日本バプテスト同盟 |
戸塚キリスト教会 |
〒245-0061 横浜市戸塚区汲沢1−24−9 Tel.&Fax. 045-881-0032 |
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12月28日 あなたの庭に宿る人 詩編 65編1節〜14節 阪井牧師 現代人の特徴は互いの関係が「切れている」との孤立感にあると考える。 夫であり主人である大人の男が、「自分の居場所がない」と家庭に帰るたがらないとの報道を通して想った。 この機会をプラスに捉えるてみたい。つまり、今までの繋がりを吟味する時とすればよい。 同じや一緒が安定の根拠とする事から本当の自分を知ることを始めるのである。 これは教会の個別を大切にする極めてバプテスト的な発想。各個の教会は公同(見えない本質)の教会を現している、と見る。 従って、互いにその尊厳を監督したり支配することをしない。自らが聖書に基づいて決断する。 いわば、キリストにのみ支配を受ける。そこには人の感情も世の価値も立ち入ることを許さない。 現代の課題を周囲との関係に囚われることなく、神の前に一人の人として立つ決断は辛くも厳しくもある。 だが、新しい関係の道が生まれる。主イエスにおいて神が人になられたことにその原型を持つのだ。 マルコ10章42節以下の言葉が示す。神の宮には沈黙して出る。 礼拝には自分の都合や主張も携えて出るも、神と語る(祈る)。 自分のいのちを与え、また取り去る方と共にある者の姿勢を正されよう。 自己暗示や独り言ではない。聞いてくださる方に向かう。 自分の熱心や思いが如何に弱いものかをペトロのかっこよさに見る。 主イエスの十字架はその故に意味をなす。本当に自分を知る者はその恵みを正しく受け取る。 その喜びを伝えたくなる信仰を願い祈ろう。 12月21日 さあ ベツレヘムへ ルカによる福音書 2章15節〜20節 阪井牧師 装飾やあでやかさ、身代わりの早さにおいでは、確実に世間から遅れを取っている教会、しかし質素さは抜群。ベツレヘム郊外の羊飼いも同じ。人々は人口調査に奔走? 一方、羊飼いらは野宿して羊の番を。地下道や公園のベンチ、ビル軒下の段ボールを寝床にする野宿者同様。 天使の言葉はどうに響いたろう。「今のは何?」「どういうこと?」「つまらない幻覚?」で片付けてもよい「一人の赤ちゃんが生まれた」のメッセージ。神の子「救い主誕生」の知らせはほんの一瞬の昼、だが現実生活は闇。 不釣り合いそのもの。救い主待望は強いが整えられ、ふさわしい所ではない。布にくるまって飼い葉桶の中だと。羊はイスラエルでは神の民。その関係を離れると失われた羊となる。羊飼いは夜通し番をする。実に象徴的。 届いた知らせは、生活の安定や改善などの保証も根拠もない。天使の去った後は元の貧しさと暗さの現実だけ。興味感動や感激もなく、「さあ、ベツレヘムへ行こう!」と声を掛け合っている。見に行くのではない。はっきりした決断。 自分の出来事として受け取る姿勢、つまり礼拝する姿である。探し当て、礼拝できたのは羊飼いだから。ここに恵みがある。世話の焼ける羊を連れての礼拝はなんと私たちに似ていることか。彼らは自分の経験を語らない。天使から伝えられたこと。人は不思議と思ったと。神の出来事は人の納得理解が重要ではない。彼らは神をあがめ、賛美した、との結びはそのことを示している。 12月14日 神にはできる マタイによる福音書 11章20節〜24節 阪井牧師 教会の一年はアドベントから始まる。イースターの準備はレント(受難節)が40日であった。 アドベントもかつては40日であったが、4回の主日のあとクリスマス(12/25)を迎えることになった。ローマ時代の太陽信仰の冬至(12/25)の祝いに「世の光キリスト」到来の祝いを重ねた。 時間と時代の流れは変化する。しかし、変わるのは私たちだ。その中でパウロが福音を伝える召しに応えるには自力でなく、あなたがた(テサロニケ)の祈りの支えが必要であると訴えている。使徒として十分の力を認めておかしくないのに、祈りを求めるには、神の力に頼ること姿勢が貫かれているからだ。 人物の偉大さ、雄弁さ、学識や計画性のすばらしさが全く取り上げられていない。派遣をしたシリアのアンティオケでの伝道旅行の報告にもその姿勢(使徒言行録14章27節)が見える。 決してパウロの謙遜さではない。心からの願いだと受け取る。私たちが自分の主張や思いをもって、神を引き込もうとするのとは違う。自分の計画には予想が立つ。 しかし、神に委ねた歩みには、何が先に待っており、どんなことが待っているかは自分の知るところではない。だからこそ、不安となる。神の思いより、自分の予定が勝っているなら不安はない。 クリスマスを迎える時、このパウロの姿勢は私どもに大事なことを示している。キリストに仕えると言いながら、主が求めておられないものを求めていないか。従う筈が主が赴かれるところに自分の都合を優先するのかを想う。 12月7日 待っていたのに マタイによる福音書 11章20節〜24節 阪井牧師 緑は平和(オリーブ)を、赤は血(主イエスの苦難)、赤紫は悔い改め(十字架直前に着せられたケープ)を象徴するという。 ではクリスマスはどんな色で象徴されるのか。 言うまでもなく喜びを表す色、それはイースターと同じ色の白に伝統ある教会はこだわりを持っているようです。 主を迎えた喜びには一切の飾りが不要だからです。プロテスタントの教会には有っても十字架だけです。 語られる神の言葉にすべて集中するからでしょう。 主イエスの語られた言葉や業に接しても生き方を変える(悔い改め)ことをしない町の人々に焦点を当てた聖書記事です。 コラジン・ベトサイダはツロ・シドンと較べ、カファルナウムはソドムに較べていることが象徴になっている。 ユダヤ人たちはメシアの到来をどんなに待ち望んでいたか。ただ、自分の中に持つイメージで期待していた。 けれども、今共におられる姿で現れるとは、 全く予想外であったので自分たちの生き方を変える事柄として受け容れられなかったからである。 「悔い改め」は言葉の表現とは較べものにならない厳しい現実である。 今までの歩みから反対に向かって、つまり打ち消して歩くことだから、 経験と実績を持つ人にはまさしく死を意味することになる。 どんなに成功して見えても神に向かって謝る生き方はどうか。 他人事ではなく自分のこと。容易に謝ることができない私たちを受け取るために主イエスは人になられた。 この方を待つのがアドベント、自分を変える時である。 11月30日 不安な時代をどう生きるか マタイによる福音書 6章25節〜34節 特別伝道礼拝 帆苅 猛 先生 年金、金融、介護、福祉、医療、環境の諸問題が次々に起きてきている。 日本経済はアメリカの金融問題に影響されて不況の波をかぶり、思いがけなく厳しい生活を強いられる人々が現れた。 科学技術の発展は私たちを幸せにする筈だった。ところが、さらなる新しい問題に振り回される現実である。 ローマ帝国時代、大国の力に圧倒された小国や地方共同体はすっかり飲み込まれていった。 あおりを下層の民衆が正面から受けるのであった。 そんな人々に向かって、与えられている「いのち」を喜び生きるようにとイエスは語った。 イエス時代は社会環境に善意が働いて困窮者を支え、互いに生きることができた。 しかし、現代は善意が怪しくなり、互いの信頼が失われて自分本位の世界になっているため、 周囲の人を信頼して生きるには余りにも難しい。 この山上の説教で語られている主イエスの言葉は、神を信頼し、周囲の人々と共に生きるようにとのメッセージである。 けれども、それに従い得ないのが私たちの現実である。メッセージを語られたイエスはメシア(キリスト)である。 なぜ、主イエスが誕生されたかをマタイ福音書(1章23節)は 「神は我々と共におられる(インマヌエル)」と書いてその理由を示している。 この方に向かって人が生きる時、希望を持つ者に変えられる。 主イエス・キリストにおいて神が備えられた恵みに信頼して得る希望を生き、深い神のご計画にあずかろう。 神の「いのち」に生かされる者になろう。(文責 阪井) 11月23日 魂の願い イザヤ書 26章1節〜19節 阪井牧師 「価値観の多様化」という言葉を耳にして久しい。まるで「切り札」でもあるかのよう。 本当に現代の切り札としてよいのか。 誰にも、いつでも基準にすべき揺るぎないモノは厳然といまもあるのではないか。 困難さや不便さを避けるための言い訳になっていないかと自問する。 激しい混乱が私たちの生活の中に入り込んでいるために、嫌でも向き合わなければならないことでもある。 イザヤ書26章の歴史背景にも現代と同様に自分を保つことが難しく思える状況があったに違いないと想う。 バビロンからテマへの遷都(B.C.550年)は、捕囚の民には目を見張らせるバビロニア帝国の勢いだったかも知れない。 神の民、イスラエルの誇りも自信も失せてしまうほどの現実にありながら、なお希望を保足せる言葉がここにある。 辛さや苦しさ、また悲しさを背景にして神のみ名を呼び、称え、祈ることを示している。 神の計画が進められている中にあることを確信して耐え、待つ力がそこにある。 神は一人の魂をも滅びることがないように願い働いておられる。 想像以上に神の熱情が私たちに注がれていることを語っている。 魂の願いを主が起こさせてくださっている。 マルコ5章にゲラサの地で働かれる主イエスに、この地方から出て行って欲しいと願い出た記事がある。 主が来ておられるのを喜ぶには、目先のことが全てにならない生き方があるはず。 どんな時にも、誰にも変わらない方として働こうとしておられる方をお迎えする用意を怠らないように。 11月16日 耳のある者は聞け マタイによる福音書 11章7節〜19節 阪井牧師 なぜ、主イエスはヨハネからバプテスマを受けられたのか。 ヨハネは「私こそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに(マタイ3章14節)」と言った時、 イエスは「正しいことを行うのは、我々にふさわしい」と応じられた。 ご自身が真の人としてヨハネの前に立つことによって、ヨハネの業を神の前に正しいと証しする行為ではなかったか。 履き物をお脱がせする値打ちもないとの自覚がヨハネにあったことを想起する。これは私たちの現実でもある。 小さく弱々しい存在の私たちに、いのちの創り主が関わって下さることによって魂の救いが起きる。 主イエスが関わることによりヨハネは「荒野で叫ぶ声」そのものとなった。 ここでヨハネのことを主イエスは語っておられる。ヨハネが荒野で叫んだ言葉は、ヨハネが捕らえられた後、 主イエスの宣教を始めた言葉と全く同じであることに驚きを覚える。 「神を知ることの恵み」を誇ること、「アブラハムの子であること」を、自分の存在根拠とすることへの問いを思う。 単なる知は誤るモノとなる。無色無臭の知は存在しない。必ず方向性がある、と言う人がいる。 神から出る知と人から出る知とでは方向が逆となる。 無知や傲慢を憐れみ、救いの神へ向かわせるものと自己義認の貫徹との違いである。 私たちの信仰生活がヨハネの時のように「声」として意味ある存在にされたい。 礼拝は神の言葉を聞くことであり、 それが生活そのもの、私たちの生きること、主イエスに関わっていただく歩みとしたい。 11月9日 神の御計らい イザヤ書 25章1節〜12節 阪井牧師 聖書の信仰表現には歌や詩、物語や譬えの他に黙示というのがある。 現実となっていないが、神の裁きとして終わりの時が示されている。 新約聖書はヨハネの黙示録、旧約聖書にはダニエル書が知られている。 イザヤ書にも黙示内容の部分がある。24章〜27章がそれに当たる。 事実を目前にする前に、神のみ業が行われるとの確信に立って語られている。 実証科学の世界を生活の場にする現在の私たちには、異常か変、いや危険に見えるかも知れない。 「ない」のに「ある」と語る信仰の世界の実際は、生きることが厳しい現実の中にあるとしたら余計であろう。 信仰の世界を生きる人には、たとえどんなに厳しい今の現実であっても、 将来に向けて神が約束されたことを真実と受け取って、現在どう歩むか、どう信仰の闘いをするかの判断する生き方となる。 つまり、信仰は自分の経験や積み重ねた努力に依るのではなく、神のご計画、御計らいにあることを示す。 私は神のみこころに従って召し出されている。だから、自分の価値を人の手によって決定されてはならない。 神のひとり子のいのちを持ってなお、召されている価値は神にある。 イザヤはイスラエルの人々の厳しい状況を知ってなお神のご計画が成就され、 約束がなされた故に感謝し喜ぼうと語っている。神を侮り人を軽んじる民の裁きは行われる、と。 そして、歴史の事実がそのことを証明することになった。 私たちの信仰も神の御計らいの中にあることを誇り歩みたい。 11月2日 誰につまず マタイによる福音書 11章1節〜6節 阪井牧師 躓きには2つを考える。(1)誤って足先をモノに蹴当てる場合、モノ自体は自力で動かない故、人が対応する他ない。 (2)予定したことが叶わなく途中で諦め挫折する。 ここ主イエスの「私に躓かない人は幸いである」の言葉(6節)はバプテスマのヨハネが弟子を介して「来るべき方は……?」の問いに答えた結びにある。 バプテスマを主イエスに施したヨハネがなぜ躓くのか。 絶大な権力者にさえ自分の命を賭けて真理に仕えるヨハネ(それが今獄中の身となっている)は、 躓きの瀬戸際にいることを想う。 いかに貧しく厳しい状況にも揺るぐことのないヨハネが主イエスに尋ねているのは不安を物語っている。 自分に余裕があればそれほど迷いや深刻さはない。全身全霊を注いでいるからこそ抱くとすると、 ヨハネ自身に課題があることになる。主イエスはそのヨハネを思いやって弟子に言葉を託したのではないか。 人々の憎しみや拒絶を受けても怯まないヨハネは。自分の願うメシアの姿から離れすぎている、と。 十字架へと進む主イエスこそメシアの姿である。だから、見たまま、聞いたことを告げさせておられる。 人間離れをして人々に向き直らせることはされない。それが悪魔の試みに対処された主イエスであった。 神のみ業をそのままに受け容れること、実はそれほど容易ではない。主の霊が働いてこそ栄光に与ることができる。 躓きは自分にあることを知らされる。 人の言葉が「神の言葉になる」恵みを共に味わいたい。 10月26日 音のない世界 イザヤ書 24章1節〜23節 阪井牧師 「叱られる内が花」生活の知恵の言葉である。叱るには関心があることを前提にする。 イスラエルの人々はそれを「顔を向ける」との表現で表した(詩編69編18節、86編16節、119編132節)。 神との関係が自分たちの生きる力や希望だからです。 主が顔を隠すことは自分の存在を失うことに繋がり、恐ろしいことでした。 今日の課題の一つは、顔を見ないままで関係を続けようとすることにある。 便利・時間短縮は正しい関係を保てるのか。こじつけかもしれないが、気になる言葉がある。 「神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ…(ローマ1章24節)」と、まるで顔を背けている表現である。 ノアの洪水物語にもにた表現がある。ノアが神の言葉に従って『船』を造っている時に、人々はするに任せられていた。 神の秩序が失われた状態は滅びに繋がる。音のない世界は神の秩序を失い、福音を語ることもできない。 自分の命をひたすら保とうとする努力は認めても「迷える羊」となる。 自分の位置や方向性が不確かとなり、神の秩序が失われて互いに散っていく。 価値は持っていても役に立たない存在となる理由は聞けない世界、それは音のない世界である。 預言者は、『地は乾き、衰え、枯れ、弱り果てる。それでも「残される者がいる」』と伝えている。 慰めと勇気を与えられる。そこから、なお救いの喜び、主の栄光を叫ぶ者が起こされる。 主に従う者は絶えることがないことを知る。神の忍耐に感謝して主の栄光を讃美して立ち返ろう。 10月19日 主イエスの約束 マタイによる福音書 10章40節〜11章1節 阪井牧師 「あなたがたを受け入れる者は、わたしを受け入れる」の主イエスの言葉は、弟子たちを遣わされる時のもの。 尊敬や親切などの領域を遙かに超えている。キリスト教がどれほど受け容れにくい時代であったろうか。 現在の比ではない。使徒言行録の9、22、26章にはパウロの回心の記事がある。 使徒となる以前には「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそう(ガラテヤ1章13節)」とするために国外にまで手を伸ばした。 その途上で声があった「なぜ、わたしを迫害するのか」と。すでに主イエスは十字架にかかり、葬られていた。 信じる者が迫害される時、主イエスがそれを受けていたことを示す。 だから遣わされるのは、召しを受けたその人だけが出かけているのではない。 遣わす方が伴っておられることになる。 福音を携えているその人との関わりが、実は神ご自身との関わりとなっていることが語られている。 召され、遣わされた人をどう扱うかは、主イエスを重んじるか、軽んじるか、つまり神を迎え入れるか、拒むかと繋がることを聖書の言葉は示している。 キリストに遣わされている自分をどう思うか。折り合いよくあることを願う余り、この世の知恵を働かせる。 その時、主イエスはどうなっているのだろう。神様はどうなさっておられるのか。 主イエスを控えさせたり、神の出番を指図することにわたしが采配を振っているなら、わたしは何者なのでしょう。 聖書の言葉は遣わされる者への力と希望、恵みの支えとなる。主の約束を受けよう。 10月12日 お言葉どおりに イザヤ書 23章1節〜18節 阪井牧師 「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」と主イエスに信仰をほめられた女性の出身地 (マタイ15章28節、参照マルコ7章24節以下)や主の命に背いて船出し、 結果的には使命を果たすヨナの物語(ヨナ書)で有名な地名がここにある。 イエス時代より700年ほど遡る頃のティルスやシドンは地中海に面する港町、人と物が往来して賑やかに繁栄していた。 イザヤの預言はそこに水を差すような裁きの内容「産みの苦しみをしない。 若者をはぐくむこことはできない」と。苦しまないのがよいのか。 意外なことだが、人の成長はそこにあるのではないか。苦しみや手間を省くことが人としての成長を損なうことを想う。 現代の消費と便利さがどんな社会になったかを体験的に知る。 自分は動くこと少なく、周囲を利用することに慣れる世界に神はおられるか。 子どもだけではない。頭だけ大きい大人はまさしく〈モンスター〉である。 自分のために神が働くべきと考える。苦しみは神の前に人が謙虚になるチャンスになるか、 さらなる尊大な自分になるかである。クリスマスの物語のマリアはどうか。 死ぬほど辛い厳しい言葉を耳にした。拒絶できるものならと考えたであろう。 しかし、「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と返事をしている。 そこからキリストが誕生し、全ての人が永遠のいのちに招かれることが起きた。 み言葉の前に謙虚となる私たちの〈お言葉どおりに〉の信仰が主に用いられるように願う。 10月5日 わたしは来た! マタイによる福音書 10章34節〜39節 阪井牧師 クリスチャンは「穏やか」で「優しく」「心が広い」とのイメージからあまりにもかけ離れた記事である。 躓く人もいる。ところがこの聖書の言葉は、行き詰まった人を励まし、倒れた人を立ち上がらせ、 傷ついた心に「生きる力」を与えている。この話は、主イエスが遣わす人に使命を携えて出て行かせる中にある。 弟子たちに、そしてこの私たちにも語られている。福音を携えて出かけることは容易ではないことを示す。 同時に、そこに主ご自身が伴っておられることを受け取る。 かつて、パウロが迫害に息を弾ませていたその途上に、 主イエスが「なぜ、わたしを迫害するのか」と語りかけたのを想起する(使徒言行録9、22、26章)。 キリスト教徒やキリストの教会を迫害していたが、パウロは、主イエスに直接会ったことがないのに、声を聞いた。 このことは、遣わされる者が向き合う痛みをその人だけでなく、主イエスが受けておられたことを示す。 また、「私=主イエスにふさわしい」の言葉は「釣り合う」を意味する。 主イエスと誰が釣り合うと言える者がいるだろう。 お前は軽い、重みがないと主イエスは叱責されるか。 承知の上で遣わされるのは、あなたの痛みを「私が負う」と言われているのではないか。 すると投げ込まれている剣の向かっている先は、主イエスとなろう。 十字架に歩むご自身をふさわしいと言う者、必要とする者のために「私はあなたと共に歩む」言葉をここに聞くのである。 痛み、罪を引き受けるために「わたしは来た!」の声を聞く。 9月28日 もし要が抜けたら イザヤ書 22章15節〜25節 阪井牧師 「すべての使徒に現れ、そして最後に月足らずで生まれたような私にも現れました。」とパウロは甦りの主イエスとの出会いを記している(コリント1 15章5節〜)。 またヨハネ福音書21章15節以下には、ペトロが主イエスとの印象深い会話の記事がある。3度も主から「わたしを愛するか」と尋ねられたペトロは3回目に「主よ、あなたは何もかもご存じです」と答えている。 誰もが3度の「わたしは知らない」を想起する。しかし二人の会話には続きがあって、「若いときには…、年を取ると…連れて行かれる」との主イエスの言葉に深い憐れみを受ける。 かつては自分の経験と知恵で決断したが、今は「あなたに力ある方が働く約束」をそこに聞くからだ。このイザヤ書にも神の憐れみが語られているように受け取れる。目先の事象に一喜一憂するが、その背後に主なる神のみ手が働いているのだ、との恵みを受け取れる。 主を見上げる姿勢が崩れると神の秩序が保てなくなる。み心に仕えているはずが、逆らいかつ関係を失うことになりかねない。救いの恵みが薄らぐと自分を失う。自分をどういう人物とし、人々にどう見てもらい、どんな価値付けを求めるのか。この方向と神との関係は「生活の要」である。キリストの僕となった初めの新鮮さと謙虚さをどうして保つか。 礼拝と祈りまた聖書を通して神の声、言葉に心を傾け続けること、これが要であることを学ぶ。誘惑と向き合うよりも、み子主イエスに向き合うことが何よりも大切であることを学ぶ。 9月21日 価値ある者よ マタイによる福音書 10章26節〜33節 阪井牧師 「弟子はその師以上のものではない。 弟子が師のようであれば、それで十分である」に続いて、ここに「人々を恐れるな」となる。 これは歯を食いしばって我慢を!というのではない。また、怖くない、と自分に言い聞かせるものでもない。 ましてや叱責や戒め・教訓の類でもない。慰めと励ましや勇気を与える深い憐れみと受け取れる人はすばらしい。 そこから信仰による新しい出発が始まる。 主イエスは遣す先には、本分を中止したくなるほどの抵抗に出会うことを知って「恐れるな」と語りかけておられることを想う。 本当に恐れるべき方は、存在そのものを支配される方、創造主である。 私たちは神が与えてくださった「いのち」に生きる者で、畏るべき方の前にあることを忘れてはならない。 「永遠のいのち」を受けたのは、性質でも条件を満たしたからでもない。 それを感謝し、支配する方を畏れるために礼拝するとも言える。神を畏れる者は神以外のものを畏れない。 神を畏れない者は不安も恐れもないのか。神でないものに、自分の安心を求めないか。 このような人は、「人を愛する」ことが分からないだろう。人が何よりも価値あると言えない。 そんな世界、抵抗あふれる人々のところに遣わされる者への語りかけである。 携えるものは、ご自分(主イエス)がどういう方、どのような方法で、全ての人の救いとなるか、 この人以外に救いはない、ことである。かつて密かだったが、今は高台で語れ。 そのことの一切を引き受ける、と。 9月14日 神の前の破れ イザヤ書 22章1節〜14節 阪井牧師 弱小国ほど周囲の影響を受けやすい。資源も国力も乏しいゆえでもある。 しかし、歴史の中でユダヤ民族は大きい役割を果たしている。 同時に、陥りやすい危険も証言しているのがこの記事と見ることができる。 必死の対応により結果を自ら生み出したとの判断が出る。 どんなに心揺さぶられるようなことがあっても、神が共におられ、神自ら働かれることに委ねよ、とイザヤは語り、 諭した。だが目前のあまりに驚くべき衝撃に対して、南ユダの指導者も民らも必死にもがいた。 時代に対応したが報われず、大国の傘下に身を置くことになった。 神との関係を軽んじたことの結果と受け取らないで目前の結果に身を委ねる様がここにある。 「聞いても聞こえず、見ても見えない」状況は、今だけが全てになる。 神に顔を向けること、語られる言葉に直接触れられる特権を放棄してしまう。 そのこと自体が神の裁きの結果である(ローマ2章1節以下参照)。 今が良くても悪くても、私たちは神の前に出る謙遜がいのちであることを学ぶ。 目に見えることと神がご覧になることが一つになるには悔い改めの他にない。 正しくあろうと心を注ぐことは、どんなに人の目に虚弱であっても、 万軍の主が共におられることの確信があるゆえに「大きく、強い」。 経験や手腕が結果を生み出しても方向を間違えるとむなしい。 パウロとシラスが獄中で賛美と祈りから神の恵みを証した言行録の記事(16章16節以下)を想起したい。 神は私どもを破れのままに用いて余りある方である。 9月7日 賢く、素直であれ! マタイによる福音書 10章16節〜25節 阪井牧師 自分から望んで親の元を離れる子どもを親はどう見るか。少しでも苦労しないで済むようにとの願いを持つ。 主イエスは弟子たちを遣わされる時、「狼の群れの中に羊を遣わすようなものだ…」と語られた。 なぜ、そんなところに愛する弟子たちを遣わされるのか? この話の前に「収穫は多いが、働き手が少ない(9章37〜38節)」の言葉がある。この働き手として遣わされるのであるなら、祝福がそこに待っているはず。 確かに約束であるが、現実は違う。そこには狼の群れが獲物を狙っていることを想わせる。 遣わされる12弟子は、教会の代表と受け取るなら、この話は他人事ではない。教会は礼拝で一杯の空気を吸う。 どこに吐き出すのか。私たちの生活の場が吐き出す所になる。息を吸うだけでは生きられない。 吸って吐く呼吸が生きること、生活である。教会もみ言葉を聞き、それを伝えることによって信仰に生きることになる。 福音を携え、遣わされる使命に応える者に、主イエスは語りかけて励ましを与えている。 機関を通して問われることもあろう。親しい交友の関係からも尋ねられることもあろう。 そのとき、ただ自分の経験や知恵で応答するのでなく、私たちの中で語られる父の霊に委ねなさい、とある。 父の霊は語られたみ言葉と共に私たちの中にいてくださる方であるとの約束を精一杯受け止めたい。 自分の力量で対応しようとするなら自分が潰れる。 主イエスが一切を引き受けて、私どもを遣わされることに自信と誇りを持とう。 8月31日 荒野や夜でも希望 イザヤ書 21章1節〜17節 阪井牧師 「暗闇は光を理解しなかった(ヨハネ1章5節)」の言葉を思い起こすイザヤの預言である。神の意志が告げられる。 「肩で風を切る」とか「生き馬の目を抜く」と譬えられるほどの勢いあるバビロンが、思いもかけない時と方法で倒れる、と。 打たれ、踏みにじられた私の民は、このことをイスラエルの神、万軍の主から聞いていた、と。 見張りの役を負う者は夜明けをひたすら待つ。明け方に近い方が暗い。 暗闇や荒れ野とは秩序が失われ、社会正義の成り立たない状態を指していうことがある。 世界の諸国が互いに争い合って自分の国の安定や利益を求めるため、 弱小国は「肩の風」や「目を抜く勢い」に振り回されて生きた心地がしない苦しい思いをする。 そこで誘惑に陥るのが人の知恵や経験が救いと考え、「聞いても聞かない、見えても見ない」ことになる。 預言者は語る。全ては神の計画の進められていることに依る。人の目に栄え賑わっていても、神のみこころは行われ、 裁きはある。「自分の心にかなう道、目に映るところに従う」も、 全てについて裁きの座に連れて行かれる(コヘレトの言葉11章9節)の言葉が示している。 赦しは「無かったことにする」のではない。神の義は貫かれる。神の子イエスの十字架がある。 それは、神の憐れみが究極の姿で示されたものである。私という存在がこの方の故に「今ある」を想う。 キリストの光を受けて、荒れ野や暗闇の中をなお希望と喜びを携えて生きる者とされていることを喜び感謝しよう。 8月24日 挨拶・シャローム マタイによる福音書 10章1節〜15節 阪井牧師 今は〈異常が普通〉になっているかのよう。 病院待合室での会話「この2,3日見かけないあの人病気かしら?」はその象徴か。 主イエスの呼びかけに応えて漁師が網や船を手放した弟子たちはどうだろう。 師匠を自分が選んで弟子入りするのとは違う。師匠が弟子を選んでいる。 それは、選ぶ側に目的があるからだと知らされる。教会の場合も同様と考えてよい。 集められた私たちは、選んだ方の目的、すなわち選ばれた者には使命がある。 自分中心の生活から、全き変更(異常)を普通の生活とする。 弟子たちは、『天の国は近づいた』と伝えるために遣わされる。信仰生活の長短ではない。 知識や経験はたまた能力でもない。ただ受けたことを伝える使命が重要である。 「万人祭司」の原理はここにある。使徒とは遣わされた者を意味する。 遣わす者の代理人だから、与えられた権能の全てを用いて働く全権大使である。 神の子イエスに代わる者に自分が相応しいと申し出る者はあり得ない。 とりわけ、自分の安心安定を求めて明け暮れている世界に向かう。 それが自分の思いのままに、どこでもというのではない。 「収穫は多いが、働き手が少ない。 ……(マタイ9章37節)」の神の約束を根拠に送り出すのであれば、遣わす方の霊の力を受けるしかない。 そして、ふさわしい家に入って挨拶「平和(シャローム)があるように」との命令を受ける。 神の支配がそこにあることを示すことを担う。 責任は遣わす方が負われている。恵みの業に就きたい。 8月17日 み言葉に立つ確信 イザヤ書 19章1節〜25節 阪井牧師 神の平和は、主を知り畏れ敬う霊が満ちたところにある、とイザヤ11章にある。 「狼は子羊と共に宿り」「豹は子山羊と共に伏す」「子牛と若獅子と共に育つ」など、非現実的で愚かしくさえ思う。 しかし、聖書には主がおられるところ、主を知る知識が満たされているところには〈害を加えることも、滅ぼすこともない生活〉が現れると告げる。 これと同じメッセージが19章にもある。 世界の大国アッシリア、バビロニア、エジプトが軍事力とそれに基づく権力を行使しているようだが、 それらを支配し導いている力があることをイザヤは語る。 強い者や大きい者が弱く小さい者を支え助けることが平和ではない。 弱い者小さい者になり、しかもその虐げを身に引き受けることによる平和が神の平和である、と。 どれ程の恥辱屈辱であるかはクリスマスの出来事の中に示されている。 その時より5〜6百年も前がイザヤの活躍の時代である。使命を果たすことの厳しさを想像できよう。 諸国の栄枯盛衰は人間のなす歴史上の事柄であるとの見方(神のみ言葉に立つ)に徹してこそ、 流れに振り回されることなく、神の裁きと赦し慰めを語り得る。 世界を創造し、支え、全ての者の救い、いのちを与えられる方に立つかどうかである。 持っているかいないか、大きい小さいなどから自由になる。 この世界の〈ものさし〉を越えているイザヤに励ましを受けたい。 今にも滅びに至る南ユダの国に足を置き、世界に向けて語る力は〈み言葉〉に立つ者に託されている。 8月10日 キリストによる平和の礎石に立って… マタイによる福音書 5章9節 / コリントの信徒への手紙II 5章16節〜21節 松本昌子先生 外からの景観が〈のどか〉、〈おだやか〉に家族が揃って食卓を囲む姿を平和と見る人もあろう。 確かにそれは感謝である。 主イエスはなぜ、「平和をつくり出す人たちはさいわいである」と言われたか。 平和がなかったからである。 富み偏り・物価高・地球環境破壊・自殺者数の恒常化・大学卒の就職難・憲法の空文化など現代の私たちの世界にも同じ危機がある。 鈍感になっていないか(マザー・テレサ)。核保有国の増加に対する唯一の被爆国としての訴えも大切だが、 別の視点から考えたい。 元ベルギーの植民地ルワンダに起きたフツ族によるツチ族撲滅紛争の報告と民族間の回復活動(佐々木和之さん)から学ぶ。 映画「ホテル・ルワンダ」は1994年100日間で80万人の大虐殺を扱っている。 元は豊かな農業国であったが、それをコーヒー園にした原因は先進国にある。 現在、両部族が一緒に生活をするところはまるで地獄絵である。 肉親の殺害者やその子達と被害者の家族や子達がどうやって共に歩めるか。 地獄はこの世界のことである。だから聖書は「平和を造ること」を語っている。 制度や政策では本当の解決・平和は来ない。NGO「和解の福音とキリスト教の癒しの会(頭文字がREACH)」 を立ち上げて「平和をつくり出す」ための命がけの働きを覚えたい。 〈祈ること〉による活動支援に加わる小学生がいる(関東学院小)。 平和の実現に私たちは何をしなければならないかを、この時考えたい。 (文責 阪井) 8月3日 癒しの働き手を マタイによる福音書 9章27節〜38節 阪井牧師 信仰は、自分の安定や保身また主張から離れることだとも言える。 収税所のマタイ、漁師だった弟子たちの召命など。(信仰の父)アブラハムも然り。 癒しの奇跡を通して多くの人は主イエスを留め、もてなしたかったろう。 しかし、主は留まらず「立って」歩みを進め、新しい出会いに向かった。 父のみこころに従う(信仰の)姿を見る。その先での二つの奇跡の話である。 盲人は見える世界の外から主イエスに叫び求めている。 「ダビデの子よ!」は、主イエスを指すと共にメシアを告白している。 マタイ福音書は、メシアの誕生記事に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」と書き始めている。 それに続く「憐れんでください」は、メシアとして来られてなそうとされるみ業に私共を含み加えてください、 の意味をもつ。しかも盲人の二人は一般を想定して良い。 目に見えない世界に生きる私共に働かれる神の救いにらせてください、 との訴えはその人の求めだけではなく私共にも通じる。 その実現には、主イエスの声かけが必要である。 「信じるか」の問いは、あなたは私に自分を託すか?でもある。 信仰は思いや情熱ではない。生き方であり、在り方である。 (一粒ほどの信仰があれば)とは、神の恵みに生きるかどうかを意味する。 そこに奇跡が(救いのしるし)となる。人の合理は(救いのしるし)から外れる。 7月27日 黙しても見ている方 イザヤ書 18章1節〜7節 阪井牧師 「行進にこころが追いついてこない」と座り込んだ現地人の話を想起する。 利便さや時間短縮が人間成長の障害ではないかを考えた。手段が結果を曲げてしまうことがある。 イザヤの活躍時期も似ている。 国際情勢の激しい変化に、上手に適応するのが国の繁栄に深く関わると判断するのが普通である。 預言者イザヤは、その背後に神の意志が働いていることを告げている。 目の前に起こる事柄に振り回されているなら、真実から目を離させられる、と。 知恵とタイミングが重要な時だからこそ、神に目を向け、神の声に耳を傾ける必要がある。 ゲッセマネの園で、主イエスは弟子たちに向けて求め命じられた言葉を想う。 「あなたがたは、目を覚まして祈っていなさい!」であった。 神の子が十字架にかかる直前である。 その場を離れることも、身を隠すことも出来る時に、主イエスは血のように汗を流がして祈られた記事と重なる。 神は神の民の苦しみに無関心でいるのではない。 私たちには神の意志を読み取ることは出来ないが、起きている事柄は神の支配の元にあることを告げている。 繁栄や栄華を伴う権力も人の思いで満たされていたとしても、神はご計画をもっておられるから、意味をなさないことになりかねない。 遅い、愚か、不明瞭などと思える中でも、主なる神はその時を待っておられる信仰に立ち備えを続けたい。 主イエスが共におられる信仰の確信を失うことがないように、この時を揺るぐことなく歩みを続けよう。 祈りつつ。 7月20日 信仰に応える主 マタイによる福音書 9章18節〜26節 阪井牧師 「他人の痛みは我慢が出来る」の言葉がある。自分がその経験をしない限り分からないことでもあろう。 75歳にして生涯の旅に出る。一人息子を神の捧げものにする。 「信仰の父」アブラハムが神の言葉に徹底して従うことにも通じる。 ここに二人の女性が主イエスと出会う話もそのことを考えさせる。 指導者が娘のために大衆の前でひれ伏しイエスに願うの姿は尋常ではない。 社会的地位や人目を問題にしない迫力がある。主イエスはその求めに応じて動き始めた。 その途中に、12年間出血で汚れた一人の女性がイエスの衣に後ろから触れる。 人混みに出てはならない人である。イエスが話しかけた。「娘よ、元気になりなさい。 あなたの信仰があなたを救った」と。 先の指導者は娘に〈イエスが手を置いて生き返る〉ことの途中であった。 一刻も早くイエスに娘の所に来て貰いたかったに違いない。 でもイエスは衣に触った女性のために立ち止まり、その女性に語りかけて癒しを与えた。 指導者の娘はマルコ5章42節によると、出血の患いを続けた女性の年月と同じ年月を生きた12歳であった。 愛する一人の娘の一生と病をずうっと担い生きる戦いを続けていた女性とが同じ年月であったことをどう解するか。 時が人間の手中にあると思うが、人間存在そのものに深く関わる時がここにあることを学ぶ。 神の秩序はいのちを与え、喜びの世界である。 奪い取り失う人の世界で秩序を保つのとは異なる世界に委ねる信仰に生き抜く者でありたい。 7月13日 救い主を忘るな イザヤ書 17章1節〜14節 阪井牧師 預言者イザヤは、ただ神のみ手の働きやみ心を語るだけではなかった。 自分の生活現場、当時のユダの国とその周辺諸国という世界情勢に深く関わる現実の中で語る。 どんなにか自分の内なる思いや主張期待を語りたかったであろう。 だが決して自己発露の発言をしない。どこまでも、その中に神のみ旨があると語り続ける。 今日の教会の姿勢への勧めを想う。人々の生活には悩み苦しみがある。 自分の希望が失せるほど価値喪失に喘ぐ人々の中で、神に向かうところに生きる力と希望があることを伝えようとする。 目に見える現実が全てではない。別の世界と秩序がある。それが神の支配する世界である、と。 目には否定や滅びであっても神の秩序が整えられていることを示すのが預言者の使命である。 世の知恵や手腕は他の道を捜す。だが、神に向かう人の目は天を仰ぐ。 人の生きるのは、神によって与えられたいのちを生きるのが希望であり、喜びである。 天を仰ぐのは、その出発点に立つことである。 目の前の現実、苦しいことや悲しいこと、また辛いことは消えないが、責任転嫁や周囲との関係に自分を失う視点が変わる。 巧妙も威厳もいのちを与え、生かすものではない。創造主なる神が人を生かす方である。 この方を見失い、声聞こえない人に、憐れみと恵みを示された。その方の兄弟、我が子として迎えて下さる方である。 死んでいたのに生きて帰ったと、飛び出してきて喜び迎えてくださる方を忘れてはならない。 7月6日 新しい革袋に マタイによる福音書 9章14節〜17節 阪井牧師 主イエスとヨハネは既知の関係である(マリア受胎告知の記事参照)。 そのヨハネから主イエスはバプテスマを受けられた。 イエスの公生涯(人々の前で神の国を宣べ伝え十字架までの期間)はそこから始まった、とも言える。 互いの弟子たちも、自分たちの指導者と同様に、同じ信仰の仲間関係にあったと見るのが自然。 ヨハネの弟子たちが祈るために断食をしている時、飲み食い賑やかに生活を楽しむイエスと弟子たちの姿は理解できなかったろう。 そこでヨハネの弟子が質問をしたのであろう。 それに応えたイエスの言葉の中に、有名な「新しいブドウ酒は……」がある。 何が言われたのかを学ぼう。自分たちの勝手な理解はその真実を暗くする。 その話の前にある言葉をどう聞くか。「花婿が奪い取られる時が…」とある。 花婿と一緒にいる時に、婚礼の脚は悲しむことができない」。 つまり、主イエスの十字架の時を前にして、今神の子が一緒にいて下さる。 そのことがどれ程重要で大切な時であるかを示しておられる。 しかも招かれて食事をしている人たちは婚礼の客だと言われている。 その客の中にもし私たちがいるとしたら、何を考えるか。 「新しいブドウ酒」は何?「新しい革袋」とは何を意味しているか。 ただ新しいことを強調しているのではない。 主イエスご自身が私たちとともにおられることが「新しいブドウ酒」である。 どうやって「新しい革袋」になれるのか。 ここにメッセージと審きとがある。恵みと喜びをくみ取りたい。 6月29日 主を誇れ イザヤ書 15章1節〜16章14節 阪井牧師 「してはならない」には、「なぜ?」の問いをしたくなる。納得をしたい思いがそこに働く。 でも、信仰は納得を前提にしない。 〈望んでいる事柄を確信する〉や〈見えない事実を確認する〉との説明(ヘブライ11章1節)を想起する。 人と人との関係に用いる言葉を神との関係に持ち込む誤りを想う。神の恵みや救い納得の結果だろうか。 よほど自信がある人か、神に近い人ということになろう。 いのちの支配をされる方、私共の存在を司る方と同じ位置関係に立とうとする誤り=罪を犯すことになる。 神の審きがアッシリアの驕り、バビロンの傲慢になされた、とイザヤは告げる。 不安や悩みの元凶の滅びをイスラエルはどのように聞いたろうか。驕りや高ぶりはなかったろうか。 神の憐れみや働きさえ、人の秤に載せているとしたら、〈納得〉は誤りである。 アンモン、モアブ、エドムはアッシリアの難を免れていた。さらにその背後にアラビアがいた。 彼らの同盟や抵抗の関係に心揺らぐ者に対する警告を見る。 見え、確かめられるものに委ね頼ろうとするのは人の常だが、教会はどうか。経済や力を正義にしていないか。 主イエス・キリストにあって強くあれ(エフェソ6章10節以下)を思い起こしたい。 キリストの僕として主を誇る者は、主によって生きてこそ出来ることである。 世に働く力と向き合われた主イエス(マタイ4章1節以下)に倣う者とされる必要がある。 家庭、職場、また地域で生活の営みをする私たちは、主イエスにあって強いことを証しする者に立てられている。 大胆に主を誇る者で居よう。 6月22日 招かれています マタイによる福音書 9章9節〜13節 阪井牧師 二人の人物を通して学びたい。一人は収税所に座っていたマタイである。 公務を預かる役人であって、誰かがする務めである。当時の社会状況もあって喜ばれなかった。 「座っている」の言葉から自由が制限されていることを想う。それを主イエスは見て、声をかけた。 マタイは「立ち上がって」イエスに従ったと説明している。強い意志、決断がその動作に見える。 声によって何かが起こっている。しかも、その声は「行け」ではない。 「従え」はその前を私が居ることを示している。 進みたくても、立ち上がれず、方向が定まらない人を促す声かけであった。 「医者を必要とするのは、病人である」の言葉が説明となっている。 嬉しい声かけを聞くことができる幸いを学ぶ。従う者は主イエスを見失わないことが大切である。 迷える羊にならないために。もう一人の人物はイエスである。食事をしているところに多くの人がいる。 「私が来たのは〜罪人を招くため〜」である、と。招かれる食事は聖餐式に繋がる。どんな人が招かれているか。 強い、富む、地位ある者ではない。自分中心の在り方を離れる=立つ者である。 自分の場所に拘り、頑張り続ける人は、主イエスの真実が赦せない。 神の名が用いられていても、神の真実ではない。人間の真実は人から出ている。 人を納得させ感動さえさせる。 神から出たものは、人から批判され、避けられ、また捨てられて人の手で十字架にかける。 人の真実の世界は、神の真実に躓くことを学ぶ。恵みを受けよう。 6月15日 主に真実頼る者 イザヤ書 14章24節〜32節 阪井牧師 舞台の上が目まぐるしく変化する。これに旨く対応するのが役者の本分。 イザヤの時代の政治劇は、まさに激動の国際舞台そのものだった。 政治手腕の見せ所よろしく南ユダの王は対応した。 そのウジヤ王が死んだ年、イザヤは預言者に召された(6章)。 そして今(12章)は、アハズ王の死んだ年、イザヤは預言をしている、安定していた生活が揺れる時、 人の心が揺らいでも不思議はない。 世界政治の安定バランスも、激動の時も、その舞台の背景には、世界を動かす方がいる、と告げている。 慌ただしく動く舞台に心を捉えられてはならない。 強大化したアッシリアの動きも、実は神の計画が行われているのだ、と。 ところが、アッシリアは自分の力に任せた勝利と誇って神の位置に立とうとした。 神は裁きをもって臨まれると預言する。あの出エジプトの出来事は、神の働き、自由への解放となった。 アッシリアの圧力からの解放も、神の計画であり、誰も主の定め・計画を妨げられない、と。 一方、ペリシテの民は圧力が取れた、と喜ぶな。北から遅い来る者が砂煙を上げてくるからだ、と。 世界の歴史に現れる国際舞台に働く神の事実を見失ってはならないことを学ぶ。私たちの立つべき所は、 神が置かれた基・シオンである。 一切を解放される神の事実、それは主イエス・キリストによって示された神の真実である。 十字架による罪の死と復活によって希望に生きる永遠のいのちに与る勝利の出来事が私たちの依って立つところである。 6月8日 赦す権威ある方 マタイによる福音書 9章1節〜8節 阪井牧師 妻の美しさ扱う聖書記事がある。代表はアブラムの妻サライ(創世記12章10節以下)であろう。 今一人はペルシャ王クセルクセス(別名アハシュエロス)の妃であったワシュティである(エステル記)。 王は彼女の美しさを、宴客に見せようとした。が、妃はその命に従わなかった。 王は妃を追放し、代わりに新たな妻(妃)を選んだ。これがエステルある。 彼女はバビロン捕囚の民、ユダヤ人だが、それを秘してペルシャ王の妃となった。 一度出した王の命令は変えず、新たな命令で前の命令を無効にする方法を採る。 神と人との場合も同様だが、約束を破った人からは修復できない。だが神の約束は無効ではない。 人の側が修復を試みると更なる関係崩壊となる。関係の崩れを<罪>という。 ユダヤ人の宗教的努力はこの回復の試みだった。律法学者たちはその指導者であった。 主イエスが罪の赦しを告げた時、律法学者たちは、これを神の冒涜(汚し)と見た。 神の行為を人間イエスがしたと受取った。合理の世界では悔い改めが前提で赦しがある。 病を罪のさばきと見た世界では、悔い改め無くして、赦しはない。 主イエスの救いは、病人の信仰に対してではなく、その人を運んだ人たちの信仰にあった。 病人に「あなたの罪は赦される」と言った。神のなすべき赦しの権威をイエスは示された。 イエスに従う私たちに、主の権威が託されている。これが教会の使命である。また私共の働きである。 主イエスが私の一切を引き受けられたことに気づき、赦しを証しする召しに共に応えて歩みたい。 6月1日 主が立ち向かう イザヤ書 14章1節〜23節 阪井牧師 生涯の終わりに、短い言葉で思いを託すことがある。 辞世の句は我々のよく知るところ、「身はたとひ、武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」と吉田松陰は詠んでいる。 主イエスが十字架につけられる直前、総督ピラトの官邸で兵士が主イエスを囲んで「ユダヤ人の王、万歳」と叫んだ、とある(マタイ27章29節)。 蔑みと嘲笑いにほかならない。このイザヤ書14章は嘲りをもって神の前に裁かれる悲しみを語る。 神の民なのに、異教の民に辱めを受け苦渋を舐めてきた。積年の恨みや思いを遂げたいのが常識。 だが「再び選ぶ」は、神の憐れみとご自身の計画の完遂を意味する。よく耐えたからでも頑張ったからでもない。 あの出エジプトの解放を想起させる。バビロン捕囚からの解放が神の意志だと告げる。 自然の成行や政治の変動と見える現実も、神が支配する歴史だと。 目前の現象に対処することが最大の関心事になると、神の働きが見えない。 教会の成長、力強さを目指すのでもない。神が歴史を動されることに、私共は徹底して仕える務めを負う。 今居るところで、神を中心として生活をする生き方が、実は自分自身の生きる力となり、 信仰を伝えることになり、伝えられた人が一緒に礼拝をする者とされる。 「ヤコブの家に結びつく」結果は神から与えられる。 神ご自身が主イエスにおいて私たちの前に先立ち信仰の闘いをされる。 この混迷の時代に遣わされる一人の預言者となろう。 自分の能力ではなく従う者に徹するのである。 5月25日 主が働かれる時 マタイによる福音書 8章28節〜34節 阪井牧師 主イエスの活動拠点はガリラヤ地方ではあっても、故郷ナザレでなく、ガリラヤ湖畔のカファルナウムだったらしい。 町の人々が、教えを受け入れたからではない。 マタイ11章には「悔い改めない町」として主イエスから非難叱責されている。 その町から向こう岸ガダラ人の地へ着いた時の話がこの記事である。 前夜、風と波に大いに悩まされた一行には、心休める時が必要だったろうに、 悪霊に取り憑かれた者二人が墓場から出てきてイエスに向かって、 「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないにに…」と叫んでいる。 彼らが非常に狂暴で、誰もその辺り(墓場)の道を通れないほどだとある。 「悪霊に取り憑かれた」は、自分の意識のままに任せない状態、「墓場」は、生きた生活の場所でなく、 また他者との関係が絶たれた所を想う。叫びの言葉に注目したい。 「神の子」とはよく言ったものだ。人との関係を失っていても神を神とすることが告白され、 しかも、「その時」神の裁きの時を語る。一方、神の民(イスラエル)はどうか。 ガダラの町の人は、悪霊を追い出した主イエスにこの町から出て行ってもらいたいと申し出た。 悲しいことに、癒された人の事よりも、自分たちの生活の心配が重要であることを示している。 人が人として生きることの喜びを後回しにするのが私たちである。 その世界に主イエスが来られたことを受け取りたい。 自分の疲れを癒しことを後回しにしてでも、自ら働いて下さることを感謝したい。 5月18日 主の前に整えて イザヤ書 13章1節〜22節 阪井牧師 小見出し「バビロンの審判」から「バベルの塔」の物語を思い起こした。 語幹が同じということもあるが、共通するのは神の裁きが行われたこと。 神の領域へ人間が立ち入った事への戒めを想う。 人が神の位置に立とうとすることを最も強く拒絶される神への信仰を見る。 神の秩序が乱れる結果は人の関係が壊れ、いのちが損なわれる。 神が見失われた人の世界が暗闇になる。 文明や科学のいかに発展進歩した昼間でも、人のいのちが軽い暗闇は現代の象徴に思える。 イザヤの時代、政治世界の流動が激しく、誰もがイスラエルの安定の実現を願いつつその動きに関心を持ち、 預言者の言葉に聞き耳を立てたろう。 世界に君臨する列強国(王)であっても、神の道具としての使命を果たすことにあるのに、 自分を神の位置に置き、力を誇る誤りに陥る。神の裁きはそこにある。 アッシリアに続き、いまバビロンである。 地上の誰も対抗できない強さに自惚れているが、神はそれを打ち砕かれる。 かつて勢い溢れていた民が、攻め寄る神の道具による裁きに、恐怖におののき、戦う意志が萎えている。 食べ物に不自由なく、生活が恵まれているのに、生きることをやめる人がいる。 自由奔放に生きることの極みが死とは、なんと暗い世界であろう。神が喜ばれるはずはない。 天地創造の記事にある、はじめに神は「光あれ!」といわれた、との言葉は深い。 私たちが存在をかけてこの言葉をしっかり聞かねばならない。光として来られたイエスの中に。 5月11日 眠っている主 マタイによる福音書 8章23節〜27節 阪井牧師 「あなたは一体どういう方ですか?」の台詞をTVの番組で耳にすることがある。 今日の記事の最後にはそれに似た言葉がある。 ことの始まりは「向こう岸へ行くように」との主イエスのご命令であった。 群衆が取り囲む状況を離れる主イエスの意図は何だろうか。 教えを授ける方が、福音を告げる主が神の子メシアであるなら、傍に居てもらいたいと願うのは誰もの思いであろう。 そこには神の領域に人が入り込む誤りへの厳しい指摘があるように思う。 自分の手の届く所に主を置く姿勢への拒絶である。 「人の子には枕するところがない」と言われる主が、 従うと約束する人の「先ず、父を葬りに行かせて」に応えられた言葉の厳しさに伺われる。 その時、主に従うことの不安や恐れがあったろう。 この聖書箇所を主に従う状況に合わせる時、思いがけない恵みを発見する。 船を操って海を渡る弟子たちの中には、その道のベテラン、プロがいた。 少なくても4人はいたであろう。 そういう弟子たちの死ぬほどの恐ろしさの中に眠っている主イエスは異常である。 起こされたイエスの言葉「信仰がうすい!」は私たちへの恵みの言葉である。 主に従うとは、主が共におられる(乗り込む)ことである。信仰を生きる者にも苦労や困難はある。 だからといって、自分の側に主を引き込み(傍に置く)、自分の意を全うしようとするのは、 誤りであることを示された、 と同時に、主がわたしの人生に乗り込んでおられる恵みを明らかにされたと思う。感謝! 5月4日 変わることのない主 ヘブライ人への手紙 13章7節〜8節 阪井牧師 不安は自分の拠って立つものへの疑いから起こる。そのため周囲を見回し、何か安定する手懸かりを探す。 信仰の場合にも同じ事が考えられる。 「からし種」の譬が示しているのは、信仰という種はどんなに小さくても、その成長のすばらしさは、 他の何にも比較できない。 ただその場合、信仰は人の敬虔さや真剣さに拠るものではなく、私たちのうちに蒔かれ、神から与えられるとある。 人の手を加えようとするなら、神の事柄を人間の事柄で質を変える事が起きる。 教会は「主イエスこそキリストである」信仰に立っているのに、交わりがそれに代わろうとするのに似ている。 「喜び」の福音が、「〜しなければならない」の重荷となっていく。 本来、「献金」・「奉仕」・「証し」は喜びの感謝表現である。 生き生きとした自分の信仰が、キリストとの関係を失うなら疲れや息切れが自然に起こる。 土塊、土の塵に神の息が吹き入れられているのが自分である。 「神のいのち」に生きる喜び、力、希望は、神の言葉に養われ続ける中にある。 困難の現実をも乗り越えたヨシュアは「強くまた雄々しくあれ。恐れてはならない。 彼らのゆえにうろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。 あなたを見放すことも、見捨てることもない」の声に支えられた。 私共の信仰の指導者佐藤菊男先生の「主に委ね、それを貫いた」信仰に見倣いたい。 変わることのない主の恵み「離れない。 置き去りにしない」の言葉と共に歩む人は、豊かな約束を実現する。 4月27日 信頼して恐れず イザヤ書 12章1節〜6節 阪井牧師 関心はある。場所も知っている。ただ、自分の足を運べばよい。 でも、尚戸惑いを覚えて決断できない。どうしたらよいのか。教会の伝道にも通じるように思う。 4,5節からヒントを受ける。神のみ心は裁きではない。赦しであり救いである。 私が滅びから救い出された者であることを確信する。 今の自分の一切はこの事(神の赦し)を根拠にしてにある。 計算や都合の結果から自分の存在を見るのとでは生活の成り立ちが違う。 ここに信仰の証しがある。当初、世は愚かしいと笑う。いつまでも笑っていられない。 かつて主イエスの処刑を担当した百人隊長は、その最後の姿、祈り(「父よ、彼らをお赦しください。 自分が何をしているのか知らないのです」)に接して、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、 神を讃美した(ルカ23章47節)。 神の愚かさは人よりも賢い(コリント1 1章25節)、とパウロが言うように、宣教という手段が用いられる理由を語り、 十字架につけられたキリストを宣べ伝える。 計算と理屈は神を見失った人の知恵である。何処までもキリストと共に歩む所に恐れはない。 しかも、厳しさの中に身を置きながらも、尚主をたたえる。感情や精神の鼓舞ではない。 主のみ業への応答である。主の霊が信じる者の中で働いている。もはや人を恐れることはない。 「主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。 人間がわたしに何をなしえよう(詩編118篇6節)の言葉を、今の私たちも語ることができる。 礼拝は私たちの一切を支える、と言おう。 ご自身の一切を投げ出して担ってくださる主を喜ばない人はいない。確信を語ろう。 4月20日 負い担われて マタイによる福音書 8章14節〜22節 阪井牧師 一般の人々の生活に深く関わる新制度が始まろうとしている。 裁判員制度は'09.5.21から、地デジ放送は'11.7.25からと案内されている。 ユダヤでは律法の安息日は人々の生活に深く関わっていた。 それに従い得ない人は神に背く人(罪人)となった。 この記事は、安息日であったらしい(平行記事マルコ1章29節やルカ4章38節を参照)。 だから夕方はその日を避けてのことと考えて良い。 主イエスに癒しを求めて大勢の人が集まり、癒されたのは「イザヤの預言の実現」だとマタイにある。 どんな思いでイザヤ書53章の言葉を引用したのかを考えてみる。 主イエスの癒しは喜びと確信に満ちた感謝の表現を想う。 ユダヤの人々は絶対的な力と威厳を備えたメシア到来を期待していた。 ところが、イザヤの記事は「苦難の僕」の姿である。 その敗北と沈黙、まるで奴隷の姿と主イエスの姿がピタリと重なり一つになった出来事とマタイは受け取ったとしたら、 「この方こそメシアである」との心からの喜び叫ぶ思いが込められたであろう。主イエス時代だけではない。 現代の人々も魂に力がなくなり、心疲れ果てた中で主イエスの癒しを見ることができるように思う。 そこに起こることは奇跡ではない。十字架を引き受けられた主イエスを見ている。 神に背き、叩かれた破れの姿は私のものを負って下さり、傷を引き受けて下さる姿と見えるなら、 生きる希望と力を受けられる。 4月13日 備えられた道 イザヤ書 11章11節〜16節 阪井牧師 異なる分野で活躍する3者がピアノ共演をした。演奏会の後にインタビューを受けていた。 その時(1)言葉で説明しきれないことが、共に演奏することで確認できる。 (2)普段、異なる世界で活躍しているが、クラシックや音楽基礎をしっかり土台としているから充実した競演となる、 あった。これは信仰の世界に通じる。イエス・キリストという土台があって教会は立つ。 土台を感覚や知識で代用しようものなら思わぬ苦労をする。 教会は立ちゆかなくなり、福音は正しく伝えられない御言葉の飢饉が起こる。 崩れは外的だけでなく、内側からも起こる。大きい集まり(教会)ほど起こりやすい。 小さい集まりは一人の影響が大きい。土台にしっかり立ち続けよう。 生活はそれぞれ違うところでも、主は引き寄せ集められる、とイザヤは主の民イスラエルに語った。 たとえ自分の意志より強い力に支配され拘束されていても、壁を崩し縄を解く自由への約束を語る。 歴史背景の事実がそこにある。 世界的な政治・軍事・経済的な力も、神のみ手の働きの前には決定的な妨げになり得ない。 人の力だけでなく、自然をも主は御支配される、と。 出エジプトで海を渡る経験は祖先の事実であり、ペルシャによるバビロン捕囚からの解放も歴史の事実であった。 神の民が歩む行く手を阻むどんな障害も主が取り除いてくださる。道は備えられている。 老いも若きも互いに手を取り合って神の民として生きることのできる世界・神の世界へ道は備えられている。 4月6日 お言葉をください マタイによる福音書 8章1節〜13節 阪井牧師 何気ない言葉も心に留まり続けることがある。 主イエスの「山上の説教」を聞いた群衆は、権威ある者の言葉と驚き受け取り、生きる力を得たに違いない。 それは律法に根拠を置く教えと違っていた。主イエスは父なる神の御心に従って教えを語った。 聞く者は外からの威圧でなく、主イエスが仕える者として滲み出る姿を見ている。 行き詰まりや絶望、孤独の人だからこそ受け取る再起への力・権威を見たのではないか。 「山から下りる」は、生活の場・現実に向かうことでもあろう。 他者との断絶を余儀なくされていた「らい病」を患う人が、主イエスに触れる機会を得た。 自分の一切が主の御心にあるとの告白をした。後ろに「ダメ元」の余裕がない。 〜していただけませんかと尋ねない。主イエスはその信仰に応えられたが、人に話すなと禁じられた。 人は神の言葉よりも目に見える不思議に拘る。ご計画の時でないことを想う。 カファルナウムの百人隊長は、主イエスに近づいて懇願し部下(僕)の中風の苦しみを訴えた。 主イエスの対応に対して彼は「ただ、ひと言おっしゃってください」と、言葉の権威に従う信仰を表した。 「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と、主イエスは彼の言葉に心を動かされた。 全てを委ねる信仰は、主の言葉をいただくことにある。 自分の判断で言葉を選択したり、心の余裕を残した関わり方を越える。 3月30日 分に応じた働き エフェソの信徒への手紙 4章7節〜16節 阪井牧師 大江広元(1148〜1225)は鎌倉幕府に貢献した歴史上の人物で、その子孫が山陰・山陽の武将として知られる毛利元就(1497〜1571)、 〈3本の矢〉の逸話で有名な人である。外からの力に対応する一致の知恵を説いた。 譲り合いや我慢によるなら、いつか日の目を見たい誘惑を受けて壊れる。 一方、聖書は〈一つになれ〉でなく、主に結ばれて(キリストの賜物に従って)一つであるという。 この賜物は〈キリストをかしら〉とする教会全体が成長するため(16節)であって、 自分の主張や知恵の働きを願うなら用い方を誤る。ただ、世はそれを求め、賞賛する。 自分では目前の事柄に懸命に取り組んでいたとしてもである。立つところが流動的であればなおさらである。 日本の歴史変化のゆるいカーブは気付くことができなかった。気付いたら元に戻れない位置に居た。 日本の将来を憂う人の思いと運動はその反省にある。 主イエスをキリストとする信仰に立つなら、その変化を読み取ることができよう。 〈〜しなければ〉は律法となって福音を退け、人の存在を脅かす。 主イエスはその闘いを自らの十字架によって示された。 私どもの教会の誇りは、主イエスに倣っていることの自負にある。 強いられることも、強いることもしない。 自分のできることを見出し(分に応じ)、黙々と主に仕える教会生活を続け、与えられた賜物を差し出す。 キリストの霊が内に働く証しとなっている。 自分が小さくなって主イエスが大きく見える教会の歩みを続けたいと願う。 3月23日 憐れみ深い者たれ ルカによる福音書 6章27節〜36節 阪井牧師 目を反らさず顔を見つめたまま話し合う経験を「疲れる」と語る人がいた。 「ながら族」には不器用となろう。 主イエス・キリストに自分の存在をかけて歩む信仰者は現代の不器用であろう。 でも、聖書(コリント1 1章27節)は、そのような人を神は召し用いられると告げる。 世から疎まれることが起こる。預言者がそうである。 エゼキエルは目や耳もない人々、枯れた骨に語るよう命じられた。 新しい世界は起こる。神が霊を吹き込むと「生き返る」と語った。 空しく響くことを世の知恵は受け容れない。人の限界は死である。 越えられるなら「いのち」を創ることができる。 神の命令でも従えないのは、自分の知恵や経験が働くから。 イースターの出来事も同じ。 肉体の弱さや生活の乱れも主の霊が吹き込まれると、そこは静かなところとなり、主のいのちに触れる者とされる。 世の求め期待する「愛」と異なる生き方、神の愛を生きる者となる。 他者からの要求に応えるものは「敵を愛する」ことはできない。 ルカの記事は、挨拶を受けたら挨拶を返すような好き嫌いの嗜好のような次元とは違う愛を語る。 愛することの根拠は、いと高き方の子となることにかかっている、という。 神が喜んでくださること、神の恵みに応えることに関わる愛は、主イエス・キリストと共に歩むことの中にある。 資格の無い者を選び豊かな者とし、生きる喜びを伝えるために私たちに出会ってくださった。 私たちの愛の原点はこの方と深く繋がり続ける中で現れる。 3月16日 その日−神の時 イザヤ書 11章6節〜11節 阪井牧師 日が暮れて一日の終わりの家族団らんは自然な姿だった。しかし、今やそれが理想に近い。 変化は家庭だけでなく社会全体に及ぶ。迷惑をかけていない、と思いたい。 だが、医科学・衣・食・住・規範までが自分中心の発想となった。実は今に限らない。 人の平和は自分中心で成り立っている。ここのイザヤは神の平和を語る。 優者が劣者を支配する私たちの常識に逆らう世界が語られている。 主イエスのエルサレム入城の姿がそうであった。 軍馬でなく、荷を負い耐える子ロバに乗る姿は預言(ゼカリア9章9節)の成就である。 神の支配による平和は、自然に反する様である。害を与えず、滅ぼすこともない。 「主を知る知識が満ちる(=私の聖なる山)」世界は、神のみ心が行われ、主が共におられる世界、つまり、 主イエス・キリスト誕生とその生涯がその実現である。 神の子は馬舎に生まれ、政治的犯罪者の極刑・十字架で死んだ。 世界の全てを創造した神の子が示す姿は、世の常識に収まらない現実です。 この預言をイザヤ書に見る者には、自分が神に召されていることが普通ではない、と認めることができる。 柔和は相手に対する言葉であると同時に、神に対する自分にも適応できるように受け取る。 自分を神に委ねることを想う。自分の十字架を負って主に従うことに通じる。 主イエスの十字架に負われた私たちが神の平和の実現に用いられる。 それは、神の言葉を私たちが生き、伝えることによって始まることを知る。その日を確信して。 3月9日 権威ある者の教え マタイによる福音書 7章21節〜29節 阪井牧師 普通、まとまった話は要約や強調で締めくくる。すると、山上の説教はどうだろう。 「あなたが家を建てるのは岩の上か砂の上か」をどう読むか、どう聞くかの迫りを感じる。 29節に、この話を聞いた人たちの感想が「律法学者のようにではなく、権威ある者のように…」とある。 言うまでもなく、律法学者は、律法に権威の根源、つまりモーセによるシナイ契約に遡る。ところが、群衆は、主イエスには権威の根源が違うと受け取った。 一体どういうことか。家を建てるのが岩の上か砂の上かの話と繋がる。 律法学者たちの話を聞いていた群衆は、主イエスに期待以上のものがあったに違いない。 23章4節以下に、律法学者たちのことを評して主イエスが「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、 自分ではそれを動かすために、指一本貸そうとしない…」と言われた。 違いは指一本ではなく、いのちをさえ差し出す方であることを聞き取っていたのではないかと思う。 原因や理由を聞かされても、先に進む力は出ない。否、今がより苦しくなるだけ。 ところが神の「いのち」を生きるために、律法が重いなら捨てることさえ辞さない。 ただ捨てるのでなく、その責めをご自身に引き受ける者として話された。 権威はその人の在り方や生き方にかかっている。そのことが主イエスの中にあると見た。 自分の生きる希望、神のいのちに生きる力をそこから得ることができると知った。 これほどの喜びがあろうか。私にとってイエスは誰かを問う。 3月2日 失意が希望に イザヤ書 11章1節〜5節 阪井牧師 自分の力を誇るでもなく、誰かに圧力となることもない。 力あることを他者が充分認めるのに、全く意識しないだけでなく、他より自分が低い存在として自然に振る舞える人に接して感動する。 その謙虚さに奮い立つ力を与えられる。近頃そんな人に出会るのは珍しい。 だがら神の子である主イエスが人となって、最も低い世界の十字架にその身を委ねられたこと、 そこに神の栄光と人の救いが示されているとは受け取りにくい。 十字架への道を先頭だって歩む主イエスを同行する弟子たちすら怪しみ、 その異常さに気付いても真実は分からなかった。 二千年後の私たちには当然と開き直る。イザヤはどうか。 「エッサイの株から一つの芽が出る」とは七百年後に起こることを語っていると新約から読むことを今はする。 当時の人たちはそれを聞いてどう反応したかは容易に想像できよう。 主イエスが「昔の預言者たちが求め願っていたこと」と言われた意味が分かる。 私たちには信仰の目が与えられている。見えない事実を確認する。 失意に至る経過は不明であっても、「芽が出る」約束を与えられている。 ダビデの家の根が芽を出し、枝を張る。人には終わったと見えても、神の約束は生きている。 召し出された方に委ねることにより希望へと繋がっていく。周囲に同調して今に捉えられると信仰が歪み誤る。 自分の中に神の結果を手にしたい誘惑に警戒したい。 主イエスの言葉「預言者は郷里で敬われない」は私たちの励ましでもある。主に生きよう。 2月24日 実が示すもの マタイによる福音書 7章15節〜20節 阪井牧師 眠さがつのると識別力が落ちる。本人はとても真剣な思いで語りまた行動をしているとしたらどうだろう。 通常なら決してしない事が起こる。この山上の説教、締めくくりの部分には重要な内容があろう。 主イエスの「偽」預言者という言葉を考えた。言うまでもなく、本物ではないがすぐに見分けがつかない。 しかも、本人は正しいと確信しているため、力強い。 だが、主イエスは見かけは羊であるが、「羊の皮を身にまとった狼」だと言われる。 羊(いのちをかけて守られている者)の特徴は (1)先が見通せない=目先に囚われる(2)群れを造りやすい=離れると自分の位置が分からない (3)羊飼いの声を聞き分ける、である。 主イエスという羊飼い(牧者)に導かれる羊の群れの中に、羊らしいが羊でないものがいる、と語られているとしたら、他人事では済まない。 偽物を警戒してじっと動かず、佇み続ける在り方も羊の姿勢であるが、 実を結ぶことをもって身を証すことを求められている。自分を主張し、自分を楽しませる木の実ではない。 確かに人はそれに興味関心を持つ。また歓声をあげる。 良い実とは主イエスの声に従っているかどうかにかかっていることを語られている。 果樹を実らせる良い木は、根から養分を吸収する木に接ぎ木される。 主イエスという幹に繋がっている枝にしか良い実は結ばないことを知る。 自分を主イエスに全てを委ねる時にこそ良い実を結ぶ。 主イエスに導かれる羊の群れにある私どもの姿を想う。 2月17日 神の杖に導かれ イザヤ書 10章20節〜34節 阪井牧師 「…良い羊飼いは羊のために命を捨てる(ヨハネ10章11節)」。鞭と杖はその道具である。 でも、羊には痛みと不都合でしかない。それこそが「主が共におられる」しるしなのに。 イスラエルにとって、アッシリアはまさしく神の鞭や杖であった。 その目的は神の救いが行われることであり、新しいいのちの希望に生きることへの促しであった。 イザヤはそのことを語る。茨やおどろに遮られて喜び歩むことができなくなっている現実を神が知っておられるために手を出された、と。 撃たれた者は神を畏れ、神に帰るべきである。道具の強さに身を寄せることではない。 自分の持つ力量で生きようとする限りそうならざるを得ない。アッシリアは道具である。 道具がその使用者を侮る愚をイザヤは示している。 その傲慢をが戒められ、滅びに至ることから想うと、現代のアッシリアとは何かの問いを意識させられる。 イザヤを通して神は「アッシリアを恐れるな」と言われた真意を間違えてはならない。 アッシリアを神が撃たれる事で、神の民イスラエルの正当性を示すことになるわけではない。 何が示されているか。 それは、神を神とすること、そしてその方によって人として生きる者となれることが語られている。 恐れのために震え逃げ腰であった民に確信を与えている。目前の不都合や痛みは避けられない。 だが、そこに神のみ心があると受け取る信仰を歩もう。 神が働き、知っておられると託すなら、主イエスに生きる者と変えられよう。 2月10日 細く、狭い道 マタイによる福音書 7章13節〜20節 阪井牧師 「狭い門」の言葉は、入試、就職、転職など今の時節語のよう。「〜同じ高嶺の月を観るかな」をも想う。 主イエスの言葉は処世訓ではない。主イエスと厳しい対立をした律法学者やファリサイ派の人たちは狭い門を入ってここに来た、 との自負があった。それだけの訓練と厳しさを耐えた。主イエスはそれが「いのちの道」に至るのではないという。 持てる一切の経験、学び、知恵を駆使しても、「いのちの道」に至らない。ここに主イエスのメッセージがある。 すぐ手の届くところに道がある。 また、自分ではこれがいのちの道と思い込み迷う者に対し、自分が世話をすべき99匹を野に遺してでも、 見つけ出し喜ぶ方であることを示される。あれこれの道から到達するのではない。 主イエスにおいてのみ、「神と共にあるいのち」を生きる者とされることが語られている。 「到底、自分では到達できない」と思い込んでいた人たちに、このメッセージは力と励ましになったことであろう。 主は苦しむことを喜ばれる筈はない。 しかし、親が子の成長に、生きるために労することを耐えて見守るように、神はみ子イエスという狭い門、細い道を通って来る者を待っておられる。 狭い門を誰が喜ぶだろう。つらさや不安を伴う細い道を誰が好んで選ぼうか。 だから、主イエスが共に歩んで下さるのだとのメッセージを聞く。 1匹の羊のために、いのちをかける羊飼いが働きかけて下さるその声を聞き、 それを聞き分ける事のでき、従う羊になりたい。 2月3日 言葉に心を留め イザヤ書 10章5節〜19節 阪井牧師 絶対的な求めとして「人のいのちに手を出す事」に、人間的な制約はどうか。 アブラハムがイサクを犠牲として神に捧げることの疑問を抱いた哲学者は「目的論的倫理的停止はありうるか」と書いた。 またロシア文豪は「新しい社会のための、欲深い人の財強奪」を問うた。似た課題をここに見る。羊を世話する羊飼いに鞭と杖は必需品。 主なる神が鞭や杖としてアッシリアをイスラエル(神の民)に用いた、とイザヤは語る。羊にとって、歩み選び見つけた喜び楽しみを鞭打ち奪われることであった 。いのちの救いと分からなければ迷惑千万である。神を知らないアッシリアが神の民を傷めている。子が傷められ、泣かされるのを我慢して見続ける親の苦しさから神の忍耐を想う。一方、勢力拡大・主権獲得に狂うアッシリアは、自分たちの神とする偶像を誇る。目に見えている力ではなく、霊力・精神力の誇りでもある。 如何なる(無謀)行為も止め、彼らに逆らう神はいない。苦労や汗流すことなく、すべては欲しいままと豪語する。 しかし、イスラエルの神はこれを放置されない、とイザヤは語る。斧はそれを用いる者に指図をするか。鞭や杖がそれを使う者を操るか。 神は働かないとか、居ないかのように見えるそのただ中におられ、言葉をかけられるとある。人が神と同じ序列に立つことは許されない。 神はそれを裁かれる。教会の無力を嘆くことはない。神のご計画に自らを委ねて、み言葉にしっかり立つ信仰の器にしていただくよう祈ろう。 1月27日 求めよ、だから マタイによる福音書 7章7節〜12節 阪井牧師 誇るのは、その背後に他よりも優れた何かがある。イスラエルのダビデ・ソロモンがそうである。 ダビデは国力を増大した王、ソロモンはダビデの子で神殿建設、知恵の人である。そして両者とも40年にわたる王位を続けた。 神が共に働かれたことを学ぶ。だが、自分の課題に懸命になっている間に、「何のため」や「どこへ」が見えなくなることが時として起こる。 この聖書の言葉は、取り組みが弛む自己への鼓舞、熱心や努力の励ましではない。主イエスと共にある歩みの中、現実生活の懸命さの故に、私が「どこへ向かって」や「何のため」かの導きを「求めなさい「捜しなさい」「門を叩きなさい」との勧めである。 神のみ手から離れて迷う羊の話を想起する。やたらにもがく努力は消耗を大きくするだけである。羊飼いが鞭や杖でいのちを助け出すことを知る。 それがここに語られている。ルカ福音書11章にも同じ内容の記事が、「主の祈り」との関係で語られている。 「旨くいけば」の思いの祈りではない。また、どちらかと言えばとの中途半端でもない。自分の中に若干の余地を残した祈りはどうだろうか。神の子がその父を信頼して委ねることによって平安を得るようにと、主イエスは語ってくださっている。この平安を得る人こそが、他者のために心を用いる豊かさがあることを12節に見る。 単に親切への勧めではない。自分の父に委ねた平安が、相手に届くことの願いの業へと繋がっている。自分の限界に拘らなくてよいことを受け取りたい。 1月20日 伸ばされたみ手 イザヤ書 9章7節〜10章4節 阪井牧師 いつの時代でも繁栄と豊かさに満ちた生活に、人の心はうわつく。「奢るもの久しからず」を想う。 支えや助けを必要とする人を踏み台にしてなお生活安定を確保する姿もあさましい。 自分の命に代わって捧げる神への犠牲も、悔い改めの分量をはかる歪みとなった。上から甘い汁(権力)が吸えなければ、下から搾る。 この乱れ、損なわれた社会に、だからこそ神のみこころを、と語る預言者の使命の厳しさに驚く。これはイスラエルが、神の民であることの恥でもある。 でも、聖書は敢えて記録する。神がその民を裁くのは、神への立ち返りとそれを求める神の恵みを示す故だと確信する信仰である。 裁きの場に晒された者が反動で応じる。自分たちの意志と努力で対処する、と。 目先の課題に、神との関係を後手にする民に、徹底して神は関わりを持つため「み手を伸ばされる」。これが信仰者への恵みである。 破滅ではなく、神の裁きと受け取れる幸いを思う。イザヤの預言、神の裁きの対象は4つ(1)国家的わざわい、(2)政治的腐敗、(3)社会的無秩序、(4)あからさまな悪政となる。ここに「伸ばされるみ手」がある。人の知恵や判断には限界があり、絶望する時が必ず来る。 これは神に立ち帰る機会である。神のみ手に信頼する時、そこに生きて前に進む希望と、再起の力を与えられる。知識や情報は神の前に人を謙虚にさせない。 裁きを受けて自己の限界の中にこそ人が人になる。神の現実を喜ぶ者でいたいと願う。 1月13日 妙に気になる マタイによる福音書 7章1節〜6節 阪井牧師 「聞かない人は成長しませんよ!」と知人の言葉が心に残った。日常生活だけではないことを想った。 「ひとを裁くな」の主イエスの言葉に通じるようにも思う。確かに自分のことよりも「ひと」のことが妙に気になる。 格言「人のふり見て我が身を直せ」が主イエスの意図か。救いや生きる希望につながる言葉である筈だとすると、処世訓ではない。 自分が滅びることのないため、ひとが人として喜び生きる言葉である。組織でも外からの攻撃より、内からの分裂の方が厳しい。 「ひとを裁く」と自分が滅びることに通じる、とはどういうことか。「裁く」ということは本来誰がすべきものか、との問いがそこにある。 裁こうとする自分の傍らに「おられる方」に委ねるべきを語っておられる、と知らされる。すると、老いて夫婦だけ、私ひとり…などの不安も異なってくる。 神がそこにおられ、祈りに伴って下さり、目を私に向け、耳を傾けて下さる恵みの中に生きることへの勧めの響きに聞こえてくる。 自分の「ものさし」では、自分の中にあるものが見えない。神の目で見られ、耳で聞かれ、光に照らされた時、自分のものがわかる。 それが十字架である。主イエスが十字架についてくださったその大きさ痛さ重さが丸太と分かり、知る者となる。 主の死の深さを知る者には自分の持っているものに気付く。 神の「はかり」に量られていることに気付く者は、主イエス・キリストにあって「ひと」を見る者にされ、用いられるのです。 1月6日 自分の「分」とは? エフェソの信徒への手紙 4章1節〜16節 阪井牧師 「個」の概念が発達したのは、ヨーロッパでは15〜16世紀といわれる。日本は明治維新からと考えることができようか。それとも、敗戦後が妥当するか。その頂点に今あるように考える。否、行き過ぎを案じる。各人の結論に至るにはそれなりの思い巡らしがあったろうが、それを決める判断基準が時代の中で揺らぎ、各様になっているように思う。だから、公衆面前も自分の個室も同じ振る舞いで当然とする20代の結論は5,60代には戸惑いとなる。かつては家庭が機能する役割があった。今はどうか。象徴的な聖書の物語を想起する。「バベルの塔」である。言葉の混乱が原因で塔の建設が頓挫する。教会はどうかを聖書から問われる。時代の中で正しいことと、神の前に正しいこととが一致しているか。働き、使命はそれぞれ持っている。しかし、それはキリストの体を築き上げる方向性は同じである。神の栄光に仕えることにある。一致や一つになることが目的にはならない。結果であることを確認したい。招かれ召されたのは、神のみ心であり、ご意志である。み子主イエスの「いのち」という大きい犠牲がそこにある。私たちの自由はその元にある。「私に従う者は、自分の十字架を負って…」の意味は深い。主イエスに示された神の愛を根拠に、私の決断をする時、キリストの体が建て上げられ、一致が見える。信仰が神から与えられる恵みとなる自分が果たす役割に就きたい。祈り、み言葉を聞くことに一切があることを想う。 ホームページへ戻る (C)日本バプテスト同盟 戸塚キリスト教会 2001-2010 |