1月4日 派遣のささえ
使徒言行録 13章1節〜12節 阪井牧師
現在、教会と教師の数がバランスを崩している。ましてや、説教・礼典・牧会が充分にできる教師は得がたくなっている。教師を送り出す責任を神学校に向けることもできる。しかし、神学校は教会が送り出した献身者を育て訓練する機関である。献身者を起こすのは、神学校ではない。教会である。従って、教会の教師不足の責任は、教会にある。先ず、教会の全てのはじまりが礼拝から、讃美と祈りとみ言葉を聞くこと、そしてパンを裂く交わりを学ぶ。この基本を失う教会は真の福音に立つ教会ではなくなる。礼拝によって生きるからだ。本人の決断もあるが、礼拝の中で神の求めを聞くことから始まる。その応答が教育、医療、事業などに展開されているのだ。そこでも、礼拝がなされる理由は、召しに応えようとするために霊の力を受けるためである。同時に、それが個人の信仰と片付けられないことを知らされる。派遣には、祝福(神がその人に働く)を祈ると共に、その責任を引き受けることを「断食をして祈る」記事にみる。教会での結婚式は、式を行うだけでない。その責任を教会が本人たちと共に負っていくことを意味するのと同様である。共同生活において綻びや障害に遭遇する時、人間の知恵では真の解決にならない。真の解決への知恵は神の祝福を祈ったと同じ、神の前に出ることにおいて受けるべきと言える。共に神の前に出るために、教会はいつもその責任を共に担う覚悟をするように用いられるのだ。
送り出し(派遣)が全てではない。主の御手に委ね祈るのだ。
元旦礼拝 『言葉の中の言葉』
「主のあかしを守り、心をつくして主を尋ね求める者たちはさいわいです。」 (詩編119:2)
第1の祝福(「主のおきてに歩む者はさいわいである(1節)」)のあとに第2の祝福が続く。「主のあかし」とは、主を尋ね求めて歩む者たちがその途上で迷わないようにと、神が定めた警告のしるしである。バビロニアの捕囚において初めてこの言葉は使われるようになった。この刑罰と懺悔の時代に、人々は、<神の民の道は試練を受けなければならないが、その試練に耐えなければならない>ということと、<主なる神を忘れるなという警告のために律法が与えられた>ということを確認したのである(ネヘミヤ9:34)。今やわれわれは契約の箱を「警告の箱」(出エジプト25:22)、十戒を「警告の板」(出エジプト31:18)、聖所を「警告の天幕」(民数記9:15)、あるいは「警告の住居」(出エジプト38:2)と呼ぶことができる。このことによって明らかになることは、それらのものすべてが、それら自体の中に究極の意味を持つのではないということである。それらはただ神を忘れるなという警告のために、神ひとりを証しするためにあるのである。したがって、十戒や、契約の箱や、幕屋においてただ神ひとりだけを見いだし、拝する者こそが、それらの持つ本当の意味を知るのだと言える。ところで、神がそのような警告を神の道を歩む民に与えたのは、彼らが試練のただ中で「神がついにあなたをさいわいにする」(申命記8:16)ということを明らかにするためである。戒めが日々われわれに思い起こさせる主こそ、戒めがわれわれに証しする主こそが、われわれの神なのである。したがって、戒めを外面的に行なうことは十分ではあり得ない。戒めを行う際に、口先や手だけではなく、分裂していない完全な心がともなっていなければならない。そして戒めにおいて証しされている方が、絶えず尋ね求められなければならない。
戒めにおいて、礼拝において、祈りにおいて、われわれの心は、これらをすべて与えた方を尋ね求める。したがって心は何もせずに満足しているわけでなく、むしろ絶え間なく神とその啓示を求めるのである。多くの言葉の中に真の言葉を、律法の中に福音を求めるのである。このように神野あかしを守る者、心をつくして神を尋ね求める者こそが幸いな者なのである。なぜなら、<どこで尋ね求めるべきであるか>、<誰を発見するべきか>ということが、すでに彼に示されているからである。<求めなければ見いだされる>ということがすでに彼に約束されているからである。
― ボンヘッファー1日1章 ―
村椿 嘉信訳 より引用