3月12日 神を知るとは…
ホセア書 5章1節〜15節 阪井牧師
「衣・食・住」は人間生活の基準。なのに地震・津波そして原発の被害者が6年後の今も苦しんでいる。<住がこれほどとは!>との現地の声。1945年頃の日本の情況を想起する。互いに助け合い、生きることに必死だった。現在は情況が違う。もの豊かな時代に起きる混乱は、ホセアの時代と重なる。ある知識人は右傾化に抗して「南原繁を顕彰する会」を開いた。秩序を失ない社会の混乱を「新たな国生み」の機会とする南原の主張を紹介した。ホセア時代、北イスラエルの秩序は乱れていた。預言者を通して神はその裁きが祭司や長老たち、また為政者(宗教や政治の指導者たち)に向けられると告げている。裁きは余りにも厳しい。愛し合い仕え合う夫婦の間に生まれている幼子が、実は違う人の遺伝子を持っているのを確認するようだと。人間の深い罪への裁きを想わされる。イスラエルは、神と共に歩み、また神は<自分たちの間にいつもおられる>と信じ疑わなかった。ところが、その神は共に居られないし、神をしることができない、と。それは、イスラエルが真の神ではなく、実りの豊かさと家畜の多産を願い祈るバアル信仰に陥っているからだと告げる。その現実は「神を知らない」ことなのだ、と。自分が対象として礼拝する神は、まことの神ではない。詩編8編を読んでみたい。神に命を与えられ、生かされている神を讃美している。自分を神との関係で見つめる必要をおぼえる。
3月5日 主の沈黙命令
マルコによる福音書 8章27節〜30節 阪井牧師
ガリラヤの北方ヘルモン山の麓にリゾート地フィリポ・カイサリアがある。地名は、当時の領主と皇帝に関係し、そこから流れる水は、ヨルダン川源流の一つである。ガリラヤでの宣教活動の生活を離れての旅、イエスと弟子たちとの会話である。初めイエスからの質問「人々は人の子(私)のことを何者だと言っているか」。「バプテスマのヨハネ」、「エリヤ」、「預言者の一人」と応答。再びイエスは問う。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と。それにペトロの<信仰の言い表し>が起きた。ある意味、イエスへの最初の信仰告白。だがイエスは、ご自分のことを誰にも話さないように求めた。なぜ?文脈から考えられるのは、21節のイエスの言葉「まだ悟らないのか」と盲人を癒す記事内容との関係である。パンに関する記事は、限りない神の恵みと偉大さと弟子たちへのイエスの言葉は深い関係と意味を持つように想う。盲人の癒しは、見えることの「ぼんやり」と「はっきり」の違いに主イエスが対応されたことから、弟子たちの神への真理理解と重なるように思う。つまり、弟子(ペトロ)の信仰の言い表しに、なお「ぼんやり」と「はっきり」の違いを主イエスは見抜いておられたのかを想う。そのことの根拠を続く33節の言葉に見られる。信仰の言い表しは、人の決断だけでは十分ではない。言い表しは、主イエスの導きによるけれども、なお、その限界を意識させられる。悪にもその言い表しが認められるからだ。生き方が問われる。
2月26日 母を沈黙させる方
ホセア書 4章1節〜19節 阪井牧師
なんとなく怪しい時代にあるを感じる。ホセアの時代は、国際関係の緊張のした状態にあったが、分裂後の北イスラエルはダビデ時代のように国勢が盛んであった。人々は宗教的に熱心で、礼拝に足をよく運んだ。場所は南ユダのエルサレムではない。13節に「山の頂」、「丘の上」、「大きい木下」であった。豊かな生活(牧畜、農耕)の願いと感謝だ。はない。聖書は「彼らは神を知らない」という。場所が重要ではない。神でないものを神とする内容が問題なのだ。神を畏れる誠実より、自分の都合や得策への熱さなのだ。ただ糾弾をするのでなく、そこから正しい信仰に導くためのホセア預言者の務めである使命がある。生活の豊かさが、神を失った状態であれば、流血、欺き、殺人、盗み、姦淫、…と人の生活基本が保てない。そこからの立ち上がりは、人間の限界を超える。神の裁きは、その誤りを止めない。正しい道への教えと指導をしていないから祭司にその責任がある、と。祭司が主なる神の<みこころ>を正しく示していない故だとある。神はその源である母(土地または繁栄)を黙らす、と。沈黙は<金>ではない。死を意味している。苦難の僕メシアの記事を味わいたい。「神と共にある沈黙」と「神と関係のない沈黙」とを意識して。「私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。その私の罪をすべて、主は彼にん負わせられた。〜彼は口を開かなかった……(イザヤ53:6)。」
2月19日 イエスの癒し
マルコによる福音書 8章22節〜26節 阪井牧師
信仰の覚醒を記念する宗教改革から500年を迎えた。英国(ヨーロッパ)ー米国ー横浜への宣教がバプテストに流れている。その中心に聖書至上主義がある。時代の変化に伴い生活様式が変化する。そこで、時代の人々に分かり易く伝わりやすい聖書の伝え方に心を砕く。それでも、聖書の基本は変わる筈だ。今日、キリスト教学校はその苦悩をしている。募集の定員割れや教職員の信仰者不足である。教会にもその流れが押し寄せて、高齢化と求道者不足がある。主イエスは、異郷社会を巡り回って今、ベトサイダ(ユダヤ人社会)に着いた。そこに一人の盲人が連れて来られた。「イエスに手を置いて欲しい」ためであった、と。他の人々も集まり、その結末に感心を持ったかも知れない。だが、イエスは盲人と共にその場から離れた。関心への距離をつくって向き合う関係を求められたことを想う。それは、「人が生きる」ことへ主の関心だと想う。この個所の直前に、主は弟子たちに不思議なしるし<給食>を想起させて、「まだ悟らないのか」の言葉を語っておられる。盲人の癒しの記事は、それに関係させて受け取る。不思議なしるし(=奇跡)は信仰の本質ではない。主イエスの最も近くにいるのに、真の姿を受け取れない弟子たちへの言葉は、教会の私たちへの言葉でもあろう。人々の繋がりの中に信仰の本質を見るとき、神が主イエスにあってお示しになられた真実<愛>を見失うことになりかねない。主イエスの真実は十字架の出来事においてこそである。聖霊による信仰を求めたい。
2月12日 真実に出会って
ホセア書 3章1節〜5節 阪井牧師
聖書にはマイナスをプラスに扱おうとするユーモアがある。力みでも強がりでもない。赦せない腹立たしさの中に支えざるを得ない想い、これもその一つである。そこに真実があることを見逃してはならない。アブラハムの信仰に立つ神の民イスラエルが神から離れた。故意ではない。懸命かつ熱心に歩んでいる。それが真実を見失ったのだ。教会から、キリスト教から人が離れる現実に抗する想いに重なる。教会の本質、キリスト教の真実が崩れるのはそこにある。信仰の核心が、主イエス・キリストの復活にある。人の努力や意志がその真実に寄与しうるとしてはならない。大事な要素かも知れない。「行け、夫に愛されていながら…(3:1)」の言葉は重い。手を切りたい、関係を持ちたくない、できれば距離を持ちたい、のが本音である。汚れや堕落の道から引き戻す徒労から解放されたい。「自由にさせてあげる」の名目が立つ。だが、主の求めは実に厳しい。自分の事柄にするべく求められる。預言者に求められる<厳しさ>は、今日のキリスト教信仰者、教会の私どもにも通じる。神は離れ、背くイスラエルとの関係を断たれていない。関係が失われていない。見てみない振りをするのが「愛」の反語、無関係である。神は、主イエスにおいて、なお関係を求め続けておられることを想う。それは、全く人の限界を遙かに越えた出来事である。その歩みに用いられたアブラハム、モーセは神の言葉に従い、仕える歩みを生涯の務めとした。破れても主の言葉に生きる者でありたいと願う。
2月5日 イエスの深い嘆き
マルコによる福音書 8章11節〜21節 阪井牧師
「自分をわきまえること」は易しい。でも難しい。高齢化は身体だけでなく、発想も硬質化する。体験的に認めざるところである。認めないなら「ストレス症候群」の症状を起こす。ファリサイ派の人々、ユダヤ社会の精神的リーダーにその徴候を見る。イエス(神の子)に対して<神から遣わされた者>の「しるし」を求めた。自分の判断基準が根拠手掛かりである。説明は「イエスを試そうとして」と。存在や主の御業をさえ「偽りか真実か」を判定しようとする。そもそも、主イエスの<不思議な業>は、信じない者を信じさせるためではない。人としての営みができない人を立ち上がらせて、神のいのちに生きるために希望を与えるためだ。数字は目の前にある経験や知識の現実である。イエスは、その数字を超えた働きに仕えることを求められた。人間の評価・理性が求めの理由ではない。ただ求めに無心になって応え、遣わされるところで仕える<神の豊かさ=不思議さ>を弟子たちは体験した。信仰の現実が経験や知識で適応できる愚が、主イエスの嘆きではないか。「数」が重要ではないけれども、そこに拘る弟子たちは、教会の姿に重なる。ここに「自分をわきまえること」の課題を見る。神の祝福を身近に体験をしながら、自分の価値判断が先んじてしまう。主イエスが「まだ悟らないのか?」と言葉をかけておられることは重い。主なる神がなされることは、信仰で受け取る他はない。説明も理由付けも必要がないのではないか。まだ説明の思いが働いていないかを問われる。
1月29日 不真実を砕く、今
ホセア書 2章1節〜25節 阪井牧師
思いがけないところで聖書の言葉に出会う。時代は変遷してもその真理は変わらない。時代の中での真剣さも真理を見失うことがある。真剣さが奇妙になる。ホセアの記事は時代や生活の変化時(過渡期)の背景がある。遊牧から農耕への変化である。横の繋がりを重んじて神(縦)が後回しになった。生活は安定をみても神の民としての真理に狂いを生じた。預言者ホセアは、自らがその現実に痛み傷つく体験の中で使命に仕えた。神に示されて迎えた妻が、より豊かな生活に惹かれて夫の元を離れる(淫行)。そして子ども(淫行の子ら)を得たのだが、生活が生き詰まり、「元の夫のところに帰ろう」の言葉は強烈である。姦淫の罪は死をもって償うのが生活の基本とする社会でのことだ。この現実の苦悩に預言者ホセアはあえぐ。淫行の妻を<わが妻>、淫行の子らを<わが子ら>として受け入れることを主なる神から求められた。イスラエルの民の農耕地での生活は、主なる神への淫行であることをホセアは身をもって確認させられた。預言者として、これほどの厳しさがあろうか。神の怒りは消えたか。神に対する反逆は赦されると言えるか。わたしたちへの神の哀れみは、<なかったことにする>単純さである筈はない。み子イエス・キリストの十字架は神の裁きである。同時に自らが傷つき傷んでわが子の命をもって贖うのだ。恵みの<けた外れ>の深さ、憐れみの限りなさをどう受け留めたらよいか。わたしたちは自分の存在を軽く見てはならない。不真実が暴かれている。
1月22日 失望から希望へ
マルコによる福音書 8章1節〜10節 阪井牧師
「心の向き」との言葉がある。ある事柄の捉え方を考えさせる。「時」を<まだ>と<もう>の例がある。この聖書記事にもそのことを意識する。3日間も主に従った群衆の解散を前に、食事を気遣うイエスに、弟子たちは「こんな人里離れた所」、「いっにたい」、「どこから」、「十分食べさせる」ことが、との問いを発した。するとイエスは、「パンは幾つあるか」と問うた。「七つ」。この数字が「心の向き」を考えさせる。弟子たちには、限界、無力の表現であった。何しろ、「およそ四千人」の人がいた。イエスは群衆を座らせ、パンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちに渡された。(聖餐式の言葉を想起する)。食後、パンのかけらは7つの籠に一杯であった。この記事から「五千人の供食」の記事(6:30以下)を想起するだろう。それは12の籠に一杯であった話。イエスの宣教がイスラエル12部族・ユダヤ人対象とユダヤ人以外(異教徒)への宣教が背後に想定できる(参照言行録6章)。宣教の働きは、人の経験や知恵の限界を超えていることをここに学ぶ。主イエスが弟子たちにパン(福音)を配らせたのだ。聖餐式の用語がそこにある。主イエスの贖い・十字架の出来事を背景にしていると学ぶことができる。主イエスご自身の命をかけた神の栄光の業に仕える弟子たちの姿に、教会の私たちの姿が重なる。特別の能力を求められていない。なすすべのない限界にありながら、永遠の命を伝える業に用いられるメッセージがある。主が用いられる者であることを喜びたい。
1月15日 傍観できない事実
ホセア書 1章1節〜9節 阪井牧師
22年前1:17の記憶が薄れてくる。その日現地に誕生した人、中村翼さんは苦悩の末・体験者の語り部(出張講座)になった。話を聴いた幼い子どもたちの感想(心の声)を涙流して受けた。生活の中での事柄は重い。ホセア書はその特徴を持つ。預言者ホセアは、イエスの時代より700年ほど遡る北イスラエルで活躍をした。自分の生活体験を通して主の召しに仕えた。淫行の女ゴメルを妻に、淫行の子らを自分の子として受け入れることを主から求められた。このままだと義勇伝になる。ところが、自分の妻が出て行き、淫行の生活、そこに生まれた淫行の子らを妻、子として受け入れるとなると、義勇どころではない。屈辱そのものである。この淫行の姿はイスラエルそのものであると語る。主なる神はそのイスラエルを「神の民」として迎える内容、これがホセア書の特徴・体験的預言書なのである。主イエスの誕生記事(マタイ1:18〜)では、「夫ヨセフは正しい人であったので、秘かに離縁を…」とある。そのままでは<生きることが赦されない現実>をヨセフは避けて「秘かに」と説明している。本来、生きていることが赦されない存在が今生きているのは、神の愛、赦し、忍耐である。これは並大抵なことではない。しかし、これ故にイスラエルは生きている。イスラエルだけではない。神を神としないすべての人に、神は主イエスの出来事を通して<生きること>を求められるのだ。神の愛の凄さを想う。十字架の出来事を傍観してよいか。私の生き方を問われる。生きねばならない。
1月8日 私たちの望み・神の企て
ローマの信徒への手紙 8章18節〜30節 阪井牧師
クリスマス、そして元旦が日曜日という暦の場面は珍しい。それから8日目が今日。創造物語は6日間ですべての業が終わる。その最後日に人は創られた。7日目は安息日。人の初日は安息日であり、8日目は神と共に歩む人の第1日目である。あるべき人の生きる姿勢を想う。「松飾り冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」は限界の中でどう生きるかを問うと見る。今日、自由は「一人ぼっち」に見える。何かが欠けている、つまり他者への心の配りの「欠け」を思う。維新以来、日本は<経済と政治が独走して、宗教と心が取り残された>民主主義の花との見方を「8日間の創造から」示される。周辺からの苦悩や呻き声に共鳴できない世界の現況を評している。主イエスは、その人たちの場所に立ち、それが今日の<私たちの救い>となった筈である。知識者は、パウロ自身もその一人として主イエスに対立した。積極性、熱心さをもって拒否をした。だが、甦りの主に出会って回心をした。生き方を全くかえた。新しい生き方にされて、産みの苦しみをした。重荷、汚れ、不快から距離を保てるのに、敢えてそのただ中に立つ者となっていった。主イエスと歩むが故であった。今まで自分に有利であったものが損になる(フィリピ3:7)ことを引き受ける者となった。イエス・キリストと共に生きる者になることによって痛み、嘆き、苦しむ人の声が聞こえるようになった。そこに希望をさえ見いだした。見えるものでなく神の計画に入れられる信仰の人になった。深い神の企て。
1月1日 始まった神との生活
詩篇 119篇1節〜8節 阪井牧師
時間の経過と生活の変化が内容を変える。イスラエルの歴史がそれを示す。律法は神の民である「契約のしるし」だった。それが形の「しるし」に変化した。割礼はその象徴である。本来、縛りからの解放が、逆に不自由に変わった。喜びと感謝が苦痛となった。神の憐れみと恵みを見失った。今日の教会にもあり得る。自分を正当化すると、本質が薄らぐ。主の律法は外から圧力となって迫り来ない。内からの喜びの求めである。「神の民」であることの喜びなのだ。自分の努力や性格がその事実を作り出す筈はない。気が付くと、その努力や血筋が重要な要素になっていた。神が神として、人に約束されたこと、イエス・キリストを通して神の子とするクリスマスの出来事がそれであった。人の何らかの要素を徹底して排除する神のご計画と言える。誰もが謙虚に受け取る以外のない事柄が起きたのだ。新しい年を歩み出す時、すでに神の民の事実を見失ってはなるない。主の律法は「契約のしるし」としてイエス・キリストにおいて成就している。これを心から受け取るのの十分なのだ。そのとき、すべての人誰もが「主の道を歩む者」となる。否、主の道を歩む者とされるのだ。主の前にあるその姿は、人には様々に見えるが、豊かで力が備わるのた。尽きることのない主のみ手の寛さ深さに包まれているから。ただ、陥る危険がある。それは過去に戻ろうとすること。出エジプトの民が、あの「肉鍋」を慕ったことに通じる。主がすでに共に歩まれていることを忘れてはならない。感謝!
ホームページへ戻る