日本バプテスト同盟
戸塚キリスト教会
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12月31日 あなたの心はどこに?

ルカによる福音書 2章22節〜34節 阪井牧師

 年末に届く喪中ハガキは「年末年始のご挨拶〜」とある。それにクリスマスは含まれるのだろうか。クリスマス行事の時に起きた「ご不幸」の前夜式でのッセージに「クリスマスは死を飲み込んでいる」との理解に立ってクリスマスのお話をした、と聞いた。悲しみや痛みの最たるものは死ゆえだ。その時の話は、その深さを乗り越えさせるクリスマスのメッセージだ、と確信したから。人を根底から生かす方との出会いを知る時との確信を強くしたという。信じる者すべての者を罪と死から解放する、十字架を引き受けることのための誕生を祝うからだ、と。清めの期間を得て神殿に来た赤ちゃんイエス家族に出会うのはシメオンである。祭司や礼拝者がいるのにメシアと意識できない多くの人の中でその人はこの時を待っていた、と。律法の順守(秩序を保持)する人々の中に神が現れたのだ。これが約束の成就であることを福音書記者は明確にしている。人の子と生まれた方が神の人であることを受け留めるのだ。親はもちろん、人々もシメオンによって証しされている。シメオンはあの新約の中でイエスの最初の弟子量子ペトロの名と同じで、「神はきかれた」の意とある。マリアは神の支配の下でその母となるのだ。「お言葉通り、こ身になりますように」の信仰を受けることになる。神の前に出る<礼拝>は、自己実現ではない。神が神として、人が信仰に立つとき、人が真に神に生きる人となることである。人の敬虔さやその意思を表明するのではないのだ。

12月24日 闇の中に輝く光

ルカによる福音書 2章1節〜20節 阪井牧師

 イエス・キリストの誕生を祝う日のクリスマスである。当時の社会や歴史の情況説明がここにある。強大国ローマの支配下にユダヤがあり、傀儡のヘロデ政権という二重構造の元に誕生物語が展開している。ダビデの家系の若きヨセフは、聖霊により身ごもったマリアとユダヤのベツレヘムに旅した。この若きカップルは壊れかかっている家庭形成期かも知れない。旅先の宿の馬小屋に(巷の賑わいから外れて)イエスが誕生した。その時、住民登録さえ問題にならない(政治の枠外の)羊飼いたちは、主の使いからメシア誕生告知を聴いた。彼らの日常生活とかけ離れすぎた、全く異なる世界の現れに直面する人への「恐れるな!」であろう。「生活する」または「生きている」ことの根底が揺れるからとも言える。天の使いに天の軍勢が加わる栄光讃美は、彼らを立ち上がらせ、イエスに会うため探し求めた。その体験を人々に話し、自分の生活の場に帰って行ったのだ。これを情景としてイメージすることに慣れていないだろうか。ある人は「クリスマスは誰のためにあるのか」と問い、世界や人間という抽象相手ではなく、「この私=自分のため」だと言う。自分の生活に日々精一杯を過ごしているその現場に、主が近づいて語りかけているのだ、と。誠実に、勤勉に、忍耐を重ねる生活である一人ひとりに語りかける「神の言葉」の到来がこのクリスマスなのだ。不安を超えたマリアの言葉が自分の言葉になるよう祈りたい。「み言葉どおりこの身になりますように」と。

12月17日 喜びおどる子

ルカによる福音書 1章39節〜45節 阪井牧師

 讃美歌21-234にアドベントの歌「ヨルダンの岸で」に「〜キリストを迎える道を整えよ(2節)…」がある。バプテスマのヨハネの記事を背景にしている。或いはイザヤ40:3〜を想起するかも知れない。マリアがイエスの受胎告知を受けたのはローマの傀儡政権ヘロデの時代である。ローマから自由になるユダヤの民の願望が高まった時代でもある。天使から「恵まれた人よ…」がどのように受け止められたかは、「私は主のはしためです。…」と応えたとある。その少女マリアがガリラヤのナザレからユダヤの山里にいる親類(祭司の家系)エリサベツを訪ねたのだ。なぜかは想像するしかない。高齢者エリサベツには6ヶ月の胎児がいる。マリアの挨拶にその「胎児がおどった」と。動いたというのではない。イサクの妻リベカの胎の子ども達は押し合うとある。内部(2つの民)の争いだとそこ(創世記25章)に説明がある。「おどる」のは、喜び迎える姿を表現している。神の子を宿すマリアの訪問を胎内の子がおどり迎えている。ルカ11:27の記事を意識して、御子を宿した母を称えた群衆の中からの女性の声にイエスは応えた。「神の言葉を聞き、それを守る者こそ…」と。親類のエリサベトは少女マリアに向かって「わたしの主のお母さま」との表現を心に留めたい。信仰の告白をみるからだ。生活の知恵や経験、或いは理性からは強い抵抗を覚える主イエスの誕生に関わる記事である。神のみ業がなされることを受け取る備えがこのアドベントである。主が来られるのだ!

12月10日 イエスの誕生予告

ルカによる福音書 1章26節〜38節 阪井牧師

 天使から「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」の言葉を聞いた女性がマリアである。12・3歳の少女は「戸惑い、この挨拶は何か」と考え込んだと記述された。天使がガリラヤのナザレに出向いたこと、少女は法的には結婚が成立していた。ただ、同居はまだ。戸惑いは当然である。見知らない方からの「挨拶」を考え込んだ、とある。どう考えても<迷惑>そのものだ。世界の歴史に関わる出来事が自分の身に…と考えられない。「主が共におられる」の言葉はどう聞こえたろうか。「どうして」、「なぜ」私なのかの恐ろしさと不安に悶えたろう。精一杯の応答が「どうして、そのようなことがあり得ましょうか」である。「お言葉ですが…」を想起する。神が人の世界に何事かをなさろうとする現実であっても、<こちら>の都合もあろうというものだ。確かに同意できる。しかし、私という存在はどうか。「なぜ」「どうして」私なのかに決着はついているか。信仰において<神のみ心>がこの私である。アドベント(待降)の時はここに到達するための期間でもある。自分の都合はどうあるにしても、<神のみ心>が<私>に、<あなた>に注がれていることに気づくことに関係している。小さい、弱い、貧しい、愚か、…は、こちらの都合だ。クリスマスは、<神がこの私に心を注いでおられる>に気づくことを求めている。新しい歩みはこの<気づき>から始まる。神の前にどのような言い訳があろうか。アーメンで歩くだけ。

12月3日 主の選びに応える

アモス書 6章1節〜14節 阪井牧師

 「限界集落」なる言葉がある。空き家対策が報じられていた。施設などを近代化するなら状況変化が得られるか。一時的でしかないなら悲しい。限界の克服は、そこでしか味わえない発想が貴重だと。今、教会はそれに近い状況。高齢化と少数化である。どうするかを想う。預言者アモスは、今現在生活の潤っている人々に語り掛けた。神の民であることの質が変わっていることを気づかせようと語る。神の裁きは、民を消し去ることに目的があるのではない。民として召されたことの使命への覚醒である。裁きの激しさや徹底さは、頑固さへの対応でもあるろう。決して逃れられるようなものではない、と語る。サマリアの人々、特に民の指導的立場の人のことが具体的に語られている。人々は神に向かって生活を続けているのにである。主が喜ばれないのはなぜか。民の選びはその能力や実力にあるのではない。むしろ、神の憐れみなのだ。するべきことは、その事実に目覚めること。神の働きかけがなかったなら、民の存在それ自体がない。自分の実力が現在の繁栄と見ている。神を神としない罪がそこにある。<神の前に生きる民>を失っているから、預言者を通して気づかせようとされている。使命は繁栄を楽しむことではない。神の祝福を地の果てまでもたらすことにあった(アブラハムの召しの記事を参照創世記12:1以下。神に立ち返る機会としてクリスマスがある。選びに備えたい。アーメン。

11月26日 知恵の使い方は?

マルコによる福音書 12章13節〜17節 阪井牧師

 「税金論争」として有名。社会的地位と権力を持つ人たちからイエスに罠をかける質問。合法的抹殺への操作となる。是か非かの問いは、どちらの答えも抹殺結論へと至る知恵の極み。ユダヤの律法に反するか、ローマ政府への背反かの問い。事前に、問いから逃れられない策(くさび)が公衆の面前で置かれる。主イエスは@真実な方、A誰をも憚らない方、B人を分け隔てをしない方、C真理に基づいて神の道を教えておられる方と「知っている」と言う。知恵を絞った問いは、ローマ政府への納税がユダヤの律法に適するか、否か。どちらの答も合法的な違反である。イエスの答え@なぜ、私を試そうとするか。<真実な応答>。Aデナリオン銀貨を見せなさい。誰の肖像、銘か。「皇帝のもの」との応答は、問うた側で答える妙がある。<誰をも憚らない>。B皇帝のモノは皇帝に返しなさい。<分け隔てしない>。C神のモノは神に返しなさい。<神の道を教える>。神は世界を創造され、すべての人は、神にあって生き、神に向かって生きる存在を確認させる。イエスの道を封じる意図が凌駕される。皇帝と神の並列ではない。皇帝も神の被造であることを示すものだ。すべてのものが神の秩序の中に成り立っていることを正しく認識することが<知恵の初め(箴言1:7)>との言葉を想う。世界の秩序、世界の平和は、人間の知恵の結果ではない。神を畏れることにあることを示される。この方の誕生を待つ時が差し迫っている。

11月19日 主を求めよ、そして生きよ!

アモス書 5章1節〜27節 阪井牧師

 言葉は「言の葉」と表した。木の葉をイメージする。前言を簡単に「ひるがえす」ことを意識する。しかし、聖書は違う。大げさに聞こえるだろうが、存在と関係する。世界の創造物語(創世記1章)は、神の言葉によって創られ、主イエスの誕生は「言葉に命があった」(ヨハネ福音書1章)とある。これらは信仰の告白である。ある意味、自分の存在さえ神の言葉に依存していることを示す。<武士に二言はない>の武士は、主君の意志に自分の存在を委ねる。自分の主張はあっても表にださないのに通じる。敗戦後に軍人であった人の「世の変化に動かない生き方・価値ある人としての生き方」を求め回顧がある。まだ繁栄を楽しむ人々(北イスラエル)には<アモスの預言>は現実的ではなかった。「主を求めよ、そして生きよ」の言葉は<心の耳>に届いていない。自分の基準を<はかり>とした生き方で正しい歩みを続けているからである。ユダヤの伝統や先祖たちの歴史を重んじる姿勢は<神のみ心に適っている>とする歩み方なのだ。ところが、アモスはそれらを否定する。「主を求める」は、人間の正しさではない。神に<いのち>を与えられた人として生きる求めである。その意味で、学問の真理探究は<人間の限界を知る>になり、<神を畏れて生きる>になるように思う。キリストと共に歩み、ときに、キリストの十字架を共に担うことになる。祭儀(形式・方法)や裁判(歴史伝統・秩序)より神の義と神の求めへの応答が重要である。

11月12日 気づきの鈍さ

マルコによる福音書 12章1節〜12節 阪井牧師

 イスラエルにあっては、木の下にいる生活は平和と安定の象徴でもある。ここでの主イエスのたとえ話「ぶどう園の農夫」の背景を意識する(参照イザヤ5章)。実を結ばせるためのぶどう園(イスラエル)の準備は徹底している。それを農夫(民らの指導者たち)に委ねて旅に出た。収穫の時がきて、受け取るために僕(預言者)を次々遣わした。最後に息子(イエス)を遣わしたが、相続を得る機会(十字架の殺害)にした。ぶどう園の所有者(神)はどうするだろうか。少なくとも、農夫たちは神を否定しているとは想っていない。自分たちは正当性な務めを果たしていると「何の権威、だれから(11:28)」の問いに現れている。神殿での神の子の言動に対する批判の問いに対する応え(「たとえ」)がここにある。「たとえ」は今日のキリスト教の教会へも向けられている、と受け取れる。<託された務め>を<自分の事柄>にしたい思いがそれである。「収穫の時」とは、自分を顧みる時、神に向かい合う時である。繰り返し僕(神のみこころ)を遣わしたのに、拒否し、意識的に否定をされても、ぶどう園の主人が敢えて愛する子(イエス)を遣わす本意はどうか。「たとえ」を当てつけと気付いた、とある。悔い改めの<時>であった。しかし、群衆(人への関心)を恐れて、この機会を逸した人たちはそこを去ったのだ。主イエスに対して徹底拒絶を腹に秘めてであった。主イエスの問いは、責めや裁きでなく、<頭がおかしい>ほどの深い憐れみと恵みであった。

11月5日 主に会う備えを

アモス書 4章1節〜13節 阪井牧師

 1517/10/31を意識する。信仰の闘いがそこにあった。信仰義認の表現は軽過ぎて感じる。神からの語りかけを聞き、必死になって神に向かう信仰告白の業の結論である。南ユダの地方・テコア出身の一農夫アモスが、北イスラエルに出向いてきて強烈な信仰批判の預言活動をした中にそれを想う。北イスラエルは大いなる繁栄に満ちた生活に浸っていた時であった。至極迷惑で、余計なお世話である。徹底した男尊女卑の世界であっても(サマリヤの)高貴な女性たちは、贅と我儘を楽しんでいる。自覚はなくとも、そこに貧しく生活が追い詰められた人たちがいる。日本のオリンピックの関連事業にもその徴候があるらしい。生活困窮者や高齢独居者は、民泊住宅化のため閉め出されているのだと。ベテルやギルガルは神を礼拝するところなのに、自分の敬虔さの誇示や献納の期待で賑わう情況を神の裁きが臨むと語るのだ。神に立ち帰る機会は過去に何度もあった。渇水、凶作、災害、疫病、飢饉などである。神は神の民を恵み、彼らがその使命に応えることにより、すべての民の救いを望まれる方である。なぜ、神の前にでて「み心」に反する礼拝をするのか、と問う。「人は向上するために求めることはひつようだ。求めすぎてはいけない。」の田舎の老人が語る言葉は重い。人は自分中心になりやすい。主イエスを遣わされた神に心を向けたい。十字架の死にまで罪ある人間に委ねられた。その方への時を備え待ちたいい。

10月29日 権威を問う者

マルコによる福音書 11章27節〜33節 阪井牧師

 10月の終わり、街中は<ハローウイーン仮装>に沸く。教会は500年の記念を意識した。それにしても、現代は<いのち>が軽んじられて見える。その「おかしさ」は他人の<いのち>である。どこにその原因があるのか。教育か、社会か、それとも個人に問題がと逡巡する。「教会の常識は社会の非常識」の言葉を想う。主イエスの受難週の言動はその極みと言える。エルサレム入城(日)、宮清め(月)、その翌日(火)がこの個所である。その金曜日、つまり3日後は十字架の死である。神殿の管理と運営の責任者たちが祭司長(儀式)、律法学者(解釈)長老(行政)の代表者たち(複数)は、主イエスに神殿での言動の「権威」を問う対面をした。世の秩序から神の子に問う。結論が既にあって(18節)の問いだ。人間が神を問う場所が神殿であるのは「おかしい」。その応答がイエスからの問い「ヨハネのバプテスマは天からが地からが」。応えられない理由は、人の根拠に立つからだ。私たちの教会はどうなのかを想う。円満で和やかな世界を求めることは悪くない。エジプトでのイスラエルは、神の民であることから外れかかった。そこで荒野に導かれ、そこで神の民の核心を受けた。神との出会いは、神殿のある都ではないのだ。ヨハネはヨ都を離れたルダン川のほとりで「悔い改め」を迫った。自分の持ち物が多い時、神の領域を離れ易い。とりわけ、自分の権威(?)には固執しやすい。神の前に小さくとも<それ>を差し出す所に信仰を与えられるのだ。

10月22日 告げられた言葉

アモス書 3章1節〜15節 阪井牧師

 オレンジと黒色の装飾が目に付く。子どもの楽しみが大人にも移行し始めた。「非日常の自分に魅力」とか「新たな連帯感の登場」または「書き換え可能な自己追求」などの評がある。宗教色を見ることはない。500年前の社会も「占い」や「迷信」が氾濫していた。人々の不安解消や注目集めで宗教的環境を意図した(カトリック)教会への信仰の本質を自己の信仰苦闘から発した公開質問が宗教改革の発端と言われる。一人の修道士(キリスト教徒)の問いが世界史に残ることになった。アモス預言者は、<神から聞いた言葉>を自分の内に収めきれず(例エレミヤ20:9)南ユタ゛から北イスラエルに出掛けてまで語った。そこには、自分の主張、思いはない。命令ではなく、内なる欲求からであることを受け止めたい。イスラエルが選ばれた民である、とは神の選びの意図がある。しかし、それを勘違いして傲慢に陥った。<神の裁き>は、神の選びに正しく応えていないことへのものだ。選びは、神と人との関係に成り立つもので、人だけの理由を考える時大きい誤りに陥る。神の意志を問うことなく判断することは赦されない。裁きの厳しさである。選びには<使命>が伴っているのだ。アモスの預言活動の根拠は、この事実を伝えていると受け取る。今日の教会にも、この預言者の意図は響いている。教会に召されたのは、良き市民生活を営むことに終始してはならない。<使命=告げられた言葉>を正しく受け取る者でありたいと願う。

10月15日 山に向かいて

マルコによる福音書 11章20節〜25節 阪井牧師

 部分だけで全体を味わう不思議さを想う。音なしで総譜(スコア)を楽しめるなど。イエスの行動や言葉からそんなことを考えた。前日の<宮清め>の直前の「イチジクの木」の話がそうだ。「繁る葉」は「神殿境内の賑わい」を象徴し、「実がない」は「信仰の真実=救いの喜びがない」であろう。そこでのイエスの言葉と行動は、問いまた警鐘を意味する。更に、宮清めの翌日(火曜日)の朝の記事は不思議である。あれだけの(葉の)繁り、(宮境内の)賑わいが根元からの枯れ木になっているのだ。それなりの成長と勢いが消える様子は、あってはならないことだ。神の民(教会の存在)が意味を失うを意識する。真実な祈り(の家の使命)がなされていない。そこで主に従ってきている弟子たち(=教会であり、神の民)に向かって「神を信じなさい」と語られた。祈りは現実の力としては見えない。でも、神の恵みの<力>が既に与えられている事実はあるのに、確信を失っていないかを想わせられる。自分の主張が祈りではない。神のみ心が「私どもの内に既にある」のを働かせることが祈りであろう。神のなさることに自分が加わったり、代わって行うことにならないで、神がなさること、私に求められるところを喜び証しすることである。その結果、予想だにしなかった結果が目に映るのだ。「山を動かす」のは主のみ業である。教会の成長も同じように想う。共に惠の豊かさを「主に向かって」喜び続けたい。

10月8日 恐れを忘れる事への警告

アモス書 2章1節〜16節 阪井牧師

 相互不信の関係を象徴して<契約社会>と呼ぶのに対し、<気心社会>という関係がある。今日の情況は進歩した関係社会と考えているがである。聖書の鍵言葉にある契約は、自分、家族、部族全体の存在に関わるものだ。遊牧の民には家畜は存在の基礎でもある。そのために神殿礼拝に犠牲を捧げる行為は、神との契約違反「いのちの犠牲」への恐れを伴っている。いのちの厳しさ、生かされる重さを意識する。神殿境内での主イエスの<宮清め>は、神礼拝を妨げる人間事情への真剣且つ激しい抗議である。アモス預言は、神との真の(契約)関係への問いである。イスラエル周辺諸国へは人道的審判だが、イスラエルには神関係を問うのである。神の創造の意図に反する行為や神の前での権利主張が宗教と政治の責任者への糾弾の理由となる。しかも、神の名においてなされることへの裁きは極めて厳しい。弱い立場の者、貧しい者への糾弾は、人道の問題でなく、神との関係、信仰の事柄なのだ。隠れた所で行われ、企てられる不正に神の支配が及ばないとする発想は裁かれる。世界を支配し、すべての人の救いに<御子イエス>をもって望まれる神を忘れてはならない。私たちの日常生活にも「神の支配」があることを意識することは困難である。<機を見て敏>や<決断の時>を誇る者となっているなら、神の民としてどうだろうか。<地を振るわされる>ことへの姿勢を想うべき今であろう。主の十字架を負う者に。

10月1日 祈りの家と呼ばれる

マルコによる福音書 11章12節〜19節 阪井牧師

 日本は秋祭りの時期となった。故郷を懐かしみ、旧友との邂逅の機会ともなる。旧約聖書の祭は神礼拝の時であり、ユダヤ人の務めの時でもある。イエスのエルサレム入城はその一つ「過越しの祭」の時に重なる。生活慣習の諸規定が礼拝を妨げる結果を生んだ。その是正が「宮清め」と受け取れるように想う。随分乱暴な神殿境内でのイエスの行為には理解できないし、戸惑う。「宮清め」の話直前にある「イチジクの木」の話もまた乱暴に見える。繋がりをどのように受け止められようか。<理不尽さ>を考えるならメッセージが得られない。神の秩序を人間のそれで理解することの誤りを指摘しているとも受け取れる。神を神として礼拝することは当然であるのに、人間の論理が支配をする時、神の真実が歪んでいくのだ。<神を礼拝する>が目的であるのに、礼拝を妨げる現実を産み出しているのが神殿境内の情況なのだ。それが<人であること>を妨げることになっているのだ。「主イエス・キリストが贖いとなられた」ことへの懸命な対応が主の惠みを拒むことになるとは思いもよらない。Tコリント6:19以下に「あなたがたは神の栄光を顕す神殿である」旨が記されている。神殿の真の務めは礼拝である。密室の祈り、祈りの家への妨げは、強盗の巣になることを学ぶ。犠牲を必要としない礼拝は、主イエスによってもたらされている。これは人の理屈に合わない。だから神の子をさえ十字架へとなる。平安を味わいたい。

9月24日 主の声はとどろく

アモス書 1章1節〜15節 阪井牧師

 旧約聖書アモス書の学びに入る。ホセア書と並んで紹介される小預言書である。その特徴は、体験的に<神の愛>を預言するホセア預言。対してアモス預言は、南のユダ王国から農夫のアモスが<北イスラエル王国>に出掛けて<神の義>を語る。北の人たちから見ると、全く余計なお世話に映るとも想う。実際の歴史では、アモスの預言活動から約30年後に北イスラエルはアッシリアの力に屈し、滅亡したのだ。冒頭に「あの地震の2年前」との説明は、秩序の根底が揺れる象徴の意味を意識する。それまで有効であったものが揺れて、人心は不安を起こすであろう。正義と不正または真実と虚偽との分別が重要であってもその基準となる根拠はどこに求めるのかを想う。アモスは、<主の裁きの言葉>が驚異的な響きとなって語られ、声は世界の隅々にまで轟き聞こえるとの預言から始める。これが説教題の根拠である。生活の順調さ、世界の安定さに浮かれている最中に、「神の裁き」を語って誰が耳を傾けるか。しかし、神を神とするところに、人が人として生きることが出来ることを示すのである。神の裁き相手は、イスラエル(ユダヤ人)の周辺で神の意に反した人々だと。先ずダマスコ、そしてガザ、ティルス、エドム、そしてアンモスが裁きの対象である。理由がそれぞれ示されている。今日の我々にも通じる。神の言葉が宙に浮いているよう。聞き取る人がいるのだろうか。便利と物質の潤沢、また自分中心の生活は安定して見えるのだが…。深い学びだ。

9月17日 主がお入り用です!

マルコによる福音書 11章1節〜11節 阪井牧師

 生活の中で聞いた言葉は不思議だが印象に残っている。弟子たちは主イエスから受難と復活の予告3回も危機を聞きながら印象に残した。エルサレムに向かう旅でエリコを経て、都への直前で「子ろば」の必要を指示された。話されたとおりの状況が展開した。指示が確かであったことは認めるも、全体が理解出来ていたのではない、と思える。指示の中にある主の言葉「主がお入り用なのです」は重要に思う。今までイエスはご自身を「人の子」と称され、「主」との用法はなかった。父なる神と一つである「み子」を意識する。そうすると、エルサレム入城の場面の意味が明確になる。ゼカリヤ書9章9節以下の言葉が成就しているのだ、と。「王が入城する」のは軍馬でなく、平和の王として「子ろば」に乗って、となる。戦いの弓は折られ、諸国の民に平和が告げられる…。真意を解することが出来ない弟子は連れて来た「子ろば」の背に自分たちの上着を敷き、他の弟子たちは道に上着を敷いた。すると、多くの群衆は、野原から切り取ってきた木の枝葉(多分ナツメヤシ)を敷き、讃美をしながら十字架刑が待つ都に入った。これを記念して<棕櫚の主日>と呼び、受難週の初日としている。これがイスラエルの記念する<過越の祭>の時であったため、民らは興奮して騒いだとも受け取れる。主イエスは、確実に父なる神のみこころを受けて十字架への道を進んでおられた。主イエスを王として迎える喜びが真実なものとなるよう祈り続けたい。

9月10日 主は避け所・砦

ヨエル書 4章1節〜21節 阪井牧師

 詩31編にダビデの詩とある2節に「主なる神に祈り求める言葉」に、「私を救い出して下さい。砦の岩、城塞となって下さい」がある。その主なる方の言葉として預言者ヨエルは窮地からの救いだけでなく、主による<繁栄の回復>を宣言している。主の約束は失われることがない。「その時」に備えを語るのだ。人は、自分の願う時と方法に心を注ぐ。しかし、神の時は、人の思いと必ずしも重ならない。だからと言って、約束は無いものとすることは間違いだとアブラハムの物語から教えられる。もがき、喘ぐ者には必死であるとしても、神の意になるわけではない。時には、神に背き、意に反する事にもなりかねない。神の時が来ていないのだ。イエスのガリラヤ宣教の言葉を想起する。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」を意識する。イスラエルが混乱して秩序が保てなくて<もがいた>が<みこころ>ではなかった。神はイスラエルを、そして、イスラエルを混乱させた周辺の民(フェニキア、ペリシテ、エジプト、アッシリア、バビロニア)を神が裁く、と。それが「その日その時」である。神に招かれ、約束を受けた者には、平等と平和が与えられ、神を神として礼拝が出来る、とある。まるで、理想郷、エデンの園・神の祝福の象徴的世界である。闇の世界に<命の光>の到来である。主イエス・キリストは自らの十字架により罪を贖い、全ての者に救いのしるしとなられた。主と共に生きる者に砦・岩として。

9月3日 道端から叫ぶ声

マルコによる福音書 10章46節〜52節 阪井牧師

 ユダヤの「祭り」は神との関係で行われる。「過越し祭」は出エジプトの記念である。主イエスの十字架の出来事はこの時と重なる。多くの人々が各地方からエルサレムに集まる時で、主イエス一行がエルサレムに入場するのはその時であった。その直前の記事がこの個所となる。ガリラヤからエルサレムに旅する時、エリコの町は準備と休息の場所であった。その巡礼者に施しを求める人が道端に並ん厚意を求めていた。だが、イエスに声を上げて呼びかけた人(盲人)は「ダビデの子イエス…」と叫んだ。人々は叱り、黙らせようとた。だが、主イエスは彼を呼んだ。躍り上がり、上着を脱ぎ棄てて主の前に出たのだ。尋常のようすではない。声が届いたそのことで十分だったのだろうか。イエスの問い「何をしてほしいのか」に、「目が見えるようになること」を彼は求めた。ここには、主イエスと直接出会い、意志を明確にすることに導かれている。結果、「行きなさい」である。「目が見えるように」でもなく、触るわけのでもない。不思議だが主イエスの彼への続く言葉は、「あなたの信仰があなたを救った」であった。マルコ福音書が他と少し記述が異なる意図を想う。信仰への障害や妨げ、自分の確認や保障が問われない。どこまでも主イエスから離れないで従った。エルサレムで十字架に付けられたイエスの叫びを、<神の恵み・罪の赦し>と受け取ったかも知れない。今日の教会の姿・私たち自身の信仰が支えられていることを覚える。主の力を受けて生きたい。

8月27日 主の霊注がれた者

ヨエル書 3章1節〜5節 阪井牧師

 近年の異常気象は農業生産や日常生活に影響が出る。不思議な情況に驚いた。ハウス栽培にクラシック音楽を響かせるのです。植物は話しかけや聞き取りが出来るからだと。不思議さが使徒言行録2:17以下にこの箇所が引用されていること。何故か気になっていた。聖霊降臨の記事に続く記事である。「一同が一つになって集まっていた」時に、風のような音が響き、炎のような舌が一人ひとりの上に留まった。すると、彼らがそれぞれに神の偉大な業を話し出した。驚く人、怪しむ人、戸惑う人、極めつけは嘲笑う人があった。自分が判断の基準であったことを想定する。感性や心の状態、積み重ねてきた経験の枠からはみ出した事柄は間違いや誤りとし、自分の命の支配者である神をさえ判断の対象にしていることになる。今日の教育が果たしている役割を想う。神から委ねられた言葉(預言)や幻、夢は真実と受け取れないのだ。娘、息子、老人、若者に過ぎないと見てしまう。神の真実が分からないのだ。神の霊が注がれると、霧や霞や雲に覆われていた真実が見えてくるのだ。これが教会の誕生の出来事・ペンテコステである。神が人になって生まれたことは、人の能力や経験で受け留められる筈はない。罪を代わって担い、その死から復活して全ての人の希望、今も語りかけ続けていると何故受け取れるのか。 <信じる>としか説明出来ない。ここに教会の証しがある。自らが変えられるのだ。

8月20日 蟻の世界を…

マルコによる福音書 10章35節〜45節 阪井牧師

 言葉を縮めて簡素化する時代傾向に批判の声欖を読んだ。失われ、伝わらないものがある、と。世が関心の蟻は「ヒアリ」。しかし、説教題は箴言6:6以下に依る。首領、指揮官、支配者がいない世界の紹介を意識した。主イエスが十字架への道エルサレムに向かう途上の弟子たち、しかも代表的位置にいる2人(ゼベダイの子ヤコブとヨハネ)がペトロをさえ出し抜いた格好の主イエスとの会話である。「主イエスが栄光を受けられる時…」その右と左の座に置いて欲しい。「何を願っているか、分かっていない」と主イエスの言葉十字架上の言葉を想う。「私が飲む杯、受けるバプテスマ」飲み、受けることができるか?」に、即答して「はい、できます」は、真意の認識がないことを想定する。直前の3回目になる<受難と復活>の予告と関係するはずを。十字架の栄光には受難の苦しみが伴うことが抜け落ちている。つまり、十字架そのものの意味理解も怪しい。傍らでその会話を知った10人の弟子たちは憤慨したとある。当然、ペトロも含まれている。主イエスの真実を誰も分かっていないのだ。経過を短縮して結論を味わいたい姿が自分に重なる。一般社会の関係を神の前にも通用するとする考えである。改めて、弟子たちに真意を語り教え自らの姿を重ねられた。「仕えられるのでなく、仕えるため」、「多くの人の身代金としての命」を歩まれることを 。この世の真逆の「生き方」で福音を示され、生かされているを喜びたい。

8月13日 悲惨な現実の奥に

ヨエル書 2章1節〜27節 阪井牧師

 今夏(8/6)、韓国南部のハプチョンに原爆資料館が開館した、と。長野県上田市では戦没画学生の遺作品展示の「無言館」開設20周年だと。人間は時間の経過で記憶は薄れるとも。記念館は、非戦への意志を継承するためとの報道だった。ヨエル2章の学びは、これらを意識させる。神の民であるイスラエル、つまりシオン(イスラエルの詩的表現)の悲惨さは、「誰も逃れられない」、「誰も耐えられない」とある(3、11節)からだけでなく、主の意志がそこにあることだ。主は滅亡を意志されるのでなく、「主に立ち帰る」ことを求める(12節)方とヨエルは語る。その絶滅、滅びの現実のただ中に、主は「私が居る」との言葉を託されている。現在、戦争体験を語り残そうとする人が苦しみを伴いながら言葉を発している。こんな体験をすることがない願いを込めて語る。私見だが、なおそこに付け加えたい内容を想う。それは、12節の言葉「今こそ、心からわたしに立ち帰れ。断食、泣き悲しんで衣を裂くのでなく、お前たちの心を引き裂け」である。戦いは敵を打ち倒すことが目的で、同じく、敵も相手を打ち倒すことだ。理由はどうであれ、神によって<命与えられ>、<活かされている>存在は、自分も相手も同じである。その存在を消滅させる行為そのものが神の前に正しいはずがない。「神のない、成人した社会」になってはならない。召された神の使命に生きるべきだ。神の命に生きるべきを身をもって伝えたいと願う。

8月6日 豊かな感性に生きる

マルコによる福音書 10章17節〜34節 阪井牧師

 主イエスのところに走り寄って「永遠の命を受け継ぐ」問いを出した人がそこから去って行った。イエスから「あなたには足りないことがある」と言われたことにある。「多くを持っていた」ことが「足りないこと」とはどういうことか。説明は23節以下。弟子たちを見回して言われた主イエスの言葉「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。難しさは<ラクダが針の穴を通るほどだ>と。弟子たちは驚き、自分たちの現実を言葉にした。それは私たちの思いでもある。「従っているではないか」だ。今もガリラヤからエルサレムに向かっている。ただ、本当の意味はまだ理解できないでいる。「何をしたら…」との問いに並ぶ次元であることを想う。永遠の命を得る=神の国に入るは、人間の側の事柄なのか。「人間に出来ることではない」、「神にはできる」の主イエスの言葉は深い。この言葉に込められた主イエスの優しさと配慮に心打たれる思いがする。<神の国に入る>は人間の側の事柄ではないのに、自分の側のことだと思う誤りが指摘されている。<欠けている>のは、この事を意味しているのだろう。<主の近くにいる>、<主と共にいる>ことが神の国に入ることになっているの思いがある。主イエスが十字架に付かれ、その死から甦られることは、人の<持っている>ことからの解放なのだ。自分で自分を持ち上げる愚からの解放をしっかり受け留めたい。主イエスの十字架を軽しめてはならない、と思う。

7月30日 主への叫び

ヨエル書 1章1節〜20節 阪井牧師

 激しい豪雨による被害を受けた人の声に「もう一度…、ゼロから…」との言葉があった。そのエネルギーはどこから来るのか。聖書の記事は「イナゴ」の襲撃による被害だ。その徹底さは、野生化した動物の山や畑を荒らすのと違うようだ。新芽、小枝、幹の樹皮を食い尽くすという。短期間での変化が、人の生活圏全体に及ぶのだ。生活の根拠が失われるだけでなく、翌年への気力も断たれるだろう。今を耐えるだけでもエネルギーを消耗する。「人生の積み重ね全て、存在そのものが消え失せる」想像できない。存在が否定されても、なお前に向かって生きようとするエネルギーはどこからくるのか。周囲の声、身内や仲間の働きかけも考えられる。その人自身の内から湧き出る力はどうか。一般的に「泣く」は自分回復の貴重な事柄、と聞いたことがある。預言者ヨエルはイスラエルの民(神の民)に「泣き叫べ」と声をかける。それは、ただ泣くのと違う。「主に向かって」である。預言者自身がイスラエルの民と共に苦境の中にいて、神からの使命の言葉を語っている。「泣くな!」ではなく、「泣いて良いんだ!」は、<こころを打つ>。一人の人間の現実の無力さを思い知らされる時にも<福音を語れる>ことを促される。それは信仰と言えよう。神が命を与え、この世に生きることを求められた。その神に向かって叫ぶのだ、と。神の知恵はこの私に及んでいる。主に委ねる姿が他者を刺激すると知ろう。

7月23日 驚きと恐れ

マルコによる福音書 10章17節〜34節 阪井牧師

 「価値観の変化」との言葉に惹かれて記事を読んだ。高齢化の関係もあるが゙、特定できる病名なく自然死される方の数が2005年から10年間(2015まで)で3倍に増加した。そして、本人、家族、医師は死因よりも終わり方を重視するようになったそうだ。<望ましい生き方>や<人生の終わり方>に焦点が移っているのだ、と。2000年も前に、主イエスの前に尋ね出た人にそれを見る。主イエスのエルサレム行き(十字架への途上)に縋りつくようにである。問題の緊急性と深刻さが想像できる。真剣かつ執拗さが伴っている。「何をしたら…」との問いは<積み重ね>が意図されている。応えられた主イエスの言葉は<十戒>の後半、つまり人と人との関係部分だ。その前に神と人との関係部分があるが、それには触れていない。ここにカギを想う。人の関係は、神との関係によって根拠付けられるからだ。つまり、地上的や世間的の前に神との関係があるのに、触れていない。聖書の信仰では、人は神のみ心によって生まれ、生きている。主イエスの応答はそのことを意識させているように思う。尋ねた人は「子どもの時から守ってきた」と応じている。主イエスは、彼を<見つめ、慈しんで>言われた。「行って…」と。主イエスの<まなざし>はその人の心深くに及び、言葉は、その心に届かせる思いを込めたものだと想う。「わたしに従いなさい」は、非難や叱責ではない。心を共有する<招き>である。深い感動を覚える。

7月16日 語り続ける言葉

ホセア書 14章1節〜10節 阪井牧師

 聖書はイスラエルの歴史的変化の中に、神との関係を捉えている。ホセア預言者は王国分裂後の北イスラエルで活動をした。そこでの国際政治や食糧対策が神の御心に背反することを告げた。神の裁きは必然であるが、今は耐えておられる、と。裁きは、アッシリアによる残虐と悲惨の結果の滅亡として語る(1節)。<北九州のゲリラ豪雨>は個人では如何ともし難い現実からイメージできる。そこでの再記の声「独りではないと知った」は、ボランティアの人たちに触れたことを想像する。生きることへの希望が見られる。ホセア預言者は、「あなたの神、主のもとへ帰れ」と語り続ける。神の民・イスラエルには帰るべきところがある。そこにこそ、あなたの生きる道がある、と。軍事力、政治力、ひいては人手による神に頼るのは、あなたの生きる道ではない。聞く耳を持たない人々に向かって語る声は<音でしかない>。心がそこに無い時、音には意味が無い。意味をなさない言葉を語り続けるにはエネルギーの消耗は激しい。けれども、<主イエスの生き方>はそうではなかったか。ご自身の身体を示して<恵みと真理>を示された。暗闇に輝く光・周囲が暗い程一層輝く光として身を差し出された。その光を受けたから私たちがいるのだ。あの<救いの言葉を響き渡らせた>のは、個人の能力では無い。主にある誰かの関係に支えられているからだ。神の謙遜として<露>のようだけれども、野に花咲かせ、岩のような土壌にも根を張らすのだ、と。

7月9日 主イエスの憤り

マルコによる福音書 10章13節〜16節 阪井牧師

 小見出し「子どもを祝福する」の記事がなぜこの場所にあるのか。十字架が待つエルサレムへの道(途上)、限られた残余時間の中での記事である。「イエスの憤り」は同行の弟子たちには忘れられない出来事だったと想像する。イエスのイメージにかけ離れ過ぎて不思議さを感じる。マタイ、ルカの並行記事にはこの言葉が見られない。十字架後40年以上を経過して記されたマルコ福音書記者の意図を想像する。残し、伝えたいメッセージは何。その場では真意が理解できず、後の宣教使命の活動の中で、「あの時」の意味を強く想起し、力を得たと考えた。弟子として主イエスへの心配りは信仰の事柄とは違う、と。身近にいること、熱心であることが主イエスの御業の妨げになるとも。人の思いが信仰の内容に立ち入る誤りを想う。連れて来られた「子ども」の意志ではない。連れてきた「大人」も想像していない深みが主イエスにある。「神の国にはいる」はそれほど神の恵みなのだ。主イエスは「幼子を抱き上げ、手を置いて祝福」した。それは、その子の生涯と深く関係するものだった。この祝福の前に弟子たちが立ちはだかったのではないかを想う。行動を共にする、身近であることがなんらかの権威と考え陥り易い。教会生活にも起こり得ることを想う。そこに「イエスの憤り」、徹底した否定があるように想う。「神の国にはいる」は「主イエスがキリストである」に委ね信頼することにかかる。主の前に共に低くなるところに平安があるのだ。

6月25日 主との出会いの場

ホセア書 13章1節〜15節 阪井牧師

 「荒れ野」は聖書のカギになる言葉の一つ。人が住めない、野獣や野鳥の棲むところが象徴的に用いられる。哀歌4:3やマタイ4:1などである。出エジプトの民は旅をする荒れ野で水と食料が尽きる現実を経験した。神と民との契約(十戒)がそこでなされた。神の召し(言葉)を聞いて指導者になったモーセは何度か拒んだ。自分の力量でなし得る業ではないことを意識してだ。以前の宮人ではないモーセであった。情況を見極め、時を待ち、自分を抑制できる人となっていた。神は時を選んで本人の思惑より強く働く。その生活を犠牲にしてでも用いられる。神からの語りかけ(神の言葉)は、時にその命の危険をさえ超える。召しに応える準備は、人生の「荒れ野」でもある。神は人を生かす方、人はその神に向かって生きる者として自らを弁える場所の大切さを想う。神はすべての人を必要とされ、人はその召しに応える者となることだとしたら、生活を楽しむことや平穏さに拘っていることはどうかを思う。荒れ野から約束の地での生活(養われ、腹を満たした)エフライムはどうであったか。「高慢になり、神を忘れた」とある。神の前に自分の位置づけをしたことを意味する。意識の事柄と生活の事柄との差異がそこにある。神のみ子イエスにおいて自らをお示しになった。そこに私どもの<生きる>が意味を持つ筈。 キリストがおられない生活への危機が起こることを覚えたい。主の言葉に固執する生活へ。

6月25日 心が頑固なので

マルコによる福音書 10章1節〜12節 阪井牧師

 「ブログ」なる言葉が注目を浴びている。瞬時にして一人の発言、主張が世界に拡散する機能の話である。それを受け取る相手が誰かは不明のため、一旦発信したら消去できない。長と短とがあるので利用には自ずとマナーを要する。500年程前に印刷術が発明された頃に似ている。誰もが読めなかった聖書を自宅で読めるようになり、教会への関係が薄れたようにである。現代は、直接顔を合わせる機会が減る現象から、人の孤立化が進む。この個所にある「離縁」は人の関係の一つである。イエス誕生の記事(マタイ1:18以下)も、十字架への道の途中の記事にも「離縁」の言葉がある。メシア誕生と十字架の記事に登場を意識する。<いのち>に関係する。現代の象徴か。型にはまった答よりも、主イエスに従い生きる<いのち=教会生活>への問いで群衆が集まっている。そこにファリサイ派の人たちが挑戦に現れた。「離縁」への問いである。答は申命記24:1以下にある問い。イエスの答は@律法の意図を正しく受けとめる。A夫側だけでなく妻側からの見方を語られた。ここに「心が頑固」との表現がある。弱く、小さく、立場不安定な人たち(寄留者、孤児、未亡人)への配慮ができない<心>は、神の<みこころ>に自分の心を開けない事実を指している。主イエスに従い生きる者への示唆「しなやかさ」を想う。信仰は頭でなく、心と生活が教会に結ばれている必然を示唆されているようだ。

6月18日 帰るべきところ

ホセア書 12章1節〜15節 阪井牧師

 「他人の始まり」が生活の知恵の言葉であった者にとって「兄弟が和合して共におる…(詩編133)」の言葉は印象的で心に残る。それが神の恵みと感嘆している。一つの家庭、社会、世界が神の祝福に共にあずかっている、との発想である。隣り合っている皆が分け合う様は礼拝することに関係している。言葉では簡単に表現できるが、現実では容易なことではない。一人だけでも神の前に静まることは難しい。共には更に難しいはずが、一緒に神の前にいるのだ。エフライム。イスラエルの家、ユダは北イスラエルを指すと受け取る。彼らがカナン人の慣習を重んじた礼拝をしたけれど、神の真実に対して偽り、欺きとのホセア預言は厳しい。つまり、形式は礼拝でも、真実の礼拝ではないとの判断だ。内容は増産と豊かさの願いとなって、神を称えているようでも自己主張になっているのだ。荒れ野を旅した先祖たちは、厳しい生活の中に神と歩み、神の祝福から遠いと思わざるを得ない厳しい情況(石を枕の荒野)にも神の支配が届いていることを喜び、神の語りかけ、約束を聞いた。この神の真実に立ち帰るべきをホセアは示す。現在の豊かさは、神からのものではない(商才や努力)のに、神からのものとすることへの裁きは避けられない。神を礼拝することが目的なのに、その結果を目的にすることが背信にあたるのだ。これは、今日の私の生活にもある。神への誠実さ、そこに帰るべきことを示すメッセージを受け取る。

6月11日 信仰の継承

マルコによる福音書 9章42節〜49節 阪井牧師

 情報の時代は、操作によって局面に大きく影響する。初代教会の頃は、文書も困難であったために記憶を拠り所とした。主イエスの言葉を生きる力、希望とする人たちには生活そのものである。信仰ゆえの困難な人への心配り「一杯の水」が大きいことに次いで「躓かせる」こと、「躓く」ことへの訓戒がここにある。両手、両足、両目で躓くより片方の不自由さでも「神の国に入る」こと、捨てることをすすめている。主イエスの、聖書の言葉に心を集中した生き方は、「放心」に見える。身体の障害はどれほど大変か。想像以上に厳しいに違いないと思う。主イエスのメシアとしての受難の事柄は、弟子たちが備えを集中させる時を与えられているのだ。「いちばん」は競争や比較の産み出すものであり、作業の順番として必要だ。ところが主イエスの「すべての後」や「すべての人に仕える」には必要がないことだ。屁理屈かも知れないけれども、主イエスの十字架への歩みは、この「すべての人」に関わることであることを示された。それが「主にある平和」である。一人の平和を意味するのではない。他の人と共にある平和でなければならない。この「互いに平和に過ごす」求めの根拠は、自分自身の内に「塩」をもつことである。主イエスご自身を語っておられるのではないかを想う。塩は味を引き立たせ、腐敗を防ぎ、本来の持ち味を生かす機能を発揮することに自らを差し出す。今、信仰継承のための弟子たちの訓練の時である。

6月4日 矛盾する心のうち

ホセア書 11章1節〜11節 阪井牧師

 「知ること」と「それを行うこと」とが違うことは理解できる。だが、自分のことになると矛盾を強行する。親が子に向かう様子はそれに近い。ここは、イスラエルの神(父)がその子に矛盾を敢えて強行しようとする記事。反逆、背反の子を正す責任を負う父は、子が苦しみ父のみ前から消滅することに痛みと辛さを覚え、矛盾の対応が記されている。子たちは望んで父から離れているのではない。むしろ近くにいたい願いの策・知恵が垣根や溝を作り、神との距離を産み出した。目前の現実の対処が、それに拠って神(父)との関係を失うのだ。神との関係を人間の<はかり>で生み出そうとするから起きている。形は敬虔であるが、自分の主張に陥っている。移動地(カナン)での生活に順応するための結果がそれである。遊牧から農耕の生活に変わる時、「豊かさ」を求め、祝福を得る願いが<本質を曲げた>と言える。神(父)は正義のために、子(イスラエル)を裁かねばならない。でも滅びを放置できないで苦悩した。出した結論は、父(神)がその責めを引き受けるのでした。そこに「全ての人の救いがある」と新約聖書は告げる。裁きと赦しの相反する矛盾を、独り子(ナザレのイエス)によって解決(和解)させて下さったのだ。人の知恵や経験から得られるものではない。神自らの働き(聖霊)に支えられて、ただ喜びと感謝をもって受ける(信仰)しか ない。父(神)の心にある矛盾が私どもの救いになっている。アーメン。

5月28日 剪定なき植栽

マルコによる福音書 9章38節〜41節 阪井牧師

 自然世界を反映する「盆栽」から<世界の平和>を、との言葉を耳にした。自然を愛する優しさが生み出す心のことかと想像する。矯正した人の力と技が働いているのに、とも思った。ヨハネはペトロ、ヤコブと共に12人の中では特別の位置にいた。<山上の変貌>や<ゲッセマネの祈り>の場面に確認が出来る。この箇所でヨハネは、イエスの名を使って<まじない>をする人に辞めさせようとしたことをイエスに報告した。その時「私たちに従わないので…」と説明した。ところが、イエスは「とめるな!」と意外な返事をされた。実際に効果があったかどうかではない。主の名が用いられたことがその理由だろうと想う。名は存在を顕すからだ。イエスの名を使った人自身に「奇跡」を起こす力がないことを本人が一番よく知るところであろう。イエスの反応(言葉)にヨハネは何故驚いたのだろう。自分の期待と違う言葉が発せられたからと想像する。自分は「主に従っている」が、つもりであったとしたらどうか。教会にも起こりうることである。自分はイエスの側にいて、主の名を使う人とは反対側にいると想っていても、実際は同じ側にいるかも知れない。自分の見識や経験を信仰の実力と思い込んでいないかを想う。たといそうであったとしても、主イエスは受け入れ用いられると認められた。地に根を延ばし、豊かな実りを期待て、私どもをに主イエスの名を用いることを認めておられる。共にみ心を求め、主に受け入れていただきたい。

5月21日 主を求むべき時

ホセア書 10章1節〜10節 阪井牧師

 イスラエルが<ぶどうの木>に譬えられる。また、祝福の象徴として聖書に度々登場する。出エジプトの民が約束の地に移り住むのを「植えた」が、「伸び放題」とある。繁栄と思いのままを示す。祭壇が多く整えられても「偽りの心」とある。主を畏れ敬うのでなく、自分の主張を訴えるのだ。経過が結果を導き出すのでなく、結果を求めてもがく姿がそこにある。<神の民>が逆転して<民の神>になっているのだ。心を痛め、傷ついて癒しを求める人に何とか応えたいのが人の情けである。神の前に共に出ることこそが使命であることを忘れてはならない。<祈り、み言葉を聞く>教会の使命が、人の多くて賑わうところと勘違いするのに似ている。主イエス・キリストはおられるのだろうか。イスラエルに対して「祭壇は増す」とはそのことを意識する。賑やかさや楽しさは教会の使命を果たした結果と受け取るべきと想う。心の深いところからの求めが、いつでも整えられているべきの教会でありたい。それは、「いま」「この時」、主を求めることの出来るところとして、真実の<自分をさらす>ことのできる教会であることを示される。教会の一人一人が<ぶどうの木>としての確信をもって言葉を発したいと願う。それが今回の教会総会で確認し合った証し集『水を汲む』第3集の姿になるように祈りたい。どんな時にも失望しないで、「今は主を求めるべき時である」を伝えたい。

5月14日 福音に生かされる

マルコによる福音書 9章30節〜37節 阪井牧師

 母の日(5月第2日曜日)は教会に始まりがある。聖書の十戒の第5戒「あなたの父と母とを敬え」を母から学び、娘はこれを想起し、1905年亡き母の記念日(5/9)に近い日曜日の礼拝に花<カーネーション>を捧げ飾った。全米に広がり、(1914年)祝日になった。戦後、日本には神なしで受け入れられて今日にいたっている。現実や現状からモノを見ることへの課題を思う。イエス時代、メシア待望はイスラエルの篤い願だった。その結果が十字架となった。ローマ支配からの解放(現状)をメシア到来への願いと重ねた。受難の予告<苦難の僕>など思いもよらなかった。信仰告白直後のペトロは、その予告をするイエスを諫めた。それに「サタンよ去れ!」のイエスの言葉である。そしてこの2回目の受難の予告「人々の手に…」がある。ペトロが叱られたのを知る他の弟子たちは困惑したに違いない。「怖くて尋ねられなかった」のだ。「人々」の中に自分たちが含まれるのか。教会の人々も?全ての人も?含まれることをマルコ福音書は語っているようだ。この話が目的地をどこにしているのか。「ガリラヤを通って…」は、実はエルサレム、十字架へ向かうことを想う。弟子たちはただ恐れ、困惑するしかない。福音は人の側から理解しようとする時、結果は十字架でしかない。神の側からはそこに救いがあるのに。イエスは真実を伝え、教えるために今語る。この福音が使命として語る(宣教する)者の生きる力となるのだ。教会の使命を喜びたい。

5月7日 耳の向く言葉は…

ホセア書 9章1節〜17節 阪井牧師

 <寛容>はキリスト教の徳目と紹介される。この背後に<忍耐>や<自己犠牲>を想起すべきと思った。それは、神の愛とキリストの十字架があることを意識するからだ。寛容への<拒否>または<無視>に対する<怒りの反応>は私たちの常である。キリスト教信仰は全く逆の反応を示すと受け取る。裁きや反撃でなく、飲み込んでしまう復活の出来事である。反逆を神自らが贖い取るのだ。我慢や忍耐を遙かに越えた事実は、理性や論理の限界を超えている。信仰によって受けとめる他はない。受け止めさせる働きは神の愛が働く(聖霊)と説明する。北イスラエルの現実は豊かさに賑わい楽しんでいるその時、預言者は神の裁きと滅びを語るのだ。これほど酷な使命があろうか。耳を傾けない。むしろ迷惑にさえ映る。聴かせ、関心を向けさせたいのが本心であろう。教会の現実が今こうなっているように想う。「高齢化と少数化の教会現実を何とかしたい」の思いと通じる。そこに誘惑や信仰の揺らぎが生じるように想う。ホセア預言者は神の召しに留まり続ける。神の言葉に立って語り続ける。教会の姿勢もここに生きる使命を持つのだと示される。聞かせたい、振り向かせたい、との思いが優なら、使命が違うものに変質することを想う。どこまでも<神の言葉>を求めて礼拝の時を保つ姿勢が大事である。出掛けて語る器に魅力を感じる。神の求めがそこにあると確信するまで、先ず「祈り」に心注ぎたい。

4月30日 祈りによらなければ

マルコによる福音書 9章14節〜29節 阪井牧師

 体感は個人的なもので、一般化はできない。この記事のイエスの弟子たちは体感的に満足や誇りを持っていたと想う。イエスは3人の弟子(ペトロ、ヤコブとヨハネ)と共に山上の出来事(9:1〜8)で不在の時、病気の子を伴って群衆の中に、子の癒しを求める父親がいた。期待に応えきれない事実を前に、律法学者たちは論じ合い、弟子の無力を嘲笑い、イエス批判の好機としていたそこにイエスたちが登場した。群衆は、驚きながらも仔細をイエスに説明した。群衆はその収拾に期待と興味をもって注目したろう。距離を保ち事の様子を眺めるのが普通なのに、自ら近づき関係を持とうとする姿に心打たれる。弟子たちはかつて派遣された(6:7〜12)時、悪霊の追い出しや病気の癒しを経験していた。今回は勝手が違った。人々みんなに向けたイエスの<嘆き!>と受け取れる言葉ー「なんと信仰のない時代なのか」が心に刺さる。そして「この種のものは、祈りに依らなければ…」と結論している。弟子たちも祈って対応したに違いないと想う。どう違っているのか。全て手を尽くし果てた父は、今やここしか望みはない。そこで「…もしできれば…」を口走った。イエスはたしなめた。神にできないことはない、と。神に依頼しながら、<もし叶わない…>の余地を自分側に残すところに<信仰>が問われている。一切を委ねることに信仰の真実があることを示される。「祈る」の力に信頼しよう。

4月23日 格差ー<つもり>と事実

ホセア書 8章1節〜14節 阪井牧師

 ホセア書8章の背景に緊張を感じる。「時」は動き、静止も一時的に過ぎない。統一国家が別れて、南のエルサレムに代わる礼拝所をサマリア近くベテルに北イスラエルは整え、天地創造の神の民の誇りを保った。新しい出発と繁栄の時であったが、風が吹き、外交政策を余儀なくさせた。北イスラエルの北側にアッシリアが抬頭し、南側エジプトへの中継補給基地の拠点化とした。その対応に国の総力を費やした北イスラエルは消耗による大混乱となる姿を呈した。そのあがき背景が「食いつくす」、「王や高官を立てる」、「偶像を造る」である。出エジプトの民がシナイ山の麓で、「神を近くに」との願いに重なる。ホセア預言者は、わが身を民の中に置いて「神の言葉」に従って生きることを語る。そこから身を離しているのが王、高官、祭司だと。「かくありたい」の<つもり>に対して、逆の歩み方がホセア預言者の生活である。離れるなら身の処し方もあるのに、混乱の中に留まり続けて、使命を果たすのは、ホセア自身の力量ではない。神の働きがそこにある。恵まれ、人の羨む位置に身を置くことができるのに、敢えて厳しく辛い道を進む。それが、強がりでも無理でもなく自然である姿は、主イエスの歩みである。つじつまを繕い合わせて<つもり>実現に懸命になっている人々の中で、神の民として召されている歩き方・生き方をあらわす歩みを進みたいと心から願う。自分の知恵や経験の結集や他の何かを頼みとしない歩みを、と願う。

4月16日 復活のあさ

マルコによる福音書 16章1節〜8節 阪井牧師

 ユダヤの生活基準は按息日(律法)である。キリスト教はこのイースター(復活日)である。数日のズレと処するのも良い。対社会だけでなく、親しい関係も断絶を意味するとしたら決して容易ではない。世界変革の大変な現実の証人が、主イエスの弟子たちでもなく、名や地位ある人物でもなく、数名の女性がその役を引き受ける記事「あなたがたは十字架にかけられたナザレのイエスを捜しているがあの方は復活なさって、ここにはおられない」の言葉を聞いた。前代未聞の現実に直面した。安息日が終わって買い起きた香料(油)を塗るために週の初め、墓に向かった。十字架の死と墓へ埋葬を確認していた女性たちは墓に向かいながら墓石の移動が心配事であった。そのことへの言葉かけが〔復活のあさ〕であった。女性達の捜していたのはご遺体であった。つまり、人間イエスを死の世界に捜していたのだ。復活以前の世界から〔神の新しい時〕が始まっているのだ。墓の入り口に覆われた大きな石は、人の限界を象徴的に見る。人の目で神を見ようとするに似ている。墓には主イエスの遺体はない。見える現実である。人は驚くしかない。恐れを抱くしかない。そして、新たな声「驚くことはない」を聞いた。十字架に死んだ方が甦られたことを告げている。人の知恵や経験、あるいは積み重ねた努力などで到達に至る結果ではない。「聞く」「受け取る」他はないのがこの出来事である。

4月9日 生活の信仰

ホセア書 7章8節〜15節 阪井牧師

 大国に挟まれた小国北イスラエル=エフライム(南ユダも)は、国際緊張で必然的に存続が課題となる。北の圧力には南を、南からには北を頼る。存在や使命の意味より「生き残り」が重要となる。受難週の時に考える。生活の周辺はただならぬ騒音の響きで心静まることが難しい。主イエスの情況はどうだったろう。ローマの支配下のヘロデ傀儡政権に従う十字架への道を歩まれた。避けうるを避けない歩みは、そこに目的があること。十字架の死が目的なのだ。力みや諦観でもない。父なる神の<みこころ>を歩まれたのだ。主イエスの受難は「私にとって何を意味する」かを想う。ここ(ホセア7章)は「彼らの高慢」が裁かれるとある。存在を自分の力量で処理できるとする発想を想う。神の意志としての存在を人の意志に置き換えることの罪を語っている。意味と使命が人間の支配下に置かれたことへの言及と受け取れる。「生活の信仰」と奇妙な説教題はそのことを意識した。政治に依る<生き残り策>はやがて宗教的な混淆へと陥る。そこでの礼拝は、創造主への礼拝ではなく、神ならぬ神を拝む(偶像礼拝)ことと同じである。神の民が神でないものに<ひれ伏す>ことは罪であり、神を離れることである。自ら離れ、背く神の民に<こころ注ぐ>まことの神の痛みはどうであろか。親と子、夫と妻、兄弟や友との諍いは、自分の領域に取り込んで判断する高慢にあるとも考えられる。始受難週。

4月2日 鏡を磨く主の弟子

マルコによる福音書 9章2節〜13節 阪井牧師

 親子や夫婦・友人の間に生じる不調和は主イエスと弟子たちとの関係に似ている。自分の理解の中に取り込んでいる故である。神を人の理解で処理することは許されない。「サタンよ、引き下がれ」の言葉の厳しい理由である。「私に従いなさい」は後に付くことのはず。<つい>前に、または並んでしまう。聖書の読み方もそれに似ていく。自分の理解や納得の言葉は聞くが、困難を覚える部分は飛ばしがちになる。<読む>言葉が私に語られている<神の言葉になる>のは、自分の勝手や都合である筈はない。「自分を捨てる」や「自分の十字架を負う」との意味は深い。あの主告白の場面を想起したい。「あなたは、私を何者というか」の問いに対する答えだった。当然、「私の主」のはずである。<つい>が神の前に自分が立つことになるのだ。有名な<山上の変貌>の記事はこの説明にもなっている。自分たちの<主>が、モーセとエリアと語り合う場面に居合わせて言葉を失った。慌てて出した言葉は「3つの小屋を建てる」であった。つまり、主イエスは神の子としてそこに立っておられるのだが、自分の経験や知識で受け止めることができないことを示している。「おぼろに映った」姿を見ている弟子たちがそこに居る。おぼろに「鏡に映る」主の姿から、「はっきり」その姿を示された主イエスの姿を見るのです。その方がメシアとして十字架への道を歩まれるのですが、果たして弟子たちはどうだろう。

3月26日 社会混乱の極み

ホセア書 6章1節〜7章7節 阪井牧師

 近い、周り、普通、高速…と譬えられる道が生活にはある。科学や人の知恵はその環境を大きく変える。とりわけ豊かさと便利さ速さがそこに関係する。ホセアの時代には国際政治(アッシリア対シリア・エフライム)の課題が働いていた。その中で生活繁栄の安定維持にイスラエルは懸命に対応した。それは熱心な神礼拝の形となって神の前に出た。神の恵みの感謝やみ旨を求め、罪を悔いるためでなく、豊かさと生活安定の欲求となっていた。元来、礼拝は<霊と真理>を求める(ヨハネ4:24)ものなのだ。神にあってこそ自分がある。ところが、ホセアは逆のあり方を指摘している。自分の生活圏に神を認める、という逆転である。だから「神を知ることができない」となる。信仰的な言葉や姿勢は神への要求・欲求となっていった。「神の前に出る」も「主を知ろう」は言葉では敬虔である。言葉や形は整っていても本質が異なっているこの情況は偽善という。詩編の51編は、黄金時代の王ダビデが形や権威に拘らない悔い改め(砕かれた心)の真実を示している。生き残るためには、必死に目前の事柄と取り組んでいる。これは現代の教会生活をしている私たちの生活スタイルに重なる。自分の生活状況が乱れる現実に懸命の対処方は真理から外れることが起きる。この危険を克服するのは神を神とすること、自分が神のみ手にこそあるのだとを想うことです。主イエスを見失う危険を自戒したい。

3月19日 人の知恵と神の力

マルコによる福音書 8章31節〜9章1節 阪井牧師

 「耳に豊かな言葉…」を、と児童文学を生き抜く人(松居直)、またそれに励まされる人がいる。言葉の不思議さに聖書の言葉も加えられよう。フィリポ・カイサリアへの途上の出来事は「主告白」である。主イエスの問いにペトロ(弟子たち)の応答がそれに至った。教会は、その「主告白」が礎で立っている。しかし、イエスは弟子たちに箝口令を敷いた。なぜ?この箇所にその理由を見る思いがする。主告白に続いて受難のメシアを「はっきり」示された。慌てたペトロは脇に導いたイエスを諫めた。ペトロの情の厚さに読者は心打たれる。なのに主は「サタンよ、引き下がれ」と。言葉の不思議を想うのだが。次のように説明を考えさせられた。ペトロは生活の知恵と経験から語っている。それを退けられたのが主イエスである。主告白は生活の知恵や経験の積み重ねから到達するものではないことを示す。主告白は、サタンもする。「引き下がれ」は、前に出ているのを戒める言葉であって「主イエスの後に立ちなさい」、本来の弟子の位置に立つことの要求を意味している。これが「私の後に従いたい者は…」の記事に至る。脇に導かれたイエスは、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。記事を読む者すべてに語られた、と福音書記者の意図を想う。よく知られた「十字架を背負って、私に従いなさい」は、前後の文脈を欠いた理解は聖書の本質から外れる可能性を想う。命を懸けた「主告白」に生きることが求められているのです。

3月12日 神を知るとは…

ホセア書 5章1節〜15節 阪井牧師

 「衣・食・住」は人間生活の基準。なのに地震・津波そして原発の被害者が6年後の今も苦しんでいる。<住がこれほどとは!>との現地の声。1945年頃の日本の情況を想起する。互いに助け合い、生きることに必死だった。現在は情況が違う。もの豊かな時代に起きる混乱は、ホセアの時代と重なる。ある知識人は右傾化に抗して「南原繁を顕彰する会」を開いた。秩序を失ない社会の混乱を「新たな国生み」の機会とする南原の主張を紹介した。ホセア時代、北イスラエルの秩序は乱れていた。預言者を通して神はその裁きが祭司や長老たち、また為政者(宗教や政治の指導者たち)に向けられると告げている。裁きは余りにも厳しい。愛し合い仕え合う夫婦の間に生まれている幼子が、実は違う人の遺伝子を持っているのを確認するようだと。人間の深い罪への裁きを想わされる。イスラエルは、神と共に歩み、また神は<自分たちの間にいつもおられる>と信じ疑わなかった。ところが、その神は共に居られないし、神をしることができない、と。それは、イスラエルが真の神ではなく、実りの豊かさと家畜の多産を願い祈るバアル信仰に陥っているからだと告げる。その現実は「神を知らない」ことなのだ、と。自分が対象として礼拝する神は、まことの神ではない。詩編8編を読んでみたい。神に命を与えられ、生かされている神を讃美している。自分を神との関係で見つめる必要をおぼえる。

3月5日 主の沈黙命令

マルコによる福音書 8章27節〜30節 阪井牧師

 ガリラヤの北方ヘルモン山の麓にリゾート地フィリポ・カイサリアがある。地名は、当時の領主と皇帝に関係し、そこから流れる水は、ヨルダン川源流の一つである。ガリラヤでの宣教活動の生活を離れての旅、イエスと弟子たちとの会話である。初めイエスからの質問「人々は人の子(私)のことを何者だと言っているか」。「バプテスマのヨハネ」、「エリヤ」、「預言者の一人」と応答。再びイエスは問う。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。それにペトロの<信仰の言い表し>が起きた。ある意味、イエスへの最初の信仰告白。だがイエスは、ご自分のことを誰にも話さないように求めた。なぜ?文脈から考えられるのは、21節のイエスの言葉「まだ悟らないのか」と盲人を癒す記事内容との関係である。パンに関する記事は、限りない神の恵みと偉大さと弟子たちへのイエスの言葉は深い関係と意味を持つように想う。盲人の癒しは、見えることの「ぼんやり」と「はっきり」の違いに主イエスが対応されたことから、弟子たちの神への真理理解と重なるように思う。つまり、弟子(ペトロ)の信仰の言い表しに、なお「ぼんやり」と「はっきり」の違いを主イエスは見抜いておられたのかを想う。そのことの根拠を続く33節の言葉に見られる。信仰の言い表しは、人の決断だけでは十分ではない。言い表しは、主イエスの導きによるけれども、なお、その限界を意識させられる。悪にもその言い表しが認められるからだ。生き方が問われる。

2月26日 母を沈黙させる方

ホセア書 4章1節〜19節 阪井牧師

 なんとなく怪しい時代にあるを感じる。ホセアの時代は、国際関係の緊張のした状態にあったが、分裂後の北イスラエルはダビデ時代のように国勢が盛んであった。人々は宗教的に熱心で、礼拝に足をよく運んだ。場所は南ユダのエルサレムではない。13節に「山の頂」、「丘の上」、「大きい木下」であった。豊かな生活(牧畜、農耕)の願いと感謝だ。はない。聖書は「彼らは神を知らない」という。場所が重要ではない。神でないものを神とする内容が問題なのだ。神を畏れる誠実より、自分の都合や得策への熱さなのだ。ただ糾弾をするのでなく、そこから正しい信仰に導くためのホセア預言者の務めである使命がある。生活の豊かさが、神を失った状態であれば、流血、欺き、殺人、盗み、姦淫、…と人の生活基本が保てない。そこからの立ち上がりは、人間の限界を超える。神の裁きは、その誤りを止めない。正しい道への教えと指導をしていないから祭司にその責任がある、と。祭司が主なる神の<みこころ>を正しく示していない故だとある。神はその源である母(土地または繁栄)を黙らす、と。沈黙は<金>ではない。死を意味している。苦難の僕メシアの記事を味わいたい。「神と共にある沈黙」と「神と関係のない沈黙」とを意識して。「私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私の罪をすべて、主は彼にん負わせられた。〜彼は口を開かなかった……(イザヤ53:6)。」

2月19日 イエスの癒し

マルコによる福音書 8章22節〜26節 阪井牧師

 信仰の覚醒を記念する宗教改革から500年を迎えた。英国(ヨーロッパ)ー米国ー横浜への宣教がバプテストに流れている。その中心に聖書至上主義がある。時代の変化に伴い生活様式が変化する。そこで、時代の人々に分かり易く伝わりやすい聖書の伝え方に心を砕く。それでも、聖書の基本は変わる筈だ。今日、キリスト教学校はその苦悩をしている。募集の定員割れや教職員の信仰者不足である。教会にもその流れが押し寄せて、高齢化と求道者不足がある。主イエスは、異郷社会を巡り回って今、ベトサイダ(ユダヤ人社会)に着いた。そこに一人の盲人が連れて来られた。「イエスに手を置いて欲しい」ためであった、と。他の人々も集まり、その結末に感心を持ったかも知れない。だが、イエスは盲人と共にその場から離れた。関心への距離をつくって向き合う関係を求められたことを想う。それは、「人が生きる」ことへ主の関心だと想う。この個所の直前に、主は弟子たちに不思議なしるし<給食>を想起させて、「まだ悟らないのか」の言葉を語っておられる。盲人の癒しの記事は、それに関係させて受け取る。不思議なしるし(=奇跡)は信仰の本質ではない。主イエスの最も近くにいるのに、真の姿を受け取れない弟子たちへの言葉は、教会の私たちへの言葉でもあろう。人々の繋がりの中に信仰の本質を見るとき、神が主イエスにあってお示しになられた真実<愛>を見失うことになりかねない。主イエスの真実は十字架の出来事においてこそである。聖霊による信仰を求めたい。

2月12日 真実に出会って

ホセア書 3章1節〜5節 阪井牧師

 聖書にはマイナスをプラスに扱おうとするユーモアがある。力みでも強がりでもない。赦せない腹立たしさの中に支えざるを得ない想い、これもその一つである。そこに真実があることを見逃してはならない。アブラハムの信仰に立つ神の民イスラエルが神から離れた。故意ではない。懸命かつ熱心に歩んでいる。それが真実を見失ったのだ。教会から、キリスト教から人が離れる現実に抗する想いに重なる。教会の本質、キリスト教の真実が崩れるのはそこにある。信仰の核心が、主イエス・キリストの復活にある。人の努力や意志がその真実に寄与しうるとしてはならない。大事な要素かも知れない。「行け、夫に愛されていながら…(3:1)」の言葉は重い。手を切りたい、関係を持ちたくない、できれば距離を持ちたい、のが本音である。汚れや堕落の道から引き戻す徒労から解放されたい。「自由にさせてあげる」の名目が立つ。だが、主の求めは実に厳しい。自分の事柄にするべく求められる。預言者に求められる<厳しさ>は、今日のキリスト教信仰者、教会の私どもにも通じる。神は離れ、背くイスラエルとの関係を断たれていない。関係が失われていない。見てみない振りをするのが「愛」の反語、無関係である。神は、主イエスにおいて、なお関係を求め続けておられることを想う。それは、全く人の限界を遙かに越えた出来事である。その歩みに用いられたアブラハム、モーセは神の言葉に従い、仕える歩みを生涯の務めとした。破れても主の言葉に生きる者でありたいと願う。

2月5日 イエスの深い嘆き

マルコによる福音書 8章11節〜21節 阪井牧師

 「自分をわきまえること」は易しい。でも難しい。高齢化は身体だけでなく、発想も硬質化する。体験的に認めざるところである。認めないなら「ストレス症候群」の症状を起こす。ファリサイ派の人々、ユダヤ社会の精神的リーダーにその徴候を見る。イエス(神の子)に対して<神から遣わされた者>の「しるし」を求めた。自分の判断基準が根拠手掛かりである。説明は「イエスを試そうとして」と。存在や主の御業をさえ「偽りか真実か」を判定しようとする。そもそも、主イエスの<不思議な業>は、信じない者を信じさせるためではない。人としての営みができない人を立ち上がらせて、神のいのちに生きるために希望を与えるためだ。数字は目の前にある経験や知識の現実である。イエスは、その数字を超えた働きに仕えることを求められた。人間の評価・理性が求めの理由ではない。ただ求めに無心になって応え、遣わされるところで仕える<神の豊かさ=不思議さ>を弟子たちは体験した。信仰の現実が経験や知識で適応できる愚が、主イエスの嘆きではないか。「数」が重要ではないけれども、そこに拘る弟子たちは、教会の姿に重なる。ここに「自分をわきまえること」の課題を見る。神の祝福を身近に体験をしながら、自分の価値判断が先んじてしまう。主イエスが「まだ悟らないのか?」と言葉をかけておられることは重い。主なる神がなされることは、信仰で受け取る他はない。説明も理由付けも必要がないのではないか。まだ説明の思いが働いていないかを問われる。

1月29日 不真実を砕く、今

ホセア書 2章1節〜25節 阪井牧師

 思いがけないところで聖書の言葉に出会う。時代は変遷してもその真理は変わらない。時代の中での真剣さも真理を見失うことがある。真剣さが奇妙になる。ホセアの記事は時代や生活の変化時(過渡期)の背景がある。遊牧から農耕への変化である。横の繋がりを重んじて神(縦)が後回しになった。生活は安定をみても神の民としての真理に狂いを生じた。預言者ホセアは、自らがその現実に痛み傷つく体験の中で使命に仕えた。神に示されて迎えた妻が、より豊かな生活に惹かれて夫の元を離れる(淫行)。そして子ども(淫行の子ら)を得たのだが、生活が生き詰まり、「元の夫のところに帰ろう」の言葉は強烈である。姦淫の罪は死をもって償うのが生活の基本とする社会でのことだ。この現実の苦悩に預言者ホセアはあえぐ。淫行の妻を<わが妻>、淫行の子らを<わが子ら>として受け入れることを主なる神から求められた。イスラエルの民の農耕地での生活は、主なる神への淫行であることをホセアは身をもって確認させられた。預言者として、これほどの厳しさがあろうか。神の怒りは消えたか。神に対する反逆は赦されると言えるか。わたしたちへの神の哀れみは、<なかったことにする>単純さである筈はない。み子イエス・キリストの十字架は神の裁きである。同時に自らが傷つき傷んでわが子の命をもって贖うのだ。恵みの<けた外れ>の深さ、憐れみの限りなさをどう受け留めたらよいか。わたしたちは自分の存在を軽く見てはならない。不真実が暴かれている。

1月22日 失望から希望へ

マルコによる福音書 8章1節〜10節 阪井牧師

 「心の向き」との言葉がある。ある事柄の捉え方を考えさせる。「時」を<まだ>と<もう>の例がある。この聖書記事にもそのことを意識する。3日間も主に従った群衆の解散を前に、食事を気遣うイエスに、弟子たちは「こんな人里離れた所」、「いっにたい」、「どこから」、「十分食べさせる」ことが、との問いを発した。するとイエスは、「パンは幾つあるか」と問うた。「七つ」。この数字が「心の向き」を考えさせる。弟子たちには、限界、無力の表現であった。何しろ、「およそ四千人」の人がいた。イエスは群衆を座らせ、パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちに渡された。(聖餐式の言葉を想起する)。食後、パンのかけらは7つの籠に一杯であった。この記事から「五千人の供食」の記事(6:30以下)を想起するだろう。それは12の籠に一杯であった話。イエスの宣教がイスラエル12部族・ユダヤ人対象とユダヤ人以外(異教徒)への宣教が背後に想定できる(参照言行録6章)。宣教の働きは、人の経験や知恵の限界を超えていることをここに学ぶ。主イエスが弟子たちにパン(福音)を配らせたのだ。聖餐式の用語がそこにある。主イエスの贖い・十字架の出来事を背景にしていると学ぶことができる。主イエスご自身の命をかけた神の栄光の業に仕える弟子たちの姿に、教会の私たちの姿が重なる。特別の能力を求められていない。なすすべのない限界にありながら、永遠の命を伝える業に用いられるメッセージがある。主が用いられる者であることを喜びたい。

1月15日 傍観できない事実

ホセア書 1章1節〜9節 阪井牧師

 22年前1:17の記憶が薄れてくる。その日現地に誕生した人、中村翼さんは苦悩の末・体験者の語り部(出張講座)になった。話を聴いた幼い子どもたちの感想(心の声)を涙流して受けた。生活の中での事柄は重い。ホセア書はその特徴を持つ。預言者ホセアは、イエスの時代より700年ほど遡る北イスラエルで活躍をした。自分の生活体験を通して主の召しに仕えた。淫行の女ゴメルを妻に、淫行の子らを自分の子として受け入れることを主から求められた。このままだと義勇伝になる。ところが、自分の妻が出て行き、淫行の生活、そこに生まれた淫行の子らを妻、子として受け入れるとなると、義勇どころではない。屈辱そのものである。この淫行の姿はイスラエルそのものであると語る。主なる神はそのイスラエルを「神の民」として迎える内容、これがホセア書の特徴・体験的預言書なのである。主イエスの誕生記事(マタイ1:18〜)では、「夫ヨセフは正しい人であったので、秘かに離縁を…」とある。そのままでは<生きることが赦されない現実>をヨセフは避けて「秘かに」と説明している。本来、生きていることが赦されない存在が今生きているのは、神の愛、赦し、忍耐である。これは並大抵なことではない。しかし、これ故にイスラエルは生きている。イスラエルだけではない。神を神としないすべての人に、神は主イエスの出来事を通して<生きること>を求められるのだ。神の愛の凄さを想う。十字架の出来事を傍観してよいか。私の生き方を問われる。生きねばならない。

1月8日 私たちの望み・神の企て

ローマの信徒への手紙 8章18節〜30節 阪井牧師

 クリスマス、そして元旦が日曜日という暦の場面は珍しい。それから8日目が今日。創造物語は6日間ですべての業が終わる。その最後日に人は創られた。7日目は安息日。人の初日は安息日であり、8日目は神と共に歩む人の第1日目である。あるべき人の生きる姿勢を想う。「松飾り冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」は限界の中でどう生きるかを問うと見る。今日、自由は「一人ぼっち」に見える。何かが欠けている、つまり他者への心の配りの「欠け」を思う。維新以来、日本は<経済と政治が独走して、宗教と心が取り残された>民主主義の花との見方を「8日間の創造から」示される。周辺からの苦悩や呻き声に共鳴できない世界の現況を評している。主イエスは、その人たちの場所に立ち、それが今日の<私たちの救い>となった筈である。知識者は、パウロ自身もその一人として主イエスに対立した。積極性、熱心さをもって拒否をした。だが、甦りの主に出会って回心をした。生き方を全くかえた。新しい生き方にされて、産みの苦しみをした。重荷、汚れ、不快から距離を保てるのに、敢えてそのただ中に立つ者となっていった。主イエスと歩むが故であった。今まで自分に有利であったものが損になる(フィリピ3:7)ことを引き受ける者となった。イエス・キリストと共に生きる者になることによって痛み、嘆き、苦しむ人の声が聞こえるようになった。そこに希望をさえ見いだした。見えるものでなく神の計画に入れられる信仰の人になった。深い神の企て。

1月1日 始まった神との生活

詩篇 119篇1節〜8節 阪井牧師

  時間の経過と生活の変化が内容を変える。イスラエルの歴史がそれを示す。律法は神の民である「契約のしるし」だった。それが形の「しるし」に変化した。割礼はその象徴である。本来、縛りからの解放が、逆に不自由に変わった。喜びと感謝が苦痛となった。神の憐れみと恵みを見失った。今日の教会にもあり得る。自分を正当化すると、本質が薄らぐ。主の律法は外から圧力となって迫り来ない。内からの喜びの求めである。「神の民」であることの喜びなのだ。自分の努力や性格がその事実を作り出す筈はない。気が付くと、その努力や血筋が重要な要素になっていた。神が神として、人に約束されたこと、イエス・キリストを通して神の子とするクリスマスの出来事がそれであった。人の何らかの要素を徹底して排除する神のご計画と言える。誰もが謙虚に受け取る以外のない事柄が起きたのだ。新しい年を歩み出す時、すでに神の民の事実を見失ってはなるない。主の律法は「契約のしるし」としてイエス・キリストにおいて成就している。これを心から受け取るのの十分なのだ。そのとき、すべての人誰もが「主の道を歩む者」となる。否、主の道を歩む者とされるのだ。主の前にあるその姿は、人には様々に見えるが、豊かで力が備わるのた。尽きることのない主のみ手の寛さ深さに包まれているから。ただ、陥る危険がある。それは過去に戻ろうとすること。出エジプトの民が、あの「肉鍋」を慕ったことに通じる。主がすでに共に歩まれていることを忘れてはならない。感謝!


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新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation
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