日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月27日 平和への祈り

ルカによる福音書 19章37節〜44節 阪井牧師

 エルサレム入城の一場面として知られている箇所の記事。一行(主イエスと弟子たち)がオリブ山からケデロン谷に向けて進む。時はユダヤ最大の過越祭で、多くのユダヤ人がエルサレム巡礼に旅して集まる。混雑?に混じって弟子たちが声をあげて歌った、と。旅人たちはその様子をどう見たか。想像するしかない。群衆の中からファリサイ派の人々が主イエスに直接抗議「…叱ってください」と。ルカ福音書だけの記事である。対する主イエスの応答「もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす」との正面からの言葉は強烈だ。抑えようのない現実、メシア到来、旧約預言の成就、神の契約実現を歌う弟子たちを肯定しているかのようだ。ルカ福音書の主張は、<人の手に依らない神の御業>を見ていると見える。果たして、歌う弟子たちはその真実を心得ていたか。前章31節以下の記事から想像すると、どうも弟子たちはその意味するところを理解していないようだ。歌の言葉は、クリスマスに読む記事(ルカ2:14)(天使の歌)を想起する。「地に平和、み心に適う人々に」と、ここの「天に平和」とは、どういうことか。後者の平和は、父なる神のみ心とみ子とが<一つ>になっていることを示している。従って<地に平和>も、み心に適うことが求められる。戦いをしない平和を考え易い。聖書(ルカ福音書)が、示すのは、<み心>を求めることこそが平和の根拠なのだ。主義や思想の課題ではない。世界を創造された方のみ心を求めることにある。主にある平和を求めて祈りを続けたいと願う。

12月20日 丁度良いとき

ローマの信徒への手紙 10章15節 イザヤ書 52章7節 阪井牧師

 宗教性や信仰への配慮が奇妙な現象を起している。「ゴスペル」の意は、福音である。黒人たちがおかれた限界状況で、神への魂の叫びや祈りを歌に託したのが「ゴスペル・ソング」である。現在は、その真実を意識なく歌われているように想う。「生きるための祈り」が薄れているなら配慮を考える必要がある。改めて問いを受ける。「クリスマスはだれのため?どこで、どうメッセージを聞くか」に向き合うのがアドベントであろう。旧約聖書のイスラエルの歴史は、その民(神の民)が陥った事実を記録している。神に拘りながら、誤っていった。信仰が行為(律法)に換えられる誤りである。神に繋がる彼らの力みが主イエス(神の子)を拒んだのだ。「あなたの王となられた(イザヤ52)」との<よきおとずれ=福音>が違って聞こえた。クリスマスはこの事実を覚える時でもあるのです。ヨハネ福音書は「世を照らすまことの光(1:9)」が来たのに、世は認めなかった、と書いている。神の民が神を認めなかった、とはどういうことなのか。救い主=メシア到来を待ち望んでいたのに、なぜか。自分の計測できる神の業を想定したのだ。神の計画を人間の時で受け止めようとすることに誤りがあった。「よきおとずれを告げる足が美しい」のは、神の御業と受け取るところに表白できる。最も人が必要とした時に、神は<丁度良いとき>として「み子」を遣わしてくださった、と信仰において受け取るのがこの時・クリスマスだと思う。神のこの世への働きかけ・クリスマスをどう過ごしますか?

12月13日 喜びと平和へ

ローマの信徒への手紙 15章7節〜13節 阪井牧師

 一つ事柄に2面性があり、日頃の生活で何気なく処理することがあれば。悩みぬいて決断することもある。聖書記事にも同様の見方ができることがあって不思議はない。ローマの教会だけでなく、コリントの教会にも教会生活に重要な課題があった。それは<食に関する事柄>だ。ユダヤの地なら起きなかったろうと想う。異教の地(ヘレニズム文化の地)だからこそ重いのだ。日本の地だから悩む信仰生活があるように。人の基準を克服することの厳しさである。キリストにある自由は古い自分からの解放である。もう一面は他者のために自制をする自由である。しかも、人道でなく、信仰の事柄としての自制である。パウロの「信仰の強い」とは後半を意図している。キリストの贖いによる恵みは同時に他者にも言える。懸命な闘いに苦労する人にも、その恵みが及ぶべきとの受け止めである。だから、「ユダヤ人にはユダヤ人のように…」「ギリシャ人には…」すべでの人の奴隷となった、と。「キリストがあなたを受け容れた」ことに倣うから出来ると語る。自力なら人道である。それがキリストを拒み、十字架へ追いやることに繋がる。「互いに受け容れる」も同様である。神の求めに仕える信仰を歩む姿は<異常>に見えよう。自制が巡って自分に回帰する、と考える世間で、不名誉も不利も辞さない生き方がそこにある。十字架への道を引き受ける出来事、クリスマスを想起する季節に、今あることを思う。そこに希望を託すとき、喜びと平和が訪れることを祈って待ちたい。

12月6日 主と共に生きる

テサロニケ信徒への手紙T 5章1節〜11節 阪井牧師

 時を扱う箇所と言われる中に、<近い将来を待つ待望>の言葉が目に留まった。主イエスの歩み方がまさにそうだと。十字架において父なる神のみ心を明らかにする生涯。父なる神は復活によってそれに応えられた、と。それを私たちは、主の霊に導かれて主の栄光讃美、証しをするのだ。今日の「テサロニケ」は地名、マケドニアの首都でローマ政府の総督を配置、商業と経済とヘレニズム文化の町である。ユダヤ人たちも寄留してそこに生活していた。会堂は異文化と異教の中で神の民を保つ砦でもあった。パウロが第2の宣教旅行で立ち寄り、種を蒔き、生まれたキリストの群れ(教会)に宛てている。パウロの書いた最初の手紙とも称される。その地を離れたパウロが、デモテをかつての宣教地に派遣して得た報告に基づいた手紙である。教会全体の雰囲気が平安でない理由の一つが<再臨信仰>に依る混乱である。その<時>の理解が混乱を造りだしていた。しかし、パウロはそのことに言及しない手紙を送っている。むしろ、主イエス・キリストと共にいるゆえの、<光の子>として一つであることを求めている。神の言葉の中に生きる者は、信仰と愛を胸当てに、目を覚まして神に向かって主と共に生きることを勧める。身だしなみを整え、その時が突然であっても慌てることはない。妊婦が胎児の誕生を備えて<その時>をまつのである。その待つことに真の喜びが大きくなり、周囲の人々を巻き込むことになる。み言葉を聞きつつ、主と共に生きる群れであり続けよう。

11月29日 息吹―聞こえる?

エゼキエル書 37章1節〜28節 阪井牧師

 イエスの誕生物語の記事(ルカ2:1以下)に、時の政府(ローマ)が人口調査をしている。現在進められているマイナンバー新制度の事柄が重なる。便利と負担の関係でもある。法人も人の人格とみなして、存在と権利が保証されるために資格を得る。組織や団体が人格化される。この箇所ではイスラエルを個人としている。イスラエル分裂時の北をエフライム、南をユダと人格化して預言者エゼキエルは語りかけるよう主なる神から命じられた。時代背景には、国家の滅亡による、神の民が生きる力と希望を失った状態にあるために語りかける。主御自身が失われた家(イスラエルの民)を集めて<一つにする>とのメッセージである。そこで「私の民、民の神」との新しい関係を示している。背信や汚れから救い清める、と。主の御手が働くまでは、谷に放置された骨のまま。生きていても死んだと同じ状態を意味している。「枯れた骨」の表現は、今日の現代人に似た姿とも受け取れる。人々は活気に満ちて動くも、神との関係を持たない者は、<枯れた骨>に等しく、一人の人の身体の骨はバラバラに散らばった状態である。神の霊が注がれることによって、その骨が整えられて人の状態形成が進んで、一つの国ができる。そして、骨格形成した体(神の民、ユダヤ人)は、新しい関係(主の民、民の神)が再構成統されて統一の国に、その支配はダビデ(新しい神の支配者)をえる。これは、まさに現代的な希望に繋がる。それは、神の霊(息)が吹き入れられてのことた。現代の必要はその息吹である。

11月22日 もう一人の弟子に

マルコによる福音書 2章13節〜17節 阪井牧師

 「心の隙間」は気になるもの。信仰生活にも<それ>があるように想う。聖書の学びや礼拝の話への姿勢問いかけを考える。「イエスが湖畔に出たら群衆がみ許に集まった」の説明文は、<のどけさ>を想像する。直前の記事、激しい内容展開だったことからも、そうであっても不自然ではない。しかし、群衆はそのトキを認めないかのように集まる。強い求めがそこにある。イエスは話(教え)をされた。<時が満ち、神の国が近づいた。…(1:15)>と同様であったろう。カファルナウムで通行税徴収の勤務中のアルファイの子レビを通りがけに見たイエスは、声をかけた。「わたしに従いなさい!」。レビの日常に立ち入った主イエスの召しである。その時、資格、経験などは一切問題になっていない。レビは、「立ち上がって」その言葉に「従った」とある。誠実な応答、明確な決断がなされた。様々な繋がりや実際生活の中に、イエスからの視線を受け、そして招きの声を聴いた。それに従ったレビ(もう一人の弟子)は、徴税人や罪人たち、さらにイエスと弟子たちが食事を共にしていた。その人たちは、実際生活においては律法に忠実であることができない。ユダヤ人としての神の義(救い)から遠い人たちが、<神の国が近い>と語るイエスと親しい交わりをすることに疑問を持つ人がいた。努力をして神の義に近づこうとしている人たち(ファリサイ派の律法学者たち)であった。そこで「わたしが来たのは病人を招くため」との言葉を示された。招きを受けた一人として歩みたい。

11月15日  神は「どこに?」と問う

創世記 3章1節〜19節 阪井牧師

 スポーツが勝敗だけに意味を持つ世界の現実が報道された。国威という看板のゆえとか、大きい組織に個が飲み込まれている情況解説がなされていた。厳しさを無視できない、同様な複合社会に私たちもいる。心の疲れや魂の渇きを感じる原因でもあるように考えた。「生きるエネルギーを求めるもがき」を想う。「神から受けたいのち」を喜び生きたいと願う。聖書の「エデンの園」物語から信仰の知恵を学びたい。神から「食べて良い」との恵みを受けたが、禁止に焦点が置かれている話である。最も狡猾な存在が語りかけている話である。つまり、いのちの保証である禁止が、自由の制限と置き換えて話しかける知恵がそこにある。人はそのような(罪にある)存在と理解できる。神を意識できる人(私ども)は、神から身を隠す。そこで神が問う。「あなたはどこにいる?」と。神に愛され、生かされている人を糾弾するためではない。真に生きることを求める言葉と想う。<場所>ではなく、<状態>を尋ねるものと受け取る。人が神との関係を失って生きるなら、<いのち>を損なうとの話と受け取る。神に向きを変えて歩む生き方が求める示唆を思う。親が子に語りかけるあの愛情に通じる。神の正当化のためよりも、子のためにいのちを差し出すとができる愛がある。主イエス・キリストはその愛を十字架に現したのだ。見方によると敗北であろうが、復活はその克服である。このような勝利は決して他にない。小さい私であっても、この愛に根拠をもって大胆に歩みを続けたい。

11月8日 信仰を見るイエス

マルコによる福音書 2章1節〜12節 阪井牧師

 集中しているときは誰にも邪魔されたくない。主イエスが「家」にいる時、人々はそれを知って集まった。「誰の家」かは説明がない。くつろぎの時を想像する。しかし、人々はそこに向かって集まる。教会の姿は斯くあるべきを想う。人々を集めるのではなく、人々が主イエスに向かって集まるのだ。み言葉を聞くためだ。人々は集中していたろう。その時、天上から描写を担架に乗せたまま釣り降ろす場面がここに起きた。気を散らすどころではない。その緊張の瞬間をぶち壊しがなされた。<別の機会に>も<静まれ>の叱責もない。それどころか、話し中のイエスは、運び込んだ人たちに向かって「その信仰見て…」病む人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言葉をかけた。数人の律法学者たちは、心に<神を冒涜する>と考えた。罪を赦す権威は神にだけある、との根拠は正しい。つまり、主イエスが誰かが分からないのだ。神の戒めに仕えながら、神の子イエスのこと、神の愛が受け取れない。目に見える事柄と見えない信仰が同じ<はかり>ではかられている。人の目に<優しい>は、信仰においては難しいのだ。つまり、<癒やし>は<神の権威>の結果であることを想う。「信仰を見る」主イエスの不思議さは、風や音が何色かを問うのと同じようだ。病者は、床を担いで、人々の前を出て行った、と。人々は皆驚き、神を讃美した、との結びに深い感銘を受ける。主イエスを世に遣わしてくださったことを受け取る信仰の与えられていることを、心から喜び、心から主をさんびしたい。

10月25日 集まる人々の思い

マルコによる福音書 1章40節〜45節 阪井牧師

 人と交わることが禁じられた病人が、主イエスにひざまづいて願う。これはあり得ない異常事態である。強烈な思いがさせた行為である。それを正面で受取った「イエスが深く憐れんだ」とある。「憐れむ」の意味は、相手の痛みや苦しみを自分も共にするである。同情とはその受け止め方が違う。隣人と生活が一緒にできない苦しみを受け止められたのだ。交われない人に手を差し伸べただけでなく、触れられた。どうだろうか。社会慣習を否定する行為がそこにある。病む人の「御心ならば…」との言葉は、自分の余裕(ダメ元)を残すのではない。他に自分を託す場所がない、すべての信頼を賭けている。主イエスが「よろしい。清くなれ」と言葉を発した顔をどのようにイメージするか。穏やかでありつつ、<心に憤りを抱いた>厳しい顔を想う。人がその尊厳を奪われている現実、その不真実さに痛みを覚えなくなっている人々への主イエスの想いを想像するからである。「誰にも話すな」や「祭司に身体を見せる=清いの証明」を求めた言葉から想う。そこには、「誰に」とか「どのように」が問題にならない。それを問題にするのは誰か?この私に向けられる問いである。<あなたは、神の前に価値ある者>との判断を改めて祭司に示すように命じてられたことは重い。どこの家、学校、職場、…その人自身よりも現在に至る経過が重要とする現代への問いではないか。<人との関係>以前に<神との関係>が重要なのだ。イエスが人里離れた場所を求め祈られたことをまねびたい。

10月18日 しかしそこに、主が

エゼキエル書 34章1節〜15節 阪井牧師

  統一国家イスラエルは分裂し、北(BC722)に続き南(BC587)も滅びた。絶望の中にいるイスラエルへの神による回復が語られる。歴史に兄弟であったエドム(創25))への神の裁きが預言として語らている。エルサレム陥落にエドムがどう働いたか。このエドムに神が向き合い、手を伸ばす、と言われている。手を挙げ、傷つけ、欲を見たし、命まで奪う行為を主は知っている。巨大国から自国を守り、長年の思いを晴らす行為であっても、主の支配を拒んでいることを示す。同時に、イスラエル絶望の現実に「しかし、そこに主がおられる」「わたしは生きている」の言葉を語っている。ここに、現代の私どもへのメッセージを聞くのである。<人は時に支配される>が<神は時を支配される> のだ。人には、今しかない時でも神の時とは異なることを思う。ここに信仰の世界がある。コ・ヘレト3:11を想起する。主イエスの弟子たちも、ガリラヤ湖での貴重な経験をした記事がある(マタイ14:22以下)。元漁師のペトロが大工の子イエスに湖で助けを求めている。そして、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」の言葉を発しておられる。危機と絶望、望みの尽き果てた、そこに「しかし、そこに主が…」とのエゼキエル預言が示されていることを喜ぶ。信仰は神が働いてくださる時に、この私に意味をもってくることを心にとめたい。信仰の名を借りて、神の意志であるかのように自分の意志を主張するエドムを戒めとしたい。「しかし、そこに、主は生きておられる」を味わい証ししよう。

10月11日 み業のエネルギー

マルコによる福音書 1章29節〜39節 阪井牧師

  マザー・テレサが奉仕者に尋ねた話。@「一人一人にほほえみかけたか」A「手で触れて、温もりを伝えたか」B「短い言葉をかけた忘れなかったか」は深い。ガリラヤ伝道の会堂から移動した民家でのイエスの姿に重なる。そして、今日の教会の姿、主が共におられるとの信仰に通じる。非常識とさえ見える(病床に伏す家人の)情況にイエスが立って働く記事である。そこに新しい関係が生まれ、主に仕えて生きる人となっている。仕えたその人の名は記されていないが、最初にイエスに仕える人(女性)であった。あの2組の兄弟漁師、最初の弟子たちではない。当時の社会慣習では、女性は一人の人格的存在として扱われなかった。だのに、最初にイエス(一行)を「もてなした」のは名も記されない女性であったことは重い。そのイエスがおられる場所に、多くの人が集まり、イエスはその人たちに向き合っている。<夕方になって日が沈むと>は、一日が日没から次の新しい一日の始まるユダヤでは、安息日が終わるのを待って主イエスのところに来たことを意味している。ユダヤの慣習を無視していない。ただ、主イエスにおいて新しい日が始まることをその記事から知らされる。人に相談して真の問題解決になるか。本当の問題解決は主イエスのおられるところ、つまり、教会において得られると受け取れる。教会が主イエスとどのようになっているかは、大切な事である。マザー・テレサのあの3つの言葉は倫理ではない。信仰の言葉として心に留める(泊まる)必要があろう。    

10月4日 主その群れを牧す

エゼキエル書 34章1節〜31節 阪井牧師

 聖書に登場する<羊と羊飼>はキリスト信仰の象徴の一つである。羊は信徒、羊飼は主イエスを表す。ヨハネ福音書10章、主イエスの言葉に「わたしはよい羊飼」は有名。「羊のために命を…」はこころを打つ。讃美歌213番や詩編23編、交読文6も。牧者の羊飼は、政治にも用いる。イスラエルの諸王は民の牧者であるのに、彼らはその務めの主力を自分に注いだ。養うべき群れを散らし、探す者なく、尋ね求める者もいない。それ故、主なる神御自身が、自分の群れを探し出し、世話をする、と預言者エゼキエルを介して言う。全ての場所から、彼らを集め導き、良い牧場、肥沃な牧草地で養い、水際に憩わせる。失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ出し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする、と。この羊のために一人の牧者を越し、牧させる。それはわが僕ダビデ(主イエス・キリスト)である、と。その群れは、<私が彼らと共にいる主なる神であり、わが民イエスラエルの家であることを知る>ためであるのだ。「あなたは、私の群れ!」との宣言をどのように聞くのか。神の民に召され「私の羊を養いなさい(ヨハネ21)」は、私の都合や相性など関係ない。主が召された神の民として招かれた業に仕えるべく遣わされている。良き結果は主の働きに用いられたに過ぎないだけ。誇るものはない。神の創造に与った人の生き方をどうして同じ存在である自分が変えることができようか。託された御こころの救いのために祈り願い仕えるところに主が働かれる。感謝であろう。    

9月27日 権威ある働き

マルコによる福音書 1章21節〜28節 阪井牧師

 最近、生活の場を失う事態が諸所で起きている。難民はその著しいものだ。出エジプト記やノアの洪水物語を想う。その人たちを受け止める場が必要だ。神の民イスラエルは、会堂をもった。礼拝・教育・裁判などが行われた。主イエスのガリラヤでの活動がそこ(生活の場)から始まったことを意識する。「教え」は専門家(律法学者)より権威あるもので、人々は非情に「驚いた」。経験や学びがその根拠ではないことを示している。つまり、「神の支配」を負う方だからだ。専門家には、自分たちの存在を脅かすものと受けた。存在意義を失わせることを認めたのだ。それは、「汚れた霊に取り憑かれた男」、本来の自分を失った存在と似ている。主義や経験・知識がそれに通じるかもしれない。思い込みも同じく自分を失っているように考える。外から侵入したものが本体を混乱させている。本来の自分を取り戻す働き(主イエスの働き)を拒む姿をそこに見る。いくらか自分の安定を得ている者には、主イエスの存在が脅威となる。「構わないでくれ!」の訴えの声を発する理由である。主イエスの働きは、「それがあなたの真実ですか?」を問いかけている言葉となる。自由は、その思い込みから解放するところにある。全ての解放ではない。聖書は、神から受ける戒め、創世記は「食べるな!」の言葉であった、それを越えようとするところに罪、束縛が生じている。真の自由は神との関係を保つことにある。関係を拒否するなら自分を失う。捜し求めて来られたイエスを喜びたい。    

9月20日 見張りに立てられる

エゼキエル書 33章1節〜33節 阪井牧師

  「衛士(えじ)があしたを待つにまさりて…」の言葉は文語訳(詩篇130:6)にある。夜勤をした経験から<務めの交代を待つ>見張りの思いを想定する。33章直前までは、イスラエルと共にその周辺国(都市国家)への神の裁きが内容であった。この章から新しい調子で預言が語られる。エルサレム陥落後、回復の預言、裁きから救いへの新しい展開を命じられる。バビロン捕囚の民が抱いていた希望は、ささやかであっても、生きる<よすが>が絶望に変わった。そこに、神の言葉が語られる。いわば、神との関係を見失い、自分の中にある何ものかを根拠に生活することは、自ら傷つくだけでなく<いのち>を失うことを示す。神は<いのち>の滅びを求めない。神との関係によって真に<生きる>ことを求められる方である、と預言によって明らかにするよう命じられた。預言者=見張る者は、信任を受けてその務めを与えられる。誰もがその場所から、周囲を見回し、情況に触れるのではない。神からの言葉や御心を受ける特別の位置を与えられた者として知り、み言葉を聞く者であることを心に留めるべきだ。自分のものだけにしてはならない。人の命を左右する重要な役割を担っている者として<務め>を果たすべきと言える。預言者エゼキエルと同じく、私は見張り(=衛士)に立てられているのだと受け取る。召され、選ばれて、見張りとなったのは、すべての人が罪の赦しを受けて、「神のいのちに新しく生きる」ことを伝える働きに遣わされている。主からの信任に応える器でありたい。    

9月13日 弟子に召された人たち

マルコによる福音書 1章16節〜20節 阪井牧師

 長雨による被害ニュースの中に「日常はまだ戻っていない」の言葉を聞いた。イエスが弟子を召されるのは、その日常であった。漁師にはガリラヤ湖が生活の現場である。2組の兄弟が最初の弟子として召された。最初の組は、網を打っていた、とある。後の組は、舟を洗い、網を繕っていた。その時、主イエスは声をかけている。「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」「呼んだ」であった。その直前に、イエスは「ご覧になった」とある記述に留意したい。イエスの先行性をみることができる。弟子に召されるためや主イエスとの真の出会いの<要件や資格>は弟子の側にないことを想う。つまり、強い求めや志が出会いを作るのでなく、イエスから働きかけが第一。目に見える判断材料を考える日常に、イエスが<見えない世界>へ働きかけをしている。イエスに従う彼ら2組の兄弟漁師たちは「すぐに」との説明を受けている。時間的余裕のない行動である。思い巡らし、自分を整えて決断に至ったのではない。腰軽るなのか、愚かしいのだろうか。愛とめぐみがそこにあると想う。弟子の側に召しへの責任がないのだ。考えの揺らぎや動機への疑いにも弟子の本質は変わらないのだ。それでも、弟子代表としての主告白(マタイ16:16)のすぐ後に、思いがけないイエスの言葉が続く。「サタンよ、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者、神のことを思わず、人間のことを想っている」があるのだ。今日、私があるのは、神のみこころに支えられ、導かれているのを確信したい。  

9月6日 神をおそれるとは

エゼキエル書 32章1節〜32節 阪井牧師

 伝えられる側それぞれに困難さがある。内容よりも人間関係の壊れをさえ生じさせる恐れが孕まれている。そのことから、マタイ福音書10章の主イエスの弟子選び、続いて弟子たちの派遣記事を想起する。派遣先での内容は「天の国は近づいた」であった。その後が厳しい。「病人を癒し、死者を生き返らせ、思い皮膚病を患っている人を清め、悪霊を追い出しなさい」とある。弟子たちにそんな能力を持ち合わせているはずがないのに求められている。いな、命令を受けるのである。弟子たちの実習訓練を想う。ある意味でごく普通の市民である弟子たちが求められたのだ。「天の国は近づいた」の内容がそれらの具体的なことと関係している。つまり、弟子たちの経験や知識や信仰心がここでは重要ではない。<主に召され、遣わされる>そのことが重要なのだと知る。預言者エゼキエルは何気なく記している「主の言葉が私に臨んだ」の重さを改めて味わいたい。その言葉が向かうのは、当時の大国エジプトの王ファラオと貴族たちである。誰がその任に応えうるだろう。神との関係が怪しくなっている、神を知らないでいる。そのことに神が歴史を通して働き、「わたしが主であることを知る」ために用いられるのが預言者である。使命に仕え、またはそれに生きる者でなければならないのだ。信仰者の使命と通じると思う。私の言葉や経験あるいは力量が問われているのではない。主に召され、遣わされる、そのことが最大事なのた。主の声が「聞こえているか!」を想う。

8月30日 神の時・イエスの宣教

マルコによる福音書 1章14節〜15節 阪井牧師

 簡潔すぎるほどの「イエスのガリラヤ伝道開始」の記事である。説教者には戸惑いをすら覚える。しかし、ここには「イエスの宣教活動の総括がある」との説明をする師がいる。丁寧に解きほぐして共に学びたい。「ヨハネが捕らえられた後」とは、世間の空気が緊迫している時の意味を持つ。イエスはヨハネからバプテスマを受け、悔い改めとメシア到来とが一つとなることを示した。しかも、自ら意図して宣教を始めた。危機の中にその身を置くことであった。逃避がガリラヤではない。ユダヤの世界からは、救いには遠い地とみなされていた場所である。都エルサレムでもない。ユダの地でもない。伝統と血筋から離れている。そこから救いの宣教が始まったことは意義深い。「時が満ちた」のは、預言がここに現実となった事を意味している。神の計画は人間のとは全くj異なるのだ。「近づいた」は、関係の言葉である。「あなた」に神の国が来ている。「神の国」は神が支配しているところである。つまり、主イエスが神の子として現れていることの宣言である。人間の努力による結果ではない。だから、喜び=福音なのだ、とイエスが語り始めた。努力することさえ不可能で意味をなさないと思える人の所に宣教が始まっている。神の国(神の支配)の中に「あなた」が居るのだ、との良い知らせを受け取るか。喜びと受け取る者は、生き方が変わる。今までの一切の「しがらみから」解放され、神との関係に生きる。これが「悔い改める」生き方となる。拘りからの解放を大事にしたい。

8月23日 なりやすい気持ち

エゼキエル書 31章1節〜18節 阪井牧師

 場面を想定して喋りながらオモチャを動かしている幼子は心和む。大人の場合はどうだろう。実際にはあり得ることだ。その傾向が現在起こっている事件であろう。信仰の世界にもあるように想う。相手が神である。ところが、ここには、<いのち>が関係していることを創世記(2:16以下)から学ぶ。今日の記事にはそれを想起させる。神の事実を人間の側で解釈するのが創世記3章である。エゼキエル30章はエジプト王とその戦士たちへの預言である。その豊かさと繁栄は神の働きが背後にあることを見失って、まるで自分の功績でもあるかのように驕り高ぶっていることへの警告である。そもそも、繁栄は何のためであるか。その問いは今日の私たちにも向けられている。「あなたの今ある一切は何のためか?」との神からの問いである。自分の出す問いではない。この問いの厳しさを考える。苦しいときや辛い厳しさの前では祈る。嬉しい時、充実の時、周囲から賞賛を受ける時はどうか。努力の実りの喜びと同時に誇りをさえ覚える。この記事は、繁栄を喜ぶそこに神の秩序が失われている事を裁きの理由にしているのだ。神が働き、その恵みを受けて、今の成長と繁栄があるのを忘れて自分を高ぶる。神との関係がどうなっているのかを問うのである。人や世間が賞賛をする時、神に誉を捧げることが存在(神に創られている)理由とするところに信仰者の使命がある。「私が主であることを知る」の言葉の繰り返しに注意を向けた生活へ感謝して送り出されたい。

8月16日 荒れ野のちから

マルコによる福音書 1章12節〜13節 阪井牧師

 有名な<荒れ野の誘惑>の記事が他の福音書と違って簡単である。それがマルコ福音書の特徴でもある。荒れ野は、人が生きるを拒む環境故に、力を働かせると考える。そこに霊がイエスを行かせた、とある。自然のままの荒れ地と同時に人気がないところである。人が近づかない、捨てた地を意味する。イエスは「人里離れたところ」に祈りに行くとの記事は荒れ野と同じ語で表現しているという。今日、人との関係を無くしている世界にも当てはまる。便利であるか、機会を介在させた人との関係世界である。これは、人が人として生きられない世界=荒れ野である。イエスが荒れ野に出て行かれたのは、父なる神の御心に従って人間の世界に来られた事を想う。荒れ野に御自身の身を置かれた。そのことがマルコ福音書の主張に受け取れる。仕えさせるためでなく、仕えるためにである。40の数字が気になる。モーセ(出エジプト34:28)やエリヤ(T列王19)には、信仰の歪みと関係している。この箇所は、イエスがサタンに試みられるため、とある。しかし、「野獣と一緒」とあるのは、主と共にある平和を想わせる。野獣は、正体不明による脅威で人を恐れと不安に陥らせる。その克服は主と共にあることを示している。誘惑の力がないのではない。それに勝る力が働いているのだ。人間の知恵や経験の世界に神の秩序を意識する。そこには、小さくまた弱い「いのち」が神のいのちに与って生きているのだ。神から離れる世界には罪が幅を効かせる。 神の秩序を大切にしたい。

8月9日 はじめと終わり

エゼキエル書 30章1節〜26節 阪井牧師

 29章から32章までの<エジプトに対する予言>の中間にあるこの記事は、「主なる神が裁きを行う」ことによって「私が主であることを知る」との結論が繰り返し語られている。それはただ滅びの裁きではなく、主にある新しい歩みへの記事であることを知る。エジプトへの予言であってお、現代の私たちにもお関係する記事だと受け取れる。「戦後70年」の表現に接する。それに関係した強烈な言葉に今日(8/9)出合った。「今を戦前にしないため」と。政治や事業の課題を想像する。確かに日々前進する必要はある。でも心に引っ掛かることを曖味にしての前進への警戒を想う。今、言う平和が怪しい所以である。神の前に出ることを前提にしているか。ただ今だけを浮き彫りにしているなら、エジプトの裁きの記事と通じる。「神の時」の中に居るべきことが意識から失せている、と思える。自分を含めて、人の存在(誕生)と死(終わり)は、神の時の中にある。<始めがあって終わりがある>聖書の時である。今日の生活と神の時とがどのように関係を持っているかが重要だ。生活(人)の時を中心にした生き方への警戒をここから学ぶ。主イエスの誕生と十字架の事実を神の時の事柄に受け取ることが困難であった。例え予言がなされていてもである。今の秩序を乱すとしたことを想起する。主イエスは「その日」を語られた(例マタイ25:31以下)。神の時(その日)が私どもの生活の時に入るこまれることの確実さがある、と。それに備える信仰の。 

8月2日 主の心に適う者

マルコによる福音書 1章9節〜11節 阪井牧師

  8/6は歴史的に重要な日。ある人は<原爆>を<平和>と言葉を置き換えていると指摘、「平和隠し」という。戦争に繋がる平和と拒絶する平和に、今一つを加えて考えたい。それは、神にある平和である。主イエスのバプテスマがそれである。でも、イエスが施すのではない。ヨハネから主イエスが受けるバプテスマである。それも、「悔い改め」から神の救いの事実とするためである。ヨハネは拒んだ。自分の中に罪を意識したからだと言える。そこで、主イエスは「正しいことを全て行う」ためだと返された。主が共におられることによる「正しさ」を知らされる。人の蓄積や性質の結果ではない。ヨハネの拒みはそのことを告白している。主と共にいることが相手(私ども)を正しくすることになる主の言葉に励まされる。神御自身が働いて人に向かわれるのだ。イエスの誕生、十字架への道がそれである。「水からあがる」のは<新しいいのち>を生きることを示す。バプテスマを浸礼と呼んだのは、あだ名的用法であった。それを誇り、大事にしたことの証しでもある。「主の霊が主イエスの上に降った」とは、メシアの自覚との説明がある。<神のみこころ>に徹底して生きることのしるし、それに加えて言葉が聞こえた。アブラハムが念願として受けた子イサクを主に捧げた時の言葉(創世記22章)を想起する。さらに十字架の時、聖所の幕が裂けて隔たりが除去された記事(マルコ15:38)を想う。私どもも、この主エスにおいて「主のみ心に適う者」とされているのだ。感謝。

7月26日 荒れ野に向けて

エゼキエル書 29章1節〜21節 阪井牧師

 水中でこそ実力を発揮する足に実効性がないアヒルを称して<レーム・ダック>というらしい。政治家を揶揄する表現でもあると。エルサレム陥落直前、エジプトの状態はそれに似ている。イスラエルの世界地図では、北にアッシリア、東にバビロニア、西は地中海、そして南がエジプトである。バビロニアの圧力に抗する指示をエジプトから受けて近隣諸国が同盟の協議を始めた。それを察知したバビロニアは軍事力で圧迫した。エジプトは援軍を約束していたが、対応できなかった。まさに<レーム・ダック>である。馬と力を頼みとしたイスラエルの愚かさはもとより、エジプトの自惚れに対して神の裁きは揺るがない、と預言が語られている。世界の創造主である方を離れて、人の知恵や経験は確かに一時的効力を持つ。しかし、主なる神はエジプトに向かって「私がお前に立ち向かう」との語る。人の場合は新しい展開も起こりうるが、神の意志は決定できで逃れる術はない。ここに恐ろしさがある。現代の科学や医学、経済に通じるように思う。便利さや自分の都合で求め造り出すが、神と離れた事柄であるなら、神はそれを看過されるだろうか。命の誕生に人の都合が入り込む。自然のモノに人の手が加えられて自然にはないものを作り出す。40という数字は神の前に自分を顧みる意味を持つと考える。荒れ野をさまよう民は、神の前に生きることを学んだ。現代の私たちは豊かで自分の思うままの生き方に慣れている。荒れ野に向けて歩みなおす機会を持とうと願う。

7月19日 主を語る福音

マルコによる福音書 1章1節〜8節 阪井牧師

 「神の子イエス・キリストの福音の初め」には、<私はここに生きる>の決意と生きる喜びの源を語っている。つまり、この書の時代背景には、ローマ皇帝を神とする<皇帝信仰>を求める世界傾向とキリスト教迫害が始まる時である。そのため、「イエス・キリストこそ神の子」との明確な表現は自分の生命の危険を受ける覚悟を伴うことに通じる。今日の怪しい雲行きを座視出来ない、と街頭で意志表示をするキリスト者がいるとの情報を得た。かつて「天皇とキリスト教の神と…」を問い、その返答によっては入牢さえあったと聞く。ローマ皇帝を天皇に置き換えて時代背景を想像することが出来るかも知れない。敗戦と天皇の人間宣言が新しい日本、自由と平和と民主主義の誕生となり、この70年が自分の生きている世界となった。これを手放してはならないとの強い意志表示を想う。教会形成は、この信仰告白に喜び生きる証しである。「福音」とは、<良い知らせ>の意味であって、福音の中身は、この信仰告白から始まることを示している。しかも、突然に語るのではなく、旧約の預言が成就していると「バプテストのヨハネの話」を展開している。イザヤ書(バビロン捕囚)、出エジプト記(荒れ野の旅)を想起する言葉の引用がある。方向と目標が定められない歩みは、目前の対処が全てになる。今日の私たちの歩みはどうだろうか、を想う。自分で真理(神)を探し出し、思い込むのでもない。荒れ野の声として努めるヨハネは教会の使命と重なる。主イエスが来ておられるのだ、と。

7月12日 人が神、神が人へ

エゼキエル書 28章1節〜26節 阪井牧師

 日常生活に、他者との融和や円満は大切である。その時、自分の本質を堅持する内面の藤はストレスを大きくし、生活支障に陥ることさえある。いわゆる「ストレス障害」である。個人だけでなく、集団(職場や学校・国)にもあるとも考えてみた。BC5〜6世紀にエルサレムはバビロニア軍に滅ぼされた。それまで一緒に対バビロニア抵抗に参加していたティルス(貿易都市国家)は、自国の存続のために精一杯の努力をした。そして、当時の世界経済の栄華を謳歌していた。そのティルスに向かって預言者エセキエルは、思いがけない内容の主の言葉を託された。経済力による繁栄と栄華が<高慢さ>を生じさせているために神の裁きが臨む、と。これは単に過去の話ではない。現代にも通じる。生活の豊かさと便利さは、人間を自分中心的とし、自分を神にさえする傾向は、私たちの今日の姿でもある。これは「神不要」の新しい秩序、自分が<神になる>高慢さである。だから神の裁きがなされるとの内容である。本来、神の裁きは<滅ぼすため>。のものではない。神に立ち返り、また神に向かって歩ませるための恵みのできごとである。主イエスにおいて示された<神が人になる>出来事は、神の裁きである。同時に罪の赦しとして、救いの恵みである。バビロニアによるエルサレムの滅びは、新しい神への立ち帰りへの機会であった。現在の私たちが経験する困難や厳しさは、主イエスを信じる者に対する神への立ち帰りの機会となることを学ぶ。ただ苦しいのではない、との信仰を生きたい。

7月5日 福音の初め

マルコによる福音書 1章1節〜8節 阪井牧師

 教会の構成員が高齢化している現実は教会の人たちの知恵を育てる。子どもたちとの礼拝の試みはその一つである。そこにお話しの難易という課題が生じる。それを「分かる」と表現するとき、福音書の書き残す理由と通じよう。福音書は1世紀の終わり頃の書である。「手紙」の記録より20年以上遅れての記述。つまり、主イエスが教え、行動された生活の直接証人が居なくなる時間経過がある。すると、間接的証言には差異が生まれる。弟子たちと交わり、或いは主イエスと会っているかも知れないマルコ(筆者)は、その差異に気付いたと考える。手紙に「伝え」「受け」の表現を繰り返す記事からもそれを思う(Tコリント11:23、15:3、フィリピ4:9など)。このマルコ(筆者)は「バルナバのいとこ(コロサイ4:10)」であり、ペトロがエルサレムの牢獄から解放されて赴いたのはマルコの母マリヤの家(行伝12:12)」であった。パウロとの第1回宣教旅行したのもこのマルコである。キリスト教の迫害が現実になり始める時代、福音が歪むのを黙しておれない。可能な限り忠実に記録しようとの思いを持ったと考える。「分かる」との言葉が、理性または人の論理とするなら、信仰の事柄としての福音を「分かる」で論じる時、福音そのものと差異を産み出すことが生じかねないを想う。故意に歪めるのではない。ヨハネの登場は、人の世界に新しい神が働く世界の出現を備えるのである。荒野は神との出会いの場、その容姿は神の御心に徹底して仕える姿、この記事(福音)がここから始まるのである。

6月28日 嘆きの歌ー非情

エゼキエル書 27章1節〜35節 阪井牧師

 「ふるさと」の夕日が沈む景色をどのような心の記憶になっているだろう。フェニキアのティルスの様子をイメージする契機としてみたい。地中海貿易の拠点、大陸各地から集まり拡散する市場、その範囲は極めて広い。北はアッシリア、東はカルデヤ、南はエジプト、そして地中海はタルシシ(スペイン)、北アフリカ、ギリシャや小アジアを経済交易的(海洋貿易)中心の地がティルスである。経済発展の絶好機にエゼキエルは主の言葉を語る使命を受けた。予言者ヨナはアッシリアのニネべ派遣を避けてタルシシへの船に紛れたのを想起するなら、その役がどんなに厳しかったかを想う。時はバビロンによるエルサレム陥落に近い。詩歌での表現はことの厳しさと対照的である。3〜10節はティルスの豪華絢爛うぃ、11〜24節は富と繁栄を、25以下はその壊滅の悲しみが内容となっている。東風(神の裁き)によって海の真ん中に全てが消失する、と。人間のどんな繁栄も神の前に限界を持つことを学ぶ。天変(地震)、地変(雷)、火山、津波は人間生活を破壊尽くすことを、現在私たちの直面するところである。生活(生きる)根拠をどこに置くかを問われる気がする。繁栄や楽しさのただ中にも、人の目には非常とされ見えようとも神の計画は進んでいることの警告である。同時に、神の声かけを想わざるを得ない。主イエスの言葉「だれも、二人の主人に仕えることはできない(マタイ6:24)」は、私たち、主の兄弟として立つべきところを勧めておられる励ましでもある。主に仕えたい。

6月21日 わたしの借り

フィレモンへの手紙  18節〜25節 阪井牧師

  現在の世相からか、「どうしても伝えたい」と高齢者の方が動き始めている。自己体験やそこから受けた思いを語る。ある迫力を感じる。獄中にあるパウロのこの手紙からも、謙虚さの中に力強さが溢れている。上の地位にある人が、地位の下の人に向けてお願いや訴えをする姿がそれである。また、その人を「仲間」と称するところに異常さを覚える。世の仲間と違うのは、7節との関連から「キリストにある愛」が背後に響いていることを意識する。任侠の世界では、自己主張が背後にある「仲間」であろう。主イエスにある「仲間」とは、「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる」であり、「私は良い羊飼いである。私は自分の羊を知っており、羊も私を知っている」とある羊飼い(主イエス)と羊(信じる者)の関係を示すものである。しかも、「友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はない」の言葉に続いて、「わたしはあなた方を友と呼ぶ」と言われている。この関係を、パウロは奴隷オネシモを、その主人フィレモンに送り返す手紙に書いているのを感じる。血を分けた肉親兄弟でも争いが絶えない情況を今日の私たちの生活で度々触れて知っている。感情の崩れは、関係を回復することがとても難しい。キリストにある兄弟または「仲間」は、それを克服できる。それは、神の子キリストがあって、私を兄弟として下さったことにある。世間の常識には理解できることでは無い。ここに信仰の世界がある。そこから真の「あかし」が始まる事を想う。

6月14日 問われる「時」

エゼキエル書 26章1節〜21節 阪井牧師

  当時の世界で、大いに栄える町と自他共に認める交易の町<ティルス>への神の裁きが内容である。地中海沿岸諸国と大陸の各地を結ぶ交易と経済の町ティルスは、生活の豊かさを誇りとしていたであろう。すぐ南の南ユダ王国には東の地(カルデヤ)に脅威となるバビロニアがあった。町(都市国家)が存続するには、国際性に対応する能力が必要であった。バビロンによるエルサレム包囲は、周辺諸国にとって緊急事態であった。特に、経済繁栄のティルスは素早い対応をしたと想像できる。ところが、エゼキエルは、そこに<神の裁き>が下されるとの預言を託されたのだ。その理由は?エルサレムを中心にして周辺諸国(町)は対バビロニアの合議を重ねていた。危機を察知したティルスは、その仲間関係を離れた。聖書から学ぶのは、神を中心にした在り様から、人の経験と知恵を根拠に判断対応をしたことへの裁きである。神は、バビロンの王を<神の道具>。として用いて裁くのだ、と。自分を中心とする判断は、良いとは思えることもあるが、直接影響を受ける現実に懸命に対応するのが人の常である。そこに裁きとして神が預言者を通して裁きを持って臨まれたのだ。<人の思い>と<神の計画>は違うことを学ぶ。神の計画(時)の前に生きる<民>は、人の予定(時)と異なることを改めて受け止める必要がある。主イエスの福音は「時が満ちた」と語り始められた。その「時」は人間のものではない。どう神の時に備えるのか。礼拝を通して、その時を意識する必要を身に着けたい。

6月7日 愛から喜びと慰めが

フィレモンへの手紙  1節〜17節 阪井牧師

 エフェソで監禁されているパウロが、コロサイのフィレモンに宛てた極めて個人的内容の手紙である。しかし、差出人はテモテも名を連ねているし個人的内容ながら複数の人の名と教会が受取人になっている。それは、公共性を持っていることを示している。オネシモというフィレモンの逃亡奴隷を主人に送り返す際に携えるためでありつつ、教会への勧めでもある。社会制度に言及しなくても、信仰の在り方を語ることによって関係を明らかにするのである。「あなたの愛が…」は主イエス・キリストにおいて神の愛を正しく受け取る事から現れてくることを語る。獄中にあるパウロに対して、フィレモンに代わって仕えるオネシモが、キリストの信徒となって新しい歩みを始めている、と証す。奴隷の身分は事実であるが、キリストにあって「兄弟」である。世の秩序を越えた新しい関係が生まれている。この愛の関係は、他から強いられではない。神の愛を受けることから起きる自己自身の決断にかかるべきを示している。〜のため、〜すべきの愛の業ではない。主イエスに自分のすべてを受け止められたその事実が、他者に向かうエネルギー源となっている。この信仰の在り方が、「人を喜ばし」「人を慰め」る事へと至る。パウロは命じる(使徒としての)権威があっても、むしろ謙虚に、「あなたの愛に訴え」てお願いしている。このパウロの姿は教会に連なる私たちにも通じる。主は弱い者を用いて、その業へと委ねて下さっていることを想う。共に祈り、手を携えて歩みましょう。

5月31日 教会への召し

エゼキエル書 25章1節〜17節・ローマの信徒への手紙 12章19節〜21節 阪井牧師

  聖書には読む人・その時の状況によって異なる響きとなる不思議さがある。書かれた文字は全く変わらない。読む側にその原因や理由があることになる。エゼキエル書25章にもそれを思う。本来、預言者はイスラエルに遣わされる。ところが、ここには、その周辺国へ預言が語られている。どういうことか。預言の最後には共通して「わたしが主であることを知る」とある。<アンモン、モアブ、エドム> は、イスラエルと祖先において同族であるとの説明はつくが、ぺりシテは全く違う。地中海からの移住民で、パレスチナの語源とも言われている。しかし、B.C.587年のエルサレム滅亡のおりに周辺国がとった行為が神の裁きの対象だとある.嘲笑い、近隣の不幸に静観、自己保身に翻ったのだ。神がそれに対して裁くことを告げたのだ。パウロの回心記事(言行録9章)で、迫害は教会と信徒になされたのに、主イエスが「なぜ、わたしを迫害するのか」を想起する。イスラエル(神の民)への在り方は、神への在り方となっていることを学ぶ。教会が世に遣わされる<召し>は自らが裁き人となることではない。ローマ12章の記事は、全く異なる召しを知る。「神に任せなさい」。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」は、知識や倫理の事柄を越えていることを示す。十字架の言葉は、世には<愚か>であっても、救いにあずかる私たち(=教会)には、神の力なのだ。このことが、世では力弱くとも、神の働きがその弱さの中に示されることを知る時、喜びに満ちた歩みとなる、と知る。

5月24日 香ばしい香り

フィリピの信徒への手紙 4章10節〜23節 阪井牧師

 自由と平和を考えさせる記事である。その特徴の一つは「形がない」「見えない」ということの課題である。どのように認識し、また伝達をするかが困難なことだからである。誤解や躓きが起こりやすいことはその弱点である。パウロの言葉で、フィリピの人たちの「心遣い」がある。パウロ自身は拘束された「不自由」の身であり、その「心遣い」を喜んでいる。けれども、その喜びは「もの」の背後にある「心」を受け取っての言葉と受け取る。形に表れる「見えないもの」を真実にすることは容易ではない。「あかし」はそれに該当するように思う。<信仰のあかし>としての会堂建設がある。ただの建物ではないのだ。心に残るパウロの言葉(口語約聖書4:12))を想起して、改めて私たちの場合を考えたい。「私は貧に処する道を知っており、冨におる道も知っている。私は飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘訣を心得ている。」は、<もの>を越えた世界のあることを語っている。ここに自由があることを学ぶ。自分の生活の根拠は、見えるものではなく、「主が共におられ、主と共にいる」ことの見えない事実を示している。現実の形として、フィリピの人たちからの見える「贈りもの」を喜び受取りながら、なお、それに捉われない、それを越えた生き方に生活の支えと希望を持つことの<あかし>をしている。福音を伝えることには、どのような制限をも受けることのない姿勢を知る。そこに懸命に立ち続ける<香ばしい香り>にしていただきたい。

5月17日 選ばれた石!

エゼキエル書 24章1節〜27節 阪井牧師

 安全保障関連法案閣議決定の2015.5.15は記憶すべき日との言葉を聞いた。この24章は記憶すべき日の記述から始まる。バビロンがエルサレム攻城を始めた日である。バビロンから自立しようとする南ユダの背景がある。平和と安定の象徴が、残酷と悲惨のそれになっている。<和やかな鍋と団らん>が正反対なのだ。下はあぶる火、鍋にはエルサレムの人々。もはや、鍋は手の施しようがない状況・錆びで変質している、と。溶かして新しく造り変える他ない、と神のみこころを預言者エゼキエルは伝える。知らされる人も厳しいが、語らねばならない預言者も辛い。神を神とするよりも、その場を凌ぐ対応が先になったことへの神の怒りである。後半(15節以下)は預言者の妻の死が扱われている。喪に服す生活習慣を禁じられたエゼキエルは、主に従った。人々はその様子に、奇異そのものを感じて、学ぶべき意味するところを尋ねた。神に従う預言者の厳しさを想うと同時に、信仰に生きようとする私たちへの語りかけを想う。人を振り向かせるためでなかったはず。どれほど激しい葛藤をもったことか。「形だけ」と世に倣う」私たちを思う。いつの間にか本質の存在が薄らいでいくのを知っている。儀式とはそのようなものでもある。「主は言われた」とのエゼキエルの言葉がどんなに厳しい闘いの結果であったろう。キリストの身体である教会を構成する信仰者は、どのような生活の現実に向き合っているか。世が捨てた石を神が選び礎とする存在である自分を思う。

5月10日 主はすぐ近くに!

フィリピの信徒への手紙 4章2節〜9節 阪井牧師

 同じ内容でも、語る人が経験者か非経験者かによって聞き方も違う。理屈は理解できても「納得」という面では別なのだ。著者パウロが、すでに晩年に近い頃の手紙を学ぶ時、この見方が重くなる。若き日には教会の迫害者だったパウロは、国外にまで迫害の息を弾ませ、その途上で主イエスから声かけられて回心した(言行録9,22,26章)。また、先輩ペトロを公然と批判し、友バルナバと激論して第2回目の伝道旅行では別行動をする激しさを持った。人を惹きつけもし、また躓かせ、嫌悪や誤解を受けたパウロが、今は獄中にいる。そこから、フィリピの教会に向けて書く手紙で、「主において」とあるのはそれなりの覚悟を持った内容となる。2人の女性がパウロの伝道活動にどれほど協力的であったか。その実力を認めるも、今は教会内でその力が十分に発揮されていないことを気にかけて勧めている。本人へはもちろん、またその周辺者へ語りかけに「主において」は世の常と異なる希望を示される。加えて、「喜べ」も同様に「主において」と言う。それは、口先ではなく、自分の経験から語っているとするなら、どのような状況でも喜べることを示す。それはなにか。キリストに結ばれている事実であり、キリストと共に生きるところに根拠があると受け取る。どのように厳しい状況であっても、これを妨げるものはない、との確信に満ちている。Uコリント5:17パウロの言葉は、主が本当に近くにおられ、尊い使命(務め)を担うことへと招かれていることを示しているように思う。

5月3日 論理の逆転ー十字架

エゼキエル書 23章1節〜49節 阪井牧師

  「主の祈り」と同様に律法の中心になる「モーセの十戒」も前半・後半は、<神と人とに関すること>と<人と人とに関すること>からなっている。何気ないが、この順序・秩序は非常に重い。神との関係を越える人間の関係は罪を生み出す。神の怒りはそこにある。十戒の第2は、「偶像礼拝の禁止」を内容にしている。そこには、「…あなたの神、主であるわたしは、<ねたむ>神であるから…」と書かれている。神とイスラエルの関係を男女であらわす聖書は、<ねたむ>が特別の意味を持つことを想う。平たく言えば、<やきもち>である。神がその民に<やきもち>の心を持って望んでおられる。自分の存在を委ねるゆえの言葉である。イスラエルの置かれた状況は、国際政治や外交問題を抱えていた。国家の存立問題でもあった。だから、いかに立ち回るかは指導者にとって必死の課題であった。ところが、イスラエルは、神との関係にその存在理由があった筈。なのに、神以外のところに心を向けて自らの存続を願うなら、正しい神との関係が損なわれた状態に陥ることになる。一時的な急場逃れはできても、長くは続かないことをすでに北イスラエルを見て知るところであるのに、アッシリア、バビロニア、そしてエジプトと列強国との関係を神に優先したイスラエルを、神はエゼキエルを用いて示された。私どもは、主イエスによってその関係回復を神の側から与えられている。裁きは主イエスにおいて<贖い>の十字架という逆転の論理がそこにある。憲法記念の日を心に留めたい。    

4月26日 生の基盤は?

フィリピの信徒への手紙 3章12節〜4章1節 阪井牧師

  「言葉のひとり歩き」に喜憂する。言葉の発信者の生活が大きい意味を持つものと思う。Tコリント13の愛の賛歌にある「…幼子だった時〜話し、〜思い、〜考えた。成人した今、幼子のことを捨てた…」は、主イエス・キリストとの関係を基準にした言葉と想う。かつては価値あると判断したものが、今それを失っている。対象が変化したのでなく、自分が変化していることを認めているのだ。目指すところは自分の変化、<キリストとの出会い>原点ではなく、さらに主と共に先へと歩みを進めることだとパウロは語る。目標と方向を意識した言葉は、キリストに捉えられた私たちにも適応できる。手を抜くこと、自分の都合や経験を優先する知恵が働く時、主の道から反れることを生じさせる。神に召された教会の中といえども、自分に合わないこと、思い通りにならないことに出くわしたりする。当然だが、そこでなお前に進むためには人の性質や訓練に依るのではなく、信仰が自分の内に働くように祈るべきを知る。神が肯定されたものに私は遣わされ、用いられている。人生の体験を積めば、それだけ自己主張や自己肯定が力をもって自分を動かそうとする。神のみこころを素直に喜ぶことは容易ではない。まだ順調なら御心を喜ぶことができる。その逆、亀裂や辛苦の中では素直さが影を潜める。そこでパウロは「私に倣う者になりなさい」と勧める。ガリラヤの海へ船を漕ぎ出した時、その中に主イエスが折られた記事を想う。主イエスと共に歩む事実を体験したい。

4月19日 破れ口に立つ者

エゼキエル書 22章1節〜11節 阪井牧師

  「いのち」は人の手で作ることができるか。生命科学はそこに手を届かす勢いである。ただ、科学の進歩がどれほど進んでも、生きる意味や尊厳には手が出せないであろう。神の手にあるものとの信仰が聖書は示している。人のいのちは神との関係にあり、存在がかかっているとの信仰である。<自分のもの>、<数あるもの>なら粗末にすることもある。だが、自分のいのちは、そうではない。聖書は「神の愛」が私の存在を肯定しておられるという。しかも、御子イエス・キリストがその保証となっておられるとしたら、生きる義務、使命がある。教会がこの世に向かって果たす務めは、このことを伝えることだ。十字架の深さは、人間の陥る深さを超えている。そこから、すべての人を支え続けておられるのだ。「御子のいのち」に代わるものがある筈はない。ところが、人は例え神の民イスラエルであっても、危急には神のみ手・愛よりも人の手や人の知恵を優先させようとして、預言者エゼキエルを通して間違いを正す言葉を与えられた。神の言葉はそのまま現実をもたらす <恐ろしさ>がある。純粋を求める神に対して、人の知恵や業は<金滓>に過ぎないことを示す。企業や社会の<倫理>もその根底には、神との関係から語られる必要がある。「神を神とする」ことこそが「人を人とする」ことになるからである。今、私どもの現実は、この関係を無視して真実を求めようとする。人が人となり得ない破れ口にある。神の言葉に生かされる私どもの使命は、自ずと神に頼るところにある。

4月12日 主を知る価値ゆえ

フィリピの信徒への手紙 3章1節〜11節 阪井牧師

 厳しい状況下にある者(パウロ)がそうでない者へ(フィリピの信仰者たち)に向かって「喜べ」の言葉は、些か奇妙である。ただ、その言葉には「主にあって」が付いている。それは、特別の意味<生きる>が含まれていることを学ぶ。この<生きる>を妨げるものを「犬ども」、「よこしまな働き手」、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者」とし、警戒警告となっている。つまり、「主であるキリスト」を曇らせ、不確かなものにさせるものと見る。あるいは、<生きる>私どもの前に本来あるべきキリストに代って、他の何かを置くことを意味している。パウロは、それを「肉を頼みとする」との表現で語る。今もなお、人々が求めて止まない「価値あるもの」を持つ自分を紹介し、それらが「キリストを知る価値」のゆえに今や<損>だと言い切る。「肉を頼みとする」自分を主張できる一切が、マイナスなのだと。主から得られるただ一つのものだけが「無くてならぬもの」だと言う。これが信仰の真実である。ルカ10;38以下にある「マルタとマリア」の記事を想起する。懸命に主イエスをもてなす準備中の姉と主の傍らに座って話しに耳を傾け続ける妹の記事である。そこで、イエスは言われた「無くてならぬものは多くはない。ただ一つである」の言葉は重い。主の言葉を聞くことこそが、主と共に<生きる>者には価値があると示されたのだ。自分がキリストを認めて、そこに自分を懸けるのではない。キリストによって、自分が神に受け容れられていることこそが<ただ一つのもの>と知らされる。

4月5日 目を上げてみる

マルコによる福音書 16章1節〜8節 阪井牧師

 祝イースター。クリスマスやバレンタイン、ハローウィンが多くの人に受け入れられ、キリスト教の最も重要な主イエスの出来事イースターは行き渡らない。どう受け取るべきか。アテネでパウロの<アレオパゴスの説教>の結び、復活の話になったら「その話はまた…」と言って人々はそこを離れて行った。マルコ16:8が本書本来の結びだと言われる。いくら単純簡潔な表現の書とはいえあまりにもあっけない感がする。しかも、「主イエスの墓から逃げ去った。恐ろしかったからである」とは。しかし、それは復活の事実をよりよく証明していることにもなる。発言力・地位や知恵ある男でなく、人格存在にすら認知されない婦人たちの姿だからこそである。最も近くにいた弟子たちは十字架の現場にも墓への葬りの場所にも姿はない。香油を遺体に塗るために墓を目指す道中の彼女たちの心を占めていたのは墓を塞ぐ岩(壁)であった。難問・苦境の壁を前にした現代の私たちと同じ壁でもある。そこで、聖書は「彼らが目を上げてみると墓の石が取りのけて」と新しい展開を語っている。目先や足下だけに気を取られているとき、目を上げて(主を)みる必要を示される。予期しない新しい展開がそこに与えられる。神の出来事(主イエスの甦りの現実)を経験するのだ。それは、非常に大きな喜びであるが(人知を超えている)恐ろしさがあった。だからこそ、神の出来事に触れる者の真実を観るのだ。キリストの証人としての召しを共に担い行きたい。先達にならって。

3月29日 主からの声掛け

エゼキエル書 21章1節〜37節 阪井牧師

   受難週である。エゼキエルの託された預言は主イエスの足跡に似ている。神の都、聖なる神殿が異教の民に支配され、エルサレムが滅亡するとの託宣は余りにも厳しすぎる。加えて、それが主なる神のみこころだとは。周囲の民すら不思議に思う。「神の民が神に滅ぼされるとは!」と。当のユダヤの人々は、主から「腰砕けの状態に陥る」ほどに裁き(鞘から剣を抜いた)ていると聞かされるのだ。バビロニアの圧壁に対して知恵と手を尽くして免れようとの歴史背景がある。バビロニアの力は、主なる神の道具として用いられているのだが、イスラエルはそれを本気にできない。神の民である約束こ神が反するはずはないと思い込んでいるからだ。実は、イスラエルが神の名を汚している現実に気付いていない。人間の力や知恵が神の前に決定的で且つ安定となるものである筈がない。イスラエルが神の民であるとの約束は、神を神としてみこころに従うところに成り立っているのだ。最も重要なことは、イスラエルと神との関係であって、周囲との比較の事柄によるのではない。主イエスの十字架への歩み(受難)の事柄を私たちはどのように受けとめていくのか、が今の私たちの受難週の意味となろう。主イエスにおいて語りかけておられるみ言葉を、聖書を静まり聞く時であろうと想う。主なる神はどのように語りかけておられ、何をこの自分に求められているのかに心を注ぎ聞きたい。この度はマルコ福音書を通して静かに聞き耳を立てたく願うのです。

3月22日 共に仕えて!

フィリピの信徒への手紙 2章19節〜30節 阪井牧師

 状況を想像し易い記事である。また、アジアからヨーロッパへ福音宣教の展開が伝えられる教会の歴史的な記事でもある。マケドニアでの宣教ゆえの投獄さえ、<福音の前進>として喜ぶよう語りかけたパウロは、監禁生活の中からフィリピの人たちに手紙を書いている。同労者テモテ派遣とエパフロディト帰還を内容としている。テモテは既によく知られており、エパフロディトはフィリピからの使者で、パウロには兄弟、協力者、戦友、奉仕者とも紹介する。テモテ派遣で、「主イエスによって」希望するとの言葉は重要に思う。パウロの意志よりも、「主イエス」に託されている事だからだ。フィリピ訪問は、テモテの信仰の決断に依ることを想う。主イエスに仕える信仰的応答の働きとして語られている。主イエスに委ねることの恵みがいかに大きいかを知る者の行為としている。信仰による自己制御(セルフコントロール)が自然になされることを想う。決して容易な事ではない。今日の課題「できてもしない」力の源が、その信仰にあると考える。<律法による訓練>では到達し得ない壁を「主イエスによって」なし得ることを示すと受け取る。罪赦された(救われた)者は、主イエス・キリストへの献身と(内なる想いと)の闘いをする。そこに神の栄光が現わされる。他者への配慮、親身は神に向かい、神との関係に土台を置くことを示す。自分の傍にそっと居てくれるだけでも励ましや慰めになる感謝をエパフロディトに抱いくフィリピの「主に結ばれている」人への喜びを倣いたい。

3月15日 主は生きている!

エゼキエル書 20章1節〜44節 阪井牧師

 価値観が大きく変わる時代の中にいる。組織が先か、一人の人間性が先かを問う時代であろう。この箇所に関係しているように想う。神の民の存在意味が課題となっている。置かれた状況に対応して生き続ける策を求めるイスラエルの長老たちは、エゼキエルの前に来た。その時主からエゼキエルは「わたしは生きている。答えない」の言葉を語るように命じられた。<主の御心を問うため>の説明から、自分たちに都合の良い言葉は受けるが、不都合な言葉は不要とする姿勢が想像できる。目前の危機への洞察は正しくても、それへの答えは彼らに既にあることを想う。答えるべき答えがないのではないか。彼らの歩んできた歴史は、この事の繰り返しであったことを、ここに記している。エジプトにあって、出エジプトの荒れ野にあって、神の民である故に滅びを免れた。それは、彼らの神、主の名が汚れないためであった。「私があなた方の神、主である」の言葉は重い。理解や心得として「神でないものを神とする」ことは正しくないと知っている。頭と生活とは一体なのか、の問いをこの聖書から受ける。主イエス・キリストを信じることが本当に自分の生きる根拠となっているか。周囲との関係の円満が、教会はキリストの身体であり、その主キリストが求める<私はあなたと生きている>よりも優先していないかを問われるのである。パウロがキリスト者や教会を迫害したとき、「なぜわたしを迫害するのか」と問われた主イエスが、この私の中に生きておられることを喜びたい。

3月8日 内への働きかけ

フィリピの信徒への手紙 2章12節〜18節 阪井牧師

 「福音の前進」が前章のテーマであった。2章は「従順」がテーマになっている。一般に従順には2つの意味がある。@は順序正しく、Aは逆らわないで素直となっている。それでも、団体や企業の求めと個人の意志の間に齟齬が生じる。判断の基準が違うから考える。さらに、個人の内でも戸惑いを覚える。A.A.ベンネット(1884年バプテスト神学校初代校長)はモットーに「最も身近にある義務を果たせ。二つの選択に迷ったら、概ねなすべき義務は、自分の意向に反する側にある」を心に持っていたという。何に対して従順かを明確にする必要がある。<主イエスは、十字架の死に至るまで従順であられた>とは、父なる神の御心に従順であったことを示す。パウロがフィリピの人たちに勧めるのは、主イエスがそうであるように、あなた方もキリストに倣う者となって、パウロと共にいた時と変わらず、神のいのちに与る者としての歩みを語るのである。み言葉に聞き従う信仰生活への勧めである。それは個人的な宗教心・敬虔さのことではない。キリストにある救いの恵に心から従う真実、それは「恐れとおののき」をもってである。人の前提があって神の恵みとの順ではなく、逆である。ここに「従順」がある。その際、自分の主張や言い分を孕む「不平やつぶやき」はない。ましてや条件となる「理屈」は不要である。主イエスにお会いするまでは自分を主張することを良しとした。今は、キリストの身体を構成する部分である。そこに神の輝き(世の光)の源があるのだ。

3月1日 主の目的には使命が

エゼキエル書 9章1節〜14節 阪井牧師

  70年がかまびすしい。聖書の場合はどうだろう。基点を創世記としている。つまり神との関係を見ている。歴史の事実は変わらない。変わるのはその見方だと言う人がある。19章は17章に続いて譬え2つを用いてイスラエルの歴史を語っている。1つは、野獣の「獅子」ライオンである。大切に育てられ、獲物を取ることを覚え、人に危害を加えるほどになった。変わりの獅子を育てたら、また同じようになったため捕らえられた話。もう1つは、水の豊かな地に植えられた実りを結ぶ「ぶどうの木」の話である。その枝は多く、高く際立って見えた。怒りによって抜かれ、実や枝は投げ捨てられ、木は乾いた水なき地へ移し植えられた話である。小さい見出しには<悲しみの歌>とある。これらの譬には、祝福の恵による成長であるのに、自分の力量と勘違いしてその繁栄を自分のものとしていることへの戒めである。神の前に己を低くする時、どのような厳しい現実であろうとも、そのところに神のみこころを問うことから事の処理をすることになろう。神の民であるイスラエルであるのに、神のみこころを問うことをしないで自分の知恵と力量で対処をしていたことの誤りを示している。主が召し用いられる存在が、そのみこころを離れては存在そのものが失われる。主の御手に私どもの存在価値があるのだ。このような取るに足りない者を用いて主の栄光を現される恵みにあずかるのだ。「祝福の源」、「人を漁るもの」へ、そして私の目的を聖書から受け止められるに願う。

2月22日 平和の世界へ

フィリピの信徒への手紙 2章1節〜11節 阪井牧師

 報道を通じて「平和」ということに人々は関心を呼びかけられている。旧約聖書の言葉(口語訳箴言6:32)に「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」とある。平和の課題は相手ではなく、自分だと。さらに、イザヤ書(新共同訳9章)には<暗闇の光>として誕生した方は<平和の君>との預言がある。いうまでもなくイエス・キリストを指している。本当の平和は、キリストにあることを示している。パウロはフィリピの教会の人たちに「キリストの福音にふさわしく生活する」ことを勧めた。それは徹底してキリストと共に歩むことでもある。強いらるのでなく、キリストを信じるから<恵み>として同じ歩みができるのだ、と語っている。教会にはいろいろな生活環境の人が集まる。どうして<思いを一つに>できるか。自分を主張することの制御は、自分が<罪赦された者とされた>恵においてのみ可能となる。キリストの身体である教会の本質が失われるなら、世の人々の集まりと変わらなくなるのは当然である。平和の根拠がこの信仰にかかっていることを具体例をあげて示す。「へりくだり」「相手を自分より優れた者」として受け止めるようにと。「格好」は相手の心の傍に自分の心を動かすことで、そのためには鍛錬を必要とする、とある人は言う。自分で自分を制することは難しい。キリストに徹することがそれを可能にすることを学ぶ。キリストの愛は十字架を引き受けることに示された。主の愛に私はとらえられている。

2月15日 主のものなる「いのち」

エゼキエル書 18章1節〜32節 阪井牧師

 バビロニアによる支配は、エルサレムから要人を捕囚(強制移住)にする形で現れた。この結果を神の民イスラエルはどう受け止めただろうか。先祖の犯した罪を子や子孫が引き受ける、因果応報の考えがあったようだ(2節)。私たちの発想にもある。しかし、主は預言者エゼキエルを通して「私は生きている」との宣言と共に語られた。主なる神が人を創られた(聖書の信仰)のだから、人の都合や思いで神の意志に入り込むことを許さないことを意味している。ヨハネの9章(3節)にある、主イエスの言葉からも言える。敢えて言えば、<人の理>ではなく、<神の理>で現実を見ることを示している。だから説明で解を得るわけにはいかない。確かなことは、神が<わたし>において働いておられることだ。関係の中に生活する私どもであるが、どんな事情や現実にあっても、わたしは神の前に、<主イエスとともにいる>という事実は決して変わらない。この事実が意識から薄らぐなら、人(世)の知恵で対処せざるを得ない。自分の<いのち>をさえ、親と子、先祖と子孫の関係に生きるしかない。「生きる」とか「死ぬ」は、神を中心とした共同体との祭儀的関係用語だと説明がある。一人の存在として神は、主イエスにおいて向き合っておられることを見る。過去がどうであれ、今神との関係に生きる(主に立ち返る)ことが大事なのに、生活(世)の知恵に拘り続けることへの警告を受ける。恵を受けるのに、自分の側の理由は有効ではない。悔い改めて、立ち返ることへと招かれているのだ。

2月8日 主イエスに結ばれ

フィリピの信徒への手紙 1章27節〜30節 阪井牧師

 2月はバプテストの宣教を記念する特別の時である。2組の宣教師が横浜に上陸した時と重なる。長年、鎖国を続けてきた日本はキリスト教に無知であった。命を宣教に懸けての海外宣教であったはず。今日の教会はその信仰と献身に立っている。先日、R.V.ワイツゼッカー元独大統領が亡くなった。1985年の連邦議会で行った演説で「5月8日は記憶の日である。…」と語った。有名な演説だ。「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」と。パウロはフィリピの教会に「ひたすら、キリストの福音に相応しい生活」を勧めた。教会の人たちにとって「キリストの福音」とは、あの主イエス・キリストの十字架とその甦りである。生活は「小間切れではない」。つまり、どんな時にも主イエス・キリストと共に歩むこと、主イエス・キリストがどのように求められるか、を意識することである。従って、私どもの生活は戦いとなる。しかも、教会が教会であるのは、キリストにおいて一つにされているのであるから、戦いは2重の厳しいものとなる。特に、バプテストが会衆政治(すべての信徒は平等)であるから、一人の個人がキリストとの関係で教会を形成することは、人間だけの力ではできない。キリストと共にあることが喜びである信仰は与えられることにある。聖書の言葉を通して、聖霊が働くところに<キリストと共に>の根拠が生きる。目先の激しい変化の中に、「ひたすら、キリストの福音にふさわしく生活する」ことの勧めをしっかり受けとめたいと願う。  

2月1日 問答ー人間の営み

エゼキエル書 17章1節〜24節 阪井牧師

 「たとえ」話は単純であってもその意味するものは深い場合がある。主イエスは神の国の説明を譬えで話された。よく知るところだ。この箇所は譬部分(1〜10節)と説明部分(12〜21節)、最後(22〜24節)はメシア預言の構成になっている。2羽の鷲とは、バビロンのネブカデレツァル王とエジプト王ファラオのことである。そして、レバノン杉(かつては香柏と訳した)はダビデの系列のこと。列強大国の谷間に弱々しく存在している「ぶどうの木」がユダ王国イスラエルを指す。ぶどうの木は地下水と乾燥した気候に育つ性質をもつ。根は水を求めて地中を這い進む。枝は日差しを求めて伸びる。その蔓(ツル)は枝を支えるために掴まるものを求め続ける。その姿は、ユダ王国の末期症状を示している。ユダ王ゼデキヤはバビロン王に忠誠を神の名によって誓った。しかし、バビロンから自立・独立による自由の獲得を求めて、エジプトに媚びを売らざるを得ない。けれども、神の名による誓いをないがしろにするゆえに神の裁きを逃れることは許されない。これが問答(人の営み)としての語りかけである。預言の結論は、「主が言われる『わたしは生きている』」である。神は神であって、人の都合に神の名を用いることがあってはならないのだ。元来、神の民は契約の恵みであった。民は契約に誠実でなければならない。この契約は、今、新しく希望としてメシアを与えるとの預言が語られるのだ。私どもに、主から与えられる恵みを誇り、希望に歩むよう求められる。  

1月25日 生きるとはキリスト

フィリピの信徒への手紙 1章15節〜26節 阪井牧師

 先般、ノーベル物理学賞を受けた中村修二氏が、研究のモチベーションは「怒り」だと発言した。印象深い言葉だ。獄中のパウロは、自分の状況に心憂う教会に、「福音の前進に役立つ」ことを知って欲しいと語り、励ます。さらに、教会の中に生じている課題、「不純な動機の者」と「愛の動機」からの者たちが教会を混乱させているのを知り、「怒り」ではなく、「キリストが告げ知らされているから喜んでいる」との意外な言葉を手紙にした。<教会はキリストにおいて一つにされている群れ>の本質に立っていることに気付かされる。「怒り」は情の領域にある。パウロはどこまでも信仰の本質に立って教会に語りかける。「口実であれ、真実であれ」、「キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」と。投獄という世の不面目や宣教に不利な状況を「福音の前進」から捉え直した言葉である。むしろ、そこには希望をさえその現実に対して見ている。信仰に生きるパウロの意志が、世の視点から受ける感情を越えているのだ。これは、教会がキリストから目を反らす時、当然、別のものに目が注がれることを見抜いている。つまり、教会の外にある群れ(人の集まり)と同じ現象に至る。パウロは、教会が前進すべきは、<ただキリストの福音を告げ知らせること>にあることを示す。そこで、21節の言葉「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」が、心に響いてくるのだと受け取る。主をあがめることが力となるのだ。

1月18日 『生きよ!』の声

エゼキエル書 1章15節〜63節 阪井牧師

 聖書の主張「生きる」ということが、この記事にも<神の求め>として示されている。創世記1章は、神が人を創り、「生きるものにした」とある。ヨハネ福音書は、「初めに言があった。…この言のうちに命があった」、とある。私という<1人の人間>が、神の意志によって「生まれ」「生きている」ことを信仰によって語る。それは、神との関係に「生きる」ことを意味している。神から離れる在り方の特別表現は背信、姦淫である。今日、この言葉が重みを失っているように思う。倫理は時代の変化に影響を受ける証しでもある。紀元前のイスラエルは、歴史の流れに存続することが最大課題であったと想像するなら、周辺国(勢力)との調整が必然であったろう。ところが、聖書の主張は、神に根拠を置いた視点を貫いているために、時代の流れに懸命な対応であっても<裁き=審判>の対象になる。神の民イスラエルに容赦ない判断が語られている。預言者エゼキエルは、都エルサレムを人格化した「たとえ」で背信や姦淫の言葉を使って主の言葉を伝える。主なる神の裁きは、滅ぼすことにあるのではなく、「生きよ!」との強い神の意志が働いている。「私が主であることを知る」ことが求めで在り、願いで在る。情念や感情から契約に向き合うのではなく、主なる神と結んだ永遠の契約であることを想起するようにと求められている。教会での結婚が、神の前で行われる理由に重なる。教会は、その証人として世に向かって働きかけ続ける使命を負っているのだ。「私が主である」が命となる。

1月11日 キリストのために

フィリピの信徒への手紙 1章12節〜30節 阪井牧師

 エーゲ海のイメージを2000年前に遡らせるとどうだろう。小アジアとヨーロッパの間にある海は、リゾートではなく、違う世界の境界であったはず。主イエスの出来事を伝えるために、パウロはそれを越え渡った。隣家や隣町でも、単なる国外でもない。まさに違う世界へ出掛けた。そこにフィリピの町があり、福音を伝えた。信じる人々(聖なる者、兄弟たち)が群れ(教会)となった。彼らへの「祈り」に続き、自分の近況報告をこにしている。「私の身に起こったこと」とは、投獄、監禁を指す。それが「福音の前進に役立っている」と「知って欲しい」と。どういうことか。停滞や後退なら考えられる。信仰の見方がここにあるようだ。「投獄」は、「キリストの福音を伝えた故」であることが、兵営のみんなに、また多くの人々に知られたからだ、と語る。世人にはマイナスに見えることなのにである。病気には<罪ある人>だから罹るとの発想を覆している。「投獄」は、世の歪みや為政者の持つ課題が明らかになるからで、福音の真実が問いとなって迫っている、と見ている。具体的に、福音がより力強く働いている証明と見ている。置かれた状況に、自分の限界を感じたなら自暴自棄になるのが常であろう。ところが、主に目を向けて、主がここに働いておられるとする見方や歩み方は、他の人に影響を与えずにはおかない、との確信を見る。教会の人々の心配をよそに、主が働いて道を進まされている、と知るように語る。縮んだ足を伸ばして委ね歩むことの喜びを共に味わいたい。

1月4日 派遣のささえ

使徒言行録 13章1節〜12節 阪井牧師

 現在、教会と教師の数がバランスを崩している。ましてや、説教・礼典・牧会が充分にできる教師は得がたくなっている。教師を送り出す責任を神学校に向けることもできる。しかし、神学校は教会が送り出した献身者を育て訓練する機関である。献身者を起こすのは、神学校ではない。教会である。従って、教会の教師不足の責任は、教会にある。先ず、教会の全てのはじまりが礼拝から、讃美と祈りとみ言葉を聞くこと、そしてパンを裂く交わりを学ぶ。この基本を失う教会は真の福音に立つ教会ではなくなる。礼拝によって生きるからだ。本人の決断もあるが、礼拝の中で神の求めを聞くことから始まる。その応答が教育、医療、事業などに展開されているのだ。そこでも、礼拝がなされる理由は、召しに応えようとするために霊の力を受けるためである。同時に、それが個人の信仰と片付けられないことを知らされる。派遣には、祝福(神がその人に働く)を祈ると共に、その責任を引き受けることを「断食をして祈る」記事にみる。教会での結婚式は、式を行うだけでない。その責任を教会が本人たちと共に負っていくことを意味するのと同様である。共同生活において綻びや障害に遭遇する時、人間の知恵では真の解決にならない。真の解決への知恵は神の祝福を祈ったと同じ、神の前に出ることにおいて受けるべきと言える。共に神の前に出るために、教会はいつもその責任を共に担う覚悟をするように用いられるのだ。 送り出し(派遣)が全てではない。主の御手に委ね祈るのだ。

元旦礼拝  『言葉の中の言葉』

 「主のあかしを守り、心をつくして主を尋ね求める者たちはさいわいです。」 (詩編119:2)

第1の祝福(「主のおきてに歩む者はさいわいである(1節)」)のあとに第2の祝福が続く。「主のあかし」とは、主を尋ね求めて歩む者たちがその途上で迷わないようにと、神が定めた警告のしるしである。バビロニアの捕囚において初めてこの言葉は使われるようになった。この刑罰と懺悔の時代に、人々は、<神の民の道は試練を受けなければならないが、その試練に耐えなければならない>ということと、<主なる神を忘れるなという警告のために律法が与えられた>ということを確認したのである(ネヘミヤ9:34)。今やわれわれは契約の箱を「警告の箱」(出エジプト25:22)、十戒を「警告の板」(出エジプト31:18)、聖所を「警告の天幕」(民数記9:15)、あるいは「警告の住居」(出エジプト38:2)と呼ぶことができる。このことによって明らかになることは、それらのものすべてが、それら自体の中に究極の意味を持つのではないということである。それらはただ神を忘れるなという警告のために、神ひとりを証しするためにあるのである。したがって、十戒や、契約の箱や、幕屋においてただ神ひとりだけを見いだし、拝する者こそが、それらの持つ本当の意味を知るのだと言える。ところで、神がそのような警告を神の道を歩む民に与えたのは、彼らが試練のただ中で「神がついにあなたをさいわいにする」(申命記8:16)ということを明らかにするためである。戒めが日々われわれに思い起こさせる主こそ、戒めがわれわれに証しする主こそが、われわれの神なのである。したがって、戒めを外面的に行なうことは十分ではあり得ない。戒めを行う際に、口先や手だけではなく、分裂していない完全な心がともなっていなければならない。そして戒めにおいて証しされている方が、絶えず尋ね求められなければならない。  戒めにおいて、礼拝において、祈りにおいて、われわれの心は、これらをすべて与えた方を尋ね求める。したがって心は何もせずに満足しているわけでなく、むしろ絶え間なく神とその啓示を求めるのである。多くの言葉の中に真の言葉を、律法の中に福音を求めるのである。このように神野あかしを守る者、心をつくして神を尋ね求める者こそが幸いな者なのである。なぜなら、<どこで尋ね求めるべきであるか>、<誰を発見するべきか>ということが、すでに彼に示されているからである。<求めなければ見いだされる>ということがすでに彼に約束されているからである。  ― ボンヘッファー1日1章 ― 村椿 嘉信訳 より引用
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新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
       (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988


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