日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月25日 神が人になった

ルカによる福音書 1章39節〜56節 阪井牧師

 キリストと礼拝が結合した言葉が「クリスマス」である。25日は教会会議が光を根拠に制定した(325年)。ゴスペルフォークは「世界ではじめのクリスマス(プリント)」と歌っている。1章は<ヨハネ誕生の予告>に続いて<イエス誕生の告知>。続く今日の箇所は「エリサベツ賛歌とマリア賛歌」である。母となる二人の女性が会う話、それは両胎児が会うことにもなっている。エリサベトは高齢でも、喜び溢れる懐胎、マリアは婚約中の驚きと恐れの懐胎であった。それでも、両者は主をほめたたえている。しかし、ここに不整合がある。イエス誕生の記事もダビデの家系と聖霊による誕生の場面にもある。ローマ1:3〜4は、それを整理している。初期キリスト教の伝承を受けている、との説明をみる。いずれにしても、徹底した神の言葉に従う姿を描いている。教会の姿を想う。マリアの場合は、イエスのゲッセマネの祈りに重なる。「お言葉通りこの身になりますように」は、自分の主張や都合を退けて、イエスの「みこころのままに」と同じである。母性への評ではなく、神のことばに自分を委ねるかどうか、の重要さがここにある。神の言葉への集中は、讃美と<人が神になる>への強い抵抗(賛歌前半ー権威による誤り)となり、人が人であることに留まらせ、信仰告白へ導くことになる。「神が人になる」は、実に神の憐れみ、罪の赦しの恵みである。十字架のイエスを仰ぎながら「本当にこの人は正しい人」と百人隊長の言葉(ルカ23:47)を想起する。神の言なるイエスの誕生を真に喜ぶ。

12月18日 祈りの性格

テサロニケの信徒への手紙U 3章1節〜5節 阪井牧師

 すぎたるクリスマス電飾に疑問を抱く。サンタさんの格好で子どもの興味に応える様子も。確かにクリスマスが身近かになったかも知れない。世界教会会議で12/25(冬至)を意識して「世の光」、つまり「キリストの到来」を祝うことになった。<闇に対する光>である。中東を代表する闇の世界が今も現実にある。いま、この日だけを生きている。この地には、風光明媚で、心そそるエーゲ海がある。そこは、アジアとヨーロッパを分ける地点でもある。テサロニケはヨーロッパ側にあるマケドニア地方の都市である。異邦人伝道の召しを受けて旅していたパウロ・シラス・テモテはその予定を変えて海を渡った。自分たちの意図でなく、主の求めであったとある。同じ場所に長くとどまれない状況がその召しでもあったのか。難しいことを語るのでもなく、不思議な力を示することで人の関心を集めるのでもない。ひたすらイエスがキリスト(メシア)である、福音(=主の言葉)を語ったのだ。そこに、教会が生まれている。福音を伝える妨げを後ろに負いながら、伝道が勧められた。その働きへの願いが、「祈ってください」である。指導的立場の者からの求めに<変>を感じる。支援ではなく、み言を語り伝える使命を担うことである。つまる、伝道はその人の<力量や人間性>によって勧められるものではにのだ。世の評価が伝道を有利に展開するとすれば、人の力が評価となる。主に召され、仕えるのであれば、神の前に出る、共に用いられることへの祈りである。祈りの求めに共に応えたい。

12月11日 用意すること

ルカによる福音書 3章1節〜9節 阪井牧師

 新約聖書の中に旧約聖書が入り込んできている箇所と言える。主人公は主イエスである。脇役のヨセフが登場して主役の先触れをし、ユダヤ人に語りかけている。主人公が登場するとすぐに退去するのに、なぜ脇役を登場させているのか。神の創造の業の7日目は、安息日、聖別された日は厳守していた。また、その頑なさは、徹底していた(出エジプト33:3)。そこに登場したのが預言者である。頑なさをほぐすためとも言える。場面は人の日常が困難な荒れ野である。政治的宗教的指導者の背景は、荒れ野に譬えられる。人を苦しめ、生きることへの妨げを初めから考えた筈はない。しかし、現実は荒れ野の時代があるのは、今日に通じる。叫ぶ声はイザヤ預言の引用である。それは事実の追求でなく、悔い改め、罪の赦しを得させるためである。それは、人の努力や性質のことではない。つまり、自分の内的欲求から生まれるものではない。自分を死ぬ以外にないことを意味する。そこに、眞の神に生きるいのちがある、とヨハネが語っている。心の持ち方や積み重ねの要求ではないのだ。すでに、神の側にその<用意がある>ことを語っている。自分の力では無理でも、神の側に備えられている。委ねることでよいことを知らせている。バプテスマは全身を水に沈める。自分を死ぬことを意味する。ローマ書6:3は、キリスト・イエスに結ばれるため、とある。御父の栄光により復活されたさまに与り、新しいいのちに共に生きるため、とある通りである。自分の生き方の延長ではないのだ。

12月4日 あなたを待つもの

イザヤ書 63章15節〜64章4節 阪井牧師

 「家族」の言葉が死語化している。社会秩序の基礎だったが、力を失ったことを意味するようにも取れる。その存在すら薄らいでいる。聖書が「父」という時、その違いは大きい。世界の創造主なる神であり、主イエス・キリストの父を意味する父。従って、顔を向けるや隠すの表現は自分、部族、国の存在と直接関係するのである。この箇所の「あなたは私たちの父です」は信頼の証言である。同時に愛と憐れみの訴え、祈りの姿勢である。イスラエルの歴史に働かれた方への思いが15節にある。感情や血族に限らず、すべての人に生きて働く<贖い主>との証言である。しかも、今、神を見失った状態すら神が意志を働かせておられる、と。ここまで徹底しているのはどういうことか。主なる神に棄てられた者は生きることが奪われる。しかし今、生きている。否、生かされている。この<いのち>が主の手にあることの信仰がそこに示されている。かつて主イエスが十字架の上で祈られた言葉(詩篇22:1)を想起する。ここに私たちの信仰の見本が示される。私どもの積み重ねた努力の結果でも、知恵や経験、悟りによって到達する真理ではない。神ご自身が、その子主イエス・キリストの父として、すべての人に顕されたのだ。ここにクリスマスへの備えが求められているのだ。頑なな自分を「み言葉によって」砕かれ、主の霊に導かれることがクリスマスを迎える備えとなる。目の前の厳しい現実と向かい合ってなお主を待つ時、クリスマスの喜びが真実となるのです。主を来たりませ!

11月27日 あなたの道を行け

ダニエル書 12章1節〜13節 阪井牧師

 <時>には自分の「もがき」も「努力」も手の届かない場合がある。つまり、相手の意志が働く時である。ましてや、自分の存在を支配する相手となれば言うまでもない。人が相手のときは無視することができる。自分の存在に関わる方である時、無視は罪となる。聖書に「その時」との言葉がある。これは一方的な神の<時>を意味して語られている。無謀そのもの、自分の思いと意志に全く任せたシリアのアンティオコス4世がその支配を終える時のことである。ダニエルには神の意志が理解できない。「その時はいつか?」を問うたのに、返された言葉は「あなたの道を行け!」であった。厳しい現実を堪える力を得たい問いへの答をどう受け取るか。励ましと慰めがその言葉にあるのだろうか。外から見ている人には得られない。信仰の現実がそこにある。使徒言行録の記事を想起する。復活の主に会った弟子たちの問い「いつですか?」への主イエスの答えは、「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、…地の果てまで私の証人となる」であった。弟子たちは、聖霊を受けることを待つべきを示された。ダニエルは主のみ心が示された。世界の創造者である方が、その権威をもって「時」を定められるのを受け取った。見捨てられるのでもなく、ご存知ないのでもない。主の御心が行われるのだ。その時への備え、準備をするよう求められている。困難や苦悩の中に信仰を持って立ち続けるのです。

11月20日 深く息をつくイエス

マルコによる福音書 7章31節〜37節 阪井牧師

 「標準」は使い慣れた言葉。判断基準は「普通」とある。ユダヤ社会に異なる標準を持ち込んだイエスは、異常かつ驚異であった。このイエスは、宣教を都エルサレムでなく辺境ガリラヤから始めた。更にそこからティルス(辺境)の地へ。異教地の女性との出会い場面が直前にある。その後のガリラヤ湖への移動経路は奇妙で、迂回してガリラヤに帰る。わざわざ辺境を経由している。福音が及ばない筈の地を歩まれた。ガリラヤ湖に帰着するとすぐ、耳と口の障害をもつ人が連れられてきた。手を上に置いてもらう(祝福の)ためだ、とある。その人を群衆から隔離して癒しが行われた。周囲の信仰でなく、主と向き合う機会がそこに作られた。癒しの事実は隠せないのに、主イエスは「話すな!」と命じた。人の標準と神のそれの違いを想う。人は神の祝福を求めた。対して主イエスは、神の憐れみと支えに向き合うことをさせた。その人に、生きる希望と力への道を与えたのである。ただ、癒しを求める祝福(願い)では終わらせない。信仰の事柄に導かれた。ここに神の標準と人の標準の違いを見る。主イエスはストレスを負う(障害)人に向き合われた。イエスご自身のストレスとして共有をされている。だから、「天を仰いで、深く息をつかれた」のだ。神のみこころを受け止められた姿をそこに見る。そして、不思議な力を持ち、癒しをされる方として、障害(ストレス)を持つ人の前に立たれている。主イエスがその人と一つとなられたのだ。主は、向き合ってくださる方である。

11月13日 闇から光へ

マタイによる福音書 27章15節〜26節 海老坪 眞先生

 ユダヤの過越祭に、ローマの総督は囚人一人を釈放する慣習で、イエスかバラバかを問うた。民衆は「バラバをゆるし、イエスを十字架に」と叫んだ。釈放になったバラバのその後はどうなったか。聖書にない結末を1951年度のノーベル文学賞作品(スウェーデン・ラーゲルクビスト著)「バラバ」の映画から話す。牢(暗闇)から出されたバラバ、外(光)が眩しい。自分に代わる処刑者を見、一人は悪態、もう一人はイエスへの同情に「共にパラダイスにいる」を聞く。その時、暗闇となり、<声>『お父さん、私の霊をお任せします』の叫びを聞いた。我に返ったバラバは仲間のアジトへ。祝いの宴の仲間に、元気の無い理由を尋ねられたバラバは、「暗くなったんだ」と応える。薄暗いアジトの仲間には理解されない。数日後、以前の仲間の女性一人と出会い、「私は生まれ変わった。あの人が《愛しなさい》と言ったから」と。バラバはその言葉をもっと知りたいと思ったが、かなわず、再び悪の道へ。捕らえられ地下炭鉱の労働者に落ちた。二人三脚方式の相手はサハク(イエスを信じていた)である。バラバがイエスと代わった人と知り、格闘した。その時、バラバは「敵を愛せよ」とのイエスの言葉を伝え、争いは止まった。地震で生き埋めから地上に這い出た二人を見付けたローマの役人は、彼らを奴隷にする。彼らは胸に十字のしるし(主人のしるし)を付けた。やがてローマの大火の罪を負わされ十字架に付いたバラバは死の直前、暗闇に向かって言う。「お前さんに俺の魂をまかせるよ」と。お前さんは誰か?

11月6日 定めの時

ダニエル書 11章1節〜45節 阪井牧師

 変化が著しい生活を日々過ごしている。これに別の見方があることを想う。神の秩序の見方である。神が世界を創造し、自分という一人の人間もこの神の秩序のなかにいる。祈りたくても祈れない現実でも、神の御手にあると受け取る信仰である。この記事はそのことを気づかせる。勝手な見方かもしれない。だが、信仰は自分の都合や勝手を許さない。<神のみ心>がなければ、私の存在はないのだ。神の愛(=恵み)によって生まれていると信じる信仰である。自分の存在が危うくなる時ほど信仰が大切になる。つまり、神との関係は、他の何ものにも代えることはできない。<神との関係に生きる人>の強さの根拠となる。その姿勢が怪しくなる時、正す必要がある。聖書の記事はその記録でもある。生じる目の前の厳しさを、神との関係が歪み、自らが正せないために神が働いておられるとする。神のみ心を受けて生きる姿は、忍耐や寛容に見えるかもしれない。真実は、信仰に立っているので、その人自身が強いだけではない。生きることに揺れ、心を失いそうになるのは誰も同じである。その時、共に歩み祈る方がいて下さることの心強さはどうであろう。そこには「時」があることをこの個所から学ぶ。神がその時を支配している。人には好機でも、神の時と同じとは限らない。主イエスの十字架は、神の時がそこにある。使徒パウロは、「今や、恵みの時、今こそ救いの日」と言い、「私は弱い時にこそ強い」との言葉を書き送っている。神の時は「定めの時」との信仰に歩みたい。

10月30日 それほどまでも

マルコによる福音書 7章24節〜30節 阪井牧師

 読む者に、聞く者に聖書には喜びとなるメッセージがある。ユダ(都エルサレム)の地でなく地方(ガリラヤ)で主イエスの活動は始まった。そして今、その地方をさえ一時離れて北方の地中海沿岸ティルス(フェニキア)に、つまり異邦人の地に移動された。誰にも知られたくなかった、とある。理由は不明だが直前の記事からは避難を想定できる。そこに、一人の女性が主イエスを捜し訪ねている。名も無い一人の異邦の女性によって計画は壊れている。悪霊に取り憑いている娘の救いを必死に求めた。ところが主イエスの言葉は全く思いがけなかった。「まず、子どもたち(=イスラエルの民)に…」、そして「子どもたちのパンを犬(=異邦人)に…」と要求を否まれた。女性は折れない、躓かない、腹立てない、諦めないのだ。「食卓の下の子犬も、子どものパン屑は…」と応じている。自尊心、沽券、誇りに拘らない姿を想う。なぜそこまで自分を低くできたのか。娘の癒しを求める熱情だけか。この方(主イエス)こそ<悪霊を追い出す方>との信頼ゆえか。敢えて言えば、主イエス御自身が神の霊と共にいる方だから、<あの言葉>を語られたと受け取ったのであろう。主イエスの言葉は、父なる神のみ心に対して、徹底して身を低くして仕えられることにある。女性はそれの呼応している、と受け取れる。主イエスの恵みは、ユダヤの民から、さらに広く、大きい世界に及んでいる。そこに、私たちの恵みが届けられている。女性に「それほどまでに」との言葉に支えられて宣教の使命を担いたいと願うのです。

10月23日 聞かれている祈り

ダニエル書 10章1節〜21節 阪井牧師

 秋の季節に<祭>のことを考える。日本とユダヤ世界の場合ではどうか。出エジプトの民は徹底した信仰基準を持つ。十戒はその原点である。第一の戒めは、異教の世界に移り住む民への神との契約であった。「わたしの他になにものをも神としてはならない」は、イスラエルの存在に関わるものであった。日本の場合は横、地域の交わりが大きい。聖書記事より後、新約の時代、ローマ帝国はユダヤ教を許容し、キリスト教はその一部と見なした。ところが、ユダヤ教がキリスト教を異端として、公に迫害の対象となった。ダニエルの祈りは、イスラエル(エルサレム陥落や捕囚)の歴史は神への罪、背反を悔いるものであった。そこに幻が示され、(神から)遣わされたものによって解き明かされた。居合わせた者はそれを見ていない。ただ恐ろしさを感じている。パウロの回心(使徒9章)を想起する。人の経験・知恵の限界を覚える。神の知恵(聖霊)に与る人を<酔っている>と評している。ダニエルの心を尽くした祈りは、主に届き、聞かれていると遣わされたものが伝えている。祈る側の要求や願いは、神の計画の中に取り込まれていることを示している。願い求めることが、自分の意図のままであるのは<祈り>でなくなる。神には計画実現の歩みは進んでいることを認める信仰が「み心が行われるように」との言葉になる。クリスマス・主イエスの出現は、その事実である。人には計り知れない現実であった。祈りが主のみ心に同調する時喜びがある。この恵みを共に味わいたい。

10月16日 どうして汚れる?

マルコによる福音書 7章14節〜23節 阪井牧師

 「同調的圧力」との言葉に接した。民主主義・多数決への批判と考えられる。小さく、弱い存在が周囲の多数で押し切ることへの警戒を想う。主イエスの前に現れたファリサイ派の人たち、数人の律法学者たちは、エルサレムから来た。理由は、小見出し「昔の人の言い伝え」の確認及び監視であったろうか。この人たちと主イエスとの論争後、主は「再び」群衆を呼び寄せて教え、話をされたのが今回の記事である。群衆がイエスの行き先に詰めかけるのがいつもである。主イエスが呼び寄せるのは<聞くことへの要求>を想う。ところが弟子たちは改めて質問をしている。奇妙さを感じる。いつも最も近くに居る弟子たちが分からなかった。解散した群衆はどうだったかである。<汚す>がそのテーマである。外からのものが人を汚すのでなく、内から出てくるものが汚す、と。もちろん、倫理問題が主イエスの教えの中心ではない筈で、神との関係がそこにある。元来、聖書の信仰は「神の愛」に生かされ、生きることを語る。創世記に、人は神に向かって生きる存在となった。その神との関係がないままの生き方はどうだろう。それは形、形式(手を洗う)に拘ることに終始することになる。ただ、これが生身の、この世に生きる人間、自力で汚れ(神との関係喪失)をぬぐい去る(回復)ことができない。<神に向かい合う生き方>ができない<汚れ>をどうして清め、聖となれるか。内からでなく、外からしかできない。礼拝がそれである。み言葉とみ霊を受ける機会を感謝して大切にしたい。

10月9日 神のみ前に立つ

ダニエル書 9章1節〜27節 阪井牧師

 バビロンの高官に取り立てられたユダ族のダニエルが「文書を読んで」いた、と。その文書から悟ったのは、捕囚機関が70年とのことだった。つまり、人の希望や想いとは違う神の御計画を受け取ったのだろう。厳しさ、苦渋さも終わりがあることを確認したのだ。神のない世界との違いがそこにある。しかも、その故に、罪の告白と悔い改めの祈りをしている。(十分に食を堪能できる地位の人が)断食をする。(着飾る生活の人が)粗布を纏う。(直接には関係ないといえる人)が「私たちは…」と祈っているダニエルである。罪の裁きとして、捕囚を受け止め、神の<憐れみと赦し>に拠らなければ捕囚からの解放はないという。徹底した神の前に立つ者の姿勢を貫いている。嘆願の祈りも苦しさにあるのでなく、「神ご自身のために…お計らいください」と。あの「善いサマリや人のたとえ(ルカ10:25以下)」を想起する。ユダヤ人とサマリヤ人との日頃の関係からは旅人を助ける筈がない。あの、神に仕える祭司やレビ人さえ道の向こう側を通って行った。<主イエスのたとえ>とサマリヤ人とが重なる。なぜか。納得いかない話だ。しかし、主イエスが私たちの救いのために負われた十字架はどうだろう。納得の話ではない。神のみ前に私が生きているかどうかが重要なのだ。そのことを主のみ前に繰り返し問い直すのが礼拝だと思う。「生かされ」て「生きている」私だろうか、と。神の貫かれている愛に応える生き方になっているか、と。恵みを改めに共に喜びたい。

10月2日 神の言葉を!

マルコによる福音書 7章1節〜13節 阪井牧師

 科学進歩の時代でも、なお人の心の解析は行き届かないと思う。この個所のファリサイ派の人たち律法学者たちにそれを想う。都エルサレムから地方のガリラヤにまで出向く人たちについて<集団的癇癪>を想った。ユダヤ社会が律法による社会秩序が中心である。そこに、主イエスのグループが現れ、人々の心を動かしている。違和感を覚えて確認か観察・視察にきたと受け取る。リオ・オリンピックに多くの諸役人が出かけたのに似ている。本流ユダヤ教の権威を示すためでもあったろう。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに歩まない…」と質した。やがて人間の言い伝え、そして自分の言い伝えとの表現に変化している。本来は神との関係である「神の掟」なのに、人の関係が中心になっている。今日の私たちのキリスト教信仰にも重なることを想う。主イエスの恵みに生かされていることが信仰の核である。聖書記事は、神との関係が<手を洗う>行為の関心事に変化しているのを主イエスが鋭く見ているのだ。神の民として<喜び生きるイスラエル>が自由を失い<迷える羊>に陥っている。神との関係「掟」が外に現れる「形」に変わる時、内容が変質する。解放からの自由が束縛に向かう自由になる。そして<神のいのち>を失うに至るのを想う。主イエスと生き続けるには、羊飼いの声から離れてはならない。どうも自分の姿勢が怪しいと思うなら基本(神の声を聴く)に立ち返ることが必要だ。この恵みに気づくべきを示されている。「立ち返れ!」の声が届いていることを共に喜びたい。

9月25日 幻を見た人

ダニエル書 8章1節〜27節 阪井牧師

 下心なく相手に<よかれ>と思ってしたことが<迷惑>になることがある。「思い込み」や「勘違い」ともいう。地位ある人の場合は影響が大きいために、その配慮は容易ではない。大国の王が近隣小諸国にする配慮は迷惑である話をこの個所から想う。イスラエルは「神の民」とは言いながら、大国や強力な民族に影響される歴史を歩いた。エジプト、ペリシテ、アッシリア、バビロン、ペルシャ、シリア、ギリシャ、ローマ…である。8章の背景はシリアのエルサレム蹂躙である。<世界を創造された>神との契約(律法)に生きる民から、その神関係を排除する政策は、その存在を否定するものだ。その苦悩や悲嘆の呻きの原因が不思議な獣で表現されている。黙示文学の特徴である。当事者には、何を意図しているかが理解できたのだ。70年ほど前、日本のアジア政策はそれに似ていた。創氏改名や護国神社参拝の強要である。そこには人種、民族、国家を超える統一世界の発想との見方と聞く。どれほどの苦痛や忍耐を敷いたか。時間的な長さは精神的に大きい意味を持つことを想う。病の状況から想像できる。先が見えるなら我慢もある。先が見えない苦難を耐えることは厳しすぎる。ダニエルの幻がこの祖を読む者にどれほど<励ましと生きる力>を与えたであろうか。信仰の世界と世を生きる世界の間で、自分の身の処し方に悩む時、神の働きを祈りつつ神の真実を待つことの示唆を得る。目前の事柄に身が翻弄される中で、なお神の働きを主イエスを仰いで待ちたいと願う。

9月18日 鈍くなる心

マルコによる福音書 6章45節〜56節 阪井牧師

 「仮面〜」の言葉がある。目に見える姿は仮であって真の姿は見えるものと異なることをいう。この「湖上を歩くイエス」記事からそのことを想う。人はその不思議さに気を取られるからである。52節の「パンの出来事を理解せず」は重要な意味を持つ。パンの出来事は「5000人の給食」のことだ。同じ記事のマタイ福音書では、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」とイエスはペトロに言葉をかけている部分が、ここでは「心が鈍くなっていた」とある。イエスが共におられることの意識がが薄れている現実を想う。自分の判断で、イエスを<はかっている>ことにその理由を見る。ある意味で自分の<思い込み>が働いている。私たちの日常にもある。普段は殆ど信仰のことが問題にならない。それは、自分が主と共にあり、歩いていると安心していられるからだ。ところが、一端躓くことが起きると、心は穏やかでいられない。自分の不注意を責め、さらに躓きの原因がそこにあることに腹を立てる。ついには神にその責任を求める。<主は陸にいる>筈、<湖上を人が歩く筈はない>が「思い込み=信仰」になっていることを想う。イエスと共にいることは事実であっても、自分の領域(人間の計算)のままである時、「鈍くなる心」や「信仰の薄い」の指摘がなされたと受け取れる。実際に、私たちも困難や危険、あるいは限界に呻き、苦しみ葛藤することがある。そんな時でも、主が共におられ、働いておられるとのメッセージをここに聞くことができる。なんと大いなる励まし、恵みであろうか。

9月11日 やみに輝く光

ダニエル書 7章1節〜28節 阪井牧師

 ここは黙示文学の表現。黙示は事柄を直接表現を避けている。しかし、当時の読者にはその真意を読み取れた。時に怪奇表現となった。新約聖書では黙示録である。以前はバビロン王の夢とその解釈。ここは、ダニエル自身の見た夢・幻である。ダニエル書の記述背景の理解が大切。力に任せてイスラエルを支配し、神殿を汚す事態、加えて偶像礼拝を強いられていた。すべてが力で思うに任せると世界に見えていた。そこに、真の世界を支配する方は人でなく、神であることを示しているのだ。日本の戦時社会の姿を想起する。強力な支配力、社会秩序の見えない魔力に抵抗できない経験を想う。そんな社会秩序の中で誠実に、真実を求める信仰の<生き方>はただ耐えるしかないのか。悶えと呻きの生活の人々に、「日の老いたる者=神」が王座について世界を導く新しい秩序の世界が始まることを示唆している。「人の子」のような者が天の雲に乗ってくる。これが期待のメシアである。神の民イスラエルであっても、今は違う社会=バビロンに生活をしている経験を語りながら、神はその時代を終わらせた。そのように、苦悩と忍耐のゆえに、心が弱くなり、主にある希望が薄らいでいる人々に、神の民として生きる希望と励ましとを与える内容を受け取れる。どのように、世の権力者(王)が力、繁栄、権力を振るっても、必ず裁きの時、その時がくる。そして慰めや希望を持つことになるのだ。「光は闇に輝いている。やみはこれに勝なかった(ヨハネ1)。」を想い起こす。主にある民を喜ぶ。

9月4日 深く憐れむ主

マルコによる福音書 6章30節〜43節 阪井牧師

 「バンの奇跡」、「5千人の給食」とか「五餅二魚」ともいわれる記事。僅かの量で大人数が食を満たすこの記事は不思議である。しかも、どの福音書にもあるのは、それだけ重要だということ。イエス誕生の記事さえ4つの福音書に書かれている分けではない。この話の直前は、12人の派遣であった。その結果がこの個所。派遣された人たちの帰還とその報告となる。まだ、人の出入りのある中で、主イエスは人里離れたところでの休息を命じられた。「人里離れた」とはどういうことか。そこは、人間回復の場所を意味する。遣わされた使命を果たすことがすべてである。元の生活に戻るための休息である。<自分を取り戻すために>とは、神の前に生活を回復することである。忙しさに応えたい。だが、新しい使命を受けるために必要とした「人里離れた」ところにも、多くの人が押し寄せている。これをイエスは、「飼い主のいない羊のようだ」と受け取る。食を心配する弟子たちに「持ち合わせている食糧」を訪ねて、大人の男だけで5千人を食べ飽きさせたのがこの記事。妙な問いや説明をする必要はない。人間の限界を超えて、イエスが対応されたことを喜びとして受け止めている。その時、弟子たちは人々に主イエスが祈って祝福した職を配った。主の「深い憐れみ」を受けたことを喜ぶ記事である。羊の姿は自由奔放。しかし、それは自分勝手、ついには{罪}に陥る。神との関係を失う姿に、主の憐れみを憶え、弟子たちをその働きに用い、委ねられた。この喜びを味わおう。

8月28日 信仰に生きる人

ダニエル書 6章1節〜29節 阪井牧師

 自分の意志に関係なく、生活に影響を受ける現実がある。信仰を貫こうとする場合は、時に致命的でさえある。かつての私どもの過去がそうであった。支配者の同化政策はその一つである。ダニエルはバビロン捕囚民で、統治者が代わっても、政治的地位や王の信頼を受けて妬みを買った。合法的な計略の企みは、イエスの十字架刑に通じる。ダニエルの日常的信仰生活を違反にする企みが行われた。人の尊厳を犯す神への領域に手を出すことでもあった。本来、誰にも立ち入れないところである。その権威は権力者の務めである。バビロン王は、その務めを怠った。その結果が獅子の洞窟に投げ込むことになった。一方、ダニエルは静かに、心を主なる神に集中している。世の騒ぎを知っていて、それに振り回されない。真実を生きる姿勢をそこに学ぶ。周囲を配慮することも必要だが、本質を失う危険を想う。生活慣習を重んじるあまり、本質が<ぼやける>のである。とりわけ、人付き合いを大切にする人に起こり易い。ある意味で大変な<信仰の闘い>になる。改めて、礼拝に心を注ぐことの意味は自分の事であると同時に周囲への証しでもあるのだ。信仰の自由を保つために<いのちをかける>人のことを学ぶ。主イエスが「私のために十字架に向かって歩まれた」との告白をしっかり保ち続けたい。パウロとシラスとのフィリピで牢から解放された記事(使徒16:31)に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」は、心に残る言葉である。

8月21日 頑固さ、世と神の言葉

マルコによる福音書 6章14節〜29節 阪井牧師

 「バプテスマのヨハネ、殺される」の小見出し内容からどのような福音メッセージを予想するか。記事構成では、イエスによる12人の派遣記事の間に挟まっている。イエスの宣教は(バビロンの)王にも伝わっていた。民衆だけでなく王宮にも及んでいたのだ。人は様々な捉え方をした。だが、王は「自分が殺害したヨハネの甦り」と言う。神のみ心を語る人とヨハネを見ていたが、行きがかり(この記事の主要部分)でそのヨハネを殺害した。世が預言者、神の御心を伝えるヨハネを消した。理由はどうあれ、王の権力のもとで行った。(権力に力を借りる)世の知恵と執拗さ、そして機会を逃さない(頑固さ)企みをついに果たした。最高権力者・王自らの心の自白がここにある。ヨハネの働きを止めたので、イエスは福音宣教をガリラヤで始めた。権力者と共に合法的殺人により、決定的に福音宣教の息の根を止めた。この罪(合法的殺人)は問われない現実がそこにある。けれども、再びイエスによって神の福音が語り続けられる。主イエスの十字架もまた、それであった。福音宣教は世の頑固さで終わらない。これが派遣の記事と繋がる。遣わされるところに、世の力が障害として立ち塞がることを想う。自力ではそれを超えられなくとも、遣わす主イエスが、その後を引き受けておられるのだ。世の頑固さに対し、それを超える<したたかさ=頑固さ>で神の言葉は働き続けることを示す。自分だけの力を嘆く「弱さ」はより、主にある「強さ」を誇る。「弱いときにこそ強い」の言葉を想う。

8月14日 数え・知っている方

ダニエル書 5章1節〜30節 阪井牧師

 種々ある受け止め方の<平和>を、<亡くなっていった人達の総意>と表現した人がいた。憲法にも通じると思う。新聞やラジオに「尋ね人」のコーナーを想起する。当時の思い出話しで、遠足の上野公園で弁当を開いたら周囲から人が集まり弁当を分け合った、と。これも平和を想う。バビロン王ベルシャツァルの大宴会(千人)も平和である。ところがその後、王が殺害されて話しは終わっている。どういうことか。宴たけなわにエルサレム神殿の略奪品(祭具)の器で酒盛りをしていたら、その目の前の白壁に手の指だけが見え、文字が記された。王が召し寄せた学者も賢者も、それを読むことも解説することも出来なかった。王は心を病んで捕囚民ダニエルを紹介され、召し出して読み解かせた。王はダニエルに約束を果たして、神の怒りの緩和を願ったのかも知れない。壁の言葉「メネ」は数える、「テケル」は計る、「パルシン」は分けるの意であり、創造主が傲慢な王に対してみ心を示さたのだ、と解説した。在位や統治、国威は神の目に数えられ、計られ、決裁されている、と。人の側から知恵や権威、繁栄がいかに大きく強いものであっても、神は違う<はかり>をもっておられたことを語っている。主の言葉を聞く、それに従って歩むことが求められているのを、自分の功績や偉業として傲慢に陥るのは、現代でも起こり得ることだ。彼らは敬虔に見えているが、人の目に映るものである。真の神こそが、人の世界を真に支配している。いと高き神こそキリスト。イエスにより示されている。

8月7日 遣わされる者

マルコによる福音書 6章6節b〜13節 阪井牧師

 就職内定後に実習をさせる企業がある。神学校の「教会実習」がそれに当たる。この聖書記事は「宣教実習」となろう。内容その1,準備の心構え。その2、現場での対応。直前はイエスが故郷(ナザレ)での宣教であった。人々はイエスに躓いた、とある。自分のイメージと異なるイエスだった。自分の側に判断材料を持ち出した結果であろう。その現実に躓くことなく周辺の村々に宣教している。派遣前に先ず呼び寄せて、2人1組で遣わすのだ。2人1組は、主が共におられる(マタイ18:20)証しでもある。「汚れた霊」に対する権能を与えられたことにも通じる。神によって活かされている人が、その真意を正しく受け取るために遣わされていく。今日の教会の宣教である。人の持ち前の器量や才覚が宣教の実績を上げるとするのではない。ましてや、人間の関係だけで宣教がなされるのではない。神の支配から外れている歩みを正し(解放し)、祝福に生きる者にするのだ。だから、その根拠となるもの「一切を持つな!」と命じられた。杖は羊飼いの必需品だが、モーセは神が派遣する「しるし」として持った。「履き物を履け」は、宣教が足でなされることを想う。向かった先で迎え受けられたら、そこを拠点として歩く実習を教会の宣教姿勢と重ね合わせることができる。主の言葉にすべてを<委ね>、繕わない生活をもって福音に生きる姿こそ、遣わされる意味と理由がある。病む者を見舞、悲しむ者を慰めるのは、携えている杖に力(主が共におられる)をいただく者になりたい。

7月31日 姿勢を正す言葉

ダニエル書 4章1節〜34節 阪井牧師

 2章はバビロン王の「夢当てとその解明」であった。権力と威光を持つ王は金の像を作り、国内は勿論のこと、近隣諸国や諸族、諸言語の人々に礼拝させた。ユダ族出身の若者は王の命に従わないため、怒った王は彼らを高熱の炉に投入したが不思議に火傷一つなく炉から出てきた。王は彼ら(イスラエル)の仕える神を拝した(3章)。平安な日々のある夜にまた夢を見て苦悩した。誰もその意味を解明できず、ついにダニエルが呼び召し出された。一瞬解明に躊躇したが、「恐れず話すように」との言葉に従い、いと高き神の命令に従い話をする。バビロン王の未来の姿告知であった。人の心を失い、動物の心となる。繁栄から、野に獣と生きる姿、繁栄の大きな木(王)は、切り株と根が残されるだけとなる。イザヤ11:1〜2を想起させる。人の目に滅んで見えても神によりそこに<一つの芽・若枝>が萌え育つ。まことの神こそが支配者であることを悟るように。罪を悔いて、悪を改めように、と。バビロンの捕囚の民ダニエルが、憶し、媚びることなく征服者バビロン王と語る。しかも、悔い改めを迫っている。これが伝道と示唆される。自分から進み出て語るだけではない。求められ、語らざるを得ない情況が整えられるのだ。普段の自分からは、その機会さえ考えられなくとも、主なる神がその時と情況を与え、命じられるのだ。如何に大物であっても神からの言葉が必要としているかは、人の知恵を遙かに越えて主のみこころが働く。それに仕えるのだ。教会の存在理由はそこにある。

7月24日 生活慣習と信仰

マルコによる福音書 6章1節〜6節a 阪井牧師

 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めに福音を信じなさい」とのイエスの宣教は、都エルサレムではなくガリラヤで始まった。中心はカファルナウムであった。会堂長ヤイロは12歳の娘のために人々の前でひれ伏し、イエスの癒しを求めた。社会的地位や人前での面子を顧みない姿に震える。イエスの言葉「恐れないで、ただ信じなさい」を心に留めたい。その途中にヤイロの娘と同じ12年間を患いと闘って疲れ果てた女性がイエスの足を止めた。群衆に紛れて後ろからイエスの衣に触れて治癒した。イエスはその人を探し、「あなたの信仰があなたを救った」と語りかけている。そして、いま故郷のナザレに帰ってきた。安息日に会堂で聖書と教えをされたイエスの権威ある教えと業に驚き、その由来<どこから、どうして>を尋ねた。その説明が、<人々はイエスに躓いた>とある。その知恵と力に驚き感心した。しかし、信仰ではないことを示している。敢えて言えば、イエスは<その不信仰>に驚ろかれたのだ。どういうことか。同じ故郷の人であるイエスに驚き躓いているのは、自分の獲得した知識や磨いた経験が信仰を排除していることになる。今日的な言い方をすると、聖書より現実が優先していることになる。信仰を自分の判断で使い分けをするのと同じだ。バプテスマを受けること、礼拝を共にすることは、イエスがキリストであることを告白することである。信仰の告白は密かに自分だけでするものではない。主の霊に導かれて共に礼拝することの必要を憶えたい。

7月17日 すべて時宜を得て

ダニエル書 3章1節〜33節 阪井牧師

 小学校を「国民学校」と呼び方を変えた。1941年のこと。これが意外と効力を持ち、人を動かした。自分で考え、発言することを制御し始めた。多数決や民主主義が違う方向に力を持つのに似ている。決定権を持つ者への課題でもある。聖書箇所はその問いにも受け取れる。単なる「殉教物語」とならない。ダニエルの仲間3人はバビロン王の特別配慮で地位を得た。そして、偶像礼拝への式典に出た。だが、彼らはユダヤ人の信仰ゆえに偶像礼拝を拒んだ。中傷する者(カルデア人)があり、王は彼らを吟味した。返答は、王の厚遇にへつらわず、命の危機の方を選らんだ。<たとえそうでなくても>の言葉による神信頼で応じた。重い言葉である。王は怒って彼らを高熱の炉に投げ込んだが、火傷することなく、彼らが炉から出てきた。周囲に同調さえしていれば、この危機は免れた筈。それは力づくの要求ではない。中傷することから始まった信仰への誘惑であった。今日の私たちの場合にも通じるようだ。像や形への対応から人の魂や信仰を観察判断をするのが世である。過去の日本の歩みを想う。「たとえそうでなくても」の信仰が重要に思う。使徒言行録(4:11)を想起する。最高法員の議会で受けた尋問に対し「あなた方家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」この他の誰によっても救いは得られません。私たちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです、と。神は<その時>を備えておられることを受け取りたい。

7月10日 2つの結びつき

マルコによる福音書 5章1節〜43節 阪井牧師

 会堂長の娘の話に、12年間病に苦しんだ女性の話、が挟まっている。ゲラサ(異邦人の地)で汚れた霊の人を癒したイエスは、その地からの退出を求められて、カファルナウムに帰って来た。一人の人としての自由回復は彼らを恐れさせた、と。カファルナウムはユダヤ人の多く住む地であるが、異邦人もいたであろう。ユダの地方からは辺境である。会堂長は当地のユダヤ人指導の役割を担う人である。イエスと対立を生じるファリサイ派の人から監督を委ねられていた。娘の為とはいえ、群衆の前でイエスにひれ伏し、癒しをしきりに願った。それに応えてイエスが出掛ける途中、12年間出血の病に苦しむ女性が、群衆に紛れて後からイエスの衣に触れて癒された。イエスはそれを感じてその人を捜した。なぜだろうか。「あなたの信仰があなたを救った」の言葉にその答えがあるように受け取る。イエスと向き合う機会を造られたのだ。新しく信仰に生きる力と希望はイエスにあることを示している。しかも、この女性の闘病の12年は会堂長の娘の生涯(命)と同じである。この女性に関わっている間に、娘の訃報が届いた。イエスは会堂長に「恐れるな、ただ信じなさい」との言葉をかけた。両者の結びつきは<信じる>ということにある。自分の思い込みや、願いの叶うことに終わらせない。願いを持ちながら、イエスに委ねきることを示す。12才の少女の命に関わる現実、それと同じ長さの闘病をしてきた女性の抱える厳しさをイエスは受け止められた。恵の深さを想う。

7月3日 夢が持つ力

ダニエル書 2章1節〜49節 阪井牧師

 慌ただしさの日々に<自分の魂の所在>を確かめたいとさえ考える。ダマスコ王ネブカドネツァルは覇権を握り、振るった。捕囚の民をカルデヤ文化に同化させる政策を行った。征服の諸国から多くの財資も取り込んだ。しかし、眠れぬ程の不安に嘖まれることが起きた。それが<夢>である。支配下の賢者を総動員して夢を「言い当て、意味を解く」ことを命じた。他人の見た夢を言い当てる、誰にも無理な要求である。聖書では夢・幻は神の意志がそこに示されるとした。権力と財力が思いのままであっても、神との関わりがない心は平安を得ないことを示唆している。今日的課題でもある。心の不安はどう解決するか。周囲を見回さなければ不自由のない生活はできる。ただ、<心>の億はそうななるわけではない。ダニエルも賢者の一人として処刑の危機を知り、主に憐れみを乞い、夢の秘密を求め祈った。主から示されるものを携え、王の前に出て「王が見た夢」を「言い当てる」とともにその「意味を説明」した。異国の王にイスラエルの神、主との関わりを説いたことになる。人間の限界に苦しんでいた王(ネブカデネツアル)に神との関わりが示されたのだ。王は解決の糸口を示されて謙虚に対処している。人の世ではあっても、人の知恵や知識また経験で解決に至らない課題があることを想う。ここに信仰の本領が求められる。それは、自分の力量のことではなく、神の知恵を求める方策を持っていることを大事にするのするのだ。困難や厳しさの中でも神の民は生きるのだ。

6月26日 イエスと出会った人

マルコによる福音書 5章1節〜20節 阪井牧師

 「風は何色?」と尋ねられたら?盲人の方が問われました。どのように答えましょうか。ガリラヤ湖を渡りきった主イエスと弟子たちを迎える人はいない。ただ、遠くからそれを見た人が現れた。騒々しく感じるのは何故だろう。そこは異邦人の地である。そこの人たちが「ここから出て行ってもらいたい」と結ぶ内容だ。何が起きたのか。汚れた霊に取り憑かれた人が解放されたことにある。人と社会から交わりを断たれた人が、主イエスによって普通の生活に戻ったのだ。ただし、そこには、人々の想像以上の出来事があった。経済、社会、宗教の安定の狂いが起きている。現象的には、キリスト教が今日の社会にある関係と似ている。秩序の混乱、かき回しに、問題児に見える。神の前に人を一人の人として生きることへの抵抗でもある。本人も意外な行動と言葉を示した。「いと高き神の子イエス」と告白をし、ひれ伏したのに、「私にかまわないで…」と語る矛盾がそこにある。苦しみもだえ、その解放者だとの認識はあっても、関係を拒む姿が私たちに重なる。当局者たち(祭司長たちやファリサイ派の人たち)は、ローマの圧力を口実にイエス殺害を公式に議会決定している。議会の委員長は最も神に近いところに位置している人物である。彼は「一人の人が民の代わりに死ぬことが望ましい」ことを解いている。多数決と民主主義の無理を見る。外の世界の話ではなく、私の私生活や教会の現実でもあるように想う。神と関わりのない世界の現実にある私たちの使命を想う。

6月19日 神の働きに負う者

ダニエル書 1章1節〜21節 阪井牧師

 体験者自らが語ることの大切さを現代も知らされる。聞く側は、事象だけでなくその心を受け取ろうとする必要を憶える。ダニエル書は黙示文学と称される。実名の使用さえ困難な事情背景を現実に持つと紹介される。神の都が異教の力に屈し、神殿から祭具が持ち去られ、神の民が異郷の地に捕え移された時代を描きながら、厳しさに身体を張って抵抗をする神の民への<励まし>がそこにある表現形式である。役70年後の解放時にペルシャ王は神殿宝物の持ち帰りを許した。イスラエルにとっては大きい意味をもったであろう。神殿礼拝ができない現実の克服になったに違いない。さて、バビロン王ネブカデネツァルは、捕囚の民の支配に新政策を行うのだ。王族や貴族からの選りすぐりの少年たちをカルデヤ文化に染め上げる教育洗脳を企んだ。将来の指導者となる者を教育するのだ。その若者の中に4人のユダ族に属する者がいた。彼らの名は、4人とも<主>または<神>の語と関係している。ダニエル著者の意図を想像する。バビロン王が特別の待遇でもてなすのを拒むのは、<命がけ>のことである。信仰を貫くことは、そういう厳しさをもつことも示唆している。同様な占領政策を日本がかつて行ったことを想う。その屈辱にどう対応するべきかを改めて考える。この若者に神は恵みをもって働いた、と。今日の私たちは、その選びに応えるべくもない。だが、神は真に卑しく且つ貧しい私どもを選び用いられるのだ。この恵みに信仰によって受け取り、応えたい。

6月12日 信仰の向こう岸

マルコによる福音書 4章35節〜41節 阪井牧師

 「…希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて信じ…」の言葉はパウロがアブラハムを語るものであった。創世記12章の「召し」への応答である。イエスから弟子たちは「向こう岸へ渡ろう」の応えて、昼の働きの疲労に負けず、夕方舟を漕ぎ出した。艫でイエスが眠っている。そこは操舵の場所でもある。風が出て波が舟に打ち込み、専門の漁師を含む弟子たちが航行の限界を訴えた。眠りから起きたイエスの言葉は「なぜ怖がるか、まだ信じないのか」だ。<恐れ>と<信じる>は心の中で相反するものである。イエスのこの言葉が重い。「なぜ怖がる」は、怖がらなくて良いの意図を示す。「まだ」とは、「もう」がその背後にある。信じて良いのに「まだ」を問うイエスの意図をどう受け取るかが大切だと想う。波に揉まれている舟の中で眠っているのも、漁師経験者がいる弟子たちが、専門外大工のイエスに訴えることも変だとも言える。風や波を従わせる<しるし>が重要な事柄ではないことを示す。恐れで慌てふためいてイエスを起こしたのではない。イエスがどういう方かを知っての行動であろう。「信じない」はそのことを語っている。つまり、「信じる」とはどういうことかを問うもの。今日の私たちへの問いがある。頭で考え、経験や知識の判断が<イエスよりも先んじる>ことへの問いであろう。行き詰まって初めて主イエスに声を掛けるサマを想う。主イエスと共にいることが、主イエスとどう生きるかであることを想う。水をかき出しながら漕ぎ続ける生活を想う。

6月5日 神共にいる世界

エゼキエル書 48章1節〜35節 阪井牧師

 いよいよ長いエゼキエル(書の旅)の終わりになった。預言者が神の召しを受けて、遣わされた務めの<まとめ>箇所である。新しい秩序として神から与えられる嗣業の地の割り当ての詳細が示さされた。その秩序は平等のようであるが、その根拠は理解に苦しむ。理不尽や不条理の言葉をさえ想起する。実は、イスラエルの歴史もそうだと言える。わずか2週間の距離を40年を費やして<約束の地>に到着。神の民がその関係の罪故に裁かれバビロン捕囚、エルサレム陥落、神殿破壊である。それほどの罪悪であったかを想う。それで、今新しい秩序である。知恵や経験で整理できるか。故意に<みこころ>から離れたはずはない。むしろ、苦悩と努力がその結果をもたらしたのであろう。認知症や知的障害の方のバプテスマ・聖餐(礼典)に通じる。人の納得や理解を得ようとすることと神の求められることとは必ずしも一致しない。人は神の御心に応えていく。これが信仰に生きることであろう。このような私が、み子の命をもって贖われ、神の子とされる。その理由は人の側にはない。これが信仰の事実である。答や理由は、神が持っておられる。従って、答えを求めるなら与えられるまで手を空にして待つのみである。主がその思いを知っておられる(ロマ8:24〜)。主の霊が伴っておられるとの信仰の告白を続けるだけである。人の目には、どんなに現実とかけ離れていても、「主が共におられる」の確信は、主のご計画、「主がそこにおられる」新しい秩序へと導かれようと願う。

5月29日 聞く力に応じて

マルコによる福音書 4章26節〜34節 阪井牧師

 「言葉の一人歩き」を意識する。主イエスの<譬えばなし>も同じ事が起きたと想像する。それほど、<たとえ>が人の心に残ったと思う。本来、<たとえ>は伝える内容を易しく、理解を助けるための話法である。時折、<たとえ>話が謎かけに想えるのは、「一人歩き」ではないかと想像した。今日と異なって、伝達の手段は人の口だけである。受けた人が解釈をするのは当然である。福音から生きる力や希望、励ましや教訓、または生活の知恵に用いられる場合もあったろう。主イエスは確かに<たとえ>を語られた。、聞いた人は、生きる力と喜びを受けた。それは、どんな人であったかを想像する。彼らは、ユダヤの社会に入れない人たちであった。かけがえのない一人の人の尊厳を聞いた驚きや喜びは想像以上と想う。それを伝えようとしたのが<たとえ話>だと想像する。つまり、情況が離れた話になったら、謎めいた話にもなろう。伝える人の力量で福音が伝わるのではない。その力のまま、受け取った言葉を「聞く力に応じて」、伝える働きに神自らが伴うことが示されているのを想う。話を伝えるその働きに主が伴われることを伝えている。たとえの種そのものは、蒔く人が持つ知恵や能力によって成長するのではない。種自らが成長の力を発揮するのだ。主のたとえを聞いた人たちは、どれほど喜んだであろうか。貧しい者を召し、主がお遣わしになるのは、伴い働かれると知る大きい喜びがある。人の目に見栄えなくとも、主の働きに仕えられる喜びにあやかりたい。

5月22日 流れる信仰の水

エゼキエル書 47章1節〜23節 阪井牧師

 イスラエルはバビロニアの軍事力に破れた。国政は破綻し、宗教活動は停止状態になり、神の民としての希望と力が失せていた。その現実の中で、預言者エゼキエルは新しく修復された神殿の幻を示された。「神殿の下から水が流れ」ている。神から行き届く新しい命を象徴する<水>である。失意と絶望的状態の神の民イスラエルへの幻である。もはや、人の目にはあり得ない姿である。しかし、世界の創造主である神は、そこに働いている。恵が世界に向かって動いていることを示している。小さい流れが、水量を増して「くるぶし」、「膝」、「腰」、「立っていられない」深さとなっている。この水源が神殿の下からとは、<砂漠に水>、<荒れ野に花>を経験した出エジプトの旅を想起させる。川の両側に実を絶やさない植物、川は魚、この豊かさが、人も家畜も生きる糧であ。人が知恵と技術を駆使して豊かさを求めて<生命を脅かし><人の不幸をもたらす>今日の現実と大きく違う。共にある、共に生きる姿は、<神の祝福・恵み。であることを示す。そこにこそ、生きる喜びと希望が得られる。しかも、神の恵みを源として生きる姿は、世界に向かう力を発揮する。人の判断は微弱、非力でしかない。そこに神の力が伴うのだ。懸命に神の求めに応えようとする姿、神からの生ける水(主イエス)は、その周囲の人を変え、生きる希望となるのだ。<水>(主イエスの言葉)を飲み(聞き)続ける人には<信仰の水>が流れる。不思議な世界を生み出す源とされる。主に用いられる楽しみを共に味わいたい。

5月15日 自分のはかり

マルコによる福音書 4章21節〜25節 阪井牧師

 各福音書に同じ譬えがある。しかし、その用い方が異なる場合がある。そこに、その福音書の特徴があると考えられる。ここには、2つの譬えが一つの話に用いられている。聞く相手は弟子たちである。とすると、「ともし火」は神の国の秘密が明らかにされるべきの意になる。そうだと「聞く耳のある者は…」は励ましになる。火を作るのでもなく、輝かすのでもない。置く(伝道または証しをする)のだ。つまり、個人の力量(はかり)ではないことを示される。既に与えられている<奥義>が周囲に知られることを知らされる。現実問題に苦悩していても、神の力がその人を通して解決への働きになることを示している。自らを苛む必要はないのだ。無力を嘆くこともない。主イエスが働いておられることを知らされる。十字架による罪の負い目を自ら引き受け、その罪のすべてを赦しとする甦りの事実が真の力を示すのだから、自分で負い目に苦しまなくてよいことを想う。むしろ、神の秘密をしっかり受取り、自分のへ恵を喜ぶように、と聞こえる。神の国の秘密は打ち明けられている。その事実に拘るよりも、「何を聞いているか」の内容が大切であることを想う。世界の創造主なる神が、主イエスをみ子・メシア(キリスト)として世に遣わされた。この事をあなたはどう受け取るか。改めて受取直す必要を想う。自分の基準(はかり)でのイエス・キリストの出来事判断は本質からズレを生む。それは、神の愛をはかる愚である。教会誕生の記念日、<主の霊に委ねるべき>を想う。

5月8日 変えられる我

エゼキエル書 46章1節〜24節 阪井牧師

 人だれでも磨いたものの切れ味を試したくなる。それだけに、刃物は扱い方によって危険を伴う。知恵も同じように考えてみる。用いる人間の精神が重要になるはず。生活の知恵を集めた<箴言>には、「主を畏れることは知恵の初め」とある。ただ磨くことに終わらない言葉の深さへの配慮が心に残る。今日の聖書記事は、<門の掟>と<祭儀の掟>を内容としている。「主からの命令」が預言者エゼキエルを介して語られている。安息日と他の6日をと区別して、祭事が神殿境内の庭で行われるが、民とは別に君主がそこに係わるのだ。地上の最高の権力者が神の命令を受けるのだ。つまり、権力の行使者は祭事に従うのだ。そこからも、政治が「まつりごと」とと称される所以である。さもなければ、神との関係を持たない者の権力行使は<危険>を伴う。声の大きさや力の強さ、人気や金力、さらに自分の主義主張に真実が左右される。祭儀は神の前に行われる。そこで、自分を整え、その使命を確認する。これが神の命令である。他の誰も君主を戒めることはできない。キリストに出会うまで、使徒となるまでのパウロは、自分を研ぎ磨いて切れ味を誇っていた。主イエスの出会って帰られたのだ。人が変わった。ローマ6章に「バプテスマによって、キリストと共に死に、キリストと共に父なる栄光により、新しく生きる」ことを記している。人から無視されても、この人(この私)を神は引き受けた。考えられない神の御子の代価を払った。生きねば、真剣にならねばならない。主に感謝!

5月1日 「種蒔き」のたとえ

マルコによる福音書 4章1節〜20節 阪井牧師

  農耕方法が背景にある話としたら奇妙に思えた。種が落ちた場所からは普通の方法には思えない。道端、小石の石地、荊や雑草を畑にはしない。丁寧に、しかるべき地へ種は蒔くのが普通であろう。すると、この話は逆の意味ではなかったのか。福音が変容する初代キリスト教の時代を想う。聞いた人たちの情況や時代がたとえ話の<記憶>を解釈することも考えられる。そこから、先ず、イエスの言動を記録して残す動機を想う。福音という種を受け入れる畑・場所を自分と受け取る内容が一般的だが、その逆もあり得ると考えるのだ。<種を蒔く>そのことを話はテーマにしている、と。効率の悪い種蒔き作業は、福音伝道の現実と重ねるのだ。巻かれる筈のない場所に種が落ちる。それは、蒔いたのではなく、落ちたのだ。福音に出会うとか触れるのは、蒔く人の意志を離れたところでも起こるとか、または、無駄や徒労に見える種蒔きの業が主イエスの業と重ねることもできよう。すると、だからこそ、この私が救いに与れている、となり、恵の喜びを確認できる話となる。イエスの譬えは、強烈に印象深い。記憶された話が解釈を受けて結果を変え得る。いずれにしても、話の中に、真実があることは事実である。弟子たち一行には「神の国の秘密」として、その真実が語られた。ところが外の人々にはすべて<たとえ>で語られたとある(11節)。33〜34節の話の結びは意味深い。「聞く力」は、自分の拘りから解放され、主の霊に委ね用いられて現れるのだと受け取れる。感謝だ。

4月24日  <される>と<された>の違い

エゼキエル書 45章1節〜25節 阪井牧師

  体験者に近い認識を持っても、体験者自身のものとは異なる。エルサレム陥落とバビロン捕囚の民には、都と神殿の復興は願ってもない筈だが、余りの厳しい破壊を目の当たりにして想像以上の夢幻に受け取ったであろう。だからこそ、<主の命令>が記されている、と思う。嗣業とは、神から受ける務めとするなら、人の判断には依らないのだ。新しい戒めは、君主に祭儀の捧げものを受け取る務め告げる。それは、計量(秩序維持)の管理である。正義と公平の根拠は、神から受けるもの。いつの間にか人の都合が優先した過去を戒める。神殿境内で<きよめ>の業をしたイエスを想起する。「父の祈りの家」が「強盗の巣」にと怒られた。自分の都合に、神を盾にするのも同じである。当初、神を自分の言い訳にするつもりはなかっただろう。でも、努力をしている内に、自分が到達できる(これを<される>)としているのだ。神の民であるイスラエルを勝手に自分たちの業とすることに通じる。事実は、神がなした業(これを<された>)なのだ。その業に対しての求めがこの預言である。人が前を歩いて、その後に神を従わせる信仰に陥ることが課題である。人の声が大きく聞こえるときは、前に出たがっている人間の誤りを自覚する警告としたい。神の聖の領域がどれほど厳格に示されているかは、かつて歩んだ誤りを正す意図を覚える。願わくは、神の<みこころ>に敏感でありたい。子どもとして生かされている神の愛を<いつも>敏感に感じ、それに応えようとする姿勢を保ちたい。

4月17日 神の御心を行う人

マルコによる福音書 3章31節〜35節 阪井牧師

  日常がそうでなくなる時を経験している。これほどの不安と恐怖はない。ユダヤの世界(律法の世界)に顕れたイエス(神の子)の言動は、この日常を壊すものだったろう。イエスの活動地は、ユダヤの地であるが、ユダヤの僻地ガリラヤ、被差別のサマリヤである。律法の枠からはみ出した人々が周囲に集まった。女性、病人、人々から疎外されている人たちである。そこで、枠内にいる人一般から「気が変!」とか、枠の中心部の律法学者たちから「悪霊に取り憑かれている」の評を受けていた。身内は「取り押さえ」に来た。その記事がここになる。<外>は象徴的な言葉と受け取れる。イエスを枠の外へ引き出す<試み>は、内への引き込みである。イエスの働きは神のみ心を示し、真実の命への業である。一人の人が神の前に生きる恵の到来を受け入れられない人に、身内がいることを示すと考えるなら、非日常の言葉が意味をもつ。「私の母、私の兄弟とは誰?」は深い意味となる。血や家が枠を支える時代に、神の前に弧を示すイエスは、ユダヤ人だけでなく今日でも非日常になる。家族を無視することが言われているのでなく、真の関係を求めているのだと想う。イエスの前に座っている群衆が「私の母、私の兄弟」との言葉は、主イエスの言葉に傾聴していることが前提である。「み心を行う人」とは、主イエスの言葉を聞き続けていることだと想う。ルカ10:38以下の「マルタとマリア」の話を想起したい。「必要なことは…、良い方を選んだ」が嬉しい言葉に聞こえる。

4月10日 「信じる」ということ

ヨハネによる福音書 20章19節〜30節 阪井牧師

 この福音書の編集背後には、1世紀.末から2世紀初めの教会事情を意識することが必要と言われる。初代キリスト信徒がユダヤの会堂から締め出される現実があった。ユダヤ人キリスト者には、ユダヤ世界から排除されることを意味している。ユダヤ人社会に留まりたい人には、信仰的決断に揺れることであった。この現実は、今日の私たちの生活、家族・親族・地域・職場・学校などにも起こり得ると想像できる。キリスト教信仰から離れる人もあったに違いない。改めて、信仰の励ましの必要っを想像する。独りでいることのできないイエスの弟子たちは、一つ所に集まり、家の戸には鍵を掛けていた。「ユダヤ人を恐れた」とある。主イエスの甦りを確認して後なのに、喜び祝っている様子ではない不思議さを想う。その彼らの真ん中に、イエスが立って「シャローム=あなた方に平和があるように」と言葉をかけたのである。閉じ籠り、心固くしているその時の言葉がどのように響いたかを想う。平和(シャローム)は、神との関係に生まれる心の解放である。この言葉は、神との関係から離れようとする心を和らげ、縛りから自由にする主イエス自らがご自身を示して、新たな使命(=召し)を告げているのだ。不安や自己の呵責、そして恐れと閉じ籠る者を、あえて用いられる言葉かけである。それは、弟子たちの力量によらず、主が息を吹きかけ(=甦りの主イエスの命を委ね)でいる。神の霊が人(彼ら)を生きる者にした(創世記2:7)。自分の確かさは揺らぐが主の霊は人を生かす。

4月3日 闘いに集中する力

エゼキエル書 44章1節〜31節 阪井牧師

 先週はイースター記念礼拝であった。その出来事は人の理解を超えるもので、説明を試みると異質となる。キリスト教の出発がそこにあることは重要である。あえて説明するなら、神の働き(聖霊)があって受け取れることである。<万民祭司>の意図は平等だけではない。「信仰の良心」として神の前に立つことを意味する。平等だから協議して結論を得る類ではない。エルサレムの神殿に仕える祭司は、神を汚すことを禁じられた。ここ(エゼキエル44章)には、祭司規定がある。状況や人の求めに対応する機敏さは、はたして神に喜ばれるか。その厳しさを共に負うのが祭司である。「幻」で聞き示された言葉(5)節)は重い。「心を留め、目で見、耳で聞き…」は、徹底して神に向き続けることを求めている。神から離れないでいるには、この言葉が必要である。神から離れ安いのが私たちである。祭司の本来的使命は、神に仕えるために召されて、人に仕えるのである。その時、祭司は神に用いられ、人に喜ばれる。主イエスの歩みは、あの十字架への歩みであり、そこに「神の栄光」が示された。私どもがその栄光に仕える召しにあずかって祭司とされることを信仰によって受け取るのだ。分の力、力量で応えられるはずはない。だからこそ、私たちは主イエスに向き合うのだ。ペトロがガリラヤ湖上を歩いた記事を想い起す。風と波(=世間、人の世)に気が付いて溺れかかった話(マタイ14:22など)は示唆に富んでいる。「主から目を離すな!」は、禁止だけでなく、恵みでもあるのだ。

3月27日 復活ー信仰の問い

マルコによる福音書 16章1節〜8節 阪井牧師

 「きのうも今日も、また永遠に変わることなく(へブル13:8)」主イエスが私どもと共に生きておられる、甦りのいのち主である。信仰の源である。人が思い込んだり。決めて創り上げたものではない。十字架に死んだ方がその死から甦るイエスの出来事は人のものではない。つまり、人の判断に委ねられないから説明がつかない事柄である。説明をするなら嘘になる。そこで、聖書は事柄の事実を語り、記録するのだ。マルコ福音書の書き出しは「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き出す。その事実がこの記述で締めくくられている。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。…恐ろしかったから」である。事前に語られていたにしても、またどんなにそう願っていたとしても、喜べなかった。なぜかを想う。乱暴な例であるが、我々は、思いと現実の<落差>に戸惑う経験をすることがある。のみならず、思いがマイナスに作用することだってある。善意のはずが相手を苦しめたり、心に傷を付けるだりするのだ。婦人たちは、非常に高価な油を介整えて墓に向かった。そこには善意に立ちふさがる医師の蓋(壁)がある。それは、人の目に見える、触れるイエスを想ってのことだった。心を込めた<最後のお世話>であったろう。全く受け入れがたい現実に向き合った。主イエスの遺骸がない。聞いた言葉は、ナザレのイエスを探しているが、あの方は復活なさってここにおられない」であった。つじつま合わせどころか、これが福音なのだ。信仰が与えられることの真実である。

3月20日 イエスの最初の譬

マルコによる福音書 3章20節〜30節 阪井牧師

 教会暦で受難週となった。聖書記事はイエス一行の<エルサレム入場>である。過越祭の賑やかさと興奮の只中に入城している。棕櫚の枝(葉)を振って歓迎したので棕櫚の主日という。神の民の誇りに高揚する人々と、十字架に向かうイエスの姿は対照的。共に行動する人たちにも受け止められず、これ程の苦悩はない。最も近い者にさえ理解されていないのだ。「イエスが<家>に帰った」、とあることにその示唆を受ける。寛ぎと憩い、そして無防備の場所の<家>、いわば自分の居場所。そこに、大勢の群衆が来たのはなぜか。だからこそ、<イエスの真実>を求める人々を想う。律法という枠からの解放を求める姿を想う。解放の律法が、縛りになっている。枠外に放出され苦しみにある者がその解放を求めている。<罪の赦し>はそういうものだ。無意識に<枠>(=秩序)の中に喘ぐ者に通じる。身内は繕いに配慮する。律法学者たちは自己正当化の論理で批判をする。両者から誤解される中で、イエスの最初の譬が話された。@「内輪もめは成り立たず、家や国は滅びる」、A「強い人を撃退してこそ、その家を略奪できる」。人の子らが犯す罪や冒涜の言葉、すべて赦される。でも、「聖霊を冒涜する者は永遠に罪の責めを負う」こと示された。イエスは自分の意志や主張するのではなく、主なる神(父)のみ心を示していることを示す。神の愛であり、恵のみ心を顕すために働く神の子主イエスを受け入れることができない、そのことが恵から外れるのだ。恵みのうちに留まることを願う。

3月13日 栄光に輝くところ

エゼキエル書 43章1節〜27節 阪井牧師

 神殿境内の測量、その外壁測量を終え、<新しい神殿の幻>と内容が展開する。このテーマは「主なる神の栄光」である。それは、東を向いた門から神殿に大音響と共に入る。イスラエルの罪によって、エルサレムを退去する<主の栄光(11彰)の逆行>である。「見よ、主の栄光が神殿を満たしていた。そして神殿の中から語りかける声が…」と5節にある。これは、教会の姿に重ねられる。また、山上の説教「山の上にある町は隠れることができない…(マタイ5)」を想起する。幻をもって示された時のエルサレムの現実は、全く幻とは逆であった。町は、焼かれ、壊され、秩序は乱れ、神殿は礼拝さえできない様相の中での幻だた。これは、人の側からの判断が教会を決定的にしないことを示すことになる。「主の栄光が神殿に満ちている」とは、教会が人で満ちているのとは異なる。主の霊が満ちているところである。エフェソ1:3「教会は、キリストの体であり、すべてにおいて、すべてを満たしている方の満ちておられる場」とある。主の霊が満ちている、そこが教会である。主の霊が共におられる限り、人間の判断基準は重要でなくなる。0からでもマイナスからであっても、すべてを満たす方が共におれれる限り問題ではない。人の交わりの楽しさ、賑わい、建物の立派さが教会になるのではない。主の言葉、例の導き、主の幻を受けて具体的な現実の中を歩んでいく。そこに<主の栄光>が満ちるのだ。或る人の言葉「生活の中でみ言葉を支配してはいけない」を心に留めて歩みましょう。

3月6日 主は呼ばれる

マルコによる福音書 3章12節〜19節 阪井牧師

 講解説教でこそ向き合う聖書箇所にもなる。イエスが12使徒を選ぶ内容、その締め括りが「イスカリオテのユダ、イエスを裏切った」で終わる。このメッセージは何か。「その裏切りがキリストの犠牲を生んだ」と説く人がいる。期待と信頼に応えないために受ける心の傷を「裏切り」と呼ぶなら、ユダだけではない。ペトロも他の人たちもイエスの十字架の時に姿を隠したのだから。何故特別な説明になっているのかを思う。ユダは信頼を受け、応え得る能力を持つ人物だ。一行の財布(経済)の管理を委ねられていた(ヨハネ12:6、13:29:)。それだけに、イエスの期待に応える努力をした筈と想う。その努力が裏切りとなったのかも知れない。そう考えると、同じ要素が私たちにも認められる。主に呼ばれた者誰しも、<召し>の期待に応えたいと願う。その時、果たして<主の期待は何か>を改めて思うのは、自分の意志や主張ではなく、主のみこころである。そういう者を主イエスは選び、召されたであろう。そして、その者たちに自分を委ねられたのだ。委ね、期待、信頼するのは特別の関係の者に向かってなされるものだからこそ、応えたい思いが強くなる。ユダの裏切りはそこにあったのではないか。私たちと同じとの見方はそこにある。時や状況を判断し、数を気に掛けることも通じる。ご自分を賭けた<呼びかけ>に応えるべきは、聞き耳を立てて聞くことにあるのではないか。神の愛への熱を帯びた応答が裏切りにもなることを学ぶ。主のみ傍を共に歩ませて戴きたい。

2月28日 誘惑に勝つ信仰の知恵

エゼキエル書 42章1節〜20節 阪井牧師

 改憲の議論が熱い。今ある現状とあるべき姿との落差を意識して事。その声がどこからかが、また課題とも。「神殿の幻」はあるべき姿であろう。今ある現実は、礼拝のできるものではない。そこへ預言者エゼキエルは連れ行かれたのだ。余りに大きい落差をどう受け止めるか。説明ではなく、体験的にその幻の現場を見るている。気づかれるのは、神殿の境内壁は外から中への防御対策ではなく、中から外への対策である。つまり、神の聖が人の俗に汚れないためだ(20節)。主に仕える祭司の居るべき場所が整えられている。ルカ10章の「善いサマリヤ人」の譬に登場する祭司が重症の旅人を避けた理由を想像できる。「聖」への徹底さを見る。その心にどう感じるかは余地なしである。「聖」が「俗」に入り込んだイエスの言葉は重い。境内の壁を乗り越えるとは、受難と十字架を意味する。理屈ではない。信じて受け取るしかない。人の側から壁を超えることはできないのを経験させられている。信仰の意志と生活環境との壁に対して人は弱い。神の子イエス(聖)が、自分(俗)に乗り出して永遠の命の道となった。そのことに仕える祭司は他人ではない。これが「万人祭司」の持つ意味である。俗にとどまり続けてはならない。誘惑に勝つ信仰を歩みたい。祭司の居るべき場所、神の聖にこだわり続けることだ。それはそこで聖別された食(み言葉)を食べることである。人の知恵や経験、また情や感性に落ち込まないことである。信仰の知恵は、徹底してみ言葉に拘るべきを想う。

2月21日 求め−小舟の用意を

マルコによる福音書 3章7節〜12節 阪井牧師

 塊としての民を群衆と称する。一人の人格を見ていない。主イエスと弟子たちは会堂(ユダヤ人の生活の拠点)―あるべき場所―を出て湖の方へ立ち去った。ガリラヤからおびただしい群衆が従った、と。その背景に、ファリサイ派とヘロデ派の人たちの殺害計画の刺激を避けるためと考えられる。群衆は、他にユダヤ、エルサレム、および周辺部からも集まった。群衆に押しつぶされないため、弟子たちに<小舟の用意>を命じられた。イエスに触れようとしたからだ。一対多(大波)は効率的である。だが、イエスはその方法を避ける。群衆から身を引き、一人と正面に向き合うことを求めた、と受け取る。病み、悩み、重荷に喘ぐその人に向き合う。非効率そのものだ。ただ、塊は操られ、煽られるに弱い。学識や知恵者、情報利用者にそれを見る。歴史が語っている。バラバを赦し、イエスを十字架へ、と。気付いてからでは遅い。雪崩現象を食い止めることよりは、一人に向き合うことが重要を想う。福音を伝え、<神のいのち>を生きる喜びを共有するのは非効率でなければならないのだ。顔と顔と向き合わせ、言葉の意味を確認しながら人格が交わるところに教会の建設があるのだ。一対一の対応は群衆の勢いにつぶされる。教会の在り方に通じることを学ぶ。非効率かも知れない。一人が主イエスに向き合い、その足跡に自分の足を起きながら充実した<神のいのち>を喜び歩む姿は、群衆を避けて<小舟>を懸命に漕ぐ姿と重なる。主は弟子たち(教会)に命じられているのた。

2月14日 神のもくろみ

エゼキエル書 41章1節〜26節 阪井牧師

 年季奉公はその年季を過ぎるとお礼奉公となる。現代風にはインターンとか実習に当たるのだろう。教会にも神学生がそれを体験する。ただし、かなり無謀と思われる場合もある。知識や見聞だけでなく自らの体験が意味を持つのだ。このエゼキエルの幻経験は、失望と消沈の底にある<神の民、イスラエル>に立ち上がる力を与えるものとなる。その歴史で黄金時代に建った神殿と変わらない設計の計測を見た時の想いは2つの受け止めを想う。@幻は現実ではない。無理なものに映る。A神の示す約束である。あのアブラハムは、希望する術もない時にも、神に託して待ち望んだ。そして、信仰の父との名誉を受けた。<新しい神殿>の幻は人間の可能性にあるのではない。神の設計に従って建つとき、「父の祈りの家」となるのた。主が家を建て給うのであらずば、建つる者の勤労は空しきことなり…(詩編127:1)を想起する。また、からし種一粒ほどの信仰があれば、山を動かすこと…(マタイ17:20)を想う。イスラエルの民は、自ら歩んだ歴史の体験を信仰による恵みとして受け取った。出エジプトの物語は神の幻であった。モーセは自分がその力を持たない。だから、神に召し選ばれ、出エジプトの偉業に用いられた。何度もの問答は、用いられる僕を確認するためでもあった。人の思いや意志では神の家・祈りの家とならない。神の声を聞き、幻を受けて、それに従うこと以外に神殿の再建にならない。神御自身が働いてこその神殿建設が実現することの希望を与えられる。

2月7日 ことがらの中心に

マルコによる福音書 3章1節〜6節 阪井牧師

 怒りは、自分の正義を根拠に持つのが一般である。神の怒り、主イエスの怒りがそうであるように。そのイエスにファリサイ派やヘロデ派の人たちが怒る記事である。乳幼児が「大人」や「おや」に怒りを示すとしたら、その根拠はどうか。先の両者は本来的には対立関係なのに、イエスを殺害するとのことで一致する不思議さを見る。共通敵対の関係が一致の根拠なのた。それが正義なのか。殺害という目的による一致である。その過程は問わない、としたら飛躍そのものとなる。<無理が通れば道理が引っ込む>だ。ファリサイ派は<律法>を根拠に神に仕える人たちである。ヘロデ派はローマ覇権の下での傀儡王に仕える人たち。神の遣わされた<み子>に敵対している。場所はユダヤ人の集会基地の<会堂>で明確になった。そして、その外で殺害の合議をしているのだから実に奇妙である。主イエスの言葉や業に躓いたのだ。病む人の癒しが中心ではなく、安息日のきまりを破ることが躓きなのだ。だから、イエスはその本質に向かって<問い>をだされた。善と悪、命と死、救いが滅びという対立概念を置いて「どちらを選ぶ…」の問いを迫ったのだ。神の本位(正義)と人の持つ応え(主張)とが対立している。どちらの答えも出せないから沈黙をする。そこで「イエスは怒りそして悲しんだ」とある。律法と自己存在の矛盾がそこにあることを想う。イエスは既に、十字架と贖いを受け止めておられる。父なる<神のみこころ>に仕える姿がそこにある。主の恵みを喜びたい。

1月31日 主の手が私に

エゼキエル書 40章1節〜49節 阪井牧師

 戦後70年という一つの区切りが報道されてきた。フィリピンとの国交樹立50年の行事での慰霊の言葉が取り上げられた。この聖書にも一つの区切りを見る。捕囚から25年、都の破壊から14年の数値がそれを意味する、と受け取る。預言者エゼキエルに「主の手が臨んだ」と記事にある。神の計画が働いていることを示す。神の民として召され、使命を負った民が滅び、その国の指導者が捕囚の民となり、神殿は機能を失い、神礼拝もできない現実の中で、人々が過ごしたその経験は絶望と惨めさ、諦めしかない状態であったろう。日本の遺族に送られてきた戦死者(夫、父、兄弟家族)の遺骨箱の中身が石ころや紙や木を認めたその時の心境を勝手に想像した。ただ生きることが精一杯であったが落胆も相当だった。預言者を介して神の手が臨んだとの聖書記事は、重要な意味を持つ。生きることの目的、その力を神から受けたことをそこに見る。屈辱に苛まれる現実からの再生が始まるのだ。無念の悔しさをただ耐えるのではない。レビ記25章に<安息の年>7年と<ヨベルの年>50年の記述がある。14は完全数の2倍、25年は罪赦されて自由と解放のヨベルの年の半分である。イスラエルの歩みだしが始まったことを示している。預言者は、口で語るだけではなく、自らが見、聞き、こころに留める召しを受けた。それが実に具体的な神殿の再建の幻である。計測は神の人が伴って行われる幻をどう受け取るか。主が共におられ、復興計画を進められるメッセージを受ける。

1月24日 空腹だった時

マルコによる福音書 2章23節〜28節 阪井牧師

 ある安息日に主イエスと弟子たちは麦畑を歩いていた。のどかな田園をイメージするかも知れない。しかし、イエスと同行する弟子たちには昼夜を問わず、駆けつけてくる群衆に福音宣教に尽くしてきた。食事のヒマもなかったと想像する。歩みの場所に麦畑があり、弟子たちは穂を摘んで口にした。鎌を入れない限り許されていた。しかし、安息日にはユダヤのきまり(律法)に反することだった。ファリサイ派の人たちには放置できないために、先生に問い詰めたのだ。律法の大事な約束事を犯す行為に抗議をした。ところが、イエスは旧約の記事(Tサムエル21)を用いて応答された。「安息日は人のためにある」「人の子は安即日の主」の言葉の持つ権威に抗議の人たちは躓いた。自分たちの熱心が神の「みこころ」に反するとは受け止められないのだ。私たちの場合も同じことが起きるのを知らされる。熱心は自分を自惚れさせ、さらには他者への攻撃と変化する。神の恵みである律法(十戒)は、神にある自由の供与である筈が、禁止の束縛に変化していく。努力が神の意志に代わるものと思い込むことがそこに起きている。それは信仰に生きることではなく、倫理となる。恵みではなく努力の報酬にもなる。永遠の命の象徴が主イエス御自身であることをその言葉から想う。まことの人として主と共に生きることを確認する安息日を間違ってはならない。主日との呼び方は、そのことを意図している。神が主として人と共にいる恵みのひである。感謝して受け取りたい。

1月17日 不純さの除去

エゼキエル書 39章1節〜29節 阪井牧師

 詩編8:4〜5の言葉は自分を知る姿勢を示す。厳しい現実に壊れそうな自分を顧みる言葉、有頂天に自分への戒めともなる。神の前に思いを巡らす。イスラエル(神の民)の滅びは世をはかなむ現実だった。そこで、神の前に立つことによって新しい出発をした。塵に過ぎない<土くれ>が使命を持つ故の重要さを受取り直した。創世記2:7は創造者の意図を学ぶことが出来る。この書が捕囚の時に整理編纂された理由を見る思いがする。存在が神の手にあるとの信仰・確信である。塵に神の息(霊)が吹き入れられて<生きる>ことである、と。勝手な言い分に聞こえよう。それが信仰に生きることだ。土の器の使命は、盛られた宝を失わないこと、その必要に応えて運ぶことである。その時に備えるには、自分を鍛えることを想う。鉄は焼き入れ・叩く鍛錬をする。器は湯洗浄、熱湯消毒をする。バビロン捕囚を神による神の民の出発とした。新しい始まりが神にあるのだ。神が人の歴史に働かれる証人となっている。歴史に働く神は、他の人を用いてその時を支配される。神の思いは滅ぼ苦しめることが目的ではない、神の前に正しく歩むことをすべての民に示す方だ、と預言者エゼキエルは語る使命を受けた。私どものキリスト信仰も、新しい出発への使命を受けているように想う。それは、自分の思いや主張である筈がない。結果は神の御心にあることを知りたい。御心には悪(サタン)が対抗する。それは、他でもない、自分の中にある。どう除去するかを想う。神の言こそが……。

1月10日 古さと新しさの関係

マルコによる福音書 2章18節〜22節 阪井牧師

 教養があり、信仰熱心な人たちを相手にイエスは語られた。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究している。ところが聖書は私について証しするものだ(ヨハネ5:39)」。ここでの聖書は今の旧約である。主イエス以降の書を新約としている。つまり、新約が生まれ、今までの聖書が旧約に変わる。そして、モーセの書とも言う。相互が補完し合う関係で、新と旧が併存する。否定の関係ではない。イエスに対するファリサイ派の人たちや律法学者たちは否定関係で捉えたから激しくならざるを得なかったと言える。出発を春と称することがある。新年はその意味で春だ。ここで語られる譬の<新>と<旧(古い)>は補完の関係でない。新しい布きれで古い衣服を繕うなら破れが酷くなる。新しいぶどう酒を古い革袋に入れると破れ流れ出す。断食の話がそのように展開している。主イエスは<新しいいのち>である。古い<律法>で受け容れることの無理が語られているのだ。キリスト信仰は、新しい出発<春>であるから、古い生活の知恵や経験で受け容れようとするなら、破れや中身の流出が起こる。<花婿>主イエスを迎えている婚礼の客(弟子たち、キリスト者)は、今断食をしない。奪われる時には、<断食>をする、と話された。自分の経験や知識・能力を主イエスの<新しさ>で繕い、古い革袋に新しいブドウ酒としていないかを問われる。新しい<いのちに満ちた>主イエスの言葉は、滅ぼし壊すためでなく、救いへの恵みとして正しく受け取りたいと願う。

1月3日 主の言葉を聞く

エゼキエル書 38章1節〜23節 阪井牧師

 旧約聖書の預言者ホセアとアモスは、対象的な特徴を持っている。自分の対面や権威を失ってでも民を愛する<神の愛>を語る。一方は、神の徹底した厳しい怒りの裁き=義を語る。アモスの言葉「パンに飢えるのでなく、水に渇くのでもない。み言葉を聞くことできぬ飢えと渇きだ(9:11)」は強烈である。魂への飢饉(飢え)と表現を変えても良い。現代の世相に通じる現実が表現されている思いを持つ。現代の貧困を訴える人たちの指摘を想像する。何か特別に生活の支障はないけれども栄養失調や貧困さを<格差>との表現で扱っている。どういうことか。イスラエルの裁きは、神から離れ背反の罪に対するものであった。神の計画や意思(み心)とは関係なく、自分の思いや主張を神のものとした。その裁きの道具であるメシュクとトバルの軍団であった。すでに、防具の武器や警備のないイスラエルの民を自分たちの知恵と経験で攻撃に向かおうと備えている人々に、主なる神自らが<立ちはだかる>とエゼキエルを通して預言している。つまり、メシュクとトバルは神を敵にすることになるのだ。彼らも、その周囲も「主なる神を知ること」が目的とある。自分の力を<神のもの>と主張する愚は現代にも通じる。恵みや祝福が罪に陥ることの悲しさを見る。他よりも優れ、勝る存在だと自負する誤りを犯すのが我々の事実であろう。神のみこころを正しく受け取り続けるにはどうするべきか。語りかける主に徹底して信頼するあのアブラハムに倣う信仰を祈り求めることである。


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新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
       (c)日本聖書協会 Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988


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