の裁きを語るため、言葉や数に意味を求めるのはどうか。何を語ろうとしているかの内容が重要となる。弱小民族が神を中心に歩んできた。その民は流浪からカナン定着、神殿中心生活から、異教の民に力でねじ伏せられているのは、闇と混沌の世界(参照:創世記1章)であったろう。大樹に寄りかかるのでなく、神に目を向けてこの事態に対処する内容となっている。預言者は語ることを使命としている。聞かれることはその次である。むしろ、反抗と拒否によって神に離れている自分に気付かせることになる。約束の地、離散の地、教会の内外のどこで聞くかは別のことである。すべての人に神との関係から責任を問いかけている。召されたエゼキエルには「栄光の主が手を置かれた」。遣わされる時、主の手が自分の上に置かれていると知る(信仰)ものは、くじけても諦めないし、神に希望を置いて前進する。神の愛を身に受けている強さを証しすることになる。神の力に喜び仕えよう。

5月4日 驚きの出会い

ガラテヤの信徒への手紙 1章18節〜24節 阪井牧師

 ベクトルは空間エネルギーの方向と量とを表すものだと。パウロの回心は、それが負の方向に進むことを意味しているという。自らは、熱心において教会の迫害者であり、ユダヤ社会のベニヤミン族の血筋、律法の点ではファリサイ派だった、と回顧する。シリアのダマスコへ迫害に赴くその時、甦りの主イエスと出会い、迫害の信仰を福音として伝える者に召されたのだ。しかも、「母の胎にいる時から」と説明するのは、徹底して人との関係を排除しており、また、「アラビアへ」も、神の前に<独り>自分を整える意味に受け取れる。献身者の<研修>に対応するのかも知れない。しかも、回心したダマスコに帰ったことの意味を考える。自分の新しい出発原点がここにある。福音宣教に迫害のエネルギーが変えられた。選びの民ユダヤ人からは、関係の遠い異邦人へと向かい、ガラテヤの地方はエルサレムの遙か反対の方向に位置する。この事実は、人間的要素を受け容れない神の恵みの「みこころ」だという。かといって、エルサレム教会を中心とするキリスト教界の秩序を無視しない。ケファ(ペトロ)と主イエスの兄弟ヤコブに会い、自分の独断性を打ち消している。このパウロが用いられて福音を伝えれることは、揺るぎない<神のみ業>であるから、その福音から反れることは許されない。そのパウロの激しさが、ガラテヤの手紙の書き出しに見える。優しさや人情が、人を福音から道を外させることを想う。主が私ども一人一人に驚きの出会いをされたことに感謝したい。

4月27日 主の食卓を囲む人

ヨハネによる福音書 6章33節〜40節 阪井牧師

 「訪問聖餐(礼典)」との言葉がある。諸事情で教会の礼拝に参加できない人への牧会的配慮と言えるとしても、教会の業である厳粛さを大切にするために牧師と共に教会員の同行が望ましいと言われる。イースター礼拝の後に出かける教会がある。イエスの墓に出かけたのは女性であったことを聖書記事に見た。その女性たちの知らせにより、弟子たちが墓に走った記事をどう受け取るか。人生を懸けて従ってきた主イエスを失った弟子たちだから走ったのか。喜びではなかったろう。「死者の中から復活する」ことを知っていたのに理解していなかった、との言葉から考えられるのは、人の意識よる事柄ではないことだ。神が働いて受ける信仰を意味する。言うまでもないが、聖餐は人の好意に委ねられていない。使徒言行録2章の「パンを裂く」は、信仰者の聖餐であり、「一緒に食事」は集まっている人みんなの愛餐と区別する。神とその人との関係(縦)と人と人との関係(横)を区別するのである。主イエスがその<いのち>を差し出してまで、この私にを<生かす>恵みを想起する礼典だからである。そこに陪席することには、悔い改めの信仰告白を伴うのである。しかし、人がそれを判断するのではない。教会の業として行われる礼典に、主が招いて下さるのである。当然、資格の事柄ではない。招きに応答する信仰を、そこに現すことで、新しい交わりに加えられる者とされる信仰の告白となる。改めて「わたしが命のパンである」の言葉を味わい、力を受けよう。

4月20日 いのちの歩み

ヨハネによる福音書 20章1節〜18節 阪井牧師

 ユダやの人たちに安息日は、神の天地創造の記事(創世記)と深く関わっている。キリスト教の日曜日は、イエスの復活の出来事(福音書)に根拠を持つ。その基になっている「週の初めの日」との言葉がここにある。葬られた墓に婦人たちが出かけたのに、その墓は空であった。事実をペテロや他の弟子に告げた。聞いた彼らは墓に向かって走った。何を考えたかは、想像するしかない。<主の体・遺体が盗まれた>はその一つ。自分の理解に収めたい理屈である。どこまでも目で見、手で触れる世界の存在しか受け取れない。それは信仰の世界ではないことを聖書は、主イエスの言葉(ヨハネ20:29)に示している。意外なことに、弟子たちも聖書の言葉を「理解していなかった」と記している(20:9)。私たちの側に、<信じる>の根拠を持つ限り、主イエスの復活は真実とはならないことを示している。神のみ手の働き(聖霊の働き)に支えられて、始めて信じることができるのだ。人の言葉(説教)が、神の言葉になるように。聖書の記事(人の文字)が、<いのちの言葉>になるように。従って、キリスト教信仰の出発は、主イエスの復活にあると言える。人の世界の究極は、死の世界となる。墓はその象徴である。そこには人を生かす希望と力に至る<いのち歩み>はない。語られた主イエスの言葉が、私の真実になる時、そこから行き詰まりと思えたところに<新しいいのちの道>にが現れる。<かくありたい>は、願いでしかない。真実が、私に迫ってくる時に不思議は事実となるのだ。

4月13日 立ち帰れるところ

哀歌 5章1節〜22節 阪井牧師

 旅とは、日常の生活空間を一時離れること、と説明できる。離れっぱなしとなると、「流浪」である。ヘブライの語源には、その意味を持つらしい。「土着」と対照して考えてみる。主の語りかけに応答したアブラハムの歩みは、信仰にある旅である。「生活を変え、関係から離れる」ことの不安は厳しい。人は本来、関係に安定を得る存在だと聖書にある(創世記2:18)。人が<自分に立ち返る>とは、関係に安定を得ることに通じよう。そこで、関係相手が重要となる。主の晩餐記事の直後に、主イエスはペトロに「あなたが立ち直ったら、兄弟たちを力づけて…」と話された(ルカ22:32)のを想起する。さらに、主イエスが話されたく<放蕩息子のたとえ>の仲で、行き詰まった弟は「我に返って(ルカ15:17)」とあるのも同じように思う。哀歌は、エルサレム陥落による悲惨と苦悩を主題にしている。ただ、その最後のところで「罪を犯した(5:16)」と告白し、主に「立ち返らせてください」と訴えている。「罪」が神との関係の破れだとするなら、「立ち返る」はその回復である。放蕩息子の父は、それを喜び迎え入れたとある。目に見える神殿が壊れている悲しみより、神を神とする神との関係を持てないこと、礼拝のできない現実を痛んでいるのだと知る。イスラエル=神の民には、「立ち帰れるところ」があることが幸いだと受け取る事のできる記事である。<父>に受け容れられて、新しい旅立ちが始まるのだ。 どんな状態、どんな時も<父>との関係は、キリストにおいて保証されていることは感謝である。

4月6日 生まれる前から

ガラテヤの信徒への手紙 1章11節〜17節 阪井牧師

 「見えるものにではなく、見えないものに…(Uコリント4:18)」は信仰の核心を示している。見えるものにおいて証しを求める現代の教会は誘惑を受ける。その意味で、教会だからこそ誘惑がある、とも言える。主イエスがバプテスマを受けた時、「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」との言葉が天からあったその記事の直後に「悪魔から誘惑を受ける」記事があることを想起する。教会が世に向かう使命の最初がこの<誘惑>に向き合うことだとも言える。なぜなら、教会はこの世に存在しなければならない。優しさ、心配り、親切に対して感謝の贈り物をする慣習の中に<誘惑>を見ることは異常かもしれない。しかし、ガラテヤの信徒への手紙は鋭い指摘をする。「人による福音」を見ている。福音は良い知らせ、良いおとずれの意味をもつ。しかし、それは「人にとって都合のよい」というより、「神との新たな関係をもたらす」との意味である。それは、イエス・キリストという方に於いてのみ示されている。使徒言行録4:12にある「この人による以外に救いはない」は教会の礎を示すものだ。だからそこに、何か人の要求を持ち込むなら、礎を揺るがすことになる。初代教会時代にすでに誘惑はあった。信仰を見えるもので示そうとする思い、知ってもらおうとする時、福音を変質させ、教会を根こそぎにする。弱さ、貧しさ、或いは避けたい程の汚れや臭いがあろうとも、「命の創造主なる神」が働いて恵みなるキリストに結ばれることを求める「新しい関係」を喜び受け取ることが全てだ。

3月30日 使命を担う者

哀歌 4章1節〜22節 阪井牧師

 シニアにとって、お金の「かかる」より「かける」ことへの課題があるようだ。つまり、現実よりも「この先」への課題であろう。哀歌はエルサレムの悲惨と嘆きをテーマにし、さらに、過去と現実の比較をている。それでも、その現実においても神との関わりを見失っていないことに気付く。神を見失っている者は、力の限り持ちこたえようと努めるが、限りがある。ましてやその様を蔑まれるなら「生きること」さえ諦めかねない。神の特別の選びと使命を自覚する民にとっては、異教の民の支配に耐えられないはずなのに、イスラエルは希望を持ち続ける事が出来た。「主のみ業」と受けとめることが、その嘆きの中から立ち上がらせるのだ。「退けた石が隅の親石となる」(詩編118:22)との結びの「ぶどう園と農夫」のたとえ(マタイ21:33〜)を想起する。今日の私どもの生活でも、足もとだけを見るなら、耐え得ない苦痛や悲惨を負う身である。ところが、目を上に向けるなら状況は同じであっても、そこから立ち上がる希望を持つことがある。主イエスの十字架はまさしく<それ>である。呪いの十字架であってメシアに見えない。見えるところに根拠を置くなら希望より絶望に襲われる。だが、私どもには、十字架の出来事は永遠の命の出来事(甦り)に結ばれている信仰が与えられている。神に選ばれ、祝福の源として世界に向かう使命を負う教会・神の民は、どこに向かってどう生きているのかを問われる。励ましと力を受けて<使命を担う>群れとして共に歩みましょう。

3月23日 受けたものを

ガラテヤの信徒への手紙 1章6節〜10節 阪井牧師

 キリストの福音が歪むのは、キリスト教式な発想と慣習に依ることがある。つまり内部から起こるともいえる。ユダヤの人々は生活の礎にした律法によって陥ったことは、その例の一つになる。ユダヤ人キリスト者が、異邦人(ユダヤ人以外)のキリスト教信仰への思いによって起した事柄に対して、パウロは危機を意識している。「こんなにも早く」とは、パウロたちがガラテヤを離れてからの時間と同時に、福音が変化することへの驚きの指摘である。憤りをさえ感じさせる。どういうことか。<福音の本質>に、<人間の思い>を加えたことにあるのだ。もとより、福音の本質から反れることを意志するキリスト者はいない。しかし、「他の福音」へ移ることが起こると警告する。エルサレムの初代教会の中に、既にそのような課題を抱えていた。ギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニスト)とヘブライ語を話すユダヤ人(ヘブライスト)が教会にいたことから生じたのだ(参照:使徒言行録6、15章)。伝統と慣習に陥ることで本質を変化をさせていた<律法>を福音に持ち込もうとしたことが、<ほかの福音に乗り換え>と指摘している。その解決は、「キリストの恵みによって」を徹底すること、または「人によって」を排除することである。政治的・宗教的ということの背後に、人の心を支配したり、動かしたりする力が働くことを知っている私たちは、「受けたものを」そのままに保つことが必須なのだと確認したい。 私どもの何かが、主の招きに力を持つことはあり得ないのだ。恵みを感謝する。

3月16日 分かっているよ

哀歌 3章1節〜66節 阪井牧師

 この歌は「いろは歌」と呼ばれる。ヘブライ語のアルファベット22文字を最初の言葉に使った文節の技巧をその呼び方で現すという。このアルファベットには母音がない。そのために一点一画が言葉の意味を変える。山上の説教(マタイ5:18)のイエスの言葉はその意味を含むと考えられる。この章66節の内容は3つ(1〜24、25〜45、46〜66節)に分けられる。それぞれ3節ずつが22組の構成になっている。また、表現の3人称から2人称への変化は、苦痛と悲惨を作者自身の事柄としての受け止めを示す。外面から内面への受け止めの変化は、現実内容を深める効果をもたらす。東日本の被災者が語る「昼間は笑っているが、夕餉にみんな涙を流しているのだよ」の言葉に心を打たれるのは、我が身を語っているからと思う。歌の最後部分は、神への訴えである。イスラエルは、その歴史の「出エジプト」を想起することが危機を乗り越える力、立て直しに繋がっている。努力や研鑽には限界を持つ。しかし、神が働いて支えておられるとの信仰は、今日にも意味を持つだろう。絶望から希望への転換の根拠をそこにみる。主の慈しみと憐れみとが絶えず与えられるとの神への信頼と神の真実は深い。ヘブライ12章の「重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こう」の言葉を想起する。改めて、自らの一切を神に託すことを許されている信仰が与えられているのを素直に喜びたい。「分かっているよ」の語りかけの言葉を共に味わいたい。

3月9日 親しさと信仰

ガラテヤの信徒への手紙 1章1節〜5節 阪井牧師

 他の手紙にない変則的な書き出しを特徴とするパウロ文書の学びが始まる。ガラテヤの地にパウロが何故出かけたかを想像させる。療養のためだろうか。試練、蔑み、忌み嫌うなどの言葉(4:14以下)がある。ガラテヤの人たちの、かなりの抵抗感を想像させる。しかし、パウロを<神の使い>か<イエス・キリスト>かのように迎えたとあるので、両者の関係は並大抵ではなかったらしい。ところが、その地方の教会の人たちに対して、実に厳しい姿勢に見えるこの手紙の書き出しは何を意味するのか。<親しい交わり>と<信仰>とはどんな関係かを意識する。「親しさは、必ずしも福音を同じように信じていることにはならない」と語る人がある。この<親しさ>なる<交わり>には、誘惑がある。「ほかの福音に乗り換える(6節)」ことが起こったことが証明となる。意識して他の福音へ乗り換える信仰者は居ない筈なのに、起こるには誘惑が勝っているからだ。パウロの後に訪来した指導者を迎えた結果起きた。教会の依って立つ真実は、指導者との関係なのか。「人々からでもなく、人を通してでもなく」の書き出しは、激しい厳しさを漂わせる。これが手紙の挨拶であることに読む者を緊張させる。教会でも、否、教会だからこそ、神の言葉(信仰)よりも人間の関係(親しさ)が重くなる教会の危機が起こるのだ。<外>からよりも<内>からこそ、組織は崩れやすいのだ。福音が律法化するのはこれであろう。友、近隣、同僚、家族との本来的関係は福音の上にあるべきことを想い、かつ願う。

3月2日 十字架は示す

哀歌 2章1節〜22節 阪井牧師

 最近の社会現象に「鬱」を負う人が多い。限度を超える現実の故とも言われる。東日本の震災から3年が経つ。その時間の経過は、被災した人たちとの心の格差を生んでいる。状況は、事実を変質させるとも考えられる現実が起こる。政治と宗教、政治と教育の関係にもそれを見る。使命と存続との葛藤でもある。学校・教会・事業に著しい。そこに自分の生活がある人は、自己葛藤に苦悩する。「なにゆえ」の書き出し(1節)は、現実を受け入れがたい問いである。<主の憤りと怒りの審き>という現実は、認めても、それが余りに破壊的であり、決定的であり、この神の民に行われることは受け容れがたい。特別に、神との関係を享受できていた過去を想う時、現実は惨めと悲惨そのもので、部外者の嘲笑(15節以下)に、苦しみを一層増すことになる。政治指導者、祭事担当者、預言者は、その務めを果たすことが出来ないだけでなく、<いのち>を失っている。「なぜ?」。神は、人の目にどれほど小さくても、み子・主イエスの全存在をかけて対峙し闘いをする厳しく恐ろしい程の怒りを発せられることを学ぶ。エルサレムに発つ十字架は、今日も目を向けるものに語り続けている。当時の人たちだけが神に対して不遜であったのでもなく、理由や言い訳があったであろう。しかし、彼らはその歴史に滅び、今日の私どもは生きている。どういうことか?あの十字架は怒りを変えて、赦しを示していると取れないか。 購いによって、<神に生きる>ことを求め、ここに立つよう招いているのだ。

2月23日 主の名によって

テサロニケの信徒への手紙U 3章6節〜18節 阪井牧師

 主イエスの出来事から約50年後に書かれたとされる第2テサロニケの手紙である。情報が現代の速度と異なる時代であるのはもちろんのこと。その教会には、再臨の信仰が熱く、現実の生活に身が入らない人たち、むしろ冷静な信仰生活を続ける人たちとの間に信仰の在り方で混乱が生じていたらしい。この教会に福音を伝え、人々に教え導いたパウロは「私たちのために祈って欲しい」との訴えを書いている。福音の宣教が、人間の力を越えた働きであること、しかし、神からの使命に命がけで応えていることをその訴えにみる。自らの働きへの祈りの支援を求めることによって、教会の人々に本来的な信仰の在り方を示すことになっている。自分の限界を知りながら、目指す働きに取り組むのには不安があることを、経験的に私どもも知っている。あの<大使徒>とも見なされるパウロが、信仰生活を始めたばかりの人々に「祈りの訴え」を求めるのは、どれ程真剣に福音伝道に取り組んでいるかを証明することになっている。そこに、私どもの教会に同じ事を示されていると受け取る。<神のご計画にあずかろうとしているのか>である。本気で<祈り>を求めているかがその証しとなるからである。驚きと感謝が溢れるのは、神の御手の働きを見ているかどうかである。人間の思いが大きくなると、そこに混乱が起こる。主への畏れと驚きがあるその出来事には、主の名が大きく示される。日常の生活にも、それは現れることを思う。真剣にみ言葉を聞くことから始まるのだ、と。

2月16日 耐えがたきこと

哀歌 3章1節〜22節 阪井牧師

 イスラエルは、神の民であることが存在の根拠であり、誇りでさえあった。その血を汚すことは許されなかった。事情はどうあろうとも、サマリヤ人はその掟を破った民として徹底して蔑まれた。イエスとサマリヤの女の話(ヨハネ4)や善いサマリヤ人の話(ルカ10)からも想像できよう。従って、都エルサレムが異教の民(バビロニア)によって支配され、神殿が踏みにじられたのだから、民らは息の根を留められる程大きい衝撃であった。外側の容器は歪み、中にあった物全てが失われている容器の底の抜けた状態をイメージする。哀歌はそんな状態を歌にしている。賑やかで繁栄をしていた時を、想起しながら、目前の現実を憂えている。かつて親しく交わりをしていた人が、今は遠くからその「落ち目」を嘲笑うのは耐えがたい。神の居ない世界は、神の民にとって、存在を失うことを意味する。神を神としない人々によって自分が存在を否定されているのと同じ。神に仕え、神の召しに応えることがイスラエルの生きる力・希望であった。17節から哀歌の調子が全く変わる。足下の嘆きから神への悔い改めへと視線が向きを変えている。「主は正しい」とは、神に訴えることからひれ伏し拝む姿勢を示している。そこには外から襲い来る蔑みに悩むことがなくなる。神の前にいる冷静さが、自分の真実を回復するのだ。教会の姿を指し示される。どのような理不尽と思えることでも、ひれ伏して「主は正しい」との信仰に立ち続けることによって世に遣わされるのだ、と。

2月9日 見えないいのち

コロサイの信徒への手紙 3章1節〜11節 阪井牧師

 『私たちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます…(Uコリント4:18)』の言葉を想起する。これは、神との関係を語る言葉で、理論や現実が生活に大きい役割を占める時代の中、信仰の世界に目を向けさせる言葉であった。見える現実の世界は「死の世界」、見えない神との世界は「いのち、生の世界」と譬えてみる。「信仰を見せて欲しい」が、喜び生きる姿を失っているように、「見える」は「見せる」を意識する。1節の「あなたがたは、キリストと共に復活させられた」は、「死」から「いのち」の世界に生きる者となったことを意味する。見える(自分中心の)世界を死んで、新しい世界(キリストと共)に生きる者となったことを示す。教会の礼拝は、神が働かれる時であって、人の情(雰囲気)が重要ではない。この事実を表すのが信仰の告白である。教会設立の事柄は、この信仰の基礎を内外に明確にすることに繋がる。キリストの体(教会)を形成するそれぞれの賜物を持った各人が、キリストの召しに応える信仰によって一つの働きを果たすことができる証しとなる。同時に、<自分とは何者なのか>の問いを受けることでもある。自分の賜物と同じく、キリストに仕える他者を生かす<いのち>を差し出すことも辞さない基礎固めである。私どもの真実な<いのち>は「神の内に隠されている」のだ。信仰に活かされる私どもの<いのち>は、キリストと共に「見えない」神の内にあることを喜びたい。キリストと共に生活を続ける中に主が用い、現されるのだと確信して。

2月2日 大切な生き方を

コリントの信徒への手紙T 15章35節〜58節 阪井牧師

 入試と就活に加えてもう一つの「終活」の時が話題になっている。確かに、私たちも関心を寄せる現実がある。高齢化社会の現実でもある。初代教会の時代にキリスト教信仰が厳しく、希望が怪しくなった人々に対して、神の約束(契約)は揺るぐことがないことを語っている。見える世界から見えない世界、つまり神の世界に委ねることが出来る信仰を与えられているのだ。創世記1〜2章(聖書)は、神が「いのち」を与えられた。「神の愛の中に人は生きる」との信仰表現を示す。人はこの愛に応えて生きることに意味を持つ。「どう生きるか」または「どう生きたか」は、その応答の仕方を問うたものである。神の前に立つ前提が向け落ちた時、人の「いのち」への関わり方が変わる。神に造られた一人の人が、地上の生活・営みを終えたことの事実を厳粛に受けとめる信仰の事柄でなければならない。神の前に立ち得ない者が、立たされること(赦し)を恐れるだけでなく、神のみ業に仕える(キリストの体を建てる)使命を託される現実を(生かされて)生きるのだ。これが神の選びである。人の努力や持てる特質が求められるのではない。初めから神に似たものとしていのちを与えられた私どもは、父のみこころを歩まれた主イエスの歩みに倣うことが使命を果たすことである。その意味で、「人は生きることの専門家であるべき、誇るべき」との言葉は正しい。主イエスが父の愛を歩まれたその足跡は、大袈裟である必要はない。精一杯神に向かって歩むことが誇りとなろう。

1月26日 恵みを数えてみよ

詩編 32編1節〜11節     
 コリントの信徒への手紙U 5章16節〜21節 阪井牧師

 誕生記念のカードに「沢山の恵みを数えて…」と書く人の話しに心打たれる。讃美に「数えてみよ、主の恵み」がある。その源は詩編103:2とある。どんな状況であっても、「望みの消えゆくまで」困難に喘ぐ時…と歌っている。その信仰背景は神の創造(創世記)にある。詩編8編にも神の愛を讃美している。自分で生きているだけではなく、「生かされ、生きる」存在である自覚がある。ただ、人は神から自立して生きようとする。それが正しいと思っている。しかし、神との関係から自立出来ない存在なのだ。主イエスが「失われたもの」と語られる理由を見る。銀貨、羊、息子の各特徴を示す譬えを想起する。罪の救いは、主イエスの犠牲(これが神との「和解」)を介している。回復を与えられた者は「聖」に向かう。「恵みを数える」のは、ここに立ち返る者の特権でもある。罪の赦しの権威を持つ方・主イエスを福音書記事(マタイ9、マルコ2、ルカ5)にみた。教会の信仰を世に向かって言い表す根拠はここにある。すべての人に救い(罪の赦し)が約束されていることを。キリストと共に、神の恵みに生きる者は、人の目には不可思議かも知れない。傲慢や不遜に見えながらも、神の前に立つ恐れとおののきの両面を持つ存在・生き方をする者だから。人にどう見えても、神の目にすべて見通されていることに委ねる生き方である。罪から解放されて、新たな使命(和解の努め)に生かされ、生きる力は信仰にある。神の豊かな眼差しに委ねて送り出され、遣わされて歩むのです。

1月19日  聖なる供えもの

ローマの信徒への手紙 12章1節〜21節 阪井牧師

 消すことが出来る<入れ墨>の紹介を観た。時代の趨勢(すうせい)を意識する。自分の生涯を決定することへの避難策で、アクセサリーだろう。生涯ものの信仰さえもが日本の現実かも知れない。パウロはキリスト者を「キリストが書かれた手紙」と言い、墨でなく「心の板」に書かれた推薦状だと言う(Uコリント3)。「聖徒」とはそのことを指す。教会を現す言葉に「聖なる公同の教会」がある。「聖なる供えもの」とは、「汚れなし」とか「清い」の意味もあるが、神に差し出す献げ物のことで、多くある中で特別の意味を持つ。神との関わりにあることを「聖」と表した。「公同の教会」「交わり」そして「供えもの」である。神との関係、神がここに働かれる、との信仰を示す。汚れて神の前に相応しくないのに、喜び受け取ってくださる「供えもの」とされる確信があって、自らを捧げることができる。「神の憐れみ」がある。キリストが共に歩まれる生き方において特別とされるからである。具体的には、教会が一つの身体になるために互いに仕え合う部分になること、自分の主張ではなく、賜物として他者に自らを差し出す生き方にある時、神の宝を盛る「土の器」となるのだ。これは「愛」に通じる。ある人は、借金を返すのに似る、とも。自分の中に留まるだけでなく、外に向かって用いるものである。教会がこの世に向かって働きかけるのは、神の愛に応える召しであり、土の器の務めである。互いに賜物である「神の言葉」を他者に用いて、「いのち」を注ぐ「聖なる供えもの」になろう。

1月12日 人を生かすわざ

出エジプト記 12章21節〜28節     
コリントの信徒への手紙T12章14節〜22節 阪井牧師

 「思いがけない」展開が年明けとなっている。気温の異常さには、個人の対応に限界がある。北陸、東北や北海道は尋常ではない寒波に古老ひとりで絶えるのは痛ましい。この意外性は教会にもある。「日曜学校」が「教会学校」に呼び方が変わった。知識より体験的学びが中心となったのだろうか。宣教と牧会そして教育が教会の働きである。聖書の記事はこの教育を扱っている。神を神として、その前に立つ人はどのように在るべきかを学ぶ。十戒の前半1〜4(神と人との関係)と後半5〜10(人と人との関係)の前半部分を意識する。公立の教育機関が前半が扱えないから後半部分を担おうとしている。誤るとかつて歩んだ道を辿ることになる不安を覚える。箴言にある、「主を畏れることは知恵の初め…(1:7)」は、ユダやの教育の基本である。教会教育の基本がここにあって、体験的に学ぶことの第1は当然「礼拝」となる。キリスト教学校が「礼拝」を生命線とする理由である。「聞き上手」とキリスト教学校の児童を評価する時、果たしてどこにその根拠を観ているかを想う。出エジプト記は家庭の教育の体験的機能を示している。コリント書は教会の教育的現実を示している。神を神とするところにこそ、人を人とする基本が成立することを学ぶ。効率化(成績)や経済性(存立)を優先する社会に向けて、教会の働きは重い。使徒信条の「聖徒の交わりを信ず」は、互いに主にある集まり(交わり)であることを信じる、との信仰表明である。私たちも、と願う。

1月5日 聖なる公同の教会

エフェソの信徒への手紙 49章7節〜13節 阪井牧師

 「公同の教会」とは、聖書に基づいた普遍的教会=見えない本来あるべき教会を指す。見える教会は、時代と状況に影響を受けるからだ。私たちのバプテストの立場は、「具体的な見える教会が公同の教会を表している」と見ている。それ故に、バプテストは個別の教会を尊重する根拠を持ち、その個別の教会は、本来あるべき公同の教会に向かって成長を続けるべきとなる。使徒信条の後半に「公同の教会を信ず」との言葉には条件がある。「父なる神」、「主イエス・キリスト」とあって「聖霊を信ず、」に続いていることに留意したい。文中の一部の言葉を抜き出して扱うことは真意を誤らせることになる。さらにこの「公同の教会」の前に「聖なる」がある。聖とは特別な意味を持ち、主なる神のみ業が行われることを意味している。人々の集まりである教会であることを理由に、神の言葉から離れるようなことがあってはならない。この手紙の発信人であるパウロは、身柄は不自由であっても、「神の言葉は繋がれてはいない」ことを示し、個別の教会(エフェソ)を励まし、勧めをしている。「信仰は一つ、バプテスマは一つ、…」神に対する信仰と知識とにおいて成熟した豊かさに至るよう勧めている。キリストの身体である教会は、自分だけの成長ではなく、全体(教会)がこの世に向かって建設され、すべての人の救いに用いられる使命を果たさなければならない。頭なるキリストの示す方向と目的に仕える調和の取れた「集まり」へと成長をしなければならない。ここに愛の奇蹟が現れる。

1月1日 『神と共に歩む時、人間は立ちどまらない』

 「主の道を歩む者たちは、悪を行わないからです。」 (詩編119:3)

神の道は、神みずからが通って行った道であり、今や我々が神と共に歩んでいくべき道である。神が通って行かない道、神が我々の先に立って行かない道を行くのを、神は我々に許さない。神が我々を招いている道は、神によって切り開かれ、神によって守られた道である。このような道こそがまことに神の道なのである。 神と共に歩む時、人間は立ちどまることがない。人間は神と共に道を歩むのである。前進がないとするなら、人間は神と共にいないのである。我々は単に次に歩み出すべき一歩と最後の目標を知っているにすぎないが、神は道全体を知っている。この神のもとで立ちどまり続けるということはありえない。我々は日々刻々と先へ進むのである。足を一度この道の上に降ろした者の人生は旅となるのだ。このことから福音と信仰が、決して無時間的なものではなく、歴史における神と人間の行動であることが明らかになる。このような人間の歩みは一つの道となって、他の人々の目に隠されたままであることはできない。この道の上で善が行われているか、悪が行われているかは、他の人々には明らかである。またこの道の上で、たとえば欠けの多い現実から完全な理想に逃避するというような悪が行われるのか、あるいは、満足のできるような正しい道を知るのか、正しい信仰を得るのかということが―我々はいつもそうのように振る舞うことはできないのだがー、問われている。「主の道を歩む者は、悪を行わない」。道を見出し、正しい道の上を歩みさえすれば、自分の覆うべき責任と罪責が軽くなるというのではない。むしろそれらは一層重いものとなる。神の子達は、<神の恩寵と神の道を知り、悪を行わない>という法則がまさにそのまま当てはまるようにならなければならない。それでは「彼らは何も悪を行わない」と言えるのだろうか。この言葉は言いすぎであろうか。一体我々キリスト者はもはや罪を犯さないであろうか。確かに我々は罪を犯す。そのことを我々は否定しない(1ヨハネ1・8,9)。しかし、そのことを告白した後、我々の目はもはや我々の罪と弱い本姓を見ず、キリストと、我々の将来を決定して以下のように語る神の言葉だけを見つめる。すなわち、「すべて神から生まれた者は、罪を犯さない。神の種がその人の上にとどまっているからである。またその人が神から生まれた者であるから、罪を犯すことができない」(1ヨハネ3・9)という神の言葉だけを見つめるのである。神の道は、神から人間に至る道である。そしてそのようなものたる時にこそ、神の道は、人間から神に至る道でもある。 その道とはイエス・キリストのことである(ヨハネ14・6)。そしてこの道の上にある者、イエス・キリストにある者は、悪を行わないのである。  ― ボンヘッファー1日1章 ― 村椿 嘉信訳 より引用
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新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
       (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988


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